一介の労働者から日本の「労働運動の祖」への軌跡!







新史料発掘余談








★銀座・初恋の並木道


 蛇足とはなるが、筆者の体験談を一つ付加したい。明治二十五年春、一時帰国した城常太郎が「銀座三丁目十九番地の借家を拠点に日本靴工協会と労働義友会東京支部の二看板を掲げた」とあることで、この地が日本の「労働運動発祥の地」と称しても過言ではないくらいの重みを増した。

 私はこの記事の発掘後、現在の地図と古地図をたよりに、銀座に向かった。老舗の老主人や交番で道を聞きながら探し当てた当時の「銀座三丁目十九番地」とは、松屋デパートの裏道路に面した一帯であることが分かった。

 私は当時の「銀座三丁目十九番地」に立つと、言いようのない懐かしさがこみあげてきた。この松屋デパートの裏通りには以前「直吉そば」という蕎麦屋があり、学生時代の私はその「直吉そば」で長い間アルバイトをしていたのである。

 今はもうなくなったその「直吉そば」に、三田キャンパスでの講義が終わるなりかけつける毎日だった。仕事が終わってご主人夫婦の肩もみをすると、孫のようにかわいがってくれ、小遣いまでくれる日々だった。私の初めての恋愛相手が「直吉そば」のウェイトレスだったという甘酸っぱい思い出もある。

 百年まえ、常太郎が熊本でめとった新妻の「かね」と連れ立って歩いていただろうこの「銀座三丁目十九番地」を、若かった私は初恋の人と歩いていたのである。また、サンフランシスコでの常太郎の初めてのバイトが皿洗いなら、私の東京での初めてのバイトもまた「直吉そば」での皿洗いだった。
これらの「偶然の一致」もまた、血のつながりが起こす人生の不可思議だろうか・・・。













★日本製靴業の生みの親・西村勝三

 明治十年代、陸海軍の軍靴受注増大に最も貢献したのが、他ならぬ、我が国製靴の産みの親、西村勝三だった。我が国では、これまで、底象皮を製するといえど、品質が充分でなかったので、やむを得ず海外の皮革を需要していた。

西村は多年これを遺憾として19年の春、欧州へ渡航し各国の工場を巡視して、ついにドイツの製法が我が国に適すると悟り、工師クンベルケンを傭併した。爾来、完全の底象皮を製出できるようになり、内国製の牛皮で製造しても米国製に比べても優るとも劣らぬまでになった。

陸軍省においても試験の上、軍靴用に適当であると認められ、以来外国の原料を用いなくても立派に代用できるとの許可を得て、多年の西村の素志を達したのであった。

『朝野新聞』(明治22年6月8日付け「内国製の靴底革」)

『日本』(明治23年4月2日付け・広告欄)

「◎靴工の洋行・・・・・西村勝三は来る26日横浜解纜の便船に搭じ製皮製靴の実況視察を兼ね職工雇い入れのため欧州へ赴くよし。」

『横浜毎日新聞』(明治19年3月20日付け)








★中国人は優秀な民族

 今から数年前にサンフランシスコに一大靴製造所があったという。その工場の名はアレキサンダーカンパニーと称した。この会社は従来私傭していた白人の職工を解雇し、支那の労働者をもってこれに代わらせることで、賃金の低廉であったことだけでも莫大の利益を得たのであるが、数か年の営業を経験した後、この歳月の間に支那人は靴の製造方法から工場経済の通則をも呑み込み、遂に多数の支那人はアレキサンダー会社を去り、各々独立的に製靴業に着手し始めた。そのためアレキサンダー会社はその職人を失い巨大の損害を蒙ったのみならず、同時に昨日の被傭職人はことごとく今日の商売がたきとなり、かくしてさすがのアレキサンダーカンパニーも空しく倒産の悲運に際会したという。

『神戸又新日報』(明治31年6月2日付け)