日本で初めて労働組合をつくった男



日本人北米移民史(明治時代)




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「ー広告欄ー●桜組造靴場分店 神戸北長狭通五丁目七番地
         ●桜組造靴場支店 熊本県下紺屋今町十四番地」

『時事新報』(明治19年1月16日付け)








「◎桑港の日本人恥をさらす・・・・・在留日本人の現在数は、領事館の調査によれば五百人ばかりなりとのことなれど、久しく当地に在留する人に聞けば、その実千人に近しといえり。しかしてその一般の状態を察するに、よく品行を保持し、熱心もって他日の成業を望む者ははなはだ稀なれど、これを概すれば、福音会に属する者と、属せざる者との二者に別かつを得べし。しかして福音会に属する者、よく品行を保持して職務を務め、大いに他日に望みあれど、これに属せざる者は、かのいわゆるゴロツキ等の者多く、常に勝負事をなし、曖昧なる場所のみを彷徨し居れば、これらの者のため、近来少しく米人の信用を失うに至りしは、遺憾のことというべし。しかるにこのごろにいたり、余は一層慨歎に堪えざる一事を実見せり。これは他にあらず、近来出稼ぎのため渡米せし別品六名が、振袖を着て靴を穿き、紅裙を翻して白脚を現し、またゴロツキ等を引っ張り込みふざけ廻るの事なるが、これらは益々米人の信用を害するに至るべければ、何とか速やかにその取締りを附けられんことを望むなり。」

『朝野新聞』(明治19年1月19日付け)




「◎長崎在留外国人・・・・・欧米各国人現在員百二十六人、清国人は(昨年春の調査によれば)六百四十七人、宣教師は三十一人、外国人へ昨年中下付したる内地旅券は四百十一枚なりといへり。」

『時事新報』(明治19年1月30日付け)






「◎米国特別通信・・・・・、、、桑港にある清国人の労働者の数は本年一月一日の調べによれば、清国人街にて自国人の製造所に労働する者二千三百二十六人にして、其の中、、、靴類製造人五百九十九人、、、外白人の製靴会社に働く者三千九百七十人、、、清国人ホッキーなる者は清国人街中のデュポン町に盛大なる製靴会社を設けて、職工五百余人を使役し、その製品をば太平洋海岸は勿論、遠くサルトレーキ府より東の方ミシシッピー河の近傍にまで売りさばき居れり。」

『時事新報』(明治19年3月3日付け)






「◎米国行・・・・・一昨日横浜発の東西汽船ゲーリック号にて米国へ赴きたる船客中、東京よりは馬場辰猪、大石正己両氏、甲斐商店の甲斐織衛氏、東京独立新聞社長イーストレーキ氏の母堂さらに令弟などありて、東京よりわざわざ船まで見送りたる人も多人数ありけれど、一時船中はよほどの混雑なりし。同号は十二日午前十時十五分滞りなく横浜港を解覧したり。」

『時事新報』(明治19年6月14日付け)







明治20年
































































「◎渡米日本人の遭難・・・・・去る五月五日、横浜港を拔錨して同月二十一日の一時頃桑港に着したる英国汽船会社のゲーリック号には日本人四十四名(内婦人二名)乗り込み来たりしが同船の航海中、千二百余名は清国人の仲間に只だ二名の天然痘に罹りし者なりしがため、乗り組み日本人は残らず着船は当日上陸を許されざるのみか現に本?を認め居る六月二日までも尚ほ船中に呻吟し居たり。最初の程は当地在留の日本人も検疫上の都合よりして斯く船内に閉じ込められたる事ならんと信じて更に疑点なかりしが、元来日本人は?て天然痘に罹りし事なきものにても、十の八九は必ず種痘をなしたる者にて、二十歳前後の青年者ならんには一人として右手か左手に種痘の痕跡無きものなきは人のよく知る所なり。然るにいかに念の入りたる検閲なればとて数日を経るも尚上陸を許さざるがごとき理由あるべからずと、在留日本人は申すにおよばず追々これを怪しむ者の増加し、当港の評判となりし折から、偶々同船より上陸したる者ありて、直に日本福音会に赴き詳細の事情を物語りたるを聞くに、右乗り込みの日本人は?れも皆種痘をなしたるものなるのみならず、中には面部に天然痘の痕跡を存する者も少なからず、これらの人々は就中伝染の憂いなき者なるに、尚を他と一所に船中に閉じ込めおくは不当不理なりとて当初大いに不平を鳴らしたれども一向に聞き入れざりしが、右の人びとは憤懣に堪えず、何とかして上陸せんと百方苦慮する内、ようやく去二十五日に至りて面部に痕跡ある者七人だけは上陸せしめたり。然るに其余の三十七名は天然痘の痕跡こそなけれど前陳のごとく種痘の痕跡は一目瞭然たるもののみにして、五日間も閉じ込め置く内には伝染の害なきことは自ら判然して右七人と共に上陸を許すも差しつかえなかるべきに、決してその義なきのみならず、翌二十六日に至り、他船へ移すべき旨を命じたるにつき、右の人びとは不平ながら止む得ざる次第と諦め、船員と税関吏との指図に従い移ることとしたるが、抑も其の船と申すはメーシー号と称して、数年来?物に属する石炭運送船にして、船内殊に不潔を極め暗澹として寸前も明かならざる中甲板(セコンドデッキ)の上に古びたる帆布を張りて居所となし、八百余名の清国人と同居する事なれば、消毒抔とは思いも寄らず、日を経るに従って他病を譲すは明らかなる事なるが、故に日本人一同はこの船内の有様を見るより、一同協力して其の不都合を責むれども税関吏は船員に命を伝えて共に日本人の請求を承諾せず。於是乎船内の臭気と清国人の阿片の烟とを忍びて、止むを得ず右中甲板に入りたるが、日々給興するその食物の粗末なる事、実に言語同断というの外なし。例えば肉なく菜なく、?気なき日本にて所謂薬炊粥の一種を興ふるのみにて、飲料の水さへ適宜に用いる事を許さざれば、未だ二日を経ざる内に重病に罹りたる者二人ありといえり。斯く牛馬同様の取り扱いの様を聞きたる居留日本人有志者は、取りあえず去る二十八日夕、福音会堂において集会を開き、義損金十余ドルを得て、あたかも獄中の友人に差し入れ物をなすがごとく遭厄の同胞に麺包、鶏卵、缶詰その他日常品を送る事となしたり。越えて翌二十九日に至り、当港の同国人中へこの模様を通知して再び集会を開きたりしが、何とも皆同胞の不幸を傷みて吾も吾もと会場に集合し、当日は百五十余人にて、種々討議の末、第一、右三十七名を給興する食物の悪しきは汽船会社の落ち度なれば、同会社に向かってその改良を促す事、第二、如斯き不潔船に移して獣類に対するがごとき処置の不正不当を其の向へ照会する事、その他二三件決議し、及びこれ等の事件を?当するため会合の有志者中にて委員として石崎静、美山貫一、渡辺?、丹森太郎、中村政通、田原利、菅原傳、嶋田重助、青木英彦、鵜飼猛の十氏を選挙せり。又是より先福音会の牧師米人ハリス氏は、この不都合極まる事情を聞くや否や、これは我が米国人の大いに恥づべき事柄にて、日本人と我が国人の親睦を損害するの基礎なれば、先ず予は諸君のため我が米国人のため、この不都合の取り扱いをなしたる根元を探知したる上救済せざるべからずとて、同氏の大いに奔走したるがため、メーシー号に赴きて同胞を訪ふだけの許可は税関吏より得たりしが、日本人にして右検疫船に赴かんとならば、再び帰り能はざるものと心得ざるべからず。即ち右三十七名の上陸するまでは上陸するを許さずとの事なるにつき、有志者は仮に帰陸する能はずとも同胞の困難を傍観するに忍びずと返答し、青木、鵜飼の二氏は覚悟を決めて、正に検疫委員の小船に乗らんとしたるに際し、この時遅し、かの時早し、税官の長官らしき者一人出で来たり、該船に赴くこと一切相成らず達せり。ここに至って又も失望したれども?かで意中を貫ぬかで止むべきとて、右二氏に田原氏を加え三名にて窃かに小船を雇いメーシー号に近寄りたりしが、上船のできざること勿論なれば、三氏は大声を発して船中の同胞励まし、我輩は諸君を上陸せしめんと有志者と共にその計画最中なれば、しばらくの間忍ぶ可らざる所を忍びて待たれよ、との旨を通じ該船を離れて帰りたるは去る三十日のことなりし。然るに同日午後船中の日本人より左の書面を有志者に宛てて郵送せり。(未完)」

『時事新報』(明治20年6月24日付け)







「◎桑港通信日本人の遭難(去る二十四日の続き)・・・・・本日熊々一舟を仕立て此憐れむべき我々の安否を訪ひ慰論せらるるのみならず、必需の食品さへ恵興せらる、嗚呼我々は数日惨苦に呻吟して焦思憤悶只だ天を仰ひて嘆息する際、斯く諸君の厚意を忝ひし雀躍感泣の至りに堪えず、我輩は日々上陸の期を待つといえども、船員等は我輩を欺いて其期を告ず、其船中の税関吏は酒興に乗じて我が二名の婦人に不敬を加えんとしたるに付き、婦人は危?して別室に居る事あたわず、昨今は男子の室に来て我輩と同居せり。彼等の無礼無情なる事推て知るべし。然るに、船員は、我々日本人が当船に移されし以来は事情の許す限りに尊敬と注意をもって取り扱はれたれば我々日本人は船員に対して少しも苦情を申すべき処なしとの意味なる書面を製し来たりて、我輩に記名調印せよと強迫するに付き、我々は左のごとき答書裁して直ちに之を拒絶したり云々。此度当検疫船にある我々日本人が厚遇を蒙りたる證據状様の署に連署致すべき旨請求せらるるの所、固より我輩は清国人同様に無情なる取り扱いを受け、別段厚遇せられたるの覚え之なきに付き記名調印致?候也。

船長宛 日本人一同

?委員諸氏はかくまで船内の事情を委しく記載したる書面及び船員よりの請求書?にその答書の写し等を?手し其の驚愕憤懣更に一層し、夫々手配りをなし、石崎、美山の二氏は領事藤井三郎氏の許に至り、何とか適当の措置あらん事を請求し、渡辺?氏は幸いに医師なるがゆえに検疫委員長に迫りて共にメーシー号に赴き検疫に立ち会はん事を談じ、ハリス氏は馳せて英国汽船会社の船長ブライアント氏に至りて各々ありのままの事実を陳べたる由なるが、記名調印を迫りたると婦人に不敬を加えたるとの二事は居留日本人をして一層噴気せしめたるをもって、委員諸氏は、取り敢えず、その事実を当港のクロニエル新聞紙に投じて世上に示し、追って右三十七名の被害者の上陸するを待ちて、再び精しく広告し、税関吏と英国汽船会社との不注意不親切を鳴らして今後の渡航者に勧告し、なるべく英船に乗り込まざる様注意せしむるはずなりといえり。願ふに本件は今後四五日を経過する間には決着に至るならんか、左の人名は今度ゲーリック号に乗り込み渡航したる総数にして、この内七名は前陳のごとく上陸する事を得たるものなり。該事件は結末追って次便に報道する事を怠らざるべし。

山中茂(福岡県)岡常夫(三重県)松本文吉(石川県)川野藤松(新潟県)高木亀太郎(東京府)川口源五郎(大阪府)山田倍吉(埼玉県)藤城市次郎(東京府)福崎岩松(東京府)松野敬次郎(茨城県)原田一生(鹿児島県)芥河平二郎(広島県)和田?之介(東京府)内田芳作(岡山県)杉?太郎(東京府)渡辺栄(千葉県)横山岩之介(三重県)鹿目丑彦(東京府)?瀬宗三郎(栃木県)増井三郎平(兵庫県)川辺喜平(埼玉県)宮本?太郎(東京府)平田彦熊(熊本県)進藤道太郎(東京)石田?(福岡県)佐々木浦次郎(岡山県)荻原孝則(東京府)石井新三郎(東京)倉待?次郎(千葉県杉崎正豊(神奈川県)山谷助蔵(兵庫県西村作市(佐賀県)赤松儀作(福島県)岡有敏(福岡県)田嶋悦次郎(広島県)森音次(高知県)三部屋虎一(東京府)三嶋虎太(福岡県)杉山佐之吉(北海道)外婦人二名 布哇行三名 合計四十四人」

『時事新報』(明治20年7月1日付け)







明治21年





◎桑港在留の日本人・・・・・米国桑港に日本人の始めて居住せしは今より二十年前のことにして、当時はただ水夫などの上陸せしのみに止まりしが、数年前より学者、実業家、及び内国の社会に不満を抱きたる者続々来港し、その数およそ一千三百余人に上がれり。これらの中にて、少々富裕なる者は学校に入りて講学に従事し、赤貧なる者は朝夕の労働をなし、或は職工場等に赴き給仕小使い等の賤業を取りながら勉学をなし、他日大いに成すあらんとするに似たり。されど大勢の事なれば怠惰の行為ありて日本人の名誉を汚す者なきにしもあらざれども、万里の波濤を渡り不慣れの工事をなし、後日各自の目的を達せんとするは感服の至りというべし。市中には宗教家をもって組織せる福音会あり。その創立十年前にありて美以美(メソジスト)教会の保護を受け中々盛大なる会となれり。その他、唯友会、慶応義塾同窓会、唯一会、同舟会等は皆有為活発の壮士をもって組織せり云々と同港発行の十九世紀に見えたり。」

『時事新報』(明治21年3月8日付け)





「◎在米各国人の職業・・・・・北米合衆国は広野数千里に亘り耕すべき沃土茫々際限なき新楽土なれば、世界各国の人種一として移住せざるなく、従って各人種の執れる職業の種類も千種万様なるが、今之を大別すれば、汽車汽船馬車等の監理人には愛蘭人多く、靴師には瑞士人仏蘭西人多く、飲食店持ち主及び医師には独逸人多く、洗濯屋は清国人の専業というべく、従来の掃除雪除け等は伊太利人の手に帰し、料理番と小使いは黒人と日本人の専業なり。現に日本人の桑港にあるもの二千人の多きに及び、其の他ニューヨーク州にも数多散居すれども、大抵料理人もしくは小使いとなれり。今日米国にて下等社会中、最も教育あるものは日本人なりとの評判ある程なれば、日本書生の賤業に従事するもの多きを知るべし云々と、米国よりの通信に見ゆ。」

『時事新報』(明治21年5月7日付け)






「◎米国の少年・・・・・、、、ワシントンは農夫より、リンカーンは舟曳きより、グラントは皮工より何れも起りて大統領とまで成りたる、、、」

『時事新報』(明治21年11月6日付け)

※ユリシーズ・S・グラント(第18代大統領)






明治22年




「◎米国の日本食物店・・・・・米国桑港には日本人の在留するもの多きより、今は日本人の開きたる旅店もあり、料理屋、すし屋、汁粉屋などもありて、いずれも頗る繁盛なりという。」

『時事新報』(明治22年2月10日付け)












「◎桑港の近信・・・・・客月二十三日米国桑港発の書信に云々、(前略)初めて海外異邦の土を踏みし小生等の眼中には当桑港市街の有様すら非常の感触興へ、事々物々新奇の思いして知らず識らず立ち留まりて打ち眺むることさえありしかば、忽ち東京在住の日、富士登山の連中が鼠色の行衣を着、菅笠を負い鈴を腰にして銀座街頭を左顧右眄する様を嘲笑せし其の折を追懐して一笑仕候。当港の事情は既に度々府下諸新聞紙上に掲載有之殊に米国返りの連中も随分数多く相成り候。今日に当たり初めて渡米せし小生等が喋々致すも無益の談に候へば、大概の事項は相除き唯一二ツ申し上げ候。当港の商業の盛んなるは申すまでも無之候。当市滞在の日本商人現在の有様は萎靡不振と申すも左迄過言には有之間敷きと被存候。しかし当港のみに局促せず、広く米国全体を見渡し候へば、充分望みあるように候へども、目下の所当港において最も信用のあり、最も勢力ある横浜の某支店につき、実際の収支を聞くに、平均一ヶ月間の商品売上金高は千円、内其の原価及び船賃関税等一切の費用六百円を差し引けば、残金は四百円にして、この内にて家賃(百五十円)、米人一名日本人一名雇賃(合わせて百五十円)、支配人給料(五十円)、諸雑費(五十円)を支払えば、手一杯にて損益なしという。信用と勢力ある商店にして既に斯くの如しとすれば、この他冒険をもって商業を始めたる者の失敗を執るも亦決して無理には無き之故に、当港の日本商人は今にして大いに覚悟する所なくては相成り間敷きと存候。(中略)目下当港の日本雑貨売捌店は米人の所有に係わる者一箇所、清国人の所有三箇所、日本人の所有四箇所、都合八箇所の由なれども、このうち日本人の所有に係わる二店(注1)は早晩閉店せざるべからざる財政と相成り候哉に聞き及び候。又現時当港在留の日本人は概数二千四五百人にして、日本料理店を開きて営業し居るもの四箇所有之候云々と見えたり。」

『時事新報』(明治22年2月23日付け)

※(注1)閉店間近の雑貨店二店のうちの一店は高野房太郎の店。






「◎桑港在留人の祝祭・・・・・去る二月十一日、我が叡聖文武なる天皇陛下が憲法発布の典を挙げさせられしと聞き、米国桑港在留の我が国人は歓喜に堪えず、応分の祝意を表せんとて同地在留有志者の設立に罹る愛国有志同盟会が発起となり、急に広告して日本人をマーケット街のセントジョージ会堂に召集し、午後八時に至りて仕度も整い、会衆もほぼ集まりければ、法の如く祝祭の典を挙げ、終りに皇帝陛下万歳国家万歳と三び連呼して、散会したるは十時過ぎなりし。当日ワシントン公使館より桑港領事館へ電報の着せしを知り得たるは正午時前後にして、即夜に開会せしことなれば、同国人の悉く相会するは或は難事ならんと思いの外、いづれも聞き伝え語り伝え業を休み事務を擲って相会したるが故に、領事館員を始めとして其の他甚だ多く非常の盛会なりし。海外万里に客居して家を思い国を思うの外なきは均べての海外在留人の常なるに、国運を万世無窮に伝ふるの機関たる憲法既に発布せらると聞いては如何でか喜ばざるものあらん。如何でか祝?に臨まざるものあらん。日頃の憂鬱一時に消えて、さすが桑港ながらもいわゆる日本晴れの心地するも、国民の情として無理ならぬ事なるべしと、同地よりの近信に見ゆ。」

『時事新報』(明治22年3月22日付け)




































































桑港新報・・・・・此の程横浜に入港せしゲーリック号にて桑港より桑港新報の第二号が到着せり。用紙は赤色にて大サは十九世紀にほぼ同じ。発行所は同港メトマ街百四十番桑港新報社なり。主筆者は我楽多文章の元社員たりし山岸覚太郎氏(注1)及び同地在留者石田隅次郎氏にして、彼の「蒸気船」のごとき激烈のものにはあらざるよし。」

『時事新報』(明治22年3月26日付け)

(注1)山岸籔鶯(雅号・ペンネーム)

※山岸覚太郎は、後に、日本製靴会社(全身は桜組・今はリーガルコーポレーション)の社長に就任している。























桑港愛国同盟会の来?・・・・・米国桑港にある日本人の組織に係わる愛国同盟会員は、去る十日に開きたる大同団結の大会に提出してくれよとて四月二十三日附けをもって畑下熊野外二氏に宛て送り来りし。同盟会員が希望の要旨なりというを聞くに、第一、大同団結党は明治二十三年国会開設の期に至るまで総理を設けざる事。第二、大同団結党は参謀長、参謀を置き同党の運動を管理せしむべし。第三、参謀長、参謀を選ぶには党中において最も経歴ある第一流の人物を選挙すべき事勿論なれども必ずしも党派の総首領と目せらるべき人物を選挙するを要せざるべし。第四、大同団結党に属する各地方団結の組織も以上の例に倣ふべき事等なりという。」

『時事新報』(明治22年5月13日付け)





















桑港在留の日本人・・・・・左に掲ぐるは米国桑港耶蘇教福音会の幹事大澤栄三氏より此の程河北領事へ差し出したる書面なりとて、六月十日発行の同港日本字新聞蒸気船に見えたれば読者参考のためここに転載す。謹んで白す領事河北俊弼君閣下我が同胞日本人の当桑港ならびに其の近傍に在留するもの既に四千人に及ばんとす。而して尚ほ続々渡米するもの毎船便、断ゆることなく今は既にこの地に純然たる日本殖民を形造り、従って之に伴うべきあらゆる弊害も亦至らざる所なし。最初日本人が過分に得たる名誉は今や過分に下落し当国人して稍や厭悪の情を起こさしめたることは事実にして、之をいかにせば可なるや誠に重大の問題にこれあり。疾に閣下は御憂慮の事と奉存候而して特に焦眉の急を感ずるものは、此の在留人中不慮の災厄に罹り、もしくは疾病其の他の事故にて困難に陥る者有之候節の処置にして是れ実に一日も打ち捨て置きがたき事に御座候。当福音会は美以美教会に附属し且つ幸に多数の会員を有し居候故或は銭なくして私に汽船に忍び入り渡来するものに衣食を給して生活の途に就かしめ、或は疾病依る所なきものを看護して重き者は之を病院に送りもしくは帰国せしめ、死せるものは之を本会所有の墓地に埋葬する等是まで勉めてこれ等の救助に従事仕候得共何分にも行き届き兼ね、且つ到底何事も之を本会に引き受くるの力なきは勿論のことに御座候乍失礼領事は其の職掌あり領事館は其の事務ありて固より多忙のことに可有之候得共既に斯く多数の在留人あり。又其の常態の斯くのごとく甚だしきものあるに至りては日本政府の出張所たる領事館の之に向かって相当の保護を與えらるるは至当の事と存候。当地は各国人の集合所にして各々或る方法を設けて以って其の国人を救助せざるはなく彼の清国人のごときも既に其の挙あり。独り我が日本人中に未だ嘗て之を企てざるは誠に一大欠点にして遺憾の至りに候。もし領事館においてこれ等の事を誘導尽力相成り候はば、其の災厄困難を救助するのみならず、併せて其の弊害をも矯正するに便利多きことと存候。又是まで当地の事情は充分本国に通じ居らざる事に候得ば当地において救助の事を尽力すると同時に一方には我が外務省及び各府県庁等へもこれ等の事に関して注意を促し且つみだりに前後をも省みずして当地に渡航するもの等を防ぎ候様致度固より社会の大勢が自然に斯く多数の在留人を渡航せしむる事に候得共其の弊害の在る所は之を未萌に予防するも、亦至当の義と存候現に去月二十八日入港のペキン号乗り組みの日本人中には新潟県の農夫十名同和歌山県人八名有之上陸致し候得共一向様子も相分からず困難致し居候故本会会員は一時これを本会に連れ行き候得共斯く多数の人を如何とも致し難く候に付き一先ず日本人の旅宿に托し置き色々周旋相試み候。然るに何分衣服等も見苦しく既に所持金も欠乏致し居候程にて、余儀なく領事館へ申し出今や閣下を煩わし申し居候次第。もし今後この種の人々沢山渡米致し候はば、困難を増すのみならず、当国人の日本人を見ること全く清国人と同様に相成申すべく、既に或る新聞紙のごときは右の様子を記載して、其の風俗の厭うべきこと寧ろ清国人よりも甚だしき旨を吹聴致し候。又当州の法律が蒙古人種に対するの制裁は益々酷に相成り候事故、もし今日のままにして救助制度の方法を講ぜざれば、其の禍は必ず測るべからざるに至り、遂には日米両国間の交諠にも相関し候事に御座候。聞く所によれば横浜には不正の者多く己が利を貪らんがため愚民を煽動して外国に渡航せしめんとするもの有之やに候間此等も閣下より夫々御照会の上然るべく御取締り被成候ては如何可有之や要するに当地は最早学術にのみ従事せる書生社会の在留所には無之純然たる日本殖民を形造り居候へは充分なる取締りを施さるる様致したく候。尚ほ彼の災厄困難等を救済するの方法に至っては詳細御相談申し上げたく此に聊か本会の経験并に不肖の所見を記してご参考に供し候頓首。」

『時事新報』(明治22年7月1日付け)








米国通信 桑港七月七日発・・・・・米国に渡来する日本人。
近来我が日本人にして当国に渡来する者次第に増加するは世間に知れ渡りたる事実なれども、その渡来者の種類に前後著しき相違あるは余り世人の知らざる所なるべし。抑も今を去る四五年前の頃、我が日本よりして当地方に来る者の多くは書生社会の人々にしてありし。偶々は商人もあり。工人もあり。其の他技術などを本業とする人々もありしかども、之を要するに書生の二字を冠するもの多かりしが故に、当時においては不評判の事をしでかす無頼漢も少なく、且つ概ね彼等の本職なる学問上の研究に注意するをもって、従って不身持ちの沙汰も不品行の始末も少なかりしなり。是は在桑港の日本書生が主として自分等の不行跡より我が国の体面に汚点を止めんことを恐れ、常に注意して彼等の徳義を保ちたるに依る。是をもって時には在米の我が日本人が他より彼是非難せられたる場合あるにも拘わらず、米国人よりしては先ず一般に日本人程親愛すべき在留外国人は少なしとまで好評せらるるに至りたり。然るに今日となりては渡米する日本人の種族を変じて、例えば一英字をも解せざる田舎の人や或は東京にさえも出でたることなき者や、甚だしきに至りては自己の宿名すらも記し得ざる婦人などが続々と入来し始めたる場合となりしをもって、その中には身の処置に窮する者あるは勿論、従って他家の軒下に所謂路宿を求むる者などもあり、又これ等の土地に不慣れなる者を欺きて醜業に就かしめんとする悪漢も現われ出づるに至れり。是までとても斯かる狡猾児なきにあらざりしも、その相手となる者は重に多少桑港の事情にも通じ、又それぞれ自分の知己を便りて来る書生なりしをもって、容易にその手に乗せられざりし次第なり。然れども右様の田舎の婦人や又は眼中一英字を止めざる者は彼等悪漢のために誘惑せられ誠に憐れむべき事なれども、目下の有様にては手出しの出来ざる限りなりとて歎息する者も少なからず。特に当地在留の日本人にして此悪幣を矯めんとする人々は、種々に手配して新たに渡航し土地不慣れの者や他に依る所なき例の婦人等を世話せんとて尽力する者あれども、多くは悪漢のために先ぜられて有志者の補助を乞う者存外に少なしという誠に仕方なきことなり。然れども今後は一層この事に注意して彼等悪漢の意を逞うするを得ざる様奮発せんとする人々もあれば、早晩彼等の跋扈を制するを得るならん。」

『時事新報』(明治22年8月6日付け)















在米の日本人(桑港 蓮竹生投)・・・・・在米の日本人は益々増加したれども、その増加するに随いその使い道も自然に広まる次第にして、別段困却も生ずることなかるべし。今の時に当たり、日本人が続々渡米するは文明進歩の便利より云うも又人口面積の釣り合いより云うも、共に日本国の利益にして我輩が常に渡米を促して止まざる所以なれども、利に伴うの弊は亦免るべからざるの数なり。之を促すと共に先ずここに桑港の実況を直写して、聊か世人の警誠を乞はざるべからざるものあり。蓋し昔日渡米の日本人は概ね中等の人物にして学問のためなり。又は実業のためなり。相応の目的を抱きたる書生或は商人にして、今桑港に来て労働に其の日を送りこそすれ、もし日本に居りたらんには随分かなりの人柄にして其の心固より守る所あり。金銭全権の米国に存りて其の金銭を見ること土芥の如く、もし又理屈に適はざれば主人旦那といえども容赦することなく割烹場裡に大議論を始め、ミル、スペンサーを?ぎ出すなど不始末なる振る舞いは、かえって米人好奇の心をよろこばする。その際に躬行常に謹直を旨として、かの清国人の如く人を欺き物を掠むる等のことなく、奴僕の身分に似ず、言行極めて高尚なり。是れ米人の??は日に其の厚きを増し、日本人の声価は月に其の高きを加えし所以なりしが、今や大いに其の趣を異にし、今日の渡航者は右の如き書生商人に限らず、大抵は無分別の?惰漢にして、詐欺窃盗する者さえ少なからず。又或は有為の青年にして只菅誇張の風聞に眩惑し夢中に奔?し来りて方向を誤る者亦極めて多し。先日のことなりき。数名の田舎書生は人に欺かれて何の考えもなく渡米し上陸果たしたものの、是が言語でも通ずるか左なくも衣服にても満足ならんには何とか使い道もあらんなれども、純然たる田舎漢の悲しさ、衣服の見苦しき其の上に言語は勿論何一つ用に立つ程の器量もなければ、止むを得ず領事館の厄介になりたりといふ。江戸っ子の気轉者すら此文明の活天地に出ては鳥渡狼狽するが常なり。況して東西も弁へざる田舎書生の難渋するは勿論なるに如此もの続々渡航し、其の中には人窮して茲に濫す。遂には金銭器具を窃盗して?絏に罹るものさえあり。されば昨今日本人の囚獄者珍しからずといへり。又先日桑港定期汽船某号に雇われたる日本人三名は桑港着船の際、各々幾何のハンケチーフを衣物の中に着服して巧みに税関吏を欺かんとせしに?眼の役人如何でか欺かるべき忽ち其看破する所となり、直ちに拘引せられたりとは当時の桑港新聞に隠れもなし。其の外日本人なれば乞食のごとく街衛に佇立して小児の戯具を?ぎ、或はハンケチーフの包みを抱えて戸毎に売りまわる夫さえあるに、一枚の小売商鑑札を数人にて兼用するがごとき苦々しき事共多し。先達て二三の日本人が其のモンゴリヤン人種なるをもって法学科入校を拒絶せられたりとのことなれども、文学科医学科などにては多分の日本人卒業し、現に在学する者もあることなり。尤も今日まで日本人の不始末を醸せしもの少なからず、或は半途にして猥りに退校し、或は偽證を製して入学し後ち露顕して退校を命ぜざれたる者もありし由なれば、この度法学科入校拒絶の事件も必竟は是まで日本人の軽忽なる之が原因にして、亦以って日本人の価値下落したるを知るに足るというものあり。又一方を顧みれば彼の自暴自棄の書生或は無頼の職人が墜落社会の仲間入りして賭博喧嘩をなし、毎度ながら巡査の厄介になることなり。コハ其の当人のため悲しむべきのみならず、本国のために憂うべきの限りなれども、彼らは彼らの社会において相応に侠気義?を失わず、却って墜落仲間の米人などには尊敬せらるることさえある由なれども、前記のごとき金銭器具を窃盗し、或は官を欺き人を瞞着するの人物に至っては、此れまで日本人をもって正直一偏と信じたる米人をして忽ち清国人同様不正の徒として嫌悪せしむるに至るべし。実に米国は日本の隣国にして、文明の美花を手折るにも、無尽の金沙を拾うにも、殊に人口過殖の始末を附けるにも屈強の場所なるに、今や漸く将に米人の嫌悪を来し日本人も亦将に難渋の傾きあらんとするは豈亦嘆かわしきの限りならずや。然れども我輩は之がため落胆して直ちに渡米の害を説くものに非ず。況や他の一方を顧みれば単身独歩の窮措大にして遂には学士の月桂冠を頂戴せるものあり。又空嚢を携えて入り来りし瘠せ商人が拮据一二年忽ち万金の身代を興せしもの少なからざるにおいてをや。唯我輩は今後渡米の人士に向かい常に此憂ふべきの兆候を記憶し狂?を未倒に廻すの心がけあらんことを希望するものなり。蓋し桑港は世界屈指の?地にして万国の人種幅?し技芸工商何一つとして新奇を競はざるものなく、又其の近傍には牧畜耕作の業甚だ盛んなり。茲に遊んで其の文明開化の原因結果を観察し、之を日本に移播せば、其の社会を裨益する鮮少ならざるべし。もし又茲に商法を拡張し日本の物産を輸出せば、其の利益亦莫大ならん。人少なく事多きの今日において、苟も盤根錯節に当たるの覚悟ある者は身外無一物にして忽ち巨万の富を作り、又奇代の功を奏すべし。如此にして自ら利し、又国を益し、随って在米日本人の弊を矯むるを得べきのみ。」

『時事新報』(明治22年9月24日付け)










桑港発着の日本人・・・・・去る九月一日より同十月末日までに日本人の桑港を発して帰国したる者十八名にして、日本より同港へ着したる者は四十一名なりという。」

『時事新報』(明治22年11月18日付け)


明治23年











美山貫一氏・・・・・米国桑港福音会会長にして先年ハワイに渡航し我が移住民の品行を矯正せんとし安藤総領事の賛成を得て同国に禁酒会を創立したる山口県人美山貫一氏は去る十四日午後十一時横浜に着港したるシチーオブペキン号にて帰朝したりと。」

『時事新報』(明治二十三年二月十七日付け)









在米関東人懇親会・・・・・当会は東京、神奈川、埼玉、栃木、茨城、千葉、群馬、山梨の一府七県人より成り立つものにして、二月一日、その第一回をサクラメント町大和屋に開き、会する者六十余名。」

『時事新報』(明治二十三年二月二十七日付け)












在米関東人懇親会・・・・・米国桑港発の近報、、、永井氏先づ祝辞を朗読し、次で竹川氏、、、演説ありて、、、」

『時事新報』(明治23年2月27日付け)






桑港通信・・・・・西村商店は横浜の紳商西村喜三郎氏の支店にして、一昨年十月初めて同港ポスト街に開店し、店頭に最と大なる仁王尊一対を安置する所より、誰云ふとなく仁王店とあだなするに至れるが、開業以来日に増し繁盛に赴き従前より同港に開店せる一番商会、甲斐商店も及ばぬ程の有様なりしと。」

『時事新報』(明治23年4月14日付け)







帰朝・・・・・桑港惟一会幹事たりし中野権六氏はニューヨーク、ワシントン等周遊の上、今般帰朝したり。」

『横浜毎日新聞』(明治23年5月6日付け)





「◎米国桑港における茨城県人郷友会・・・・・」

『時事新報』(明治23年5月30日付け)








「◎珍田領事の赴任・・・・・桑港駐在を命ぜられたる領事珍田捨巳氏は去る十八日桑港へ向けて横浜出帆の郵船オシヤニック号に搭じ赴任せり。」

『中外商業新報』(明治23年10月22日付け)

















明治24年



「◎在米愛国同盟・・・・・米国桑港において一千余名の壮年輩が組織せる同会にては、かねてその機関として発行し居る自由と名づくる新聞は今度東京より印刷機を取り寄せ鮮明に刷り立てんとて、先頃右の委員となり帰朝せし井上敬次郎氏、頻りに奔走中なりといふ。」

『日本』(明治24年1月21日付け)














「◎米国愛国同盟員・・・・・米国桑港の日本人より成立てる米国愛国同盟は
機関とて邦文の新聞紙を発刊し来りしが、
尚之を拡張せんため同盟委員諸氏より活版器具購買のため
義捐金を募り居る由。」

『中正日報』(明治24年2月3日付け)




「◎大いに志士に訴えて義損を募る・・・・・愛国同盟倶楽部と在米国桑港愛国同盟とは元と一体のものにして爾来其の所を分かち気脈担通して我邦文明のために辛苦経営する所あり。則ち彼国に在ってコンニャク板の新聞まで発行し居りしとは既に世人の知る所となるが、かくては、とても今日の劇しき時に処すること能はざるに付き、今度広く有志の義損を募りて完全なる活版器械を購入し、増々その裏情を表白すると云ふ。

井上啓次郎、清原鉄策、橋本義三、海老沼弥蔵、畑下熊野、中野権六、中西元治郎、福田友作」

『あづま新聞』(明治24年2月3日付け)








「◎桑港日本人の近況・・・・・米国桑港に在留する日本人は数年の経験にて近来みだりに空望を懐くものの数を減じ、地方の農家に赴きて給料を得ながら羊の飼養法、桃李、葡萄の培養等を研究するもの多き由。又先年来?学を研究して賞牌賞金を得し高橋勝?氏は近ごろの?展覧会にも出品して名誉状を得、すこぶる評判高し。又青年輩の団体なる日本人愛国同盟会は規約を改正して大いに協同進歩を計ると云ふ。」

『時事新報』(明治二十四年二月二十一日付け)












[
桑港の日本人料理店・・・・・米国桑港において日本人西洋料理店を開業して白人との間に多少の紛紜を引き起こしたりと見え、同港去月六日発行の自由と称する新聞紙に左の如く記載せり。
米国桑港における日本人村上泰三氏外数名協同してコンマーシャル町五百三十番にマインナースレストラントと称する割烹店を開設し非常の繁栄を致せるより、ついに米人の注意を引き起こし、同港料理人同盟はこの割烹店に向けてボイコットを布告すべきを至当なりと認め諸職工同盟にこの事を訴えたるより、たちまち在米日本人中の一問題となり、殊に領事珍田捨巳氏のごときは大いに之がために尽力し、或は諸職工同盟の議長ファールマン氏を訪ひ或は同盟の事務所に赴きて種々に周旋する所少なからず、抑もこの諸職工同盟なる者は靴工同盟、料理人同盟等の如き数多の組織体各々委員を選出して之が全体を総括するの一大団体なり。故にその議決するところ甚だ重きを有す。この会議の当日即ち二月二十七日領事珍田氏は書記藤田氏雇吏リカードソン氏代言士ジョンウォールド氏等と共にミッション街なる同盟会議所を訪問せり。時に八時三十分会議まさに盛んなる頃なりしが数分時間応接所に休憩の後、漸く会議室に入れり。珍田領事の一行は誘引せられて議長の側面なる高座に進み、議員一同は起立して敬礼を領事に表し席既に定まるに及んでたちまち四方より質議をなすに連れて、珍田氏は一々之が答弁を興えたるがその大体は左のごとし。

桑港に千八百の日本人あり。内、真の労働者と称すべきはただ百九十人のみ。その他はことごとく学生にして一時わずかにこの土に遊歴するのみ。且つ我が日本政府は下級人民を海外に乱出せしむることを厳禁して国誉を保持するの政略をとるが故に日本労働者が将来清国人のごとく白人と衝突するの憂あることなし。かの日本には北に大なる未開の天地あり。我が人民は先ずこの北海に殖民し然る後にあらざれば遠く外国に出ることなし云々。

各議員と珍田氏との問答終わるや代言人ジョンウォールド氏はマインナースレストラント管督人村上氏を代表して一片の歎願書を差し出せり。その書中において村上氏らの料理人が同盟に加入するを得ること、その規則を奉ずること、得たる金銭を米国内に消費すること、及び日本人の清国人と異なること等の事実を証明せり。既にして珍田領事及び他の同行諸氏その議場を退きたるが、其の後同会議は種々の討論を経て竟にボイコットの布告を行わずと議定せり。諸職工同盟は既に既に日本人にボイコットを布告するを否決せりと言えども、これを要求したる料理人同盟は其の議決を不都合なりとし、これを輿論に問い、これが是非を訴え、敢えて日本人を拒絶するの運動を試むという。この事件に関し、日本人会の常議員は去る三月二日その事務所なる領事館に会して討議するところありしが、議長珍田氏は諸職工同盟の決議に対しその正行を讃するの議決状を送ることを建議したり。議員中多少の異議ありしも遂に多数をもって常議員会は之を議決しただちにその決議文を服部綾雄、菅原傳次郎両氏に託し諸職工同盟総理ファールマン氏の手を経て同盟に送付せり。その謝状の大略は即ち左の如し。

吾等は在桑港日本人労働者と米国労働者の間に敵意の悪感情出せざらんことを熱望して止まず。しかるに桑港料理人同盟は日本人が開業したる割烹店に向かってボイコットを布告するの要求をなしたるがため吾等と米人との信交はまさに破られんとせり。しかれども諸職工同盟は細密にその事実を調査し遂に料理人同盟の要求を拒むの議決をなせり。これにより吾等日本人会常議員は諸職工同盟の行為が正義公平にしてよく吾等が熱望する日米両国労働者間の和合を保持するに足ることを認めて之を議決し諸職工同盟総理ファールマン氏の手を経て同盟全体にこの議決書を進呈す。尚今後諸職工同盟と吾等の交際を愈々密ならんこと切に希望する所なり云々。]

『時事新報』(二十四年四月十四日付け)


























「◎米国の日本人排斥運動・・・・・バンクーバーにて発刊する三月二十八日のデーリー、ワールド新聞を見るに、左の一項あり。我々が毎々この如き報知に接するは実に嘆息の至りなり。太平洋海岸にては数年前より清国人同様日本人を排斥すべしとの十字軍起こり、米国のために大いに好結果を得たるが、桑港収税官フェルプス氏は更に大いにこの非日本人戦争を起こさんため、其の準備として在米日本人に関する統計表を目下編製し居れり。氏の言に日本男子は清国人同様排斥すべきものたる事の外に、至急ここに同問題を公衆の面前に提起すべき一の理由あり。この事は日本男子におけるよりも更に恐ろしきものにて、即ち日本女子の米国へ向け不道徳の目的を以って毎年夥しく輸入せらるる事なり。この点に関しては大いに改良を加えざるべからずと言へり。」

『東京日日新聞』(明治24年5月7日付け)





「◎米国における日本婦女の醜態・・・・・我が国の下等婦女子が海外において破廉恥の醜業を営み往々我が国の体面を傷つくるもの少なからざることは前号の紙上において我が読者に報道し併せて其の注意を乞いたることありしが、今又近着の桑港バレンチンに左の如き不快なる一報あり。我が同胞たるもの之を読んで如何なる感を起こさるるか。日本婦女の醜業を営むものは概ね皆カニー街に住みて多くの妓楼を設立せり。桑港戸籍掛長ポート氏の調査によれば、桑港在留日本人は一千八百八十年には僅かに八十二人なりしも昨年に至りては巳に二千人に一人を欠くほどの多数に達したりといえり。近頃又二十五名の日本婦人来港せり。収税官フェルプス氏は其の来港の目的を怪しみ其の調査中之を留置せり。就いては近々其の事実の分明となるべきが、蓋し彼等の旅行免状は之を濫用せしものにて、始め渡来せしものがひそかに之を本国に送還したるを再用せしには非ずやと言えり。よってフェルプス氏は之が防遏の法を設けん事に決定したり。吾人は日本人が当地にて暴したる醜態は彼の清国人と等しきことを認め、他の外国人も亦認めたり。移住制限条例の編製は今日の必要なるべし。近時桑港の名誉を汚したる一怪話は、日本婦女子の桑港において港庁の注意を顧みず競売せられたる一事なり。余輩は当地における東洋人の状態は如何なる状態なるやを詳かにせずといえども、宣教師等の噂する所を聞けば、競売所に出ずるを辞みて廃人とせられしものありといえり。嗚呼日本婦女子は悪漢に欺かれてこの地に来り、聞くも忌まわしき醜業を営めり。憐れむべし。一旦この恐るべき魔界に陥りたる日本婦女子は又容易にこの困厄の地を脱すること能はずして永く敗徳の業に従ふ。ここに至りて余輩は日本人の醜体は敢えて彼の清国人に譲らざるものと断言するを躊躇せざるべし。乞ふ余等は左にサクラメントの某教会堂に隠匿せる日本清国両国女子の言を掲げて其の証とせん。清国女子曰く。妾の兄弟は四年前妾を六百ドルにて当地在留の清国人に売り、且つ教えけるには、米国にて取調べに遭はば米人某の妻となるはずなりと答えよとて、出発及び到着の時にはこの言を以って首尾よく官吏を欺きたり。然るにその後妾は千四百五十ドルにて米人の妾となりしが、其の米人は本妻死するに当たり解放するとの話なりしが、爾来其の約束を履まざりき。日本女子曰く。妾は某仏教の僧侶に欺かれ当地に来たれり。其の僧侶は妾を当地の某学校に入らしむべしと約束し連れ来りて料理屋に売り、終日歌舞に従事せしめたり。もし之をなさざれば大いなるナイフを以って脅かし、一日も休ましめざりきと云う。」

『東京日日新聞』(明治24年5月10日付け)










「◎海外日本婦人醜業の実況・・・・・米国桑港その他において日本婦人の醜業を営み、ために我が国の名誉を損ずるもの多く、桑港においては同国の有志者は醜業者駆逐の策を講じつつある趣は嘗て外国新聞より訳出せし所にて、我々は一日も速やかに之が処分をなし、海外に日本醜業者の跡を絶たしめんことを希望する所ありしが、此事たる元と国家の名誉に関することなれば、独り之を政府に一任すべきにあらず。日本人民たるものは各々相当の力を尽くして之が防?の策を施さざるべからず。此の程我が国の有志者は大いにこれに尽力する所あらんとて、先ず桑港における日本醜業婦の状態及び之が渡航の次第等を取り調べしに、左の趣を知ることを得たりとて報じ越したるものあり。政府并に民間有志者は之を一読して速やかに之に応ずるの処分を施さんこと?望に堪えず。
○醜業婦の周旋人
桑港において日本婦人の醜業を営む者は多くは同港サクラメント街にある日本の破落戸どもの手によれるものの如し。これ等の破落戸どもは元と日本郵船会社の水夫どもにて、今は外国船に乗り込み居る水夫どもなり。其の数凡そ五十余名あり。これ等は何れも賭博と飲酒を事とし、種々なる手段を以って日本婦女を欺きて渡米せしめ、或は現に渡米しおる日本婦人を欺瞞して淫買を営ましむ。この他表面には立派なる紳士の体面を装いたる者どもにて内々これ等の周旋をなし、以って不義の利を貪るものあり。又外人の宗教家教育家が日本人を引き連れ帰りしより醜業の蔓延を助けしも少なからず。此れは事柄いささか異なれど、嘗て桑港の福音会信徒に日本人の夫婦あり。夫なるものは他の地方に出稼ぎせし留守の間、其の婦なる者は二姦夫に通じたり。(この一人の姦夫は他に姦夫あることを偵知してこれを以って其れに迫りて姦通せしなりという。)斯くて後夫なる者家に帰るに及びて姦夫の一人より夫なる者に向かいて其の婦なるものを要請して己の妻となしたり。其の言に曰く。汝他行中婦人妊娠せり。是れ我が子にして我と婦人との間に成れるなり。然らば婦人は我が妻たるの確証に非ずやと云々。福音会は之を裁決して姦夫に婦人を渡して同会より放逐したり。然るにこの後この婦人の故を以って二姦夫決闘せり。この他姦夫が本夫を脅迫してその妻を掠奪せし等の事は敢えて珍しからず。
○淫買婦の状態
淫買婦の居る所はほとんど日本遊郭の所謂「切り見世」という体裁にて、窓より顔を出し、往来の人に向かひてカムヒヤ(いらっしゃい)と呼ぶ。其の価は五六分時を一回として一回の価は金一円なり。若し終夜なるときは三十円又は五十円を要す故に、如何なる醜婦にても淫買を業となすものは一ヶ月少なくも三百円以上を得ざるはなし。淫買婦の土地の事情に慣れたるものは独立して路傍に佇立し醜業を営む。斯く儲け好きを以って悪漢等は頻に手を広めんことを謀り、現に醜業婦仕入れのため帰国したるものあり。尚ほこれ等の淫買婦姓名及び其の種類を探知せんと欲せば、海外より婦人の名義にて日本正金銀行へ分外の金額を送り来るものについて取り調ぶれば分明なるべしという。右は其の概況に過ぎず、之によりて見るも、我が国の正直なる婦人までが海外において排斥を受くるに至りしも偶然にあらざるを知るべし。矯正の策一日も忽にすべからず。」

『東京日日新聞』(明治24年6月4日付け)












「◎日本婦女、外人の侮辱を受く・・・・・前号に記すごとく、過般ペンプトー号が横浜より米国桑港に着し移住民検査のため六十余名の日本人ことごとく船内に留め置かれたる際、一名の外人米国官吏と称し日本婦人検査のために来たりたりとて、船中に入り船室を閉鎖したる上にて日本婦人を一々取り調べ、遂にその衣服を脱がしめ無礼を加えたる者あり。一新聞はこれを報道し、多分官吏と詐称せし悪漢の所為なるべしと記載せしが、在米日本人はこの報道を得て非常に激昂し、目下種々計画する所あらんといふ。」

『東京朝日新聞』(明治24年6月14日付け)









「◎桑港(サンフランシスコ)の地震・・・・・桑港にては激烈なる地震あり為に一般の騒動を惹き起せり。(ルートル)」

『東京朝日新聞』(明治二十四年七月四日付け・電報欄)








「◎革命新聞・・・・・前号にも記する如く米国にて発行する革命てふ新聞は、治安に妨害ありとて内国にて発売頒布を禁ぜられたるが、今同新聞の経歴を聞くに、去明治二十年の頃より桑港在留日本人の団体たる愛国同盟にて一の機関新聞を発行し之を新日本と名づけたるに、第十六号に至って内国にて発売頒布を禁ぜられたるを以って、之に次いで第十九世紀てふ題号にて発行したる処これまた程なく禁止せられ、次いで自由てふ題号を以って発行したるに、これは稍暫らく続き七十八号まで生存らへたれど遂に禁止の運命を免れず、よって更に革命と改題して発行し、其の第一号は二三日前内地に着したるが、到着早々直に今回の禁止令に逢いたるなりという。」

『東京日日新聞』(明治24年9月26日付け)








「◎革命第二回の差し押さえ・・・・・米国サンフランシスコにおいて発刊せる雑誌革命第一号は内務大臣より発売禁止の命をこうむり過日来米国より郵送し来れるものはことごとく差し押さえとなりたるが、またまた去る三日サンフランシスコより米国郵船ゲイリック号にて四十二封を送達したるに、前同様直ちに差し押さえになりたりといふ。」

『東京朝日新聞』(明治24年10月6日付け)










「◎革命の題号を切り抜く・・・・・米国桑港において発刊する雑誌革命は、さきに内務大臣より我が国において発売禁止を命じたるにもかかわらず、その後しばしば郵船に託して送付し来たりたるが、或は横浜郵便局にて差し押さえらるるを慮りての事にや、此の程到着したる四十二封の中には、その題号革命の二字を切り抜きたるもの多かりしという。」

『東京朝日新聞』(明治24年11月18日付け)







明治25年











米国の水兵・・・・・米国にては海軍の水兵に外国人を使用するの習慣ありて、現に日本人にて同国の軍艦に乗り込みおる者も少なからざるが、近ごろの調査によれば、米国海軍七千五百十六人の中、真に米国に生まれたる者はわづかに三千五百十九人にして、余は皆外国にて生まれたる者なり。又米国に籍を有する者の総数は四千三百十人にして、その他は皆純粋の外国人なるのみならず、其の中、千二百八十二人は嘗て一度も米国内に住居したることさえなき者なりという。」

『時事新報』(明治二十五年一月二十八日付け)












「◎桑港の愛国同盟者義損金を自由党に贈る・・・・・在桑港の本邦人は去る二十年に愛国同盟なる一団体を結成し、海外万里に在るも猶故国のために策を献じ新聞等を発刊して常に政治の得失を評論する事なるが、右同盟員は昨冬衆議院の解散せられ全国総選挙を行なうの報を得るや、予て主義を同じうするもの自由党の運動を助けんがため各々涙汗の潔財を醵出して、金五十円を正金銀行為替を以って自由党総理宛て義贈し越せりという。」

『国民新聞』(明治25年3月2日付け)




在米日本人愛国同盟の運動費寄付・・・・・米国桑港にある日本人愛国同盟の人々は、過般衆議院議員総選挙の時に際し、遥かに本国自由党の運動を助けんがため懇切なる書簡を添え金五十円を板垣総理の許へ送りこしたりと。」

『時事新報』(明治二十五年三月二十七日付け)













「◎日本用達会社・・・・・北米桑港パウエル街第九番に在り、在米の日本人、アングロ、カリホルニア銀行代言人エー、ヘーネマン氏と協力して設立す。在米若しくは渡米本国人の必要に応じ、相当の手数料を以って書信郵便等の受領発送等その他労働口の周旋事務をも取り扱はるると云う。」

『国民新聞』(明治25年7月6日付け)



「◎米国出稼者の取締・・・・・北米合衆国においては千八百八十五年二月二十六日外国人契約労働者の移住禁止条例を発布して該条例該当者は何国人に拘わらず其の上陸を拒絶することに、尚昨年三月十三日其の追加条例をさへ発して契約労働者の移住禁止一層厳重に実地せることは当時桑港駐在の我が領事より報告もあり、本国人を同国へ渡航するもの該条例に抵触してはよろしからずと、其の取締り方につき予て其の筋より達しありたり。然るに近頃我が領事より其の筋への報告によれば、和歌山、広島、熊本、山口その他の各県下より陸続渡航するものあり。本年四月十三日横浜初の英国汽船ベルジック号に乗り込み桑港に着したる一連中、右条例違反として上陸を拒絶され、空しく帰国したる者三十六名あり。その他近頃本国人渡米の数は一ヶ月間五百余名の多きに達する程なるより、桑港の各新聞は頗る過激の議論を唱えるに至り、当局にては尚厳重に検査することとなりたれば、其の筋にてはこの際右取締り方に関し、先ず前掲の禁止条例及び其の追加条例主意条項を善く一般に熟知せしめ、又爾後渡米者ある毎に旅券出願の時に際し、其の所轄庁において充分注意することとなりたりという。」

『国民新聞』(明治25年7月8日付け)



















「◎米国出稼人に関する書面・・・・・先頃世の物議を惹き起したる北米カナダ、ヴィクトリヤ、ユニオン鉱山出稼人の惨状一件につき、神戸の匡正義会が当初其の事情を摘発したる米国桑港在住日本人の設立に係わる義侠団体遠征社へ詳細の取調方を照会したる所、同社より先月八日付けをもって匡正義会へ宛て送り越したる返書の写しなりというを得たれば、参考のために左に掲ぐ。尤も其の書中、事実の如何は記者の保證する限りにあらず。、、、」

『東京朝日新聞』(明治25年8月6日付け)







「◎在米日本人救済病院・・・・・本邦人の米国に渡航する者年々多きを加え、目下桑港に在留する者無慮数千の多きに上りおれど、概して独立の生活を営み得ず、いづれも外人に雇役されおるをもって、疾病に罹る者は最も困難を極むるより、珍田領事を始め在米医師黒澤格三郎其の他正金銀行員等協合して日本人救済病院を創立せしが、其の開院は来月上旬なる由にて、同院規則其の他参考として珍田領事より先に東京慈恵医院の諸規則類廻致方を照会し来りしに依り、同院にては直に送致したりといへり。」

『東京朝日新聞』(明治25年8月28日付け)





















「◎渡米者多し・・・・・近来米国においては、とかく本邦人を嫌悪する傾を生じたるにも拘わらず、名を学術研究に托して米国へ渡航し出稼ぎをなすもの多き由はかつて記する処なるが、昨日正午十二時桑港へ向け横浜を出帆せし米国郵船ヘリューにも横浜より十余名乗り組みたるよし。」

『時事新報』(明治25年9月18日付け)







「◎米国における日本人の不評判・・・・・近頃米国桑港より到着したる書信によれば、米国における日本人の不評判は日一日に甚だしく、清国人と同じく放逐すべしとの議論盛んにして、カ?-と呼べる演説家は日々諸方に奔走して公然日本人放逐論を演説し、又モーニングコールといへる新聞紙は日々日本人の醜態を紙上に掲載して痛く之を攻撃せり。加之日本留学生をも?斥するがごとき傾きあり。即ち日本人は貧乏なれば学校、病院等公益の事業に対し一ドルの寄付をもなさずして、自由勝手に他人の設立したる学校に入るがごときは、実に鉄面皮なりと嘲り笑うもののごとし。事態斯くのごとくなれば身に一銭の貯えもなくして渡米する労働人のごときは、目下極めて不人気なりといふ。」

『時事新報』(明治25年9月30日付け











「◎日米用達会社の組織・・・・・日米用達会社なるものを米国桑港に組織せんとする企てあることは彼国及び本邦諸新聞の記載せし処なるが、先月下旬に至り愈相談?まり組織を全うすることとなり、既に執務を始めたるが、設立発起者は在留本邦人菅原傳、松岡辰三郎、日向武、敷津林傑等の諸氏にして、桑港パウエル街第九番に事務所本部を設置せりと。而して日米用達会社の事業は在留本邦人及び本国人の漫遊旅行、荷物の発着、書信の往復及び労働者の周旋等総ての用達をなすものなりといふ。」

『時事新報』(明治25年10月19日付け)












「◎愛国新聞の発売禁止・・・・・桑港在留の本邦人が発行せる「愛国」は昨日発売頒布を禁ぜられたるが、内地においては麻布区飯倉片町、畑下熊野氏方にて発売しつつありし由にて、昨朝麻布警察署より警官出張して現在の分をことごとく差し押さえたり。」

『東京日日新聞』(明治25年11月27日付け)








「◎『愛国』・・・・・大日本愛国同盟の機関として米国桑港第十九世紀新聞社より発刊する『愛国』は、今回発行の第四十六号より大いに改良を加え活版摺りとなして発行したり。然るに是亦治安を妨害するものと認められ、内国において発売頒布するを禁止せられ、之を差し押さふべき旨、昨日内務大臣より省令を発したり。」

『東京朝日新聞』(明治25年11月27日付け)








「◎剣客の渡米・・・・・明年の世界大博覧会において本国の撃剣術を海外外国人に示さんがため、府下の鈴木某外一名発起者となり榊原健吉外二十名の剣客を伴い米国に渡航せんとて、目下夫々準備中なりと。」

『時事新報』(明治25年12月1日付け)








明治26年





「◎桑港移住日本人・・・・・桑港新聞プーレツチンの報ずる所によれば去年同港へ移住したる日本人は千六百二十五人にて、移住諸外国(三千六百四十五人)の三分の一余に当たり、多くはハワイより転じたるものなりという。」

『時事新報』(明治26年2月9日付け)














「◎労働者の渡米益々増加す・・・・・近来在米日本人の評判とかくよろしからず。
ほとんど支那人同様の待遇を受くる者さえ多き由にて、
其局に当たる人は疾くより苦慮し居る所なるが、
このごろに至り労働者の渡米益々多きを加へ外船出帆ごとに幾多の渡米者を見ざることなき有様なるが、
これ等の多くは学術研究、農学修業杯と名義は中々立派なれど、
其の実労働の出稼人ともいうべくして其の七分は英語すら解せず、
先に渡米し居る友人を便り、又は福音会の如きものに投じて糊口の途を求め、
甚だしきは靴磨き、皿洗い等の賎業も厭わず、中には不正のものさえある由にて、
現に昨日午前十一時出帆の米船ペキン号にて三十余名種々の名義の下に
出稼ぎとして米国へ出発せり。」

『朝野新聞』(明治26年5月31日付け)





「◎武藤氏の書簡・・・・・在米国パロアルト本邦人武藤武全氏より都下神田猿楽町の富山駒吉氏へ宛て去月二十一日の日付けにて一昨九日到着せし書状中殖民談に関するところを抜粋して左に掲ぐ。

(前略)若し日本人がメキシコ殖民を企てんとせば第一に大平、大西両洋鉄道の貫通せざる以前に成すべし。第二、メキシコ国殖民保護条例の存在する中に成すべし。第三、現大統領在職中にすべし。第四、支那人が多く殖民せざる今日を機とすべし。以上の要点は小生の見聞上より断定したるものに候。何に致せ遠き日本国にありて一二回の探見くらいにては到底其の国情上より殖民将来の方案を立つるなどのことは覚束なき義と存候。当合衆国の如きはメキシコより直接の関係もあり新紙も数多入り込み且つカルフォルニア州における同国人は実に多数のものにて其の国情を探知するは尤も容易なることに御座候。近来欧米人大いに注意を惹きたるは支那人ブラジル殖民の一事に御座候。此事に関し現にブラジル国の使節チャート氏は此の頃出発のベーリー号に乗り込み日本を経て支那に向かえり。同氏は一ヵ年に十万人の支那人を移住せしめ得べき見込みにして己に一大汽船は香港にありて同氏の到着次第第一回の移民を搭載して南米の南端を週航しブラジルに達する予定なり。又当合衆国「ゲリー支那人条例」の判決によりてカリフォルニア州よりも二万の支那人を募集する都合にて前記チャート氏来米の節在桑港の日本領事館をも訪ひ日本人殖民の事についても種々の談話をなしたる由。支那人と雖も今日実に侮り難き事に御座候云々。」

『横浜毎日新聞』(明治26年6月11日付け)











「◎売薬所・・・・・エリス町二百二十二八番。
関根製靴所」

『桑港評論』(明治26年12月3日付け)







「◎関根忠吉氏・・・・・今回帰桑せられたる同氏は、在留同胞の便利を図り、日本売薬を携え来たりて、定価の儘無口銭にて広く販売せらるるとの事なり。氏先には、城常太郎氏と相携提して製靴業が今日の如き隆盛を来たすの基礎を定め、今や又薬品を販売して、同胞幾千のために一大便益を與へんとす。世人の氏を目するに義侠家を以ってするもの誠に所以あるかな。勗めよ関根君。」

『桑港評論』(明治26年12月3日付け)






明治27年





「◎在米国条約改正研究会・・・・・在米国桑港本邦人の発起に係わる条約改正研究会は其の賛成者頗る多く、去月二十八日の大会にて規約を議し、之を会員一同に配布したるが、今規約の要領を見るに、本会は条約改正に関する諸般の研究をなし、会論の実行を促すを以って目的とし、其の目的を貫徹せんため討論、演説、請願、飛檄、新聞雑誌発行その他臨機適宜の運動をなし、事務所を当分の内オファレル街十四番に置くといふ。」

『万朝報』(明治27年1月27日付け)







「◎桑港の大火・・・・・去る二月二十六日の夜八時三十分、桑港に失火あり。第一の商店マーケット街ゴルデン、ルール、パーサーより同街及びグーリー街を焼き尽くして漸く鎮火し、全焼戸数八百余、半焼け三百余に及び、なかんづく右パーサーの損害高は十七万三千ドルに達せりと。」

『万朝報』(明治27年4月14日付け)








「◎桑港の日本人・・・・・は一万円の軍資を募集するに決し、且つ四千人の一団体を組織し、各個ライフル銃を携え必要に迫れば何時にても自費帰国して戦地に赴く決心なりと。」

『万朝報』(明治27年8月18日付け)




在米国日本人の表誠・・・・・我が戦勝を祈り我が戦勝を喜ぶの情は日本国民たる者の差別なき所なれども、特に海外に在留して国威の重きを最も直接に感ずる者は其の心中左こそと察するに余りあり。されば米国の太平洋岸に在留せる日本人等のごとき報国の熱心は非常にして就中桑港における報国義会は左のごとくにして組織せられたるよし。

趣意書
朝鮮の内乱は変じて日清の交戦となり我が師数万今や遠く韓国の陸海にあり。、、、
明治二十七年八月二日
在サンフランシスコ
報国義会
明治二十七年七月三十一日有志大会において選挙したる委員左のごとし。
委員姓名イロハ順
伊藤安之助 岩村竹二郎 井出百太郎 石川定邦 原田啓三郎 西本長太郎 土井操吉
大沢渚 高橋七五郎 高嶋多米吉 竹川藤太郎 田部井宗次郎 曾我勉 津田立一
嶋倉直 永井元 黒沢格三郎 大和正夫 安田七郎 小泉信太郎 我孫子久太郎
佐藤信忠 澤木吉三郎 佐々木三郎 北原文太郎 関根忠吉
サンフランシスコ・モンゴメリー街五百十五番地
報国義会事務所」

『時事新報』(明治27年11月28日付け)






明治28年





明治29年













「◎米国軍艦・・・・・マチアス号は一昨十八日午後四時十分神戸より横浜に入港したり。」

『東京日日新聞』(明治29年6月20日付き)








明治30年























「◎米国桑港に在る本国人の数及び身分職業を問う・・・・・桑港の日本領事館にて分かり居るは六七千人の由なれども、実際は一万人も有りと同港の新聞紙に見られたり。されば身分職業等は之を取り調ぶるに由なし。」

『都新聞』(明治30年5月25日付け)























明治31年




明治32年














































明治33年














明治34年













明治35年
































明治36年





「◎机の塵・・・・・往年米国で愛国同盟会というのを組織していた連中で、現在帰朝在京中の者が二十余名ある。其の内代議士となっているのが、山口、日向、粕谷、菅原の四名だ。今回菅原以外の三名は、政友会を脱して行動を明らかにしたので、右の二十余名が発起となり、近々紅葉館で三名激賞の盛宴を張るそうだ。」

『万朝報』(明治36年5月29日付け)


明治37年


「◎在米国条約改正研究会・・・・・在米国桑港本邦人の発起に係わる条約改正研究会は其の賛成者頗る多く、去月二十八日の大会にて規約を議し、之を会員一同に配布したるが、今規約の要領を見るに、本会は条約改正に関する諸般の研究をなし、会論の実行を促すを以って目的とし、其の目的を貫徹せんため討論、演説、請願、飛檄、新聞雑誌発行その他臨機適宜の運動をなし、事務所を当分の内オファレル街十四番に置くといふ。」

『万朝報』(明治27年1月27日付け)

明治38年





明治39年











明治40年









明治41年





「◎サンフランシスコ電報(特約員発)・・・・・▲酩酊巡査乱暴・・・・・サンフランシスコにおいて酩酊せる一名の巡査は何等の理由なきに日本人矢部某の靴店を襲撃し之を破壊せり(二十一日着)」

『万朝報』(明治41年3月22日付け)






明治42年


明治43年





明治44年
明治45年
















「◎歴史湮滅の嘆・・・・・太平洋沿岸で修行したる者は多く実業界に入って重鎮となったようである。米山梅吉(三井重役)は明治十八、九年ごろの渡米で福音会に居り。星野行則は明治二十三、四年ごろの渡米で同じく福音会に居り、その後靴工となった。今では大阪鹿嶋銀行の専務取締をしている。」

『日米』(大正14年4月21日より連載)




「◎歴史湮滅の嘆・・・・・近々欧米視察のためにみらるる星野行則は明治三十一二年頃ラーキン街に店を有つていた上原徳三郎の徒弟であった。星野は現在大阪鹿嶋銀行の専務取締で東京の三井銀行取締梅山米吉と相対して桑港出身の成功者である。」

『日米』(大正14年4月21日より連載)






「◎歴史湮滅の嘆(技術名人考)・・・・・理髪師としては、明治二十三、四年ごろの西島勇が元祖である。しかし、彼は演芸が好きであったから、その後俳優になった。」

『日米』(大正11年6月27日付け)








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