日本で初めて労働組合をつくった男





国想う義人・城常太郎



  城常太郎は、こと愛国心の強さでは誰にも負けていなかったようですが、
けっして排外主義者でも差別主義者でもありませんでした。
城は正義人道にかなうことを重んじる国想う義人だったのです。



★その根拠を以下に箇条書きいたします。


一、城常太郎は士族の出でありながら、当時、最も卑しむべき職業とされていた製靴業に自ら飛び込んでいます。

一、城常太郎はサンフランシスコ時代、キリスト教青年会会員たちが「靴工のごとき下等労働者がいるために、全体の日本人が白人から軽蔑されるのである」と排斥した際、
ただちに、青年会事務所に赴き、抗議の直談判をし、差別言動を戒めています。

一、城常太郎は浅草亀岡町(被差別部落)の靴工や神戸港湾地区の沖仲仕の救済と保護に日本で一番早く取り組んだ近代民衆運動の先駆者でもあります。

一、城常太郎は恵まれないフランス人少女のボロボロになった靴を一セントも取らずに無料で修繕しています。

一、城常太郎はサンフランシスコ時代、チャリティーやボランティア活動を率先して行っています。

一、内地雑居問題は「第二の開国」ともいわれたほどの国家の危機を問う問題でありました。 特に、「中国人労働者雑居問題」は新聞を通じて世間を賑わし、雑居派と非雑居派、賛否入り乱れて世論を二分しています。しかし、この問題を紙上で論ずるだけでなく、大衆運動にまで発展させたのは、城とその協力者たちだけでした。よって、城常太郎を「排外主義者」と決めつけるのは少し早計ではないかというふうに思っております。

一、中国人労働者内地雑居の拒絶の問題は、日本国の問題に止まってはいませんでした。豪州、米国、カナダ、ハワイ等でも、国家の問題として中国人労働者の入国の弊害を目の当たりにして拒絶排斥しています。城はそれらのことを知っていたからこそ、次のように述べています。「上記四国は排斥せしに当たり、独り我国が其の入国を許さんとするは奇怪の感をなす」。また城の当時の世界情勢を把握した主張は日本政府に容認され、即刻、政府は中国人労働者の内地雑居制限を勅令として公布しています。

一、城常太郎は米国体験を通して、日本人労働者が中国人労働者の低賃金から身を守る対抗策としては、当面の間は、中国人労働者の在日をはばむことが先決だと判断したのであって、単なる排外主義から運動したものではありません。

一、城常太郎の最終の目的は、この排斥運動を機に、日本人労働者の階級意識を覚醒させ、全国規模の永久の労働運動に大転化させることにあったのです。

一、城常太郎のその後の生き方や足跡に照らしあわせても、排外主義者であるはずがありません。晩年、中国に移住した城常太郎は、天津製靴会社を創設し、地元の中国人労働者を好条件で雇い入れ、労使協調の理想工場の実験に挑戦しています。
城常太郎の妻かねの弟・大川源次郎の話によると、城は、休日に中国人従業員を自宅に呼び寄せ、コックが作る本格志向の料理でもてなしたとのことです。



 高野房太郎研究の最高権威者である法政大学名誉教授・二村一夫氏は、上記の問いに対する見解について、「職工義友会と加州日本人靴工同盟会」の中で次のように述べています。



 、、、最後にどうしてもとりあげておく必要があるのは、高野らを「色濃い排外思想」の持ち主とみる見解についてである。大河内一男氏は「職工諸君に寄す」がその冒頭で〈内地雑居問題〉をとりあげていることを根拠に、こうした評価を下している。大河内氏は「清国労働者非雑居」問題については全くふれていない。たしかに、この問題に対する高野、城らの対応をみると、大河内氏の評価は裏書きされているかに見える。だが、こうした見解には疑問がある。それというのも、このような評価は、高野の生涯そのものとあい容れないところがあるからである。、、、高野や城は、辻野功氏が指摘したように、ナショナリストではあった。明治初年に生まれ育った青年達の常として、彼等もまた日本帝国の前途を憂い、「日本帝国の文明の為めに其国力の発達」を何よりも希望していた。だがこれは直ちに排外主義に結びつくものではなかった。彼らは、アメリカで白人の労働組合によって排斥・迫害された体験をもちながら、これに感情的に反発する態度をとらなかった。むしろ、低賃金労働力の流入による労働条件の切下げに反対するという、白人労働組合の主張に耳を傾けた。そして、労働組合を日本の労働者の間で組織することが、日木の労働者の悲惨な状態を解消し、ひいては日本帝国の国富の隆盛をもたらす道であることを主張したのである。高野や城が、中国人労働者の日本への自由な流入に反対したのは、彼等の労働組合論からすれば当然の帰結であった。彼等の主張の背後には、中国人に対する蔑視がなかったとはいえないであろう。しかし、それは彼らの中国人労働者排斥論の主たる要因ではなかったと思われる。

『黎明期日本労働運動の再検討』〔『労働運動史研究』第62号〕(労働旬報社)所収












参考史料


「時事漫評・・・・・内地雑居は早や十七カ月の後に迫れり。党人空論に日をつぶして社会的大変動眼前に在るを見ず。」

『神戸又新日報』(明治31年2月22日付け)








労働同盟大会と日本人・・・・・英国新聞の報ずる所によると、先ごろブリストルにて催ほされたる労働同盟大会において、二名の日本人(注1)は日本労働者二万三千人の代理者として出征せりとあり。」

『東京朝日新聞』(明治31年10月14日付け)



(注1)当時、日本国内で2万3千人の数を持つ労働団体は、城常太郎が組織した神戸の沖仲士の団体だけであったことから、上記、二名の日本人の一名は城常太郎かもしれない。



明治31年12月、城常太郎、沖仲士労働者の保護を目的に、「神戸労働者保護会」を設立(会員数は2万人~2万5千人)。同会員がそっくりそのまま、翌年、創設された「清国労働者非雑居期成同盟会」の会員に移行し、3万人に膨れ上がる。








「◎仲士組合連合会・・・・・当市の各仲士組合は近日連合会を開きて諸件を協議する由。」

『神戸又新日報』(明治32年2月13日付け)









 ◎内地雑居と職工・・・・・内地雑居後、最も影響あるべきは、洋服、靴、帽子、活版職工等なるべし。しかもこの輸入工業の下に従事する職工の現状は、旧来より存する大工、左官、木挽等に劣るところ多し。」

『横浜毎日新聞』(明治三十二年四月二十一日付け)








「神戸仲仕、、、遥かに長崎港の仲仕と結び、更に横浜、東京の仲仕労働者と相呼応せんとする計画あり。

『労働運動の序幕』(横山源之助)








「◎清国労働者非雑居期成同盟会・・・・・、、、全国に檄して大々的運動を為すつもりにて、、、去る二十五年日の丸事件とて同地内外労働者使役上一騒動ありたるを以て
支那労働者入国の暁内外の衝突のため如何なる悲劇を演ずるやを今より切に憂慮すと云う事は其の特に要点とする所なりと、、、、、、」

『時事新報』(明治32年7月17日付け)










「◎清国労働者非雑居期成会・・・・・神戸海陸仲士業者等はこの程来しばしば集会して、目下の一問題たる支那労働者の雑居を不可とし、其の意見を内務外務両大臣に陳情し、なお清国労働者非雑居期成会を組織し、同市の燐寸、紡績その他の工場は勿論、全国に檄して運動をなすはずにて、近々同地に演説会を開き輿論を喚起する計画中なるが、同会は徹頭徹尾労働者の入国を不可とし、内地の労働者が其の業を奪わるる結果双方の間に以外の衝突あらんというありふれたる議論なり。目下加盟し居るは、沖仲士、中央仲士、荷物仲士、陸仲士、鳶仲士その他の有志者なり。」

『東京朝日新聞』(明治32年7月18日付け)











「◎清国労働者非雑居期成同盟会・・・・・神戸市海陸仲仕業者は此の程来集会を重ね、目下世上の一問題なる清国労働者の雑居を不可とし、その意見を内外務両大臣へ陳情し、なおその目的達せんため題号の団体を設け、神戸市内のマッチ、紡績、その他の工場はもとより全国に檄して運動をなすはずにて、不日市内に大演説会を開き異論を喚起する計画あり。その主旨とする処はすでに世の論ずる所のごとくなるが、同地において去る二十五年日の丸事件とて内外労働者使役の上に一大活劇ありたるをもって清国労働者入国の暁、内外の衝突のため如何なる悲劇を演ずるやを憂慮するにあり。目下加盟者三万人以上にして、その規約は左のごとし。、、、」

『国民新聞』(明治32年7月18日付け)









ふみよせ・・・・・清国労働者排斥運動やかましくあります。日本生計の度低い。賃金清国より安い。清国人来るありません。日本人運動するあります。費用たくさんいる。それだけ損ゆきます。(中国人の投書)」

『神戸又新日報』(明治32年7月24日付け)










「今、忽然として、神戸市に会員三万人糾合せる労働団体起こりたり。名義は清国人非雑居を目的として組織せられたるようなれど、これ一時の目的にして、実は、永久に労働運動に従事する由にて、一昨三十一日の夜、盛大なる演説会を開けりといふ。」

『横浜毎日新聞』(明治32年8月2日付け)








労働者保護演説・・・・・今明両夜、兵庫弁天社内亀甲亭において、かの清人非雑居に関する演説あり。弁士は東京雄弁会員土肥新氏其の他数名なりと。」

『神戸又新日報』(明治32年8月11日付け)








「◎清人非雑居の運動・・・・・神戸に催されたる非雑居演説会に臨席せられたる期成会幹事高野房太郎氏の語る所によれば、彼非雑居運動は単に神戸一市に止むるにはあらずして、遠からざる内に一大飛躍を試み全国の労働者を聯合し、又第十四議会に請願書を呈出する等の手順を採るの決心を以って、在神戸有志は運動しつつありと。」

『労働世界』(第四十二号 明治32年8月15日)









「◎神戸労働者の運動・・・・・神戸の労働者三万余人清国労働者非雑居運動をなさんとする由は報ぜしが、今度いよいよ清国労働者非雑居期成同盟会なるものを組織し、本部は神戸市栄町五丁目四十三番邸に置き、五府三港其の他樞要の地には追々支部を設くる由。」

『横浜毎日新聞』(明治32年8月23日付け 欄外記事)


※明治24年、城常太郎が、遥かに米国から日本に送った「労働運動檄文」内にも、次のような一節がある。

「、、、全国樞要の地に地方本部を設け、、、」








神戸の清国労働者非雑居期成同盟会は、このほど、東京の労働組合期成会へ、支部設立の事を交渉し来れり。

『横浜毎日新聞』(明治32年8月24日付け)









時事漫評・・・・・横浜にはペンキ組合、神戸には清国労働者非雑居同盟。これらは先づ労働問題の先駆でもあるか。」

『神戸又新日報』(明治32年10月5日付け









労働組合期成会は、議会の開会を待ち、工場法の制定を請願する由なるが、これには神戸の清国労働者非雑居期成同盟会も賛成すべければ、少なくとも四万人以上の調印を取れるならんといふ。」

『横浜毎日新聞』(明治32年10月6日付け)










労働界彙報・・・・・神戸の清国労働者非雑居期成同盟会は労働組合期成会より工場法案制定請願に関し一致の運動をなさんとの相談に対して、余力無しと答へ来たれり。」

横浜毎日新聞』(明治32年12月4日付け)