日本初の労働運動家・城常太郎




明治のころ、この国を「働く者の楽園」に変えようとした男がいた!





一介の労働者から「日本の労働運動の祖」への軌跡





生涯、一職工を貫き通した城常太郎

「目は人間の眼(まなこ)なり」とは、吉田松陰の俗諺である。
民のため一心不乱に生きた労働運動家、城常太郎の風貌にそれを感じる。




★神々しいまでに険しい眼差しの奥に凡ならざる労働運動家の歴史あり!








同時代社
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『日本で初めて労働組合をつくった男 評伝・城常太郎』

(同時代社 著者・牧民雄 2015年6月30日、初版第一刷発行)

価格:3200円+消費税

サイズ:A5上製/高さ22㎝

ページ:322p






日本労働運動の起源の定説を覆す新事実が満載!


(2016年2月25日、重版第二刷発行)




日本図書館協会選定図書に選ばれました。





















★日本最大の経済史学の学術雑誌に書評が掲載!


「社会経済史学」書評記事掲載(2017年5月25日)


発行所:社会経済史学会(早稲田大学政治経済学術院内)

※「社会経済史学」第83巻第1号

評者:市原博(獨協大学経済学部教授)









「九州史学」書評記事掲載(2017年5月)

発行所:九州史学研究会(九州大学文学部日本史学研究室内)

※「九州史学」第176号

【書評】
【和文タイトル】「牧民雄著『日本で初めて労働組合をつくった男 評伝・城常太郎』」

(53ページ~59ページ)

【英文タイトル】「MAKI Tamio, The Man Who Created Japan´s  First Labor Union : A Critical Biography of Jo Tsunetaro

評者:時里奉明(筑紫女学園大学教授)

















「変革のアソシエ」書評記事掲載(2017年4月5日)

『変革のアソシエ』NO・28


発行所:「変革のアソシエ」編集委員会


タイトル

「労働義友会」(明治二四年)から「労働組合期成会」(明治三〇年)へ

、、、どういう経過で「職工義友会」が結成され、後にそれが「労働組合期成会」につながるのかはについては、本書がそれを詳述したまれな著作になるのではあるまいか。、、、、、、城常太郎は明治二九年に日本に帰ると、木下源蔵と「職工義友会」を立ち上げ、内幸町に事務所をもうけてパンフレットによる工場労働者への啓蒙活動や「労働組合法」制定のための署名集めを始めた。そして城常太郎は、沢田半之助が京橋で洋服店を開業しているのを知るとすぐに訪ねて労働運動へ誘い、さらに高野房太郎もすでに帰国していて横浜で英字新聞の記者をしていることを知ると、「常太郎は高野を有能な同志として職工義友会に迎え入れたいと強く願った。というのは、始まったばかりの日本の労働運動を成功させるためには、その理論面に精通した高野の存在が不可欠だと確信したからだ」という。高野房太郎は、明治二四年にサンフランシスコでの「労働義友会」の結成に参加した後、各地で仕送りのための労働をしながら労働騎士団やAFLに接触して労働運動への理解を深めていき、明治二七年にAFLのゴンバースから日本担当オルグに任命され、アメリカの軍艦の乗組員になって明治二九年に帰国した。そして城常太郎からの誘いを受けると英字新聞の記者を辞め、明治三〇年一月に上京してここにかつての「労働義友会」の顔ぶれが再度集い、明治三〇年の労働運動が始まるのであった。、、、

評者:平山昇(変革のアソシエ・運営委員 編集委員)





『日本で初めて労働組合をつくった男』書評 ダルマ舎平山昇

高野房太郎の夢と放浪 ダルマ舎平山昇









「月刊労働組合」書評記事掲載(2016年2月1日)

 日本で最初の労働運動リーダーというと高野房太郎が有名だ。、、、その高野の傍らに城常太郎という人物がいて、高野と一緒の写真もあるから、私も名前だけは記憶していた。しかし、本書を読み、認識を変えた。日本で最初の労働運動リーダーといえば、高野よりも城こそがふさわしい。、、、

(評=原 均)「発行所/労働大学出版センター」














※「一枚の写真」は時として「千報の文献」よりも雄弁に歴史を語る!



左から城常太郎、高野房太郎、沢田半之助
(大原社会問題研究所所蔵)









★遥かに公平無私なる歴史学者諸氏に白す!

ここで、日本近代史を研究されている先生方にお願いがあります。
拙著『日本で初めて労働組合をつくった男』内の新史料群、
並びに当ページ最下部に記した原稿内の新史料群を、
自由に活用くださり、学術本や論文を
執筆して下されば光栄です。

なお、引用記事には出典(例 掲載新聞名、掲載日付け)
を記入していただければ幸いです。


初期日本労働運動史研究の活性化にご協力のほど、
何とぞよろしくお願い申し上げます。











書評・紹介ニュース(新聞・雑誌・ブログ)
































本書は、「働く者の楽園」を夢見て、情熱を
燃やし尽くした、ある労働運動家の
ライフストーリーである。




もくじ


まえがき


序章 ひい爺さんは「元祖」だったのよ


 第一章 少年・常太郎の、数奇な運命


維新の落し子、ツネタロウ
靴職人ことはじめ
スピーディーな独り立ち



「スピーディーな独り立ち」の本文を一部公開。

「、、、城
常太郎が長崎で靴職人として独立した後の明治二十一年、全国民を震撼させるような事件が同じ長崎で頻繁に起きていたことが明るみになった。ニュースは全国を駆け巡り、労働問題が大きな規模で議論をよんだ。
その事件とは、高島炭鉱の鉱夫虐待事件だった。この事件を当地で身近に接した常太郎は何を思ったのであろう。資本家は大きく強くとも数は少ない。それに比べて、労働者は小さく弱くとも数は多いから、追々、必ずや、不平の声は社会の表面に現れるに違いない。常太郎は、資本家と労働者との間には千里も隔つ距離があることを痛感し、自らの職工時代を回顧しながら思い悩んだのではなかろうか。
後に、常太郎と出会い、彼を敬愛してやまなかった西川光次郎は、自らの著書の中で、次のように語っている。
「何と言ったって、労働問題は、ある点からいえば、労働者の問題であって、労働者の中から人傑の出るまでは、どおしたって解釈されぬから、吾人は日本の労働者からジョン・バーンズの様な人物の出でんことを熱望して止まざるものである。嗚呼、日本のジョン・バーンズは今ドコの工場に隠れているだろう。早く太鼓鏡で探したいものである。」

『ジョン・バーンズ:英国労働界の偉人』(西川光次郎)

城常太郎が日本のジョン・バーンズになるためには、まだまだ、
いくつもの試練と、身の危険を味合わなければならなかった。」




資本家VS労働者のギャップ、始まる
日本初の労働組合は、どこの誰?
ザンギリ頭の「桜組」職工たち
洋行のチャンス到来


第二章 夢のサンフランシスコ


霧にむせぶ異国の地
コスモポリタンホテルにて
高野がたどる旅路
ジャパニーズクツヤの誕生
新大陸で一旗、靴工移民団


第三章 深まる軋轢、白人VSジャパニーズ


秘密の靴ファクトリー
高まるテンション
独立工場オープン
「日本職工同盟会」、始まる
オリジナルな呼称は、「労働義友会」
曾祖父の「ゆかりの地」に立つ
義を見て勇む、常太郎のチャリティー


第四章 闇に埋もれた、「まぼろしの檄文」


サンフランシスコより、檄をこめて
『国民之友』コネクション
縁をむすぶ「在米愛国同盟会」
月一〇ドルのフレンドシップ
温度差のある、高野のコミットメント
ああ、「哀れの乙女」
火をおこし、ともしびに着火


第五章 むしろ旗のデモ行進


靴工兵制度反対運動
デモ発祥の地、日比谷が原
優れたリーダーなしでは、起こりえない
謎のオーガナイザー「某壮士」
明治時代のキーワード「壮士」
お上に「NO」を突き出した、反対運動
四大靴商(御用商人)の面々
「靴工兵制度反対運動」総まとめ


第六章 加州靴工、サクセス物語


ターゲットにされた靴工たち
匠の技で、つかめ白人顧客
城常太郎が、創設せしもの
カリフォルニア靴工クロニクル


第七章 『矯風論』米国からのメッセージ


離れていても、愛国の情
偶然に導かれて
現存する、唯一の出版物


第八章 持ち帰った、パイオニアのビジョン


巣だった義友会メンバーたち
世界をめぐる、高野房太郎の長い旅
「働く者の楽園」を夢見て
ネームチェンジ、「職工義友会」


第九章 働く者よ、夜明けは近い


パンフレットに群がる労働者
広がる連帯のサークル
頼もしい盟友たち
高野房太郎のとまどい
出そろった義友会・四天王


第十章 「謎解き」真の起草者は、だれ?


「畳んでしまえ!」と袋叩きに
アクティブな義友会
手紙の中の自画自賛
『職工諸君に寄す』のヒミツ
客観的な史実は、新聞記事にあり


第十一章 演説会のトップバッター


恩師には礼と節
勧誘上手なトップセールスマン
肺病の淵をさまよう職工たち
奔走の常太郎と、悠々の房太郎
目覚めた船大工の連帯
ステージに立つ常太郎


第十二章 出るクギは襲われる


実を結ぶストライキ
高野日記は語る
ドリームかむツルー
常太郎の名前が、ない!
「実況中継」これが明治の演説会
アンラッキーな連鎖
サナトリウムは神戸の貧民街


第十三章 孤軍奮闘、関西に種をまく


病をかかえて冬の旅
自分がやらねば誰がやる
トゲとイバラの日々
名声よりも大事なもの
天下に向かってビジョンを発表
関東・関西、つながる


第十四章 明治三十二年はエポックイヤー


非雑居という名のムーブメント
友、夜汽車に揺られて来る
『檄して四方憂国の士に訴ふ』の作者は誰?
たそがれ始めた組織のエネルギー
腰をかがめ、頭をたれる関西人
記念すべき明治三十二年


第十五章 天津で春が来た


理想工場のこころみ
崩れゆく運動母体
ピンチをチャンスに
大陸が呼んでいる
職工による、職工のための団体創り
天津ラムネ、オランダ水


第十六章 捧げつくす、命つきるまで


根っからの「労働運動家」
職工、病にたおれたり
悲しき電報「ツネタロウユク」
哀悼のモニュメント


城常太郎略年譜
巻末資料
巻末論稿
関連文献一覧
靴工兵制度反対運動の新聞、雑誌記事・コレクション
あとがき

写真・図版、多数掲載!





日本の労働運動の祖、靴工・城常太郎の実像が、
数々のエピソードや秘話を通して、今、
この「平成の世」に蘇える!



アメリカ、日本、中国を舞台とした
壮大な「人間ドラマ」










近代労働運動のルーツをたどれば、明治時代の中期にまでさかのぼる。
労働運動は、ロシアなどの社会主義国から日本に伝えられたと思っている人々が多いが、
実際には、明治時代にアメリカに移住した靴職人・城常太郎が、
明治24年の夏にサンフランシスコで
「職工義友会」という組織を作り、
翌25年にその支部を東京に設立したことから始まった。


ロシアのクレムリン宮殿に永眠する社会主義者・片山潜は、
自著『日本の労働運動』の中でこう記している。

「職工義友会は、日本において創設せられし者にあらざりき。爰に面白き意味あり。
この会は、明治二十三年仲夏、米国桑港において当時同地に労働しつつありし、
城常太郎、高野房太郎、沢田半之助、平野栄太郎、武藤武全、木下源蔵、外四、五名の労働者によりて
組織せられし者にして、その期する所は、欧米諸国における労働問題の実相を
研究して、
他日、我が日本における労働問題の解決に備えんとするにあり。」


この十数人のうち、城常太郎はリーダーであったにもかかわらず、
歴史の表舞台から隠れたままになっていた。
それは城が、「余輩はいたづらに文字を弄するものに非ず」との信念を
生涯守り、著書や論文を後世に残していなかったからである。

著者は大学時代、ひょんなことから、この城常太郎が曾祖父であったことを知り、
それから
四十五年間、全国の図書館を訪ね歩き、常太郎の足跡を探り続けた。
そうして発掘した数多の新史料を基に、世に問うのが本書である。

拙著は、ストーリーラインを読みやすい「波乱万丈人生もの」に書いたつもりなので、
一般読者も親しみを持って接して頂けると思う。


このダイナミックな労働運動ストーリーに、目を通していただければ幸いである。


                                                       










城常太郎の石碑

『靴産業百年史』より










西村勝三(日本靴産業の産みの親)撰文

西村勝三記念ホール所蔵(一般社団法人東靴協会内)






「明治の工業の父」と称される西村勝三




・・・嗚呼、惜しむべきなり・・・

幼くして父を「切り捨てごめん」のように殺され、
最愛の母とも生き別れ、、、

追い打ちをかけるように西南戦争で家を焼失、
そして、一家離散、兄弟はバラバラに、、、

数奇な運命に翻弄されながらも、
真剣にものを考え、強く生きる一人の少年、、、

「余一年支店を巡視し、一少年の挙止凡ならざるを見、
携へ帰って、神戸伊勢勝造靴所の生徒たらしむ。
是れ即ち君なり。」

西村勝三撰文
『靴工故城常太郎君の碑』より


西村勝三は、正義を貫き通した常太郎の短い生涯を深く憐れんだのであろう、
「嗚呼惜しむべきなり」と、常太郎の碑面にだけ感嘆の言葉を入れ、
「碑を建て君を不朽に伝へむと欲し、余が文を求む」と、
愛情に満ちた文章を自ら綴った。

資本家と労働運動家という敵対しあう間柄を超えて、
西村は常太郎の活動を遠くからそっと
見守り続けていたのである。




世間的な出世、名声、地位には目もくれず、短い生涯を職工の中で職工の心と共に生き、
この国の労働組合運動の礎を築き上げながら、まるで自ら望んでいたかのように
歴史の後景へと消え去った城常太郎。


歴史上の偉人たちの多くが、自らの功績を文字の記念碑として残してきたのに比べて、
城常太郎は、「余輩はいたづらに文字を弄するものに非ず」(『戦後の日本矯風論』)
との信念を生涯かたくなに守り、実践活動を生き抜いた。
それでも、図書館の奥に埋もれた当時の新聞などから、常太郎の真の姿を
うかがわせる記述を数多発掘できたことは、筆者にとって
幸運だったと天に感謝している。


今夜も、星になった常太郎は、街に灯る労働者の家々の団欒を、夜空の彼方から
やさしく見守っているような気がする・・・・・。



















城常太郎に贈られた「加州日本人靴工同盟会十周年記念銀杯」(城家所蔵)












加州日本人靴工同盟会会員諸氏(サンフランシスコ・日米史料館所蔵)


アメリカ太平洋岸における唯一の実業団体として発足した「加州日本人靴工同盟会」は
在米日本人工業界における栄華の極みを独占し、最盛時の明治四十二年には
会員数が三百二十七名にまで膨れあがった。














★本書ページ数の制約により、省かざるを得なかった下書き原稿を公開!







下記下書き原稿には原則『日本で初めて労働組合をつくった男』内の新資料は載せていません。






靴工兵制度反対運動の資料コレクション





「職工義友会」は城常太郎の独壇場だったことが判明!





「この国の労働運動の祖は誰?」の鍵を握る人物





新史料発掘余談(銀座・初恋の並木道)





城常太郎の妻、かね





城常太郎の一人娘・静子





日本最初のデモ行進





「労働組合期成会」結成に最も貢献した人物は誰?





この日、沢田君来る





イギリスへ飛んだのは城常太郎?





トランク一杯に詰められた資料流失





新薬投与も効無し





職業別社会主義団体の嚆矢





老紳士・佐和慶太郎氏来たる





労働組合法制定請願運動の主唱者は城常太郎





日本初の近代的労働組合「日本靴工協会」の会員数内訳





アメリカ流デモクラシーの思想





遥かに公明なる衆議院議員諸君に白す





「靴工兵制度反対運動」の誤った歴史認識を正す





「職工義友会」の正式名称は「労働義友会」





靴工の元祖&職工同盟の始まり





「在米愛国同盟会」の会員の大多数が渡米前は「民権壮士」だった!





日本最初の労働運動号外!





なぜ、靴職工なのか?





「福音会」人脈ネットワーク





城常太郎と鉄工





国のため、民のために・・・




火の国(熊本)の義人・城常太郎





国想う義人・城常太郎





西村勝三の言葉ー企業の発展は靴工にありー





『評伝・城常太郎』には書かなかった『職工諸君に寄す』の秘密!





西村茂樹の影響か?





労働組合研究会会則





労働組合期成会





明治25年の労働者運動関連記事





最も重視した関西の労働事情





「労働者の声」『国民之友』(徳富蘇峰主幹)の作者は誰?





城常太郎をトップにあげた雑誌





日本初の労働運動檄文を印刷したのは「在米愛国同盟会」の機関新聞社





協調会と大原社会問題研究所





製靴業界の四大御用商人





新平民(被差別部落民)の靴工






亘理篤治(『加州日本人靴工同盟会設立趣意書』の起草者)

















高野房太郎の幻の論稿、遂に発掘!





片山潜の条約改正と内地雑居談





沢田半之助の檄文





日本のロバートオーエン・佐久間貞一





武藤武全





関根忠吉





平野永太郎





島粛三郎





牧野新一






























明治・大正時代の労働運動史





労働運動の扉を開いた靴職人の軌跡





アメリカ日本人靴職人の軌跡





日本人北米移民史(明治時代)





城常太郎関連史料コレクション











以下は、本書の内容に直接関連しない資料です。





 セピア写真で見る女工哀史









写真で追う貧しき労働者の歴史群像










 
 昔からあった「格差社会」












なるほど、靴の歴史【明治時代】











労働運動の理想












明治時代の人物








明治時代の心やさしい人々








尺八のヒストリア









明治おもしろ雑学集










明治ファッションめぐり(明治時代と服装)









労働ムービー・ベスト200









大正時代のメーデー(労働運動)












世界遺産・富岡製糸場の歴史
















日本最初の労働運動


主筆 農学士 柳内義之進

一・・・・・近年我邦に於いては、労働問題が勃興し、新聞雑誌記者は之を新聞雑誌上に論議し、演説家は之を演壇に呼号し、学者は之を講堂に講演するといふ風になり、之に関して論議報道することが頗る盛んになって来た。それのみならず労働界に於いても亦労働者が、欧州戦争の影響を受け次第に其の地位を自覚し、資本家に対して賃金増加、時間短縮を初めと氏色々待遇改善を要求するようになり、其の要求にして資本家に容れられぬ場合には、直ちに同盟罷工を行ふ如き有様となった。又一面に於いては労働者を保護すべき団体を組織し、種々運動を試みるものあり。其の他あらゆる方法に於いて、労働問題、労働運動の声を聞くに至ったが、従来我が国民が余り注意を払わずに居った此の問題が、近来に至り斯くも俄に勃興して一般の注意を引くに至ったことは、固より国内に於ける工業が発達して資本家対労働者の関係が甚だ重要なことになり、殊に諸物価の騰貴して、国民の生活不安を来しに原因するものであることは、更に疑いないが、併し社会のことは何事にもせよ、偶然発するものでなく、必ず由て来る所の原因があり、歴史的に何らかの経路を執って来て居るものである。故に此の労働問題が勃興して来たといふことに就いても、唯工業が発達した為であるとか、或いは国民の生活が不安になった為であるとかうふ以外に、遠くその濫觴となり根原となったものがあるべき筈である。此の濫觴となり、根原となったものも忘れ、徒に眼前に於ける労働問題の勃興に喫驚する如きは、恰も畑に作物が青々と生長して居るものを見ても当初種子を下した農夫のあることを忘れると一般ではあるまいか、然らば我邦に於ける労働問題の濫觴は如何、最初に種子を下したものは何人か、少しく之を究めて見ねばならぬ。

二・・・・・遠い昔時のことを云げば、大塩平八郎や、佐倉宗吾の遣ったことも、一種の社会運動若しくは労働運動と云ふことが出来るか知らんが、是は暫く措き、明治の時代になって長崎の島原に東洋社会党なるものが起こった。それは明治十五年のことで、発起者は奈良県五條の人樽井藤吉君であった。同党は其の綱領として第一条我が党は道徳を以て言行の規準とす、第二条我が党は平等を主義とす、第三条我が党は社会公衆の最大福利を以て目的とすといふことを標榜し、江東寺といふ寺に大会を開催したが、時の政府は直ちに之を禁止してしまったので、何等実際の活動を試むるに至らずして解散した。我邦の史家は之を以て日本に於ける社会党の開祖として居る。樽井君が之を組織するに至った裏面の事情等は、色々趣味あることが多く、未だ世人の知らぬことがあるが、之は更に他日機会を得て之を説くことにする。それから十年を経過した明治二十五年になって、東京に東洋自由党が創立せられた。之は大井憲太郎君が主唱者で、幹事は大島染之助、柳内義之進ン、久貝源一の三名であった。党員中には既に故人となった稲垣示、新井章吾、君塚省三、小高純一、地引順治、福田友作、鈴木修吾、小川平一郎、井山惟誠、山崎忠和などの諸君があった。当時党員であって現に生存している人々は、森隆介、飯村丈三郎、小久保喜七、片野文助、長谷川逸刀(通隆と改む)、葛生玄晫(能久と改む)、渡邊得二郎、洞鈴吉、柳内義之進、中島半三郎、川島烈之助、中井栄次郎、島内寛治、望月文修、結城勘右衛門、(蓄堂)、志賀亘(和多利)、などの人々で党員は数百名であった。東洋自由党は、当時の自由党の行動に不満であった一部の党員、即ち大井君に親近しておった人々が自由党から分離したものであって、党員の多くは自由党に籍を置いた人々であった。史家は之を以て大井君が故星亨君と両立せず、不平の余りに別に一旗幟を翻したものだと云って居るが、所謂両雄並び立たずで、多少左様いふ事情もあったろうが、兎に角当時の自由党に満足することが出来ず、主義は同じく自由主義であっても、政綱の如きは自由党に比し一歩進めたもので、内に於いては貧民労働者を保護救済するの手段を講じ、外に於いては国権の拡張を計り、国威の宣揚を期することが二大目的となった。而して東洋自由党には、別に普通選挙期成同盟会、日本労働協会の二つの団体が左右の両翼を為し、各本部を数寄屋河岸の今の福徳生命保険会社の在る處に置いたのであった。

三・・・・・東洋自由党は此の如き組織の下に関東各県を初めとし、全国に遊説を試みたが其の機関として「新東洋」なる週刊新聞を発刊した。地引順治、柳内義之進両名主として編輯の任に当たり大井君も絶へず之に執筆された。而して普通選挙期成同盟会と日本労働協会の二つには、柳内義之進、鈴木修吾、山崎忠和、中井栄次郎、福田友作の面々主として之に当たり。極力主張の宣伝を試み、且つ各地に市会を設置したのであったが、此の頃東洋自由党に対する世評は區々であったが、錦輝館に結党式を挙げ、政談演説会を開いたのに対して、都下の各新聞も色々の批評を加へたが、其の中で東京日日新聞は、之を以て労働党の萌芽であると評し、地方の各新聞では故國友重章君が主筆となって居た北越新報が同様労働党の萌芽であると評した。当時新東洋紙上には、進綱の一なる貧民労働者保護策に就いて吾輩が意見を発表し、貧民を救済し、労働者を保護するため社会政策を実施するの必要を論じ、之を紙上に論ずるに止まらず、各地の演説会にも之を主張し、一面に於いては都下活版職工、靴職工の組合、人力車夫の団体組織に奔走するなど随分努力したのであったが、何分其頃は未だ一般国民殊に労働者には、労働問題に関する智識がなく、又工業の発達に至っても、今日の如く隆盛でなかったので、之に共鳴する人は極めて少なく、吾輩等の運動は甚だ突飛な煽動的運動の如くに見放され、殊に時の政府の人々も左様認めたものと見へて、反対やら、圧迫やら、始終吾輩等の上に加はり悪戦苦闘を続くるのであった。其頃労働問題に就いて研究などをする人も殆んど無く、社会運動や労働問題のことを書いた書籍若しくは新聞雑誌の如きも之を見なかった。僅かに徳富蘇峰君が「国民の友」紙上に時々欧米の社会主義者の意見などを翻訳して報道し、今の万朝報主筆たる斯波貞吉君が米国より帰って後著した「労働問題」と題する小冊子ある位のものであった。其時に於いて早くも労働問題に着眼し、言論に実際に運動を試みたといふと、吾輩等は之に関する智識のあったものの如く聞こへるが、其実吾輩は札幌在学中僅にヘンリージョージの「進歩と貧困」の一書を読破した位に止まり、今から思へば甚だ貧弱なる智識に止まったのである。勿論当時の学者や志士の如きも、中には、社会問題や労働問題につき研究した人もあったらうが、之を堂々と発表する人は皆無であった。況んや、之を以て実際に運動を試みる人に於いてをやだ。

四・・・・・東洋自由党の運動は、斯くして三年程経過したが我輩等の主張は世人の共鳴を得ることが出来ず、徒らに困苦窮乏を忍んで悪戦苦闘を続けたのみで、遺憾にも解党の余儀なきに至り、当時の同盟今四散、或いは魯連となり、或いは張良といふやうなことになってしまった。其後日清戦争の終った後となり時勢も次第に変って明治三十年となり、始めて社会問題研究会なるものが、中村太八郎、樽井藤吉、西村玄道、の三君を幹事として組織せられた。会員としては名簿に記された人の中には品川□次郎、田口卯吉、和田垣謙三、陸實、三宅雄二郎、高橋五郎、根本正、田島錦治、石川安次郎、片山潜、城泉太郎、酒井雄三郎、小島龍太郎、佐久間貞一などの諸君があった。之は真の研究会たるに止まり、実際の運動はなかった。それから明治三十二年頃になって、河野廣中、稲垣示、樽井藤吉、中村太八郎、山口弾正、木下尚江諸君の発起に成る普通選挙期成同盟会が起こり、同年六月大井君が再び同志を糾合し、大阪に大日本労働協会を設立、機関新聞「大阪週報」を発行し、更に労働運動を起こした。其時労働協会の方には柳内義之進、城水兼太郎、松井朴哉、宮崎虎之助、尾形白斉等の人々、大阪週報の方には柳内、城水の両名主として編輯の任に当たった。而して前日の東洋自由党の際の同志を便り全国宣伝を試み、特に関西、九州方面に遊説して支部を門司、福岡、熊本、長崎の各地に設置した。此時は工業の発達と共に会社、工場等の大きなものもあったので、労働者の問題も前回の運動当時に比すれば、世人の注意を引くことが多く、中にも大阪の紡績会社には女工の虐待が甚だしき有様であったので、之が救済運動に尽力し、又地主と小作人との紛擾あるに鑑み、小作条例の制定を唱道した。労働者側には非常に歓迎されたが其代り資本家側からは多大の反対を受けた。併し吾輩等は之に屈せず大に労働問題を呼号したのであったが、此時も軍用金が続かず僅かに三年足らず継続したばかりで又々解散するの余儀なき至ったのである。然れども、前の東洋自由党此時の運動が如何に我邦の智識階級及び資本家並びに労働者を刺激し、労働問題に注意せしむるに至ったかは之を想像することが出来るのである。此後になって高野房太郎、片山潜良君が発起となり、佐久間貞一君の後援の下に労働者組合期成同盟会が東京に起こり、造幣局、鉄道局の職工を会員とせる鉄工組合が現はれ、共同販売店、職工義友会などの労働者救済を目的とする団体が生まれ、明治三十三年には二六新報主催で労働者懇親会などが開催せられ、明治三十四年には大井君が再び上京して久津見息忠、川島烈之助諸君と労働運動を開始し、明治三十六年になって大阪に内国勧業博覧会の開設あった際、安倍、片山、木下諸氏の主唱で社会主義大会が開かれ、続いて片山潜、西川光次郎、松崎源吉、吉野省一諸君の九州遊説があり、明治四十年になって幸徳秋水一派の平民新聞が発刊になり、続いて堺枯川君等の運動が起こり、鈴木文治君の牛耳を執る友愛会が生まれ、それよりして労働問題も一層世人の注意を引くやうになった次第である。

五・・・・・其後に於いては山口憲君の発起せる立憲労働党の組織があり加藤時次郎君の主唱せる社会政策実行団が起こり、今や何々職工組合、何々労働協会などの名称の下に各種の団体が出現し近くは床次内相などの発意で労資協調会なるものが計画せられ、蔵原惟廓君の主唱で立憲労働義会の設立を見るなど、全国到處に社会問題労働問題の解決を目的とする運動が起こって来たのである。此の如くに我邦に於ける労働運動の史的観察下して来ると、明治二十五年東京に組織せられた東洋自由党が普通選挙期成同盟会と、日本労働協会とを左右両翼として活動を試みたのが我が国最初の労働運動を以って目すべきものであることは何人も之を認むるであろうと信ずる。もしその時の運動を以って労働運動に非ずというならば、我が国には未だ労働運動なるものは無いといってもよい。貧民を救済し労働者を保護するため、種々の社会政策を実地するの必要と、普通選挙を実行し、一般国民に参政権を與ふるの必要を唱道し、之に伴うに実際上の活動を以ってしたということが事実であるとすれば、之が日本最初の労働運動でなくして何である。我輩は何も今更こんなことを述べ立てて労働運動の元祖争いをしようとするものではない。我輩が之を述べないでも公平無私の後世の史家は、必ず此明々白々の事実を無視することはあるまいと思う。唯だ吾輩の遺憾とするは、当時此運動に加はって真に国家社会の為め、又労働者の為め有らゆる圧迫と窮乏とに忍び、悪戦苦闘して斃れた亡友諸君の努力が動もすれば社会より忘れられんとするの一言である。亡友とは何人か、実に福田友作、鈴木修吾、山崎忠和の諸君である。生存して居る者は、何時でも筆に口に之を説くことが出来るが、死んだ者は何人か之を説くに非ざれば、世人を首肯せしむる途がない。吾輩が殊更に斯る題目を掲げて之を述べるのは、長へに日本に於ける労働運動史の第一頁を占むべき当然のある、亡友諸君の努力を世上に公けにし此功労を表彰すると共に今日労働運動の盛んになったことの決して偶然でないことを明らかにしたい為である。敢て日本最初の労働運動一篇を起草した所以である。(八月十一日稿)

雑誌『五大洲』(「日本最初の労働運動」 柳内義之進 1919年9月号)

【北海道大学所蔵】



★管理人余談・・・・・福田友作中島半三郎は在米時代【在米愛国同盟会】の会員だった。
福田と中島は城常太郎が明治二十五年春に一時帰国して創設した日本初の近代的労働団体
【職工義友会】東京支部(本部はサンフランシスコ)の労働運動に身を挺して協力している。









「◎活版工組合、誠友会・・・・・一昨日神田錦輝館に秋季労働懇話会を開く。来会者二百余名、岡千代彦氏開会の辞を述べ、大井憲太郎、佐治?然、田中弘之、豊原又男、安部磯雄、片山潜、西川光次郎、柳内義之進、幸徳伝二郎、川島烈之丞の諸氏の演説あり。」

『都新聞』(明治34年11月26日付け)









 

「◎日洲独立新聞主筆 柳内蝦洲〔柳内義之進〕・・・・・君は農学者よりは政治家及文学者を出すとの世評ある札幌農学校の出身者で、学校を出るや否や札幌の北門新聞の記者と成られて居ったもであるが、大井馬城の東洋自由党を起すと東都に出で来りて其の機関『新東洋』の記者となりて、此の紙上で盛んに社会主義を説き立てた。がしかし此の新聞は不幸にして間もなく廃刊したので、以来君は専門に社会主義を鼓吹するの機関を得ず、久しく江湖流浪の客となって居ったが、明治三十三年の春馬城の大阪に大日本労働協会を起し其の機関『大阪週報』発刊の計画あるに及び、当時万朝記者たりし君は其の地位を捨てて、行李怱々大阪に下り、其の主筆となった。が不幸にして『大阪週報』も一年ならずして倒れた。で君は再び失意の人となりて東都に帰り、やまと新聞等に筆を執られて居ったが、今は日向国に下りて日洲独立新聞の主筆をして居らるる。」

『社会主義』(第七年第十号・明治三十六年四月十八日)