日本で初めて労働組合をつくった男





関根忠吉





淀藩の藩士



 ふり幅の広い人生を送った関根忠吉。サンフランシスコ時代、関根は、「職工義友会」の母体団体である「日本職工同盟会」の創設に関わっている。それ以外にも「在米愛国同盟会」、「大日本人会」、「サンフランシスコ報国義会」、「遠征社」、「海外実業会」など、多数の組織に所属し、在米同朋のために多岐にわたって世話をしている。
 「遠征社」の機関紙『遠征』内で催されたサンフランシスコの日本人十二傑の投票で関根忠吉は「義侠家」に選ばれている。事実、彼には渡米前に次のようなエピソードがある。ある時、お金に困り果てた忠吉は、友人の家に行き、やっとのことで借りることができた。ところが、帰り道で糊口に窮している顔見知りと会うと、今、借りたお金全てをその男にあげてしまったという。「全身これ義侠心の塊」の奇特な人物であったようだ。
彼に関しては
「十九世紀社においても関根氏らの携え来たる処の石版を以て摺り出せることありし。」
『日米』(明治38年7月4日付け)
という記事もある。 
 関根は、在米日本人向けの薬局をアメリカに最初に開店した男であり、シンガーミシンを日本に最初に持ち込んだ男でもあった。また、愛国同盟員として米国に亡命した自由民権派壮士の活動にもかかわっている。日本に本帰国後は、沢田半之助らが設立した「米友協会」の会員にもなっている。また下記の記事からも政治運動にもかかわっていたことがわかる。
「同盟員の帰朝、三氏の書簡・・・・・菅原伝、井上忍及と関根忠吉の三氏は無事に到着、万事好都合の報あり。、、、ハワイの独立と否は太平洋上の大問題なり。本国人、参政権の獲得と否とは、我が国の面目と利益に多大の関係あり。この際、在米愛国同盟員、菅原傳、井上忍及と関根忠吉の三氏帰朝す。三氏の言動は必ず世人の注意を惹起こすべし。」
『桑港新報』(明治26年6月21日付け)


「◎在米日本人愛国同盟会員帰朝・・・・・ハワイ革命に際し米国よりハワイに赴き日本人政権獲取のため大いに運動したる在米日本人愛国同盟会員菅原傳、井上半三郎の二氏は関根忠吉氏と共に去る二十二日横浜着の郵船にて帰朝したり。」

『朝野新聞』(明治26年5月25日付け)






「◎売薬所・・・・・エリス町二百二十二八番。
関根製靴所」

『桑港評論』(明治26年12月3日付け)







「◎関根忠吉氏・・・・・今回帰桑せられたる同氏は、在留同胞の便利を図り、日本売薬を携え来たりて、定価の儘無口銭にて広く販売せらるるとの事なり。氏先には、城常太郎氏と相携提して製靴業が今日の如き隆盛を来たすの基礎を定め、今や又薬品を販売して、同胞幾千のために一大便益を與へんとす。世人の氏を目するに義侠家を以ってするもの誠に所以あるかな。勗めよ関根君。」

『桑港評論』(明治26年12月3日付け)







在米国日本人の表誠・・・・・我が戦勝を祈り我が戦勝を喜ぶの情は日本国民たる者の差別なき所なれども、特に海外に在留して国威の重きを最も直接に感ずる者は其の心中左こそと察するに余りあり。されば米国の太平洋岸に在留せる日本人等のごとき報国の熱心は非常にして就中桑港における報国義会は左のごとくにして組織せられたるよし。

趣意書
朝鮮の内乱は変じて日清の交戦となり我が師数万今や遠く韓国の陸海にあり。、、、
明治二十七年八月二日
在サンフランシスコ
報国義会
明治二十七年七月三十一日有志大会において選挙したる委員左のごとし。
委員姓名イロハ順
伊藤安之助 岩村竹二郎 井出百太郎 石川定邦 原田啓三郎 西本長太郎 土井操吉 大沢渚 高橋七五郎 高嶋多米吉 竹川藤太郎 田部井宗次郎 曾我勉 津田立一 嶋倉直 永井元 黒沢格三郎 大和正夫 安田七郎 小泉信太郎 我孫子久太郎 佐藤信忠 澤木吉三郎 佐々木三郎 北原文太郎 関根忠吉
サンフランシスコ・モンゴメリー街五百十五番地
報国義会事務所」

『時事新報』(明治27年11月28日付け)







日本人愛国同盟会旧友会・・・・・かつて米国に在りて日本人愛国同盟なる名称の下に集まりし人々にて前後帰朝したる井上敬二郎、井上平三郎、日向角太郎、大和正夫、関根忠吉、満留善助、八木原長次、山口熊野、眞山政一郎等の諸氏は、今回同盟員中野権六氏の上京したるを期とし、昨日午後七時より芝山内紅葉館において旧友会を開き、往を談じ来を話し、十二時過ぐるころ散会したりと。」

『東京新聞』(明治30年4月1日付け)





 「◎北米移民の現況(三)職工・・・・・工人は製靴、直し靴に従事するもの、竹細工を職とするもの等多し。而して其の靴工なるものは、関根忠吉氏等二三人士の献身的運動の結果として、靴工同盟なるものを起こし、在留の靴工全体を網羅して、価格を一定し、営業地を区画し、以って相互の競争を拒き、且つ其の業に熟せざる素人をして漫に就業せしめざるの方針を取り、以って其の信用を保ちたるを以って、相応の利益を博し、且つ益々拡張するの運に会せり。」

『太陽』(第16号 明治30年8月5日)





「◎運動費寄付人名・・・一、金壹円 北品川桜組製靴場 関根忠吉ー鉄工組合本部ー」

『労働世界』(第二十六号 明治31年12月15日)









「明治32年に、関根忠吉(淀藩の士族)、島粛三郎(越後長岡藩の士族)、広瀬藤太郎(越後長岡藩の士族)の三人は数百名の会員を募り、西村勝三を会長に渋沢栄一らを名誉顧問に迎えて『日本靴工同盟会』を創設。」

『皮革世界』(第3年第1号)








「◎大日本靴工業同盟総会・・・・・呉服橋外柳屋において開会。左の決議をなせり。

一 西村勝三氏を総裁に、大和正夫氏(注一)を名誉員に推選すること。
二 在米靴工同盟会と気脈を通じ互いに相通信すること。
三 本部を東京に支部を各地に置き、大いに会員を全国に募集し同業を拡張すること。
四 基本金を募集すること。

その他関根忠吉氏より提出せる規則改正案の全部を採用することに決したり。西村氏は本会の基本として金一千円を寄贈したり。」

『東京朝日新聞』(明治32年8月4日付け)




(注一)元「在米愛国同盟会」会員



※関根忠吉は『靴業半生の自伝』を書き残している。しかし、この本は現存していないのか、方々訪ね廻って探したが見つけることができなかった。