日本で初めて労働組合をつくった男



「労働者の声」『国民之友』(徳富蘇峰主幹)の作者は誰?




★参考ホームページ紹介


「労働者の声」(『国民之友』95号、1890年9月23日)の筆者について 長春だより:So-netブログ





 雑誌『国民之友』(第95 明治23923)に掲載された無署名論文「労働者の声」は、
わが国で初めて労働組合主義を論じた論文であるといわれている。

 当時、日本人で労働組合主義を学び理解していた人物は、筆者の知る限り、高野房太郎ただ一人であった。
よって、「労働者の声」の作者は高野であると、ほぼ断定してもいいのではないかと思われる。

ただ、高野の盟友、城常太郎の存在も無視する事はできないように思う。

高野が、当時、日本の新聞に労働問題を題材とした論文を投稿するなど、
すでに労働問題論者として頭角を現していたことは周知のとおりであるが、
城もまた、当時、桑港において「日本職工同盟会」を創設し、
在留日本人の間に労働問題論者として広く知れ渡っていたのである。

城と高野は、明治23年ころ、別々に遠く離れた場所で暮らしていたが、
文通を通して互いに啓発し合いながら労働組合主義の理解を
深め合っていたであろうことは十分考えられる。


 以上から、「労働者の声」の作者は誰?の問いの答えは
「城常太郎or高野房太郎」の二人のうちのどちらかにしぼられるのであるが、
筆者は、その作者は城常太郎ではないかと推察している。


以下にその根拠を挙げてみよう。

(1)常太郎には、高野以上に、自分の研究の成果を発表する雑誌として
「国民之友」でなければならないこだわりがあったと思う。
なぜなら、彼は、「国民之友」と出会ったがゆえに社会運動に目覚め、
「国民之友」の雑報欄の記事を見たがゆえに、米国に渡った経緯がある。
すでに紹介した「経世新報」に掲載された常太郎の檄文も、おそらく、
彼が「国民之友」に掲載してもらおうと主宰者であった
徳富蘇峰に送られたものであろう。
(注:『ミスター労働運動』(まぼろしの檄文と『国民之友』)参照)


城常太郎(1863年~1905年)
徳富蘇峰(1863年~1957年)
二人とも文久三年、熊本県にて産声をあげている。
城常太郎(鍛冶屋の長男)
徳富蘇峰(豪農の長男)

(2)常太郎が執筆した唯一の論文【戦後の日本矯風論】が、論理の進め方、
構成の立て方、文体、用語の使い方においても「労働者の声】と極めて酷似している。
又、両論文とも執筆した目的や意図もほぼ同じである。

それでは、両論文を文章の流れに沿って比較検討してみよう。


●序文、時節の世の有り様

●問題提起

●問題の解決方法を提出

●訴え

●問いかけ

●問いかけに対する答

●問題の解決に向けて、これまで世の中では、どのような取り組みがなされてきたのか。

●著者が提出した解決策は、これまで世の中で試みられたものとは必ずしも一致しないことを提示。

●著者が提出した解決策を、分かりやすく詳細に説明。

●最終嘆願

●序文、時節の世の有り様

【労働者の声】

『我邦の如きも、今日こそ公民権は二円以上の直接国税を出す者と制限せられ、、、』

 

【戦後の日本矯風論】

『我日本帝国は、今や空前絶後の一大奇機に会せり、、、』

●問題提起

【労働者の声】

『如何にして、健康に適する家屋に住居せしむべき乎。如何にして彼等の健全なる快楽を充たすべき乎。』






【戦後の日本矯風論】

『如何にして、東洋の体面を保持すべき乎。又欧米に対して、如何なる方針を示すべき乎。』

●問題の解決方法を提出

【労働者の声】

『吾人は、今、茲に、二個の方法を提出し、』






【戦後の日本矯風論】

『余輩は、茲に、新に矯風の策を』提出

●訴え

【労働者の声】

『世の慈善心ある義人に訴へ』







【戦後の日本矯風論】

『普く大方の志士に訴へ』

●問いかけ。

【労働者の声】

『同業組合とは何ぞや?』



【戦後の日本矯風論】

『矯風策とは何ぞや?』

●問いかけに対する答え。

【労働者の声】

『同業者相団結して、緩急相互に救ふの業をなす事是なり。』






【戦後の日本矯風論】

『遊廓内に一種の制裁を施かん事是なり。』

●問題の解決に向けて、これまで世の中では、どのような取り組みがなされてきたのか。


【労働者の声】では、海外に目を向けて、

『英国十余万の職工等がジョーンボルンスの指揮の下に、同盟罷工を企てたるが如き是なり。
又は米国の如きも、ナイトオブレバーなる者あり。其初や一種の秘密結社にして、、
五年前に於ては、既に二百万人の会員を有するに至れり、、、』



【戦後の日本矯風論】では日本内地に目を向けて、

『今より三、四年以前に当たり、我国に於て廃娼の議を主張するもの四方に起こり、
或は府県会の議案となり、或はキリスト教徒の説話となり、、、』


●著者が提出した解決策は、これまで世の中で試みられたものとは必ずしも一致しないことを提示。

【労働者の声】

『吾人は、我邦に於て、初めより斯の如き大結合を望む者に非ず。』






【戦後の日本矯風論】



『余輩は、廃娼論者の如く、一瀉千里的の廃娼を企望するものにあらず。』

●著者が提出した解決策を、分かりやすく詳細に説明。

両論文の解決策の一例を、それぞれ一つづつピックアップしてみると、

【労働者の声】

『一種の法あり、、共同貸長屋を建築し、、之を彼等の所有に帰せしむる事是なり。』



【戦後の日本矯風論】

『一種の制裁とは何ぞや。曰く、先づ妓楼内に於て酒食を禁ずる事是なり、』

●最終嘆願。

【労働者の声】

願わくば、、、彼等をして各其道を得せしむるの道を講ぜんことを。』




【戦後の日本矯風論】

願わくば、世の潔士よ義人よ、、、大勝利我日本帝国に帰するを得せしめよ、』

(3)両論文に共通して頻出する言葉。

その例を一、二挙げると、普通の文章では、数万字に一度出てくるかこないかの言葉「一種の」が、
両論文で共通して頻出している。

 「労働者の声」には、「約5600字」中に8個、
「戦後の日本矯風論」には、「約6000字」中に
5個出てくる。

さらに、「一種の」と同類の言葉「種々の」が、「労働者の声」の中には3個、
「戦後の日本矯風論」の中には2個出てくるといった具合だ。


念のために高野が執筆した200ページ(約10万字)にも及ぶ膨大な量の文章を
くまなく調べてみたが、「一種」の言葉は、1個か2個
使われているだけだった。

★短絡的かもしれないが、仮に「労働者の声」の作者が高野であったならば
、彼が執筆した200ページの文章の中に、確率的には「一種の」言葉が
143個出てきても不思議ではないのだが!



もう一例、「事是なり」の言葉を挙げてみよう。

両者とも10ページにも満たない論文なのに、
「事是なり」の言葉が「労働者の声」には4個、
「戦後の日本矯風論」にも同じく4個出てくる。

再度、高野が執筆した膨大な量の文章(200ページ)を調べてみたが、
「事是なり」の言葉は僅かに1個出てくるだけだった。


さらに、両論文に共通して出てくる言葉を挙げると、
「義人」「志士」「仁人」「訴え」「願わくば」「得せしめ」
その他多数・・・。



(4)城常太郎は、理論よりも実践重視の愛国青年。

常太郎が幾千の文字を尽くす時は、万人のためになると自ら考え判断したことを、
天下に向かって訴え嘆願する時のみ。
それゆえ、彼が世に向けて書き残した文章は全て、たとえ論文であっても
「志士、仁人、義人」に向かって「訴え」かけ、「願わくば」を入れてお願いする
嘆願書の手法をとっている。
「労働者の声」も、「訴え」と「嘆願」を論文を構成する大きな柱として重視している。

★高野房太郎が執筆した論文や其の他の文章の中には「訴え」や「願わくば」などという言葉は
一度も出てこないと思うのだが?






※筆者は、これまで、明治時代の数多の論文に目を通してきたが、
いまだに「願わくば」を入れて文章を締めくくっている論文に
出会ったことがない。



●「願わくば、我邦労役者の事情を調査するの労を取り、、、得せしむるの道を講ぜんことを
「労働者の声」(作者:おそらく城常太郎)

●「願わくば、世の潔士よ義人よ、共に無形の大勝利我が日本帝国に帰するを得せしめよ」
『戦後の日本矯風論』(作者:城常太郎)

●「願わくば、これが利害を審査詳察、万一にも議場を通過するならんことを
『遥かに公明なる衆議院議員諸君に白す』(作者:城常太郎)

●「願わくば、天下憂国愛民の士よ、本会の趣意を讃し共に尽力あらんことを
『労働組合研究会の趣意』(作者:城常太郎)

●「願わくば余輩の説を讃し、、、共に、、、講究されんことを
『檄して四方憂国の士に訴ふ』(作者:おそらく城常太郎)







(5)「労働者の声」には、
「天下に向いて之を絶叫す、、、天下の志士仁人の耳底に徹せしめん、、、」
とある。
一方城常太郎が労働問題を論じた唯一の文章
「労働組合研究会の趣意」の中にも、
「天下に向かい其の設立を促さんと欲する所以なり。願わくば天下憂国愛民の士よ、、、」とある。

高野房太郎が執筆した文章の中には「天下に向かいて」などという言葉は出てこないと思うのだが?









(6)「吾人は我が帝国議会に向て、切に之を希望す。」
「労働者の声」より。

常太郎も、何か事を起こす場合、先ずは、帝国議会に向かって「物申す」ところからスタートしている。
一方高野房太郎は、どちらかといえば、政治家への働きかけには乗り気ではなかったように思うのだが?








(7)愛国青年であった常太郎は、「戦後の日本矯風論」をアメリカで執筆したにもかかわらず、
日本のことを「我国」と書いている。
「労働者の声」の作者も、常太郎と同じく論文内を「我邦」の言葉で統一している。
一方、高野は、アメリカ時代のすべての論文中で、日本のことを「日本」と書いている。









(8)『国民之友』がいかなる規定で投稿論文を掲載していたのか知らないが、
城常太郎と高野房太郎が論文を投稿した場合、二人のうちのどちらが無署名になりやすいのか、
或はどちらが無署名を望むのか、といえば、いずれも城常太郎の方ではなかろうか。

※高野房太郎が明治二十年代に日本の新聞や雑誌に投稿した論文は、
ほぼ全て署名入りで掲載されたのでは?




次に「労働者の声」の作者が高野房太郎ではありえない理由を挙げてみよう。

(1)当時、高野の執筆した全ての論文中に多発して出てきた言葉、すなわち(結合)が
「労働者の声」の中では、唯の一度(大結合)として出てくるだけで、
後は、同じ意味の言葉(団結)で統一されている。
また、高野が当時よく使った言葉、(有識者)(無知無蒙)も
「労働者の声」の中には、ただの一度も出てこない。

★高野は帰国後、演説会の演説の中でも「結合」という言葉を用いたくらいだから、
在米中は「団結」という言葉は一度も使わなかったと思う。



(2)高野房太郎は実践家というよりも本来は
学究肌の男であった。
よって、彼の論文は全て学者のそれである。
義人に訴えかけたり、お願いしたり、自らも協力を惜しまない!
といった決意を示すような「労働者の声」の類の実践家の論文は、
おそらく一度も書いていないと思う。
高野が実践家になったのは7年後の明治30年になってからである。
それまでは、一労働問題研究家に止まっていたと思う。
一方、常太郎は【労働者の声】が『国民之友』に掲載された明治23年当時、
すでに実践家として労働運動の最前線にいた。






(3)【労働者の声】の中で、執筆者は、労働騎士団(Knghts-of-Labor)のことを
『ナイト-オフ-レバー』と記している。
ところが、ほぼ同時期に高野が執筆した論文『北米合衆国の労役社会の有様を叙す』の中では、
高野は、(Knghts-of-Labor)のことを
『ナイト-オフ-レーボアー』と
記している。

※『実用英和商業会話』
(著者・高野房太郎 明治31年 大倉書店)
の中でも、高野は「for」を(フォアー)と記載している。




(4)高野が論じた労働組合の担い手は職工であったのに対して、
「労働者の声」の作者は労働組合の担い手として左官や大工など
職人層を中心に取り上げている。








(5)「労働者の声」の文章は美文調で熱く語ってはいるが、格調高い高野房太郎の文章と比較すると、
素人目に見ても明らに劣ると思う。
高野は、もっとクールでそつが無い、学者顔負けの欧米風の質実な文章を書く。

以上。








★「労働者の声」の作者は、自らも「力有らん限りは之を社会に提出し」と、
労働者の組織化のために協力を惜しまない姿勢を見せている。
そのような人物であれば、遠からず、何らかの実践行動に打って出ているはずであるが、
その後、明治30年に至るまで、そういった人物は
城常太郎以外一人も見当たらない。
よって「労働者の声」の作者は、常太郎であると主張したい。




★おそらく、城常太郎は、明治23年の夏に「日本職工同盟会」を結成した直後に
『国民之友』へ宛てて実践家の論文「労働者の声」を投稿したのであろう。
常太郎は一年後の明治24年の夏にも「労働義友会」を結成した直後に、
労働組合の結成を促す「檄文」を日本のマスコミや労働者に向けて送っている。
(注:『ミスター労働運動』(まぼろしの檄文と『国民之友』)参照)




★「労働者の声」が世に出て2年後の明治25年、日本に一時帰国した常太郎は、
同論文の中で訴えかけた「義人」へと自らも変身し、
労働運動不毛の国土に「労働団結」という名の一粒の種を蒔くことになる。
一方、高野は高野で、常太郎に遅れること5年、数多の論文の中で労働運動の先導者として
最も適していると指摘し続けた「有識者」へと自らも
変身していくことになるのである。


 二人は、それぞれのやり方で協力し、相補い合いながら、日本の地に労働組合主義を
根付かせていったことは周知の通りである。










★「労働者の声」と非常に酷似した内容の文献を発見しましたので、
以下に記載しておきます。





『社会的経綸策』(著者兼発行者・薬師寺政次郎・明治26年7月6日発行)には

嗚呼我国労働社会の救世主たる「ジョンボルンス」たるもの果たして何くにある磋呼何くにある。」とある



一方 『労働者の声』には

磋呼今日に於いて、誰か彼等の為に此便益を與ゆる者ぞ、
所謂我邦に於けるセント、シモンたる人は安くに在る、磋呼安くに在る。」とある






『社会的経綸策』(著者兼発行者・薬師寺政次郎・明治26年7月6日発行)には

「千八百九十年に於て英国十余万の職工等が「ジョンボルンス」氏の命令の下に
一大同盟罷工を企てたるが如き、其の最著名なるものとす。
其の勢力の侮るべからざる以って推知するに足るべし。
米国における「ナイトオフレバー」(労働義士)の如き其の当初の微々たるに反し、
其の勢力年を追うて強大を致し、今や其の会員すでに幾百万の多きに上れり。
亦盛なりと云ふべし。」とある。









一方『労働者の声』には

「本年に於て英国十余万の職工が、ジョーンボルンスの指揮の下に、同盟罷工を企てたるが如き是なり、
又た米国の如きも、ナイト、オフ、レバー(労働的の武士)なる者あり、
其初や一種の秘密結社にして、其党員は皆暗語を有し、其微号を有し、
隠然たる運動を為せり、而して其勢力漸次に増加し、
五年前に於いては、既に二百万人の会員を有するに至れり、
亦盛なりと云ふべし。」とある






★おそらく、薬師寺政次郎は先に世に出ていた「労働者の声」を参考にして
『社会的経綸策』を執筆したのであろう。