日本で初めて労働組合をつくった男




「労働組合期成会」結成に最も貢献した人物は誰?


おそらく、城常太郎


その根拠を列挙


(1)城常太郎、高野房太郎、沢田半之助の三人の内で、唯一、城常太郎だけが、「労働組合期成会」の結成につながった四つの母体団体、「日本職工同盟会(サンフランシスコ)」「労働義友会サンフランシスコ本部」「労働義友会東京支部」「職工義友会(東京)」の全ての設立発起に関っていた。



(2)城常太郎は、アメリカから本帰国後、「職工義友会」の再建に向けて、誰よりも早く行動を起こしている。
 既に、明治二十五年の春の段階で、城常太郎はアメリカから近代労働運動をいち早く直輸入していることからも、「最初に不毛の国土に労働運動の鍬を打ちいれた」人物が城であったことは、疑う余地がないと言える。



(3)城常太郎は明治30年6月25日に開催された「職工義友会」主催による第一回労働問題演説会で義友会を代表して
「開会の辞」を述べている。



(4)「労働組合期成会」の発会式が催された明治30年7月5日の時点で、期成会の事務所は城常太郎の自宅に置かれていた。



(5)城常太郎は「労働組合期成会」発会式において、仮幹事に推薦されている。片山潜は『日本の労働運動』の中で、「職工義友会」の発起人と「労働組合期成会」の仮幹事の面々を列挙する際、城を双方ともに筆頭に挙げている。



(6)城常太郎は明治30年7月18日に開催された「労働組合期成会」主催による第一回労働問題演説会でも期成会を代表して「開会の辞」を述べている。



(7)城常太郎は前記演説会が終った直後に、数名の暴徒に襲撃されている。


 ※どこの誰が城を襲ったのか実証するのは無理だが、勢いを増した「労働組合期成会」を黙って見過ごすわけにはいかなかった
勢力が、ひそかに暴徒を雇って、運動の中心人物と思われる城を襲撃させたことは十分に考えられる。



(8)「労働組合期成会」の趣意書の内容が、後に城常太郎の創設した「労働組合研究会」の趣意書の内容に酷似している。そのことから「労働組合期成会」の趣意書の起草者も城である可能性が高い。



(9)城常太郎は演説会の聴衆集めや労働者へのオルグ活動に
おいてトップの成績を残している。



(10)指導者の中で、唯一城常太郎だけが数多の労働団体を
立ち上げた経験を有するスペシャリストだった。
 それ故、幹部たちに一目置かれ、多くの実績と経験をベースとして、具体的、且つ実務的なアドバイスができる立場にあった。




(11)「労働組合期成会」誕生のルーツを辿ると、この会の仮幹事となった城常太郎、高野房太郎、沢田半之助の三人がサンフランシスコで出会ったところまで遡ることになる。
 高野も沢田も、当時バリバリの労働運動家だった城と出会い、城の情熱に感化されて労働運動に開眼している。又、高野と沢田の出会いは城が取り持つ縁で実現した。
 つまり、城常太郎は「労働組合期成会」誕生の中核幹部となった三人の有志の中でも、「扇の要」として中心的な役割を果していたのである。


 「日本職工同盟会」「労働義友会」「労働義友会東京支部」「職工義友会」「労働組合期成会」の事務所はすべて城の自宅に置かれ、年齢においても、城は、高野、澤田より五歳年上であり、リーダーシップや行動力、労働運動の実績においても、城は二人をはるかに凌駕していた。
 
 アナーキスト・岩佐作太郎が、「城常太郎こそが我が国労働運動の開祖である。」と明言した所以はそこにある。



(12)日本労働運動史にキラ星のように燦然と輝く『職工諸君に寄す』の奥付には、団体名として「職工義友会」、代表者氏名として「城常太郎」の名前が記載されている。



(13)城常太郎は、東京に「労働組合期成会」を結成した後、一切の役職につかず、ただ一人関西に赴き、そこでも、
「関西労働組合期成会」創設の主導的役割を果たしている。









「1を10、10を100にした人物たちより、0から1を生み出した人物こそが、より評価されるべきである・・・」とは、
よく聞かれる言葉だ。
0から1を生み出すためには1のエネルギーさえあれば
成就できるものではない。
1の無限倍の活火山のようなエネルギーと、
血のにじむような努力と、
ほんの少しの天の後押しがあって、
初めて成し遂げられる
のである。

東京においても、関西においても、
0から1への労働運動の種まきをしたのは城常太郎だ。
その常太郎が、1を10にした高野房太郎や、10を100にした片山潜の刺身のツマほどにしか扱われていないのは残念だ。















「、、、靴職人は労働運動でも先鋭的で城常太郎など日本の労働運動の祖と評される人物を生み出している、、、」

『靴づくりの文化史ー日本の靴と職人ー』
(現代書館/著者 稲川實・山本芳美 2011年6月10日発行)













「、、、労働組合期成会、、、八月の一日を期して第一回の月次会を開き、そして組織を固めて幹事五人、常置委員十人をおき、その五人の幹事の中には片山潜、沢田半之助、高野房太郎が顔をならべている。そして五人の幹事互選の結果、高野が幹事長に就任し、運動委員八名、演説会委員十名、図書委員五名をおいた。、、、しかし最初から同志として先頭を切り、演説会には再度とも開会の辞を述べている城常太郎の名が、こうしていざ組織ができ上る段になると、どこにも見えないのは一見不思議、、、」

『社会思潮』
(第六号「伝記小説片山潜/第六回」木村毅)















★職工義友会(しょっこうぎゆうかい)

職工義友会(しょっこうぎゆうかい)・・・・・1897年(明治30)4月6日、、、城、沢田がこの組織を復活し、高野に参加を求めて、日本最初の労働組合結成を呼びかける檄文(げきぶん)「職工諸君に寄す」を作成、各工場の労働者に配布した。」


『日本大百科全書 』(小学館 執筆者:松尾 洋)

 









★労組合期成会(ろうどうくみあいきせいかい)

1897年に設立された日本最初の労働組合結成促進のための準備会。日清戦争後の生活の困窮から自然発生的なストライキが頻発した状態を背景として、当時アメリカから帰国した城常太郎、高野房太郎、片山潜などが中心となって97年4月に職工義友会をつくり、さらにそれを母体として7月に労働組合期成会を改組設立した。

『ブリタニカ国際大百科事典』