著者のページ『日本で初めて労働組合をつくった男』


亘理篤治(『加州日本人靴工同盟会設立趣意書』の起草者)

「◎運根鈍ー人物如是ー▲在米邦人歴史の片影・尺魔(六)・・・・・◇根鈍の生活をつづけて運を待つ人もあり、運根鈍を超越して人生に徹底する人もある。斯かる人を名付けて神とも仏ともいふのである。越後国上山に草庵を構ひたる釈良寛の如きは運根鈍を超越したる一人である。◇北米に在留せる日本人の中で人間離れをしている人は稀である。多くは田子作の成金式でであって、稚気紛々鼻もちのならぬ代物のみである。例えば何々会の会長になりたがり参事員乃至常議員になりたがり。愚にも附かぬ肩書が大いに嬉しいがためにナケナシの金を出しても名前が欲しいとあせる。丁度、市町村制が実施せられた当時、村の水呑み百姓が村会議員になりたいと同じ心理状態である。◇自分に何一つ理想の経綸もあるのでなく、ただ会長になりたい。議員になりたいとモガクのは、犬が何の目的もなく川端を走るようなものであるが、走る犬は、犬相応に楽しみがあると思えば可愛そうでもあり、気の毒でもある。こんなアワレな連中がウジウジしている在留日本人の間に、我が亘理篤治君は三十七年間、無名の学者として在米したのである。◇亘理篤治の名は在留日本人間に知るものは稀であろう。シカシ吾輩は君の如き篤学無垢の学者を知るを以て光栄とする一人である。◇亘理氏は宮城県の産。明治十七年渡米。時に二十歳の青年であった。◇亘理氏は宮城県亘理の城主、亘理伯□守の実弟で仙台の城主伊達政宗の分家である。城は佐沼に在り、今なほ古色蒼然たる城跡が、糢糊たる森林の間に昔時の面影を存している。◇氏は幼にして文学を好み、岡千剱の門に入り、年十七歳にして其の塾頭となる。氏は更に転じて三田英学校に入り英語を学び後三年にして渡米したのであった。同学生としては日米社長安孫子久太郎氏あり。亘理氏は実に安孫子氏の学兄であった。◇彼が米国に渡りたる当時は桑港には学僕生活の人のみであった。彼も御多分に洩れぬ学僕生活を続けた。当時、日本政治の不平を抱ける有志は桑港に多く集まっていた。仙台の人、菅原傳、安倍屠龍、紀州の人畑下熊野等を始めとし一群の青年は愛国同盟なる政治的結社を起こした。亘理氏も其の一員にして特に文学方面に於ける重鎮であった。明治二十四年、愛国同盟は其の同志の主張を宣伝すべく『十九世紀』なる新聞を起こした。彼は其の編集員の一人であった。◇『十九世紀』は在米邦人活字新聞の鼻祖であった。シカシ当時活字を取り扱う職人がいなかった。第一回は同志が拾い集めて辛うじて印刷したが、解版に際してメチャメチャにしてしまい、第一号を発行するや否や、活版は羅離骨牌になり、第一号だけで廃刊した。◇其の後石販摺りの新聞『桑港時事』なるものを起ち、明二十六七年のころ、彼は其の新聞の翻訳記者をしていた。」

『日米』(大正十年五月二十七日付け)