高村光雲


明治のころ、本気でこの国を「働く者の楽園」に
変えようとした靴職人がいた!
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「◎博覧会の噴水器・・・・・此は大阪博覧会の美術館前に設置するものにて東京美術学校助教授河辺正夫氏の考案に係わる。原型は同校教授高村光雲、助教授黒岩淡哉二氏主任として制作せり。実物は丈け一丈二尺余の観音にして材料はセメントを用ふ。」

『東京朝日新聞』(1902年10月13日付け)

























「高村光雲翁作/聖徳太子像」

『東京朝日新聞』(1911年5月14日付け)























「◎博覧会の噴水器・・・・・此は大阪博覧会の美術館前に設置するものにて東京美術学校助教授河辺正夫氏の考案に係わる。原型は同校教授高村光雲、助教授黒岩淡哉二氏主任として制作せり。実物は丈け一丈二尺余の観音にして材料はセメントを用ふ。」

『東京朝日新聞』(1902年10月13日付け)
























「◎大錦の胸像・・・・・大阪天王寺中学卒業の大錦の同窓諸氏より横砂昇進記念として贈るもの。高村光雲氏監督の下に翁の令息豊周氏と伊藤喬氏製作。」

『東京朝日新聞』(1917年2月4日付け)



























「◎出来上がった善光寺の三面大黒天/高村光雲、米原雲海両大家の苦心・・・・・大正四年長野の善光寺からの注文により高村光雲、米原雲海両氏が彫造に着手した二体の仁王像は昨冬峻成を告げたが、これと同時に納むべき三面大黒天、三方荒神の両体もこの程出来上がった。荒神様は丈一丈二尺、大黒天は丈一丈共に六尺四方の仏台の載せたもので、来る九月善光寺に行はるる欧州戦争の我が戦死者の追弔会の際お開帳をするとの事である。因みに三面大黒天は従来画像としてはあったが型像としては初めての試みであるとの事だ。(写真は三面大黒天)」

『東京朝日新聞』(1919年4月10日付け)


























「◎高村光雲翁美術学校を退く/創立以来の教授としてわが木彫界の元老・・・・・我国木彫界の元老高村光雲翁が定年制で今度いよいよ東京美術学校教授の職を勇退することになった。光雲翁はそもそも明治二十二年同校が創立された時燃ゆるような創作欲と覇気をもってイの一番に就職し六年後には教授になったので我国の木彫家の大多数は翁の弟子である。従って今日の彫刻界を作りあげた貢献者の一人としてその功績は美術史から看過され得ないものである。翁はもう七十五の老齢だから今後は静かに余生を送るそうだ。純粋の江戸っ子で幼時彫刻の名家仏師高村東雲の弟子になった。当時からもう天才的な腕のさえが現れていた。最近の傑作としては昨春?政宮の御下命の「たか」の置物でこの製作には学校へも顔を出さねば来客にも接せずにひたすら刀を取った努力の結晶であった。文展時代から審査員で通し大正八年から帝国美術院の会員になって色々な博覧会やら展覧会の審査員にはいつも翁の名の見えないことはない程の権威者である。尚彫刻家で詩人である高村光太郎氏は氏の長男で美術学校で父の教えを受けた人である。」

『東京朝日新聞』(1926年4月1日付け)


























「◎光雲翁の観音像浅草花屋敷にまつらる・・・・・高村光雲翁が一代の心血を傾倒したといわれる聖観世音像の大体はそれが彫刻界重鎮の手に成ったものだけに、さらに又、光雲翁としては最初の試みである極彩色の逸品だけに、果たしてたれの手に落ちるであろうかは美術家仲間に多大の興味を呼んでいた。折りも折り、大勝で通った浅草花屋敷の主人大瀧勝三郎老人は、自分が観音様の境内にお世話になって成功を得たのを深く徳として、是非ともこの観音様をお祭りしたいと心願していた。美術商岩井某から光雲翁力作の話を聞いていた大勝老人は、前記の聖観世音像を一目も見ぬうちにもう我心願がかなったように喜び、無条件で譲り受けの交渉を開始した。かくて光雲翁はこの像製作の動機が観音様とは浅からぬ因縁あるに顧み、かつて大勝老の矢のような督促に動かされて稀代の逸品聖観世音像は遂に花屋敷内に安置されることになった。」

『東京朝日新聞』(1927年4月30日付け)
























「◎大てこずりの『猿』の材木三円が百五十円に/高村光雲翁の苦しい思出・・・・・名作展彫刻部中央に陳列されてある。故森川杜園氏『鹿』、故石川光明氏『白衣観音』、故山田鬼斎氏『平治物語』、高村光雲翁『猿』等は明治二十六年』シカゴ博覧会の出品作で、もし同博覧会が開かれなかったらば、純正美術的な彫刻の発生時代と見られるその時代の彫刻作品があるいは後世に残らなかったかも知れないという非常に記念されていい作品ぞろいである。高村翁の大作『猿』はとちの大木へ彫られたもので、そのとちの木探しについて面白い話があるから紹介しよう。以下は翁自身の話である。『シカゴ博覧会に出品するようにと農商務省からの命令で四百円の金がおりました。当時の四百円、それはずいぶんんあ大金でした。神田丸太河岸の加島材木店から栃木県の山奥にすばらしいとちの大木がゴロゴロしている様を聞き込んだので、故後藤貞行さんを伴われて早速買い付けに出かけたんです。明治二十五年三月のことでした。その現場は栃木県鹿沼駅から四里を隔てた発光寺村の山中で直径七尺、四かかえもある大木をめっけて、仲買人に相談すると売価が三円だという。「しめしめ」といyので其れに約束をつけ、運送費手付を加えて十五円を渡し四月中に東京へ着するよう頼んで、大喜びで帰ってきました。所が来ない、五月中待っても六月へ入っても音さただにない。辛抱しきれずに六月半頃再び現場へ出かけた所がどうだろう、山に切り倒したまま、あたら優材も雨さらしになっているではありませんか。事情を聞くと、大木運搬で山麓の田畑がつぶれるからどうにもならぬというのです。大急ぎで帰郷しました。時期は迫る、居ても立ってもいられない、そこで頭をひねったあげく名案を案じたてた・・・・土地の小学校校長を説くのが一番だと。そこで、当時そんな片田舎ではおがむことができなかった石盤鉛筆、ノートブック、消しゴム等ハイカラな珍しい文房具をしたたま買い込んで持って出かけたものです。それを手土産にして土地の名誉が世界的にもなる由を告げ、それはそれは上手に説きたてた。校長さんは大変動かされた。一両日内に父兄会を開かれたと思うと「田畑のつぶれること位何でもない、是非私共の田道を通っていただきたい。」と、前には手を合わせて頼んでも振り向かなかったお百姓が、こんな変わり様なんです。私共かえって面喰ったくらいでした。山をすべらせる、馬力で運ぶ、途中三か所の橋の修理までしてもらえた。後は易々と出されてきたが東京花川戸へ着いたのが九月末で、結局三年の材料が運びだすだけに百五十円もかかった。さて材木は着いたがアトリエはなし、家へは入らず、仕方なしに道路へなげだして、昼夜兼行三ヶ月間は寝食を忘れた形でしたが、モデルは浅草奥山の猿で、やっと間に会ったような次第です。それも最初はとちの白身と光沢とを応用して白猿を彫ろうと計画したんですが、不思議に木色が赤かったので、急に模様がえした。猿がわしをつかまえ損なった瞬間の妙な姿を現すことにしたんです。猿が手にわしの羽をつかまえて図がまるでロシアをふんづかまえている居る様だとシカゴで偶然問題にされたとは後で聞いたことでした。』」

『東京朝日新聞』(1927年6月15日付け)
















































「◎高村光雲翁/彫刻界の元老・・・・・かねて危篤を伝えられていた我が彫刻界の元老高村光雲翁は十日午前十時本郷区駒込林町一五五の自邸で遂に永眠した。享年八十三。翁は今春二月宿?胃酸過多症から胃潰瘍となり九月初旬から病勢悪化して胃癌を併発し、去る八日以来全く危篤に陥っていたもので、告別式は来る十四日午後二時から三時まで谷中斎場で営まれる。高村光雲氏は嘉永五年五月浅草に生まれ、幼名を中島光蔵といって、、、高村東雲の門に入り、彫刻を学び、後東雲の縁家の養子となって高村光雲ろ改名した。これより先、明治八九年頃仏師の仕事が暇になったので貿易品向きの置物彫に着手し、勢い写生風なものを見ては木彫を試み、氏の作風も変わった。かくして明治十年第一回内国勧業博に師の代作として「白衣観音」を出し最高の龍紋賞を取り、十二年師が逝去の後は独立して木彫を家業とした。明治二十三年美術協会に明治天皇行幸の御?、御前制作の光栄を?ひ、以来度々皇居の御?間彫刻を謹作、同年美術学校の教授となり芸術家として最高の名誉である帝室技芸員に命ぜられた。二十五年には上野の西郷隆盛銅像の原型を作成し、四十年文展開催と共に審査委員となり、現に帝国美術院会員で、故人の竹内久一、石川光明と共に明治初期の彫刻界の三大傑の一人と推称されたものである。」

『東京朝日新聞』(1934年10月11日付け)



















『東京朝日新聞』(1934年10月11日付け)