著者のページ『日本で初めて労働組合をつくった男』  

新平民(被差別部落民)の靴工

明治の製靴業界の紳商(陸軍省に仕える御用資本家)の贅沢三昧の私生活に比べて、彼らの下で働く靴工たちは、極貧生活を強いられていた。

 靴工兵制度反対運動で、解雇という多大な犠牲を強いられたのが、被差別部落民の多かった「弾・北岡組」の靴工たちだった。「桜組」の靴工たちが、「日本靴工協会」を脱会するよしの広告を二十六年一月に新聞各紙に掲載したのに続いて、「内外用達会社」も同月、「大塚組」の靴工たちは翌月に脱会広告を出した。ところが、「弾・北岡組」の靴工たちは脱会広告を出していない。彼らは北岡文兵衛に解雇された後、いったいどんな運命を辿ったのだろうか?城常太郎はこの運動を主導した リーダーとして、解雇された彼らに対し、いかなる責任を果たし、いかなる行動を起こしたのだろうか?その真実は、今となっては知る由も無い。

             

 室町時代以降、エタ、非人と差別され続けて来た被差別部落民は、当時、新平民と呼ばれていた。新平民の多くが、最も賤しむべき職業とされていた靴業に就いた。新平民の町として有名だった東京市浅草区亀岡町の住民の悲惨さは、筆舌に尽くしがたい。

 常太郎は、「弾・北岡組」の北岡文兵衛社長と直談判をするために、亀岡町の「弾・北岡組」工場を訪問した。
「靴工兵制度反対運動」の支援を依頼するためだったが、当時、衆議院議員でもあった北岡は、聞く耳さえ持たなかったという。

 

 浅草亀岡町には、江戸時代、関東八州と甲斐、駿河、陸奥の十二か国の賤民を支配した弾左衛門が、広大な邸宅を構えていた。弾は配下の諸国における牛馬の独占処理権を持っていた。明治維新後、亀岡町には新政府の庇護の下に、「弾製靴所」が設立され、欧米の技術を導入して洋式の製靴が明治5年から始められた。

 

施與金・・・・・浅草亀岡町より出火に類焼せし貧民へ同町弾直樹氏より金百円を施されたり。」

『読売新聞』(明治19年3月26日付け)

 

亀岡町・・・・・この町に入れば、タバコの火を借るさへ穢れるとて、打火を以て吸煙せし程なり。」

『横浜毎日新聞』(明治22年6月1日付け)

 

「一たび亀岡町に入らんか、一種の臭気紛々鼻をつき来る。三回四回訪ぬるに及て、鼻神経遅鈍となり、随って臭気を減ず。腐敗社会に在るもの腐敗を知らず。」

『人民』(明治32年10月15日付け)

 

「亀岡町は悪臭鼻端を裂き汚物目を?しむ」

『東京市史稿』(明治十年の調査)

 

東京の特殊部落・・・・・王政復古以来、旧来の陋習を破って、穢多、非人、汚坊、長吏坊、番太と種々な綽名を着けられて、冷遇、侮辱、を受けた一階級も、平民と段々相接近して、今やこの部落に内務省の推選した模範村も出来た。大阪府からは森秀次という新平民の代議士も出た。之を安政六年四月播磨守が判決した判例に、町人一人と穢多七名と同価たるべし云々の乱暴な事をやって平気であった時代や、穢多村を里程の中に数えぬような事ののあった時代に比べると、殆んど隔世の感がある。明治十二年かと記憶する東京の特殊部落として有名な浅草亀岡町から出火した事があった。折柄の狂風に火焔は紅のを吐いて、見る見る橋場、玉姫、今戸に延焼した、時の消防夫等は、部落の町内を除いて、平民の町内への飛び火だけを消防したが、火焔の中に包まれた新平民の號哭には耳を傾けなかった。この十二年頃とは余程変わって今では穢多の穿た草履の緒が切断て、塵埃溜へ捨てても、見つけられたら再び拾いあげさせ、白紙へ包ませて大河へ流捨させねば止まぬというようなことは、最早全くなくなった。穢多という字は素と餌取というたので、要するに屠肉製革を生業としたからの異名に過ぎない。中世、征韓の俘や、犯罪者等をまとめて穢多非人と称した。現在この新平民の人口は、四十八九万と称されている。東京で穢多町としている亀岡町は、玉姫、橋場を加えて約二千四百人位は居る。数年前まで続き来った旧習の祭弔その他の礼式的の者は今は全く改革して、一般社会と異ならない生活をするようになった。教育の程度は今現に山谷堀小学校に通学する学童は、二百六十余人ある。一般社会の学童と比較して、幾分か低脳で且つ体格にも不十分がるとのことだ。之は永く社会の圧迫に原因したのと、血族結婚が行われ来った為である。近来女子技芸学校から一人職業学校から一人某女学校から二人、都合四名の女学校卒業生を出したが、女子は教育を受けても、普通の良家へ縁談の遠いのは気の毒だ。さりとてあれほど教育も受けて、其の日稼ぎの靴職人を亭主には持てまい。男子の方は中学へ三人高等商業へ一人、未だ大学へ行く青年は無い。この部落の仕事は、竹皮草履、三味線、太鼓、靴、革鞄、等の製作で日に一円以上二円以下位の収入はある。嬶共の内職でも、三四十銭位は儲かる。戦争当時は非常な利益があったが比較的貯蓄心が無いから、右から左へにげてしまうが、さりとて貧乏人と云うは少ない。子供でも部落の子供は中々贅沢だ。母親が乳を与えるより、内職で儲けて其の幾分を分けて、「飴でも買って来い」と云う調子で追い出してしまうので、浪費する事を屁とも思わぬ癖が付いて居る。明治二十年頃までは此の部落内で、生革を取り扱う為め、臭気甚だしかった。山の手に住んだ者は鼻撮みをしても通られなかったものだ。今頃では全く此の臭気を郡部に移してしまって、製革のみを細工して居る。最も絶対的ではない。些少の生革は扱っているが、警察法令に則いて夜ばかり運びこんで、深く倉庫の中に秘し裁断することになっておるから、左程悪臭は無い。郡部の製革工場は、千住三河島等に建築されて居る。これ等の工場には、職工として随分入り込んでいるが、大抵身分を秘くして戸籍などは勉めて他へ転籍しようという傾がある。一般職工と並んで仕事をしていても、中々新平民であると云う事は解からぬようにして居る。此の部落の開発には、八田浪之助(区会議員)弾部落長、神蔵校長(山谷堀)等が先達者として、着々進歩発展に余念無い。その発展策としては、住居を移転して普通平民と混同して仕舞うことや、転業問題なども良好であろう。東京の此の部落から出て、政界に羽振を利かしたのは、故石垣孫七氏である。今此の部落に肩を入れて居るのは、前記の八田氏で、倶楽部派の人である。元来浅草区は公民会、公友会、倶楽部、同志会の四派あるが、部落の有権者は皆倶楽部派に肩を持って居る。公共事業等には普通社会よりも奮発すると云うような美風がある。 戸塚孝治」

『新公論』(第二十五年九号・明治43年9月)