日本で初めて労働組合をつくった男【労働運動の原点】






「靴工兵制度反対運動」の誤った歴史認識を正す


歴史の真実は



靴工兵制度反対運動は、日本史上初めて、この国の労働者が
近代的な手法を用いて、国家権力への組織的な
抵抗を試みたエポック・メーキングな
労働運動だった。






「靴工兵制度反対運動」に関しては、これまで、歴史学者の調査不足や誤認により事実とかけ離れた論考が定説化され、著しく過小評価され続けてきた。それらの論文の一部を検証してみたい。



「靴工の組合/日本靴工の激動・・・・・、、、この日本靴工協会は小規模な製靴業者の同業組合のようである。、、、」

『日本労働運動史料一』





「焦立った靴工は一段と猛烈な運動をしようとしたが、その靴工の使用者である御用商人連はこれを阻止した。これまで暗に靴工の運動の尻押しをして居た彼等は、陸軍の決意固しと見るや、靴工の運動を抑え始めた。彼等は製靴権は奪われたが、まだ革や諸金具の材料を供給する権利は奪われていない。これを他の商人に譲渡されてはたまらぬと考えて靴工を圧迫したのである。封建勢力とこれにまつわるブルジョア勢力の二重の力に圧抑されて靴工は惨敗し、政社法違反として十三名の犠牲者を生んで旗を捲いた。」

『日本社会運動史・資料第一巻』(田中惣五郎)





「軍靴充実と、ストライキ防止策との為に、軍部自身の手で、製靴を行はうとして企てたのが、軍人自身を靴工に養成する為の授産所工長学舎建設であった。兵工養成費十七万円が第四議会の予算面に計上された。之を知って驚いたのは、請負資本家と製靴従業員である。死活問題であるから直ちに動きだした。この動きを利用したのが、自由党左翼の東洋自由党であった。早速製靴従業員を組織して東京製靴協会を結成した。そして大挙示威運動を試みようと云うことになった。生活問題に即していたので、此企てはうまく成功した。約一年間の寿命しかなかった東洋自由党としては、これなどが一番目立った仕事であったろう。」

『歴史科学』(「社会運動空白時代」第二巻・第四号・田中惣五郎)





「なお二十五年日比谷原頭に莚旗を立てて議会に請願した造靴工の運動がある。すなわち東京の造靴工二七九名は相謀って二十一年造靴組合を組織した(郵便報知、二一・一・一四)。その規約には「組合員の徒弟及傭人等其期限内故なく脱するか又は不都合の所為ありて放逐解雇したる時は旧師又は傭主の許諾をえずしては傭入なさざること」(東京経済雑誌、明治二一・一・二八)等があることによっても、それが親方組合であったことが知られる。東洋自由党の一翼としての日本労働協会はこれを自己の組織に加入させ、陸軍が靴工を養成して軍用靴の自給を計ろうとするや、靴工をして莚の旗を立てて議会に請願せしめた(片山、前掲書、一三頁)。しかしこれは靴工の得意先たる御用商人の抑止によって失敗に終った。「国民之友」は「三百の靴工衆議院に迫りて曰く、職を興へよ、又曰く、其業を失ふ以上は、勢ひ社会党たらざるべからずと、是れ軽々に見るべきものにあらず、労役問題は胎内に在らずして巳に生まれたり生まれたるにあらずして巳に成長せり。」(明二六・一・三)と論じているが、職人組合と労働組合の質的差異を把握しえなかった「国民之友」は、ここでも親方組合の運動と職人組合の運動との質的差異を見失っているといわねばならない。」

『日本賃労働史論』(隅谷三喜男)





「、、、東京製靴協会の靴工が、日比谷原頭から蓆旗を押したてて議会に迫ったデモは、職人が親方に操られ、最後に裏切られるという悲劇に終った。、、、東京製靴工の場合は御用商人がその背後にあって糸を引いているので大した意味はない。、、、」

『日本史研究』(「明治二十年代の労働運動」山本四郎)










※靴工兵制度反対運動の新事実は・・・


○靴工兵制度反対運動は、アメリカで労働運動を学んできた城常太郎の主唱によって決行された日本初の近代的な労働運動だった。



○靴工兵制度反対運動は、日本における近代的な労働団体の嚆矢である「職工義友会」の指導のもとですすめられた労働運動だった。



○「靴工兵制度反対運動は、雇用者側の了解と支援とを背景に始まった」とするこれまでの通説は誤っていた。

「、、、彼れ紳商等は毫も反対の運動をなさざるのみならず、不肖の運動を妨害し、、、」
『遥かに公明なる衆議院議員諸君に白す』(起草者 城常太郎)

城常太郎が政府案排斥の運動(靴工兵制度反対運動)をスタートさせた明治二十五年九月には、すでに、御用靴商と陸軍省の間には、政府案が通過した上は製靴の原料を上納する密約がなされていた。



○「日本靴工協会は業者組合であった」とするこれまでの通説は誤っていた。

「日本靴工協会」は「職工義友会」の長子として生まれた日本初の近代的な労働組合だった。

※「日本靴工協会」は、明治21年に結成された業者団体「東京靴工組合」のことであろうと、勘違いしておられる研究家も見受けられる。



〇「日本靴工協会」は、
この種の団体としては日本で初めて委員長制を導入し、地方の靴工をも糾合した、全国組織の職工同盟だった。



〇「日本靴工協会」は、企業の枠を越えて組織された職工同盟だった。



〇「日本靴工協会」は、「士族」、「平民」、「新平民(被差別部落民)」の垣根を越えて組織された職工同盟だった。



○「日本靴工協会」は「東洋自由党」や「日本労働協会」よりも先に結成されていた。



○「日本靴工協会は日本労働協会に加入していた」とするこれまでの通説は誤っていた。

「日本靴工協会」は「日本労働協会」に加入していなかった

「◎日本労働協会・・・・・すでに、府下靴工有志者の組織に係る東京靴工協会員三百余名には、不日同会に加盟して大いに運動する所あらんとすと云へり。」
『新東洋』(明治二十六年一月九日 第十四号)



○「靴工たちのデモ隊は、議会の正門前で、警護中の憲兵や巡査等と大乱闘を引き起こした」とする、これまでの職工一揆を連想させる通説は誤っていた。

英字新聞THE JAPAN WEEKLY MAIL』(明治25年12月24日付け)にも記されているように、実際は、極めて平和的で穏やかな抗議デモだった。

城は明治三十年六月に起こった横浜船大工のストライキを指導した際も、船大工たちに、集会の場での飲酒や激論の禁止を呼びかけると同時に、暴力的な行動を慎むようアドバイスしている。