日本で初めて労働組合をつくった男



労働運動の扉を開いた靴職人の軌跡





陸軍製靴工場

『近衛歩兵第三連隊写真帖』










『風俗画報』(第五十四号)





































































































































藩士授産のため創立された佐倉相済社

『読売新聞』(明治15年12月9日付け)






『読売新聞』(明治20年8月2日付け)






『時事新報』(明治28年1月3日付け)





『時事新報』(明治29年1月4日付け)






『大阪朝日新聞』(明治18年5月7日付け)






『読売新聞』(明治17年7月17日付け)








『大阪朝日新聞』(明治13年7月21日付け)








『大阪朝日新聞』(明治15年9月20日付け)












明治時代前期



明治9年



「◎開戦準備の噂・・・・・去る十四日、一万五千足の靴を築地に御備えになる、かつ、靴細工の職人八人、もし朝鮮事件が始まったら、かの地までもおめしつれになるという御達しがありし由。」

『東京曙新聞』(明治9年2月19日付け)







明治10年




「亀岡町は悪臭鼻端を裂き汚物目を?しむ
(明治十年調査)


『東京市史稿』




 [◎薩摩軍は草鞋もはけず(西南戦争)・・・・・賊は近来草鞋(ワラジ)を履く者なく、ことごとく裸足なるよし。最も戦地近傍にては、先ごろまで一足の草鞋価い七銭五厘なりしが、当今にては十二銭五厘に至り、官軍といえども人足どもは、草鞋を履くことを得ず、裸足にて居るよしなれば、軍用に乏しき賊徒においては、実にさもあるべしと想像せらる。]

『東京曙新聞』(明治十年三月二十二日付け)



http://roudouundoumeiji.com/09020514.P1030737.JPG

薩摩軍の軍服姿











明治11年







「今月十日に陸軍省よりお達しに「各兵支給の短靴自今裏皮を表に出し製造方一層念を入れ靴墨染候様致すべく此の旨相達し候事」とあり、また十一日に東京府より第二大区五小区の戸長へお達しに「芝公園内別紙図面建物の場所公園着手の都合之あるに付き来る六月十日迄引払い候様右借地人共へ至急相達すべき事、但し夫々達し済みの上図面は辺戻致さるべく候事」とあり(図面は略す)同日同府勧業課より各大区区長への通達に「府税徴収の諸営業において鑑札所有或は無鑑札にして密売の者之あるや同営業者においても苦情少なからず因って以来府税之ある物品密売或は脱税の所業之あるにおいては直ちに相当の処分におよび候心得違いのもの之なき様兼ねて区内へ示油諭之ありたくこの段御通知におよび候なり」とありました。」

『読売新聞』(明治11年5月15日付け)











「この程陸軍省よりお達しに、蹄鉄工同生徒被服の儀は自今乗馬製の諸品を徒歩製の分に改正し短靴一カ年二足づつ支給し職場用諸品は従前の通り相心得べし此の旨相達し候事。ただし現今支給の分は次期より改正の品相渡すべく候事。とありましき。」

『読売新聞』(明治11年7月30日付け)





明治12年



「高麗橋一丁目藤田組軍靴製造所より一昨日当博物場へ軍靴数多出品なりました。」

『大阪朝日新聞』(明治12年4月29日付け)




明治13年

「日本橋檜物町の橋田幸助は兼ねて陸軍省の御用達しをして居ると同家の雇人三田同朋町の原島岩蔵のせがれ長三郎は先月二十四日主人の代理に鑑札を持って陸軍省へ出る途中から逃亡し、其の鑑札を見せてまづ通り三丁目の丸善から靴墨を六ダース騙り取り、次に京橋左衛門町の丸谷新八にて半紙を二貫目引き出し、猶主人の得意先を騙りに廻るつもりで一昨日鑑札を腰へ下げて鍛冶橋内を通るところを主人幸助に見とめられ直ぐに其の筋へ拘引になりましたが、是だから鑑札や印形類は放然雇人などに持たせられません。」

『読売新聞』(明治13年3月5日付け)






明治14年

明治15年





[◎熊本鎮台伺・・・・・近来漸々諸物価騰貴致し候内皮革類の如きは一層騰貴甚だしく候に付き、各兵給與の軍靴従前の代価にては調製致し難き旨、従来条約の商人より歎願候に付き事実詳細取調べ一般の相場等比較候処無余儀次第に被相考候間来る十五年度より前金下渡の上別紙の代価を以って買弁条約致したく且つ其の他の物品も別紙の通り条約書更正の上約定致したく因って条約案相添此段相伺い候なり。追って御許可の上は同年度預算金額不足致し候は当然の儀に付き右増額金別途御下渡相成りたく且つ巳に年度に差し迫り居候間至急御指揮相成りたく候なり。
指令
書面被服条約書の儀は伺之通軍靴条約書は甲号代価を以って乙号書式に照準結約の上更に其の旨可届出事。
但し追書の趣は可成被服定額金の内を以って総合支弁致し年度末に至り実際不足金額に限り其の事を具し更に可伺出事。]

『陸軍省日誌』(明治十五年七月二十七日付け)








[◎左右同じ靴を乃木大佐が発明・・・・・乃木歩兵大佐の多年工夫を凝らして、このごろようやく発明されたる一種の靴は、左右の別なく、これをはいて極めて快適を覚え、すでに二、三の士官は自らこれを試みられ、従来の靴に比して遥かに便利なることを証されしかば、来月より同大佐の部下すなわち東京鎮台歩兵第一聨隊へは、一般にこれを用いしめらるることに決定されたりとぞ。]

『朝野新聞』(明治十五年八月十五日付け)








明治時代中期




明治16年

明治17年

◎靴は戦争時には不便利・・・・・陸軍兵士が一朝事あるの秋に際し、山坂を進退するに、軍靴にては不便利にて実用に適せざるあり。己に十年薩南の役のごとき重に草鞋を用いられしより、爾来会計部にてはその準備ありしが、今度一将官の発議により平生各兵士へ草鞋の造り方を教えおくことに決定せられしとか聞き及べども、真意は知らず。」

『自由燈』(明治十七年十月十四日付け)


明治18年









 「◎大阪大鎮台・・・・・同台にては先年の朝鮮事件に用意のため戦地用の草鞋二足づつを兵士一同へ渡されしが、今度の事変にも準備のため兵員の余暇に右軍用の草鞋二足づつ製造せしめらるるといふ。」

『読売新聞』(明治十八年一月十日付け)








 「◎草鞋戦場にては靴より優る・・・・・戦場にては、その地利により時候によりては、靴を脱いで草鞋を用いるのはなはだ便なることあり。これも西南の役にては、大いに経験ありしとかや。されば、その辺よりして陸軍においては、草鞋を廃せらるるにあらず。すでに東京鎮台第三聯隊第三大隊にては、草鞋を造ることを心得たるもの三十名を選抜して、布草鞋を造らしめらるると聞く。用意のほど至れりというべし。」

『東京日日新聞』(明治十八年一月十三日付け)








◎真綿入り洋服注文・・・・・陸軍省にては真綿入り洋服二万枚と毛草鞋三万二千足を今度大倉組へ注文されしと。」

『読売新聞』(明治18年1月13日付け)

◎皮靴製造並びに職夫の手間料・・・・・米国政府においては如何なることに入用のためにや今度日本にて製造する皮靴の製造法並びに該職夫の手間料等を取り調べらるるに付き其の取り調べ方を神戸在留の同国領事へ通達し同領事は当府庁へ依頼せられ(但し当府の分のみ)たれば当勧業課より該製造者につき巨細に取り調べらるることになり先ず差当り明治十六、十七両年の製造高と現今の模様および職夫の賃金を取り調べ之に上中下の区別をつけらるるはずなりといへり。」

『大阪朝日新聞』(明治18年8月1日付け)

◎桜組、国産革の靴を陸海軍に納入・・・・・桜組の製靴~府下にて伊勢勝の靴といえば、誰知らぬものなき同組の靴製造は、近年最も盛大の由なるが、当今同組にて靴製造に用いる革は、靴の甲は和製七分舶来三分にて、陸海軍納めの靴は皆和製品を用い、注文者の望みによりては、残らず舶来品をも用いる事なるが、底革は和製にてはとかく不充分なれば、多く舶来品を使用するとの事なり。」

『時事新報』(明治18年8月13日付け)



明治19年




「ー広告欄ー●桜組造靴場分店 神戸北長狭通五丁目七番地
         ●桜組造靴場支店 熊本県下紺屋今町十四番地」

『時事新報』(明治19年1月16日付け)







「◎職工人員・・・・・明治18年1月調査、府下15区、6郡、伊豆七島の諸職工総員は左の如し。●靴工・387名」

『横浜毎日新聞』(明治19年1月29日付け)







「◎長崎在留外国人・・・・・欧米各国人現在員百二十六人、清国人は(昨年春の調査によれば)六百四十七人、宣教師は三十一人、外国人へ昨年中下付したる内地旅券は四百十一枚なりといへり。」

『時事新報』(明治19年1月30日付け)












「◎靴工の洋行・・・・・西村勝三は来る26日横浜解纜の便船に搭じ製皮製靴の実況視察を兼ね職工雇い入れのため欧州へ赴くよし。」

『横浜毎日新聞』(明治19年3月20日付け)






明治十年代後半ともなると、陸海軍の軍靴受注の大幅増加にともない靴業各社の経営規模は一挙に拡大していった。この軍靴受注増大に最も貢献したのが、他ならぬ、我が国製靴の産みの親、西村勝三だった。我が国では、これまで、底象皮を製するといえど、品質が充分でなかったので、やむを得ず海外の皮革を需要していた。西村は多年これを遺憾として19年の春、欧州へ渡航し各国の工場を巡視して、ついにドイツの製法が我が国に適すると悟り、工師クンベルケンを傭併し、爾来完全の底象皮を製出できるようになり、内国製の牛皮で製造しても米国製に比べても優るとも劣らぬまでになったので、陸軍省においても試験の上、軍靴用に適当であると認められ、以来外国の原料を用いなくても立派に代用できるとの許可を得て、多年の西村の素志を達したのであった。

『朝野新聞』(明治22年6月8日付け「内国製の靴底革」)

『日本』(明治23年4月2日付け・広告欄)

 











「◎施與金・・・・・浅草亀岡町より出火に類焼せし貧民へ同町弾直樹氏より金百円を施されたり。」

『読売新聞』(明治19年3月26日付け)







「◎船客・・・・・八日神戸より入港長門丸 山縣少太郎・西村勝三」


『郵便報知新聞』(明治19年10月10日付け)







「◎組合設置・・・・・今度、京橋、日本橋、芝、神田、下谷、浅草の六区内の靴製造並びに営業者が相謀り一の組合を設置すると云ふ。」

『横浜毎日新聞』(明治19年10月23日付け)


「◎雑件・・・・・迂生義過般帰朝の際、航海中より脳病に罹り、今に全癒に不至為に辱知諸君へ?趨の礼を欠く。此に其罪を謝し併せて高恕を請う。    深川清住町一番地 西村勝三」

『郵便報知新聞』(明治19年10月31日付け)




「◎裁縫科・製靴科・・・・・陸軍省にては今度各鎮台経理部へ同科を設けたる由。」

『横浜毎日新聞』(明治19年12月19日付け)






明治20年



「◎縫靴両工・・・・・陸軍省にては徴兵適齢者中より縫、靴工を選抜することを定めたるよし。」

『横浜毎日新聞』(明治20年1月21日付け)



◎縫工及び靴工・・・・・陸軍省にては徴兵適齢者中より蹄鉄工、鞍工、の両職工を選抜し来りしが、尚ほ本年よりは縫工、靴工、をも右適齢者中より選抜することを定めたり。その職工は身の丈五尺以上体格甲種の者を取り、所要の人員充ちしときは、その余の者と及び身の丈五尺未満四尺九寸以上にして体格甲種の者とは翌年に廻すべき旨を一昨廿日その向々へ訓令したり。」

『郵便報知新聞』(明治20年1月23日付け)



「◎靴屋の結社・・・・・府下の各職工がおいおい結社する中に、靴職のみ結社せざるは不都合なりとて伊勢勝が発起にて昨年中より同業会を開きしが、何分まとまりがつかず、近頃姦商ありて総体の不名誉となる事あるにつき、さらに至急集会をなして結社の方法を協議するとのこと。」

『読売新聞』(明治20年2月4日付け)






「◎『新帝国策』・・・・・北村〔川崎〕三郎著・・・・・満目悲壮淋漓陰鬼晝哭するの声を聞くが如く壮士之を読めば凛然として中夜馬を天山に蹴るの志を起さしめ、、、」

『東京朝日新聞』(明治20年6月12日付け)






◎日本軍服の制・・・・・我が国海陸軍の風紀軍律并び挙りて器械的の運動に熟練なるは毎度海外軍人の嘆称する所にて、器械の運動巧みなるに連れて偏へに欧州の模型に倣うは屑とせず、別に一機軸を出さんとの念は一般軍人の間に満ち渡り、知新の効日々に積で近来は銃砲弾薬又軍用電信橋?など続々武器戦用の発明改良あるに至りたるは誠に軍国の名誉、国家のために喜悦して措かざる所なれども、隴を得て蜀を望む人情の常として、一つ叶えば又その次と願い即ち次第に重きを我が軍政に加ふるは日本国民の微夷とでも申すべき?、既に昨日の本紙上に軍政上の改良は先ず其の経済法よりすべしと題したる論説のごとき、亦益々思ふて切なる一篇にて、篇中今の軍事経済の一例として被服の事を引?し「我が国にては軍人の軍服を冬夏の二つに分かち、出入常に之を服して次第次第に垢?すれば、時を限りて新調の服に着替へ云々」と記載せしが、尚ほ之をその道に詳しき人に就いて聞くに、数年前までは或は斯くのごとき事もありしならんが、服制の改良は海陸軍務の進歩と共に年を遂ふて加はり、盛儀正装の節、運動散歩の時、或は寒暑、或は雨雪夫々場所に応じて数?の着替えなり。殊に昨年三月中各隊被服経理条例なるものを布令せしより、其の取り扱い上更に一層の周密を致し、其の第二十七条によれば被服委員なる者を置きて廃品売却の事を取り扱はしめ、其の第三十条には隊中にて調製し得べき被服は隊中縫工靴工をして縫裁せしめ、若し工事繁劇にして職工の不足する時は、隊中兵卒の内縫裁を心得たる者を選んで一時之を用い、尚ほ不足する時は市中職工に命ずることを得べしとあり、又第三十六条には被服品は古製より供用し新製を貯蔵し新陳交換以って其の敗損防ぐ可し。その方法の良否は監督検閲の際、之を調査するものとすとありたれば、其の被服の管理綿密周到なる、おさおさ欧州諸軍国にも劣らざる可しと語れり。蓋しその服数も亦決して文明の諸軍国に劣らずして、被服廠のごときは特にその経理は行き届きたるものなり。陸海軍服制の一例をもって固より軍事の経済を彼是云うには非ざれども、今日の聞くところ前日と違うをもって正誤かたがた之を記し、併せて被服経理の大いに整ふたるを満足する者なり。」

『時事新報』(明治20年7月19日付け)












製靴商工の組合・・・・・府下各区部内における製靴工場は伊勢勝、桜組、浅草弾の工場等を重なるものとして其の他製造家は三百余名、職工徒弟の総員千二三百名にして、職工を傭役せず単に製品を商う者五十余名の由なるが、是まで組合規約の設けもなかりしに付き、今度西村勝三、弾直樹外二三の諸氏には同業組合事務所を日本橋区川瀬石町十一番地に設け、酒井永三郎氏をもって其の事務に当たらしめたりしに、昨今ほぼ規約の編製も終わりたれば、不日其の筋に出頭するとのことなるが、右は同業職工及び徒弟をして品行正しく業事に出精せしめ、もって工芸の進歩を図らんとの目的にて、職工を傭役する製造家は各若干金を積み立てて一箇年三四回同業共進会を開き、技術を奨励すると共に、もし不幸に遭うもののある時は之を救助するの仕組みなりという。」

『時事新報』(明治20年11月27日付け)




東京製靴商工組合・・・・・此の程の本紙に記したる如く、府下十五区六郡の製靴商工二百七十九名は、今度該組合規約を設け昨三日総代より東京府庁へ認可相成りたき旨出願したり。」

『時事新報』(明治20年12月4日付け)





明治21年






 「組合認可・・・・・府下十五区六郡の靴製造人一同は協議の上、規約を立て東京靴工組合(注:業者団体)と称するものを組織し、築地一丁目一番地の大沢省三、日本橋区呉服町一番地の成田匡の両人が総代として先にその筋へ出願したるところ、昨日認可されたるをもって日本橋区川瀬石町十一番地へ事務所を設立する都合なりという。」

『読売新聞』(明治21年1月14日付け)




 「造靴工組合・・・・・府下十五区六郡の靴製造人一同は今度組合を設けて東京造靴工組合(注:業者団体)と称し、大沢省三(築地一丁目一番地)、成田匡(呉服町一番地)の両人より出願して認可を得たるに付き、その事務所を日本橋区川瀬石町十一番地へ置けり。」

『郵便報知新聞』(明治21年1月14日付け)








造靴工組合・・・・・東京府において造靴工組合の設立を認可せり。今その規約の要領を記すれば下のごとし。組合員は親睦を旨とし相互に協力し工芸技術の進歩を図り粗造の弊害を矯正し、もって世上の信用を厚ふし組合一般の幸福を図る事、組合員は造靴用に充る皮革は総て相当の物質を選び毀損の速かならさる様注意製造する事、需要者の注文を受けたる時は鄭重に製造し注文の仕様に毫も違う可らず、組合員は一己の私利を射んか為め粗製の品を賑買し組合全般の信用を害するかごとき所業をなすべからざる事、造靴要用の皮革原品を買入るの際その品質の見本と相違するか又は価格に差異を生ずるかごとき場合においては各自示談を遂くるは勿論たりといえども、万一組合員に対し不信実の所為ありてその事柄捨て置きがたき場合においては組合幹事仲裁人となり和談を取り扱い和議に至らさる中は組合一般其の者と取引すべからざる事、組合員の徒弟及び傭人等其の期限内故なく脱するか又は不都合の所為ありて放逐解雇等したる時は組合一般において旧師及び傭主の許諾を得ずして傭入をなさざる事、組合員は一定の標札を各自店頭にかかぐべき事、組合員中業務繁忙の際、職工不足にして差支ある場合においては互いに貸し借りする事等にして、地区は府下十五区六群其の人員は二百九十名なり。」

『東京経済雑誌』(第403号 明治21年1月28日)







「◎靴職・・・・・一昨年(明治19年)の年末には洋服屋の繁忙と共に靴職も繁忙なりし、、、」

『横浜毎日新聞』(明治21年2月3日付け)





「◎日本靴工商会社・・・・・本年一月東京造靴工組合規約を設けし以来同業者一般の交誼も追々親密となり、職工徒弟の取締向きより技術の奨励においても旧来の弊風を改良するの場合に押し移りしかば、更に一歩を進めて今度題号のごとき会社を設けんと同組合事務担当人酒井永三郎氏の発議に多数の賛成を来し昨今会社定款規約もほぼ脱稿に至りしかば、昨日原案整理委員会を開き、来る五月一日をもって同組合三百余名の総会に附するの見込みなりという。扨同社は将来広く海外に輸出の道を開くの目的にて、之を達せんとするには第一粗造の弊害を矯正するため製品に会社の商標を押捺し、職工徒弟の奨励法を振興し、同組合が発起設立する会社の製品には一切粗悪の批評を受くるなく取引を誠実にし、物品を精良ならしむる等なり。又同社は株主中なる組合員に対して原料の熟皮を廉価に売り渡し、製品の販路に差支ゆる場合あると?是までのごとく問屋に利益を壟断せらるるの宿幣を矯め、会社の鞏固を維持する計画にて、資本金を十五万円となし、之を三千株に分かち一株五十円にて資本四分の一は造靴組合員において負担し、余は広く株主を募るつもりなりと。」

『時事新報』(明治21年4月6日付け)









「◎東京造靴会社総会・・・・・同会社は府下造靴商工組合三百余名の協議上より成り立ち、昨一日午前九時京橋区木挽町商工会議事堂において会社の定款規約を議するはずなりしが、同組合頭取大澤省三氏も旅行中にして出席せず、副頭取成田匡氏等も病気にて欠席したれば、参会の人々は定款規約等を議了せずして種々相談をなし、午後四時三十分各々散会したるよし。同日の会員は凡そ百名以内なりしが、その内同組合に関係ある重なる諸氏には散会後史に相談会を開き、後日の開会其の他事柄を協議せしといふ。」

『時事新報』(明治21年5月2日付け)









◎軍用川嶋靴・・・・・京都の人川嶋忠正氏は久しく軽便なる軍用靴製造に工風を凝らしたる末、先頃漸く製造し得たるは靴の裏を棕櫚縄織りにて造り、甲はドンゴロスを用いたるもののよしにて、峻坂平野を択ばず跋渉行軍するに合当し、少なくも三ヶ月は用立つはずなりという。氏は早速見本を添えて大阪鎮台に買上方を請願したる処、いよいよ採用を得たるをもって、今度大阪府下に一大製造所を設け、行く行くは更に東京、名古屋、仙台、熊本、広島の各鎮台所在地に製造所を設くるはずなりとぞ。」

『時事新報』(明治21年5月12日付け)










◎営内脱靴・・・・・陸軍省にては追々脚気病の流行する季節に向かい来たりしに、就いては下士卒に限り貴顕方来観の外は兵営内脱靴を許す旨昨日それぞれへ達せられたり。」

『読売新聞』(明治21年6月16日付け)









◎陸軍各営の経済・・・・・陸軍各兵営の下士官以下各兵員に給與する被服その他の供給方法につき二三年前より各営の将校が専らその経理に注意を加えてより漸次経済は実を挙げ、今は被服帽靴等の修補を始め商工家の手を要せずして兵員中より其人を選び営内において右等の業務を執らしむる事となりしが、被服保存の点にいたりては、例えば当季渡りの夏服抔も規定の期限外に猶を保存するを得ること凡そ三年内外のよしなれば、右等の処置方につき将校中にそれぞれ受け持ちの委員を定め、新旧衣服順序を理し外見の見苦しからざる様之れが処分に意を注ぎたるより道に現今の有様にては毎年召集する後傭兵員へ右の経理より貯蓄し得ざるものを着用せしむるを得るのみならず、一朝事あるの日に現役兵員を繰り出し切りたると同時に更に編制する補充兵員に差向き下付する処の被服類に至るまでも各々兵営内の倉庫に積み立つる事となりしは、近頃各営将校が経済調理のよろしきに出でしものなりという。されば兵士が常に用いる脚半のごときも数回の修補を加え、もはや物の用に立たざるを認めて其の釦及び靴にかくる釣り革を取り、之を新製の脚半に附して古脚半をば雑巾となし、営所内掃除の用に供する次第なりといふ。」

『時事新報』(明治21年7月9日付け)






◎靴職人の同盟罷工・・・・・大阪西成郡難波村字裏側に在る内外用達会社の製靴分場には二百三四十名余りの職工を使用し居りて、かねて各職工の手間賃の中より各自僅宛の積立金をなさしむる事となし、又先頃そろいの洋服帽子等を新調して各職工に渡し其の代価は同じく手間賃の中より漸次に引き去る事となしたりしを、職工等は何か是等の事についてかれこれ苦情を唱え居りたるに、遂に去る十一日一同申し合わせて工場のガラス窓を破りテーブルを蹴倒すなどの騒ぎをなしたる上、直ちに同場を退きて三日間休業をなしたる由なるが、その後仲裁の人ありて漸く旧のごとくに就職することとなりし処、またまた去る二十四日より一同は同場へ出勤せずして難波村の一方亭に集まり頻りに評議をなし、今度は又手間賃の不足なり云うの苦情をも唱え出したりといへり。」

『時事新報』(明治21年7月31日付け)




明治22年






◎紅葉亭会集坐禮歌(合題 明治職工)・・・・・
☆日の本は盛りに開く西洋出来に負けぬ靴職(小松園)」

『郵便報知新聞』(明治22年4月11日付け)








◎大倉氏・・・・・陸軍省の需要品即ち糧食より衣服、馬匹、飼養等一切一手に引き受くる由にて、ほぼ特約も済みたりと。」

『郵便報知新聞』(明治22年5月18日付け)









「◎城泉太郎氏・・・・・府下神田の東京英学院及び女範学校の長たる城泉太郎氏は今度新潟県下において壮年有志の設立せし北越青年倶楽部の聘に応じ、巡回講師として近日彼の地に赴く由。予定二ヶ月間の期限を終わりて帰京までは両所の教務を余人に托し置くという。」

『時事新報』(明治22年5月18日付け)







「◎壮士の送別会・・・・・一昨二十四日午後六時より江東井生村楼において今回渡米する井上敬次郎、井上平三郎両氏のため送別の宴を開きたるが、当日来会者の重立ちたる者は大井憲太郎、新井章吾、富田精策、畑下熊野、遠藤秀景、荒川高俊、仁杉英、渡邊小太郎の諸氏を初め総て八十七名にして、多くは壮士の人々なるが、穏やかに宴会を終わり一同散会せしは十時頃なりしと。」

『時事新報』(明治22年5月26日付け)









「◎亀岡町・・・・・この町に入れば、タバコの火を借るさへ穢れるとて、打火を以て吸煙せし程なり。」

『横浜毎日新聞』(明治22年6月1日付け)







「◎製靴業者の洋行・・・・・府下麻布区飯倉三丁目七番地靴製造人三橋岩五郎氏は今六日出航の「ヲシャニック号」に搭じ米国へ赴く由。」

『中外商業新報』(明治22年6月6日付け)






「◎製靴業研究・・・・・麻布区飯倉三丁目なる製靴業三橋岩五郎氏は製靴研究のため今度米国に渡航するよし。」

『時事新報』(明治22年6月12日付け)








「◎愛国同盟義勇会・・・・・長野県に大東義勇会なるものあり。
明治十七年朝鮮事件の起こりし際、?松代議士及び上田藩士等が
一致して従軍せんと計画せしより始まりしものにて、
同事件平定の後一団体を形作りて、それより義勇会と称し
春秋二期に大会を開き近年に至りては
文部長高橋仲太郎、武部長木村盛信の両氏熱心に尽力して
今日まで継続せしものなりとぞ。
また秋田県には大日本義勇会なるものあり。
これは一昨年を以て創立せるものにて、
会員中には会津落城の士を始めとして、新撰組、彰義隊の面々もありという。
同会の人千葉七之助、大和正夫〔桑港愛国同盟会員(元壮士)・城常太郎の盟友〕の
両氏は連結合体の必要を感じて
大東義勇会と協議を催したる末、いよいよ双方合併の事に決し、
大日本義勇会よりは右千葉、大和の両氏、
大東義勇会よりは関軍蔵、高橋仲太郎の両氏委員として出京し、
榊原健吉氏〔撃剣の名人〕の宅に会して協議の上、左の件々を議定したりと。

大東義勇会と大日本義勇会との名称を?し愛国同盟義勇会と称すること。
東京に大総育部を置き、??を榊原健吉とし、長野県下に義勇会?司令部を置き、
秋田県下に義勇会軍司令部を置き、各支部を総?す。
右の外高知県の義勇館、新潟県の発誠館、茨城県の撃剣会等をも連結し、
また奉?雑誌と題するものを発行することに決したるよし。」

『東京朝日新聞』(明治22年12月6日付け)






明治23年








◎陸軍職工学校起こらんとす・・・・・陸軍省において各師団の兵員に給する正服正帽より常服、寝衣、靴、背?等その他諸品の原料は品に依り本省の手にて処理すれども、多くは各師団連隊に交付し爰にて商工に任し製作裁縫修補などせしむることなるが、一両年前より各師団連隊中において、多いに経済に注意し、特に被服調度に関する委員を選出し専ら節減に力を尽くし居る由、、、営内に工場を設け背?、靴、脚半等の破損は兵員中適当の者をして修補せしめ、被服の裁縫も職工を営内に雇い入れて監督を附し、以って恣に商家職工に利益を壟断せられざるの仕組みをなす連隊もある由。既に第一師団第一連隊の如きは、斯くして得たる予備品にて追々倉庫の手狭を?ずる程なりと。斯る効績あるを見ての故にや、今度陸軍省にては、陸軍職工学校を設け、被服を始め百般の給興品をば一切同校生の手に成らしめ、往々は各師団に配置するつもりの由。」

『時事新報』(明治23年3月16日付け)





◎朕陸軍被服工長学舎条例を裁可し茲に之を公布せしむ・・・・・
御名  御?
明治二十三年三月十八日
陸軍大臣 伯爵 大山 厳
勅令第三十号
陸軍被服工長学舎条例
第一条 陸軍被服工長学舎は陸軍省会計局に属し陸軍縫工長靴工長となるべき者を養成する所とす。
第二条 本舎に左の職員を置く。
学舎長 陸軍三等監督 一名
幹事 陸軍一等軍吏 一名
副幹事 陸軍二三等軍吏 二名
第三条 学舎長は陸軍省会計局長に隷し舎務を総理し学生教育技術進歩の責を任す。
第四条 幹事は学舎長の命を奉じ学舎中一切の事務担当す。
第五条 副幹事は学舎長の命を奉じ学生教育の事務を分担し兼て工場の監視に任ず。
第六条 第二条に掲ぐる職員の外下士属若干名を置く。
第七条 教員は傭員及び傭人を以って之に充つ。
第八条 学舎には軍医を附せす在東京奉職の軍医をして兼掌せしむ。

第九条 学生は現役予備役後備役の籍に在る兵卒中志願の者にして検査合格の者より之を採用す。
第十条 学生の修業期限は概ね一箇年半とす。
第十一条 学生の人員及び検査格例は其時々陸軍大臣之を定め告達す。
第十二条 学生は舎内に居住せしめ諸給与及び修業用品は総て学舎において之を支給す。但し現役の者は俸給食料被服を原隊より学舎に送付せしむ。
第十三条 学生の願届其の他業務に関する件は総て学舎長の管理に属す。
第十四条 学生修行中品行不正或は軍紀を遵守せず又は法則を犯し若しくは疾病其の他の事故を以って卒業の目途なき者及び将来工長の任に堪え難き者は之を退舎し其の現役の者は原隊に予備役後備役の者は原籍に復帰せしむ。
第十五条 疾病の故を以って欠課多き者は軍医の診断により学舎長の意見を以って学期を延ることあるべし。但し会計局長の認可を請うべし。
第十六条 学生卒業の上は該工長適任証書を授与して帰隊或は帰郷せしむ。
第十七条 学生優等の者は学期末満というも工長適任証書与え教員の助手に充つることを得。」

『官報』(明治23年3月19日)










◎朕陸軍現役縫工長靴工長補充条例を裁可し茲に之を公布せしむ・・・・・御名 御?
明治二十三年三月十八日
陸軍大臣 伯爵大山 厳
勅令第三十一号
陸軍現役縫工長靴工長補充条例
第一条 陸軍縫工長靴工長の補充は歩騎砲工軽重兵隊の上等兵にして嘗て縫工卒靴工卒の勤務に服し入隊の日より起算し二箇年以上現役に服し再服役を許されたる者及び陸軍被服工長学舎卒業者を以ってす。
第二条 陸軍被服工長学舎卒業者より三等工長に任ぜられたる者の兵役期限は一般の兵役期限に拘わらず任官の日より起算し現役七箇年とす。其の現役満期の時前役を通じ十二箇年に満たざる者は十二箇年に満つる迄後備役に服せしむ。
第三条 連隊長は部下中隊長をして第一条に適当する上等兵を選抜せしめ其の技能を検閲し候補名簿を製し近衛都監又は師団長に呈し同官の認可を請け工長候補者を三等工長に任ず。
第四条 陸軍被服工長学舎卒業者を工長に任ずるは会計局長其の人名書に考科表を添え陸軍大臣に呈し同官の認可を請け欠員ある毎に之を三等工長任じ陸軍大臣の告達に基き各兵隊に配付す。
第五条 陸軍各兵科現役下士補充条例第二条第二項第八条第九条第十条第十三条は本条例に之を適用す。但し第八条第九条に当たる者は前役を通算し七箇年に満たざるときは予備役に十二箇年に満たざるときは後備役に服せしめ其の服役十二年を過ぎるときは之を免除す。
第六条 陸軍各兵科現役下士補充条例第八条第九条第十条に当たる者は該隊長より順序を経て近衛都監又は師団長の認可を請い現役若しくは兵役を免す。」


『官報』(明治23年3月19日)











明治23年4月





◎被服工長学舎開設事務所・・・・・陸軍省にては新官制により一昨七日より省中に被服工長学舎開設事務所を設け昨日より事務取り扱いを開始したり。」

『東京朝日新聞』(明治23年4月9日付け)







◎被服工長学舎・・・・・陸軍省にては、新官制により、去る七日より省中に被服工長学舎開設事務所なるものを設け、一昨八日より右事務取り扱いに着手したりと。」

『時事新報』(明治23年4月10日付け)








◎被服工長学舎・・・・・陸軍省において先に工長養成のため新設せし被服工長学舎は深川御船?跡へ新築中なりしが、落成したるをもって同舎長藤村三等監督、幹事田村一等軍吏以下舎員二十余名は来る五日同所へ移転するといふ。」

『時事新報』(明治23年5月2日付け)








◎陸軍師団工場・・・・・従来陸軍省において各軍隊へ給與の被服帯具及び靴等は民間の御用達に受け負いしめ居られしが、右の物品は漸次同省内において製造するの方針に決せられし由にて、一両年中には各師団へ工場を設け、雑用品をも製作せしむる見込みなりと聞く。」

『東京日日新聞』(明治23年5月9日付け)









◎被服工長学舎の開舎式・・・・・本所横網町へ新築して先ごろ移転したる陸軍被服工長学舎は昨二十日開校式を執行せしに付き、大山陸軍大臣、桂次官、その他各将校数十名を招待したるよし。」

『時事新報』(明治23年6月21日付)










◎朕陸軍被服工長学舎条例中改正の件を裁可し茲に之を公布せしむ・・・・・御名 御?
明治二十三年八月十六日
陸軍大臣 伯爵大山 厳
勅令第百七十七号
陸軍被服工長学舎条例中左の通り改正す
第二条に左の一項を加ふ
 陸軍一等軍医  一名
第八条削除」


『官報』(明治23年8月18日)










◎朕陸軍現役縫工長靴工長補充条例中改正の件を裁可し茲に之を公布せしむ・・・・・御名 御?
明治二十三年八月十六日
陸軍大臣 伯爵大山 厳
勅令第百七十八号
陸軍現役縫工長靴工長補充条例中「三等工長」とあるを「工下長」と改む」


『官報』(明治23年8月18日)
















 [
◎勅令の発布・・・・・勅令第百七十七号、陸軍被服工長学舎条例中、改正の件、同第百七十八号、陸軍現役縫工長、靴工長補充条例中、改正の件は昨日の官報にて公布せられたり。]

『読売新聞』(明治23年8月19日付け)




「◎壮士の団体・・・・・、、、大井憲太郎氏等の一派に加担する労働組、、、」

『東京朝日新聞』(明治23年9月17日付け)






「◎神戸労役株式会社創立・・・・・神戸港における方言、権三(ごんぞう・沖人足)と称するは、外国船の出入りに際し沖合において貨物の運輸積み下ろしを業となし、船舶の多き時は殆んど二千名内外の人数あり、少なくも四五百名に下らざるが、この者等は多く各地より同港に集まりし貧民にて、家なく衣なく又食なきもの多く、賃金を得ざる時は野宿して夜を明かす者十中の八九に居るよし。抑も明治初年のころには一日の賃金一弗位なりしも、追々人数の増加と受負人の競争により漸々下落し、此の頃にて漸く五十銭まで下落したるよし。この一円或は五十銭という賃金が、労役者の手に入れば随分割合のよき賃金なるも左はなくて是には多くの受負人あり。先ず船舶よりは人足受負人なる居留置外人ニコライ及びフラカプトン清国人大南京等に賃金を渡し、彼等は殆ど賃金の半額位を跳ね、之を内国受負人に受け負はしめ、この受負人等は相当の手数料を取り除き、又次の受負人に渡し、斯く転々する間には最初の受負賃金の六七分は受負人に跳ねられ全く労役者の手に入るは漸く一日十七銭位の賃銭となる訳なれば、労役者中糊口に耐え兼ねるより、或は悪心を出し船中にて窃盗杯の悪事を働く者さえ往々ありて、ますます外人より蔑視を受け、国の体面にも関すべく、且つこの惨状を救済し今後沖稼ぎのなき時は陸上諸工場の工夫に使役し、尚進んで全国労役社会の?面をも矯正せんとの趣意にて、今度同港の井上方勝、関清次郎、川村佐己知の三氏外数名発起となり、資本金二万円(一株二十円)を募集し、同港三宮町に神戸労役株式会社を創立する事に決し、すでに県庁の認可を得て目下人足集合所を建築中なるよし。」

『時事新報』(明治二十三年十一月十五日付け)







明治24年


「◎米国在留の日本人・・・・・の組織せる桑港の愛国同盟会にては従前労働の傍ら運動し其の機関として『自由』を今度活版摺りとなさんとて其の委員井上敬三郎氏は印刷機械買入れのため帰朝したり。二月上旬には再び渡来すべしと云ふ。」

『東京新報』(明治24年1月28日付け)







「◎米国愛国同盟員・・・・・米国サンフランシスコの日本人より成り立てる米国愛国同盟は機関として邦文の新聞紙を発刊し来りしが、尚之を拡張せんため同盟委員諸氏より活版器具購入のため義損金を募り居る由。」

『中正日報』(明治24年2月3日)

この時の同盟委員諸氏とは、福田友作(下野国「栃木県」都賀郡出身)、粕谷義三、海老沼弥作(福田と同郷の栃木県出身)、
畑下熊野、中野権六、中西元次郎、井上敬太郎であった。

『東洋新報』(明治24年2月3日付け)





「◎日本労働組総会と懇親会・・・・・同会は明二十五日神田連雀町今金において、同組員一同総会を開き同組将来の方針に関し協議し終わりて、幹事淵岡駒吉、中村敬太郎、三浦亀吉、侠客榊原健吉、新場の小安、御前松之助、鈴木千里、市会議員平島喜平の諸氏が発起となり同組員一同及び市内労働者のために大懇親会を開くことに決したりと。」

『国民新聞』(明治24年2月24日付け)





「◎被服廠の移転・・・・・麹町区有楽町なる陸軍被服廠は北豊島郡岩淵町の新築庁舎へ昨日引き移りたり。」

『東京新報』(明治24年3月6日付け)








◎陸軍被服廠移転・・・・・陸軍被服廠は一昨五日、東京府下北豊島郡岩淵町字赤羽へ移転したり。」

『やまと新聞』(明治24年3月7日付け)



 「◎壮士の運動・・・・・府下に散在せる労働組、正義会、弾?文部館、青年自由党、帝国協和会など称ふる壮士連は、退去解散後未だ目覚しき運動をなさざるより、一同協議の上近々一大運動をなさんと其の準備に奔走中のよし。」

『時事新報』(明治24年3月17日付け)













◎朕縫工靴工入営期限を裁可し茲に之を公布せしむ・・・・・
御名 御?
明治二十四年五月二十九日
陸軍大臣 子爵高島鞆之助
勅令第四十九号
本年徴集する縫工靴工は来明治二十五年四月一日に入営せしむ。」


『官報』(明治24年5月30日付け)







 [◎縫工、靴工の入営期限・・・・・本年徴集する縫工、靴工は明年四月一日に入営する事となれり。」

『読売新聞』(明治24年5月31日付け)






◎縫工、靴工入営期限・・・・・本年徴集する縫工、靴工は
来二十五年四月一日をもって入営せしむる旨昨日勅令第四十九号にて
定められぬ。」


『東京朝日新聞』(明治24年5月31日付け)







 「◎新兵員数表・・・・・本年徴集せらるべき新兵員数表は左のごとし。
(明治二十四年徴集新兵員数表所管兵種)

 ー●縫工ー
  (近衛・64人)ー(第一師団・69人)ー(第二師団・66人)ー(第三師団・66人)ー(第四師団  ・ 69人)ー(第五師団・66人)ー(第六師団・69人)ー(海軍・0人)

 ー●靴工ー
  (近衛・31人)ー(第一師団・40人)ー(第二師団・38人)ー(第三師団・38人)ー(第四師  団 ・40人)ー(第五師団・38人)ー(第六師団・40人)ー(海軍・0人)」

『読売新聞』(明治24年5月31日付け)






「◎米国における自由・・・・・米国桑港において本国人の組織する大日本愛国同盟にては最初、新日本てふ雑誌を発刊し続いて十九世紀と改題し遂に今の自由となりたるが、このごろ到着せし自由は既に七十七号に達し益々盛大に趣き、これまでのサイコロスタイル版ににては万事不便なるより

目下帰朝中なる同会員諸氏は在桑港の会員と協議の上、今度漢字の活字を購入、来る七月下旬会員井上敬次郎氏が右携帯して同地へ赴くよし。
またサイコロスタイル版は一度に一千枚内外を摺り立て得べきものなりという。」

『中正日報』(明治24年6月9日付け)







◎陸軍縫工、靴工両科生徒募集・・・・・昨年三月勅令第三十号陸軍被服工長学舎条例第九条により縫工科学生七名、靴工科学生八名、陸軍予備後備在役の兵卒より今回召集するに付き、志願者は七月三十一日までに出願すべき旨昨日陸軍大臣より同生徒検査格例召募手続きを定めて告示さる。」

『やまと新聞』(明治24年6月9日付け)





◎勅令二件・・・・・昨日勅令第六十二号を以って警備隊条例第四条末段に「職工は志願により二ヵ年以上在営及び再服役をなすことを得、その再服役をなすは陸軍現役下士上等兵再服役条例に依る」との一項及び第五条中「兵卒より縫工(下)長靴工(下)長に任じたる者亦前項の例に依る」の一項を追加さる。又同日勅令第六十三号を以って陸軍乗馬飼養条例第一条中三五八十の四項を改正し七九の両項を削除し第二条三項を改正されたり。」

『やまと新聞』(明治24年6月16日付け)









「◎東京府下各工業組合有志者協議・・・・・、、、造靴職大澤省三氏〔製靴会社の最大手「桜組」の支配人であり、業者団体「東京靴工組合」の頭取〕の発議にて
本会を「東京工業協会」と称することに決し、、、
「、、、当日会する者二百名前後にして其の職名は左の二十六種なり。

大工職、左官職、石工、家根職、建具職、ペンキ職、瓦職、鋳物職、鍛冶職、活版印刷職、経師職、
畳職、染物職、足袋職、製本職、菓子職、塗師職、諸車製造職、
煙草職、造靴職、革職、板木職、彫画職、形附職、煉瓦職、木具指物職、、、

休憩後左の諸氏各職業の幹事に選定せられたる旨報告ありたり。

○足袋職/作本佐吉、大久保庄五郎○製本職/閊上尚蔵、阪本磯次郎
○菓子職/大住喜右衛門、米津松造、山本林三、宮田清吉、木藤太兵衛
○染工/河原伊平、白石権左衛門、三浦源蔵、植田房吉
○石工/清水佐兵衛、山田藤次郎○家根職/熱田直次郎
○畳職/佐藤七蔵、前原伝吉、青木字右衛門○塗師職/市島徳次郎
○ペンキ職/市川吉兵衛○諸車製造/千葉大助、西賀藤三郎
○瓦職/小林仙右衛門、小林七兵衛○左官職/杉山清吉、田中亀次郎
○煉化職/荒井万平、井上伝吉○煙草職/太田資信
○大工職/西川慎二郎、小林五郎兵衛○活版印刷職/佐久間貞一
○造靴職/大澤省三○彫画職/小林国次郎○形付職/嶋村茂右衛門
○建具/石川千代松○鋳物職/堤元成○経師職/川喜田忠兵衛
○木具指物職/石井亀太郎○鍛冶職/平野富三
○板木職/江川八左衛門、宮田六左衛門
、、、」

『東京日日新聞』(明治24年6月21日付け)





「◎軍靴改良案の提出・・・・・貴族院議員村田経芳氏は軍靴改良に付いての意見に同品改良の見本を添え去七日陸軍省へ提出したるに付き目下同省において審議中なりと云う。」

『読売新聞』(明治24年7月12日付け)







「◎経世新報・・・・・今度元活世界(雑誌)の記者たりし北村〔川崎〕三郎氏が主筆となり発行する経世新報設立の主旨は専ら東洋問題に関する事柄を記載するにありて来月九日第一号を発兌するといふ。」

『東京朝日新聞』(明治24年8月20日付け)






◎軍用靴の改良・・・・・近来府下において製造する護膜引布の品質漸次精良に赴き、殆んど舶来品と甲乙なきまでに進歩したるが、猶昨今試みに彼のズック及び雲斎の両種を原料として之に護膜引きたりしに、案外の上出来にて、夏季の敷物又は座布団杯を製するには最も適当の品なりという。然るに某陸軍会計監督は早くも該品を製靴の材料となさんことに着目し、近頃右護膜引布のズック及び雲斎両種を用いて各々一個の半靴を製し、自ら之を穿ちて運動を試みたりしに、屈伸自在にして且つ定期の保存にも堪ゆべき見込み充分ありを以って、同監督は其の効用を具して、之を陸軍大臣に上申し洽く軍人の使用に供し、遂には現用の革靴を廃せんとの目的を立て、目下二三の当業者を招き、該原料の価格及び製造賃等の打ち合わせの最中なりと聞く。この事愈々実行せらるるにおいては、其の代価の如きは現用革靴の半額にて充分なるべしとの予算にて、保存上のみならず外観も頗る宜しければ、想うに其の使用は軍人社会のみならず、遂には世間一般の嗜好に適し大いに販路を開くに至るべしといふ。」

『東京日日新聞』(明治24年9月12日付け)








◎軍服改良意見・・・・・。」

『読売新聞』(明治24年9月19日付け)










「◎革命新聞・・・・・前号にも記する如く米国にて発行する革命てふ新聞は、治安に妨害ありとて内国にて発売頒布を禁ぜられたるが、今同新聞の経歴を聞くに、去明治二十年の頃より桑港在留日本人の団体たる愛国同盟にて一の機関新聞を発行し之を新日本と名づけたるに、第十六号に至って内国にて発売頒布を禁ぜられたるを以って、之に次いで第十九世紀てふ題号にて発行したる処これまた程なく禁止せられ、次いで自由てふ題号を以って発行したるに、これは稍暫らく続き七十八号まで生存らへたれど遂に禁止の運命を免れず、よって更に革命と改題して発行し、其の第一号は二三日前内地に着したるが、到着早々直に今回の禁止令に逢いたるなりという。」

『東京日日新聞』(明治24年9月26日付け)








◎軍靴随意契約・・・・・従来各官衛において需用物品を購入するに当たっては、かねて規定しある手続きにより広く各商人より入札をもって買い上げるの通則なるが、その物品によっては従来官衛において信用あり、且つ他所において之に匹敵するべき物品なく、その価格もまた予算を超過せざるもののごときは特別なる購入法を用いるも妨げなき事なるが、なかんづく陸海軍にて需要する軍靴は、購入に関し当局者において、すこぶる痛慮する所あり。すでに陸軍省のごときは数年前よりこの点に注意し、種々の考案を回らし、又海軍省においても年来この辺に着目し居りしが、何分購入法を予算に拘束せられ、不本意ながら廉価の品を購入し大抵は保存期限中すでに破損してその用に耐えず、加えるに兵士の靴傷を悩む者多く、すこぶる困難を極める由なるが、是はかの入札法を用いるため信用ある商人等は到底競争しあたわざるを知り自ら残念してこの入札に応ぜず、したがって落札者はおおむね粗造品のみを製造する商人なるをもって、ついにかかる結果を来たせしとの由にて、今度呉鎮守府において軍靴購入につき、随意契約充許の儀を海軍大臣へ伺い出でしよし。」

『東京朝日新聞』(明治24年10月1日付け)







「◎高島嘉右衛門  榊原健吉・・・・・高島氏は横浜開港の率先者、京浜鉄道工事の若き其の功労の著名なるものなり。況や周易に精しく国事問題を占ひ、中らずと雖も遠からずと評判高きにおいてをや。
(榊原氏は撃剣の大先生にて武芸の上より論ずれば功労少なしとせず。)」

『東京日日新聞』(明治24年10月16日付け)








「◎革命第二回の差し押さえ・・・・・米国サンフランシスコにおいて発刊せる雑誌革命第一号は内務大臣より発売禁止の命をこうむり過日来米国より郵送し来れるものはことごとく差し押さえとなりたるが、またまた去る三日サンフランシスコより米国郵船ゲイリック号にて四十二封を送達したるに、前同様直ちに差し押さえになりたりといふ。」

『東京朝日新聞』(明治24年10月6日付け)






◎勅令第221号・・・・・陸軍被服工長学舎中左の通り改正す。
第十二条・・・学生は舎内に居住せしめ修業用品は之を貸與或は支給す。予備役後備役の籍に在る者は糧食被服及び手当金を給す。
勅令第30号・・・陸軍被服工長学舎条例(明治23年3月19日)
第十二条ー陸軍被服工長学舎に居住せしめ諸給與及び修業用品は総て学舎において之を支給す。但し現役の者は俸給食料被服を原隊より学舎に送付せしむ。」

『官報』(明治24年11月17日付け)









◎陸軍に関する勅令・・・・・、、、陸軍被服工長学舎条例中改正(第十二条)の件は何れも昨日の官報(勅令第二百二十一号)を以って公布せられたり。」

『東京日日新聞』(明治24年11月18日付け)









「◎革命の題号を切り抜く・・・・・米国桑港において発刊する雑誌革命は、さきに内務大臣より我が国において発売禁止を命じたるにもかかわらず、その後しばしば郵船に託して送付し来たりたるが、或は横浜郵便局にて差し押さえらるるを慮りての事にや、此の程到着したる四十二封の中には、その題号革命の二字を切り抜きたるもの多かりしという。」

『東京朝日新聞』(明治24年11月18日付け)







◎靴・草鞋(わらじ)比較論・・・・・近日軍人用の靴、草鞋の利害について議論少なからず、今参謀本部の起案に係わる?方の比較論を得たれば左に掲げて論者の参考に供す。
ー靴・草鞋比較論ー
頃日論者あり。我が陸軍の靴を用るを批離し換るに草鞋をもってせんといふ。その要点を聞くに曰く。靴は邦人の慣れざる所なるが故に労働を要するの場合に臨み足痛に堪えず到底戦時の要具となすに足らずと。又曰く。我が国の地形たるや、山川多く靴はその跋渉に適せず古来草鞋の行はれしは地形の然らしむる所なりと。又曰く。平時靴を用ゆるも一朝事起こるに当たりては、之を捨て草鞋を採用するは必然なり。台湾、及び西南の役その顕著なる実例なりと。以上数点の論旨もとより一理なきにあらず。然れども、これ唯靴の不利なる極端と草鞋の利なる極端とのみを挙げ、未だ仔細に両者の利害得失を研究せず。ゆえに直ちにその説の採否を決すること能はず、因って今其利害得失を比較考究するために之を経済補給及び便否等の数項に分かち逐次左に列挙せん。
第一、経済上靴と草鞋の比較
徒歩兵に給する靴一足の定価は一円三十九銭なり。而して一年一名に靴三足三分一(三年十足の割)と靴下八足を支給するをもって定額とす。且つ三足三分の一の靴は一カ年間において少なくも三十銭の修理費なかるべからず。然るときは靴三足三分の一原価を合して価四円九十三銭三厘となり之に靴下八足の価三十八銭四厘(一足価四銭八厘)を加れば合計五円三十一銭七厘なり。之れ即ち靴を支給するに要する一名分の年額なりといえどもその実、古靴の使用すべからざるものは之を売却して一年一人分古靴三足三分の一の売価八銭三厘を得(一足売価二銭五厘の割)るをもって之を控除するときは残金五円二十三銭四厘となる。この金額は即ち靴を支給するに要する一名分の実際年額に該当す。今若し草鞋を支給せんとする時は、一人一日に草鞋一足、十五日間に足袋一足を支給せざるべからず。然るときは一箇年一人の支給額は草鞋三百六十五足(もし数日を保つべき草鞋となすときはこの数を減じ得べしといえども然るときはその代価随って騰上すべければ経理上において大差をみざるべく依って平均一人一日一足を要するものと仮定す)足袋二十四足なり。この草鞋三百六十五足の価三円六十五銭(一足価一銭)草鞋用の足袋二十四足の価三円六十銭(一足価十五銭)合計七円二十五銭は即ち草鞋を支給するに要する一名分の年額なりとす。此七円二十五銭を以って靴及び靴下の価五円二十三銭四厘に比すれば二円零一銭六厘の差額を生ず。この差額は実に草鞋を支給するより生ずる年額の増加なり。この年額の増加を近衛及び六師団における平時定員五万六千二百七十七人(乗馬兵を除き徒歩隊の下士卒)に積算する時は、実に十一万三千四百五十四円四十三銭二厘の巨額に達し、終に軍事費の定額を増加せさるべかざるに至るべし。以上人員の計算は近衛及び師団の下士卒に止め、諸生徒学校及び官庁附属の下士卒を含有せず。ゆえに実際草鞋を支給するに至れば此他尚ほ年額の増加を見るべし。
第二、 戦時補給上の比較
戦時一名の兵は靴二足をもって一戦役に堪ゆるものとし内一足を穿用し他の一足は予備として携帯するを法とす。故に戦時にありては靴は後方より追送するの煩なきのみならず随て戦役間殆ど補給の顧慮を要せざるなり。之に反し草鞋を用ゆるときは少なくも一人一日二足(西南の役の実験による)を要するを以って日々驚くべき多数の草鞋を補給せざるべからず。即ち野戦一師団の兵員一万七千三百四十一人(乗馬兵を除き徒歩隊の下士卒)に供給せんには一日に三万四千六百八十二足を要す。ここにおいてか既に靴に比すれば大いに補給の困難を見る。猶進んでこれを研究するときは師団の運転上において更に大なる困難を来たすを見出すべし、請ふ之を左に述べん。
既に述べたるごとく野戦一師団のために日々要する三万四千六百八十二足の草鞋は到底毎日転戦する地方において得べからざるを以って、師団は自ら之が補給品を携行せざるべからず。今之を携行するものとして幾何の人員及び駄馬即ち軽重の増加を要するやを示すべし。先ず之がためには草鞋の重量を計算するを要す。即ち一足の草鞋少なくも三十匁の重量あり。今野戦一師団のために八日間(師団は糧食八日分を携行するの制なるを以って暫らく其の数による)の補給品を携行せんとすれば一人十六足の比となる。十六足の重量四百八十匁あり。茲に皮相家あり。曰く。重量総に四百八十匁に過ぎず。各自をして携帯せしむる敢えて難しとせざるなりと。この言たるや所謂卓上の議論にして、実際決して行なう可らざるものとす。夫れ今日兵卒の負担する武器装具の重量は既に最大限に達し、又これを増加すべからざるのみならず、草鞋はその体積大なるをもって多数の草鞋は決して各自の携帯を許さざるなり。故に勢い之を?集して数?の荷物となさざるべからず。今一足は之を穿ち他の三足を備急のため携帯せしむるときは兵一人のために後方より運搬すべきものは十二足となる。即ち野戦一師団の兵員一万七千三百四十一人のためには二十万零八千零九十二足にしてその重量実に六千二百四十二貫七百六十匁となる。然るに一馬の堪ゆべき負担量は二十五貫目(戦時駄馬の負担量は二十五貫目を越えざるを規定とす。蓋し経験によるに微?駄馬に在りては此規定の尚ほ重きに過ぐるとの説あり)なるを以って六千二百四十二貫七百六十匁を運搬するには約二百四十九頭の駄馬を要す。又之を指揮し且つ分配を督するためには少なくも職員十五人乗馬十五頭を要し、又二百四十九頭の駄馬を誘導するには之と同数の?重?卒を増加するを要すべし。而して之又増加したる輸卒のためには更に二千九百八十八足の草鞋を要し、及び之を運搬すべき駄馬四頭を要するを以って一師団のためには合計馬匹二百六十八頭人員二百六十八人の増加を要せざるべからず。又この増加人馬を給養するために勢い糧秣駄馬若干を増加せざるべからざるに至る。(その計算は督く之を措く)是豈今日団隊編成の目的ならんや凡そ?もなし得る限りは?重を減少せんことを希?するは世界各国皆然らざるはなし。蓋し?重は軍隊のために必要欠くべからざるものなれども戦闘隊の運動には大なる困難を興ふるものなるをもって実に軍隊の煩累物と称するも亦不可なきなり。此煩累物を適宜に進退し之をもって至要なる軍隊の運動を妨碍することなからしむるごとき困難の条件を予想する時は自ら此煩累物を厭悪するの威覚を生じこれ等の?重を最小限に減ぜんと欲するは実に巳むべからざる所たるを知るべし。加之日々草靴分配のため遠く後方より多数の草靴?重を戦闘隊所在地に招致し適当に之が分配をなさざるべからず。これ等の事業は交戦間?忙の際においては決して容易の業に非ざるなり。若し分配その期を誤るとときは忽ち戦略戦術の機能を妨害し恰も騎兵をして乗馬を失はしめたると同一の結果生じ終に収集すべからざるの勢いに至り敗?の基礎を成形するに至るべきなり。凡そ携行せる?重の物品を適時に兵隊に分配し軍隊の運??重の使用に誤りなからしむるは師兵衛上最大困難の事業なりとす。今仮に吾邦野戦一師団に草鞋供用のため人員二百六十八人馬匹二百六十八頭余の?重を増加したるものとせんか我野戦師団の活動力はこれ等人馬の増加に反比例をなして減少すべし。是猶ほ旅客の荷物愈々多き時は日行里程愈々減縮するに至るがごときものなり。是に由て之を観るときは?重は実に軍隊を束縛するの連鎖なりというも敢えて過言にあらざるを信ずるなり。古兵家の所謂る因糧於。敵も即ち軍隊をして煩累物を可成節減せしめんと欲するより生ぜし言にして実に至言なりというべし。否な実に行軍の原則なりとす。故に今日草鞋のために運用至難なる?重を増加するの不利たるは智者を待たずして知るべきなり。以上述べる所は??八日分の草鞋を携行するに就いての景況なれども軍隊は尚ほ其以上における補給を間断せしむるあたわず。もし夫れ八日以上の事を?るに至れば更に驚くべき困難を見るは勿論なり。因て今暫らく此に止めて其れ以上の事に及ばず。(未完)」

『時事新報』(明治二十四年十二月九日付け)







◎靴・草鞋比較論(続き)・・・・・
第三、 平時における便否
凡そ兵営構造の充備すべき首なる性能は衛生の目的に合すると、規律の整頓を維持し易からしむるに在り。今日の兵営は皆此趣旨に合するの結構なりとす。今兵の穿用を改めて草鞋となすときは忽ち甚だしき不便をみるに至るべし。何ぞや曰く。室内に入るには脱却不便にして出るには又穿用速なるあたわず。且つ兵舎の入り口には脱却せる草鞋堆積しあたかも不潔汚?なる賤民の戸口に異ならざるの奇観を呈し、軍隊の骨髄たる規律も之がためその幾分を消却せらるるに至るの患なきあたわず。加之敗残汚?の草鞋のために兵営の不潔を来たし、終に衛生の目的を害するに至るべきなり。之に反し靴を以って常用する時はまったくこれらの弊害なきのみならず、室内出入りの便あり。清潔を保持するの利あり。その他の便宜殆んど枚挙に堪えざるなり。以上草鞋について論ずる所はただその害の重なるものを挙ぐるに過ぎず既にこの如きの害を見るにおいては、いかなる草鞋論者といえども恐らくはその草鞋の利而己を固執して主張することあたわざるべし。但し草鞋の山川を跋渉する便利に至りては、最も靴より大なるを以って戦時或る場合に在りては之を用ひざるべからず。是においてか左の結論を生ずるなり。
結論、
兵は靴を常用とすべし。然れども戦時靴の不利なる場合には草鞋を採用す。是の結論の旨趣は即ち我が陸軍の今日に採用する所のものにして靴を以って主用とし戦時一足の予備草鞋(可成保存の長きものを選定するは勿論なりとす)を携帯せしむ以多利のの亞?伯隊西班牙の軍隊の如きも亦殆んど我が陸軍と同一の制度にして常用靴の外一足の草鞋(原語sandle 革を以って製す其の状我が国の草鞋に類す。今暫らく草鞋と訳す)を携帯す。夫れ以多利及び西班牙の軍隊既に草鞋の利を知ると雖ども尚ほ靴を以って常用とする所以のもの。蓋し?な上来陳述する理由に基因せずんばあらざるなり。即ち以上の弊害に打ち勝つべき方法を見出さざるに因るものなり。終りに臨み一言すべきものあり。我が国の軍靴は決して今日のものに安ずるにあらず。目下靴の害を去り草鞋の利を有する一種制式の靴を得んと欲し方さに其の研究の半にあり。果たして適当良好の制式を発見するあらば固より之を改正するに於いて敢えて躊躇せざるなり。
靴と草鞋の利害を一目瞭然たらしめんため更に便覧表を制し之に附する左の如し。
靴と草鞋の利害
靴の利
一 保存確実
二 数月間の需用を携行し得る
三 能く外物の刺衝に対して足を保護す
四 穿脱の容易
五 経済に適す(草鞋に比して)
靴の害
一 靴傷を生じ易し
二 国民の習慣に合わず
三 山川跋渉に便ならず
四 製作材料の幾部分を輸入品に仰がざるべからず
草鞋の利
一 国民の習慣に適す
二 山川跋渉に便なり
草鞋の害
一 保存期限の短少
二 数日の需用を携行すること難し
三 外物の刺衝に対し足を保護するあたわず
四 穿脱の不便
五 補充の困難
六 ?重の増加
七 穿換のため行進序列を乱す
八 経済に適せず(靴に比して)
完」


『時事新報』(明治二十四年十二月十三日付け)






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明治25年



  ◎新衆議院議員小伝/北岡文兵君(府下第十区選出)・・・・・君は素と岩瀬性。天保十四年江戸に生る。明治三年に入って北岡家を継ぐ。北岡は三井家に積功の家なり。君是より三井家に仕え明治五年貢米事務を主管して頗る才名あり。七年小野組閉店の事あるに際し君推されて為替会社の長となり遂に負債三百七十万円を完済す。十五年日本銀行監事となり二十三年一朝自説の行なわれざるがために引去し是れより深く自ら?晦したりしが、一昨年鐘淵紡績会社に紛紜あるに当たり君出でて之れが整理の任に当たり短日月を以って遂にその功を奏したり。二十五年遂に第十区に選ばれて衆議院議員となる。」

『朝野新聞』(明治25年2月18日付け)




「◎神戸天津間の初航海・・・・・天津も昨今追々氷解せしをもって日本郵船会社の玄海丸は同地方へ向け初航海をなす由なるが、同船は今二十八日正午横浜を抜錨し神戸に寄港の上来る一日神戸出帆のはずなりという。」

『時事新報』(明治二十五年二月二十八日付け)


「◎在米日本人愛国同盟の運動費寄付・・・・・米国桑港にある日本人愛国同盟の人々は、過般衆議院議員総選挙の時に際し、遥かに本国自由党の運動を助けんがため懇切なる書簡を添え金五十円を板垣総理の許へ送りこしたりと。」

『時事新報』(明治二十五年三月二十七日付け)








「◎府下壮士の現在数・・・・・其の筋において府下に現在する壮士の調査によれば、目下府下に在留する者は合計二千七百余名なるも、実際は六百三十名にて余は何れも仮面壮士なりと云う。」

『国民新聞』(明治25年3月31日付け)




「◎壮士の運動・・・・・過激派壮士団体侠骨倶楽部、労働組、無声館其の他二三団体の壮士等は院外示威運動をなさんとて昨今しきりに奔走中なりという。」

『東京日日新聞』(明治25年5月7日付け)




「◎「愛国」の改良・・・・・去る二十年来在米自由主義者の設立に係る愛国同盟の機関紙「愛国」は是まで石版又は速写機にて刷行し来りしも印刷鮮明を欠き折角の辛労も通読に苦しむの憂いあるより、今回本邦の活字を調製し今十一日の便船にて寄送することになりしと云ふ。」

『国会』(明治25年6月11日付け)










◎朕陸軍縫工靴工入営期限を裁可し茲に之を公布せしむ・・・・・
御名 御?
明治二十五年六月十三日
陸軍大臣 子爵高島 鞆之助 
勅令第四十九号
明治二十五年微募すべき陸軍縫工靴工は来明治二十六年四月一日に入営せしむ。但し疾病犯罪其の他事故により四月一日に入営し難き者及び補欠員は同月三十日までに入営せしむ。」


『官報』(明治25年6月14日)








  ◎勅令・・・・・明治二十五年徴集すべき新兵員数を二万二百人と定むるの件、および陸軍縫工、靴工入営期限を来る二十六年四月一日と定むるの件は、昨日の官報にて公布せられたり。」

『読売新聞』(明治25年6月15日付け)








「、、、邦文活字数十万を購入し来二十三日横浜解覧の
ベルジック号に搭載し、彼地に送達するの
準備巳に成る、、、」

『国会』(明治25年6月17日付け)











「◎品川の大撃剣会・・・・・昨今興行中なる北品川法禅寺境内の花相撲打ち揚げ次第其の場所にて来る七八九の三日間榊原健吉氏外二十名の剣客にて大撃剣会を毎日午前十時より日没迄興行するよし。即ち木戸は大人三銭小人一銭五厘にて飛び入り随意勝った者へは大景物進呈。」

『東京朝日新聞』(明治25年7月5日付け)








「◎剣客娘連の危難を救う・・・・・標題だけを見て置くと小説の発端にでもありそうなり。横浜賑町の小屋にて目下興行中なる名古屋娘連の源氏節へ一昨三日の午後二時ごろ、近所を押し廻す若者十名ばかり何かこの娘連中に関係筋ありて、談判に来たりしより、娘連は驚き恐れ狼狽する内、一人が表へ飛び出して真向かいの小屋にて興行中なる榊原健吉氏の撃剣場へ駆け込み、只今これこれでございますからお助けを願いますと顔色変えての頼みに、居合わせる剣客数名はソレと言ってめいめい竹刀を携え源氏節小屋へ出掛けたので、若者どもは肝を潰し、お面、お突き、お小手、お胴などとヤットウ流にやられて堪るものか逃げろ逃げろと、蜘蛛の子を散らすが如し。」

『東京朝日新聞』(明治25年8月5日付け)













◎軍用靴の製造法・・・・・軍用靴の製造は陸軍部内においてかねて一問題となり、是まで舶来製を模造し又た種々の改良を加えたることありしが、何分革靴のことなれば平常穿き慣れし常備兵には格別の困難もあらざれども、予備兵もしくは後備兵の一時に募集されしものが俄かに之を穿きて忽ちに足痛を起こし歩行さへ出来ざるに至るあり。斯かる兵卒には草鞋を用いるも妨げなき様なれども、其の破れ易き一日に幾足を費やすを以って常に換え草鞋を携帯せしめざる可らず、其の動作に不便にして且つ其の費用も少しとせず。現に北海道の屯田兵は冬時積雪のころには革靴にては堪えざるべしとて、悉く草靴を用いるの成規なるが、却って革靴を用いるよりは不経済を来たす割合なりという位なれば、積雪の時にも又穿き慣れざるものに適するものを製造せんとて段々研究を凝らし、この度靴工学舎において製造したるは専ら西班牙(スペイン)の軍用靴に模し、其の底は麻を巻きて固く締めたるものを用い、上はズックにて宛も長靴の如く深く脛までを投ずる様に製し、別に脚半を用いざる趣向なり。穿き心地は草鞋の如くにしてよく締まり居れば足痛を感ずるの憂いなく、其の保存も頗る永かるべしとなり。この度の大演習において之を試験し、尚ほ屯田兵にも冬時之を使用せしめて果たして好結果を得るあらば、将来は革靴を廃して之に換えることになるべしと。」

『郵便報知新聞』(明治25年9月16日付け)







◎軍用靴の再試験・・・・・陸軍省経理局第二課長内海春?氏が発明せし和洋折衷軍用靴は当春第三師団において試験せし結果によれば、軍用に堪ふべき見込みなきに非ざれど尚一回試験せんとの協議にして、同氏が製作に係わる布製深靴五種を撰び、之を戦用器材審査委員会に提出せしに付き、同委員は数回試験の上いよいよ採用するに決し、不日大嶋同委員長より陸軍大臣へ上申するよしなれば、今回の特別大演習には同靴を使用して再試験をなすことに至るべし。」

『時事新報』(明治25年9月25日付け)









 「◎新兵員数の改正・・・・・明治25年に徴集すべき新兵員数中、縫工は二百二十八人、靴工は百二十人と改定せられたり。」

『読売新聞』(明治25年9月28日付け)







◎軍用馬具と兵隊の靴・・・・・陸軍省にては従来軍用馬具及び兵隊の靴は一切他より購入し居たれど、昨年より兵隊中より造靴皮革業に経験あるものを選抜して同業を練習せしめたるに、今日にては追々熟練して他よりも上等の品を製造するに至りたれば、明年度よりは各軍営共に之を実行するはずなりと。右に要する熟皮は是まで海外より供給を仰ぎ居たるも一朝事あるに際せば不便を感ずる次第なれば、我国の熟皮業者に幾分の保護を與へ同業の発達を計らんとの議もありたる由にて、今度神戸に創立したる熟皮会社、東京の用達会社、桜組に一手買入れの事を特約したりと云ふ。」

『大阪毎日新聞』(明治25年9月29日付け)














◎軍用靴試験実験実地の決定・・・・・前号の本紙上へ掲載せし陸軍省経理局第二課長内海春?氏の発明に係わる軍用靴は、一昨三日の戦用器材審査委員会においていよいよ今度の大演習に試験することに決議したるをもって大嶋同委員長より第一師団長山地中将へ向け同靴数種を選定して通知に及びたるよし。」

『時事新報』(明治25年10月5日付け)




「◎東洋社会党・・・・・賭博律廃止の目的を以って創立せる東洋義勇会は宮地茂平、津田官次郎等百余名の壮士的人物の組織せるものにして、過日来会員を埼玉、茨城等に派出し同志者を募りたる処、賛成者続々あり。大阪、宮城等よりも入会を申し込むものあるを以って、今回全国各地へ遊説員を派出し、甲、常、野の三州を立脚の地と定め、本月下旬を期して東京に大会を開き、東洋社会党と改称して帝国議会に対し賭博律廃止の運動を試み、且つ労働者、鉱業者及び小作人等を保護して、雇主、山主、地主等の圧制を除かん覚悟なりと云う。」

『日出新聞』(明治25年10月7日付け)









◎軍用靴の成績・・・・・この度大演習に試験せるズック製の軍用靴は革底ズック製の足袋なり。軽重縦列の?卒をして之を穿かしめたるが、見たる所は軟らかにして穿き具合のよき様なれども、軍人のはき物として見すぼらしく、如何にも威勢なし。然れどもその実用に適する以上は強いて体裁を問うの暇なかるべきも、其の保存は到底一週間位なるべしと云えば、未だ充分とするに足らず。内海会計監督が巳の穿用として特に製したるを見るに、其の底は麻糸にて作りたる草鞋にして周囲をズックとなし脚半まで編み上げとなり居れり。穿き具合は確かに軟らかなれども其の底を硬くするときは足を痛め、又之を軟らかにすれば保存短く何分適宜に行かざるよし。蓋し軍用靴の問題は地形と気候とに関係するものなれば完全のものを得ることは頗る難しく、現に各国とも未だ満足すべきものを発見せざることなれば、この度の試験成績にても先ず不十分の方なりと云ふ。」

『郵便報知新聞』(明治25年10月30日付け)









◎同盟罷工と同盟休業・・・・・神戸における下駄職工は雇主の賄料を引揚げたるに憤怒して同盟罷工をなさんとし、兵庫神戸の燐寸業者は収支償はずとて同盟休業をなす。之れがために細民の無職に注ぐもの三万人、或るものは盗をなし、或るものは淫を売りて端なく警官の手を煩わす。」

『国民之友』(第169号)





「◎軍隊経済の一進歩(被服工長学舎)・・・・・軍隊の経済は各国共に注意し聊かにても経費を節減し得べきものあれば之を節して他の有益なる事業に充用せんことを工夫しおれることなれば、軍隊の経費は日に進歩を現し兵士の被服より靴、帽子に至るまで軍隊において製造し、利欲をのみ貪らんとする商人輩をして奇利をろうだんせしむるがごときことなきに至りたる国もある由なるが、我が国の軍隊にても数年来各国の模様を視察し之を実地に施行し、その節減し得られるものは之を節して有益なる他の費用に充用せんことを期し、ほとんど各国に対比し敢えて劣るなきの点にまで進歩をなせり。中にも兵士の被服、靴、帽子のごときは会計法において各軍隊と自己経済を許されおるを以て、我が陸軍にては被服工長学舎なる者を設置し之に各隊の兵士中少しく工芸の才あるものを抜擢して入舎せしめ此の処において兵士の被服及び帽子、靴等の製造法を研究せしめ其の卒業したる者は各隊に戻りて其の隊中数名の者は教習し其の隊中の被服、靴、帽子等は一切この数名の兵士において製造するようなさんと今春より其の実施に着手したるに着々その効を奏し、この勢いをもって進歩せば遠からずして軍隊の被服、靴、帽子等は一切商人の手を借らずして自弁し得るに至るべしといえり。而して此の自己経済によりて節減し得たる経費は之をもって戦時に要する被服、靴、帽子等を製造し出帥準備をして知らず知らずの間に完備せしめんことを期せりといえり。これ一方には出帥準備の完成を助け軍隊の経済上非常の利益あるのみならず、戦時においては其の軍隊中に被服、帽子、靴等を修繕せしむるの兵士あるを要すればこの点においても軍隊をして完備ならしめ実に一挙両得のことなりといえり。吾輩はこの事業の速やかに完成するに至らんことを希望するなり。」

『朝野新聞』(明治25年11月5日付け)









◎東洋自由党の結党式・・・・・は昨日正午より江東中村楼において執行せり。今当日の模様を聞くに、最初撃柝をもって始まり、奏楽の中各員席について、先ず準備委員の挨拶あり。それより議事を開きて党議党則を議し、終って奏楽あり。一時休憩の上、更に奏楽の中に式場に着席して、又準備委員の挨拶あり。それより祝辞祝電を朗読し終って祝宴を開き、天皇陛下万歳、東洋自由党万歳と唱え、歓を尽くして散会したりといふ。」

『読売新聞』(明治25年11月7日付け)



◎白梅組と東洋自由党・・・・・白梅組は社会党組織の壮士団体にして、その目的も社会主義に近きものなれば、公然、党則ならびに事務所杯は設置せず、暗々裏に奔走しつつおりしが、今度さらに、東洋自由党の腕となりて運動を試みる事となりしと。」

『読売新聞』(明治25年11月7日付け)





◎広告欄

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『時事新報』(明治25年11月8日付け)

明治22年の秋に城常太郎の招聘で集団渡米した靴工の一人、
飯沼守三の靴店広告

















「◎東洋自由党の大演説会・・・・・同演説会は昨日午後一時より神田錦輝館において開会せり。聴衆無慮三百余名にして、やがて午後二時頃に至り久野初太郎氏開会の趣旨を述べ、次に中島半三郎(内地雑居と労働者)、丸山亥助(仰いで天に訴ふ)、山口重修(第四議会に望む)、福田友作(対外策)、長谷川逸刀(我が党の本領)、鈴木修吾(普通選挙)、濱野昇(皇室の尊栄民権の拡張)、柳内義之進(我が党の進路)、大井憲太郎(東洋自由党)の諸氏交る交る登壇し、或は自由党の代議士組織を非とし、或は改進党が真正の民党にあらずと論じ普通選挙の必要なる所以を述べ、何れも活発にて頗る面白かりし。なかんづく有名なる濱野前代議士が我々も嘗て代議士に挙げられ第一期以来民党の仲間なりしが国会開設せられてより既に三年に及ぶも未だ何等の事業も挙がらず却って?制政治の当時に劣れりとの非国会論は人をして抱腹せしめたり。首領大井憲太郎氏は劈頭に自由、改進の両党を痛罵し、終わりに我が国は侵略主義をもって国是となさざるべからざるを論断せり。大井氏の演説中、聴衆の中にて一言の批評を試むる者ありしが、大井氏の大喝一声、その者を引き出せと令し、三々五々起ち騒ぎて一場の紛?を惹き起さんとせしも、警官の注意にて無事閉会を告げたり。」

『国会』(明治25年11月8日付け)








 「◎白梅組・・・・・壮士団体白梅組、東洋自由党のために働かん。

       『神戸又新日報』(明治25年11月9日付け)







◎独欠文覚・・・・・曰く、脱兎会、曰く、白梅組、左右の翼となりて東洋自由党を助く。本尊は即ち是れ覇気将軍。さしづめ日比谷は那智の滝。独り文覚を欠く。抑々夫子早変をなす乎。」

『東京日日新聞』(明治25年11月9日付け)







◎東洋自由党幹事・・・・・同党の幹事は久貝源一、柳内義之進、大島染之助の三氏に当選せり。」

『東京日日新聞』(明治25年11月9日付け)


※東洋自由党員となった衆議院議員は5人!
(新井章吾、森隆介、飯村丈三郎、外2名)


●新井章吾
平民 農 栃木県下都賀郡吹上村 安政3年2月生まれ

●森隆介
平民 農 茨城県豊田郡宗道村 安政3年10月生まれ

●飯村丈三郎
平民 農 茨城県眞壁郡上妻村 嘉永6年5月生まれ

『衆議院議員名簿』(明治25年)より






◎軍用靴試験の結果・・・・陸軍省経理局第二課長内海春?氏の発明に係わる軍用靴は此の程の大演習に再試験をなしたり。今其の結果如何を聞くに、当初の計画にては三十日間穿かしめて破綻せざるや否やを試験する目的にて、第一師団第一連隊及び第三連隊の兵士へ使用せしめたり。然るに演習日数は各個演習、大演習を併せて二週間許なりしをもって、予定の日数に足らざれば、尚今後の小演習に使用せしめ三十日に達せし上において結果の良否を鑑定することに内定せりといえば未だ成績十分ならざれど今後は知らず。是までの処にては再試験の分、即ち一昨年第三師団下において執行せし大演習に第一回の試験に供せし分は破損せずして至極好結果なるも、靴の内部へ溜滞せし水の排泄せざるより少しく足底を痛めし如くなればとて、尚其の欠点を就て考案中なりといふ。」

『時事新報』(明治25年11月10日付け)








「◎愛国新聞の発売禁止・・・・・桑港在留の本邦人が発行せる「愛国」は昨日発売頒布を禁ぜられたるが、内地においては麻布区飯倉片町、畑下熊野氏方にて発売しつつありし由にて、昨朝麻布警察署より警官出張して現在の分をことごとく差し押さえたり。」

『東京日日新聞』(明治25年11月27日付け)








「◎『愛国』・・・・・大日本愛国同盟の機関として米国桑港第十九世紀新聞社より発刊する『愛国』は、今回発行の第四十六号より大いに改良を加え活版摺りとなして発行したり。然るに是亦治安を妨害するものと認められ、内国において発売頒布するを禁止せられ、之を差し押さふべき旨、昨日内務大臣より省令を発したり。」

『東京朝日新聞』(明治25年11月27日付け)







 

◎第四回帝国議会衆議院記事ー第九章ー請願・・・・・被服工長学舎の請願一通。」

『帝国議会衆議院記事摘要目録』



★第二次伊藤博文内閣員及び枢密院議長

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伊藤博文総理大臣


http://roudouundoumeiji.com/10032316.P1020346.JPG
大山巌陸軍大臣


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仁禮景範海軍大臣


http://roudouundoumeiji.com/10032316.P1020339.JPG
陸奥宗光外務大臣


http://roudouundoumeiji.com/10032316.P1020354.JPG
渡辺国武大蔵大臣


http://roudouundoumeiji.com/10032316.P1020341.JPG
井上馨内務大臣


http://roudouundoumeiji.com/10032316.P1020332.JPG
山縣有朋司法大臣






http://roudouundoumeiji.com/10032316.P1020369.JPG
河野敏鎌文部大臣






http://roudouundoumeiji.com/10032316.P1020382.JPG
後藤象二郎農商務大臣


http://roudouundoumeiji.com/10032316.P1020393.JPG
黒田清隆逓信大臣


http://roudouundoumeiji.com/10032316.P1020343.JPG
大木喬任枢密院議長




★第四帝国議会




http://roudouundoumeiji.com/10061115.P1020649.JPG

衆議院

『東京景色写真版』(江木商店・明治26年)










http://roudouundoumeiji.com/10051614.P1020536.JPG

第四帝国議会の召集光景

「人力車にて黒山高帽に二重合羽を被り二つ折の塗カバンを下げて登院する議員あり、白馬に騎乗して悠然乗り込みたる子爵議員あり、田中正造氏は鼠色の鳥打帽子に二重外套を冠り、、、」





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帝国議会御臨幸之図

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『新撰東京名所図会』














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帝国議会本会議場内部

『東京風景』より









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帝国議会開院式












星亨衆議院議長












林田亀太郎(明治30年、衆議院書記官長に就任)
ー明治20年東京帝国大学政治科卒業ー











陸軍省政府委員・野田豁通
『国民新聞』(明治25年12月25日付け)







12月7日



◎ー衆議院予算委員会ー

(明治25年12月7日午後四時二十九分開議)・・・・・、、、

○主査(加藤政之助君)  軍事費の増額の理由を承りたい。
○政府委員(野田豁通君) 軍事費の増額の三十三万五千何円というものの重なる理由は、、、俸給増加の中には縫靴工の新設に係わる費用も這入っておる。是は従前は被服なり靴なりを市街より買?をしておりましたから、其の費用は是までは被服費に入れありたが、将来縫靴工が製作をなさしむるというために被服費が減じて、俸給等の方に移ってくるという結果から増加をなすのであります。、、、
○(斎藤珪次君) 靴はやはり被服の部分に這入っておりますか。
○政府委員(野田豁通君) 被服に這入っております。
 ○(斎藤珪次君) 先刻長谷場さんからお伺い致しましたように思いまするが、私共のごとき聴きまする、又随分陸軍の内から聴きまするが、値打ちから見るも陸軍で積もってある靴は高いようでありますといえば、保存期限が短いであろうというお説があったように承ります。いったい陸軍で今日お拵へになっておりますものは、やはり入札というような方法でやっておいでになってありますか、又は従来よりの用達に相変わらず命令せられてありますか。
○政府委員(野田豁通君) 元は特殊の物品と陸軍は見解を立ててあるでございます。それは第一保存期限というものが一つありますのと、それと総て陸軍の給與の原則は平時の必要にあらずして、戦時の需用に差支なき様其の製造源を主に求めておるのでございます。そこで一朝需用を充たす時には調?しえる様、常に一ヵ年に何程だけの・・・一日にどれだけの靴の需用には、差支なき製造所を持っておらなければならぬという詮議から致しまして、此目下買い上げてある所は、桜組、即従前の伊勢勝でございます。それから弾製造所、内外用達会社、其の他大塚組とかいうのがありますが、それ等の中から購買することになっております。しかし二十六年度以降は予算にも要求をしております通り、到底此軍用品、斯様な品を市井の職工に需用を求めておるということはどうも不十分である。それで軍隊自らが職工を置いて調製し得ることにして置きませぬと差支を生ずる、ゆえに二十六年度からは各隊に縫工靴工の職工を置きまして、三ヵ年間には漸次その職工を殖して、四ヵ年目からはもう悉皆軍隊の内で製造且つ製作し得るようにするの方針であります。これは靴ばかりでなく、被服の縫裁も同様でございます。
○(斎藤珪次君) 其の軍隊の職工というものは、軍隊において職工となったるものは、兵役期限が切れても、尚ほ職工で置く精神の計画でございますか。
○政府委員(野田豁通君) そうでない、兵役中だけです。
○(斎藤珪次君) すると前のお話に、陸軍の需用は平時にない、戦時の時の必要である、斯ういう上から考えますれば、一時は間に合っても、戦時非常に多数を用便のならない会社は往かぬ、市店は往かない、斯ういうような精神とすれば、兵役に這入っておると平時は職工となっても、戦時などは靴などを拵へておるような騒ぎでない、皆出んならぬということになろう。すると最初の目的と相反する結果は起こりますまいか。且つ又これまで陸軍の様を?じておっても、戦時においては何時でも陸軍の需用だけは確かに値打ちあるもの、即ち通常の値打ちにて売りましょうという契約ありや否や、或は靴は戦時になっては平時より高くなくては差し上げませぬというは、会社の権利に属しておるや否や、又は陸軍の需用だけは平常の値打ちにて何時にても出来るという契約約定が出来ておりますや否や、その辺を・・・
○政府委員(野田豁通君) 前にお話し申した見込みであるからして、軍隊に職工が入用の上、服役三年で之を交換して往くということになりますのでございます。然からざれば職工は願わくは熟練の職工を要するがよろしい。それで願わくは再役の途を取って長く使っていきたいけれども、戦時必要の点があるからして予備に入れ、後備に入れ、そうして戦時の時はそれを召集して、沢山の靴が出来るように人を養ふておかねばなりませぬ。それで三ヵ年の服役間に教えて帰して行るです。又戦時の時には之がどうであるかといえば、今日の定めてある所の軍隊の戦員ではない、此職工は其の外に今日調?をしておる所の被服費を殺いで、今日の軍隊の定員の外に、職工を殖やすだけの費用を増すのである。
○(斎藤珪次君) 製造所を別に拵へるというのですか。
 ○政府委員(野田豁通君) 軍隊戦員の外に、各隊毎に何人という職工を殖やしまして、而して戦時には隊に残って、予備御及び後備の職工を召集して拵へて往くということになります。
○政府委員(児玉源太郎君) 此兵は戦時には軍に出ない。入営の兵隊の計画が三ヶ月です。三ヶ月だけ軍隊の稽古をして、後は皆職工になる。職工となって予備役に移り、後備役に移ります。戦時になれば職工場のある所に兵は往くけれども職工の中に予備後備の兵を呼んで来て、盛んに製造を始めるという一の職工場が連隊の中に出来るのであります。
○(斎藤珪次君) それには原料というものが非常に余計陸軍では買っておかなければ、何時戦争になるか知れぬから、何万何千の靴を造るべき原料を貯めておかなければならぬ結果になりましょう。○政府委員(野田豁通君) 即ち軍隊の委任経理からしまして、そうして平生兵に給してある靴があります。服は勿論の事三ヵ年の服役中に給したものが、本人が帰る時には一装を着て帰る、又経理上から生じるものが、戦時補充用になる計算になっておるのであります。そこで一朝出師の時には補充員も着て往くだけの物には差支無い。宣戦の布告があって後は臨時給與になる金は別に出しますから、それをもって後との被服は揃えて往くのであります。
○(斎藤珪次君) 補充ならば民間の市中に託してやっても、間に合うという御見込みはありませぬか。
○政府委員(野田豁通君) その議論は十分陸軍でも講究を詰めたのであります。然るに被服は先ず従前の甲冑というようなものであります。それで兵の体格に合い、又靴の足に適するのと不適当なためには、大変動作上に関係を及ぼします。それで兵自ら被服を揃えることになれば、其の辺の注意が余程出来るであります。それと是までは市中より一足幾らというもので買い上げになっております。それで十分見本に照らして受け取りはしますけれども、軍隊自らが材料を求めて自分の手で裁縫なり、製造なりすることになれば、余程念を入れて揃えるということがあるから、必ず保存上において大いに違う所があろうと思います。それに最一つは先刻斎藤君の御質疑があるように、恐るべきことが今日見出してきました。それは何かといえば、今日までは市中の製造場にさせて来ましたが、追々西欧流の輸入に従って罷役同盟ということの恐れが起こって来ました。一朝事あるに際し必要の場合に当たって、代価を増加するとか、或は職工が休んでしまうということになると忽ち差支を生じます。故にどうしても軍隊自らこれをしなければなりませぬ。それで先刻御質疑の通り戦時に当たって、沢山な需用を要する場合に当たって、平時の代価で買い上げが出来るや否やということでありましたが、是は出来ぬ。なぜならば製造主は職工が相手で、自分一人でどんな事でもやるなら、堅い約束も出来ますけれども、多人数の職工を要するから約束は出来ぬ故、この点が最も顧慮しなければならぬ訳であります。故に会議を尽くし遂に軍隊においてもなければならぬと決したのであります。軍隊に置くについては随分是までの各製造所は困難である。今まで多人数の職工を養成して、陸軍のために靴なり縫裁なりの職業をしておる者は随分沢山な人であります。これが先ず一寸職を離れるような有様になる。それで一時に之を断行せずして、軍隊の職工を教育する上についても差支があるから、初めには一年に断行するつもりでありましたけれども、先般勅令の改正がありて、三ヵ年に之を完備させるということに改められたのであります。
○(斎藤珪次君) 尚ほ貫聯して伺いますが、従来の因襲、其の他先ず西南の戦争等の実験によれば、実際戦争と云う場合にはどうも靴が適さない、詰まり随意にすれば草鞋を主に穿くと承りますが、升陸軍では其の辺を十分取り調べになったろうと思います、しかし、将来は靴をもって何処までもやらせるという見込みでありますか。
○政府委員(野田豁通君) 今日の目的は其のところにあるのです。今お話通り兵の靴を穿くは先ず入営中だけで、外国などのごとく靴を穿くのが習慣になっていないものでありますから、僅に三ヵ年の常備兵が入営中穿いておるである、此間は差支へないけれども、一旦予備となり郷里に帰ってしまうと、俄かに又靴を穿くようになる時に困る。それで草鞋とか鷹匠足袋のようなものを穿かせると何とか、数年間種々実験しましたが、未だ適当なる品を得ないで苦しんでおります。草鞋にすれば一番適当であります。けれども迚も海外へ兵を出すというような場合には運搬するということになって、どうしても費用が耐えない。それから又代価もかえって靴を穿かせるより余程上がります。折角今日はどうか足の疼の無いように、費用も格別に増加しないように、日本人に適当する様にということで、主任においては種々なる見本を揃へ、演習等の時に経験を致しております。今度の大演習にも名古屋の大演習にも、それを用いまして種々経験を致しております。それで今少しく改良したならば、予備軍や後備軍に穿かせるには、今日の靴より宜しかろうと思う物が今試験中であるのです。之については実に苦しんでおりますのです。」 


『帝国議会衆議院委員会議録 明治篇3』
(東京大学出版会 昭和六十年)



12月12日

◎ー衆議院予算委員会ー

(明治25年12月12日「総会陸軍省ノ部」)・・・・・、、、

○(斎藤珪次君) 陸軍のことに就いて被服費の中の靴のことを一応承りとうございます。陸軍ではこの度縫工靴工というものを置いて靴を製造することも陸軍でやらせる・・・・・、軍隊でやることになります。けれども、それは二十六年度二十七年度二十九年度で完成する、而して二十六年度において三分の二二十七年度に三分の一を外から買い上げるということである。ところで靴の代価が今日陸軍省で買い入れておるものに比すれば、歩兵の靴で一足二十五銭違うとか、或は砲兵の靴で五十八銭違うとか、或は騎兵の靴で七十五銭違うとか、斯様に今日陸軍で誂へておるよりも安く拵えるということをば責任を以って言うておるものがある。処が此間陸軍の政府委員の説によれば左様なものは保存期限が短いからと言っておる。けれども保存期限ということも責任を以ってやるということならば陸軍は之にやらせるが至当だろうと想います。陸軍省は小さな者に誂へると愈々戦時というような時には其の小さい場所では多数の物を造ることができない。故に平生大きな会社に高くともそれから取って置かなければ戦時の時に役に立たないと申しておる。しかしながら其の会社と特約をしてあって戦時にも同様な価で幾らでも出来るように契約でもあるかというと、そういうことは出来ない。又出来べからざることであると先で拒む。なぜならば戦時になれば職工が高く取らなければ拵えないという。果たして然らば特許を陸軍省が今現在一円で出来る靴を一円二十五銭に御用達をさせておく。特許の恩恵を授かることも戦時には其の恩恵に報いるという契約がないという時には、陸軍は何故斯様なことをするか。斯かることをせずとも戦時には矢張り競争によって天下の靴屋から買い上げることが出来ると見れば、平時においても矢張り一銭なり一厘なり安い処の靴屋に命じて拵えさせることが国家経済において最もる至当であると思います。
況や其の靴や保存期限が怪しいと陸軍が言うが、それは唯認定に止まるもので、此靴たる責任を以って同一のものを拵えるといえば之に向かって更に陸軍省が拵えさせるということは経費においても非常に影響を及ぼします。けれども陸軍においては左様なことは出来ない。是までの如く大会社に向かって買い上げるが宜しいという訳でありましょうか。
○政府委員(野田豁通君) 只今の質問についてお答えいたしますが、将来陸軍省の方針は、二十六年より軍隊に靴工縫工の両職工を置きまして、軍隊自ら靴の製作をなし被服も縫裁することを既に勅令を以って定められましたから、其の方針により予算は請求をしておるのであります。故に是までのように市井より購買をすることは三ヵ年後完成しました後は無いことに思召下さい。
○(石田貫之助君) 質問致しますが、しますると従前の代物とこの度陸軍省においてなさるというのは安くなるいう見込みであるか、同様の価格位に付くというのであるか。
○政府委員(野田豁通君) 三ヵ年後完成します以上は今日の予算計算上においては四五万円の残余を生じます積もりであります。経済の点においても利益、第一軍隊において自ら之を製作するということに改めるの必要は、軍隊の被服は昔の甲胄と等しきものでありまして、兵器弾薬についで大切なるものであります。故に軍隊自ら調製します方が確実であります。万一事変に際し多数の品を要します、場合において、日本にも追々西洋の悪弊が輸入しまして罷工同盟等のことが生じまするの恐れあり、故に将来を顧慮し軍隊に差支を生せざる様軍隊自ら調製することにして置く方が必要且つ確実であります。況や費用も減じ・・・・・
○(石田貫之助君) 其の質問ではない。斯うしたら便利になるというような・・・・・
○ 政府委員(野田豁通君) 能くお分かりになるように弁じて置きます。
○(石田貫之助君) そんなことは要らぬのである。是から陸軍においてするにもせよ、今しおる靴と同じ靴にするならば安く付くと見ておるか。高く付くと見ておるか。
○政府委員(野田豁通君) 先にお答え申した通り三ヵ年後には三四万円は安くなります。
○(斉藤珪次君) 私は之は靴代は是非とも減じて置くが宜しかろうと思う。二十六年から陸軍では靴工を置いて靴を製造するにしても、三ヵ年で完成するものであるから三分の一しか作らない。三分の二は他より求めるのである。即ち御用達からして買い入れるものであるが、一円三十五銭位は高い値であって誠に詰まらぬ話であります。故に陸軍省で別に契約も無い以上は一円で出来るものを誂へるが至等だろうと思いますから、人員に割り当てて被服費の中から引去りたいと思います。しかし今算盤が出来ませぬから・・・・・私はそういう意見であります。
○委員長(河野広中君) 其の議論が成り立てば算盤を入れてやるという訳ですか。
○(斉藤珪次君) 左様
○(石田貫之助君) 私も斉藤君の動議に賛成をします。彼の調査のことには我々も尽力しまして確実な調査であります。我々が知らないとか何であるとか知らない所から出したものではない。十分なる経験ある所の者が陸軍においてどういう革を用いどういう料を用いる何処から買い入れるということを実は我々政務調査の上において多少の金を入れて調べたものである。そうすると陸軍で買い入れる靴は不法に高いのである。大いなる商人に任したのは何か契約があるか知らぬけれども、兎に角不法に高い。なぜならば立派な品物が出来上がるのである・・・・・、それ故私は斉藤君の修正に賛成する。
○(中野武営君) 政府委員に質問します。この予算には靴はどれ程に見積もってありますか。その事を委しく・・・・・
○政府委員(野田豁通君) 只今宙には記憶しませぬ。その代価書は過日委員の御手許まで出して置きました。
○(柴四郎君) 私がお答えしましょう。この靴の平均は歩兵の靴は一円三十九銭、砲兵は一円八十八銭一厘、半長靴が三円三十八銭、長靴は五円四十一銭二厘
○委員長(河野広中君) 外に御議論はありませぬか。靴の議論が出ておりますが一つ決をとりましょう。この靴に対しては御聞きの如く斉藤君が・・・・・
○(中野武営君) 只漫然と決すると直ぐに賛成するということになるといけませぬ。調査を待つということになりませぬと。
○委員長(河野広中君) その議論が可決致しますと算盤は後から立てます。
○(中野武営君) その上で当否を言うのでありましょうか。
○委員長(河野広中君) そういかなければなりませぬ。
○(斉藤珪次君) 私の修正しようという相場は、歩兵の分が一足一円、それから工兵の文が一足一円二十四銭、それから砲兵及び軽重兵の靴が二円十七銭、騎兵の靴が二円八十五銭そういう工合でござります。
○(山田東次君) 斉藤君にちょっとお尋ねを致しますが、三分の一をどうするのですか。
○(斉藤珪次君) いや三分の一というのは間違いです。何ぜならば二十六年度の陸軍省は自ら靴を造ることになりますれば三分の一は最早造るのです。故に原案は三分の二です。この靴は残らず減ずる金となります。その靴は歩兵に何足騎兵に何足ということが分っていますから、之によって私の修正の金額を掛けて前の高い分を引去るのです。
○(山田東次君) 三分の一減らすのではないか。
○委員長(河野広中君) 斯う言うんです。柴君のお読みになりました一足当たり一円三十銭或は一円何ぼとかいう其の価を、斉藤君の値の方が安くできるから其の価に修正をするが、当たって見ぬと総金額は分らぬというのです。
○(中野武営君) 一足当たりが極まりませぬと、積算は後でも出来ますが・・・・・尚ほ決の前に政府委員の意見を聴いて置きますが、大変に一足の靴では僅かに五十銭とか二十銭とか乃至一円というものでありますけれども、此夥しい需用をします靴については少なからざる金額と思います。これ等は本年始めて拵える者ではない。多年陸軍省には之を需用しておりますが、実際の所今の陸軍省の見積もりでなければこの靴は出来ないというは、どういうお考えでござりますか。それらの事を一遍伺います。
○政府委員(野田豁通君) この靴のことに就きましては一通り其の来歴を陳べておきますが、抑々日本において今日の靴の斯くの如く製造が出来ましたる起こりというものは、元と明治二年ごろ兵部省設立の際、弾、伊勢勝、この両人が率先して沢山な資本金を入れまして、而して西洋より教師を多人数傭入れましたので、其の当時は陸軍省は兵部省と申した時代でありますが、一ヵ年十万足の契約を結んでありました。故にこの伊勢勝、弾の両家は財産を傾けまして広大なる製造所を起して又数百人の職工生徒を養成し靴の製造に掛かりました。その後段々明治六七年の頃でもありましたろうか、実際十万足の靴というものは陸軍省では入用がないのです。よってこの条約を破りました。而して陸軍省は教師等を解雇せしむるため保護金を貸しあたえまして、爾後両人に対し軍靴は三ヵ年或は五ヵ年なり継続して条約を結んでやり来つておりました。元来陸軍の靴は保存期限の定がありますから、其の原質を精選して何ヶ月を持たねばならぬという定めがあります。それらの関係から致しまして、会計法設置の際におきまして段々考究を致したる上にこの保存期限があり又一方に向きましては事変に際しましては平常と違いまして沢山の需用があります故に、軍靴は平常の需要数のみでありませんで事変に際し其の沢山の靴が何時にても差支なく出来るだけ製造源を陸軍省では拵えて置かねばならぬという必要がありますから致しまして、戦時事変に際しまして其の多数の靴の需用を充たすには、一ヶ月に何万足一ヵ年に何十万足充たすことが出来るという目的を以って職工を養成し、而してそれに応ずる製革所及び製造所を持っておるものと約束を定めて置くのが必要と認め、今日は会計法中特別需用の品種という見込みを以って適当なる製造所に就き買い上げておりましたのです。先刻も申しましたとおり其の職工のことで・・・・・、罷役同盟は既に煉瓦職工なり大工なり・・・・・、靴職人におきましても其の萌がありますのです。故に到底製造所を当てにしておりましては事変等に際して差支等があってはならぬというので、断然陸軍は軍隊で製造するということに今日は方針を取りましたのです。其の代価は今日の所では時価を計り年々幾分か引き下げて参りました。二十六年度は先刻柴君より述べられました通りの代価の予算に申してあります。又是までも代価の事は格外なる廉価にて製作のことを申し出て契約ある製造者の株を奪はんというところからしまして、其の損失にも拘わらず代価は非常に安くして納めんと申し出ました者もあり、それらのものよりも度々試みのために出させ用いましたこともありましたのです。然るにそれ等の者という者は一方に向かって約束をしております者の如く責任がないから、品物が粗悪で保存期だけ持たずして却って不経済になるというようなことで、実際上是まで経験の上で悪結果を見ましたこともあります。そこで陸軍大臣は会計法の範囲内に基づきまして特別使用の目的という条に基づきまして是までやっておりました。右に就きましては検査院の質問もありましたがそれぞれ責任を以って同院にも答弁してあるのです。これ等のことに就きましては陸軍大臣が会計法の範囲内におきまして取り扱っておりましたのですから、この事が会計法の範囲内に適当しておるや否やを乱断するは会計検査院の責任で、是まで往復も致しましたのですから、一通り是までの取り扱いましたことを申して置く訳です。
○(中野武営君) 今一応伺いますが、然らば数年を切って或は年度を期して其の製造人と契約でもしてあるというようなことがありますか。今それを改めるということは其の契約に就いて改めなければならぬという結果もありはせぬかというのです。或は唯改めることが出来るのですか。
○政府委員(野田豁通君) 以前は三ヵ年或は五ヵ年の契約を結んだことがありましたが、目下は一年一年の需用靴に就いて結ぶことになっておりますから・・・・・
○(改野耕三君) この靴のことに就きましては大なる弊害があるということを確かに聴いておりますから、一応この査定に賛成しますが、只今この積算ということは出来ませぬから、この問題は積算をして明朝御出しになることを願います。唯是だけを述べて置きます。
○(犬養毅君) 是はどうですか。この積算書からこの長靴に就いて幾許ということの積算は明朝までに出来ると思いますが、決議だけは只今・・・・・
○(斉藤珪次君) 長靴は五円と見て置けば十分です。
○委員長(河野広中君) 長靴の代が一つ分りませぬが・・・・・
○政府委員(児玉源太郎君) 私は暫らく連隊長を務めておりましたが、其の時分にこの靴の支給を度々見ておりました。で数年前各所の陸軍省から条約を結びました町人から買い入れましたのを受けまする。其の受けまする時分には連隊の中で検査院を立てまして何足は何人と掛かりを極めて其の靴の底を断割りました。断割って見て愈々陸軍省から與へた見本に適つておるものなれば受け取りました。そうでないと受け取りませぬ。処が或は裏から竹の皮が出るとか細かい皮を綴って間に挿入してあるとか種々様々の弊害がありました。遂に百足持ってくる中に半分しか受け取る訳にいかぬというようなことになりました。それから請負人という即ち落札人に競争が度々ありまして、実際其の資力の無い者までが・・・・・、何月何日までに何千足持ってこいというと、それだけの資力を持っておらぬ者までも、競争して来るというような有様になりました・・・・・、到底そういうことになって或る時にそれがために破産をしたようなことまでに至りました。それから段々彼の用達会社とか弾とか桜組とか確かなる製造所を持つ者とか、もしくは期日を誤らずに何千足を何日に持って来いという約束通りに出来るという見込みのある者を以って、陸軍省は条約をしております。それで多少現在靴を軍隊が自ら拵えるという事に就いて、一般の靴職人の間に種々運動する者があるということが耳に這入っておりますが、しかしそれは如何なる事情があるも陸軍においては陸軍自らするという決心でおりました。で其の前から斉藤君の述べられまする靴の代価を安くして、それから安いから其の靴を以って果たして予定しております所の保存期限を持たすことを出来るや否や、亦その検査に当たって或は再び竹の皮が出るものと認めて置かなければならぬことと考えますので、如何にも段々靴のことに就いては弊害があるという御説もございますようでございますが、畢竟今申し述べた有様でございますから宜しく御賢考を願います。
○委員長(河野広中君) それでは決に掛かります。斉藤君のこの靴の説も出ておりますが、一足の値段は長靴を除くの外は出ておりますが長靴が分らぬということであります。兎に角安くなる見込みの斉藤君の話、それで積算は明日にもして出そうと斯ういう説であります。
○(柴四郎君) 斉藤君に質問致して置きますが、この斉藤君の靴が大変安く出来るという御調は確かなものでございましょうが、今陸軍は陸軍自ら靴を拵えるようになれば・・・・・靴の職業をするものが頻りに運動する者が沢山あるという話を聴いておりますが、斉藤君の御調はそういう者から御聴ではございますまいが、どういう所から御調でございますか。一寸それを承って置きたい。
○(斉藤珪次君) それは御答えの限りでない。どういう者が運動しておるかおらないかは知りませぬが、其の様な者から聴いたのではございませぬ。
○(山田東次君) 私は第四科のことを調査したものでありますから一寸斉藤君にお尋ね致して置きます。運動するしないそんなことに関係はないが、其の御調は只陸軍省はそれだけで買えるということを御聴きになったのであるのでございますか。買えるということを陸軍省では・・・・・現に之で買っておるのであるか、買えるそうだというのでありますか。
○(斉藤珪次君) お答え致します。この調は陸軍省は買いつつあるのと私は見ます。内外用達会社は陸軍省の御用達の一人であるから、それで拵える代金がこれこれである、そうして我々がやれば是丈で出来るということは比較を出したものである。其のことは唯話ではないのであって、大阪市の靴製造人で由良小一郎というものが確かに是丈の金額を以ってやれるということの責任を持っての話なんです。
○政府委員(野田豁通君) 只今陸軍で購買を致しております箇所は、先刻も述べます通り弾の製造所とそれに伊勢勝即ち桜組とそれに内外用達会社重にこの三箇所が陸軍の・・・・・従来より購買をしております箇所であります。
○委員長(河野広中君) それでは決に掛かります。
○(長谷場純孝君) 私も四科で調査をしましたから靴のことは政府委員にも聴きましたが、六万余の兵隊に一番に苦痛を感ずるものは靴であろうと思う。又陸軍は平時は固より軍事上の関係から見ましても実に大事なものであると思う。斉藤君の御調は精確のものとは深く信じておるけれども、私は要求通り即ち原案を賛成します。
○委員長(河野広中君) 原案に就いては決を採ろうと思うのですか。
○(杉田定一君) 私は政府委員に質問したい。
○委員長(河野広中君)決になって彼是言われては甚だ困る。それが故に議事の進行を妨げる事になります。
「採決、採決と呼ぶ者あり」
○委員長(河野広中君) 互いに争う場合ではありませぬ。査定をしたに付いて・・・・・それで斉藤君の修正説が出ておりますから、それに御同意の御方は起立。
「起立者少数」
○委員長(河野広中君) 宜しゅうございます。少数でございますから消滅を致しました。それから其の外には別段御異論がありませぬから本案の決します。


『帝国議会衆議院委員会議録 明治篇3』
(東京大学出版会 昭和六十年)







12月14日














◎同盟罷工の計画・・・・・靴職工社会にストライキを企てんとする者ある由。

『よろづ朝報』(明治25年12月14日付け)







◎職工税の増税を論ず・・・・・昨日の福岡県会は左の如く職工税の増税を決議したり。、、、中にも四等税以下の如きは実に下等細民の職業其の多きを占むるにあらずや。靴直し、鋸歯立、鏡研の如き者までも二割五分の増税をなすとは。、、、

『福岡日日新聞』(明治25年12月20日付け)






 [
◎洋服業者の無気力・・・・・陸軍内工長学舎より影響する損害は、靴工よりむしろ洋服業者にその多きを占め居るよしなるが、一人の奮起して之れに応ずるものなきは、いかにも無気力なるものなり。職業が異なれば、かくまで気質が違うものかと、ある人は評せり。]

『大日本教育新聞』(明治25年12月20日付け)











「◎工長学舎に対する各派の意向・・・・・元来我が国政府の官省中、最も整頓したるものは(宮内省は別物として)未だ陸軍省に勝るものなきは皆人の認むる処なるか。這回靴工協会が調査したる工長学舎の組織は、全く政府のなすべきことにあらずして寸毫も利益を認めざれば、尚詳細の調査を遂げて断然反対すべしとのことなり。今この議論の大要を聞くに、(1)徴兵年限を短縮せんとして政府に質問せしとき、政府は「軍隊練習の修熟少なくとも三年を要されば能はず」と云はれたり。而して軍隊練習の外に斯くの如き全計の職業をなさしむるは前後矛盾の所為たる事。(2)政府の工長学舎必要を認めたる理由の一に曰く、精品を得、二に曰く、廉価なり、三に曰く、非常の時に当たって同盟罷工の愁いなしと。これ皆皮想の妄見たるを免れず。何となれば、靴工の成熟は短くも三年の修練を経らずべからず。然るに其の工長として教授する人は僅かに一年の修業に過ぎず?んど精良の製品を得るを得ん。又靴工が常に汲々労力するも尚且つ一家の糊口に足らず。況んや父母妻子の恩愛に励まさるるものと日はば職掌違いにして三年を過ぐれぞ皈農するものにて、原料の濫費時間の空過毫も痛痒損得を感ぜざるものと?れぞや、加之高給の監督高給の教師其の生徒の数と対較せば亦?半に過ぐるものあればなり。又非常の時に当たって同盟罷工の愁いありという。我が国には一種独特の便利を有する草鞋なるものあり。実際の戦場においては之を用い実験数々ありしにあらずや。又如何に靴工等が愛国心に冷淡なればとて国家の危難を奇貨として同盟罷工を企つるものあらんや。これ皆為にする所あるものの為に一時瞞着せられたるには非るか。(3)兵士は身命を国家のために捧ぐるもの。自ら高尚の気概を養成せざるべからず。然るに職工的の練習を為さしむるは其の養成法の本旨に戻るものにして気概あるものの甘んじて熟達を期するものあらんや。(4)兵士は国民が国家に尽すの大義務にして、又未だ之に過ぐるの重税(血税)あらざるなり。又其の年齢は殆も人生尤も大切なる時期生活の方針を定め一定の職業を修就すべきの秋なり。又父母兄弟の心情を察し一家の組織一時変換するものなるを想えば決して兵士に此等職業を練習せしむるに忍びざる事なりと云う。」

『大日本教育新聞』(明治25年12月20日付け)




◎靴工騒動と工業協会・・・・・このたびの騒動についてはかの工業協会なるものは少なからぬ関係あるべしと思い、工業協会会長、佐久間貞一氏を訪ねその意見を聞きたるに、とくより激昂あるの兆しあるにつき、工業協会よりは二、三度忠告を試みたることあれども、中々静まる様子もなきにぞ後は、彼らの意に任せ、協会よりは少しも口を入れざりし。もっとも、かくの如き騒動を起せる内情は忍ぶあたわざる所ありしためなれば、将来労働問題の一参考ともなるべしといえり。」

『都新聞』(明治25年12月23日付け)






◎第四回帝国議会
24日午後1時14分開議
(第一、予算案)
・・・・・、、、

○大島信君(六十九番) 政府委員に質問を致したい。
○議長(星亨君) 質問ですか。
○大島信君(六十九番) 質問がしたいのです。質問を致したいということは他のことではないのです。陸軍兵の要する所のその靴の件である。此靴の一事については近頃種々の風説が新聞紙上に現れ来っておるのである。この風説によると、陸軍兵卒の用いる所の靴は陸軍省内において之が供給をなすということを計画をなしてあるや、勿論風説であるが、はたして此靴製造のことは、陸軍において計画をしておるという事実があるや否や、この事実があるとしたならば、之をこれまで普通一般の商人に托して、職工に托して製造した所の得失と之を比較したならば、いずれが経済上において利益なるや、事実の有無とあわせてこの二点を伺っておきたいのであります。
(政府委員陸軍省経理局長陸軍監督長野田豁通君演壇に登る。)
○政府委員(野田豁通君) 六十九番に一応お尋ね致しますが、少し御問の要点を得ませなかったが、今一応どうぞ伺いたい。
○大島信君(六十九番) 陸軍省の用いる所の靴でございます。この靴の供給のことをば是より陸軍省内において企図したるという所の風説が追々新聞紙上に現れておるのである。そうしてはたして此事実があるや否や、之を事実としたならば是まで一般の職工に托して製造した所の得失と之を比較して経済上の利益如何、この点であるのであります。
○政府委員(野田豁通君) わかりました。然るにただ今お尋ねの靴のことは既に決議し了りました。軍事費被服の項でありますが、然るに是は風説ではありませぬ。即ち提出を致してある所の予算中に要求してありまするのであります。然るにこの事につきまして過日来、各新聞でも種々な事柄を掲げ、既に外国新聞までも掲載するような次第に立ち至り、又両三日前は本院の門前に多数の職工も来って歎願をなしたような次第であります。故に本官はこの屯田兵の事柄に関係するのではありませぬけれども、この場合におきましては十分に御答えを致し、第一に諸君に陸軍省より要求致しましたる点がはたして必要であるということについては、既に議決にはなりましたけれども、是は一般に公に致しておくということは極く必要でございますからして、ただ今のお答えに対しましては或はお答え外に渉るかも知れませんが、十分のお答えを致しとう思いますからして暫らくの間の、、、

○議長(星亨君) 少しお待ち下さい。六十九番のお聞きになったのは既に決議したことで、政府委員は何れの時でも言うことはできますけれども、向こうの問いにお答えになるのでありますから、問いが既に許されないとすれば議長は許すことはできない。願わくばもし万一議場が聞きたいということならば、簡単に遣って下さればよろしい。さもないと特にご要求になるならば格別、質問としては少し困ります。
○政府委員(野田豁通君) 然らばどうでございましょうか、この事については大分世間でも疑いがあろうと思いますから致しまして、どうか十分か二十分の間要領だけを述べておきたいと存じまするが、どうでござりましょう、
(遣るべし遣るべしと呼ぶ声あり、五分に願いますと呼ぶ声あり、今聴くの必要なしと呼ぶ声あり、拝聴しましょうと呼ぶ声あり。)
○政府委員(野田豁通君) 然らば要領だけを極く簡単に申し上げます。
○議長(星亨君) つまり是は政府委員の要求として述べえることに議長は認める、即ち問いに答えるということは認めない。
(時間に制限はないと呼ぶ者あり。
○大島信君(六十九番) 質問に対しての答弁でない、別に政府委員の要求して更に述べらるるということならば、どうか簡単でなく十分に述べらるることを希望いたします。
○政府委員(野田豁通君) なるべく時間を費やしませぬように要領を述べますでありましょう。軍隊に此靴工の職工を置くといいますのは何ぞ今日に始まったのではないのでございます。是は軍隊編制上の上におきまして既に職工というものは置く事になっておりましたのが、今日までは未だ其の組織が成り立たず人員等の決定せぬ所から致しまして、今日までは置いてなかったでございます。之を二十六年度より愈々軍隊に職工を置いて自ら軍隊の靴を揃えるということになった。其の必要は如何であるかといえば其の要領は軍事上の必要より起こったものと言わねばなりませぬ。軍事上の必要という所を簡単に述べますれば、元来軍事の給與は平時の目的にあらずして戦時給與を完全せしむるというのが主眼であります。よって今日までは市井の職工即ち製造所よりして靴を買収しておりました。けれども被服というものは軍需中兵器弾薬に次ぎまして最も必要なるものである。故に民業の供給を頼まずして戦時給與を確実完全ならしむるためには、軍隊自ら之を造るの方法を計画せねばならぬという場合に至ったのであります。で又一の論者は軍事上の必要と言うけれども現に十年の役其の他演習のごときには草鞋を用いるではないか、然るに軍事上の必要とは何事かと言いますが、決して今日陸軍の戦時に用ふるものは草鞋ではありませぬ。靴を用ひるという目的でであります。如何となれば草鞋を用ひることになりますれば、草鞋のみで用をなしませぬから致しまして足袋を用ひなければならぬ。足袋と草鞋を用いるという計算から割り出しますれば服役三ヵ年の間には八円ほど靴より高くなります。故に平時といえども草鞋を用いるということは得策ではありませぬのです。又軍隊は内乱鎮圧が主ではありませぬ。専ら外寇防御が重なるものでありますから致しまして、陸軍の靴を供給します上に就きましても即ち海外出師の上に就いて準備をなして置かねばなりませぬ。之をなして置きませぬには一師団の兵を海外に出すと致しまして、其の全員二万五千として、兵一人につき晴雨平均二足を給與を致すとしますれば、一ヶ月には百五十万足の草鞋を要します。之を海運しますには千トン内外の舟を要するに至るのでありますからして、到底草鞋ということは出来ぬのであります。故に今日は是非靴を用いるというの目的であります。しかし今日の靴が果たして日本人の足に適するや否やということについては決して今日の靴をもって満足はいたしませぬ。尚ほ足の痛みが少ないように且つ費用も減ずるように又保存によろしきようにこの上十分改良を加えることは、当局者も最も意を用いております所でありますのです。段々この事については十分なる説明を致したいことでありますけれども、今日の時間は最も必要な場合でございますから致しまして、要領即ち軍事上の必要から起こり止むを得ず軍隊自ら靴を製作せねばならぬという場合になったということだけ述べて置きます。」

『第四回帝国議会議事録』




「◎第四回帝国議会24日午後1時14分開議(第一、予算案)
・・・・・、、、○政府委員(野田豁通君) わかりました。
然るにただ今お尋ねの靴のことは既に決議し了りました。
軍事費被服の項でありますが、然るに是は風説ではありませぬ。
即ち提出を致してある所の予算中に要求してありまするのであります。
然るにこの事につきまして過日来、各新聞でも種々な事柄を掲げ、
既に外国新聞までも掲載するような次第に立ち至り、
又両三日前は本院の門前に多数の職工も来って
歎願をなしたような次第であります。、、、」

『第四回帝国議会議事録』




THE SHOEMAKERS AT THE DIET・・・・・The House of Representatives was besieged on the 21st instant at about 1.30p.m., by a party of shoemakers about 150 strong, demanding an interview with the President. In the Budget now under discussion in the Lower House, the Government has included an appropriation for the establishment of a shoe factory to teach the soldiers how to make their own shoes and boots. Should this appropriation be granted thousands of shoemakers expect to be thrown out of employment. The excitement prevailing among them may well be imagined. They accordingly presented a petition to the Diet some time ago, and have subsequently been seeking interviews with the principal members. But the latter are said to have received them very coldly. Growing desperate at last, they mustered their forces on the 21st and proceeded to the Diet to enforce their petition by a public demonstration.....the first of its kind organised in japan. The President being occupied by his duties in the House, instructed his able subordinate, Mr. Hayashida Kamesaburo, a Secretary of the House, to ask what was wanted. Mr. Hayashida, perceiving that the shoemakers were making a demonstration of their strength, peremptorily refused to have anything to do with them unless they dispersed and left a few representatives only. After some difficulty, his firm attitude prevailed, and the crowd gradually melted away, leaving only six of their number headed by a man named Iwase Teizaburo. These six were then admitted into the House, and laid their case before the Secretary. They bitterly complained of the indifference shown to their case by the members of the Diet whom they had interviewed. They said that, if the measure proposed by the Government were conducive to the benefit of the people in general, they would not oppose its consummation, however much their private interests might be affected. But they were firmly convinced that it could not be productive of any good. The Authorities, citing a case that once happened in Germany, maintain that there is danger of a shoemakers, strike in time of war. But the representatives of the shoemakers were informed that there had never been an instance of such a strike in any country except the one quoted. Moreover, in this empire there is little likelihood of shoes being used in time of war, straw sandals having been proved to be better adapted to the requirements of Japanese troops on campaign. Hence, the shoemakers contended that from this point of view there was no reason for the establishment of a special shoe factory in the Army. In respect of economy, too, the measure was of doubtful expediency. At present 170000 pairs of shoes are annually required in the Army, and the authorities state that, if these shoes are made by the soldiers themselves, the cost per pair, which is now 1 yen 39 sen, may be cut down to 1 yen. The shoemakers, representatives strongly doubted the accuracy of this estimate. They said that, in their case, they had to pass 5 or 6 years in apprenticeship before they could become even tolerably good hands. How then could a soldier be expected to make good shoes during his three years, active service ? The shoes thus made must necessarily be of unferior workmanship, so that where two pairs are now sufficient, it would be then become necessary to have three. Moreover, the original materials are to be supplied by the goyo shonin officially patronized merchants as usual, and they know how to supply such things at figures very lucrative to themselves. Altogether, in the opinion of the shoemakers, the proposed innovation is exceedingly ill judged, being simply calculated to bring distress on thousands of honest and good workmen, without contributing to public economy in the slightest degree. They requested that the president of the House would kindly take the trouble to acquaint the members with the views they had thus far expressed. On departing they left a large package of closely printed sheets to be distributed among the members of the House. These documents, signed by about 20 shoemakers now in America point out the inexpediency of the contemplated measure, and pray that the members of the Diet will use their influence to avert a calamity needlessly impending over thousands of poor workmen. The documents had been printed at the office of the Japanese newspaper, AikokuPatriotism, in SanFrancisco.

☆☆☆

It must be mentioned, in justice to the shoemakers who made the above demonstration, that they refrained from any violent or disorderly conduct. They were as respectably dressed as their humble means could afford, some even wearing haori and hakama and they behaved with perfect propriety. It is impossible not to sympathise with their case.


THE JAPAN WEEKLY MAIL』(明治25年12月24日付け)







THE SHOEMAKERS DEMONSTRATION・・・・・The shoemakers who assembled recently, to the number of 150, at the House of Representatives to emphasize their protest against the Government,s intention of teaching the Army how to make its own foot-gear, have had to pay for their demonstration. The law forbids such gatherings unless due notice be given and permission obtained from the police. The shoemakers doubtless understood that their action was unlawful. But they also understood that to follow the procedure prescribed by the Regulations would have involved abandoning the demonstration, for assuredly the police would not have given them leave to march in force to the House of Representatives. At all events they have suffered for their act. Summoned before the Tokyo Local Court, two of them were sentenced, on the 27th instant, to pay fines of 12,50 yen each, eleven mulcted in sums of 10 yen each, and the rest were acquitted. Whether the demonstration was intrinsically worth 135 yen, is a doubtful question. If the Authorities have made up their minds, after due investigation, that the interests of the country will be best served by organizing boot and shoe manufactories entirely under military control and with soldier operatives, the apparition of 150 protesting shoemakers at the doors of the House of Representatives is not likely to deter them.

THE JAPAN WEEKLY MAIL』(明治25年12月31日付け)

【横浜開港資料館所蔵】


















明治26年

◎明治二十五年中記事摘要・・・・・十二月二十一日・・・靴工衆議院に押寄す。」

『やまと新聞』(明治26年1月2日)









◎軍隊と靴工・・・・・軍隊に靴工を置くの制は、二十六年度より之を施行せんとす。是れ物数奇の至りなり。御用新聞は、当局者の意見として其の理由説明して曰く。

「軍靴を軍隊において製作するの必要は軍隊給養の目的を全うし戦時の供給を確実完全ならしむるに外ならず、此の目安を以って割り出す時は靴工を軍隊に置くは軍隊の運動、民業の供給如何に検束せらるるの恐れ無く、如何なる場合といえども戦時の需要に差支えを生ずるの憂い無きを得可きなり。然るに世には陸軍省のこの処置を攻撃する者ありて曰く。我が陸軍は戦時に靴を用いずして草鞋を使用せるにあらずやと。是れ甚だしき誤りなり。我が陸軍の如き海外出戦軍には到底草鞋の供給をなすこと難し。故に当局者は飽くまで靴を以って給養するの目的なり。併し今日の靴を以って完全無欠のものとは思惟せざるが故に、漸次に改良を加えて善美のものたらしめんがためには当局者も全力を尽して研究に従事しつつあるなり。」

我が陸軍は、戦時には必ず草鞋を用ゆ。靴を用いざるなり。然らば内国の戦争、即ち内乱のみならず、外敵と内地に戦う場合には、総て草鞋を用ゆ可きは慣行上巳に然りとなす。然らば当局者の所謂軍隊給養の目的を全うするというは、只海を超えて外国に踏み込みたる軍隊の給養の目的を全うするというの意味のみ。内国に在る軍隊の給養に就いては、軍隊に靴工を置くの必要全く之れなしと謂わざるべからず。当局者の所謂戦時の供給を確実完全からしむるというは、亦是れ外国の土地において、戦うの場合に供給を確実にするというの意味のみ。内国に於ける戦争に際して、軍隊に靴工を置くの必要全く之れなしと謂わざるべからず。もし万一戦争起こるとせば、内地外地何れに起こる可き乎。吾人の見る所を以ってすれば外地において戦う可き場合の生ずるは、特別の特別なる場合なる可しと思はざる也。もし斯かる場合起こりたる時には、臨時に民間の靴工中より適当のものを徴収して、軍隊に附して可也。是れにて十分間に合う也。決して今日より此の特別の場合に応ずるの空準備をなすに及ばざるなり。内地の戦争に靴を用ゆるとせば、軍隊に靴工を置くも強ち無理とはいふ可らず。只当局者の所謂海外出戦軍に供給するために、幾百の靴工の職を奪うは、決して遠見あり識慮ある所作にあらざるなり。」

『国民之友』(明治26年1月3日 第177号)




◎時事日記・・・・・二十一日、靴工同盟して下院議長に請願する所あり。」

『国民之友』(明治26年1月3日 第177号)










◎日本労働協会・・・・・すでに、府下靴工有志者の組織に係る東京靴工協会員三百余名には、不日同会に加盟して大いに運動する所あらんとすと云へり。」

『新東洋』(明治26年1月9日 第十四号)






◎時事摘要・・・・・十二月二十一日・・・靴工百五十人衆議院に迫る。十二月二十七日・・・府下靴工協会委員は集会政社違犯の廉を以って罰せらる。」

『精神』(明治26年1月10日 第十九号)








◎靴職工陸軍大臣に迫らんとす・・・・・陸軍に靴工隊を設置することとなりしに反激して府下二三の靴製造所の職工同盟して旧臘衆議院に迫りし事は人の知る所なり。而して之れを彼等が運動の第一回と為す。爾来弾、用達会社等の職工にして右の団体に加盟し居たるものの内、大いに悟る所ありて盟約を脱せし者も少なからざる由なるが、残る職工等は遠からず第二回の運動を始め、今回は陸軍大臣に迫りて靴工隊設置の議に反対せんとて、旧臘来二三の重立てる輩は頻りに東西を奔走して運動費の募集に従事し居るとか。」

『東京日日新聞』(明治26年1月11日付け)






◎靴工の騒ぎ静穏に帰す・・・・・頃日、靴工数百名、陸軍靴工養成所新設の一件に関し、隊伍を組んで衆議院に押し寄せんとするより、遂に其の張本人と認められし十四名は集会条例違反者として罰せられたるもののうち三名は北岡組の職工なるに就き、同組合においては組合規則違反者なりとて夫々解雇の手続きに及びしかば、数多の躍起靴工連は解雇者の復職を請はんがため、同組合に向かってしきりに談判するところありしも、其の多くは前非を後悔して躍起の組織せる靴工協会を脱し昨今其の業に就き、一時世人の注意を引きたる靴工の騒ぎも全たく静穏に帰しけるとなり。」

『中外商業新報』(明治26年1月18日付け 欄外記事)
















広告欄」

『よろづ朝報』(明治26年1月15日付け)







桜組靴工の分離・・・・・府下桜組の靴工にしてかつて東京靴工協会に入り陸軍工長学舎廃止の運動に従事せるもの今や袂を連ねて脱会せり。嗚呼、彼輩新聞紙上に広告して曰く。大いに悟る所ありて脱会すと。借問す。大いに悟る所とは、はたして何事ぞ。雇主の威嚇に恐れたるか。運動の困難なるに落膽したるか。始めは脱兎のごとく終りは処女のごとき挙動、余輩は断じて其の不可を言はんと欲す。」(執筆者:柳内義之進)

『新東洋』(第十五号 明治26年1月16日)











靴工協会退会及謝罪広告・・・・・一我等客年東京来靴工協会賛成員に加盟の処、今回内外用達会社へ対し大に申訳なき次第なるを悟る処より更に同協会を退会する者なり。為めに内外用達会社へは従来失誤たりし連印詫書差出すも、尚今後該会に関係なきことを為念茲に新聞紙を以て辱知諸君に稟告す。

京橋区築地三丁目十三番地

内外用達会社製靴工場内

宮崎富五郎
片岡良吉
外十八名

明治二十六年一月十五日」

『東京朝日新聞』(明治26年1月18日付け)





















脱会広告・・・・・
拙者共儀客年店主の承諾をも経ず靴工協会へ加盟の処、大に前非を悔悟し、茲に該会を脱す。依て此段辱知諸君に稟告す。

東京市芝区露月町二十四番地

靴店  大塚岩次郎方

職工  海上光之助
外二十名」


『時事新報』(明治26年2月6日付け)














◎陸軍省の出品・・・・・同省が米国シカゴ大博覧会に軍事衛生器械及び工長学舎の製作に係わる陸軍軍人服装模型を出陳することは嘗て報じたるが、この服装模型なるものは絵図と立像の二種に分ち、立像には中将、歩兵大尉、騎兵少尉、曹長及び一等兵卒の五個あり。何れも丈け五尺余りの人体に模したる木彫の立像にて、正服を着せるあり、軍服を着せるありて、軍人服装の模型としては甚だ巧みに出来上がり居れり。右の立像に洩れたる大将、佐官、各種の兵士等の服装は集めて一幅の絵図に作り、各々詳細なる説明を附して出品するとのことなるが、右服装の原料は正帽の飾毛を除くの外何れも国内品を以って調製したるものの由にて、昨日は荷作りの都合もあり、工長学舎より陸軍省に取り寄せ、一室に飾り付けて官吏、兵士等の観覧を許したり。」

『東京日日新聞』(明治26年2月7日付け)














請願委員会議録・・・・・明治二十六年二月十六日午前第十時二十分開会。

出席委員

高田早苗君、山田泰造君、堅田少輔君、立石岐君、浅香克孝君、永井松右衛門君、井上彦左衛門君、

委員長は出席委員定数に満たさるを以って協議会を開き調査の上欠席委員の意見を諮ひ異議なきを以って左の件々を決定せり。

左の請願は審査の上院議に付するを要せるものと決議せり。

一、被服工長学舎の件 第二三六〇号


『衆議院委員会会議録』(第三冊・第四回)


集会政社法控訴公判・・・・・靴工協会の職工伊藤金太郎外十三名が客年十二月二十一日衆議院に赴き軍人用の靴を陸軍省において製造すべしとする政府提出の議案を否決せしめんがため運動したるは集会政社法違反なりとて右の十三名は本年一月七日京橋区裁判所において十円ないし十二円五十銭の罰金に処せられたる内、十一名は服罪、伊藤金太郎外三名は右の裁判を不当とし東京地方裁判所へ控訴中の処、昨日同衛において代言人立川雲平氏の弁護にて控訴の弁論を開き即日結審、来る二十八日裁判宣告あるはずなり。」

『朝野新聞』(明治26年2月26日付け)







裁判宣告・・・・・靴工協会の職工伊藤金太郎外三名の集会政社法違反控訴事件は東京地方裁判所にて裁判宣告ある由。」

『よろづ朝報』(明治26年2月28日付け)







トップページ







◎集会政社法違反(伊藤貞次郎外三名)・・・・・靴工協会の委員伊藤貞次郎外三名が集会政社法の控訴事件は昨日東京地方裁判所において裁判宣告あるはずなりしも、陪席判事欠席のため来六日に延期せり。」

『中外商業新報』(明治26年3月1日付け)





◎集会及び政社法違反事件の控訴・・・・・靴工協会委員、葛原安三、伊藤金太郎、川本常三、町井義武の四名がかつて集会政社法違反事件につき麹町区裁判所にて罰金十二円五十銭に処せられしを不当とし控訴したるところ、昨日東京地方裁判所にて原裁判を取り消しいづれも無罪を言い渡したり。」

『よろづ朝報』(明治26年3月7日付け)






◎靴工協会員の無罪・・・・・東京銀座二丁目の靴工協会員、葛原安三、伊藤金太郎、川本常三、町井義武の四名が陸軍兵卒製靴の件につき請願のため多人数衆議院に押し寄せたるは集会政社法違反なりとて、先に京橋区裁判所において罰金の刑に処せられしを不当とし東京地方裁判所に上訴せしが、一昨日同衛は前裁判を取り消し各無罪の言い渡しをなしたり。」

『扶桑新聞』(明治26年3月8日付け  名古屋)













◎造靴組合総会・・・・・本日開会終わって懇親会あるはず。」

『中外商業新報』(明治26年3月15日付け)

















◎靴工隊と糧餉部設置の事・・・・・先に陸軍省に在て開会したる各師団監督部長会議において其の設置の方針を決定したる靴工隊及び糧愈々来る四月一日の年度替より施設せらるることなるが、其の手続きの一斑を聞くに、全国の各隊に設置す可き靴工隊は予て工長学舎において養成したる工長(下士官)を選抜して之を教官となし、各隊に分配して先ず兵を教習せしめ、以って漸次に完全なる靴工隊を作るに在り。而して糧は軍隊給養上の最要機関にして、今之を各隊に施設するに当たり、当局者が最も慎重なる注意を加ふ可きは吏員の選抜如何に在れば、軍吏中最も適任者と認む可きものを精選して之れが部長に充つるはずなりといふ。」

『東京日日新聞』(明治26年3月18日付け)










 




















★紳商(御用製靴商人)あれこれ




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陸軍省と資本家との癒着を風刺

◎大倉の私服を肥す・・・・・東北の饑饉地へ払い下げの交渉をした営口の軍用米は僅な事で大倉へ落札した。陸軍省が恨めしいと餓死の際の愚痴。」『東京パック』

『近代百年史』より





「◎叱●紳商を叱す・・・・・世に一種狡猾奸?を以て満たさるるの徒あり。俗是を呼んで紳商という。西哲曰く。不正の手段を以て不徳義の行為を以て他の財を誘取するものは仮令一時社会の上流にあるも是れ姦邪小人といわずして何ぞ。彼れ紳商なるもの蓋しこれ等の徒のみ。紳商よ、咄汝は何物か。嘗てその始め素寒貧なるやみだりに官辺の縁を求め出入腰を屈し、阿諛??至らざるなく、漸く一方の官用を受け廉価なる価品を購入し是を高価に売却し、人を欺きて利を奪い悪盛て運強しといふ諺に違はず、却って広壮の宅に住居すべき僥倖の人となる。ここにおいて、ますます其の?間的を逞ふし美姫を献じて他が魂を柔化し、佳酒を奉りて他を魔酔せしめ、貪欲なる佞口より追従の?徳を唱へ私に寝席において姫をして自家か希望を鶯舌より説かしむる等百方の策行はざるなく、ますます其の毒を逞ふして遂に巨額の富を?取し去て又昔時の素町人にあらず其の邸宅を壮麗にし、其の庭園を?酒にし、美妾の雲髪を乱し銀盃の狼藉に伏し豪華千金他の貧民を一睨して曰く。賤しむべし貧民と。慈情の一点あるなく、欲?太人よりもはなはだし。嗚呼人面獣心の紳商天下心魂あるの人?か?般の行為を憎まざらむや。汝等が肉を喰うの心なからんや。聞く。昔時左の一話あり。向島において一別業を持す紳商あり。この紳商の邸や広大にして、室数幾何知るべからず。而して其の室や暗?不明なり。一夜都下の貴人を招く宴?にして貴客をして強いて意中にある美妃を携えて彼の不明の室に入らしむ。暁に至って客忙然美妃と私に去る。美妃は蓋し紳商の邸これ等のために常に養う所なりと。嗚呼、これ何等の手段ぞ。吾人これを謂に忍びず、試しに活眼を以て現時滔々たる天下を一視せば、紳商と称するの徒多く、これ奸??邪器の盗賊のみ。盗賊却って社会の上流にあって俗の尊敬を受け、属の羨望する処となる?何物の?ぞ。却ってこの事理反戻しの現象を出すか。それ吾人に一片?々の鉄魂あり。叱つ、汝紳商の頭蓋を打砕し、以て天下の正人と共に満足せんとす。叱紳商、叱紳商。

『中正日報』(明治24年4月5日付け)


http://roudouundoumeiji.com/09072509.P1050928.JPG
ビゴー作

普段は殿様気取りの御用商人も、
政治家の前では、米つきバッタのようにペコペコ。

「議員さま、つまらぬ物ですが、どうぞお収め下さいませ。・・・・・
お仕事のご用命は、引き続き、私どもに是非ともお任せくださいませ。」

「米高く貧苦に迫る細民を、三菱杯は何もイワザリ(岩崎)。大蔵(大倉)に米は沢山ありながら、人にやるのはトント、シブサワ(渋沢)」

『教育時論』(第四百五十四号・明治30年11月25日)








「◎大倉喜八郎・・・・・の向島の別荘多くの阿嬌を貯へて当路の官人を抱き込むも、今の経理局長外松は頑固で、この手が利かず、番頭手こずって、大倉に言上すると、大倉、冷笑して、天下に黄力と魔力と女菩薩の済度で成仏しないヤツがあるか、外松がもし、この頑固を言い張ると、彼の位置は一年ならずして危うくなると、これでは、官吏も台無し。」

『神戸又新日報』(明治34年8月25日付け)





◎西村勝三病中貸金の證書を焼く・・・・・西村勝三、維新の初め靴の需用日に夥多なるに拘わらず専ら之を外国に仰ぐは経済上得策にあらざるを感じ、苦心経営し、ために負債積んで山のごとくならんとす。明治七年病を得て甚だ危篤なり。医師その全癒すべからざるを云い、勝三も亦且つ黄泉の人たるを思い、即ち知友岡田平蔵を招き、後事を托して曰く。余が命既に旦夕に迫れり。正に後事を托すべき秋なり。余が産は微にして負債山積す。請ふ君余に代わりて余の財産全部を売却し、もって余が返済の義を終らんことを。然れども貸し付けたる金員は一厘たりとも無きものとして計算せよと。之を決算せしに負債二十九万円に上がり而して資産わずか五万円に過ぎず。しかも其の貸し金は多くは官吏、旧知己貧困者もしくは旧藩士等にして之を請求せば、ために彼らの困難を来たし旧誼に悖るの事を生ずべきを思い、而して又死後或は遺族の彼等に請求することあらんを恐れ、負債者を病床に招き、理由を告げ、一々其の面前に證書を焼尽す。負債者、落涙其の恩義深く且つ至れるに感ぜざるなし。」

『実業家奇聞録』(実業之日本社 明治三十三年十一月)






◎西村勝造獄裡の長者となる・・・・・徳川氏の制頗る朱の売買を制限し、朱座設けて金銀両座と並び立たしめたり。西村勝造の初め江戸に出づるや、私に朱座を利用して万金を儲けるの野心あり。横浜の外商に接近して大いに外産の朱を密売し、朱座の制限を犯して一挙に数千金を得たり。既にして事発覚し、捕われて伝馬町の獄に投ぜられ、家財概ねに没収せらる。勝造私かに以為く地獄の沙汰も金次第と聞く。吾今黄白乏しふして外に助くる信友なし。獄裏の艱難必ず他に勝るものあらんと。而して獄中意外の富あり。佳看珍菓積みて堆を成す。而も皆吾がために備へられしなり。居る事三年大勢変じて突然放免せらるるや、往年契れる金瓶楼の某妓迎えて門外に在り。手に縋って歓泣語なし。待女妻に在へばすなわち曰く。『あなたが御入牢中、おいらんの苦労は一と通りじゃありません。三年の間の差し入れ手宛モウモウ実に涙が溢れました。』と勝造ここに至りて始めて獄裏の長者たりし所以を解し、終に其の妓を娶りて旧恩に報ふ。」

『実業家奇聞録』(実業之日本社 明治三十三年十一月)








「◎西村勝三氏の寄付・・・・・府下品川町、西村勝三氏は一昨九日令閨信子追善のため、金五百円を赤十字社病院に寄付したり。」

『東京朝日新聞』(明治33年3月11日付け)




勝海舟、明治29年の三陸沖海嘯(津波)を咏じて曰く。

「父母よ、我がいとし子よ、我が妻と呼べど、救う神も無き世や。」



「◎大倉氏の私設博物館・・・・・大倉喜八郎氏は赤坂なる自邸の一隅に壮大なる煉瓦家屋を新築中なるが、右は私設博物館に充つる考えにて、落成の上は、同氏所有の書画、その他珍器の器具を展列して公衆の縦覧に供する見込みなりと。」

『東京朝日新聞』(明治32年3月25日付け)


 「◎野田、大倉の狼狽・・・・・陸軍経理部内における不正事件暴露して熊田、村山、蛭間等の拘引せられたるより野田豁通、大倉喜八郎等は俄かに狼狽して揉み消し運動に着手し馬車に乗って八方に駆けまわり居れり。当局者は何故に早く野田、大倉、森(清右衛門)等の家宅を捜索せざるかと歯がゆがり居る者もあり。」

『万朝報』(明治36年5月21日付け)







 「◎机の塵・・・・・大倉組にてはこの前の日清戦役にて三百五十万円の利益を得たが、今度は少なくとも三四千万円を儲くる積もりだと言って居るそうだ。国民の血を吸う此の盗賊めー。」

『万朝報』(明治37年1月27日付け)
























 「◎靴工隊と糧餉部・・・・・来る四月一日より陸軍省においては愈々靴工隊と糧餉部を設置することに決したるが、糧餉部は監督部の下に置くが故に別に混雑することも無く、只靴工隊は各師団及び近衛師団の各隊に設置するに付き一時に各兵を置く訳に行かざれば向後三ヵ年を期し、本年より全員の三分の一づつを入営せしむる都合なりと云ふ。」

『絵入自由新聞』(明治26年3月22日付け)








「◎青年自殺を謀る・・・・・牛込破損町一番地靴職青山兼五郎方にて
昨年の秋召抱えたる深川区東大工町六十一番地士族
大八木李善(五十二)の二男天野国太郎(十九)は
去る十九日無断にて主家を去り翌日午前九時ごろ
親許へ行き主家にて近日暇を出す様子故逃げて来ました
というを親爺不審に思い主人方へ連れ行き様子を聞けば
少しもそういうことはないと言われ
親爺は後来を戒めて帰りしに如何なる訳にや
国太郎は同日午後一時前裏手の共同便所にて
細工小刀を以て咽喉をつき朱に染まって苦しみいたるを
近所の子供が発見しその筋の検視を受け
傷口を三針ほど縫い目下治療中生命危うし。」

『東京朝日新聞』(明治26年3月22日付け)

















◎陸軍省の改革
・・・・・陸軍省にても改革を行なうはずなるが、其の改革は経理学校を海軍主計学校に合併し、被服工長学舎を被服廠に合併し、中央、三本木、鍛冶谷津、青野、福元五軍馬育成所に淘汰を行なうに止まるという。」

『中外商業新報』(明治26年3月25日付け)






◎北岡革製所の拡張・・・・・北岡文平氏は数年来革製造を業とし海陸軍兵隊靴の如きも多分に受け負い営業せしが、今度更に革製造所を拡張し有限責任の会社組織とし、其の資本金は十五万円に定めたり。尤も株主に対しては七分の利益を北岡氏において保証すると云ふ。」

『横浜毎日新聞』(明治26年3月26日付け)



 






 「◎靴工隊・・・・・陸軍にては、今日より靴工隊を設置す。」

『よろづ朝報』(明治26年4月1日付け)













 ◎日本熟皮会社(西村勝三の会社)・・・・・同社は昨年再興後陸海軍省にて総て内国製の皮を用いる事になりたるより同社も間接に繁盛し関西の株式市場にて二十五円払い込みの株券が三十五円の高値を見るに至れり。」

『都新聞』(明治26年5月24日付け)







◎日本熟皮会社再興後の景況・・・・・日本熟皮会社は明治二十一年中西村勝三氏(伊勢勝)が欧州の熟皮製造業に倣い我が国にも此の会社を創立するの必要を主唱し遂に十五万円の資本金を以って神戸に広大なる工場を設立せし処当時の時勢に照らしては其の規模大に過ぎたるより利益を見ること能はず昨二十五年十月の総会において維持説と解散説との二派に分れ結局解散説勝を制して百円株に対し三円の割戻しをなして終に解散せし事なるが、先に維持説を唱えし人々は之を遺憾として神戸において五十円株にて十万円の株を募り己に二十五円払い込みにて再興する場合となり解散後殆んど一カ年の休業にて漸く工場を運転するに至りたり。恰も好し今度陸海軍省にては本年五月より印度油皮の輸入を仰がざる事となり総て内国の製革を用いる事に決したれば、同会社の製造は間接に非常の多忙を来たし、斯かる広大なる工場も狭?を告ぐる程の隆盛に趣き、ために関西の株式市場にては二十五円払い込みの株券に対し三十五円の高値を見るに至れり。又東京においては先に同社の出張所主任たりし西村竹五郎氏が同会社製革一手大販売を引き受けたりと云ふ。」

『東京日日新聞』(明治26年5月24日付け)









「◎在米日本人愛国同盟会員帰朝・・・・・ハワイ革命に際し米国よりハワイに赴き日本人政権獲取のため大いに運動したる在米日本人愛国同盟会員菅原傳、井上半三郎の二氏は関根忠吉氏〔加州日本人靴工同盟会会長〕と共に去る二十二日横浜着の郵船にて帰朝したり。」

『朝野新聞』(明治26年5月25日付け)



 ◎大倉長者二伯を饗す・・・・・向島の大倉長者は両三日前、伊藤、後藤の両伯を始め都下の紳士、紳商を招待して盛んなる饗宴を開けり。」

  『郵便報知新聞』(明治26年5月28日付け)



 「◎大倉長者二伯を饗す・・・・・向島の大倉長者は両三日前、伊藤、後藤の両伯を始め都下の紳士、紳商を招待して盛んなる饗宴を開けり。」

『郵便報知新聞』(明治26年5月28日付け)




◎松田の楼上に職工の喧嘩・・・・・去る四日の夜八時ごろ京橋の松田にて懇親会の催しありしは築地一丁目靴製造所桜組の職工五十七名と聞こえたり。忠臣蔵の人数には十人ばかり多く、広間に溢れるばかりに居並びて酒宴を開きしが、興で銚子は仆れ盃は飛び人々の耳が赤くなると何といっても五十七人の若殿原五十七色の心々笑い上戸もあれば泣き上戸もあり。慷慨上戸もあれば議論上戸もあり。白いという人の向こうに黒いと叫ぶ男もをり、一つ間違った所から誰いうとなく何某の野郎殴ってしまえというより早く、五十有余人総立ちとなり日頃気に喰わぬ奴を〆てしまうはこの時と、入り乱れての乱暴狼藉煙草盆で打ってかかれば会席膳でうけるという騒動は福井一座の立ち回りを見るよりも激しく、女中も雇い人も驚き恐れて一人も二階へ上がるものあらざりしが、同家よりの訴えにより巡査数名出張し取敢えず重立ちたる職工数名拘引し、負傷者へはそれぞれ手当を加えさせ、これより事実の取り調べという所へ桜組の社員は警察署へ出頭し松田へは同組より示談すべしとのことにて拘引者の下渡しを嘆願に及びしにぞ。警察よりは本人共へ懇々説諭を加え社員へ引き渡されたり。ただし松田にて宴席の諸器物を毀損されしは少なからぬ品数なるが、これは一切桜組において弁償することになりて、無事に落着したるよし。」

『東京朝日新聞』(明治26年7月7日付け)






「◎かずかず・・・・・、、、▲近頃水死する人の多いは驚く程なり。
京橋区築地三丁目十三番地、内外用達会社の靴職工
金子富五郎(三十八)は浅草今戸町八十番地に住み、
家には女房と二十歳と十七歳との娘があるに、
一昨日の午後四時頃築地明石町地先の海中にて
泳いでいるうちコムラ反りがして溺死。」

『東京朝日新聞』(明治26年7月25日付け)


◎社会外の社会・・・・・社会外の社会の住民たる兵士等は炊事をなすにもまた人の手を借りず、、、縫工場には縫工あり。皆兵士なり。中隊毎に一年兵二人、二年兵二人、三年兵二人を出し縫工場に入れ、古き衣の損じたるを繕い、新しき衣を裁し、兵士以外の人の手を借りず、兵士によって兵士の被服を供給せしむ。彼等の或る者は冶工となりて、兵器の破損を修理し、或る者は靴工となりて全隊に靴を供給し、其の破れたるを治め、新しき革嚢を作り、古きものを繕うこと総て縫工の被服におけるが如し。かくの如く共産的、族長的の制益々発達し、兵営のことは総て兵営において之をなし、全く社会外の社会を成すに至りしより、大なる花主を失いたるものは、単に衆議院に押し寄せたる靴工同盟に止まらざるべし。、、、」



兵営内工場

『国民新聞』(明治26年8月3日付け)



◎日本労働協会・・・・・は府下にて五百余名、地方にて千余名もあれど、尚ほ一層の盛大を期し、此程より頻に会員募集中なり。」

『東京日日新聞』(明治26年8月17日付け)


「◎大日本協会政談大演説会・・・・・、、、弁士 大井憲太郎 川崎三郎 中村太八郎、、、。」

『読売新聞』(明治26年9月30日付け)






「◎関根忠吉氏・・・・・今回帰桑せられたる同氏は、在留同胞の便利を図り、日本売薬を携え来たりて、定価の儘無口銭にて広く販売せらるるとの事なり。氏先には、城常太郎氏と相携提して製靴業が今日の如き隆盛を来たすの基礎を定め、今や又薬品を販売して、同胞幾千のために一大便益を與へんとす。世人の氏を目するに義侠家を以ってするもの誠に所以あるかな。勗めよ関根君。」

『桑港評論』(明治26年12月3日付け)



◎東洋自由党の解散・・・・・東洋自由党は一昨十五日午後一時より総会を開き同党存廃に付いて協議をなせし末遂に解散に決したり。党員中の数名は更に関東壮年会なるものを組織して大いに非雑居運動を試むるはずなりといふ。」

  『東京日日新聞』(明治26年12月17日付け)



「朕陸軍被服工長学舎条例中改正の件を裁可し茲に之を公布せしむ。
御名 御?
明治26年12月16日
陸軍大臣 伯爵大山巌
勅令第二百四十七号
明治二十三年勅令第三十号陸軍被服工長学舎条例中左の通改正す
第一条中「会計局」を「経理局長の管理」に改む
第二条を左の如く改む
本舎に左の職員を置く
学舎長  陸軍一等軍吏
第三条及第十五条中「会計」を「経理」に改む
第四条を削る
第六条中「若干名」の三字を削る


『官報』(第三一四二号/明治26年12月18日付け)






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明治27年




★日清戦争勃発!



◎縫工靴工の結果・・・・・陸軍各隊に在っては一昨年来縫工靴工を設置して以来日尚ほ浅く、明年以後にあらざれば其の成績について判断を下し難きも、今日までの処に徴すれば各隊とも良好の成績を得、就中第五師団各隊は縫工靴工設置計画上尤も歴史の古きだけに其の成績尤も好く、今日の進歩は以って将来の盛運をトするに足るべしと或る人は云へり。」

  『東京日日新聞』(明治27年3月29日付け)







◎諸職工及び人夫の用意・・・・・鍛冶職、靴職、仕立職その他の人夫業は一朝徴発の令に接すれば、六時間内に出発しうるようそれぞれ用意しおるよしなり。」

『読売新聞』(明治二十七年七月四日付け)











◎藤田組事件・・・・・、、、商業は大阪鎮台にせんと靴の製造を主とし其の他みだりに多端を許さぬ。井上馨の許可を受く可き事藤田伝三郎今般一家の法則本業目的を達するため井上馨の差図を屹度相可守事、、、
斎藤氏は明治十年西南の変の時軍事に関する電信が藤田組に残り居たるは畢竟同組に宿泊したる山縣伯が軍人の資格を忘れて漏らしたるならん更に切言すれば投機の商売に利用せしめたるならんといへるも伯は当時戦地に在りて硝煙弾雨の間に馳駆しつつありて大阪に在るべきはずなく又足を大阪に留めたる時も三橋楼といへるに投じ藤田組に宿泊せざりしことは前号に報じ置きたるが如くにして尚聞く所のよれば伯は未だかって藤田組又は藤田家に一泊だもしたることなしといふ。然るに斎藤氏は、
広島鎮台、大阪鎮台、熊本鎮台の一手販売をば藤田組が受けたということにおいては私は実に不可思議に堪えない。之に就いて私は思い当たることがある。即ち藤田組の内においては明治十年西南戦争の時において藤田組の案内に陸軍省の軍事の時の電報が落散って居たということは確かである
と演べたり、、、藤田組は近年いおいてこそ用達、土木建築、鉱山、諸会社株等を以って業務のおもなるものとするも、明治の初年においては専ら陸軍用靴被服の用達を以って目的としたり。、、、靴被服とても藤田組の独占にあらず。即ち大倉組の如きもあり又大阪には相応の用達二三人もありて物品の優勝と価格の低廉を以って相競争したるなれば藤田組が一手にて利益を壟断したりとの説はびも?るべきの事実なし。、、、藤田組疑獄顛末、、、
。」

『東京日日新聞』(明治27年5月30日付け)











◎軍用草鞋の製造・・・・・陸軍省が軍用靴、軍用草鞋の改良に就き工夫を凝らし居れることは予て聞く所なりしが、今度麻尼刺麻にて織りたる帆綱(西洋船舶に用ふ)の古びて其の用をなさざるものを買い入れ、之をほごして試みに軍用草鞋若干足を作らしめ郵便脚夫其の他に穿たしめて実験したるに湿気を弾くの力に富み丈夫なること他に比類を見ず、一足にして六十日間の奔走に堪ゆるものなることを発見したるに就き、引き続き之れが製作に従事せしめ居ると云ふ。」

『東京日日新聞』(明治27年7月15日付け)





◎桜組への注文品・・・・・此の程ある筋より桜組へ注文したる長短靴、雑袋、水瓶、脚半等は非常の多数にて、職工は徹夜して調製し居る由。」

『万朝報』(明治27年7月20日付け)









◎草鞋百万足・・・・・物品の献納中最も多きは草鞋にて、目下馬関の集積場にある分は凡そ百万足に達したるよし。草鞋は朝鮮内地には左程必要もなけれど、清国内地には稲の植え付けなき故、日兵もし清国地へ入る事もあれば其の節は大いに需用を見るに至るべしという。」

『万朝報』(明治27年8月19日付け)








◎奇特の職工・・・・・大阪府西成郡難波村の志波善次郎(四十七)は内外用達会社の製靴場に雇われ日給二十銭を取るものなるが、同人は今回平素節倹をなし、何か国事に用いんとて積み立て置きたる金二十円を義献したり。」

『万朝報』(明治27年8月23日付け)








◎陸軍被服工長学舎学生の募集・・・・・同学舎の生徒縫工科四名靴工科四名を検査の上本年十二月において入舎せしむる旨一昨二日陸軍大臣より通達せられたり。其の検査格例は左の如し。

陸軍現役兵卒にして学生たるを志願し得べき者は行状方正身体強壮にして明治二十六年十二月入営の者とす。其の試験科目は左の如し。

一、読書 日本外史又は日本政記の類(通読)
二、作 文往復文(眞庁仮名)但し作文を以って作字の巧拙を検査す。
三、算術 四則、分数、比例。」

『東京日日新聞』(明治27年9月4日付け)










◎護謨靴一万五千足の注文・・・・・在韓兵士が冬季防寒の用意として其の丈け股に達すべき長靴に内部は軟毛を縫い付け表面に護謨を塗りたるもの一万五千足ほどを製造することとなり、その筋より本所亀澤町なる護謨製造会社に護謨の塗揚を注文したりと。」

『東京朝日新聞』(明治27年9月21日付け)












◎雪靴献納の特別取り扱い・・・・・軍用雪藁靴は先に陸軍省より新潟県の同製造者に命じ調整せしめしに、爾後新潟・青森・岩手・山形等平素大雪の経験ある地方より献納の儀を願い出ずる者多き由なるが、右は既に季節も迫り居る物品なるを以て出願を同時に恤兵部において直ちに承認状を発し特別の取り扱いをなすことに決せりという。」

『読売新聞』(明治27年10月17日付け)









◎可愛い少女・・・・・征清大義の師起こりしより少年少女の美談佳話も少なからぬ事なるが、徳島県那賀郡長生村大字本庄村近藤梅吉長女つる(十一歳)というは同村長生尋常小学校第二年生にて学校に出でてはよく課業を修め常に首席を占めざるはなく家庭に在りてはよく両親に孝養を尽くし甲斐甲斐しくも立ち働く様まことに児女の模範よと近隣の人々の称賛に両親も覚えず嬉し涙に暮れしこともありしが、近頃修身口授の時に同県板野郡應神村大字古川村坂東とらといへる者帯買うためとて母親よりもらいし黄金を軍費の内へ献金せしとてその地の新聞に掲げありしことを教員より聞き、つるは一方ならず感に堪え、内に帰るやかねて自分が貯えあるを献金したしと父に話せしに、我が子ながらも殊勝の者と父もその志を感賞したりしも何分些少の金なれば献金の道もなく後日また何かよき折りもあらんとて諭し置きしが、今度同校職員生徒一同より陸軍恤兵部へ草鞋三百足を寄贈するの計画ありとの事に、つるは喜び勇んで父にも相談の上百足だけ献納せりとぞ。」

『読売新聞』(明治27年12月4日付け)











明治28年






『時事新報』(明治28年1月3日付け)








大元帥陛下の凱旋・・・・・、、、築地桜組にては前河岸より皆揃ひの運動帽子を被り二百余名傳馬船に乗り組み新橋際に至りて奉迎したり。」
『時事新報』(明治二十八年五月三十一日付け)





大元帥陛下の凱旋・・・・・、、、品川白煉瓦製造所(社長・西村勝三)は裏田甫鉄道線路下に場所を構え製造所員一同静粛に奉迎す。」
『時事新報』(明治二十八年五月三十一日付け)







桜組の歓迎・・・・・本所向島須崎町桜組製革支社の職工取締を為し居たる岡崎興三郎氏は予備工兵として出兵し居たるが、昨日を以って除隊されしゆえ、同組の役員三百余名は一同揃いの高帽白銅製の徽章を胸間に付け、又職工九百名は一同揃ひの単物を着し数?の大旗を押し立てて歓迎したり。」

『時事新報』(明治二十八年六月二十九日付け)






陸軍靴工を台湾に派遣・・・・・、、、。」

『国民新聞』(明治二十八年八月三十日付け)







半長靴三万足・・・・・今度軍用半長靴三万足を東京府下の各靴屋へ或筋より注文したる由。右は遼東半島守備隊等に回送するものにて、厳寒をしのぐには靴下五六足を穿つの必要あるを以って何れも十二文位にて一足の価三円八十銭なりと云う。」

『大阪毎日新聞』(明治28年10月12日付け)









被服工長学舎生徒の卒業式・・・・・陸軍被服工長学舎にては、明二十五日生徒の卒業証書授与式を執行し野田経理局長等も臨場する由なり。」

『時事新報』(明治二十八年十一月二十四日付け)







明治29年


被服工長学舎生徒召募・・・・。」

『東京日日新聞』(明治29年3月18日付け)





被服工長学舎生徒の増募・・・・・陸軍被服工長学舎にて毎年募集する縫工、靴工の定員は二十五名位なりしも、本年度より軍備の拡張に伴ふて同生徒を大いに増加し、来る六月初旬に入舎せしむる生徒は八十二名なりといふ。」

『時事新報』(明治二十九年四月九日付け)





「◎東京貸資協会・・・・・工業協会の佐久間貞一外数氏の発起に係わる同協会は工業者に積立金を為さしめ、その等級によって資金を貸与する方法なるが、此の事は英国などにて最も盛んに行われ、ことに独逸は国家事業として行い居る由。なほ詳細は今明日中に発起会を開きて協定するはずなり。」

『東京朝日新聞』(明治29年5月15日付け)








◎陸軍経理学校の拡張・・・・・今回の陸軍兵備拡張と共に監督及び軍吏の要員非常に増加し、従って之が養成を担当せる陸軍経理学校も共の規模を拡張するの必要に迫り、即ち同条例の改正を見るに至りたり。而してこの条例の改正と共に、従来独立して一校をなし来たりたる被服工長学舎を拡張し、これを同校にに合併して其の一部となすの計画なれば、従来の校舎にては所詮狭隘にして授業の目的を果たす能はざるに付き、追って府下に其の敷地を選定し校舎を新築して之に移転すべしと云う。」

『東京日日新聞』(明治29年5月15日付け)










陸軍経理学校と工長学舎・・・・・軍備拡張に伴い最も不足を感ずるは監督補と軍吏にして、従来の学生にては到底補充するを得ざるにより今度陸軍経理学校にては教官学生を増加するよしにて、従来の被服工長学舎は独立なりしも経費上及び教育上の都合により今度経理学校に合併したる由。」
『時事新報』(明治29年5月19日付け)








陸軍省の秘密会議・・・・・陸軍省にては昨日午後より大山大臣、児玉次官、石黒督務局長、野田経理局長を始め各課長は官房会議室に参集して秘密会議を開き午後四時を過ぐるも散会の模様なかりしといふ。」
『時事新報』(明治29年5月20日付け)








陸軍省経理局の新築・・・・・陸軍省経理局は同省と参謀本部の空地に新築する事に内定し昨今其の設計中なりといふ。」
『時事新報』(明治29年5月20日付け)











◎陸軍諸条例・・・・・、、、経理学校条例は其の組織大いに従前の経理学校条例と異なるものあり。即ち明治二十三年勅令第二百六十五号及び勅令第三十号を持って公布せられたる経理学校及び被服工長学舎の合併したるものとも見るべく同学校において養成する生徒は従来監督補、軍吏及び縫工下長、靴工下長となるべきものとす。監督学生は各兵科大尉、一等軍吏及び実役停年二ヵ年以上の各兵科中尉、二等軍吏の入学試験に合格したるもの及び陸軍大学卒業生より採用し其の修学期を二ヵ年とし、軍吏学生は現役各兵科特務曹長及び一ヵ年以上現官にある現役各兵科曹長、一等書記より試験の上選抜採用し其の修学期を一ヵ年半とす。生徒は現、余、後備役中の兵卒より採用し卒業の上は縫工下長、靴工下長となるものとす。之を要するに諸条例の斯く一斉に改正を要するに至りたる所以は一は軍備拡張の影響たるべく、一は従来各学校の名称或いは校という団と称し所と呼び舎と唱え一言に之を述べ尽くすこと能はざりしがため、特に其の名称を校団二字の範囲中に総べ?りたるものならんと云う。」

『東京日日新聞』(明治29年5月20日付け)









『時事新報』(明治29年5月31日付け)

明治22年の秋に城常太郎の招聘で集団渡米した靴工の一人、
伊東金之助の靴店広告









桜組暴行余聞・・・・・同組においては一昨二十二日職工八十余名を一同解雇したる由。」
『自由新聞』(明治二十九年六月二十四日付け)


上記関連参照記事

◎工業界の偉人・故西村勝三翁・・・・・日清戦争中一時激増した靴工が戦後にわかに其の職を失ったので氏は彼らを奨励して米国桑港に出稼ぎせしむる事に力を尽くし、今や彼の地における日本靴工の数は二百余名の多きに達し、加州日本人靴工同盟会を組織し大日本靴工同盟会と気脈を通じて日本職工の面目を保持しておるということである。」

『職工新聞』(明治四十一年六月十日付け)





「◎千代田銀行・・・・・北岡文兵衛等の発起にて浅草猿屋町に設立の計画あり。資本金は三十万円の予定。」

『万朝報』(明治29年8月12日付け)





「◎熟皮相場・・・・・の昨年中非常に好景気なりしは全く戦争のため一時非常にその需要を増し品払底なりしの致す処なれば、本年の相場を以て昨年に比すれば頗る不味なり。故に舶来象皮の如きは百斤に付き十五円方の安値を現わせり。然るに和製象皮の百斤に十五円方の高値を告ぐるに至りしは全く和製象皮の呼声高きに至りし徴候なり。」

『時事新報』(明治29年10月24日付け)







「◎熟皮・・・・・軍備拡張に従って益々需要を増さんとする熟皮昨今の相場は元量の益々騰貴するにも拘わらず気配甚だ活発ならず。寧ろ沈静の姿なり。今その相場を聞くに、、、靴中牛皮一坪に付上二十二銭下十七銭、、、一皮靴踵十足に付長二十銭短十銭、、、」

『時事新報』(明治29年12月10日付け)









◎陸軍補充条例追加(縫工下長並に靴工下長)・・・・・
第九十五条
縫工下長、靴工下長の補充は現役上等兵にして縫工卒、靴工卒の勤務に服し、入隊の日より起算し二ヵ年以上現役に服し再服役を許されたる者(警備隊にあっては在営一箇年以上にして現役期限満つるまで在営を許されたる者)及び現役予備役後備役兵卒中経理学校卒業者をもってす。
第九十六条
上等兵を縫工下長、靴工下長にに任ずるの手続きは第七十六条乃至第七十八条を適用す。
第九十七条
経理学校卒業者を工下長に任ずるには陸軍省経理局長其の人名簿を陸軍大臣に進達し認可を請け欠員あるごとに之を任ず。」


『時事新報』(明治二十九年十二月二十七日付け)





明治30年



明治30年、年明け早々、桜組は新聞各紙の広告欄に靴工・徒弟募集の
広告を頻繁に出している。おそらく、ストライキに参加した
靴工を解雇した穴埋めのために急遽
募集をかけたのであろう。










「◎日本人愛国同盟会旧友会・・・・・かつて米国に在りて日本人愛国同盟なる名称の下に集まりし人々にて前後帰朝したる井上敬二郎、井上平三郎、日向角太郎、大和正夫、関根忠吉、満留善助、八木原長次、山口熊野、眞山政一郎等の諸氏は、今回同盟員中野権六氏の上京したるを期とし、昨日午後七時より芝山内紅葉館において旧友会を開き、往を談じ来を話し、十二時過ぐるころ散会したりと。」

『東京新聞』(明治30年4月1日付け)








「◎職工同盟・・・・・東京某工廠の器械職工中重立ちたる七名の者発起し工業同盟会なるものを設立し将来器械職工一同の福利安全を計るを趣旨とし目下各工場の職工その加盟を勧誘しつつある由なるが、その組織方法は加盟職工一人に付き毎月金一円づつを醵出してこれを積み立て金としてその金高相当の額に達すべき時を期してこれを資本金に供し一の製造所を設立して以て手を空くせる職工等に相当の仕事を与えんとするにありと。その将来同盟罷工の基礎を作らんとするものなるや否やは知らざれども、とにかくその趣旨を賛成して之に加わりしもの既に三百余名の多きに達しまさにその基礎成らんとすという。世の資本家たるものは注意しべき事なり。」

『日出新聞』(明治30年6月5日)








「◎労働社会の趨勢・・・・・横浜、東京の船大工は今回の同盟罷工を機として、いよいよ強固なる団体を組織し、進んで気脈を全国の同業団体と通ぜんとするの擧あり。」

『万朝報』(明治30年6月26日付け)





 [◎北米移民の現況(三)職工・・・・・工人は製靴、直し靴に従事するもの、竹細工を職とするもの等多し。而して其の靴工なるものは、関根忠吉氏等二三人士の献身的運動の結果として、靴工同盟なるものを起こし、在留の靴工全体を網羅して、価格を一定し、営業地を区画し、以って相互の競争を拒き、且つ其の業に熟せざる素人をして漫に就業せしめざるの方針を取り、以って其の信用を保ちたるを以って、相応の利益を博し、且つ益々拡張するの運に会せり。]

『太陽』(第16号 明治30年8月5日)









◎品川・・・・・同所東海寺裏手の小字小関へ今春新築したる桜組の靴製造所の工場中(四十間と五間の茅葺一棟)全壊し、同所の外山染工場は工場悉皆潰れ、、、。」

『東京朝日新聞』(明治30年9月10日付け)


























明治時代後期






明治31年






「◎明治三十年史・・・・・三十年十一月二十二日衆議院書記官林田亀太郎同書記官長に任ぜらる。」

『神戸又新日報』(明治31年1月7日付け)











◎府下製革業者の懇親会・・・・・桜組、北岡を始め府下の製革業者は互いに親睦を謀るために毎年首において一同懇親会を開く例なるが、本年も去八日午前十一時より向島植半楼において同会を開きしに、出席者は府下の製革業者はもちろん、関係の銀行員又は商員等無慮八十余名に及び、席定まるや、幹事花井氏は我邦において初めて製革業を起こせし故人弾直樹氏のために記念碑を同業者一同より建立せんことの希望を述べ、満場の賛成を得て、更にその委員を選定することとし、その他祝辞、演説等ありて、甚だ盛会を極めたり。」

『中外商業新報』(明治31年1月11日付け)






「◎『労働世界』・・・・・は労働者の味方となりて種々の計画をなさんとするその志や善し。
ただ記事の多くは議論に傾きて目下の事情に通ぜざるがごときは惜しむべし。
今少し実地問題に切り込んではいかむ。(定価二銭北豊島郡滝ノ川村同新聞社)」

『時事新報』(明治31年2月10日付け)






「◎時事漫評・・・・・内地雑居は早や十七カ月の後に迫れり。党人空論に日をつぶして社会的大変動眼前に在るを見ず。」

『神戸又新日報』(明治31年2月22日付け)










◎多摩増吉氏の防寒靴・・・・・労働組合期成会員多摩増吉氏は此の頃防寒靴を発明せり。是は日清役の頃我が兵の寒さに足を痛めたる者多きを見、防寒靴の必要を感じて発明せるもの。固より貴族紳士にむく物にもあらざれば、体裁は粗末なれど品質は極めて丈夫にて、六七ヶ月を持ちこたえ水に入れてもしみることなり。労働者などにははなはだ軽便なりと。代価は一足一円六十五銭。今度慈善家某氏の補助を得て外神田に独立工場を開けり。ちなみに記す。氏は養育院より出でたる人にして労働組合期成会には極めて熱心なる人なり。」

『労働世界』(第十号  明治31年4月15日)






◎広告・・・・・
、、、
相州横須賀町平坂中程
鉄工組合第拾七支部特約販売店
桜組改良靴特約販売所
石橋靴製造所」


『労働世界』(第十三号  明治31年6月1日)







◎広告・・・・・ー専売特許出願ー
防寒靴ー正価金弐円参拾銭ー
防水靴ー正価金弐円ー
、、、
東京浅草区向柳原町壱町目弐番地
旭靴製靴所」


『労働世界』(第十八号  明治31年8月15日)










◎製革業改良談・・・・・目下本邦軍事用その他一般の靴用紐草並びに広く使用さるる皮革は外国製と日本製とを問わず大抵その製造法を米国に倣ひたるものにて総べて?皮箪寧を以て製造したるものなれども箪寧は必ずしも?皮のみに限れるに非ずして房州辺に産する山桐の一種なるドクエイと称する木の皮、並びに栂松の皮にも之を含み、又備前地方にはノブと称して非常に根の多き植物ありて其の根皮より箪寧を探るを得可しといい、又同地方に産する団栗の皮にも等しく此の渋?を含み由にて且つこの団栗はヴァロニヤと称し小亜細亜において最も多く之を産出し欧州諸国にては米国のごとく?皮に富めるに非ずして且つ品質遥かに粗悪なるを以て多くはグリース産ヴァリニヤを輸入して広く製革の原料に供する由。目下日本にて使用する皮革は大抵?皮箪寧製のものなるを以て消費者を始め営業者といえども草は総べて?桃色ののみと思えるが如くなれども、」

『時事新報』(明治31年10月10日付け)













◎活不動・・・・・向島桜組にてはかねて靴製造に気発油を使用しける処、一昨朝七時頃如何なるはずみか同工場温暖室において突然職工二名の衣類に火が燃え付きたりしに、素より衣類は気発油の多少染み込みありければ二名の職工の全身はあたかも活不動のごとく燃え立ちたりしに、一名は早くも其の傍らの渋壺に飛び入り、一名はポンプをもって消し止めたりしが、頗る大火傷に付き直ちに佐藤病院に送り治療を施したる甲斐無く同夜死亡せりと云う。」

『読売新聞』(明治31年12月25日付け)







明治32年

























旭組労働靴・・・・・は今や試験の最大好結果を得て其の注文は山のごとく四方より来集し、いよいよ其の規模も大にして、以って一般社会(平民)の便利を計らんと計画中なりといふ。」

『労働世界』(第二十七号 明治三十二年一月一日付け)

「◎行方不明の数々・・・・・、、、又同町二丁目革商植田利右衛門二男利三郎は去る二日の午後六時頃元町一丁目靴商天川栄方と同町靴商支那人星昌方へ懸けとりに行きたるまま同夜十二時になるも帰らぬより家内の者が心配し両家について聞きただすと、利三郎は都合五十三円を受け取りおれば多分平素行きたいと言いおりし東京或いは横浜へ行きしならんとてこれまた捜索中、、、。」

『神戸又新日報』(明治32年2月6日付け)

「◎石工の同盟罷工・・・・・大阪の石商工業同盟即ち石工請負者は去る四日協議の末従来の石工標準賃金一日七十銭を六十銭に引き下ぐることに決し、石工組合に交渉したるに組合は之に応ぜず、遂に去る六日より組合に属する五百名余の石工は同盟罷工を企てたるため、一般土木請負業者を始め各建築工場はいづれも困難を感じ居れり。物価下落に次いで来たるべきものは賃金引下げなれば、同盟罷工は今後各業者間に続出するを免かれざるべし。」

『万朝報』(明治32年2月11日付け)



「◎石工の同盟罷工・・・・・去る六日以来、当市において石工の同盟罷工起こり、ために諸所の建築等に差支えを生ぜること少なからずといふ。今その顛末を聞くに、当地の石工間には、かねて組合ありて、之に属せるもの約五百名あり。然るに一昨年までは同組合の石工標準賃金一日五十五銭の定めなりしに、同年中諸物価騰貴のため十五銭方引き上げ七十銭となし、爾来今日まで継続し来たりたるが、近来不景気の結果、仕事は減少し米価は下落したるをもって、石工の賃金も引き下げざるべからずとて、当地石商工業同盟においては、去る四日協議の末各十銭方を引き下げ、即ち石工の手取りを六十銭とする件を決議し、之を石工組合に交渉したり。然るに同組合においては、この引き下げを不当としてその交渉に応ぜず、遂に去る六日より同盟罷工をなすに及べり。よって石商の方にては再度協議の末、更に石工組合へ交渉する所あり。石工の方にては一先づ親分(組合中の頭分)の下にて之を預かり、それぞれ石工に説諭したる上昨八日中に何分の回答を居すこととなりたるが、この稿起草のころは未だ回答の運びに至らざりき。なをこの同盟罷工のため一般に及ぼせる影響を聞くに、右は石商同盟と石工組合の中に起こりたることなれば、石商の手を経ず直接に石工を使用する向きは何の影響をも感ぜざること勿論なれども、今日の所にては大抵の土木請負業者は皆石商の手をもって石工を使用せるを以って、土木請負業者はほとんど一般にその影響を受け、したがってそれら請負業者の手にて工事中なる建築工場は、いづれも石工休工して少なからざる困難を感じ居る由。併し、一両日中には折衷説位の所にて折り合ふべき見込みなれば、差したることはなかるべしと。」

『大阪毎日新聞』(明治三十二年二月九日付け)

「◎仲士組合連合会・・・・・当市の各仲士組合は近日連合会を開きて諸件を協議する由。」

『神戸又新日報』(明治32年2月13日付け)








「◎大阪石工のストライキ・・・・・は同市石商工業者が其の賃金七十銭より六十銭に切り下げんとせしに反対して罷工したるものなり。石工組合員は五百余もありて頗る堅固に反対せり。而して大阪築港日本銀行その他の工事は石商工者即ち石商組合の手を経ずして石工を直接に雇い居れりと云へは石工は勝利を得るに至るべし。」

『労働世界』(第三十一号 明治三十二年三月一日付け)

◎軍靴支給の注意・・・・・兵士に支給する軍靴は従来品の古きと新兵の靴に穿き慣れざるより、激甚なる歩調教練のため足部に患傷を生じ教育時期を空費するの弊あるに付き、本年度よりは入営の新兵に支給する軍靴に就き特別の注意を与ふる筈にて、約そ左の標準により倉庫準備をなすことに内定したりという。
一 各兵に支給する靴の太さは演習若しくは行軍の際足部の血管充血して軽皮の膨張を発すとき其の緊迫を避くるため靴下二枚を穿ち得べき余裕を存せしむること。
一 過激なる運動若しくは長路行軍等の場合に際して着用するため中隊経理の許す限りなるべく継ぎ目なき靴下を用意し少なくとも一対づつ支給すること。」

『時事新報』(明治32年4月19日付け)

 ◎内地雑居と職工・・・・・内地雑居後、最も影響あるべきは、洋服、靴、帽子、活版職工等なるべし。しかもこの輸入工業の下に従事する職工の現状は、旧来より存する大工、左官、木挽等に劣るところ多し。」

『横浜毎日新聞』(明治三十二年四月二十一日付け)




囚徒暴動して看守に斬らる・・・・・一昨日午前十時頃横浜根岸監獄署において四十余名の囚徒暴動を起こしその一人は看守のために斬りつけられし一椿事の顛末を聞くに同署第三工場は漆工、靴工らおよそ百二三十名の囚徒を収容せるが、、、。」

『東京朝日新聞』(明治三十二年七月十五日付け)




「神戸仲仕、、、遥かに長崎港の仲仕と結び、更に横浜、東京の仲仕労働者と相呼応せんとする計画あり。」

『労働運動の序幕』(横山源之助)







「◎清国労働者非雑居期成同盟会・・・・・、、、全国に檄して大々的運動を為すつもりにて、、、去る二十五年日の丸事件とて同地内外労働者使役上一騒動ありたるを以て

支那労働者入国の暁内外の衝突のため如何なる悲劇を演ずるやを今より切に憂慮すと云う事は其の特に要点とする所なりと、、、、、、」

『時事新報』(明治32年7月17日付け)







「◎清国労働者非雑居期成会・・・・・神戸海陸仲士業者等はこの程来しばしば集会して、目下の一問題たる支那労働者の雑居を不可とし、其の意見を内務外務両大臣に陳情し、なお清国労働者非雑居期成会を組織し、同市の燐寸、紡績その他の工場は勿論、全国に檄して運動をなすはずにて、近々同地に演説会を開き輿論を喚起する計画中なるが、同会は徹頭徹尾労働者の入国を不可とし、内地の労働者が其の業を奪わるる結果双方の間に以外の衝突あらんというありふれたる議論なり。目下加盟し居るは、沖仲士、中央仲士、荷物仲士、陸仲士、鳶仲士その他の有志者なり。」

『東京朝日新聞』(明治32年7月18日付け)











「◎清国労働者非雑居期成同盟会・・・・・神戸市海陸仲仕業者は此の程来集会を重ね、目下世上の一問題なる清国労働者の雑居を不可とし、その意見を内外務両大臣へ陳情し、なおその目的達せんため題号の団体を設け、神戸市内のマッチ、紡績、その他の工場はもとより全国に檄して運動をなすはずにて、不日市内に大演説会を開き異論を喚起する計画あり。その主旨とする処はすでに世の論ずる所のごとくなるが、同地において去る二十五年日の丸事件とて内外労働者使役の上に一大活劇ありたるをもって清国労働者入国の暁、内外の衝突のため如何なる悲劇を演ずるやを憂慮するにあり。目下加盟者三万人以上にして、その規約は左のごとし。、、、」

『国民新聞』(明治32年7月18日付け)





「◎ふみよせ・・・・・清国労働者排斥運動やかましくあります。日本生計の度低い。賃金清国より安い。清国人来るありません。日本人運動するあります。費用たくさんいる。それだけ損ゆきます。」

『神戸又新日報』(明治32年7月24日付け)





靴工倶楽部・・・・・同倶楽部の状況はかつて報道する所ありしが、兼ねて計画中の造靴図案脱稿せしをもって、同倶楽部より発行し広く部員に配布し営業上の進歩及び利便を謀れり。」

『労働世界』(第四十一号 明治三十二年八月一日付け)






造靴図案・・・・・一冊を神田区旅籠町靴工倶楽部より寄贈せらる。」

『労働世界』(第四十一号 明治三十二年八月一日付け)





「今、忽然として、神戸市に会員三万人糾合せる労働団体起こりたり。名義は清国人非雑居を目的として組織せられたるようなれど、これ一時の目的にして、実は、永久に労働運動に従事する由にて、一昨三十一日の夜、盛大なる演説会を開けりといふ。」

『横浜毎日新聞』(明治32年8月2日付け)







◎大日本靴工業同盟会・・・・・同会は一昨日、呉服橋外柳家に総会を開き、左の決議をなせり。尚ほ当日の来会者は百余名にして、西村勝三氏より資本金の中へ一千円を寄付したりといふ。、、、在米靴工同盟会と気脈を通じ、互いに相通信する事。、、、」

『万朝報』(明治32年8月4日付け)




「◎大日本靴工業同盟総会・・・・・呉服橋外柳屋において開会。左の決議をなせり。
一 西村勝三氏を総裁に、大和正夫氏(注一)を名誉員に推選すること。
二 在米靴工同盟会と気脈を通じ互いに相通信すること。
三 本部を東京に支部を各地に置き、大いに会員を全国に募集し同業を拡張すること。
四 基本金を募集すること。
その他関根忠吉氏より提出せる規則改正案の全部を採用することに決したり。
西村氏は本会の基本として金一千円を寄贈したり。」

『東京朝日新聞』(明治32年8月4日付け)

(注一)大和正夫は在米日本人愛国同盟会の会員。



「◎市内の石商と石工・・・・・当大阪市内における石商人すなわち石屋と称する者は、百四五十戸ありて石商同盟会なるものを設け、一定の規約の下に職工を使役し、職工においても一の組合を組織し、市内五百余名の職工は賃金及び就業の時間を一定にし、石商に対する気受け頗る良かりしものありしに、本年二月石商同盟会は諸物価の下落せしを理由として、賃金の引き下げをなしたりしかば、職工組合は大いに之に激し、一時同盟罷工をなすに至れり。爾来相互の感情兎に角面白からず、中にも近ごろ他方より入り込みたる職工の中には、どうもすれば石商に対し強請りがましき行為ありて、石商の迷惑すくなからざれば、石商同盟会は今回有力なる人物を雇い入れて同会の取締りを一任し、一方には市内各警察署へ特別の保護を願い出づるはずなりという。」

『大阪毎日新聞』(明治三十二年八月八日付け)




「◎労働者保護演説・・・・・今明両夜、兵庫弁天社内亀甲亭において、かの清人非雑居に関する演説あり。弁士は東京雄弁会員土肥新氏其の他数名なりと。」

『神戸又新日報』(明治32年8月11日付け)














「◎清人非雑居の運動・・・・・神戸に催されたる非雑居演説会に臨席せられたる期成会幹事高野房太郎氏の語る所によれば、彼非雑居運動は単に神戸一市に止むるにはあらずして、遠からざる内に一大飛躍を試み全国の労働者を聯合し、又第十四議会に請願書を呈出する等の手順を採るの決心を以って、在神戸有志は運動しつつありと。」

『労働世界』(第四十二号 明治32年8月15日)




「◎神戸労働者の運動・・・・・神戸の労働者三万余人清国労働者非雑居運動をなさんとする由は報ぜしが、今度いよいよ清国労働者非雑居期成同盟会なるものを組織し、本部は神戸市栄町五丁目四十三番邸に置き、五府三港其の他樞要の地には追々支部を設くる由。」

『横浜毎日新聞』(明治32年8月23日付け 欄外記事)







「◎時事漫評・・・・・横浜にはペンキ組合、神戸には清国労働者非雑居同盟。これらは先づ労働問題の先駆でもあるか。」

『神戸又新日報』(明治32年10月5日付け)








「一たび亀岡町に入らんか、一種の臭気紛々鼻をつき来る。三回四回訪ぬるに及て、鼻神経遅鈍となり、随って臭気を減ず。腐敗社会に在るもの腐敗を知らず。」

『人民』(明治32年10月15日付け)










「◎清国留学生の志望・・・・・清国湖黄総督張之洞氏の管下より派遣せる本邦留学生四十六名は上海より神戸丸に便乗しこのほど当港を経て上京せるが、なお後発三十六名は次便の汽船にて同所を発し本邦に向航せるはずにて、今回派遣の留学生以上合計八十一名にて其の志望の種類別は左のごとし。

陸軍軍人志望者 三十二名
砲兵工廠に入り武器製造志望の者 二十一名
農工商志望者 十二名
各学校視察者 二名
測量研究者 四名
桜組に入り製革業修業の者 十名」

『神戸又新日報』(明治32年10月31日付け)






































明治32年に、関根忠吉(淀藩の士族)、島粛三郎(越後長岡藩の士族)、広瀬藤太郎(越後長岡藩の士族)の三人は数百名の会員を募り、西村勝三を会長に渋沢栄一らを名誉顧問に迎えて『日本靴工同盟会』を創設。

『皮革世界』(第3年第1号)




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中央が広瀬藤太郎

『皮革産業沿革史上巻』より





























「◎労働組合期成会・・・・・同会は産業発達のために資本と労働との調和を望み、更に労働者の自主の気象を養はしめんとの目的を以て去る三十年に創設されたるものなるが、同会には鉄道工夫、靴工、土方、その他職工らの入会者多く目下会員五百人あり。毎月一名二十銭宛の積金をなし、労働問題の演説会その他の運動費に充つると云う。」

『時事新報』(明治32年11月13日付け)





兵卒の再服役・・・・・卒、看護手及び縫工、靴工にして下士たるの技能を有する者は現役満期の後三カ年を一期とし再服役をなすことを得。其の下士に任ぜられたる者は之を長期下士とす。憲兵上等兵、楽手補及び警備隊、縫工、靴工は現役満期の後、現役定限年齢に満つるまで、しばしば再服役をなすことを得。其の再服役年期は一カ年以上とす。」

『東京朝日新聞』(明治32年11月26日付け)







「◎労働界彙報・・・・・間見江金太郎氏等尽力の結果、来る十日頃大阪に鉄工組合支部組織せらるる由。」

『横浜毎日新聞』(明治32年12月4日付け)






「◎労働界彙報・・・・・神戸の清国労働者非雑居同盟会は労働組合期成会より工場法案制定請願に関し一致の運動をなさんとの相談に対して、余力無しと答へ来たれり。」

『横浜毎日新聞』(明治32年12月4日付け)







◎陸軍零聞・・・・・下士制度改正の結果として各兵科に工長を設置する事となりしに付きて、蹄鉄、縫工、靴の各二等工長にして三十二年七月一日調べにて進級停年最下限に達したる者はこの際抜選進級せしむる事を得る旨通達せり。」

『東京朝日新聞』(明治32年12月29日付け)











明治33年



★この年、陸軍省、靴工兵制度をついに廃止。


◎縫、靴工卒の沿革・・・・・、、、当時縫、靴工長はその階級を曹長相当に進み得らるると同時に、俸給において技術加俸なるものを受け、その当時の特務曹長を遥かに凌駕するの俸給を受け得たるものなるがゆえに、もし下士として或る年代を経過せんと欲する希望の兵卒ありしならば何れも工長たらんことを希望したる観あり。然るにその境遇の懸隔甚だしき縫、靴工が前述のごとき怠慢より、縫靴工場はいたずらに経費を消費するに過ぎざる無用の長物視され、明治三十三年に至りて遂に廃止せらるるに至りたるなり。」

『陸軍縫工卒靴工卒要範』(万月堂印刷部 明治42年)



●靴工卒は兵卒と同じく三年間の兵役の義務を果たしながら、
進級がなく、三年間ずっと二等兵のままであった。

●靴工長
(注1)と靴工卒の待遇面でのあまりの格差に、
靴工卒は、不平不満をもって現役三年間を過ごさねばならなかった。

●大方の靴工卒は真面目に業務に励むことを止め、怠慢になっていった。

●靴工卒は、しだいに、一般兵隊からも排外されるようになっていった。

●靴工長の中には、学科はともかく、製靴技術においては
靴工卒にも及ばない者もいた。

●徴兵検査の際、靴工を志願して入る者は皆無で、ほとんどの場合は、
検査執行官が入隊者の経歴を見て、取捨考量して捕捉していた。

●靴工卒の中には、藁(わら)靴しか履いた事のない僻村の農夫や、
自分の名前すら書けない者もいた。



(注1)工長学舎は靴工長、縫工長を養成するために設立された機関である。

「陸軍工長学舎・・・・・陸軍縫工長靴工長となるべきものを養成する処とす。修業年限は凡そ一ヵ年半、学生は現役、予備役、後備役の籍にある兵卒中志願の者にして検査合格の者を採用す。学生所用の器具材料及び修業の費用は一切之を給與す。」
『改正官立公立及ビ市立諸学校規則集』(広原新 明治28年)








「◎労働界彙報・・・・・神戸牧野、間見江氏等、本月中旬該地にて演説会を開くはず。弁士来阪を依頼しこれり。」

『横浜毎日新聞』(明治33年1月10日付け)






 





靴工同盟会・・・・・先に靴工倶楽部と称せし靴工同盟会は京橋具足町に其の事務所を置き、西村勝三氏を会長として府下の同職工を網羅し会員相互救助の方法を設け、専ら雇主と被雇主との関係を円滑ならしむるといふ。」

『横浜毎日新聞』(明治33年3月12日付け)




◎日本靴工同盟会・・・・・靴工同盟会は、きたる二十日、神田旅籠町福田亭において会員各自の製品品評会を開き、一は技術の進歩に、一はその売上げ総額の二分を本会へ寄付して相互救済法の資金にあつべしという。」

『横浜毎日新聞』(明治三十三年三月十九日付け)







「◎職工連の衝突・・・・・品川ペイント会社の職工渡辺金次郎(二十二、三)外五名は昨日汐干狩の帰路、、、品川、、、院前に差し掛かりたる際、同町桜組の靴工中川藤作(二十五)外三四名の者が微酔を帯びて通りかかりしに出逢い、双方互いに論争を始めたるが気早の藤作は忽ち携えたる貧乏徳利を以て金次郎の後頭部を殴打し長さ一寸二分外二か所の負傷をなさ、、、張して先ず被害者金次郎を品川医院に連れ込み、それより加害者を品川署へ引致したり。金次郎の傷は凡そ二週間位にて全治すべしとのこと。」

『時事新報』(明治33年4月4日付け)





◎軍用靴の発明・・・・・諸岡正外二名は軍用靴の改良を主とし潜心研究すること十余年猶実地に使用経験する事五年にして漸くその実効を確かめたれば、今度軍用靴として採用方を陸軍省へ出願したるを以て同省においては現品を各師団へ配付し試験の上いよいよ其の効用を確かめたる上にて採用するはずなりと。」

『読売新聞』(明治33年12月9日付け)










明治34年



◎軍吏の怪しかる行為・・・・赤坂区青山権田原町四十一番地陸軍一等軍吏福井清水(四十三)というは最近四五ヵ年間に一万円以上の金を貯蓄したるは世人が怪訝の念に堪へざる所、不思議やと探ってみれば、目下桜組にありて製靴を陸軍省へ納むる役を引き受け居るは其の妻阿金(三十五)の弟にて深澤貞次郎といふ男、その以前は四谷の郵便局にありしを桜組へ入らしめしにて此の間に文字以外言語以外のソレ不思議なる金儲の道のつき居るは云ふまでもなき事なるべし。元来この福井は養子にて家附の娘なりし妻は三人の子を残して夭死せしより今の阿金をば二度目の後添として容れし処、阿金は非常に冷酷なる女にて養父母に侍する事甚だ不親切にて、母阿松(六十七)は年中下婢同様に取り扱はれ、父計亮(六十九)もまた老体をも厭はず深川の倉庫の番人をなし九円の俸給を得るにもかかわらず、そは悉く取り上げられ其の中より煙草銭として二円五十銭を得るのみなりとは、余りにむごき夫婦といふべし。」

『万朝報』(明治34年2月17日付け)







◎縫靴工長召募・・・・・本年六月縫工長候補生三十名、靴工長候補生三十名召募に付き志願者は四月末日までに陸軍省へ出願すべし。」

『東京朝日新聞』(明治34年3月15日付け)









◎関根製靴店・・・・・米国得業・・・・・高等製靴師・・・・・赤坂区榎坂町四番地・・・・・拙者等多年米国に於て製靴の研究に従事し聊か得る所あり。今我国の製靴業に一大改良を加へ率先して他の模範たらんとの志望を以て茲に製靴店を開設し国内第一流の職工を傭聘し原料の精選は勿論欧米最近の流行意匠に従ひ美観を主とすると共に堅牢を旨とし而かも比較的最低の廉価を以て高需に応じ申すべし。冀くは微意御□顧の上陸続御注文の栄を垂れ給はんことを。◎御用の節は御一報次第直ちに参上可仕候。」

『人民』(明治34年3月26日付け)









◎日本労働者懇親会・・・・・、、、▲労働者総代の演説、、、靴工同盟会の名誉幹事小川平吉氏(注:1)は一場の演説を為したりき。」

『労働世界』(明治34年4月15日付け)


(注:1)



http://roudouundoumeiji.com/09020215.P1030647.JPG

小川平吉(弁護士
/衆議院議員)









◎靴職工の同盟罷工起こらんとす・・・・・芝区露月町の靴商大塚組にては靴時価低落せしより職工の賃金二割方を引き下げたるに、三百余人の職工中百余名は職工長江澤要助を頭となし、昨日午後二時半ごろより京橋区新肴町開花亭に会合して同盟罷工の企てをなさんとなしたるに、其の筋にては不穏の挙動に出でんことを虞れ、その未発に鎮撫せんとなしたるより、この会合は何等の要領を得ずして午後七時半ごろ散会したれど、まだ何かありそうなり。」

『万朝報』(明治34年5月12日付け)







◎靴職工三百余名罷工・・・・・芝区露月町陸軍省用達靴商大塚省三は三百余名の職工を使役し盛んに陸軍省の御用を達し居たるが、近来物価下落の趨向あり従来の賃金を支払い難きより、工員を甲乙丙の三等に分かち従来よりは二割方賃金を減じたるを以て職工連は檄昂し、一昨日午後二時過ぎ三百余名の職工は同盟罷業を為し職工長芝区愛宕下町二丁目十四番地江澤要助(三十)を始めとし重立ちたるもの百十余名京橋区新肴町の開花亭に集会し賃金復旧の事を協議し、昨日総代をして大塚方へ談判せしむる筈に決し同日は無事散会したるが、芝、京橋両署にては万一を慮り厳重の警戒を為したりといふ。」

『東京朝日新聞』(明治34年5月13日付け)












◎靴工同盟の争議調停・・・・・去る十日頃芝区露月町の靴商大塚組にては、靴の時価低落せしより職工賃金二割方を引き下げたるに三百余名中百余名は同盟罷業せしが、遂に全国靴工同盟会の調停に応じ、工料四銭五厘の値下げを二銭の値下げとして折り合ふたりといふ。」

『社会』(第三巻第五号 明治34年5月20日)









「◎机の塵・・・・・往年米国で愛国同盟会というのを組織していた連中で、現在帰朝在京中の者が二十余名ある。其の内代議士となっているのが、山口、日向、粕谷、菅原の四名だ。今回菅原以外の三名は、政友会を脱して行動を明らかにしたので、右の二十余名が発起となり、近々紅葉館で三名激賞の盛宴を張るそうだ。」

『万朝報』(明治36年5月29日付け)










◎陸軍経理局の革新・・・・・陸軍部内の??たりし野田豁通が経理局長を辞し外松孫太郎に代わりしより以来、同局に一革新を来たさんとする望みあると同時に御用商人には一恐慌を来たさんとするに至れり。現に軍用靴の如き野田時代には大倉、桜組の両組を始めとし其の他縁故深き御用商より買い上げ、御用商は桜組を除くの外皆な之を他の下受けに受け負わしめ、下受けは又其の下の下受けに受け負わしむるという仕組みを以って納付し来たりしを以って、価格の法外に高き割合には品質極めて粗悪にして、保存期間まで使用し得らるるものとては之なかりしも、多年の情?は其の幣を助長せしむるまでにて、殆んど刷新の望みなかりしに、外松の新たに局長なるや断然製靴の買い上げを廃し原料革を買い上げて陸軍自ら製造に従事することとしたれば、大倉、桜組等の狼狽は一方ならず、手を換え品を変えて百方其の向々に運動を試みたるも、遂に徒労に帰し、其の他の御用商は今なお密々運動を試み居れど何れも目的を達すべき見込みなきが如しという。かかる有様なれば、大倉、桜組等の損失は意外に多かるべく、いささか気の毒気にも見ゆれど、兎に角陸軍部内に一時なりとも革新を来たさんとするの望みあるに至りしは喜ぶべきことなり。」

『万朝報』(明治34年6月15日付け)


※参考文献

◎男爵野田豁通・・・・・本郷区本郷金助町一番地陸軍監督総監野田豁通は陸軍の御用商人輩より献納したる神田区西小川町一丁目一番地の別宅に元と烏森芸妓酒井のぶなる妾を置き、同じく御用商人等より寄付したる近傍貸家の差配たらしむ。」

『万朝報』(明治31年9月1日付け)













◎軍用皮革購買の改正(桜組愈々窮す)・・・・・外松陸軍経理局長の新手腕は愈々出でて愈々面白し。彼は新任早々先ず軍用靴の買い上げを全廃して御用商を狼狽せしめ、次いで今回軍用皮革の購入法をも改革したり。軍用皮革中最も需用多き多脂牛革は大倉組が砲兵工廠にて失敗せしより以来殆んど桜組の専売に帰し、他の製革場にて製したるものは品質、価格の如何に拘わらず之を買い上げず独り桜組より買い上げ来たりしに、新経理局長は旧例全廃し爾今各営業家より買い上ぐることとしたり。桜組が専売権を握りし時代にあっては同組において製造せしものを納付すべき契約なりしも、時として外国品若しくは他会社の製品を混ずることあり。現に東京付近にて一流の製革場と称せらるる目黒の田中製革場が多脂牛革を桜組に販売し来たりしは数年前よりのことにして、桜組は之を自家の製品と称して陸軍に納付し居りしにも拘わらず、其の支配人大澤省三は被服工廠に出づる毎に、田中の製革を粗悪不良なりと吹聴し田中とはかつて取引したることなしと明言し居りしに、今度経理局長の更迭に際し、同局内にて非桜組と称せらるる一派はひそかに神田の革商村上某をして田中より桜組に当てたる送り状及び判取帳を借り取らしめ之を桜組派の者に示し大澤の虚偽を証明したれば、一派の奸吏、奸商もさすがに面目を失いしという事実あり。又桜組は数年前より軍用に堪えざるインド革を輸入し強度の渋液に侵漬し、之を普通の底革として陸軍に納付し来りしも、当局者は何ゆえか之を黙認し居りしが、局長の更迭と共にこの奸手段も亦忽ち暴露せられたり。外松新局長が今回購革法を改めたるはこれ等の事情あるがためなるべし。桜組は多年軍用靴を納付し其の屑革を以って一種の粗靴を製し、之を賢く市中に販売し、両者によりて三割以上の利益を収め、殊に専売権を握りし多脂牛革においては一ヵ年少なくも二十万円以上を納め五割以上の利益を収め来たりしに、今や軍用靴は広く一般より買い上げらるることとなり、多脂牛革亦其の専売権を奪われたれば、桜組はまったく其の財源を失いたる姿となれり。桜組たるもの是に至るも尚ほ能く其の命脈を保ち得べきや否やは一疑問なり。」

『万朝報』(明治34年6月17日付け)



「◎横浜沖人足の同盟罷工・・・・・日本郵船会社横浜支店常用の沖人足三百余名は
常に沖合に碇泊し居る同社船舶の積荷揚げ卸しを為すものなるが賃金の事より
一昨日来同盟罷工を為し同社の迷惑大方ならざる由なるが、
其の原因は元来神戸各地の沖人足は新旧論ぜず平等の賃金を支払い、
且つ沖の船舶より受くる認め(酒代の事)も当日直ちに割与ふる例なるに、
横浜にては此れに反し旧に一割二分新に八分の割合にて日給を支払い
且つ認めも六カ月ごとに割り当てる事となり居るを、
神戸の如く新旧の日給を平等にし認めも当日支払いくれと
請求したるも容れられざるためなりと云うが、
昨朝来会社と双方を仲裁する者あれば、
多分昨日中には結果を見るに至りしならんと。」

『都新聞』(明治34年8月15日付け)











「◎関西労働組合期成会(十五日大阪特発)・・・・・今日当地の労働者一部の発起にて労働者の品位を高め其の権利を振張し相互の保護をなさん目的にて関西労働組合期成会なるものを創設し昨今それぞれ趣意書を配布し入会勧誘に運動中なり。」

『東京朝日新聞』(明治34年8月17日付け)








◎経理局の軍靴買い上げ・・・・・外松経理局長が新任早々同局と御用商との間における幣署を一掃せんとし、先ず軍用靴の買い上げを廃止し被服廠にて製造するの案を定めたるは既報の如し。当時吾人はこの立案の本旨を喜び陸軍部内の刷新を期待したりき。然るに意外にもこの案の監督会議に附せらるるや御用商が巧みに運動したる結果として各御用商が現に買い入れ若しくは製造して所有し居る分だけは納付せしむべしというに決し、直ちに大倉組、桜組、大塚、製皮会社等に対し現在品の数を書き出さしめたるに、大倉組の一万足、桜組の二万足を始めとしてそれぞれ書き出したる其の総計は五万足以上に達したりしが、今度いよいよこれ等に対して買い上げの指令を下させ、何れも俄かに製造に着手し、大倉は下請けの内藤某に、桜組は品川の製靴場及び各所の下請けに命じ、これがイカサマ物の納商内なりとて日夜製造に急ぎ居り為にボロ皮の価格は急に昂騰を来たすこととはなれり。亦以って今回納付すべき軍用靴のいかに粗悪なるかは予想するに足らん。現に軍靴用甲革の時価は一坪三十一銭なるに今回の納値段は従前通り一足二円八銭なりといえば御用商人がこの甲皮を用いて制規通りの品を製し二円八銭に納付し得べきはずなく、従前よりも一層粗悪の品を納付すべきは無論のことなり。経理局が刷新の緒に就かんとしてたちまち奸商のために動かされ既製品だけ買い上ぐるの名をもって実際には新規に製造せしめ、しかも前記の如き粗悪品を買い上げんとするに至りしは吾人が外松局長のために深く遺憾とする所なり。」

『万朝報』(明治34年9月20日付け)






「◎靴工長の大賊・・・・・近衛騎兵連隊附の靴工長門脇要五郎(三十八)は窃盗の廉によりこの程其の止宿せる神田区、、、」

『都新聞』(明治34年10月1日付け)







◎広島軍隊の疑獄(二十日広島特発)・・・・・昨日輜重兵第五隊蹄鉄工長、靴工長等五名連類三名収賄窃盗監守盗等の嫌疑にて憲兵隊へ拘引せらる。尚軍吏に一名嫌疑者ありと。又宇品補給廠内に収賄嫌疑あり。目中捜査中なり。」

『東京朝日新聞』(明治34年10月21日付け)






◎大倉組と清国の軍機処・・・・・大倉組は近来我が陸軍省に信用を失し漸次御用株を剥奪されんとする傾向あるを認め、更に清国軍機処の御用商人たらんとし、先頃来某将軍の手を経て張之洞、劉坤一等と交渉しつつあり。昨今の処にては成効の見込みありという。」

『万朝報』(明治34年10月30日付け)





「◎職工組合総会・・・・・は昨日午後一時より琴緒町なる同事務所において開き、是まで公認団体となり居らざるより今回更に職工組合として公認団体を設立することにつき協議したり。」

『神戸新聞』(明治34年11月7日付け)







「◎西川光次郎先生・・・・・先生年少、一介の書生を以って自ら居る。然し其の無頓着な風采の中に、頗る面白味がないではない。其の熱心と其の声とにおいては確かに演説家の資格を備えて居る。将来有望の弁士としてここに紹介しておく。」

『万朝報』(明治34年12月13日付け)



明治35年










 「◎軍靴共同請負の困難・・・・・軍靴の改良につき先に桜組、大倉組、福島合名会社、日本製皮会社等が共同して機械縫いの軍靴製造を請負はんとし、其の筋に願い出でたることは其の当時既に之を記せしが、右の諸会社は未だ機械縫い製造場の設備之なきに引き替え、陸軍省においてはドイツの独米機械会社より総ての機械を買い入れ不日到着すべき予定にして、六月末ごろまでには製造工場の落成を見るべきまでに進み居るを以って、先の四会社共同の請負談は遂に破却せらるべきこと、其の筋の人は語れり。」

『万朝報』(明治35年2月14日付け)







 「◎縫工靴工の退営・・・・・陸軍経理改革のため縫工靴工は本月三十一日限り帰休せしめ、又三十四年徴集の同工は四月一日第二国民兵へ編入せしむべき旨各師団へ達せらるる。」

『万朝報』(明治35年3月1日付け)











◎靴工の退営・・・・・。」

『参陽新報』(明治35年3月1月付け)」








「◎陸軍
縫工靴工の全廃・・・・・陸軍省にては今年度より各師団に隷属せる縫工及び靴工を全廃して是を一定の場所に集め以て軍隊一般の需要に充つることとし其の予算を編成し現に本議会に提出したるが該予算も既に通過したるを以て本月三十一日を以て断然其の全部を廃止することとなり目下其の工場うぃば本所なる被服廠内に建築中にて該機械は近々到着し其の据え付けをも了りたる上にては十三師団全部の需要に応ずるだけに靴は製造し得らるるに至るべし。因みに記す。第七師団に限り縫工靴工は特に持続せしむるかの如く伝ふるものあれども是は全くの訛伝に過ぎずと経理局長は語れり。」

『都新聞』(明治35年3月11日付け)











「◎横浜の職工労銀・・・・・横浜市は全国中生活の最も困難なる地の一に
数えらるれども
年々各地より移住する者極めて多く今は其の人口ほとんど
三十万に達したるを以て物価の高き割合には労銀卑し。
是れ昨今各地より同地に集まる者は概して職工その他の労働者なるを以て
自然需用供給の権衡を失いて斯くの始末となりしものなり。
左に最近の調査による重なる職工の労銀表を示すべし。

袋物職、染物職、西洋洗濯職、和服仕立職、洋服仕立職、船大工職、
大工職、左官職、ペンキ塗職、煉瓦職、煙草刻職、菓子製造職、
靴職、鍛冶職、活版植字職、下男、下女。
、、、
靴職 月給 最高、三十五円 普通、二十五円 最低、十五円
、、、
以上の表によりて見れば、月給にて最も高きは靴職にして最も低きは下女下男なり。」

『東京朝日新聞』(明治35年6月2日付け)









◎靴工同盟会・・・・・十五、十六、十七の三日間、神田淡路町の同会事務所において競技会を開く。榎本子、大島男等出席すべし。」

『東京朝日新聞』(明治35年6月10日付け)











◎靴競技会・・・・・靴工同志会は神田葵路町芳梅軒にて昨日より三日間競技会を開き縦覧に共す。」

『東京朝日新聞』(明治35年6月14日付け)







◎職工の哀れなる縊死・・・・・深川区西六軒町十一番地の靴職松田源四郎(三十四歳)は女房ハナ(二十七歳)との間に三人の子供さへあり父賢次郎(七十五歳)と都合六人暮らしにて、先々月上旬まで本所区向島大倉組靴工場の職工を勤め辛くも細き煙を立て居たるが、会社の都合にて解雇されしより?とその日にも差し支え心痛の余り哀れにも先月中旬より発狂の気味となり居りしが、一昨夜十時頃床に就き昨朝三時ごろ父の賢二郎が便所へ赴かんと源四郎の臥床を通りしに、天井の折釘に細帯を掛け縊死を遂げ居たりしより大いに驚き、直ちに其の旨深川署へ訴え出で式の如く警官医師検死の上死体は家人に引き渡されたり。遺族の心根も想われて涙ぐまるることにこそ。」

『読売新聞』(明治35年8月1日付け)












◎選挙彙報/東京靴工同盟会の決議・・・・・市内の靴工同盟会は一昨日集会の上、蔵原惟郭氏を推薦することに決議し、それぞれ運動を始めたり。尚ほ本日は神田区東龍閑町煙草商組合事務所において蔵原氏の政見発表演説会を開く由。」

『東京朝日新聞』(明治35年8月6日付け)










◎同情の涙・・・・・去る一日、職工の哀れなる縊死と題したる深川区西六軒町十一番地靴職松田源四郎の遺族へ左の恵金あり。
金五十銭・・・遠州坂野 横田 保
金五十銭・・・麻布区飯倉六丁目 山城屋」

『読売新聞』(明治35年8月7日付け)



















 「◎日本靴工同盟会の計画・・・・・日本靴工同盟会本部にては、今回米国靴工同盟会と気脈を通じ不日営業部を設け、靴類原料および付属品の直輸入をなし廉価をもって会員に分つことに決せるよし。」

『読売新聞』(明治三十五年九月十九日付け)





 「◎大津聯隊の疑獄(滋賀県)・・・・・同聯隊縫工長と靴工長、各一名は、いづれも大津憲兵隊の手に拘引せられ、第四師団軍法会議に附せられたり。右はおびただしく官品を窃取したると、御用商人よりあまたの賄賂を受けたるの嫌疑によると。」

『読売新聞』(明治三十五年九月二十九日付け)









 「◎陸軍被服の改正方針・・・・・久しく調査会の研究に附しありし陸軍被服の改正調査は漸く進行して不日其の結了を見るまでに至りたる由。元来現在被服の欠点は、、、(四)軍靴も欠点少なからず濡らせば固く強ばり又其の持続も案外短く保存の困難なるは兵卒をして非常に時間と手数とを要せしむる等の諸点なるより調査会はこれ等の点について新案工風を凝らしたる結果、、、靴は所謂改良靴と称する象皮の裏を出だして機械〆中縫いとしたる者を用ふることに決定し居る由。されど陸軍の制服は大元帥陛下の御制服にも関係あること故裁可を仰ぐまでに更に丁寧なる調査をなすといふ。」

『万朝報』(明治35年10月18日付け)








◎靴工同盟会・・・・・評議員河川荻太郎氏等29日渡米に付き昨日松田楼において送別会を開きたり。」

『東京朝日新聞』(明治35年10月25日付け)






 「◎陸軍御用商の一掃・・・・・陸軍経理制度改生以来、宿弊やや掃蕩されしも物品購買等について尚ほ全く醜聞を去らず、局長課長等が公正に持せんとするも属僚以下暗に御用商人と結託して不正の利を図るもあれば、これ等商人を一掃するの議当局間にありと。」

『万朝報』(明治35年10月28日付け)










 「◎陸軍省整理の百万円・・・・・此の程提出されたる予算の項目中には明示せられざるも、其の内三十余万円は携帯天幕靴改良其の他に、九万余円は兵器弾薬に、残余は鉄道大隊一個中隊増設其の他に使用さるるはずなり。」

『万朝報』(明治35年12月12日付け)







明治36年





「◎靴工の不平談・・・・・記者一日某靴工に会す。彼慨然として談りて曰く。『今度陸軍では至極便利な器械を買入れて靴の製造を始めました。之れまでは上等職工には一円二十銭までも賃金を拂ひ、それでもヤット平均一日に一人一足の割より出来なんだのであるのに、此の器械を使ふと日給三十五銭で何んにも知らぬ兵隊上りのヤクザ職工を使ふても、平均一日に一人で十二足は出来るのです。ですからタマリません。コヤツの来た為めに市中の靴工は大弱りです』云々と。斯く一器械の輸入に遇ふてさへ諸君は弱るものなるに、何故社会主義者の言に耳を貸さざるか。不平や泣言を云はずに静かに研究する所あれよ。大膽に己が救済策を考へよ。」

『社会主義』(第七年第七号・明治三十六年三月三日)







 「◎陸軍腐敗者の検挙・・・・・従来軍人の腐敗と言えば経理官のみの如くに思われしも、経理制度改正の結果各旅団長を始め連隊長、大隊長其の他陸軍諸官庁学校等長官を残らず支払い命令官とし直接品物の購入をなし合計を取り扱はしむることとなりたるより、腐敗は各兵科一般に瀰漫するの有様となりたり。されば寺内、外松等はこの際大いに之が監督を厳にせんとて監督部及び各地憲兵隊に命じ不正の者を探偵せしめつつありしが、さきには広島及び越後新発田における御用商人出入の禁止あり。今又第二師団騎兵連隊に不正事件持ち上がり、大尉鹿野俊秀並びに之に関係ある御用商人数名又は其の妾宅等は憲兵隊の取調べを受けたる由。」

『万朝報』(明治36年3月18日付け)





 「◎机の塵・・・・・御用商人が軍人を腐敗せしめること益々激しいので、陸相寺内は会計規則第六十九条を励行させることにした。ところが御用商人と関係深い軍人は到底之を励行することが出来ぬ。殊に御用商人はイザといはば「従軍の秘密」を暴くなどと暗に威すので軍人等いよいよ縮み上がっておるそうだ。しかし陸相の方へ対しても怖いと見えて、いい加減に御用商人を丸め、実際物品を購入するに成るべく善い商人から買い入れるようにして居るとか。」

『万朝報』(明治36年3月26日付け)






「日洲独立新聞主筆 柳内蝦洲〔柳内義之進〕◎君は農学者よりは政治家及文学者を出すとの世評ある札幌農学校の出身者で、学校を出るや否や札幌の北門新聞の記者と成られて居ったもであるが、大井馬城の東洋自由党を起すと東都に出で来りて其の機関『新東洋』の記者となりて、此の紙上で盛んに社会主義を説き立てた。がしかし此の新聞は不幸にして間もなく廃刊したので、以来君は専門に社会主義を鼓吹するの機関を得ず、久しく江湖流浪の客となって居ったが、明治三十三年の春馬城の大阪に大日本労働協会を起し其の機関『大阪週報』発刊の計画あるに及び、当時万朝記者たりし君は其の地位を捨てて、行李怱々大阪に下り、其の主筆となった。が不幸にして『大阪週報』も一年ならずして倒れた。で君は再び失意の人となりて東都に帰り、やまと新聞等に筆を執られて居ったが、今は日向国に下りて日洲独立新聞の主筆をして居らるる。」

『社会主義』(第七年第十号・明治三十六年四月十八日)





 「◎野田危うしとの説・・・・・前被服廠長軍吏熊田正路は内国通運会社の帳簿より収賄の罪跡暴露して拘引されたるが、同人の罪状に就いて野田豁通も甚だ危うしとの説あり。元来熊田は野田の書生にて彼に取り立てられ現時の地位に至りしものにて、離るべからざる縁ありといへり。」

『万朝報』(明治36年4月25日付け)






 「◎陸軍部内腐敗の暴露・・・・・第一憲兵隊は陸軍経理部内における不正軍人の大検挙に着手せり。一等軍吏蛭間笑卿は(拘引せられたるよう記せしは誤りなれど)一昨日午前第一憲兵隊に召喚せられて訊問を受け、昨日はサあらぬ顔して近衛経理部に出勤し居たれど、早晩免れざる証拠は其の筋に握られ居れりと。又之と同時に被服官二等軍吏村山平三郎は同隊に拘留せられ居れり。右は何れも先に拘引せられたる熊田事件即ち通運会社事件に関係せる者なり。聞く所によれば村山は通運会社より二百円の収賄をなし居れりと。この外其の筋において既に確証を握り居る者猶数名あり。其のうち一名は予備に編入せられありといえり。而してこれ等の多くは野田豁通時代の遺物なり。野田時代の経理官は花合戦を以って本職とせしほどの有様にて、当時高島鞆之助の邸と野田の邸とは上下二級の賭場となり居り、高島邸に集まる者は野田、川俣、国傳(予備監督監)、曽我祐準、渋沢栄一、石黒忠とく、田中長兵衛(御用商人)、其の他高官大商等にして、野田邸に集まる者は即ち今回の嫌疑者熊田(元野田の書生)、村山、蛭田其の他の官吏商人二三十名あり。野田夫人住子も頗る花の名人にて常にこれ等の連中に交わり勝負を争い居たるなり。斯かる次第なれば今回の事の火の手がさかんになりて検挙の歩を進むる時には、野田より延いて桂、岡澤にも及ばんも亦知るべからずとなり。」

『万朝報』(明治36年5月16日付け)








 「◎野田、大倉の狼狽・・・・・陸軍経理部内における不正事件暴露して熊田、村山、蛭間等の拘引せられたるより野田豁通、大倉喜八郎等は俄かに狼狽して揉み消し運動に着手し馬車に乗って八方に駆けまわり居れり。当局者は何故に早く野田、大倉、森(清右衛門)等の家宅を捜索せざるかと歯がゆがり居る者もあり。」

『万朝報』(明治36年5月21日付け)








 「◎机の塵・・・・・此の頃陸軍省被服廠長の天野と糧秣廠長の梶塚との処へ大きな酒樽を贈った御用商人がある。すると両人は翌日その酒樽を役所へ運搬して、商人を呼び出して之を突き返し、叱りつけて受け取りを書かせたということだ。ところが近来はこの賄賂返却の領収証が大流行で商人共が賄賂を遣うには初めから領収証を添えて持って行く。それで其の文句に曰く。「一金何百円なり。右は貴官贈呈致し候ところご返却され何とも恐縮の至り御座候。依って一札如件」。」

『万朝報』(明治36年6月4日付け)












 「◎製靴会社と陸軍・・・・・昨年中陸軍被服廠は製靴機械を桜組の手にて輸入し、技師をドイツより招聘し軍用靴の製造に着手し、民間よりは一切購入せざる方針を定めたるも、同廠の製靴額は陸軍一般の需用を満たすに足らざるのみか、其の製造費割合に高く兵士用の靴一足に付き少なくも四円以上に上るべき計算となりたれば、外松経理局長は更に方針を変じて、在来の納靴商福島、大倉、製皮、桜の四組に説き、合同して製靴株式会社を起こさしめ、之に軍靴の製造を命ずることとし、会社の事業に着手するまでは、右の四組より納品せしめ来たりしに、之に対する被服廠の検査は極めて厳重にして、現に今回福島組より納めし一千足の内、合格品はわずかに四百に過ぎず六百足は不合格の刻印を付して?却せられたる程なれば福島組の狼狽一方ならず、製靴会社もすでに機械を据え付け将に事業に着手せんとしつつある折柄、当局の検査かく厳重にてはとても営業の見込み立たずと勝手の理由を付し簡便の検査法執行の儀を当局に出願せんとし、昨今密に運動し居れり。」

『万朝報』(明治36年6月21日付け)





◎陸軍被服廠の製靴現況・・・・・昨年九月三日軍靴製造を開始したる陸軍被服廠(本所区横網町)にては昨今男、女、幼年の三種より成る数百人の職工ありて、我が陸軍全軍隊及び各部に給する軍靴製造に着々成績を示しつつあり。その製造方法は民間職人手工の緩慢とは全く異なりて全然蒸気原動力の精巧なる機械を用ふ。この機械は其の当時彼の地にありし長岡少将の熱心なる周旋にてドイツより買い入れたる現今世界第一との好評ある新組織にて、靴の出来上がるまで四十二種の作用を経るなり。之に要する工場は五六あり、初め職工は残らず全くの素人を選びたるにより職工通有の悪習慣なきは同廠に取っては此の上なき幸福なり。事業開始後日浅きも、一般に職工の技術は教師を要せざるまでに進歩したる由。元来同廠の目的は被服地質の調弁、軍靴の製造及び両者の分配、貯蔵等にあるが、昨今の処何人も好成績を認むるは軍靴製造の方なり。被服の方は地質の調弁、分配などに止まりて、未だ裁縫の運びに至らず。多分其のうち機械買い入れの上裁縫に従事すべし。かかる次第なれば、今後なお同廠事業の拡張を要する由。廠長は三等監督矢野正躬氏なり。なお数年前よりの宿題なる陸軍下士卒被服改正に就いての試験は同廠にて怠らずなしたるが、今はほぼ成功して新案の各兵科被服を一通り参考室に備え置けり。」

『東京朝日新聞』(明治36年7月6日付け)








 「◎陸軍糧秣、被服両省の近事・・・・・陸軍糧秣廠の缶詰事業は既報の如く大いに進歩し幾んど完全なる成績を表せるも、唯蓋附け用ゴムの製造に、職工がゴム粉を振掛け居るは目障りなり。又同廠にては戦地用茶及び馬糧の秣を圧搾して輸送することを研究しつつあり。もし成功せば大いに便宜を得べし。被服廠の軍靴製造工場は昨年の九月より事業を始め、職工も多く素人を雇い入れたるため未だ見るべき進歩をなさず。割合に新式の器械あれど、其の技術たる四十余の分業となりて中には全く職工の手術によるものもあり。一見他の工場に比して拙劣の観あり。善良なる技師を雇い入るるに非ざれば好結果を得るの見込みなかるべしと。」

『万朝報』(明治36年7月6日付け)





 「◎陸軍省と被服廠大阪支所・・・・・陸軍省は明年度予算において是非共被服廠大阪支所を設立せんとの計画あり。もし議会に失敗せば、営繕費中より搾り出して勝手に設立すべしと意気込み居れり。」

『万朝報』(明治36年7月20日付け)





 「◎大倉喜八郎が脅喝取財されたる顛末・・・・・赤坂区丹後町六十五番地北村弥太郎(三十四)が一昨年一月頃大倉組にて陸軍省へ雲斎織多数納付せし際同省の取扱い主任故陸軍二等属島田恒栄と大倉組の取扱い主任福島鍋之助と某料理店において会飲せし事実を聞き知り、金銭を騙取せんと企て同年五月中京橋区銀座二丁目大倉組に至り頭取大倉喜八郎に対して右雲斎織上納につきては大倉組と島田軍属との間に報酬の約束ありしを此の度島田の遺族が契約を履行するなりと偽りて脅喝しついに同年七月二十六日大倉組の石亀堅次郎の手を経て京橋区五郎兵衛町二十一番地谷口精吉宅にて喜八郎より金一千五百円を騙取したること発覚して取調べ中の所昨日予審廷において弥太郎は有罪に決定されたり。」

『万朝報』(明治36年7月28日付け)





 「◎陸軍職工の扶助・・・・・三十五年勅令第百九十一号を以って公布されし兵器職工即ち東京、大阪両砲兵工廠職工の扶助料千六百余円は明年度の陸軍予算に始めて計上せられたる由。尤も陸軍省は勅令の結果として他の給料中より流用し三十五年度以来実際に給与しつつあり。同盟罷工をなさんとし、又なしたる兵器職工の扶助料問題は之にて解決されたるも、同じ陸軍所管なる製絨所、被服廠、糧秣廠の職工は未だ其の恩澤に浴するには至らず、同盟罷工も亦やむを得ざるもの乎。」

『万朝報』(明治36年8月6日付け)







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明治37年






 「◎机の塵・・・・・大倉組にてはこの前の日清戦役にて三百五十万円の利益を得たが、今度は少なくとも三四千万円を儲くる積もりだと言って居るそうだ。国民の血を吸う此の盗賊めー。」

『万朝報』(明治37年1月27日付け)












◎主人は忠、雇人は不忠・・・・・魯者という名を自ら名乗りて道義を無みする無法国は世の文明の仇敵天人共に怒る所なれば、何条我が日本の仁義の軍に刃向かう事を得らるべきや。されば我が国の忠勇なる軍士は国家のため文明のため、いかで彼の魯か者を打ちこわして野蛮の眠りを覚まさせばやと勇み立たざる者もなし。中にも府下豊多摩郡中野町三千三百十番地の靴職菊田源太郎(二十六)というはかつて軍事の教育を受けて今尚軍籍の中にあり。女房おみの(二十五)の外に麹町区麹町八丁目七番地鈴木倫太郎(三十)という雇人を置きて日夜製靴に従事しながら日露交渉の切迫に注意し到底戦争と見極めを付けたれば、その後は妻のおみのに対ひ近きに必ず召集の令下り自分も軍人の一人として出征するは必定なり。この愉快なる大戦争に従い邦家のために身命を捧ぐるは日本国民の名誉なれば一度出征する上は敢えて生還は期せぬなり。さする時はそなたは得意先の靴代金を集め家財は勿論道具一切を売却なし、その金を以て国許の長野県へ帰るべし。決して別れに臨みても女々しき振る舞いすべからずとくれぐれもいい聞けしが、果たして召集の命令あり歓び勇んでおみのに告別し、又雇人倫太郎にも後の事などいい置きて早々出発なしたれば、おみのは夫の命を守り兎も角も続く限りは此処にて世帯を張り居らんと倫太郎を力に相変わらず靴道世を営みおりしに、この倫太郎素より腹黒き悪漢なれば表面は忠実と見せかけて実は主人の出征を幸いに横着なる振る舞いしばしばあり、殊におみのが大切に思える得意先の掛金四十二円五十銭を密かに受け取りて着服せしのみならず、店にありたる靴道具一切を近所の古物商へ売りとばし其の金をも携えて主家を逃げ出し麻布六本木の某家に隠れて日夜品川の貸座敷大箸楼へ通い詰め時節知らず野良を尽くして大浮かれに浮かれ居りしが、おみのの難儀は一通りならず金は取られ道具は売られ、今は国許へ帰らんにも路用にさへ当惑し、泣く泣く此の旨を訴え出たれば、其の筋にても倫太郎の不埒片時も免し難しとて百方捜索の上其の居所を突き止めて引き捕えさんざん叱責したる上監内に収禁したりという。こんな奴を日本の籍に置くは汚れなり。宜しく魯者人として打ち懲らすべし。」

『東京朝日新聞』(明治37年3月8日付け)








 「◎陸軍被服廠の作業・・・・・目下同廠にて作業中なるは軍服、靴、蚊帳等にて、靴は革質の強くして耐久性の物を用い、蚊帳は頭部にかぶる仕掛にて普通の萌黄色蚊帳地を以って方柱形又は円柱形に仕立てて針金にて枠を作り、紐にて咽喉部に緊着せしめ、起臥共に自在なるものなり。廠内各工場の監督は厳重にして、一々検査の上荷造りして輸送し、奸商も乗ずるの余地なし。」

『万朝報』(明治37年6月2日付け)











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●日露戦争時、中国大陸へ派遣された日本陸軍靴工隊

『陸軍縫工卒靴工卒要範』(万月堂印刷部 明治42年)















◎露国内部の腐敗・・・・・露国兵站部並びに御用商人の醜態は今更蝶々するに及ばぬが、近頃ワルシャワよりイルクッスクへ輸送し来れる軍用靴は代価に積りて一万ルーブルに達せるに、皮の縫い目はことごとく糊もて継ぎ合わせ到底使用に堪えざるものなりし。」

『東京朝日新聞』(明治37年6月25日付け)
















◎某将校手写並びに自記・・・・・(右)第一線の警戒線から兵卒が降りて来る図・・・・・背に着けたるは外套と冬服と飯盆二個と靴と草鞋と?。大きな風呂敷包みは天幕である。この中には色々必要なるガラクタ物が入れてある。左の手に提げたるは湯沸かし薬?である。絵草紙などにある兵士の武装は中々立派だが実地の有様はこんなもの。その外多人数中には或いはネギや菜を持つ者もあれば、様々の風変わりがある。又兵卒は大抵口ヒゲを蓄えて居る。此の方がニラミが利くのと衛生上よいとの事だ。」



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『東京朝日新聞』(明治37年8月18日付け)

◎軍靴及び草鞋・・・・・軍靴には長靴、編上及び半靴の三種類あり。長靴は騎兵、砲兵、?重兵、編上は刻下戦列部隊、半靴は後列部隊に給与す。その供給現状を見るに、被服廠構内の靴工場は生産力最も大なるものにして、毎日数千人の職工を使用しドイツ製の世界最新式製靴機械をもって日々数千の軍靴を製出しつつあり。民間にありては千住の日本製靴会社は被服廠製靴工場と同一の機械をもって専門に軍靴製造に従事しつつあり。その他、大倉組、日本製皮株式会社、福島組等も亦盛んに軍靴を納入しつつあり。草鞋は最初一切使用せざる方針なりしも、日本人に取りては頗る軽便なるものにして之を希望する者多きをもって、当局者においても成るべく之に満足を与えんと欲するも、如何せん其の生産と運輸とにおいて補給の道充分ならざれば、草鞋のごとき破損しやすきものは実際上一般軍用となすべきものにあらず。ここにおいてか輸卒及び特別任務にある一部分に対してのみ之を給与することに決し、民間より草鞋を納入せしむるに至れり。尤も藁にて造りたる普通の草鞋にては一人一日に付き二足を要し補給方はなはだしく頻繁にして実際上連続して使用する能はざる恐れあるをもって、今回はことごとく麻にて製出することに決したるが、この麻草鞋ならば十日間一足の補給にて充分なりという。」

『東京朝日新聞』(明治37年9月12日付け)





「◎皮革・・・・・の大部分は前陳の軍靴製造の材料に用ひらる。即ち固有色牡牛皮なるもの是なり。その他の皮革の需要は之に比すれば殆ど謂うに足らざる少額なりと知るべし。その固有色牡牛皮と称するは牡牛皮に何らの着色をなさず、自然の地色のままを用ふるがためにして其の皮地の強緊なるは勿論、之に充分油を吸含せしめ、しばしば濡潤してしばしば乾燥するも決して固縮して破綻を来たし、又は足部に擦傷を起こすが如きことなからしめたるものなり。皮革を納むるものは東京の桜組、東京製皮株式会社、田中商店及び大倉組と福島組との大阪における両製皮工場大和の守道商店等なり。其の製皮の原料は本邦産を始め朝鮮、支那、もしくはアメリカ産の牡牛皮にして、既に戦争以前に輸入せられたるものにて、戦時の需用を充たして余りあるべしとぞ。」

『東京朝日新聞』(明治37年9月13日付け)






◎防寒具(福島)・・・・・毛布の寄贈者多く、又草鞋、靴献納の計画あり。」

『東京朝日新聞』(明治37年10月20日付け)












◎廃物利用の藁靴・・・・・軍の経理部にては、我が北越地方にて冬時使用する雪靴様なものを折衷して、防寒用藁靴を製するを工夫し、幸いこの雪靴製造に手慣れし従軍者ありし所より目下日々十余人の者に練習せしめつつ、かの馬糧を入来たれる「カマス」を取崩して製造中なるが、是れ元と黒川経理部長の考案に出でたるもの、固より一般軍隊の用に供すべくもあらずといえども亦是廃物利用の一端。」

『東京朝日新聞』(明治37年11月21日付け)










 「◎米人の日本排斥真相・・・・・米国桑港において日本労働者排斥の決議をなせしことは既にロイテルの報ずる所なるが、同市には現在数千の日本労働者あり。洗濯、製靴業に従事し、殊に製靴業最も盛んなるより、市の労働者は之を嫉視し機会ある毎に排斥に努めつつあり、随って市の新聞紙も例のヤンキージャーナリズムにて大袈裟に書き立つるより、諸外国人殊に日本官民を驚かすも、其の実、桑港市内の労働者に限ることにて、市外にある農業鉄道工事等に従う数万人の日本労働者は却って資本家其の他に歓迎せられて何の障害をも受けず。市の日本労働者排斥が毎々声高きに似ず、かつて実行されざるは全く右の事情によるという。」

『万朝報』(明治37年11月26日付け)


 












◎陣屋の二十四時・・・・・○毛皮で靴を作ろうと思い立つ。準備してきた冬靴が案外小さくて靴下が三枚しか穿かれない。到底これでは凌がれそうにないから、営口から子羊の毛皮を取り寄せたのである。総べて出征前に、馬鹿に大きくと思って作って来た品物がことごとく小さくて窮屈だ。ことに衣服のごときは昼夜着づくめだから大概の太いのでは間に合はぬ。」

『東京朝日新聞』(明治37年12月9日付け)









◎靴工長の階級・・・・・陸軍各兵科靴工長は陸軍三等靴工長と改称することとなれり。」

『東京朝日新聞』(明治37年12月15日付け)










 「◎被服支廠の設置・・・・・出征軍隊に要する被服及び靴等製造修理のため今回満州の某地に被服支廠を設けん計画にて、縫工、靴工等を募集するとの噂さあり。」

『万朝報』(明治37年12月25日付け)










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明治38年



◎防寒具・・・・・防寒衣及び防寒靴は日々貨車にて戦地に到着しつつあり。各兵一名につき新防寒衣一組と防寒靴一足を渡されしが、現に兵站部の手元には防寒衣三十二万組と靴四十万足あり。尚ほ今一月中に防寒衣三十二万組と靴五十万足到着し、二月には服類十八万組、三月には靴五十万足到着の筈なり。」

『万朝報』(明治38年1月9日付け)

















◎大倉組靴工の紛擾・・・・・大倉組製靴工場は海軍御用を目当てに昨年五月より開業したる者なるが、此の程其の取締と職工との間に紛擾起こり、遂に警察の干渉によりて強硬なる一部の職工は其の職を失うに至れり。
▲工場開始の当時においては未だ取締なるもの無く、職工一同も不便を感ずること多かりしため、其の選任を主任者に請いしに、主任者は早速に其の職工中より宇津井、大久保の二名を選任せり。然るにその後取締は職工一同に対して甚だ暴慢を極め、開業当時は職工数八十人に余りしが、爾後不平を言って去る者多く、今日に至りては僅かに三十四五人に過ぎざるに至れり。
▲斯かる有様なれば残留せる職工にも不平を言う者多く、一月中二十六名の職工協議の上、爾後取締は各職工順番に?当すべしとの事に一決し、二十一日、総代を選びて其の旨を、監督者佐野某に申し出で、其の決行を請求せり。然るに監督者は其の請求を容れず、只だ取締の改心を促すべければ、決して休業などすべからずとの答えありしのみ。
▲総代は此旨を一同に通じて再び決心を問いしに、その時は既に其の内十四人の軟化するありて強硬説を守るものは僅かに十二人となれり。されど硬派の職工は仮令少数なりとも屈すべからずとて再度監督者に懇請せり。又た返答を得るまでは休業を許され度旨を申し出でたり。然るに一日の休業をなして待てども何等の挨拶なく、己を得ず彼等は監督の上役たる主任者山本某に申し出でたり。されど之も亦なまぬるき返事をなせるのみにて要領を得ざりき。
▲然るに彼等十二人は突然京橋警察の呼び出しに接し何事ぞと一同不安の中に出頭せしが、警部は此程来の動作を以って甚だ不穏の振る舞いなりとし、非常なる権幕にて騰貴し、一日拘留の上、一同は斯くの如き挙動を再びせざる旨の誓書を差し出さしめられたり。
▲彼等は頗る憤激したれども如何ともする無く、遂に一同主任者に対して解雇を請ふに至れり。而して彼等は此処に記念として某所に酒宴を開けり。
▲然るに翌二十五日に至り、警察署の呼び出しに接せり。蓋し前夜酒宴を終わって後、工料受け取りのため、ある者は自己の道具取り?めのために工場に行けるを不穏とせしが故ならん。されど彼等は最も平和に各自の用向を済ませ帰りたり。然るに警察は何等の取調べをもなさずして唯だ厳酷なる取扱いをなし、且つ拘留は法律上二十四時間を越ゆることを得ざるものなるに、警察は何等の手続きをもなさずして六日間拘留を続け三十日に至りて何の言い渡しもなく放免せり。
▲彼等の内には家に妻子を残せる者多く、其れを思うてはこの不法の処置に反抗するの勇気も失せ、悲鳴をあげて放免を乞へる者さへあり。又外よりは同業者之に同情を寄せて種々差し入れをなせしに、彼等の許には何一つ届かざりしと云ふ。
嗚呼、斯くの如くにして労働者の勇気は挫かれつつあるなり。斯くの如くにして労働者は奴隷の境に陥りつつあるなり。而も斯くの如き圧制が国家の警察権によって行なわれ、其の警察権の発動する原因が那辺に存するかを思うて、吾人は慄然として怖れざるを得ざる也。」

『直言』(明治三十八年二月五日付け)







「◎靴工社会主義研究会・・・・・去る十七日夜、築地三丁目の某氏宅において開会。
四畳半の間に十三人の靴工諸君が集まって、斉藤君と余の講義を聞くなりき。
この団体は今は甚だ少数なりといえども会員皆真面目なれば、
将来必ず労働運動の一勢力となるらん。(石犬王)」

『直言』(明治三十八年三月二十六日付け)













陸軍被服廠出張所・・・・・今般広島に被服廠出張所を設置し陸軍被服廠広島出張所と称する旨陸達第二十四号を以って陸軍大臣より達せられたり。」

『万朝報』(明治38年4月18日付け)











◎桜組職工の不穏・・・・・北品川の桜組製革工場にては開戦当時三四千の職工を使役しおりしも、その後御用の大部を大倉組にて請負ふこととなりしかば、職工も三十名、五十名づつ解傭し、去月三十一日に二百余名を解雇したるに、是等に対する積立金の下渡し方に不正のかどありとて一同は承知せず、一昨日夜十一時ごろ重立ちたる者共八十余名、芝区車町料理店万清に集合し、其の他は北品川の天王並びに御殿山に集合して会社へ押し寄せんとしたるに、早くもその筋の聞く所となり、一先ず騒ぎを鎮めたれぞ、昨今尚ほ不穏の模様ありとぞ。」

『読売新聞』(明治38年8月9日付け)












◎桜組職工不穏の風説・・・・・一昨夜、芝警察署と品川署とより北品川なる桜組製革工場へ電話あり。其の工場より新に解雇されし職工数百名、芝区車町の料理店万清と北品川天王山及び御殿山等に集合し不穏の形勢あり、注意せよと。同工場にては大いに驚きひそかに警戒なし居たるに何事もなく昨朝に至り両警察署にても無根の騒ぎなりしを発見したりという。聞く、同工場にては開戦当時七百人の職工ありしが両三日前陸軍省より内達あり、既製の材料既に充実したれば最早従来の如く速製を要する事なし。やや縮小の方針を取るがよからんとありしかば、従来昼夜兼行の態度を取りつつありしため余計に二百名職工を要し居たるを今回其の二百名だけ解雇したる処其の中に不平家あり、かかる事をば云い触らせしならんと。」

『万朝報』(明治38年8月9日付け)









◎桜組職工の不穏・・・・・府下品川なる桜組製靴場にては、昨年の春、日露の戦争起こりし以来、さかんに陸軍省の靴御用を請け負い、大いに男女の職工を増加し、日々数百名を使役し居たるが、その後、軍靴は大倉組にても請け負ふこととなり、自然、桜組は御用少となりしにより、随時、五十人及至六十人の職工を解雇し、先月三十日には突然二百名ほどの男女工を解雇したるをもって、解雇されたる職工らは大いに怒り、これまで就業中、月々積み立てたる金円の払い渡し求め、之に相当利子を附すべき事をも請求したるに、役員の容るるところとならず、相互の意見衝突の結果、被解雇職工二百名は一昨夜芝区高輪車町の料理店萬清楼に集会して、役員に対する談判方法を議決し、夜十時半ごろ、その一部は品川北の天王境内に、他は御殿山に集合し、それより桜組製靴場へ押し寄せんとしたりしを、警部巡査が探知して両所へ出張し、解散を命じたるをもって、職工らはやむなく引き取り、目下なお、その談判方に付き協議中なりと。この事実において、資本家の無責任なる事と、警察官が常に資本家の味方なる事とを知るべし。」

『直言』(明治38年8月13日付け)










明治39年



 [◎震災雑観(サンフランシスコ)・・・・・日本人靴屋の焼失数・・・・・サンフランシスコ在留日本人営業者として靴屋(修理屋)ほど多数はなかるべし。したがって、その焼失数もはなはだ大なるが、焼き残りしものも亦少なしとせず。すなわち、今回の火災のため焼失したるものは四十七軒にして、三十六軒は焼き残りしという。]

『新世界』(明治三十九年五月二十八日付け)







◎靴工同盟定期総会・・・・・昨日午前十時より王府のアメリカンフォレスター會館において靴工同盟定期総会は開かれ、入会者の紹介、退会及び復休職者、試験卒業者、白人反抗予防委員、本部決算、営業部決算等の報告ありしが、夜に入りては、第二次会開かれて、今年下半期の予算案、役員会提出案、会員よりの建議等について議したる後、役員選挙を行いたるよし。


『新世界』(明治三十九年七月十六日付け)







◎靴工同盟事務員の募集・・・・・靴工同盟営業部においては、正事務員を募集中なるが、簿記の心得ありて商売の腕ある者を望みおるよし。」

『新世界』(明治三十九年九月二十日付け)







 [◎同胞靴商の閉店時刻・・・・・このごろ白人靴屋手代同盟は、サンフランシスコにおける日本人靴販売店が夜間遅くその営業しつつあるは、サンフランシスコ市靴販売規約に違反なるをもって、よろしくこれに対し日々午後六時には是非とも閉店すべきよう注意することを議決せしよし。]

『新世界』(明治三十九年九月二十三日付け)







明治40年




◎皮革トラスト・・・・・従来ほとんど専売特許の観ありて陸海軍の皮革供給者たりし大倉組皮革製造所、桜組、東京製皮、及び旧福島皮革製造所の四社は今回合同して日本皮革株式会社を起こしたるが、新会社は資本金五百万円、十万株にして、この四会社の事業を買収し直に営業を継承開始するはずにて、一切の権利義務を引き継げり。」

『読売新聞』(明治四十年一月十一日)





◎博覧会記事(昨夜の上野公園)・・・・・二号館内の靴工同盟会陳列所は天井の靴を穿ける各種の人物を下方より見た図が天蓋として二個掲げられ一寸人目を引いて居る。」

『東京朝日新聞』(明治40年4月15日付け)





「◎熊本の諸団体・・・・・、、、坪井地方は思うに維新革命の敗軍的思想を有するがごとくし、昔は切り捨てごめんの特権を有したる士族がこの特権を失うと共に、あたかも犬馬のごとく思惟し、奴隷のごとく心得たる町人、百姓と平等の地位に復し、ややもすれば文明的智識に圧伏せらるるに至れり。、、、」

『熊本評論』(第二号 明治40年7月5日)








◎同義会例会・・・・・都下靴職工一部の組合たる同会は、去る十六日午後六時より神田三崎町三の一片山潜氏方にて例会を開けり。」

『週刊社会新聞』(第十七号・明治四十年九月二十二日)





◎靴職工の賃金値上げ運動・・・・・当市における靴製造販売業者は現在約二十軒にして是に使役せる職工数は宇治野町を除き約六十名なるが、内四十名は普通職工にして絶えず使役せらるるものなるが、其の工賃の如きは製品の優劣を問わず一足平均九十三銭五厘と規定されつつあるも、この外の二十名は日常使役せらるる者に非ざるを以って随って工賃も一定せざりしが、今回前記職工六十名は諸物価の騰貴せる今日工賃のごときも一割五分の値上げなくてはかなわずとて、相結託し職工中の吉田佐吉、吉岡久二郎、岡本慶太郎、井上重太郎の四名を委員に選定し、右四名は元町二丁目の靴工同盟会支部長平野永太郎(注:1)に面会して値上げの要求をなしたれども、永太郎は一存にては処決し難ければ、重立ちたる販売業者に協議を遂げんとて去る十五日右同盟事務所に十五名ばかりの販売業者を集合して協議せしも、意見区々にして容易に一定せず、中には今回市役所より同業組合事務所の如き者を設置すべき事を促し居るを以って組合事務所の組織後において賃金値上げの事を協定するも遅かるまじとの意見を抱く者もあり、容易に協議は要領を得ざるも、さりとて職工等に対しては何らの返答をなさざるにおいては同盟罷工を企つるも計り難き故、先ず鎮定策を協定せんとの説多数にて、ようやく決議として職工の階級を六級に分かち一等の職工は靴一足の仕上げ賃を一円とし其の他は一級を降るごとに十銭落ちの賃金として前記職工委員へ其の旨返答したる所、職工側においては此の回答に服従せず、更に十七日の夜、中山手通り二丁目井上重太郎方に二十名ばかりの職工集会し協議の結果左の決議をなしたり。
職工等級を三階級に別ち二等の賃金を九十三銭五厘とし一等賃金は営業者において適当の措置を取るべき様穏やかなる交渉をなす事。
もしこの条件に営業主が応ぜざる時は断然同盟罷工をなす事を誓いて散会し、一昨日午後三時委員をして右決議の模様を営業主に通知したりという。」

『神戸新聞』(明治40年10月20日)




◎是も生活難(靴はかぬ同盟)・・・・・内幸町なる勧業銀行で各課に使える少年給仕は数日前から一斉に草履をはいてバタバタ駈け回っておる。平常も洋服に靴だったのだから怪しんで、何故靴をはかぬとなじると、私共の俸給では靴ははけませんとにやにや笑っておる。その実皆靴をはいて出勤するが、直ぐ脱いでしまって置いて、銀行備え付けの草履を片っ端からはきこわそうという腹である。何しろうまく決議を実行して当分形勢を見たうえで最終の目的、増給問題を提出するはずだと力んでいるそうだ。」

『東京朝日新聞』(明治40年12月24日付け)




明治41年




「◎太平洋岸における日本人の実力(河上清)・・・・・、、、次に一言すべきはサンフランシスコにおける日本靴工業者同盟なり。蓋しこの組合は主として白人同業者の妨害に対抗するの目的をもって起りたるものにして、サンフランシスコの日本靴工業者にして之に加わらざるもの無く、その加盟者の数、現に百六十戸数ありて、其の基本金亦三万余円の多きに達し、基礎頗る強固にして、もはや白人の迫害を恐るるを要せざるに至れり。而してこれら靴工業者一戸一カ年の収入は少なくとも三千六百円を下らずといえば、毎一カ年百六十戸の総収入は六十万円以上なるべし。、、、」

『万朝報』(明治41年1月15日付け)








◎靴工卒の身長・・・・・靴工卒の身長は五尺以上と制定せられたり。」

『東京朝日新聞』(明治41年3月1日付け)





◎工業界の偉人・故西村勝三翁・・・・・日清戦争中一時激増した靴工が戦後にわかに其の職を失ったので氏は彼らを奨励して米国桑港に出稼ぎせしむる事に力を尽くし、今や彼の地における日本靴工の数は二百余名の多きに達し、加州日本人靴工同盟会を組織し大日本靴工同盟会と気脈を通じて日本職工の面目を保持しておるということである。」

『職工新聞』(明治四十一年六月十日付け)









明治42年



明治43年




「◎神戸の靴製造業・・・・・非常に大きい製造所は少ないが従業者及び産額はすこぶる多い。明治四十年において製造戸数七十、製出量四万二千足、売額十六万八千円で、製造所としては元町二丁目神戸屋などが名高い。」

『神戸大観』(明治43年・宝文館)











「◎東京の特殊部落・・・・・王政復古以来、旧来の陋習を破って、穢多、非人、汚坊、長吏坊、番太と種々な綽名を着けられて、冷遇、侮辱、を受けた一階級も、平民と段々相接近して、今やこの部落に内務省の推選した模範村も出来た。大阪府からは森秀次という新平民の代議士も出た。之を安政六年四月播磨守が判決した判例に、町人一人と穢多七名と同価たるべし云々の乱暴な事をやって平気であった時代や、穢多村を里程の中に数えぬような事ののあった時代に比べると、殆んど隔世の感がある。明治十二年かと記憶する東京の特殊部落として有名な浅草亀岡町から出火した事があった。折柄の狂風に火焔は紅のを吐いて、見る見る橋場、玉姫、今戸に延焼した、時の消防夫等は、部落の町内を除いて、平民の町内への飛び火だけを消防したが、火焔の中に包まれた新平民の號哭には耳を傾けなかった。この十二年頃とは余程変わって今では穢多の穿た草履の緒が切断て、塵埃溜へ捨てても、見つけられたら再び拾いあげさせ、白紙へ包ませて大河へ流捨させねば止まぬというようなことは、最早全くなくなった。穢多という字は素と餌取というたので、要するに屠肉製革を生業としたからの異名に過ぎない。中世、征韓の俘や、犯罪者等をまとめて穢多非人と称した。現在この新平民の人口は、四十八九万と称されている。東京で穢多町としている亀岡町は、玉姫、橋場を加えて約二千四百人位は居る。数年前まで続き来った旧習の祭弔その他の礼式的の者は今は全く改革して、一般社会と異ならない生活をするようになった。教育の程度は今現に山谷堀小学校に通学する学童は、二百六十余人ある。一般社会の学童と比較して、幾分か低脳で且つ体格にも不十分がるとのことだ。之は永く社会の圧迫に原因したのと、血族結婚が行われ来った為である。近来女子技芸学校から一人職業学校から一人某女学校から二人、都合四名の女学校卒業生を出したが、女子は教育を受けても、普通の良家へ縁談の遠いのは気の毒だ。さりとてあれほど教育も受けて、其の日稼ぎの靴職人を亭主には持てまい。男子の方は中学へ三人高等商業へ一人、未だ大学へ行く青年は無い。この部落の仕事は、竹皮草履、三味線、太鼓、靴、革鞄、等の製作で日に一円以上二円以下位の収入はある。嬶共の内職でも、三四十銭位は儲かる。戦争当時は非常な利益があったが比較的貯蓄心が無いから、右から左へにげてしまうが、さりとて貧乏人と云うは少ない。子供でも部落の子供は中々贅沢だ。母親が乳を与えるより、内職で儲けて其の幾分を分けて、「飴でも買って来い」と云う調子で追い出してしまうので、浪費する事を屁とも思わぬ癖が付いて居る。明治二十年頃までは此の部落内で、生革を取り扱う為め、臭気甚だしかった。山の手に住んだ者は鼻撮みをしても通られなかったものだ。今頃では全く此の臭気を郡部に移してしまって、製革のみを細工して居る。最も絶対的ではない。些少の生革は扱っているが、警察法令に則いて夜ばかり運びこんで、深く倉庫の中に秘し裁断することになっておるから、左程悪臭は無い。郡部の製革工場は、千住三河島等に建築されて居る。これ等の工場には、職工として随分入り込んでいるが、大抵身分を秘くして戸籍などは勉めて他へ転籍しようという傾がある。一般職工と並んで仕事をしていても、中々新平民であると云う事は解からぬようにして居る。此の部落の開発には、八田浪之助(区会議員)弾部落長、神蔵校長(山谷堀)等が先達者として、着々進歩発展に余念無い。その発展策としては、住居を移転して普通平民と混同して仕舞うことや、転業問題なども良好であろう。東京の此の部落から出て、政界に羽振を利かしたのは、故石垣孫七氏である。今此の部落に肩を入れて居るのは、前記の八田氏で、倶楽部派の人である。元来浅草区は公民会、公友会、倶楽部、同志会の四派あるが、部落の有権者は皆倶楽部派に肩を持って居る。公共事業等には普通社会よりも奮発すると云うような美風がある。 戸塚孝治」

『新公論』(第二十五年九号・明治43年9月)





明治44年



明治45年

◎靴工の同盟罷工(原因は生活困難)・・・・・芝区露月町二四大塚岩次郎は宮内省陸海軍用靴商として工場の五か所も所有し、職工三百余名を使役し居りて市内屈指の靴商なるが、同家所属の靴職工三百余名は米価騰貴に連れ生活困難なれば従来の靴一足の工賃三十九銭なるを今後一足に付き六銭を値上げ四十五銭に増しくれと職長寺村某まで申し出でたるも増賃実行の見込みなき模様なるを以て職工全部は二日より罷業し、午後二時ごろ芝区愛宕町正覚寺内に集合し不穏の状況あるを、愛宕署において探知し警官出張一同に注意を与え一工場より委員二名宛を選び交渉せしむる事となさしめたるに星野、安田外八名委員に当選し委員は職長寺村の手を経て主人岩次郎に交渉したる所、三日午後八時ごろまでに何分の解決を与ふることとなり、一同退散したるが、もし、目的貫通せざれば一同袂を連ねて出勤せずと言い居れり。」

『東京朝日新聞』(明治45年7月4日付け)





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大正時代






大正元年



大正2年



大正3年


◎噴油大制限/一昼夜に三千石/制限の困難・・・・・三十日松方常務と共に実況を視察して帰京したる瀬島東京支店長の談によれば噴油関係より自然競争の已むを得ざる地位に立ち一時は暗闘黙争絶ゆる時無かりしに偶然の機会は遂に四工場の合同を促進せしむるに至れり即ち当時陸軍省にては独逸を始め欧米の先進国が軍服と軍靴とに異常の注意を払いつつあるに鑑み之に範を取りて機械製軍靴工場を自ら設立し以て各会社上納の製靴が手工にして動もすれば不統一に流るるの弊より脱れんと画策する所あり、同工場は共に機械製靴の優秀なることを研鑚会得せる折柄とて之を仄聞するや直に此議に賛し更に官営工場に対し一の民営工場を起し勠力軍靴の統一に尽すべきの急務なるを感じて昨の呉越は今の盟友と化して合同団結茲に成りたる也、組織革るに及び大沢省三氏は入て専務取締役となり、高島小金治、賀田金三郎、南川政之助の三氏取締役に、大倉喜八郎、西村勝三の両氏監査役に就任し、山岸覚太郎氏亦大倉氏の秘書より転じて営業主任の椅子に凭る、かくて先ず本工場を千住中組に分工場を京橋月島に建設し製靴機械数百台及諸原料を独逸フランクホルト市モエヌス会社に求め密針機械数十台を英国グラスゴー市シンガーミシン会社に購い更に要部の技師職工等は四会社より招集したる以外新に厳格なる試験を施して四百余名の職工を募集し又特に工師として傭聘したる独逸人ゲオルグ、ブロイニーゲルをして諸般の画策を為さしめ千住工場を陸軍々靴専門工場とし月島工場を海軍々靴の製造に従事せしめしが彼日露戦役に際し全設備を運転し鋭敏に而も真率に巨額の注文をあり但ボーメー二十度なるが故に多少安心を買い得るのみ実地を観察したる技師の意見は近き将来噴油の減少するが如き事なしと云うに殆ど一致し日本の油田に対する従来の可能性説は根柢に於て覆されたり、応急設備に就ては至急取運ぶ積り也云々。」

『中外商業新報』 (大正3年6月1日付け)













◎海軍靴工の同盟罷工(三百余名結束して工賃の値上運動)・・・・・海軍靴を専門に製作する芝区露月町二一大塚工場の職工百余名と之が分工場なる芝田村町四松井工場、同愛宕町の大塚分工場同柴井町佐藤工場の製靴職工等併せて二百五十余名は物価騰貴と近来海軍より大注文あるを見越して十六日朝工場主に対し一足の工賃に就いて十銭宛の値上を要求したるに膠なく刎つけられたるより一斉に同盟罷工をなし十七日朝より金杉橋際の寄席七福亭に集合して此の際要求を容れられねば断じて就業せずと申合せ午後四時に至って解散したるが、之を聞き込みし京橋区月島なる製靴会社の職工百余名も相呼応して起ち同様の態度を以って十八日朝より全部同盟罷工を為すに至れり。同時に愛宕警察署にては此は穏ならずと見て十八日朝大塚工場の組長なる早坂、桜井、佐伯、森川、沼崎、太田、山本、堀内の八名に召喚状を発して論説を???るが多数の職工等は日露???てすら一足五十銭の工賃なり???後漸次工賃を引下げられ今日???本工場に勤むる者にて一足四十五銭となり分工場の職工は海軍よりの請負人大塚岩次郎氏に歩合を刎らるる事とて三十九銭五厘を支給さるるのみとなり毎夜九時まで夜業をなすも漸く二足を仕上げ得るに過ぎざれば到底一家の糊口を支うる能わず。此の機に於て是非共値上を断行すべしと固く結束して動かず。又工場主側にても一銭の値上にも応ずる能わずと主張し容易に解決する模様なし。元来海軍兵の御用靴は前記の大塚岩次郎氏と月島製靴会社の二軒にて妥協的に請負をなし各分工場に下請をさせ居るものにて之に従事する三百五十余名の職工が斯く同盟罷工を決行しては我が海軍靴は今後一足も製出する能わず戦時に方って実に容易ならぬ大問題なり。」

『国民新聞』(大正3年10月20日付け)














◎我が国最有望の工業(一~七)如是の国産の奨励提掖すべし(製革業)・・・・・軍備拡張に伴う軍用品の増加、機械工業の発達に伴う調帯用の増加、洋服着用者増加に伴う製靴用の増加に因り、製革の需要は輓近著しく増加し、今や一ヶ年の総価格八百余万円の巨額を算するに至れり。即ち陸軍の製靴用の二百五十万円を筆頭とし、民間使用の底革百五十万円、甲革百万円、雑用三百万円の割合なるが、之に対する供給の方途如何と言うに一昨大正元年中に外国より輸入したる製革は底革八十万二千円、色革三十三万四千円、羊革七十四万三千円。合計百八十七万九千円に過ざるを以て需要総額の七割六分五厘は実に内国製革工業の供給に属する者なり。顧うに明治の初年故西村勝三氏が桜組を創立し製革の業を剏始してより茲に四十四年を古り、苦き幾多の経験にて錬磨せられたる斯業は関税の保護を相待て最近異数の発達をなし底革の如きも最近に於て明治皮革会社(本社は元桜組副支配人たりし浦辺襄夫氏を専務取締役となす)の努力に依り容易に製革せらるゝに至れり。尤も桜組の後進たる日本皮革会社は夙に軍靴用底革を製革し居りたれども。未だ民間需要を充たすに至らざりき。随て民間需要の底革は一に之を輸入品に仰ぐの不便不利ありたるが、明治皮革会社製のライオン印の出廻るに?んでや、米国バトリツク会社の熊印、サンセツト会社の星印は著しく其輸入額を減退し、靴底革の輸入額は昨大正二年に於て前年から四十三万九千円を減少し八十万二千円に落下せり。其他色革は七万六千円、羊革は三十一万八千円の減退を示せり。色革を羊革の輸入減少は従来世間より軽侮せられ居りたる内地染革及羊革製造業の進歩を表象する者にして人意を強くするに足るべきなり。今後本邦の軍備は益々拡張せらるべく、機械工業の進歩愈々見るべき者あるは勿論、支那及南洋方面に於ける鞄其他革製品の輸出が戦後に激増すべきは想像に余あり。此等内外に於ける製革の需要増加に応ぜんが為めには我現在の生産力は余りに弱小なりと謂ざるべからず。由是観之、製革業の有望工業なるは否むべからざれど、其原料獣皮の供給を悉く内国に仰ぐこと能わざる点に於て本業の基礎は甚だ薄弱なりとせざるを得ず。此の点に関しては昨年の今月今日の本紙「社説欄」に於て一言したることあり。時弊と交渉あるを以て参考の為め左に数節を抄録す。
製革の需要年額は八百余万円の巨額を算し、之に対する供給は外国製二百五十万□内国製六百万円の割合なるを以て殆んど内国製革を以て需要の全部を占領すと言うを妨げずと雖も、其原料獣皮の供給を悉く内国に仰くこと能わざる点に於て本邦の製革業は其基礎甚だ薄弱なりと言わざるを得ず。製革業は軍用靴と交渉を有するを以て此点に関し考慮を払うこと最も肝要なりとす。(中略)改めて謂うまでもなく、獣皮は屠殺肉獣の副産的供給に属する者なれば、一方に於て製革の需要増加したればとて之に比例して肉獣の屠殺を増加すること能わず。即ち他所に於て肉食が奨励し屠殺頭数の自然的増加を計るの必要起る。獣皮の供給□支那及び英米と我国とは国民生活の状態を異にすと雖も、既に下駄に代ふるに靴を以つてするの活動に入りたる以上は菜根に代ゆるに獣肉を以てして活動力を存養するの工夫なかるべからず。若し善く斯の如くならば萎縮不振の牧畜業は肉と皮との二途より刺激せられて格段なる進歩をなし、肉価は自から低廉となりて其消費額増加し、屠殺頭数の自然的増加を結果するに至り、我製革業は其原料を自給自足し得る独立の境に進むことを得べし。軍器の独立を説く者は又眼を此に着けさるべからず。
製革業の此の弱点は一年後の今日に於ても尚ほ未だ渝らざるを覚ゆ。起業者は留意を要すべし。
(
)大正元年の本邦製革工場は九百十四戸にして其産額は五百六十八万二千万円也又同年の輸入額は二百七十一万二千円也。」

『中外商業新報 』(大正3年10月29日付け)









大正4年






◎皮革製品輸出高/露国の軍用註文は二千万円に達せん/総金高千七百万円・・・・・今春以降露国政府の註文に応じ本邦の民間各皮革工場が引受けたる軍用皮革製品の受渡し契約期限は来る九月末を以て全部終了する筈なるが今日迄に既に輸出引渡済みとなれるもの及び九月迄に引渡さるべきものを通算するときは長靴、帯皮、弾薬嚢馬具等を併せて輸出総金額千七百万円に上り本邦陸軍従来の一ケ年の皮革製品需要高四百万円に対し四倍以上の巨額を計上せり此輸出引受人及び製造工場別左の如し。

長靴百余万足

大倉組の引受けたる四十万足は全部日本製靴会社の製造により逸早く輸出引渡済みとなり陸軍被服廠委託に係れる四十六万足は来る九月二十五日限り引渡の契約にてこの製造引受人は日本製靴十五万足大阪山口嘉蔵商店十一万足(製造下受四ツ橋由次郎工場)東洋商業合資会社五万足(製造下受神戸平野大阪赤松両工場)東京大塚岩次郎商店五万足、同上桜組八万足、同上村上工場外一人二万足にして目下製造次第順次引渡されつつあり山口商店引受の分以外は凡て期限迄に引渡し完了の見込なり尚お右の外に朝鮮皮革会社直接引受の十五万足あり右は引渡し期限九月末日なり。

弾薬嚢及皮帯

朝鮮皮革会社の引受けたるものに弾薬嚢付革帯二十五万組あり内十二万組は東京碓氷工場に、三万組は大阪伊藤明義工場に残余十五万組は朝鮮皮革工場に於て孰れも目今製造中なり又大倉組の引受けたる弾薬嚢二百万個及び弾薬嚢付革帯三十万組は日本皮革会社工場にと一手に製造せられ居りて朝鮮皮革引受品と共に全部本月末日の引渡期限に相当せり此外に三井物産引受の弾薬嚢付革帯五十万組は東京の須屋、綱野両工場の製造下受にて先頃既に引渡済となりたり。

馬具三万五千組

全部大倉組の引受けにて日本皮革会社にて製造せられ内乗馬具二万組は既に引渡済みとなり輜車重馬具一万五千組は本月中に引渡を了る予定なり以上は凡て今日迄に輸出確定せる所なるが更に長靴の追加注文の引受商談近く成立する見込なれば本年内の軍用皮革製品の対露輸出は如何に内輪に見積るも民間製造のみにて二千万円以上に上る可きは確実なるが如し。」

『時事新報』(大正4年8月19日付け)








大正5年



◎官業整理と陸軍/被服廠は如何・・・・・陸軍被服廠に関しては世人多く誤解を有し兵卒を使役して被服の調製を為すかの如く考えつつある模様なれども其の実際は決して然らず軍帽軍服及び外套等の所謂主要被服は全部廠内にて養成せる職工をして調製せしめ其他の附属被服六十余種は夫々之れを民間当業者に請負わしめつつありて補修業即ち被服の修理のみを同廠養成の縫工卒及び靴工卒に為さしめつつある実状なるを以て払下主張者の謂う所の平時に於て民間に被服職工を養成し置く利益ありとの理由の如きは善前意義を成さざるなり被服廠を民間に払下げたりとするも陸軍の需要に一定の限りある以上其の職工数には何等の相違を生ぜず而して陸軍の主要被服は極めて堅固なることを要し少くも一戦役中の着用に堪え得る程に非ざれば輸送其他軍事上甚だしき不便を感ずるものなるを以て決して粗製濫造を許さず然るに今日の民業に対しては安んじて之れが製造を委託し得るの信用を払い難し現に三十七八年戦役及び今次の日独戦争に際しても此間に於ける民業の欠点を充分に曝露したるが故に爾来陸軍の主要被服は決して之れを民業に委託せざることに決定せり論者或は陸軍自ら羅紗及び縫糸等の材料を供給して其の仕立方のみを民業に移すも可なりとし或は製作納入に就て厳重なる監督及び検査を行わば可なりと云わんも材料を供給するも他の粗品を混用し若くは縫糸の如き之れを使用する等の不徳義を敢てし検査監督を為さんにも今日の如く民間に一の見る可き大工場だになく殆ど全部之れを裏店の職工に下受製造せしめつつあるが如き現状にては到底完全なる監督等の行わる可きものに非ず要するに信用程度低き今日の商工業者に軍事上の緊要なる主要被服を委託製造せしむることは到底不可能なりと云う可く陸軍被服廠を民間に払下ぐること能わざる理由一に茲に存す。」

『時事新報』 (大正5年5月23日付け)













◎軍靴注文取消し説・・・・・武富蔵相の談なりとして伝えらるる所によれば露国より曩に申込み来れる軍需品注文の内羅紗の注文は之れを取消し来れるが其後軍靴其の他につきても亦同様注文を取消し来れりと、若し軍靴注文にして実際取消されたるものとせば本邦皮革界は由々しき打撃を受くべく折角今日迄拡張し来りし某々皮革会社の如きは根柢より覆されらるるに至るべしとて当業者は此の取消の真偽につき関係官庁に問合せつつあり、元来今回の軍靴注文は本年四月に申込を受け明治、日本、朝鮮、東洋の皮革会社より約五十万足東洋製靴場、四つ橋製靴場等より約二十万足宛(一足約九円六十銭)の見積り書を提出し居れるが注文実数は二百万足にして之れを東京被服廠に於て取纏め各社の製造能力を考査して然るべく注文を割充つる事となり居り本月十五日当業者より最後の確定見積書を徴したる迄に進捗し居たるなり右は来年三月末日迄に完納の予定なるが当業者中には右の注文は既に確定のものと見做し大凡の準備に着手すると共に本邦若しくは朝鮮、支那にて買整え難き裏皮丈けは約百万足分米国より輸入せざるべからずとて是亦同方面へも手を廻せるもあり今にも注文確定通知の到来を待ち居れる折柄なれば若し取消にして真ならば実際其の打撃は想像以上なるべし右につき思い起すは曩に軍靴第一回注文ありし際途中にて話こじれ露国側の取消となりたるを当業者側の強硬なる主張と陸軍省の斡旋により遂に現品納付に決定したる事もあれば或は今回も実は露国側より曖昧なる返答ありしを陸軍省より第一回の如く更に露国側につき返して交渉を重ね居るには非ずやと解せる向きもあり何れ茲一両日中に右の真偽判明すべく同時に軍靴二万個の注文成行きも自然に判明すべし因に若し此の軍需品注文にして全部滞りなく納付せられたらんには第一回注文以来通算五千万円以上に達すべきものなり。」

大阪朝日新聞』(大正5年6月29日付け)













◎露国軍靴割り当て・・・・・久しく行悩中なり露国軍靴註文引受談は我被服廠と露国政府との間に商談既に成立し只其発表を見合せ居るものなるを以て我被服廠に於ては左記の如く下請業者に割当て製造せしむる事に略決定し居れり桜組四十五万足、日本製靴百万足、大塚十万足、前田四ツ橋二十三万足、東洋製靴二十万足朝鮮皮靴十五万足、太田七万五千足、村上十八万足而して交渉に多くの時日を費したるを以て予定の三月末迄に右全額の納付出来得ざるやも知れざれば我政府は納期の延長を露国に交渉したるも露国側は之に応ぜざりしを以て右引受額の内幾分減じて製造せしむる事となるやも計り難く斯る細末の点に関する交渉未だ纏まざれば尚発表を見合せるものなりと。」

『大阪毎日新聞』 (大正5年8月2日付け)











◎軍靴注文決定近し・・・・・露国軍靴の注文は幾度か中途蹉跌を伝えられたるが露国蔵券決定の報ありし以来斯界は俄に色めき今にも軍靴注文決定の報あるべく期待されつつありし処本月一日陸軍被服廠より当業者を招集し来りしかば愈軍靴決定説に重力を加え当市皮革界は一時に約二三円方引締りを呈したり扨其の成行きを聞くに注文決定期が刻々と迫れるは事実なるも被服廠と露国側との間に(一)代金支払の方法(二)来年三月以降第三次注文其の他の問題につき尚交渉案件を録し居る為一両日せざれば正式決定の通知には接せざるべしと云う而して右交渉案件の内容は(一)代金支払は今回の露蔵券売出によりて得たる金額を以てする事(此分は露国も略承諾の模様あり)(二)納入後一箇月以上支払遅延する時は一日二銭の割にて延滞日歩を附する事(三)而して最初は本年の五月より来年三月迄に製品を納入すべき予定なりし為約二百万足と伝えられしも既に大分時期経過せる為産額は予定数量に達する事遠きを以て先ず明年三月迄に製造せらるべき分を第一期納入品とし三月以降に製せらるべき分を第二期として今より露国側と売買の予約をなし置かんの希望なるものの如く現に当業者は明年三月以降の製造能力につき詳細なる見積書を提出せしめたりと云う兎に角、前期の交渉及び検査手続等につき彼我の意見一致すれば即日当業者に対し契約書に調印を求むべき手順となれるものの如しと因に大阪に於て右軍靴注文を引受くべき大口の当業者は四橋製靴所十八万足東洋製靴場十一万五千足ならんと 。」

『大阪朝日新聞 』(大正5年9月7日付け)











大正6年



◎露国軍需資金/註文軍靴処分方/在米資金の流用・・・・・露国の軍紀が漸次改善せられつつありて国内各地の軍需品製造の工場も既に営々之れが製造に従事しつつあること既報の如くなるが此程辞職したる陸海相グチコフ氏は軍需品製造を管掌せる中央工業会の会長たりし関係もあり其の持論として軍需品は出来得る限り内地にて製造するの方針を採りたるものの如く且つ国内の情勢亦之れを許さざるものあるにや革命勃発以来英仏米等に対しても軍需品の新規なる大註文ありたる模様なく我国に対しても全く同様にて兵器は勿論其他何等新規の註文なしと云う但し昨年四五月の交より懸案となり居れる軍靴註文引受けの問題は革命直前まで其交渉を継続し来りたるものにて此問題に就ては露国臨時政府も該軍靴の必要如何と云うよりも寧ろ其経済事情に鑑みて徳義上之れが引受けの必要を感じつつありたるが如く偶々両国間に折衝中なりし蔵券引受談の全く中絶したる結果已むなく荏苒今日に及びたり然るに露国側にては飽まで之れが解決方に就き誠意を示し米国にて起債せし資金の残額を以て之れが引受代金に充当せんと欲して目下折角在米資金の残額を調査しつつあり該資金の残高如何によりては我国に於ける爾余の未決済代金にも之れを振向けん意嚮をさえ有せるが如く殊に最近米国より露国に貸与すべく決定せる一億弗の大資金もあることなれば米国の承認する処となるに於ては此等全部の円満解決を見るに至る可きかと期待せらる。」

時事新報』(大正6年5月25日付け)







大正7年









大正8年








◎皮革官業払下げ(民間会社合同か)・・・・・我が陸軍において需用する軍鞍、軍靴其の他の皮革製品は年額一千八百万円に上がり従来砲兵工廠及び被服廠において自給の策を採りつつありしが、常に職工養成其の他に種々の面倒あり。殊に西伯利出兵に際し防寒靴の製造に就きても一方ならぬ困難ありしに鑑みれば到底有事の際大動員計画の実行を敏速ならしむる事能わずとなし、来る九月より民間当業者をして是れが生産に当たらしむる事に決したる由にて、多分両廠皮革工場の払い下げとなり之を基礎とし民間会社をして一大皮革会社の成立を見るなるべしと。」

『時事新報』(大正8年5月13日付け)











◎製靴職工の総辞職(各組各個の要求を提出し容られず二百名袂を連ね工場を閉鎖して善後策協議、会社前の空き地で協議、総辞職の鼻息)・・・・・一方総辞職を公にせる職工全部会社前の空き地に集まり協議中なるが「我々の要求は決して不当でない。我々は去る五月当時の給料に戻してもらいたいというものであって、製靴に使用する道具や消耗品が各自の負担になってからはとてもやり切れないのです」と敦圉き居れりを京橋区月島東仲通り四の三日本製靴株式会社月島分工場にては水兵部職工六十三名が二十日会社に対して二割の増給を要求し、又同機械部職工百余名は従来支給され居る四割の手当てを七割に増給されたしと要求し、其の上年二期の賞与と月四日の休日中二日は公休日として休業するとも日給を支給されたしと三箇条の要求を、海軍部は仲沢組長を民間部は和田組長を代表として提出したれば、山本分工場長は直に本社と種々協議を遂げたるも経営戦時中に比して頗る困難を告げ到底之に応じ難しとて遂に妥協点をも発見する能はず。よって職工全部は辞表を纏め二十二日午後二時総辞職をなせり。折柄駈け付け来りたる元宿監査役は曰く「出来るだけの事はしておる。職工の給料も平均五十円になって居るのだが、それで不可いとなれば仕方ない。一応は工場を閉鎖する外あるまい。善後策講究も之からである」」

『読売新聞』(大正8年7月23日付け)








◎京都製靴工三割増し請求同盟会を組織して・・・・・京都市東七条通り一円にある製靴職工は、職工同盟会を組織して一両日前より賃金三割値上げを雇主に要求せり。雇主が応ぜざる時は同盟罷工をなすべき計画ありと(京都電話)」

『万朝報』(大正8年8月28日付け)




大正9年



「◎軍政改革の叫び・・・・・縫靴工廃止・・・・・
(一)私は国家の干城でありながら、毎日破れ服の修繕をしておる縫工卒で、戦友のK君と一週わずか一二度の練兵に出るばかりで、K君は靴工卒で、これまた毎日破れ靴の修理をしておる。私どもはせっかく兵役の義務に服したが、これでは到底立派な一人前の兵卒にはなれない。我々より低脳なS君でさえ成績が良くてわずか一年で帰休となった。特業者にはそれができない。軍隊の経済上から被服を隊内で作るのは果たしてやむおえない事であろうか。破れ靴や破れ服は市中の洋服屋、靴屋に委託して我々も毎日練兵をさしたら一年か一年半くらいでS君以上立派な兵卒となり得るを確信する次第である(縫工卒)

(二)私も縫工卒М君に同感です。ことに私らごとき不得手な縫、靴工卒が仕事をするより上手な市中の職工がやる方が時間の経済ですし、又私どもは一日も早く軍隊の務めを終わり各々自己の職業に従事した方が軍隊では少々困っても国家経済上ではかえって大利益だと信じます。なお、縫靴工卒を廃したら戦時困るでないかとの説もありしが、将来戦争の際には国家総動員ことに工業動員を行うは当然で、なお野戦師団等に縫、靴工班を設くる位の事は日本今日の状態から見れば連隊区司令官の働きでたやすく出来る事と信じますから将来義務兵から縫、靴工を採るのは止めてもらいたいのです。(靴工卒)」

『東京朝日新聞』(大正9年2月6日付け)











参考文献


◎日本靴工同盟会の近状と将来の希望・・・・・この談話は此の頃日本靴工同盟会会員として、有力なる某氏が本社に来訪され、談会ま同会のことに及び、某氏の熱誠到底筆端の能く尽くすところにあらざれど、左に談話の大要を録して一般同会員の同感を促がす事とせり。日本靴工同盟会なるものは、明治三十二年頃の創設にかかり、其の頃斯業界の有力家、関根忠吉(注:加州日本人靴工同盟会の発起人)島粛三郎(注:労働組合期成会常置委員)廣瀬藤太郎の諸氏率先運動なし、数百の会員を募り業界の偉人西村勝三氏を会長に仰ぎ一時大いに隆運に向かい斯業に貢献すること少なからずして、我が国職工社会の模範たるに恥じざる程に至りしが、三十五六年頃に及び少々倦怠の色を現し、萎靡として振るわずその頃普通会員なる者は、毎月僅かに十銭以内の会費すら自然渋滞がちにて会務のごときは其の実を挙ぐるに由なく荏苒数年を経て三十九年頃に至りしが、会員中に発議する者ありて、今数百の会員を有し僅々十銭内外の会費をさえ徴収するに難く、かろうじて会の命脈を繋ぐがごときは、前途のため甚だ覚束なく策の得たるものにあらず、会員たる者は共に奮って応分の寄付をなし、会の基本財産を醵成し、然して後大いに活動すべしと、ここに会員一同の協賛するところとなりて、三十九年の冬会長西村勝三氏は金二千円、大沢省三氏は金一千円その他会員全体各々寄付せし額凡そ金一千円合計約四千円の基本金を得るに至り大いに捲土重来の勢いをなせしに、不幸会長西村氏は不帰の客となりせっかく発展せんとしたる本会は一時頓挫を来せり、延ひて昨四十年二月例により通常総会を開き、規約の改正及び基本金の活用方法等凡て本会発展に関する諸般事項の決議をなし役員の改選には大沢省三氏会長として西村氏の跡を襲ひ、幹事長吉田直八、幹事島粛三郎、関根幸助(注:加州日本人靴工同盟会発起人)、井野場行一の諸氏、評議委員として和田収?、南啓次郎、鴻池留吉、廣瀬藤太郎、篠崎音吉、河田荻太郎、佐野善三郎、山田才次郎、寺村静衛、平野?然の諸氏外某々(記憶を逸す)の二氏当選なしたりしが、この時より我が同盟会は一遍形式の会合なるの観を呈し一として活動の実を挙ぐることなく、折角の基本金も何等運用の途を講ぜず、遂に今日に至りたるは甚だ遺憾に絶えず、然るに去月十日発行の日本皮革時報の社説に京都靴工同盟会に??す(眠れる東京覚めたる京都)と題し、京都の靴工同盟会が競技会を開催し府知事商業会議所長町長郡長警察署長等の臨場を請ふて褒章授興式を行いしのみならず、更に会務を拡張したるに、吾が東京の靴工同盟会は有名無実なる団体にて、会長及び役員は不適当なれば、大改革を要すと論じ、更に進んで殆んど死に近き状態において眠れる吾が東京靴工同盟会に対し、京都の靴工同盟会に、向後幾度も之を誨へ之を鞭撻せられん事を希望すと称して、無作法にも本会を詈り、京都靴工同盟会に諂ふ體を粧ひたり、畢竟時報の説は吾が靴工同盟会に善意の忠告をしたつもりかは知らされどもその筆鋒は甚だ不謹慎にして、吾等同盟会員は、彼のいふまでもなく、本会の萎?不振を自覚しつつあれども、平素本会のために一点の温情を有せず何等の忠告をもしたる事なき彼によりて、以上のごとき無作法なる言葉を以って酬いられんとは、我々の予想せさる所なりき。凡そ人の上に在りて、他を誨ひ導くには、自らその法あり。妄りに他の不用意を襲い、鞭を挙げて之を撃つがごときは甚だ感服せず、それはそれとして本会の不振は彼に言はるるまでもなく分かりきったる事実にして之を振作し廓清するは刻下の急務なれば、本会の主脳たる幹部の諸氏及び一般会員諸氏は既に公然京都の靴工同盟会に聲援すと揚言する雑誌も出来たる今日なれば、この際之に拮抗する機関雑誌をもって大いに発展の途を講ぜられんことを希望す云々。」

『皮革世界』(第三年第一号)












◎革財布・・・・・我が国の工業は日に増し進歩を成し、技術の優秀に須たざるは云ふ迄もない。然るにその技術者の不統一は近来甚だしいのである。彼の鉄工組合と云ひ活版組合と云ひ今日は殆んど存在だに認め得ないのである。幸いに日本靴工同盟会は故西村会長以来、兎も角も持続されて居って基本金を有し是れが維持を成しつつあるが、是とても会そのものの存在と云ふに過ぎないのである。要するに職工組合の必要に重きを置いて居らぬからである。彼の外国における職工組合は最も確実で販売店に対する同盟罷工のごとき着々進歩をなし、是が成功をしておると云う事である。職工組合の必要は何であるかと云えば、職工教育を主とし統一をなし親厚を斗ると云うのが最も主義である。それをただただ組合なり会なり存在と云うに至っては何等の価値もないと云って差支えない。それで日本靴工同盟会の近状といえば更に振るわない。来月の上旬には役員の選挙があるとの噂であるが、役員について最も注意を要するのは、可成職工の管理者として最適なる人物を選挙せねばならぬ。同会の管理者となるべき役員はどうしても職工でなければ可ぬ。学者とか政治家というような人は職工と思想感情が同一にいかぬからである。同盟会の諸君よ、この辺に気を入れて今回の選挙を機会として役員の改選をして大いに将来の発展を望みたいのである。日本靴工同盟会の将来に向かって成すべきことは多々ある。是は云うまでも無く職工教育、職工救済、職工補助、製品の選定、数えれば一としてなきものはない。長足の進歩を成したる吾が靴工業者よ、大いに活動をして更に役員の入替えをせよ。現在の基本金で役員の宜しきを得ば充分に発達振興を斗られるのである」

『皮革世界』(第三年第二号)








◎日本靴工同盟会は如何にして将来の発展を成すか・・・・・日本靴工同盟会の近況について記者は神田における有名な靴販売店某氏を訪ねた。然るに某氏は記者に向かって下の如き談話をせられた。日本靴工同盟会においては会員には熱心な方もありますが、どうも振るわないのです。それというのは会員が全力を挙げて日本靴工同盟会に対する発展をしようとするものが一人もいないからです。どうすれば将来の発展が出来るかといえば、現在のごとき状態では入会者に対する希望もいれられず、何とか方法を講じなければ可ぬのです。兎に角四千円の基本金を有しておって、ただただ会の存在を認めているばかりでは会員も次第に減ずるばかりである。左様会員中にもむつかしい意見をいう人もありますが、これが公然と発表することもせず裏面において云ふだけの者で、現在この間の組合の時も会員が三十名ばかり参集があって会長が役員の選挙について皆さんにご異存がなければ会長の指命で宜しいかといえば、其れに対する希望も云わず二三の役員交迭があったのみで何等の決議も成さず空々に総会も終わったといふ次第で殆んど振るわない。同盟会の将来実行しようとする事は随分とある私は、此間も幹事長が訪問されたから斯んな事も云っておいたのです。兎に角四千円の基本金で金利ばかり見ておってはいかぬ。早い実例を云えば近来靴屋さんで逆境に入って居るものが中々多い。瀧さんだの鴻池さんだの現在は何うである。実にお気の毒な次第であるこの人たちの救済方を講じるには、日本靴工同盟会が率先して欲しいものだ。先ず製造屋さんでは今の処で仕事も相当にできるし、博覧会においても一等賞だの金牌だのと受賞のあった人だ。それを今更潰すのは惜しいものだ。折角の苦心も目茶目茶となる。これ等の名誉ある技術者を救済するものは日本靴工同盟会の仕事である。救済するには金が入るというだろうが金をもってすることは誰もやる。日本靴工同盟会の基本金を応用せずとも調査方法においていくらもある。左様しならば将来の会員及び現在の会員も満足もする。したがって技術者の進歩と為てくる会員も多くなってくる。而して現在のごとく会費も取らずに居っては可ぬ。会費は一定の期日に取り集め、会員を多く拵へて興論に依って今後の発展を自然に発達を為ていったならば、必ず同盟会は今日のごとき状態でない前途有望な会となる。私がいつか芝の方へ行った時に斯ういう事を云った人があった。同盟会は神田で出来て而して神田の人ばかりの仕事だから面白くないと云っておった。是は尤もな話である。是について私は斯ういう説を有して居る。現在の役員も今少し改選して各区から委員を挙げて、日本靴工同盟会の会議に列席をさせ、多数の興論を容れて何事もしたならば、益々会員の賛同を得るに違いない云々。」

『皮革世界』(第三年第四号)






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