日本で初めて労働組合をつくった男


世界遺産・富岡製糸場の歴史








『富岡製糸場之図』(国立国会図書館所蔵)







『富岡製糸場之図』(国立国会図書館所蔵)









明治8年

「陸軍省出仕太田某の妹お蝶は今年十九、浜松県士族高木某の妹おかやは今年十六になりますが二人とも上州富岡の製糸場にて勉強し教師のブリウナにもほめられて一二年の間に上達しこの二人が製した糸は此の春イタリアの博覧会にも出まして各国の第一であり其の後東京博覧会事務局のお雇いに成って諸国の生糸の検査をつとめ来年はまたアメリカのフィラデルフィアの博覧会へも此の二人が出るということでありますが話半分としても若い年で感心ではありませんか。」

『読売新聞』(明治8年11月25日付け)


明治9年
明治10年
明治11年
明治12年


「イタリアの公使は横浜在留の同国商人と三四人引き連れて上州の富岡製糸場より其の最寄りの糸場を見物として昨日東京を出立されました。」

『読売新聞』(明治12年7月15日付け)





明治13年
明治14年


「◎去る十日内国勧業博覧会にて名誉の賞状を賜わりし富岡製糸場と名誉賞牌を賜わりし旭玉山ほか二人への書付は左の通りで有ります。

名誉賞状

生糸 富岡製糸場

本邦無量の富源たる製糸の業僅々十余年間にして所在頓に面目を改め従って逐歳海外輸出の額を増進し以て今日の旺盛を見るは有志勉励の結果なりと雖もそもそも其れをして自奮の念を起こさしめ大いに諸般の改良進歩を与えたるは実に富岡製糸場之が根軸たり。けだし糸の品位独り東洋の傑出するのみならず之を泰西諸国に求むるも多く其の比を見ず殊に近年該場の工業著しく整頓し全国の蚕糸家をして益々拱辰の懐を固くせしむるに至る全く規画の其の宜しきを得るに由る。而して本会展列する所のもの亦精品なり。其の偉績以て名誉を輝かすに足る。絶ず感賞すべし。」

『読売新聞』(明治14年6月21日付け)






明治15年
明治16年
明治17年
明治18年


「◎生糸の包紙・・・・・上州富岡製糸場にては是まで生糸を包むに西洋紙を用いられしが何分にも紙の質が脆くまま破れ損ずる事あれば所長速水堅曹氏は此の害を防ぎ兼ねては海外の信用を得るには日本紙にて包み輸出するに如かずと考え明治十四年中試みに美濃国武儀郡長瀬村抄紙商館をして抄立てさせしに同館にても其の所用の内実を聞き一は我国輸出の第一なる生糸の名声を高くするの万一を助け一は海外に比類なき我が善良なる製紙をして海外の需要に供する好き見本なれば将来大いに益する所あらんと非常に尽力しさまざま製法を試みて近頃は精良なる紙類を抄立るに至りしより各製糸場にても富岡製糸場がかく率先して此の紙を使用せらるる事なれば皆競ふて右商館に注文するに至り為に同館は近頃非常に忙しきといふ。右包紙は寸法種々あれど大抵其の社の商標をかき込み至極美麗なる雁皮紙なりといふ。」

『読売新聞』(明治18年1月10日付け)






「◎朝鮮使節・・・・・同使節の一行には上州富岡の製糸場及び近傍の勝地一覧の為め近日出発のはずなるが徐正使には昨今少しく病気の気味にて餘り外出を好まぬ由。又同氏は予て能書の聞こえありしが望みの者には好みに応じて揮毫するといふ。」

『読売新聞』(明治18年3月11日付け)






「◎会計検査・・・・・検査官酒井□君は農商務省所管なる新町紡績所および富岡製糸場の会計検査のため出張を仰せ付けられました。」

『読売新聞』(明治18年9月6日付け)








明治19年
明治20年
明治21年



「◎甲府養蚕協会・・・・・山梨県養蚕協会にては昨二十六日総集会を開き同地滞在の速水富岡製糸所長及び河瀬 秀治の両氏が臨席して演説せられたりと。」

『読売新聞』(明治21年10月27日付け)

                                                                                   






明治22年


「◎官有物払下の第五噂・・・・・先頃以来巷間に噂ありたる官有物払下の説は総て四ありたり。第一は官有鉄道払下の議にしてこれは民間の議論やかましかりしため久しき前に噂止みとなりる。第二は丸の内官有地払下の議にしてこれも其の成り行き明らかならず、第三は鹿鳴館払下の議にしてこれ亦何の噂も立たずなりたり。第四は別項に記したる各藩城址にしてこれは既に其の筋の詮議一決したるものの如し。然るに以上列叙したるものの外に今また尚一つの官有物払下事件現われたり。これは日本国内にても大工場の一つとして称えらるる上州富岡の製糸場にて政府はこれを民間に払下げ民間の会社に一任して将来の興業を謀らしめんと評議稍定まりたりと聞き及びぬ。」

『読売新聞』(明治22年9月18日付け)





明治23年





「◎富岡製糸場払下事件・・・・・に付いて渋沢益田両氏へ其の相談取調などなど一二新聞に記事ありしが是は全く誤聞にて今聞く所によれば農商務省に於いて該製糸場の払下の内議あるは事実に相違なきも此の払下人に至っては未だ何人とも定まらざる趣きなり。然るに右両氏へ払下云々世上に云い伝えし原因とも云うべきものは先日陸奥農商務大臣が上野にて博覧会残品始末方に付き府下の紳士の面前にて例の大声にて富岡製糸場は本省にても厄介者なれば払下げたく思うなり。渋沢益田等の両君にて十万円許りに買い求めくれては如何と語り出でられしより両氏はそれは真っ平ごめんなり然しながら其の債権は二三万位のものならんと答えしより陸奥大臣は松方大臣に右製糸場の払下げ代価は若干位と問われたる処やはり二三万円に売れば上都合と答えられたるより陸奥大臣は或る時右等の諸氏に松方氏は存外に能く藻のを知り居るなどの一笑話が誤り伝えておるに尾を付けて言い囃せし事なるも二三万円にても右両氏は買い求むる気込みは更に無之きやに聞けり。」

『読売新聞』(明治23年8月7日付け)






「◎富岡製糸場・・・・・農商務省直轄の上州富岡製糸場を払下ぐる議あるよし伝ふる者ありとはかつて記したるが今同場の成立ちより現今までの有様を聞くに其の昔安政年中横浜港を開きて互市場と為せ志しより我国の生糸は海外に向かって非常に売れ行きければ生糸商は莫大の利潤を得て益々繁昌するに随い奸商増加し明治初年に至りては粗製濫造の生糸大いに増加し此のままにて捨て置かば海外の信用忽ち地を拂い復た収拾すべからざるに至るべき景状を呈せしが即ち富岡製糸場を設けし原因となりしなり。時に伊藤博文氏民部省に在り渋沢栄一氏大蔵省に存りて共々之を慨嘆し一大製糸場を興して之が粗濫の幣を矯んと目論み仏国人フォールブリュナ氏を聘して生糸事業の教師とし地を上州富岡に相して一大工場を立つる事に決せしは実に明治三年の事なりき。当時創立工業費を二十五万円として着手し明治五年に至りて富岡製糸場の成就を告げたり。其の規模頗る広大なるが上に生糸機械の如きは三百人取りの鉄製にして此の一台の機械のみにても十二万円ばかりなりし。元来同場は模範工場として設けしものなれば専ら蚕業に従事する子弟をも入場伝習せしめ改良のの模範を示したるなり。而して同場にて製出せし生糸は米仏に向けし中にて重に仏国へ直輸せり。粗造濫製の幣を承し当時現品を見ず其の商標のみにて売買取引を為すまでに信用を回復せしは独り同場の生糸のみなりき。是営利を専らとせず唯々信用の回復を図りし結果なり。故に明治五年設立以来同十二年まで同場の資本として年々二十万円づつの金額を国庫より下付されしが爾来下付金を廃し従前の下付金を営業資本として今日まで(即ち開業以来十八年間)持続したるなり。尤も雇外国人は明治九年に解き全く日本人の手にて其の製造を司れり。而して同場が非常の利潤を得しは明治九年にして十万余円に上りしが若し営利的事業なりしならば此の二三層倍の利益ありしならんとの事なるが現今の形勢は最早模範工場を置くの必要なりし。蚕業一体に発達して政府の保護を要せざるに至りまして斯くの如き性質のものありては人民の営利上にも影響を及ぼすものなればとて昨年ごろより同場払下の説起こり現任の大臣も此の説を主張せり。斯く莫大の費用を□ちし工場を僅か二三万円にて払下ぐるとは其の實如何のものにや疑わしき事なり。工場のみにても二三万円の価値あるべければ安く見積もりても七八万円のものはあるべし。唯憂うる所は工場の規模余りに広大に過ぎ営利的商人の事業としては手を下すにいささか躊躇する場合もあらんかと或人は物語れり。」

『読売新聞』(明治23年8月10日付け)






明治24年

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