日本初めて労働組合をつくった男


沢田半之助の檄文









「◎洋服業者及職工諸君に檄す   沢田半之助・・・・・今や我日本の社界も憲法は既に施かれ帝国議会は既に開かれ政治の上に於いては年々文明の域に進みつつありと雖も世界の上に占むる位置如何を顧みれば尚ほ対等の交際を為す事態はず依然たる居留地制度行なわれ治外法権行なわれ我に刑法あり民法あるにも拘わらず我法境範囲に属する日本全国土を支配する能はざる憐れむべき位置に在りたり。然るに去月十七日条約改正行なわれて欧米人と同等の位置に立ち世界の日本として此処に初めて独立の体面を保つに至りたるは誠に千古の快事にあらずや。既に日本の社会も世界の舞台に立ちて恥かしからぬおとなとは為りたり。然り是人間に譬へば今迄の日本社会は着る物に尚ほ肩揚を有せる小僧子なりしに去月十七日より条約改正てふ元服を加えて欧米諸国に対して一人前の大人とは為りしなり。顧みて我が洋服職工諸子が此の時勢の一変遷に対して果たして何等の覚悟有りや。余は洋服職工会の一人として敢えて其の覚悟如何を問はんとす。東京横浜間に洋服職業者三千五百人有りと称せらる。而して其の職業は明治維新の改革と共に輸入し来りたる新工業なり。都会と田舎とに論なく鉄道の通ずる所、人力車の赴く所、警察署学校の建立する所洋服を見ざるはなし。年一年に洋服着用者の数を増加し今や洋服職は我が工業社会に於いては重要なる工業の一たり。其の需用の大なる上より言うも供給者の多数なるより見るも他に対して多く遜色なし。況んや此処に内地雑居の期に到り洋服需用の増加歴として現著なるに於いてをや。然かも退きて我が洋服職工社会の状態如何を顧みれば余はたん然としてはぢざるを得ず。余をして少しく我が洋服職社会の内情を暴露せしめよ。蓋し我が洋服職社会ほど雇主と職工との間柄あしきは他の工業社会に多からざる可し。生産は資本と労働との調和より成り職業は雇主と職工との和合より発達する者なるにも拘わらず我が洋服業社会は雇主と職工の間宛かも犬と猿との如く常に喧嘩の種を作り衝突して相争ふ。若し職業の多忙ならざる一月二月七月八月の如きに於いては職工は雇主の前に平身低頭し居るにも拘わらず洋服需用の多き四月五月十月十一月の如き月に際せば俄かに雇主に難題を提出し或は前借を請求し若しくは同盟罷工を企て脅迫到らざるなし。且て或る洋服業者職工使役の困難なるを嘆じて帳然とし洋服業はイヤになりしと長大息せる事有り。思うにこの般の嘆息は我が洋服業者社会一般概ね経験し居る如なる可し。然かも我が洋服職工諸子は前借を強請して得たる金貝は之を有用の資に投ずる事を為さずして徒らに飲食になげうち遊里に棄て、而して為めに雇主は洋服注文の約束期限に相違を来たし注文者の言い訳に苦しむるも顧みざるなり。洋服職工概ね皆な然り。嗚呼何等の失態ぞ何等の醜?ぞ。東京府下洋服業者五百人あり。或人言を立て此の五百の洋服業者職工一人に付き平均二十円づつに前借の強請あり。即ち三千人の職工に対して一期に七千円の前借行なはると言へり。然れども余輩の見る所を以ってせば尚ほ幾多の損害あるが如し。府下に三千人の職工有りと雖も職業の繁忙なる場合には風習あしきより却って頼惰に就き真面目に業を操る者は二千人を出でざる可し。然らば一千人の職工は徒手生産を事とせざるを以って一人平均一ヶ月十五円の賃金を得る者とせば二ヶ月平均総賃金高三万円の金額は我が職工社会の損失に帰せん。尚ほ之に止まらず此の一千人の徒手職工はただに賃金を得ずして三万円の損失を招きつつ有ると共に怠惰に耽ると誰も同じく糊口の費用を要するを以って仮に一人の生活費十円なりとせば二ヶ月間二十円之を一千人に総計せば二万円の損失ある計算なり。即ち職業に怠るよりして当然得べき賃金三万円徒手生産を事とせざるを以って一人平均一ヶ月十五円の賃金を得る者とせば二ヶ月平均総賃金高三万円の金額は我が職工社会の損失に帰せん。尚ほ之に止まらず此の一千人の徒手職工はただに賃金を得ずして三万円の損失を招きつつ有ると共に怠惰に耽ると雖も同じく糊口の費用を要するを以って仮に一人の生活費十円なりとせば二ヶ月間二十円之を一千人に総計せば二万円の損失ある計算なり。即ち職業に怠るよりして当然得べき賃金三万円徒手生産を事とせずして空しく生活費に当つる糊口費用二万円合計五万円の損失あるなり。是れ職工諸子の自暴自棄なるが為に然る者慨嘆に堪ゆべけん哉。右計算の外に職工社会の損失を外にして洋服業者雇主においても顧客に対する違約職工の失踪せるために棄つる奔足費等を計算せば年々洋服業社会一般に損失せる者五万円の少額に止まらざる可し。斯くの如くにして洋服業の発達を望み社会の進歩を見んとす亦難しと言う可き也。知らず信用を重んじ職業に専らなる支那洋服業者にして内地雑居と共に我が国に入らんか果たして日本男児の面目を保ち能く我が洋服業者は勝利を占むを得べき哉。誰か余輩を以って杞憂を懐くと言う物ぞ。職工社会の弊風は延びて徒弟の風習に影響す。職工が洋服業者との関係を無視し昨日は東今日は西三ヶ月以上雇主の下に誠実に勤むる者なきが故に従ふて徒弟に感染し年期五年ないし七年の契約を結ぶも誠意に年期を勤め上ぐる者は少なく少しく洋服の業に熟するを得は一人前としては未熟なるにも拘わらず年期は半途にして親方の家を出、それ技術は職工の魂なり。然も我が洋服業の如く徒弟教育は放漫に流れ技術を習得する者なきこと今日の如くなれば到底洋服業の進歩を望むも得べからざるなり。余輩は今更率先洋服職工社会の悪風を唱えんと欲する者蓋し此処に憂ふる所あるが故のみ。我が洋服職工諸君余を以って罵言をなす者となす勿れ。余は職工諸君を責むると共に資本家の位置に立てる雇主に対しても不服あり。今日洋服営業者たる人も出身を質せば其の半生涯は職工たりし人多く然るに其の職工に対する哉且て職工たりし閲歴を忘れ業務の繁忙ならざる時はたとえ職工に災難生じ困危の間に陥るも敢えて顧みる者なし。故に繁忙の時季到るも職工の柔順ならざるも固より偶然ならざるなり。故に今日職工に弊害多きも其の一半は前業者其の責めを負はざる可からず。然れども今は此処に営業者に対しては多く言はざる可し。ただ其の職業は文明工業にして其の職工は高等の技術に属する我が洋服業社界にして以上挙げたる如く弊風多きは苟も洋服業者の一人として軽々閑過す可からざるが故に敢えて謹言するのみ。今や欧米において労働問題の声盛んに社会の一大問題として学者政治家の注目する所となる。而して我が日本社会も近年各種工業の勃興と共に労働問題を惹き起こし我が洋服業者が五里霧にある間に先覚者は熱心に労働者の位置を安全にし其の権利を伸張せんとは為し居れと現に余が同志者と共に組織せる労働組合期成会の尽力によりて成立したる鉄工組合の如き目下組合員四千名以上に出で横浜横須賀浦賀福島仙台青森北海道等支部せられたる事四十有余消費組合成立し労働倶楽部行なわれ職工教育会起こり職工知識増進のため図書を出版し火災疾病死亡等の救済行われ国民貯蓄銀行と連絡して貯金の方法行なわれ労働者の意見を発表するために毎月二回機関雑誌を発刊し居れり。今ま鉄工を以って洋服職工に比較せば、あたかも墨と雪の如く天地懸隔其の洋服職工は雇主に生前借を強請し遊里に出入りし居る間に鉄工は雑誌を読み書籍をひもとき多数と協議して其の位置を増進せんことに熱心し一には世は如何に変遷せるやを知らずして大平楽を称へ居るに反して鉄工は支那人雑居を問題として自己の前途を相談しつつ有り。何等の懸隔ぞ。鉄工は如何かにして斯くの如きか言うまでもなく組合を組織したるにこれ依るのみ。鉄工と雖も三四年前までは実に我が洋服職工社会と同じく何等の規律なく無我夢中に暮らし居りしなり。故に余は今日我が洋服職工社会の悪風を矯正し能く文明職工の体面を維持せしむる一策として労働組合設立を主唱す。組合の設立は有らゆる弊害を矯正する万能の力を有す。現に欧米にありては各職工は争うて組合を組織し、各工場の進歩を謀り居り。先年ロンドンに労働組合大会を開きたる時五十六万千0九十人の労働者を化して百七十三人委員出席せりという。以ってイギリスの労働社会に組合の盛んなるを知るべし。重にイギリスのみにあらずドイツといえどもフランスといえども北米合衆国といえども悉く然らざるはなし。労働は神聖なり。団結は勢力なり。労働社会を刷新せんと欲せば組合を設立するの外なきなり。以って佳義を養う可く以って賃金の増加を協る可く以って職工社会の権利を伸張して資本家と対等の位置に立つ可きなり。今や不肖固より職工社会を刷新するの任にあらず。然れども我が洋服職工社会の現状余りに弊習多きに慨嘆し敢えて自ら力を採らず今日の時勢に鑑み此処に洋服職工組合設立の必要を説きて我が洋服職工諸君に檄す。志ある職工諸君は余が意の存する所を諒して自己の位置を高むるに力を尽せ。今日は是れ徒らに営業者を困め酒食に耽るの時にあらざるなり。今日洋服営業者たる人も出身を質せば其の半生涯は職工たりし人多し。然るに其の職工に対する哉且て職方たりし閲歴を忘れ業務の繁忙ならざる時はたとえ職工に災難生じ困難の間に陥るも敢えて顧みるものなし。故に繁忙の時季に到るも職工の柔順ならざるも固より偶然に有らざるなり。故に今日職工に弊害多きも其の一半は前業者其の責を負はざる可らず。」

「労働組合期成会」の機関紙『労働世界』より









芝区洋服職工の同盟罷工(ストライキ)
『団団珍聞』(第1091号 明治29年12月19日)






「◎芝区洋服職工のストライキ・・・・・物価騰貴せしため従来の時間と労働賃金にては到底生計立ちがたしとて、芝区内の洋服職工組合は資本家に三割の賃金引上げを請求せしに、談まとまらずために数日以前より職工一同は休業し居るよしにて目下双方にらみ合いの姿なり。」

『都新聞』(明治二十九年十一月二十九日付け)





「◎職工同盟(洋服裁縫職人の同盟運動)・・・・・」

『都新聞』(明治二十九年十二月十一日付け)








「◎サンフランシスコの会社的労働党・・・・・」

『都新聞』(明治二十九年十二月十一日付け)








「◎職工同盟・・・・・芝区洋服職工等は去月以来賃金等のことにつき同盟罷工をなせし末、洋服職工組合を組織するにいたりたり。」

『都新聞』(明治29年12月12日付け)








職工同盟(東京洋服裁縫業組合)・・・・・、、、」

『都新聞』(明治二十九年十二月十三日付け)







「◎当時米国桑港在留の日本人にて発行する新聞ありや及び内地の販売所を問う・・・・・当時発行する新聞は桑港時事、ジャパンヘラルド、新世界の三種にして内地には販売する所無し。」

『都新聞』(明治二十九年十二月十九日付け)






「◎洋服職工の組合起こらんとす・・・・・期成会幹事沢田半之助氏らの尽力により近々の内、東京洋服職工の組合を起こさんとすと。兼ねて職工の組合に反対しつつありし親方連も今や組合の必要を感じ大賛成を表して組合の評議員になりても其の組織を希望するの意向なりと。而して期成会とは無論気脈を通じて組織せらるるやに聞く」

『労働世界』(第二十七号 明治32年1月1日)










「◎洋服職工の状態・・・・・東京府下に今日四千人の洋服職工あり。此の中資本家の階級に属する親方連中の今にあるは言うまでもなけれど、十分の八は職工に属す。即ち東京市中三千幾百の洋服職工は居るはずなり。一般職工は洋服業者の間柄を見るに、いずれの職工社会もその幣は免れざれども、特に洋服職工は洋服業者との間に隔執多く、断えずにらみ合いおるは慨はしき事なり。十月、十一月、十二月、或は三月、四月の如き洋服の注文多き時は洋服業者も言葉を丁寧にして職工を招き、時に彼の紡績工場に行なわれたる職工の奪い合いを行なうことあるも、仕事が閑になれば前日の親切は全く一変し職工にして時に不幸に陥ることあれば乗じて顧みざる者多し。職工もまた親方に対して不徳義のこと多し。仕事の閑なる時は親方に対して頭低く、洋服の注文多しと見れば急に顔を大きくし、或は仕事忙しくなれば却って怠りて仕事に精を出さざるのみならず、甚だしきは出来得るだけ前借して中途に親方をすっぽかす者多し。洋服職工といえば労働社会にてもむしろ進歩せる工業の一なり。しかも洋服職工の品性は口に立派なことを並ぶるにもかかわらず、殆んど下等労役者たる人足土方と異なることなし。かくのごとく洋服職工に弊害多きは、今日の職工は前に足袋職を営みし者の洋服職工に化せし者多きがゆえなり。兎に角洋服職工の弊害は労働社会にても特にはなはだしきなり。今や内地雑居も目前に迫れり。各種の工業中にても、内地雑居とともに需用多きは洋服職工義第一なるべし。此の職工にして今日のごとき状態にあるは真に慨嘆すべき事ならずや。近頃聞くところによれば、一昨年米国より帰りたる沢田半之助氏率先して洋服職工組合組織の計画あるは我等の挙手して喜ぶところなり。今日洋服職組合あれども、これは親分連中の組合にて全く職工には関係なし。或は親分連中には職工組合を否認する者もあるよしなれども、注文多き時に職人に手を焼き職人になまけらるるがゆえに洋服屋の明後日は染屋の明後日と共に客の小言受くるを見れば今日先づ組合を作り、年期徒弟の年限を定め、職人との関係、同業者の関係等を厳密にし、能く職工との調和を謀るは実に今日の急務なるべし。」

『横浜毎日新聞』(明治32年5月30日付け)










「◎洋服職工組合・・・・・沢田半之助氏等の尽力にて去る二日神田青年会にて営業者の演説会を開会し職工も来会し島田、高野、小松、片山の諸氏の出演あり。聴衆千有余にして頗る盛会なりし。洋服職工組合は営業者も望む所なればその組成を見る遠きにあらざるべし。」

『労働世界』(第四十二号 明治32年8月15日)









「◎労働界彙報・・・・・洋服職工組合を組織せんと、目下熱心に運動する者あり。」

『横浜毎日新聞』(明治三十二年九月二十七日付け)











「◎労働界彙報・・・・・府下に洋服職工組合起こらんとする由は報ぜしが、目下成立し居るは四谷、芝の二箇所なり。」

『横浜毎日新聞』(明治三十二年十月十五日付け)









「◎米国裁縫組合の申し込み・・・・・米国に巡回裁縫教師と云ふのがあって、家庭で衣服を製する事の出来ない所を廻って裁縫する例であるが、是は世界各国の同業者と連絡して居るそうで今度イリノイ州ブルミントン市の組合本部から神田三崎町渡米協会〔会長は片山潜〕へ宛て連絡を申込んで来たので、いよいよ銀座二丁目洋服店澤田が其任に当たるさうだ。」

『読売新聞』(明治38年6月14日付け)

 













人間大好き、気骨あふれる明治・裁縫界の風雲児、

沢田半之助の非凡な人脈を列挙すれば・・・


野口英世とのエピソード、
片山潜の娘とのエピソード、
後藤新平との関係、
児玉大将との関係、
朝鮮李王朝とのエピソード、
珍田捨己との出会い、
金子堅太郎との出会い、
男爵位を辞退したエピソード、
政治家や財界人との対等な付き合い、
米友協会創設、
ぺりー来航記念碑の建立、
官営被服工場の創設、
鉄道員の被服改善、
日本ロータリー運動の産みの親・米山梅吉との友情、
小松緑との友情、
韓国人学生への経済支援



沢田半之助が手がけた実業及び事業を列挙すると・・・

大洋漁業缶詰KK
内外工業KK
東京電話土地建物KK
玉島開拓KK
戸倉森林KK
九州炭鉱KK
大和毛織KK
鉄道員被服工場、
KK
東洋軒、
沢田洋服店、

『米友協会会史』(沢田半之助「沢田半之助略歴」沢田智夫)より






「、、、明治二十八年十月ごろ、帰朝した沢田半之助は、、、東京・京橋に沢田洋服店を開業。一方においては、帰朝同志と図り、懸案の日本労働運動の黎明を告げる「職工義友会」の創設に、高野、城、木下、片山(潜)等と日夜奔走した。、、、」

『米友協会会史』(沢田半之助編/「沢田半之助略伝」沢田智夫)




「、、、沢田の四男智夫のもとに残る米山梅吉の回顧文に、沢田の素顔がうかがえる。米山は日本のロータリークラブ創設者で、社会奉仕活動の先駆者として広く知られている。米山の回顧によると、沢田はサンフランシスコで日本人初の洋服店を開業した。現地では「持ち前の世話好きと友人愛と博愛心」で、留学生や駐在員らの面倒をみたという。在米中はその中の1人のエール大学生片山潜とともに、日本初の労働組合「職工儀友会(後の職工期成会)」を設立した。、、、」


『福島民友新聞』(2007年2月22日付け「南カリフォルニア移民の軌跡/波濤の向こうに/初期渡米の人々/沢田半之助(上)」)










沢田半之助が「世話役」としての能力をフルに発揮し、
「高野説得」を成功に結びつけたからこそ、
城常太郎と高野房太郎いう実践派と理論派の両雄の「揃い踏み」が
実現し、片山潜が言うように

「日本の労働運動は、君があったから、交際の方面に発展することができた」

のである。






★沢田半之助の「世話役」としての活躍ぶりは、
彼の故郷である福島県の新聞でも紹介された。



沢田半之助(上)・・・・・、、、現地では持ち前の世話好きと友人愛と博愛心で、留学生や駐在員らの面倒をみたという。

『福島民友新聞』(平成十九年二月二十二日付け)





「沢田半之助(下)・・・・・、、、沢田は在米日本人同士を結び付ける役割を担っていたのではないかという。」

『福島民友新聞』(平成十九年二月二十三日付け)










■実践派の城常太郎
■理論派の高野房太郎
■両極にいる城、高野の間を取り持ち、
コーディネーター的役割を果たした
沢田半之助