驚くべき記事を発掘したので以下に紹介する。


「◎労働同盟大会と日本人・・・・・英国新聞の報ずる所によると、先ごろブリストルにて催ほされたる労働同盟大会において、二名の日本人は日本労働者二万三千人の代理者として出征せりとあり。」『東京朝日新聞』(明治31年10月14日付け)


この二人の日本人の一人は、城常太郎ではないかと推測する。その理由を列挙する。

                               

当時、二万三千人の組合員を有する労働者団体は東京にはなかった。

神戸に於いては、すでに、神戸港湾労働者、仲仕業と称する労働者、すなわち、沖仲仕、荷揚仲仕、浜仲仕、車仲仕(岡仲仕)、鳶仲仕、石仲仕、石炭仲仕業に従事するものが、総勢、二万人から三万人いて、すでに組合を創設していた。『神戸又新日報』(明治32年4月22日付け)

明治31年当時、仲人足の賃金が大幅に値下げされていて、これらの細民は保護を必要としていた。

「◎仲人足賃金下落(神戸発)・・・・・近来、物価下落せしを以て、幾分か値下げすること至当なる旨日本海運同盟会より人足組合に申込たれば、遂に、荷物の種類により一割乃四割平均二割二分四厘の値下げをなしたり。」

『中外商業新報』(明治31年11月30日付け)

当時、国際的労働者大会での中心的議題は労働者保護にあった。

「◎列国労働者保護会議・・・・、、、」『東京日日新聞』(明治30年9月22日付け)

明治31年後半、日本において労働問題に関心を持っていた労働運動家や有識者、政治家、資本家を、筆者が、手当たり次第に調査した結果、全員、日本にいたことが判明した。当時、活動家の大半は「工場法」の法案を政府に陳情する運動に取り組んでいた。

城常太郎は、明治31年の春、病を押して、関西労働者の保護を訴えに上京している。

神戸の居留地で最も多い外国人貿易関係者がイギリス人であった。常太郎は彼等を靴販売の上得意にしていた。また、常太郎は後に、彼等の影響で貿易業を営んでいることなどから、イギリスの事情通であった。

イギリスで労働同盟大会が開催された明治31年10月より2ヶ月後の明治31年12月に、常太郎は神戸港湾地区の沖仲仕の組合員約2万数千人を糾合して「神戸労働者保護会」を組織している。よって、11月にイギリスから帰国した常太郎が、イギリス労働同盟大会で学んだ知識を基に、早々、12月に港湾労働者の保護団体「神戸労働者保護会」を設立したと推理できる。

城常太郎は英語に堪能であった。



「日本人として初めて労働者の世界大会に列席した」このニュースは、もし列席した日本人が「労働組合期成会」に関わっていた東京在住の人物であれば、『労働世界』紙上で、スクープとして、その快挙を大々的に報道して当然のはずなのに、同紙にはその報道はまったくない。となると、当時、関西地方におけるただ一人の労働運動家であった城常太郎の名が浮上してくる。



⑪明治23年に『国民之友』内に掲載された、日本最初の「労働組合主義」を説いた論文「労働者の声」(執筆者は城常太郎の可能性あり)の中で、執筆者はイギリス労働運動の産みの親・ジョン・バーンズ(労働者出身)のことを畏敬の念をもって取り上げている。常太郎は、同じ労働者出身の労働運動家として、彼の指針を仰ぎたかったのではと、推測される。

 

イギリスの「労働同盟大会」に出席したもう一人の人物とは、法学博士・桑田熊蔵ではないかと推論する。

その根拠となる記事を見つけたので下に記す。

「◎労働組合期成会月次会・・・・・一昨日午後四時より神田青年会館に会合した高野、片山氏等外各支部の委員十数名談笑の間、期成会の機運既に熟したるを以て更に完全なる事務所を新築するの要ありとなし、三カ年を期して画策し五万円の建築費を募集するの議を次回総会に提出すること、尚ほ将来会の規模を拡張すること、大宮及び横須賀に大演説会を開くこと等を決し、午後六時より大陸及び英国を遊歴して労働問題を研究し近頃帰朝したる桑田農学士の演説及び他数番の演説ありて散会せり。」

『都新聞』(明治32年2月1日付け)

              

城常太郎は、労働者による自主独立した労働組合設立の夢を目指していた。このことは、当時の「労働問題」研究の最高権威者の一人であった法学博士・桑田熊蔵の基本思想に逐一合致している。桑田博士は、城が従事していた靴業と同種の皮革業界紙『皮革世界』の中で、次のような論考を書き残している。

「◎我が国職工組合不振の原因(法学博士 桑田熊蔵)・・・・・我が国従来の職工組合の衰亡を来たした重なる原因は労働者以外の人、学者や政治家が統御した事に帰する。、、、」

『皮革世界』(第三年第十四号)

 

 

城常太郎と関わりのあった有識者、徳富蘇峰、西川光次郎の両者は、『日本靴新報』(1931-1940/東京工業大学図書館所蔵)に論考を寄稿している。よって、『皮革世界』に論考を寄稿した桑田熊蔵もまた、城と何らかのつながりがあったのではと推測される。