「ミスター労働運動」←(トップページへ)
明治のころ本気でこの国を「働く者の楽園」に変えようとした靴職人がいた。





菅原傳

「君は旧仙台藩涌谷藩士菅原応輔氏の二男にして文久三年八月二十五日陸前国遠田郡涌谷町において呱々の声を揚ぐ。夙に大志あり。明治創業の現状を洞観し識見を?養し一世の指導者たらんと期し、東都に出でて修学研鑚怠りなく、明治十二年東京大学予備門を出でて同大学に入り、専ら政治法律の学修む業成に及び、明治十九年米国に航しパシフィック大学に入り、政治法律経済の諸学科を専攻し、在学二年業を卒へて自由党に入り米国桑港において愛国同盟会なるものを組織す。二十六年ハワイに航し我が同胞のために大いに尽くさんと志し、挺身努力時のハワイ政府に迫り、日本人に参政権を得せしめたる如き、偏に君の斡旋によりたるものなり。帰朝するや広く四方の志士と交わり民権の伸張に?む。二十八年朝鮮の地を跋渉し南北韓の情勢を審査し、二十九年に至り自由党幹事に挙げられ三十年宮城県第三区より選出せられて代議士となり、常に最高枢機に参じて?略を運らす。四十年日露戦争の論功行賞に際して勲四等に叙せられ、爾来声名隆々江湖の重望を荷ふ。夫人隆子は故大審院検事川目享一氏の長女にして、伝一郎、眞、昌子、治子、昭子の数子あり。」

『大正人名辞典』





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菅原傳