日本で初めて労働組合をつくった男






★武藤武全



「◎武藤氏の書簡・・・・・在米国パロアルト本邦人武藤武全氏より都下神田猿楽町の富山駒吉氏へ宛て去月二十一日の日付けにて一昨九日到着せし書状中殖民談に関するところを抜粋して左に掲ぐ。

(前略)若し日本人がメキシコ殖民を企てんとせば第一に大平、大西両洋鉄道の貫通せざる以前に成すべし。第二、メキシコ国殖民保護条例の存在する中に成すべし。第三、現大統領在職中にすべし。第四、支那人が多く殖民せざる今日を機とすべし。以上の要点は小生の見聞上より断定したるものに候。何に致せ遠き日本国にありて一二回の探見くらいにては到底其の国情上より殖民将来の方案を立つるなどのことは覚束なき義と存候。当合衆国の如きはメキシコより直接の関係もあり新紙も数多入り込み且つカルフォルニア州における同国人は実に多数のものにて其の国情を探知するは尤も容易なることに御座候。近来欧米人大いに注意を惹きたるは支那人ブラジル殖民の一事に御座候。此事に関し現にブラジル国の使節チャート氏は此の頃出発のベーリー号に乗り込み日本を経て支那に向かえり。同氏は一ヵ年に十万人の支那人を移住せしめ得べき見込みにして己に一大汽船は香港にありて同氏の到着次第第一回の移民を搭載して南米の南端を週航しブラジルに達する予定なり。又当合衆国「ゲリー支那人条例」の判決によりてカリフォルニア州よりも二万の支那人を募集する都合にて前記チャート氏来米の節在桑港の日本領事館をも訪ひ日本人殖民の事についても種々の談話をなしたる由。支那人と雖も今日実に侮り難き事に御座候云々。」

『横浜毎日新聞』(明治26年6月11日付け)








 武藤武全は、「職工義友会」の会員であると同時に「福音会」の姉妹団体「愛友会」の会員(幹事)でもあった。









『大日本人会』結成(明治23年)の際には、ただ一人『愛友会』を代表して発起人となっている。

『在米日本人社会の黎明』(同志社大学人文科学研究所)









●武藤武全、明治23年11月27日、「福音会」祝会において演説。
「我本国か古来未曾有の国会開会の当日といい、、、本会は愛友会と合同し、本会堂においてこれか祝会を開けり。、、、武藤武全氏も一場の演説をなせり。」(明治23年11月27日「福音会」祝会)

『福音会沿革史料』(文倉平三郎)









●武藤武全、明治24年6月27日、福音会において「農業策」と題する演説をなす。

『在米日本人社会の黎明』(同志社大学人文科学研究所)








武藤武全は、サンフランシスコの「職工義友会」を退会した後、明治30年当時、ボストンに居住し、日本商品の輸入販売会社(おそらく三井物産系)の責任者(園芸部門)となっている。
『労働運動史研究』(第六十二号・「職工義友会と加州日本人靴工同盟会」・二村一夫)









後に、武藤は、日本に帰国して、東京日本橋々詰(村井銀行階上)に事務所を置いて「東洋商業合資会社」(三井物産系貿易商社)を設立している。

「◎武藤氏と革製軍需品・・・・・当市日本橋村井銀行階上東洋商業合資会社代表社員武藤武全氏は軍靴五万足の受負い(表面神戸市平野永太郎氏なるも実権者は武藤氏なることは既報の通り)引き続き革製軍需品を引き受けんと密かに運動中なる由。専ら東西当業間に風説ありて、殊に大阪方面においては様々の噂ありて、目下同氏の動静は一般の注目を引きつつあるが、今某消息通の語るところによれば、氏は当府豊玉郡渋谷町に自宅を構え十数万の資産を有するも、なお三井系なる前田氏が後援に立ち業務を経営せしめつつあるが、先頃前記五万足の軍靴を受け負いたる際、これを前田氏に諮らずして独断をもって取り決めしとかにて、前田氏より厚意をもって注意を受け、且つ昨今三井物産においても、今後ロシア国軍需品については一時受け負いを見合す方針の模様なれば、?々武藤氏も今回の軍靴のみに止め置くべしと。ちなみにいふ。前田氏は日本橋区青物町株式仲買福島浪蔵氏の総支配人なりと。」

『日本皮革時報』(大正4年6月21日)













さらに、大正4年ごろには、「職工義友会」時代の盟友、平野永太郎と組んで、ロシア政府御用軍靴製造所「東洋製靴場」(職工数280名)を大阪南区難波稲荷町に開設している。

『皮革世界』大正4年7月号









大正5年度における陸軍被服廠から下請け業者へのロシア政府御用軍靴の割り当て足数は「桜組」45万足、「東洋製靴場」20万足と
ある。

『大阪毎日新聞』(大正582日付け)













武藤武全は、小柄ながら、なかなか才覚のある人物で
あったようだ。


「竹川藤太郎氏、体躯短小をもって知られ、濱田房次郎氏、豆男の名あり。石坂公歴氏、武藤武全氏、若くは在タコマ高野房太郎氏、共に相伯仲す。而も皆是気概才鋒あるの士、余れ今にして『大男総身に知恵が廻り兼ね』の虚ならざるを知る。」『遠征』(第29号)











「◎渋谷の高台に・家の不思議・・・・・階上の窓には島津邸の森が迫り、遥かに都会の姿が一?の中に集まって居る市外渋谷町字下渋谷一一七吉和田秀雄氏の家はこの高台の立派な住宅である。主人の吉和田氏は去る十五日脳膜炎で死に昨日は麻布?町の大安寺に法要が営まれたが、この高台の家を中心として奇怪な風評がパッと起こった大正五年から今年までこの家に住む程の人は殆ど死霊に取り憑かれたように眠ってしまう。しかもその死ぬ日は月こそ違え皆十五日である。
◎住む者は死ぬ忌日も同じ謎の十五日・馬にまつわる因縁話・うまく逃れた筑紫将軍・・・・・呪われた家の最初の犠牲者は歩兵大佐中川幸助氏で、参謀本部に勤務し少将に昇進し豊橋旅団長を拝命の辞令を得た歓びの五月十五日に倒れるように永眠した。昨年六月十五日に死んだ会社員武藤武全氏が引っ越して来る前にも二人目の犠牲者があった。この界隈では当時すでに迷信的な噂が起こっていたが、武藤氏は頗る強健な人で『噂や迷信をかついでいては都会生活は出来ない』実際武藤氏は住宅難の渦中へ飛び込んで苦しんだ揚句かつぎやの夫人を励まして風評の中へ飛び込んだ偉大な体格でしかも強健な武藤氏の家庭はこだわりのない生活が続いたが、ある日勤めの帰途広尾橋の電車停留所で下車する時電車に跳ねられてひどい打撲傷を負った。手術によって家族も全快の時を楽しんだが、その期待は裏切られて遂に敗血症という病名の下に死んだ。二人目の死亡者は東宮武官として聞こえた陸軍少将小川健之助氏、内臓の故障でやはり五月十五日が忌日に当たる。中川、小川両氏の忌日は五月十五日、その上また別に両氏の死に愛馬の死との因縁話もまつわっておる。両氏が死ぬ前日二頭の愛馬が何れも主人公に先だって斃れた。主人の死を予報したようなこの愛馬の?は邸内裏門に接した北のちょうど鬼門に当たっていた。住宅は堂々たる構えで何等不快な感じをあたえる箇所はない。階上に寝室、書斎、客間など起居の部屋があって階下は応接間と食堂、台所、書生部屋に当てられてある。南向きの総二階で日射しの加減も陰鬱でなく明るい。そこに宿命の影の?す気配もない。中川少将が参謀本部詰め際、三井社員の住宅を買って材料とした建築である。爾来中川少将未亡人の持ち物であったのを昨年秋吉和田氏が買って住んだ。吉和田氏は京橋区宗十郎町の店に電気機械販売を営んでいる。病弱なため保養を目的に芝区神谷町の住宅から越して来たので、当時の庭いぢりや小鳥飼いを楽しんでいたが、死ぬ両三日前不?病床に臥したまま起たなくなった。中川少将以来この家に住んだ人が六人ある。死んだ四人の外に陸運技術本部長の筑紫中将、台湾銀行監督課長有田勉三郎両氏がある。呪われた四人の運命に比べて二人は祝福された。筑紫氏はこの家で中将になった。有田氏は支配人に栄進して去ったのである。歓びから悲しみの二つの運命を包んだこの家に呪いの因果が絡んでいようとは思えないが、住宅難に悩まされる都会の人が家に対する考えに無造作な処から生まれる事実には迷信以上のものもある。現にこの家の堀井戸も雨のために増減し、高い家の便所や塵?捨て場とも接している。筑紫中将はそれがため直ぐ引っ越した。死んでしまった四人と馬二頭の悲劇を語る呪われた家の物語りが都会の人に家に対する考えを深くすれば都会の家はそれ程よくなって行くであろう。」



武藤武全の家

『東京朝日新聞』(1922年「大正十一年」四月二十日付け)







武藤武全、大正10年6月15日逝去す。









『日本皮革時報』(大正10年12月4日)、『日本皮革時報』
(大正12年7月30日)にも武藤の記事あり。