日本で初めて労働組合をつくった男【労働運動の原点】





「この国の労働運動の祖は誰?」の鍵を握る人物


「、、、「職工義友会」この義友会は四人の残党からなり、彼らはサンフランシスコ在住の十二人ほどの日本人によって数年前同地でつくられた会の成員です。
残党とは、一人の裁縫師と二人の靴職人と私自身であり、
全員が労働組合主義の忠実な唱道者であると
私は確信しています。、、、」

『高野房太郎よりゴンパース宛て書簡』(明治30年4月15日)


●一人の裁縫師とは沢田半之助。
●二人の靴職人とは城常太郎と木下源蔵。



※高野房太郎は、ゴンパースへ上記書簡を送った11日後の4月26日に木下源蔵と会っている。
又、高野が木下と会った4月26日よりわずか20日前の4月6日には、
二人は共に「東京工業協会」と「東京貸資協会」主催の集会の場で
城や沢田らと労働運動の宣伝行動を行なっている。
にも拘らず、高野は、公には、木下源蔵の名前を
文字として歴史に刻むことをしなかった。


実は、「職工義友会再結成のイニシアチブは城常太郎にあったのか、
それとも高野房太郎にあったのか?」の謎解きの
鍵を握っていた人物こそが、
木下源蔵だったのだ。


  木下が城と同じ「靴職人」であったこと、さらには、彼が、政治の中枢部に拠点を置いた城に呼応するかのように職工数東京随一の「東京砲兵工廠」に隣接する場所にアジトを置いたこと、
さらにもう一つあげれば、「職工義友会」の再建当初の活動が
高野の意に反して極めて政治的なものであったこと、
などなどから判断すると、「職工義友会」の再建の計画から実行に至るまで一貫して主導的にリードしたのは城常太郎であり、
高野房太郎はあくまでも一歩遅れて参加した加入者でしかなかった、
としか思えないのである。