黒田清輝


明治のころ、本気でこの国を「働く者の楽園」に
変えようとした靴職人がいた!
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「文展出品「習作」(黒田清輝筆)」

『東京朝日新聞』(1919年12月30日付け)




















「◎申歳を待つ閑日月に黒田画伯の猿集めもう二百以上に達して「結局河童迄行くのかな」とニコニコ顔・・・・・『申歳を迎えるためでもないが、今例の猿を出して見ている処さ』黒田清輝画伯の猿の蒐集ももう二百以上に達した。麹町平河町の邸には土製の大猿が玄関を守っている。応接間にも猿の人形や彫刻が一杯。画伯はおしつまっての閑日月にニコニコしながら語る『猿を集めるに至った動機は数年前三越で児童博覧会があったとき巌谷小波君等と一緒に審査をしたが、干支に因んだ物を研究又は蒐集する話が出て巌谷君は馬を千以上集め久保田米斎君は犬、杉浦非水君は寅というふうに大分寄せていた。私は慶應二年の寅年で杉浦君と同じだからというと小波君が七つ目の申がよかろう、七つ目はよいことがあると言って標本の猿をくれたのが始めで集め出し、各方面の知人からもらったのが二百もある。将来はもっと集めて研究に入ろうと思う。猿には玩具は少なく良いのも無いが、猿は馬の病気を治すといい、又怜悧なものとなっておるためか神様や宗教に関係したのに良いのが多いようだ。又柳田国男君の語る所では河童と猿とは縁があるというから結局河童まで行くのかな』」

『東京朝日新聞』(1919年12月30日付け)
















「◎黒田清輝子絶望/昨日からカンフル注射で辛うじて持堪える・・・・・帝国美術院長黒田清輝子は昨年十二月腎臓病に糖尿病を併発し、さらに狭心症を起こして麻布芋町一七七の別邸で三浦、吉本両博士、渡辺、島田、山口各学士等の診療をうけていたが、六月三十日朝俄かに胸の苦悶を訴え脳貧血を起こして以来病勢は急に革まって危篤に陥った。主治医は一日から引き続きカンフル注射により辛うじて子の生命を保持しているが、既に親戚一同は同邸に詰め切り門下生杉浦非水、中沢弘光、跡見秦、岡野栄、岡常次、桜井知足氏も急を聞いて馳せつけ恩師の病床に昼夜看護をつとめている。」

『東京朝日新聞』(1924年7月3日付け)













「◎洋画壇の巨匠黒田子逝く/白瀧、中澤両画伯が厳粛な死面の写生・・・・・帝国美術院長黒田清輝子爵は六月一日病疾の糖尿病のために麻布?町の自宅に静養し渡辺主治医、吉本博士等の加療を受けたが十四日夜に至って病俄かに革まり十五日午前四時十五分遂に逝去した。病室には南俊二氏一家族、橋口兼清家族四人その他鹿児島から上京した黒田有満、梅北ゆか子、。」

『東京朝日新聞』(1924年7月16日付け)