日本で初めて労働組合をつくった男





平野永太郎



「平野氏五万足を受負・・・・・平野氏は先年サンフランシスコ在留当時以来の知己たる、当市日本橋村井銀行階上にて営業しつつある東洋商業合資会社代表社員武藤武全氏に諮かりたるに、武藤氏は大いにこの挙を賛し極力後援に立たんと投資を快諾したる、、、」

『日本皮革時報』(大正4年3月24日)







東洋製靴場・・・・・東京日本橋際東洋商業合資会社・武藤武全氏及び神戸平野永太郎氏の請負いたるロシア国政府御用軍靴製造所である。場所は大阪港町関西線第一踏切を西へ渡って線路に沿うて南へ行くともう其処には異様な音響がする。看板を観ると大きな文字で東洋製靴場と掲げてある。その脇の方に平野豁然、丹羽豊、平野永太郎、赤松熊七、赤松利三郎、の標札がある。記者は事務所へ行って、神戸の平野さんか東京の平野さんにお目にかかりたいと名刺を出すと、サアこちらへと案内され、暫らく其処に待っておると、神戸の平野さんが来た。氏は黒セルのズボンに白いホワイトシャツ一枚で快活な服装で記者に面会された。イyもう今日までの処では寝るさわぎで無かったのです。やっと完備したものですから、お蔭で万事好都合に運んでおります。東京の太田君や村上君のどうですと語り合っておると東京の平野君がやって来た。どうだね東京は、といったようなちょうしで互いに、記者とは実?の間柄で話は進んで多忙な両君にトンダ暇つぶしをさせた。で記者は其処を辞そうとした、すると平野永太郎氏は工場を見て帰ってはと云われたので次のと答えた記者は直に同氏の案内で工場を観た。工場は五部に分かれ、入ると直く機械部がある。右にアリアンス三台、木釘製造器、ローラ、踵打、アゴ切の外三四台の附属器械が整列して運転の響きは耳蔽わんばかりで左側の底付巻縫と相対し中々盛んなものであった。次が甲皮裁断部で機械部の脇が底廻りの裁断で今度は二階へ上がる。階上では十八台のミシン器を据付け、男女多数の職工で製甲を仕立てて居る。何れの部でも少しも余地がなく通過するに殆んど踏む処が無い。大きな靴や材料がうず高く積み上げたり釣り上げたりしてある。以上の大体の作業状態を見て五部の仕上げ場と検査部を見て事務所に戻る。事務所室では数名の事務員が帳簿に余念なく従事しておる。一段高き処には平野永太郎氏の事務室が設けられてある。その隣室に平野豁然君が陣どって事務を取ることにしてある。入り口の応接には陸軍被服廠の標本が靴と裁革との二種が掲げてある。工場の建坪が三百八十余坪、二階建で倉庫が一棟ある。機械の総数が六十余台で、職工数が二百八十名である。商学士丹羽豊、平野豁然の両氏は東京側を代表して出張しておる。職工は神戸からも大阪の人も多く来て居るが、殊に平野永太郎氏の人格に感じ、平素多数の職工を集め製靴業をしておる親分株がわざわざ神戸から来て居るのがある。材料は平野豁然氏の語る処によれば、それぞれ契約してあるので揃はぬものは今では無いと言っていた。作業の成績も今日までは準備中であって今後は相当にできるであろう云々。翌日工場の写真を撮る事を約し、更に十一万足の工場と製革作業を見んとて西浜方面へ足を向けた。(写真は製版の都合上次号に掲載す。)」

 『皮革世界』(皮革世界社・大正4年7月号)









大阪南区難波稲荷町に「東洋製靴場」を新たに創設

『皮革世界』(皮革世界社・大正4年8月号)











皮革裁断部。

『皮革世界』(皮革世界社・大正4年8月号)











●製靴部。(ロシア国政府注文の長靴を製作中)


同工場は「職工義友会」の創立メンバー平野永太郎、武藤武全、
二人の共同出資によって設立。

工場見学に来たロシア人を案内している右から三人目の
白いホワイトシャツ姿の人物が平野永太郎。


『皮革世界』(皮革世界社・大正4年8月号)

















故平野永太郎氏続聞・・・・・本国製靴界先覚者の一たると共に、社交界の人格者を以って知られたりし神戸市葺合東雲通二丁目株式会社神戸屋靴店専務取締役社長平野永太郎氏は宿痾突発し同市市外岩屋の自宅に於いて療養中の処なりしが、薬石功を奏さずして、七月二十三日午前五時半長逝されし事は己報の如くにして、故人は往年斯業見学のため、永らく米国に在りて加州在留日本人靴工同盟会の幹部員として在米後進同業者を指導し貢献せる処少なからざりしも、帰国後、現会社の販売所に充て居れる神戸元町二丁目に個人経営の製靴店を開業し、専ら優良品の製造に従事し、又神戸靴組合の幹部にありて、相変わらず一般同業界の進展に尽力し、殊に頗る私欲に恬淡なる純潔の人なりしかば、一際周囲の崇敬を受けつつ、漸進的穏健なる業績を挙げ居りしに、先年偶々欧州戦乱勃発と同時にロシア軍隊より我が陸軍当局へ例の軍靴供給方を依頼し来りし際、当時三井物産系にして対外取引に相当の勢力ありたる当市日本橋々詰(村井銀行階上)東洋貿易合資会社長武藤武全氏を主とせる京阪神当業知名筋数名と共に、大阪市難波稲荷町に靴工場を設け是を東洋製靴場と称し、第一期注文以来のロシア軍靴製造を引き受けたり。即ち現在の大阪馬淵町株式会社東洋製靴場の基礎にして故人がその業務を擔当し居たるは未だ記憶に新たなる処たらん。越へて神戸自店の業務を株式組織となし、経営方針の拡張を図り、新設東雲町の営業所を本店に充て、一面大阪心斎橋筋(順慶町四丁目角)に支店を増設し、或は日本木型株式会社の設立に関興し、現に同社の重役となり着々模範的発展の実を挙げ尚斯業関係諸般の計画中なりしを、天此公共的活躍家に?を藉さずして這個の訃音を伝ふるに至れり。惜しむべきかな。故人が日常業界公共の事に?り頗る態度真摯にして親切を極めしは何人も知悉せる処にして、性格最も温厚の人なりしかば所謂逸事と称すべき突飛的の行為多からざりし趣きなれど、自ら製靴作業に?せる場合など正に純粋の技術家たりしと共に、その一面においては在米当時以来自然に修得せし語学のごとき、専門の学者をして三舍を避けしめ程にて、尚事業経営に処し最も経済に長ぜる処ありし等後進の範とすべき事少なからねど、今後更に生前の経歴中特筆すべき事柄等は稿を改めて追報するの機会あるべし。」

『日本皮革時報』(大正12年7月30日)


















『神戸又新日報』(明治32年8月6日付け)