長瀬富郎


明治のころ、本気でこの国を「働く者の楽園」に
変えようとした靴職人がいた!
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「◎中元進物と花王石鹸・・・・・日本橋区馬喰町長瀬富郎製造の花王石鹸は品質良好にして価も廉なれば、衛生と経済を兼ねて中元の進物に最も適当の品なり。」

『東京朝日新聞』(1904年7月9日付け)

















「◎全国石鹸化粧品同業大会・・・・・関税協定税率改正の結果香料輸入税の低減せられし祝意を兼ねたる全国同業大会は昨日明治座に於いて催され同業総代として浅井碩成氏開会の趣旨を述べ香料輸入税廃止期成同盟会長長瀬富郎氏の演説あり、東京石鹸組合長村田亀太郎氏、小間物化粧品組合副頭取田中吉兵衛氏及び大阪名古屋其の他各地方同業代表者の祝辞朗読あり、来賓中野東京商業会議所会頭、尾崎東京市長の演説あり、和田農商務次官の祝辞朗読あり、余興演劇あり、会するもの千余名。」

『東京朝日新聞』(1907年6月4日付け)





















「◎浮石鹸問題・・・・・化粧石鹸は純良なる動植物の脂肪油質とアルカリ性液を能く化学的に化合せしめ之に香料を加え乾燥圧縮して製せるものにて其の品質だに純良ならんには其の浮くと浮かぬとは素より根本的問題に非ず。寧ろ枝葉の事たるなり。然るにこの頃御園白粉発売元日本橋区橘町四丁目三輪善兵衛氏新たに村田亀太郎氏に嘱して浮石鹸なるものを製し純石鹸と名づけて発売し、且つ広告文中に浮石鹸は澱粉質を有せず純良なる原料のみを以て製するものなる由を披露したるより、図らずも東京小間物化粧品業者の物議を醸し、中にも花王石鹸本舗長瀬富郎氏は盛んに其の不都合を鳴らし三輪氏が殆んど浮石鹸の外に純良石鹸の無きが如くに広告したるは我々の営業を妨害せるものなりとし、組合員間に檄を飛ばし終に去る九日付けを以て三輪氏に対し組合員は規約十一条により一年間同氏との取引を停止すべしとの通牒を発したり。右に付き三輪氏は之に不服を唱へ自家発売の浮石鹸を純良品として広告せるは自ら品質を信ずるがためにて、ごうも疾しき所なし、而してその広告の浮かぬ石鹸に及ばざりしは浮かぬ石鹸を広告する必要なかりしを以てなり。然れども、もし自分にして自家発売品の広告文中に浮かぬ石鹸にも純良品ありしと広告したらんには或いはかかる騒ぎを惹き起さざりしならんが、そは他店の広告を自ら引き受くるものにて自分の堪え能はざる処なり。要するに今回の自端は単に浮石鹸問題のみにはあらず他に原因ありて平生嫉視反目の結果に出でたるものには非ずやと疑へり。因って自分は静かに形勢を見、然る後決心する考えんまり云々と語り居たり。而して一方長瀬氏は三輪氏の広告の他に迷惑を及ぼす虞あるを懲らし、氏をして自省する処あらしめんとの意にあれども、組合員間には御園白粉と他の白粉との対抗、三輪氏其の人の行動に対する悪感との混合せるものあり。又組合員中にも取引の関係上意見まちまちにわかれ彼にとうし是に與し只物議のみ紛々たる有様なるが、かくの如き紛議は必竟営業上の悪戦なれば早く解決を見るこそ能からめ。」

『東京朝日新聞』(1908年1月15日付け)























「●大阪火災義損金」

『東京朝日新聞』(1909年8月9日付け)























「●大火義損金(第四回)」

『東京朝日新聞』(1911年4月15日付け)























「◎花王石鹸の発展・・・・・品質本位で売り出した花王石鹸の名は今日に於いては殆ど内地に轟き渡って海外に迄宣伝せられる様になって居るが、今を去る三十年故長瀬富郎氏に依って国産創製輸入防?の目的で初めて邦語の名称を命けた花王石鹸が発売された時には誠に微々たる売行であった。然るに廉価なる良品という自信を有した発売者は先づ知識階級を?って帝国大学病院に知られついで陸海軍、赤十字、慈恵、其の他の病院に採用せらるる様になり、逐年産額は増大するのみで、今秋三十周年記念に到達するに際しては年額三百万ダースと称せられて居る。」

『東京朝日新聞』(1918年9月7日付け)