日本で初めて労働組合をつくった男



この日、沢田君来る


高野房太郎は、ゴンパースへ宛てて書いた
明治30年7月3日付けの手紙の中で、
「横浜船大工組合」の組合員たちを指導したことについて述べている。

「私は、横浜船大工組合の指導者たちの相談に乗っています。、、、
私はこの組合を強固な基礎の上に築くよう努力し、
指導者たちに東京、神戸、大阪の船大工たちと
連合するよう強く勧めています。」

『高野房太郎よりゴンパース宛て書簡』
(明治三十年七月三日)



上記手紙には、城常太郎のことには一言も触れていない。
この手紙を読んだゴンパースは、
おそらく、「横浜船大工組合」の組合員を指導した「主役」は
高野房太郎であると受けとったにちがいない。


筆者はかねがね、「職工義友会」のメンバーの中で、労働運動の
現場に真っ先に駆けつける人物は、
城常太郎をおいて外にはいないと確信していたので、
この手紙の内容には、多少、物足りなさを感じた。

そこで、徹底して高野房太郎関連資料を調査したところ、
「横浜船大工組合」の組合員の運動に、
城常太郎が極めて重要な役割を果たしていたことが
判明した。


「6月10日・・・・・この日、城君来る。明日、出浜〔横浜〕のことを依頼さる。」
『高野房太郎日記』(明治30年6月10日)


もし、この『高野房太郎日記』が現存していなかったら・・・

「横浜船大工組合」の組合員を指導した主役も、また、
高野房太郎であるとの説がまかり通り、
真の主役・城常太郎のことは顧みられないまま、
高野のみが過大な評価を得るという結果に
なっていたであろう。

話は飛ぶが、それにしても、残念でならないのが、
高野房太郎が、明治29年の日々を日記に
付けていなかったことである。
仮に、彼が明治29年の日々を日記を綴っていたならば、
必ずや、11月11日の日記には、
次のような文章が綴られていたに違いない。


「11月11日・・・・・この日、沢田君来る。職工義友会への復帰のことを依頼さる。」








 歴史とは、文字によって記される「文字による科学である」というのは誰もが同意するであろう。
そこで当然、歴史研究は文字によって綴られた文献に頼らざるをえない。
特に歴史の当事者による文献の場合は、貴重な資料として、第一級の資格を与えられる。
つまり本人がリアルタイムに記したものであるから、頭ごなしに信用しがちなのである。
しかし当事者が綴った場合、どうしても本人の立場があるので、自分に有利に書いている場合が皆無とはいえない。
特に当事者と同じ目的でその時期をライバルとして運動していた同志がいた場合、文章を残した者の側からのみ検討するのではなく、当時の状況も慎重に比較検討しながら総合的に判断をくださなければ、真実から遠のく恐れがある。
でなければ、
「歴史とは勝者が文字で綴る都合のいい物語」
になりかねない。








明治二十九年十一月~十二月当時の高野、城、二人をとりまく状況を比較検討してみよう。

高野房太郎の状況・・・・・渡米前に住んでいた第二の故郷・横浜に落ち着き、新聞記者をしながら、余暇の時間を利用して『和英辞典』の編纂や『実用英和商業会増話』の執筆に勤しんでいた。明治二十九年十一月に労働運動に取り組む決意〔おそらく、沢田半之助に説得されての決意〕はしたものの、その後も実行に移すのを先延ばしにした。



城常太郎の状況・・・・・渡米前に住んでいた長崎や神戸には落ち着かずに上京し、明治二十九年十一月には、すでに労働運動に身を投じていた。アメリカの労働社会に範を取った「靴職工同盟会」がまさに起こらんとしていた。同時期、「桜組」のストライキが起こっている。明治二十九年十二月十四日、「桜組」の関係者たちに袋叩きにされ、重傷を負わされている。





片山潜は『日本の労働運動』を著した後も、生涯にわたって複数の著書の中で、「城と沢田が職工義友会を再建し、一歩遅れて高野が参加した」と、終始一貫して明言し続けていた。ブレはない。片山は、心底からそう確信していたのである。





片山の人生最終稿となった自伝『わが回想・上』(徳間書店)の中においても、

「始め沢田、城の二人が明治三十年に職工義友会を起こし、、、愈々実地運動を為すため、横浜で英字新聞(アドヴァータイザー)の記者をしていた高野を呼び寄せ、同年六月二十五日に神田の青年会館で労働問題演説会を開いた。その演説会には予も頼まれて演説した。」

と明言している。










 「歴史は一割の真実と九割の推理によってなりたつ」という至言があるが、過去の文献に頼ることが大半である歴史の真実を突き止めることは難しい。サンフランシスコ時代の「労働義友会」や、日本で再建された「職工義友会」についても、同じことがいえる。



  
「◎日本の労働組合運動の「事始め」・・・・・、、、「労働組合期成会」を揚げるのが、まず、妥当なことになろう。、、、これに先立って、三カ月程前に、靴工、城常太郎と洋服職人の沢田半之助が「職工義友会」という団体をつくり、高野房太郎の執筆になるという、「職工諸君に寄す」という檄文を印刷して、各工場に配布した。、、、この東京に生まれた「職工義友会」のルーツが、一八九一年に、アメリカ、サンフランシスコで結成されたといわれる、「職工義友会」なのである。しかし、サンフランシスコで産ぶ声をあげた「職工義友会」は、結成の年そのものが、一八九一年であるといわれると言い表さざるを得ないほど、その存在が明確にされているわけではない。、、、メンバーについても、城常太郎、沢田半之助、高野房太郎あたりは間違いないにしても、全員が確定されているわけではない。、、、」

『彷書月刊』(第七巻第一号・一九九一年一月号「職工義友会を結成」山泉進)