日本で初めて労働組合をつくった男


明治・大正時代の労働運動史



ー内幸町は日本近代労働運動発祥の地ー



『東京一目新図』(明治三十年版 人文社発行)

→城常太郎の自宅、兼、職工義友会のセンター―内幸町一丁目一番地―
都新聞本社―内幸町一丁目五番地―
●→帝国議事堂(衆議院・貴族院)―内幸町二丁目―
→日比谷が原(後に日比谷公園)












『東京市麹町区全図』(明治28年7月調査 明治29年発行)









→城常太郎の自宅、兼、職工義友会のセンターがあった場所
住所は
東京市麹町区内幸町一丁目一番地




地図を見つめていると、幸橋御門を通り労働運動の現場へと向かう
常太郎の姿が脳裏に浮かんできて胸がいっぱいになる。

常太郎が暴漢に襲われた場所も、あるいは、
幸橋御門近辺だったのかもしれない。

演説会場からの帰路の途中、おそらく銀座辺りまでは
桜組の靴工仲間たちと一緒だったと思われる。
というのは、桜組の靴工たちの多くは銀座三丁目周辺に
住んでいたからだ。
靴工仲間と分れて一人で家路に向かう常太郎にとって、
最も狙われやすい場所は
外堀の幸橋を渡った幸橋御門あたりであろう。
石垣で囲まれた幸橋御門は外部からは死角となり、
犯行を行う上で絶好の場所といえるからだ。

幕末の時代、江戸城桜田門の近くや、坂下門外でも襲撃事件が
起こっている例からも、私の推理がまったく
的外れだとも言いきれない。











幸橋御門(江戸時代)











幸橋付近のお祭り風景(江戸時代












数寄屋橋



『風俗画報』(明治時代)











霞ヶ関 内幸町 



『新撰東京名所図会』(明治31年)
























「職工義友会」のセンターがあった内幸町一丁目一番地の現在の場所は
東京電力本店の向かい側、第一ホテルアネックスのある一画に当たる。
(千代田区内幸町1-5)









城常太郎の借家があったと思われる場所より
アーチ煉瓦高架橋(明治30年当時は皇居の外濠)を撮影


















第一ホテル東京のすぐ前にある幸橋架道橋
(かつて幸橋が架かっていた場所・職工義友会のセンターから徒歩1分)
















帝国議事堂(内幸町二丁目)



帝国議事堂(衆議院・職工義友会のセンターから徒歩5分)

『東京景色写真版』(江木商店・明治26年)














帝国議事堂があった場所の現在は経済産業省別館
(千代田区霞ヶ関1−3−1)












日比谷が原(職工義友会のセンターから徒歩2〜3分)




内幸町交差点方向から撮影された日比谷公園幸門。

『明治大正昭和東京写真大集成』(新潮社)
















現在の日比谷公園



























都新聞本社(明治23年に竣工・職工義友会のセンターから徒歩3分)

『都新聞』(日本図書センター)















都新聞本社があった場所の現在は日本プレスセンタービル
(千代田区内幸町2−2−1)













長與胃腸病院(麹町区内幸町一丁目三番地)

『日本之名勝』より

※夏目漱石が胃潰瘍治療で入院した病院















『明治大正昭和東京写真大集成』(新潮社)

内幸町一丁目一番地にあった東京府庁



















 『東京一目新図』(明治三十年版 人文社発行)

→小石川(東京)砲兵工廠
→「職工義友会」再建発起人の一人・木下源蔵(靴工)の自宅兼活動拠点。
・・・東京市小石川区上富坂町十五番地・・・

※東京随一の機械工場、小石川砲兵工廠の鉄工たちが中心となって、
明治30年に「
労働組合期成会」と「鉄工組合」を結成した。










木下源蔵が住んでいた小石川区上富坂町十五番地の借家付近から
旧小石川(東京)砲兵工廠方面を撮影





「小石川区上富坂十四番地砲兵工廠の職工向山喜十郎は、、、」

『都新聞』(明治35年9月2日付け)





「小石川区上富坂に住む東京砲兵工廠職工Aは、、、」

『郵便報知新聞』(明治22年12月7日付け)





「小石川区上富坂町二十一番地平民大工職福島県三春生まれの
坂田政五郎(三十四)は同じ長屋に住む佐藤おたい(二十九)と
九年越し夫婦同様に暮らし居りしが、、、」

『読売新聞』(明治29年11月23日付け)





「本郷区丸山新町八番地に住む人力車夫中田順之助の女房おさと(三十八)の兄
中田義政(四十)は靴職工が業なれど、性来の怠惰癖が兎角良心をおおい
始終順之助の厄介となり居りしが、先頃より砲兵工廠の職工となり、
小石川区富坂町十番地の下宿屋長谷川かね方に止宿し、、、」

『東京新聞』(明治30年5月28日付け)











現在の富坂













富坂から「東京ドーム」(旧小石川砲兵工廠)を撮影



























小石川砲兵工廠の遠景

『明治大正昭和東京写真大集成』(新潮社)











小石川砲兵工廠

『明治大正昭和東京写真大集成』(新潮社)
















小石川砲兵工廠

『太陽』(1916年4月号)


















小石川砲兵工廠

『太陽』(1916年4月号)



















小石川砲兵工廠」




「◎塵の巷・・・・・東の都にて塵の最も多く立ち昇るところを水道橋の広小路とす。東の方は琴平社、西北の方は砲兵工廠なり。砲兵工廠の築地づたいに客待ちの腕車常に七八十輌にくだらず。壱岐殿坂のかたより来て、まず目につきしは、氷店なり。次に甘酒店、次は麺麭店、次は焼餅店、次は焼鳥店、なり。鉢の上に並べある焼取鳥、焼餅、麺麭、皆塵にまみれたり。ここにまた、砲兵工廠のかたより幾百人とも知らず、人々のうちむれて来るあり。初めのほどは、葬式にもやあらむと思いしに、よく見れば、同所の職工なりけり。洋服つけて下駄を穿てるものもあれば、紋付の羽織を着て、股引をつけたるものあり。尻をからげたるに、腕をまくりたるもの、シャツに袴をつけたるもの、右足には長靴をはき、左足には半靴をはきたるもの、草履と駒下駄をかたかたにはきたるもの、白足袋と紺足袋を別々にはきたるもの、頬かぶりせしもの、へこ帯せしもの、髪の長きもの、短きもの、坊主なるもの、髷なるもの、千態万状書き尽くすこと能はず。顔はさらなり。背のあたり汗しみ出でて、その香いみじう臭きに、たちのぼる塵にまみれて、進み来る様、えもいわず。あわれ、こも、我が同胞兄弟なるよと、一人物思うをりしもあれ、また塵をあげて、走り来る馬車あり。こをみよかしと、目をそそぎしに、乗れる人、酒にや酔いたらむ。うち眠りて、こもまた知らで、行き過ぎぬ。」

『大日本婦人教育会雑誌』(第53号 明治26年10月14日発行)







































労働者のデモ行進



























 



足尾の鉱夫暴挙図















ビゴー作

「ストライキ決行」

















ビゴー作

労働者は社会主義より無政府主義を」







 






鉄工(中村不折作)









 

 

 

 

 

 

 

 


明治10年


明治11年


「◎この書状は幸便にて延着になり外々の新聞紙へ委しく出てあって今更遅まきなれど折角長崎よりの知らせゆえ古聞なれどごらんなさい。
前略、当地高島石炭坑の工夫暴動は定めし委細御聞知の事と存じ候得共小生見聞の次第をあらましを上げて高島は周囲僅かに一里に満たざる小島二千人ほどの工夫これあり。三百人或は四百人づつ一番二番と区分し賃金は多く酒の代に致し九分九厘は無頼者の集合にこれあり去年戦争の節は戦地へ罷越し人足少なにあいなり候故自然賃金も引揚げ戦争後そのままに相成りおりしところこの頃工夫一同より。猶賃金を相増しくれ候様募り炭坑本局から種々理解いたし候得ども一向聞き入れず。去る七月二十七日夜よりここかしこに集まり甚だ穏やかならざる模様に相見え取鎮のため巡査方御出張相成りところ上を憚らず石瓦など投げつけ粗暴に及び及びしあいだ炭坑舎員よりこの旨長崎本社へ通知せられ後藤象二郎氏取敢えず県庁へ鎮撫かたを願い位に相成り県庁よりは即刻牛島警部巡査方十人を引率し出張の際工夫どもには金松峠へ群衆いたし居り御説諭にて一時解散の様子に相見えたれ得どもその後またまた大勢寄り集まり巡査方へ対し悪口?しつのり石瓦を投げ既に一等巡査武末君は是が為に疵傷を負われ其の外怪我人等も有之翌二十八日は納屋に火をかけ工夫等ますます乱暴を極めたしところ県庁より猶又六七十人の巡査方を差し向けられ頭立候もの百人余捕縛に相成りたりしより全く鎮静に及びたるは炭坑本局の幸い就中工夫等には平日坑内に神霊ありと恐れをなし故に今般も坑内は荒し不孟また器械等をも破却いたさず然し一時は当長崎市中も人気騒立ち婦女子老人は狼狽いたし居り候猶後報にても上べく候云々。」


『読売新聞』(明治11年8月21日付け)



明治12年

明治13年






「先ごろ司法省の給仕一同が集会していろいろ評議のすえ高木司法権大書記官へ宛て月給増額の儀を書面にして願い出した處其の後何の御沙汰も無かったが二三日後に此の嘆願人のうち重だった佐山、夏目、峯島の三名は免職になりました。」

『読売新聞』(明治13年9月7日付け)





明治14年


◎職工組合・・・・・愛宕下町二丁目の和泉嘉兵衛外八十五人より府下へ職工組合所を設立したいと、この程府庁へ願い出でました。」

『読売新聞』(明治14年1月26日付け)


明治15年


明治16年

明治17年

明治18年


明治19年







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◎職工解雇・・・・・小石川砲兵工廠の村田銃製造の職工百五十名は去る五日解雇されたりと。」

『時事新報』(明治19年3月8日付け)







◎職工常詰・・・・・印刷局にては、これまで紀尾井町なる官報印刷所へ五十名?め、職工を二週間ごとに交代出張せしめ居りしが、時々交代しては不都合の由にて両三日前より交代を廃して常詰となしたりと。」

『時事新報』(明治19年3月20日付け)






◎小石川砲兵工廠・・・・・の職工就業時間は此の程より毎日午前六時半より午後八時までと定め、休息時間を除きて都合十二時間働くことになりたり。」

『時事新報』(明治19年3月26日付け)






◎夜業を始む・・・・・海軍兵器製造所にては、過般来、各軍艦に使用する器械製造の繁忙なるがため、一昨五日より各職工とも夜業を始めたり。」

『時事新報』(明治19年4月7日付け)


◎解雇・・・・・日本鉄道会社にては一昨日其雇工夫百名を解雇せしよし。」

『郵便報知新聞』(明治19年4月7日付け」)





◎職工の無休暇・・・・・小石川砲兵工廠にては、?に朝鮮国より依頼ありし村田銃二万挺の鋳造中にて、右に従事の職工は日曜休みもなく製造を取り急ぎ居るよし。」

『時事新報』(明治19年5月25日付け)







明治20年

 

 






◎車夫の同盟ー東京抱え車夫同盟会ー・・・・・近頃組合の流行するより起こりしものか、府下に今度表題のごとき会を組み立てたる者あり。去る六日新橋際の千歳楼へ集会し、その規則十七条を議定したるよし。その重なるものを記せば、同会は東京に住居する一家の抱え車夫よりなりたち、追っては市中の車夫より、ついで一般の車夫に及ぼす事、同会員たるものは信義を厚くし、下等社会の風俗を改良するの目的を抱き、粗暴野蛮の挙動をなすべからず。会員の近傍に出火ある時は、一同駈け付けて救援をなし、また世話人二名を選挙して事務を掌理せしめ、また会員一同は、毎月二十日までに金十銭ずつを世話人に託して逓信局へ貯金し、事故あるときは金三円以下を無利息にて貸し付ける等なりと居えり。」

『朝野新聞』(明治二十年三月十五日付け)















「◎『新帝国策』・・・・・北村〔川崎〕三郎著・・・・・満目悲壮淋漓陰鬼晝哭するの声を聞くが如く壮士之を読めば凛然として中夜馬を天山に蹴るの志を起さしめ、、、」

『東京朝日新聞』(明治20年6月12日付け)




◎電報欄・・・・・労働者六百余人、郡役所に迫る。高松十一月十六日午後特発。」

『時事新報』(明治20年11月17日付け)



◎六百人の労働者郡役所に迫りたるの詳報・・・・・去る十七日の本紙電報欄内に労働者六百人郡役所に迫る云々の旨を記載せしが、今その詳細を得たれば左に記載せん。頃は去る十五日午前八時のことなりき。讃岐国山田郡潟元村の塩業貧民老幼打ち交えて凡そ六百余人、山田香川郡役所を目掛けて押し進み、郡長近藤縮往氏に面会を請ひけれど、折悪しく不在なりしかば群書記官宮武秀三郎氏代わりて応接し、その来意を尋ねしに、群衆中の総代ともおぼしき者進み出て述べる様、私共は年来?業の労働を勤め、日々人の雇役を仰ぎて賃銭を受け、妻子と共に果敢なき生活を遂げ居るものなるに、今度十州塩田組の規約とやら申すもののために是非半年間は採塩の休業を仕らねば叶わぬとて、既に先月より実行せられ候間、夢かと許り驚きて、一同は殆んど普通の感覚を失ふたることながら、最初の程は種々に工夫し、三飯二汁を一汁二飯とし、次いで粥と改めて辛くも暮らし過ぎせしかど、四十余日を支え続けたる今日に至りては最早致方なく救助を仰ぐより外、道なきことに相成り候。私共の願い條は左せる大義に候はず責めて営業停止せられたる塩田の半ばを該所有者より借り得て採塩致し度事なりさすれば、私共労働者千五百人の露命は相繋ぎ得ることなり。但し、右借り得たる塩田は五百人にて営業し得べければ、残る一千人は浜溝もしくはその他の工事に従ふて、いささか塩田所有者に報い申さんと存ずるなり。委細の事情はこの中に認め置きたれば、哀れ願意を聞き届けらるる様県知事へ進達あり度し云々とて、懐中より一通の書面を出したり。郡書記も気の毒に思ふてや、件の書面を受け納め郡長の帰るを待ちて相談し、万事善きに計らふべければ、必ず心配すべからず大人しく引き取りて吉左右の達するを待つべしと諭しける所、是非只今指令に預かりたしと陳述して容易に引き取るべふも見えざる折りしも、高松警察署より警部巡査出張して又色々に説き諭せしかど、尚ほ聞き入れず、書記も警官も今はほとほと持て余したる処へ、彼の井上勘太郎氏駈け来り、百方これを慰めて懇切に諭せし末、漸く納得して引き取りしが、一時は如何なる騒動に成り行くべきかと、四辺の人びとは安き心もなかりしと云ふ。」

『時事新報』(明治20年11月22日付け)





 

 

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明治21年












◎絨類の不捌け裁縫店の困難・・・・・一昨年の暮れより昨年の春にかけ東京府下は一時洋服大流行にて、これがために裁縫の職工に不足を生じ、職工は手間賃を高張り、洋服店は給金を増して職工の取り合いを始め、或は名ある大店の裁縫店さえ職工のストライキに逢い、迷惑をこうむりたるほどの有様にて、府下は洋服裁縫の開業一時に起こり、ここにも開業かしこにも開業とて神田、京橋、芝の三区は殊に開業の新店を増したりしが、、、」

『時事新報』(明治21年1月18日付け)








[◎長崎烟草刻職工のストライキ・・・・・長崎は煙草の名産地にして同商人も多く、従って其の使役する烟草の刻み職工も数多きことなるが、昨月二十四五日の頃より同職工等は度々集会をなし、遂に同二十七日に至り賃銭を上げざれば就業せずとて総て皆同盟の上罷工したり。中には刻み包丁を始め道具一式迄自宅に持ち帰りたる者も少なからず、たまたま何かどの関係より雇主との情誼巳み難きものなりて就業せる職工なれば、同盟中の首分ともおぼしき者三四十名打ち連れ来りて之を誘い去る程の次第なれば、区内数十軒の同商人は大いに困却し、遂に区役所に伺って説諭を請願せるよしなるが、近来東京は勿論、各地に煙草製造の業起こり、長崎煙草の商標を附して売りさばくものさえ少なからざる内、同県下の島原は屈強の強敵にして、到る所の市場長崎を圧倒するの勢いあり。両地の同業者?て互いに競争中なりしが、島原の製造家は昨年来しきりに高給をもって長崎の職工を雇い入るる等のことあるより、遂に同区の職工等は機会失うべからずとて、この企てに及びたるものその主因にして、同県製造家と職工との関係についても色々六ケ敷約束なるがごときも亦た興りて力なりという。」

『時事新報』(明治21年2月6日付け)








◎長崎烟草職人の同盟罷工・・・・・去る頃長崎の煙草刻み職工は仲間一同申し合わせの上賃銭のことについて罷工せしは当時の本紙上に記載せしが、近着の報によれば、その後長崎区役所より各製造人たちを呼び出し種々説諭せしよしにて、この程に至り職工と製造家の間漸く和解し、いづれの職工も得意の製造家に雇われてこれまでの通り稼ぐことなり。職工らが目的とせし賃銭も先ず旧年内まではそのままになし、置いた旧正月二日即ち去る十三日より幾分か賃銭を増やすはずにして?の局を結びしという。」

『時事新報』(明治21年2月17日付け)



◎職工の騒ぎ・・・・・三重県四日市の煉瓦製造会社の職工九十余名は、去る十七日の夜、同会社工場監督某氏の宅に闖入し来たり乱暴一方ならざりしが、其の末某氏は重傷を負いたりという。元来該工場においては、これまで職工六七名宛を分かちて一組となし之に組頭を置き万事取り扱はしめ居りし処、此の程同監督は今度都合ありて役員の相談を開き右組頭を置くことを廃し、更に職工規則を改むるよしを職工一同に達したり。これより先右の監督は私用にて本国三河に帰省したることあり、且つ同人は同社に入るの前、本国にありて煉瓦製造に従事し、使用せる職工も多かりし等の事よりして、職工中邪推を回らすものあり。今度の規則改正は深き目論見のあることなるべし。此の程帰省したる某、かつて使用せる職工どもを本国より連れ来り、我々を解雇するの心算なるべし。その証拠には云々とて疑心をたくましふして仲間に吹聴し、甲より乙丙と相伝へて遂に互いに相団結し右の始末に及びたるなりという。当夜四日市警察署にては、報を得て早速警部巡査を派し、職工等を捕縛し負傷人を介抱せしめたるところ、一時は全く気絶したる事なれども生命には別条なきよし。但し、その場にて就縛せる職工は六十余名にして、残る二十余名はゆくえを知らず逃げ失せたりとぞ。」

『時事新報』(明治21年2月27日付け)








◎職工の賃金・・・・・その筋にて今度調査したる所によれば、昨二十年中府下日本橋区その他中央数区における各職工賃銭の平均額は一日につき、大工職四十五銭、左官職五十銭、石工六十五銭、煉瓦職七十銭、瓦屋根職屋根職、建具職、ペンキ塗渋職共に五十銭、畳職五十三銭、経師職四十五銭、植木職三十銭、和服仕立て職六十銭、洋服仕立て職五十三銭三厘、木挽き職四十銭、鳶人足三十銭、土方職三十銭、井戸掘り職三十七銭なりしと。」

『時事新報』(明治21年3月9日付け)






◎女工の憤怒・・・・・横浜居留地の商館中には生糸屑物の荷造り或は選り分け等の仕事あるため、日々多くの女工を要し、一日の賃金大体二十銭より十四五銭位なるが其の賃銭上げ下げは時の模様によるをもって常となせども、多くは商館に雇われ居る清国人の差配によることなれば、無情なる清国人は随分過酷の取り扱いをなすことある中にも、此程一の商館において屑物選り分けのため五六十名の婦女を雇いたる中、仕事に不慣れなる婦女両三名ありしとて、其の三人の婦女を殴打したるのみならず、翌日より一同の賃金を引き下げたれば、女工等はかかる不法なる清国人なる商館に雇われるは不安心なりとて、爾来一切同館の仕事をなすまじとのことを相談中なりという。」

『時事新報』(明治21年4月7日付け)





















◎女工の憤怒余聞・・・・・前号の紙上に掲載せし通り、横浜の商館において雇使する女工六十名ばかりは、差配の清国人某の無情なるに憤怒し、一同申し合わせて同館の仕事をなさざる旨を相談中なりしが、右の商館にては其の女工を雇使することを止め、更に他の女工を使用し居るよし。」

『時事新報』(明治21年4月8日付け)




「◎壮士の墓参・・・・・、、、中島半三郎の諸氏ら有志の壮士数十名は上野公園山王台に集まり同志の先輩へ墓参の式を行ふ由。」

『東京朝日新聞』(明治21年5月18日付け)






「◎坑夫の虐待・・・・・高島炭坑々夫虐待の噂については頗る世人の注意を喚起せしが其の實否は容易に知るを得ざれど坑夫待遇は尋常の労力者と同様の法を以てこれを待つ能はざるべしとは何人も承知する処なり。今或る鉱山通の話によれば何れの鉱山にても坑夫を虐待し人身を監禁するがごときは固より有るべからざることなれど鉱山業の性質と坑夫の性質とよりして自然に過酷の取り扱いに流るるの傾きあるはまた止むを得ざる処なり。そもそも鉱山採掘の業たるそのさく出したる鉱物をを以て始めて売買の契約をなすがごとき手ぬるきかけ引きにてはとても充分の利益を得べきものにあらざるを以て何れも先ず第一に幾十日又は何か月間に若干の鉱物を引き渡すべしと予め売買の契約を結びそれ相応の坑夫を使役することなり。故にこの坑夫等にして何れも一人前の仕事を為すあらば会社予約通り鉱物を引き渡すを得るももし坑夫等怠りて相当の働きをなさざる時は会社は契約を履行する能はずして大いなる損失を蒙らざるを得ずさて坑夫等は何れも誠実に仕事を為すやというに決してしからず。彼等はその持前の賭博を為して仕事を怠るなり。元来坑夫の仕事は暗黒なる深坑中に微かなる燈を以て働くものなればその監督充分に行き届き難く且つ鉱脈の軟硬によりさく出の難易あるを以て坑夫がさく出する分量の多少を以てその勤惰を検するを得ず是を以て先ず予め坑夫一人一日にさく出すべき分量を若干と定めそのさく出したる目方に応じて賃金の勘定をなすより外なし。然るに坑夫等は監督の行き届かざるに乗じ日々坑内に於いて各々の燈を一所に集め三々五々此処かしこに団欒して持前の賭博を為す。而してこの賭博には金銭を用いず各々そのさく出したる鉱物を賭するが故にその結果たるたとえば一人にして五六人前をさく出するものある代わりに殆んど空手にて出で来るもの七八人もありて差引きさく出の分量に若干の不足を生じ結局会社としてかの売買の契約を果たすこと能はざらしめ大損耗を蒙らしむるに至るなり。会社は今更に彼等を放逐することも成り難く彼等は甲山を去って乙山に入り乙より丙へと次第に住換えを為すこと容易なるが故に放逐せんとすれば直ちに出で行くなり。さりとて又以上新たに余計の人夫を加ふるわけにもいかずここに於いてかやむを得ず彼らを督責し解雇の法を厳にし時に或は知らずしらず過酷のなすことあるを免れずされば坑夫の待遇過酷に陥る事あるは事実やむを得ざるの数にて敢えて怪しむに足るものなし。然れども近来は坑夫の中往々三百代言の如きものありて過酷の待遇を受くるときは人身の監禁するは刑法に背くものなりとて直ちに其の筋へ告訴するものありて会社を悩ますもの間々少なからず遂にある工業家をして人智の進むに従って鉱業の利益を減少すと歎息せしむる事とはなれり。斯く坑夫の待遇過酷に傾くは鉱山の常なれども会社の役員又は技師などが実地に就いて視察するも更に過酷の待遇を見出すことなし。是固より左もあるべき事なり。かの学校の寄宿生が食物粗末なり、不潔なりとて賄ひの。不平を鳴らす時にあたり幹事が生徒と同食を試みることは往々聞く処なれどもいつも其の時に限り食物鄭重清潔にして更に生徒の訴えるが如き不都合あるを見いださず又其の筋の官吏が前もって通知をなし或は公然名刺を出だして監獄その他を視察すると同様到底その内情を探知するを得ず。いよいよ実情を調べんとならば暫く鉱山の役員となるか又は親しく坑夫に加わるより善きはなし。然らずんばとても充分の調べを為すを得ず云々。」

『読売新聞』(明治21年8月28日付け)




「◎横浜政談演説会・・・・・、、、「条約改正と労働者」弁士、中島半三郎、、、」

『東京朝日新聞』(明治21年11月1日付け)


明治22年













◎田中工場の罷工同盟・・・・・芝浦田中機械製造所は追々事業を拡張して今は府下屈指の工場となり、職工も日々数百名宛出入りしおるが、過般来同工場にて改革を行い、赤羽?兵器製造所の職工某を雇い入れ、工場一部の長に任じたるより、某は直ちに披露かたがた各工場を廻りたるに、其の支配の下におる職工等はいずれも不服の様なれども、先ずその日は穏やかに仕事を仕舞い夕刻退出する折柄、誰の発言ともなく一同頻りに此度の処置に不服を唱え出し、其の夜百四五十名の職工残らず解雇を申し出す事に決定したり。しかも其の中容易に他の業に就くあたわざる老人と弱輩とは残らずこの仲間を脱せしめ、最も技術上に経験ある者を選り抜きて罷工同盟の約束を結び、其の翌日より同盟者一同は出勤せざることとなりたるより、役員等はいずれも不意の出来事に驚き、頻りに奔走して仲裁を試みたれども、一方は彼の某が工長たる間は到底熟和するあたわずと断言し、尚ほ集会を催し、もしこの仲間中にて為めに生計に困る向きもあらば同体中より?金して一時の急を救うべきを約し、更に一々辞職の理由を認め連署して、田中工場長の許に差し出したる書面の終わりに環を画き其の中央に辞職と大書きし、更に環内の周囲を幾多に区割りして其の内に各自の姓名を記したるは、連署の初筆なる人々が発起人たるならんとの疑念を生ぜさらしめんとの工風に出たるなりと。かくして去二十二日迄凡そ一週間は右の騒ぎにて同工場も殆んど休業の姿となり居たるが、尚ほ、その間に立ち入り仲裁する人ありて、先ず彼の工長を他に転ぜしめ、双方遂に熟和の相談を遂げ、一昨日来いずれも出勤することにはなりたる趣き。」

『時事新報』(明治22年4月24日付け)




「◎城泉太郎氏・・・・・府下神田の東京英学院及び女範学校の長たる城泉太郎氏は今度新潟県下において壮年有志の設立せし北越青年倶楽部の聘に応じ、巡回講師として近日彼の地に赴く由。予定二ヶ月間の期限を終わりて帰京までは両所の教務を余人に托し置くという。」

『時事新報』(明治22年5月18日付け)







壮士の送別会・・・・・一昨二十四日午後六時より江東井生村楼において今回渡米する井上敬次郎、井上平三郎両氏のため送別の宴を開きたるが、当日来会者の重立ちたる者は大井憲太郎、新井章吾、富田精策、畑下熊野、遠藤秀景、荒川高俊、仁杉英、渡邊小太郎の諸氏を初め総て八十七名にして、多くは壮士の人々なるが、穏やかに宴会を終わり一同散会せしは十時頃なりしと。」

『時事新報』(明治22年5月26日付け)





「◎工女のストライキ・・・・・甲州北巨摩郡龍崎の某製糸場の工女は製糸の検査厳重にして僅少の過失にも罰金を取らるるを不満としてこの程ストライキしたるの報あり。」

『東京日日新聞』(明治22年7月2日付け)



「◎ストライキ・・・・・姫路の時計会社、五十四余名の職工、、、。」

『東京日日新聞』(明治22年8月16日付け)




「◎職工のストライキ・・・・・大阪北区内の絞油職工中四五十名、、、
。」

『東京日日新聞』(明治22年8月17日付け)




「◎ストライキの計画・・・・・太湖汽船会社の海員、、、
。」

『東京日日新聞』(明治22年8月18日付け)




三百名の工女同盟罷工を試む・・・・・大阪天満紡績会社の職工中には、過般来賃金引上げを請求せんと、折々相談をなす模様ありしが、去る三十日にいたり、午前九時の休工時間をぬすみ、かせ場の女工およそ三百人食堂に集まり、なかんずく重立ちしものの発言により、今日こそ賃金の引き上げの請求をなすべしと相談をなし置き、また正午の喫飯時間を機会とし、同じ相談に時を移し、零時三十分の就業時間に及び、就業の汽笛鳴り渡れども、誰一人工場に上がるものなき故、役員等は大いにいぶかり来たりて食堂を窺えば、今相談の真っ最中なれば、こは何ごとと顔差し出すを見るより、早くも五、六名の工女やにわに役員を囲み、出し抜けに相談の趣意を告げ、とく所望を果たされたしと云い迫りたるに、役員は所望の旨を社長にも協議し、何分の返答を与ふべければ、まずそれまでは常のごとく就業あれよと論説して、各々工場に上らしめしが、午後五時三十分に至りて、またもや均しく業をやめ門前に立ち出で、夜業のために来たれる女工を待ちて、人毎に何か示し合わせし模様なりしも、其の日はそのままにて事やみぬ。しかるに、右女工等は、これより日々その業の手に着かず、ひたすら役員の返答を待ちつつある気色なりしが、ついに返答の遅きに昂激しけん。去る二日午前七時ごろ、およそ三百人の工女同社南手の野道に役員を待ちかまえ、吉村某といえる職工取締りの来たるを見てヒタと取り巻き、八方より賃金引上げの返答いかにと云い迫り、吉村氏は途中にて事穏やかならず、とにかく社内に来たれよとて内に伴い入り、直ちに厳重の取調べをなせしすえ、即座に発頭人を解傭し、その他の者に好く説諭して就業せしめたるよし。しかれどもこの騒ぎは爾後未だまったく収まらず。去る三日にいたっては、機械場の男工にもまたその病の伝染せし形跡ありて、もし役員において所望の幾分を許容せざらんには、男女職工ともに同盟罷工をなさんとまでに決意し居るとのことにて、同社はその門前に、『工女三百名試験の上採用致すべきに付き、望みの者は住所、姓名を記し書面差し出すべし』と掲示したり。」

『読売新聞』(明治二十二年十月九日付け)



紡績会社罷工の後報・・・・・今度の一擧はこの頃米価の騰貴して活計方の難渋なる上同社の職工賃金は堂島紡績所に比すれば一車の手間賃に就き二三厘も低ければ是非引き上げをせよと言い迫り居る次第にて発頭人らの出社就職せざるは勿論他の職工にも種々同意を勧むるより一同は先ず結局の付くまでは仕事を休まんとて誰も押して出社するものなきを以て同社は去る三日まで営業を中止し居れり。この日は役員人力車を飛ばし職工の宅を駆け回りてやむをえずして休職し居る者を選んで出社せしむる都合になしたるが他の一方の罷工連中は同日午後およそ四百名ばかりも同会社並びに堀川監獄硝子製造会社等の近傍に集会して頻りに相談する所ありて其のうち動もせば会社に押しかけんとする気色も見えしかばこの事憲兵第六管区長柄屯所の耳に入り憲兵四名その場に出張して之を説諭解散せしめたる由。尤も四日には会社においてこの発頭人中の重立ちたる男工六十余名女工二十余名を呼び寄せ厳重に取り調べをしたり。」

『読売新聞』(明治二十二年十月九日付け)





◎ストライキの余聞・・・・・かのストライキ一件は爾後あちこちにて集会等をなせば警察署並びに憲兵屯所より巡査憲兵卒等出張して直ぐに解散を命じ会社の方にてはこの機に乗じもし説諭に服せざれば解雇せんとの勢いを示せる程に職工等も弱り切り承服の色を顕わせしにつき会社にても彼等穏当に出るからは物価騰貴につき実際生活上困難なるべければ就業の上勉強の者には賃金の直上をもなし又本年上半期における特別賞金は六月までに入社せし者に限り来る廿日までにそれぞれ配当する事とし就いては職工主任より謝罪書を取り去る七日より業に就かしめ以て漸くここに局を結びたりと云う。」

『読売新聞』(明治二十二年十月十三日付け)








◎東京株式取引所帳付人の同盟罷工・・・・・昨日東京株式取引所にては帳付の者四、五名、残らず罷業したるため、本場は定刻に開くを得ず。会所にては驚きて使いをその許に馳せて呼び寄せたれど、いずれも他出不在にて家に在らず。その後ようやく手馴れたるものを集め来たりて、午後五時始めて手合わせしたるよし。二番目は七時に開くはずなりしが、いかになりしか。また何故に帳付の者が打ち揃って休みたるやというに、この四、五日に非常に忙しくして居残りをなす事も少なからざるより、薄給を訴え月給増加の事を申し出でしに聞かれざりしかば、かくは一同打ち揃い罷業せしものならんという。或は他に原因のある事にや。」

『東京日日新聞』(明治二十二年十二月八日付け)







明治23年



この年、壮士を中心として多くの労働団体が結成された。


労働義侠会」『日本』(明治23年12月7日付け)
「職業協会」『東京新報』(明治24年3月26日付け)
「平権倶楽部」『刀水新報』(明治24年3月10日付け)『あづま新聞』(24年2月25日付け・24年3月6日付け)

「平権倶楽部」は日本社会党の張本人と呼ばれた樽井藤吉や後に常太郎の同志となった和歌山県出身の小笠原誉至夫が設立した社会主義団体。

「活版職工同盟会(東京)」『東洋新報』(明治24年7月12日付け)

労働自由党(群馬県)」『あづま新聞』(24年1月15日付け)

 

「◎東京職工共同商会・・・・・は府下諸職工者の信義共同から成立し勤勉貯蓄の美風を移すを以って目的とし・・・。」

『横浜毎日新聞』(明治23年6月11日付け)



「◎札幌通信ー職工同盟会ー・・・・・当札幌に職工同盟会なるもの現出せり。右は誠に結構なる事なれども他日同盟罷工などの恐れなきか戒めざるべからずと心配する人もありと。」

『国会』(明治二十四年三月三日付け)



「◎芝共働組・・・・・近来の不景気は労働社会に一勢力を作らしめんとする傾向あり。既に題号のごとき団体を見る。」

『日本』(明治二十四年三月二十七日付け)

「◎大日本労働者同盟会・・・・・同会は松本正潔、楠目東志馬、中島半三郎(在米愛国同盟会出身の壮士)、その他数氏の発起に係り、その主趣なりというを聞くに、我が国の労働者は下等社会にして殆んど奴隷に近き所業あれば、この社会の権義を明らかにし、これまでの弊習を矯正するにありという。労働問題ようやく我が国に起こらんとす。」

『大同新聞』(明治23年6月7日付け)

 

「◎労働者同盟会・・・・・先に記載せし松本正潔、中島半三郎諸氏の発起に係る同会は加盟申込続々ありて、其の数凡そ六七十名に達したる由なるが、来る廿日頃その発会式を挙行する予定なりと。」

『東京新報』(明治23年6月10日付け)

 

 中島半三郎は「在米愛国同盟会」の会員で、帰国後に上記労働者の団体を組織し、大井憲太郎らの「大同協和会」にも所属している。また、大井が社長を務めた『あづま新聞』、この新聞は、「労働社会の護り本尊として世に生まれ出でし」『あづま新聞』(明治23年12月18日付け)ものであるが、発刊の際には、「日本労働組」の三浦亀吉(大井憲太郎の元車夫であり車会党の創設者)と共に、中島半三郎が所属する「大日本労働者同盟会」からも祝辞が寄せられている。

 片山潜は『日本の労働運動』の中で、自由民権運動労働運動の先駆と捉え、中島半三郎を冒頭部分で取り上げ「彼は労働狂客と自称し、知人よりは中半と呼ばれつつある人にして、今も尚健在し、労働運動に対する熱心は昔日に異ならずと聞く。」と掲載している。

 『新東洋』(第十四号・明治26年1月19日付け)内の中島半三郎の論文「内地雑居と労働者」の中で中島は自らを労働狂客と自称している。

 

時代を明治21年にまでさかのぼるが、サンフランシスコにいた中島半三郎は「在米愛国同盟会」の命で、母国の大同団結運動に同意賛成の意を表し、東京で開催された大同大会に委員として出席するよう任命されて帰国した。『東京朝日新聞』(明治21年4月12日付け)

 

帰国した明治21年当時、日本の新聞では、中島を「壮士」と位置づけている。

「◎壮士の墓参・・・・・、、、中島半三郎の諸氏ら有志の壮士数十名は上野公園山王台に集まり同志の先輩へ墓参の式を行ふ由。」

『東京朝日新聞』(明治21年5月18日付け)

 

明治21年ころから、中島は労働運動に関わっていくことになる。

 

「◎横浜政談演説会・・・・・、、、「条約改正と労働者」弁士、中島半三郎、、、」

『東京朝日新聞』(明治21年11月1日付け)

 

 中島の思想形成に大きな影響を与えたのがヘンリー・ジョージで、彼の本を日本語に翻訳し紹介したのが、城常太郎と先祖のルーツが同じ城泉太郎である。この城泉太郎と城常太郎はよく間違えられて本に出てくる。城泉太郎は慶応大学出身の社会問題研究家であり、城常太郎は生粋の労働者出身の労働運動家である。

 

社会問題に興味を示していた他の壮士団体を挙げると「◎壮士の団体・・・・・大井憲太郎氏の一派に加担する労働組」『東京朝日新聞』(明治23年9月17日付け)を始め、「日本正義会」、「帝国協和会」、「青年自由党」などの壮士連があるが、これらの団体は一致協議の上近々一大運動をなそうと、その準備に奔走中だったと言う。『時事新報』(明治24年3月17日付け)

 

 「日本労働組」系の壮士団体で労働運動に協力的だった団体には、「大成会」「自由倶楽部」「巴倶楽部」「奥羽同志会」「独立倶楽部」などがある。これらの団体は一致協力して総代46名を選出し、自由、改進両党へ書状を送り労働者の救済を訴えている。

『寸鉄』(明治24年12月6日・13日付け)







「◎職工同盟・・・・・目下仙台に於いて活版印刷の事業に従事する職工は大凡百余名ありて従来雇主と被雇者との関係最も不完全にして其の地位の如きも極めて卑賎の姿なりしが今度此風を一掃し其の地位を高めんとて宮城活版社、千葉活版所、秋葉活版所等の職工が発起にていよいよ職工同盟会なるものを組織し傍ら同社会の救助□□等のため会員は毎月幾分かの積金をなすことに決したりと。」

『読売新聞』(明治二十三年二月十三日付け)





労働時間府下第一の職工場・・・・・過般来その筋において東京府下の各職工労働時間を調査せしに、最も長きは営利を主とする民有の工場なるべしと思いの外その第一は印刷局にして、当今男工十五時間、女工十三時間なりと。」

『時事新報』(明治二十三年三月十七日付け)





◎砲兵工廠の多忙・・・・・此度の大演習につき、小石川砲兵工廠にては早出居残り休みなしにて事務を取り扱い、兵器掛かりの職工などには徹夜するものありと。」

『時事新報』(明治二十三年三月二十日付け)





◎大日本労働者同盟会・・・・・松本正潔、楠日東志馬、中島三郎などといえる諸氏の発起に係わる同会の主趣なりというを聞くに、我が国の労働者は即ち下等社会にして殆んど奴隷に近き所業あれば、この社会の権義を明らかにし、是までの弊習を矯正するにありという。」

『中外商業新報』(明治23年6月6日付け)


「◎大日本労働者同盟会・・・・・同会は松本正潔、楠目東志馬、中島半三郎、その他数氏の発起に係り、その主趣なりというを聞くに、我が国の労働者は下等社会にして殆んど奴隷に近き所業あれば、この社会の権義を明らかにし、これまでの弊習を矯正するにありという。労働問題ようやく我が国に起こらんとす。」

『大同新聞』(明治23年6月7日付け)


 

「◎労働者同盟会・・・・・先に記載せし松本正潔、中島半三郎諸氏の発起に係る同会は加盟申込続々ありて、其の数凡そ六七十名に達したる由なるが、来る廿日頃その発会式を挙行する予定なりと。」

『東京新報』(明治23年6月10日付け)





◎東京職工共同商会・・・・・は府下諸職工者の信義共同から成立し勤勉貯蓄の美風を移すを以って目的とし・・・。」

『横浜毎日新聞』(明治23年6月11日付け)

















◎我が国の貧民と欧米の貧民・・・・・我が国の貧民も欧米の貧民も貧民たるに変わりなきはずなり。彼破れたる衣服を纏へば我も破れたる衣服を着、我れ麦を喰らへば彼もまた之に類する生活をなし、其の地主に責めらるる有様、生活に苦しむ有様異なるはあらざるべきも、唯それ一点の異なる処は我が国の貧民は各所に散在して結合の働きをなすこと能はざるに、かの国の貧民は一所に集合して居るを以って其の結合をなすも速やかに地主もしくは資本家、製造家に向かってしばしば同盟罷工を企てるにあり。欧州近年の製造事業の有様を見よ。労働者同盟罷工のために損害せらるるもの果たして幾何ぞ。現にデンマークが欧州各国政府の力を借りて列国同盟労働者会議を開くに至りたるもの全くこの原因に存するなり。元来世の開明に進むに随ひ貧富の格差甚だしきに至るは世間の通例の事にして、また貧富の格差その度を加ふるごとに同盟罷工の熱度と重なるに至るも亦通例の事なり。而してこの同盟罷工なるものは一に労働者相結合するに非ざれば行なはるべきものにあらず。我が国の如き各個人相分離する処においては容易にかくの如く忌むべき者の起こるべしとは思はれねど、もし将来製造事業さかんに進歩し製造場都?に相櫛比するに至らば終には矢張り同盟罷工の損害を実地に見るに至るべきなり。我が国今日の不景気は頂上に達せるが、もし之を欧州労働者たらしめば其の声頗るさかんなる事なるべけれど我が貧民は未だ世間を騒がすの器械を有さざるを以ってさほどにべうべうせざるは時に取ての幸いなり。然れどもこの貧民が将来必ず恐ろしき階級を造るに至るは鏡に掛けて見るが如し。欧州各国には或は中央政府より或は地方庁よりまた宗教家慈善家より貧民救助の資を供する其の額ほとんど国家歳出の半額に相当するくらいに及ぶも、我が政府は従来これらに向かっては全く無頓着に経過せるは比類なき事実なるも、永く今日のごとき有様を維持すべきに非ざれば、何とか其の辺に工夫を凝らさざるべからず。我が日本人は長く仏教のごときやや社会党めきたる教理の下に生長し、大塩平八郎類似の人間を欽慕したる国民なるのみならず、六十余年前の徳川政府は世界開闢以来未曾有の法令を発し大いに貧富の格差を不都合とし地主、財産家の耕地、財産を没収して平等に貧民に恵与し或は貸借の大赦を行いて貧民を助けたることもあり。(全国には行なはざるも或藩々には実行せり)我が国民はかえってこの不条理なる恐るべき処置を徳とし之を欽慕したる前例もあれば、社会財産平均党と我が日本国民とは旧来余程親密なる関係ありて斯かる恐ろしき事の起こるには便利を有する国柄なればいやしくも我が国政治家を以って自任する人々は大いにこの点に注目し貧民の処分方に意を用いざるべからずとは是も某伯の議論なり。」

『読売新聞』(明治23年6月20日付け)






◎新造の同盟罷業・・・・・よし原江戸二の貸し座敷で近い頃大籬になった八幡楼では、目下米価の高直なるため喰い込み、沢山のお客少々、そこで一同へ南京米を喰はすることにした上、新造の食料として一ヶ月一人前七十五銭と湯銭十五銭づつを内所へ上納するよう申し渡すと、一同は大不平、外の貸し座敷でも水代十銭と糠代五銭は通例の運上、湯銭の点に故障はないが南京米を喰わせる上に食料を取るはひど過ぎると、遂に先月の中頃同盟罷業を企て程なく皆々暇を取りしにぞ、さし当たり内所でも困難を来たしたれど候補者の多い今日、さっそく代わりの新造を雇い入れて別段差しつかえもなく済んだものの、その後幾人代わっても南京米に辟易して、三日と居留まる者はなく、花魁は頗る迷惑なれば、近日一同申し合わせをなし楼主へ向かって新造食料徴収案の建議を提出し、もし聞き入れぬ時は花魁連も同盟罷業せんと昨今こそこそ評議中の由。」

『東京朝日新聞』(明治23年8月7日付け)






「◎足尾銅山労働者の不穏・・・・・野州足尾銅山の薪炭夫三百名ばかりは賃金の割増を会社に強請し警官の説諭を聴かず却って巡査に微傷を負はせしかば足尾分署より警察官出張して説諭を加へ漸く退散するに至れりと云ふ。」

『読売新聞』(明治23年8月12日付け)








「◎壮士の団体・・・・・、、、大井憲太郎氏等の一派に加担する労働組、、、」

『東京朝日新聞』(明治23年9月17日付け)





「◎日本労働組成立の趣旨及び規約・・・・中村敬太郎、三浦亀吉氏等の創立に係る同組合の規約書等を得たれば其の要を左に掲ぐ。
嗚呼、吾人が敬愛する所の青年諸君よ(中略)諸子が将来有為の身をも顧みず徒らに政治社会に狂奔して其の結果一も得る所なく偶々災禍を招き或いは世人中□もすれば卿等を目して無頼徒視する者なきにあらず。豈悲嘆の至りならずや。(中略)吾□□に見るあり。□きに日本労働組を設立し、各自労働□りて自立するの目的となし其の余暇実力を養成して以て他日の大成を期せんがため則ち文武を講習するの處とす。然るに近来世人の往々吾労働組を目して或いは一党派の機関と誤認し、或いは某氏の幕下なり□と言いひ觸し、以て暗に吾組合を□傷せんとするものあり。然れども本組合は或党派の機関にあらざるは勿論他人の幕下に立ち時事の運動をなすが如き卑劣未練の者にあらざる事は本組合の規約に□して明なり。(下略)
日本労働組規約
第一条、第二条、第三条、は略す。
第四条 当組合は時事問題に関し政治上の運動をなさざるものとす。
第五条 当組合は政党に関係を有するものの入組を許さず。
第六条 当組合員は本部の意地費として一か月金五銭づつを出すべし。
第七条 当組合の要旨に反するものあるときは創立者協議の上之を退組せしむるものとす。」

『読売新聞』(明治23年9月27日付け)





◎同盟罷娼のきざし・・・・・吉原角町辺のある貸し座敷の主人は、内々自家の売り物を賞翫(もてあそぶ)し、これを権の君と寵愛し、諸事そのおいらんに切り盛りをさせる所から他のおいらんどもは示し合わして不平を鳴らし、ついに同盟罷娼をやらかそうとの相談を聞き出し、これは大変と主人は驚き、同町の仲良し何某楼の主人に事実を打ち明けて仲裁を依頼し、何某楼の説諭をもって不平おいらんもようやく昨今平穏に鎮定したれど、とかく内々の折り合いがよろしくないかして、花里、夕霧など都合五人のおいらんを広島楼へ住み替えさせたとやら。」

『東京朝日新聞』(明治二十三年十月十二日付け)






◎日本労働組・・・・・同組は有為の青年が自己の労働により其の立脚の地盤を強固にせんため創立せる者の由にて、去二十日飯田町五町目なる事務所に総会を開き規則修正役員選挙等をなしたる由。」

『中外商業新報』(明治23年10月22日付け)















◎日本労働組の総会・・・・・有為の青年が各自の労働により自家立脚の地盤を強固にし、将来の大成を期するがため創立したる同会は一昨午後一時より麹町区飯田町五丁目三十番地の事務所に第一期の総会を開きしに、組合員七十五名来会し従来の仮規則を改正し役員等を選定し午後七時頃解散したりという。」

『東京中新聞』(明治23年10月22日付け)








◎補欠選挙、同盟罷工・・・・・十一月六日大阪発、昨夜(五日)市会を開き市参事会員補欠選挙を執行せしに、谷口黙次、石上儀助の二氏当選せり。宮崎日州新聞の職工、同盟罷工をなし今六日の新聞を休刊せしめたるよし同地より電報あり。」

『朝日新聞』(明治二十三年十一月七日付け)







◎職工五百余名の解雇・・・・・製紙の供給多きに過ぎ全国製紙業者が官業製紙の発売の休止を請願せし由は前号に記す通りなるが、それがため印刷局にては愈々普通洋紙の抄き立てを見合わせる事となれるにや、将たそれには関せざるも普通洋紙の売れ口悪しくなれるためにや、一昨昨日一昨日の両日間に同局王子抄紙部の職工五百余名をことごとく解雇したる由。」

『朝日新聞』(明治23年11月8日付け)




「◎神戸労役株式会社創立・・・・・神戸港における方言、権三(ごんぞう・沖人足)と称するは、外国船の出入りに際し沖合において貨物の運輸積み下ろしを業となし、船舶の多き時は殆んど二千名内外の人数あり、少なくも四五百名に下らざるが、この者等は多く各地より同港に集まりし貧民にて、家なく衣なく又食なきもの多く、賃金を得ざる時は野宿して夜を明かす者十中の八九に居るよし。抑も明治初年のころには一日の賃金一弗位なりしも、追々人数の増加と受負人の競争により漸々下落し、此の頃にて漸く五十銭まで下落したるよし。この一円或は五十銭という賃金が、労役者の手に入れば随分割合のよき賃金なるも左はなくて是には多くの受負人あり。先ず船舶よりは人足受負人なる居留置外人ニコライ及びフラカプトン清国人大南京等に賃金を渡し、彼等は殆ど賃金の半額位を跳ね、之を内国受負人に受け負はしめ、この受負人等は相当の手数料を取り除き、又次の受負人に渡し、斯く転々する間には最初の受負賃金の六七分は受負人に跳ねられ全く労役者の手に入るは漸く一日十七銭位の賃銭となる訳なれば、労役者中糊口に耐え兼ねるより、或は悪心を出し船中にて窃盗杯の悪事を働く者さえ往々ありて、ますます外人より蔑視を受け、国の体面にも関すべく、且つこの惨状を救済し今後沖稼ぎのなき時は陸上諸工場の工夫に使役し、尚進んで全国労役社会の?面をも矯正せんとの趣意にて、今度同港の井上方勝、関清次郎、川村佐己知の三氏外数名発起となり、資本金二万円(一株二十円)を募集し、同港三宮町に神戸労役株式会社を創立する事に決し、すでに県庁の認可を得て目下人足集合所を建築中なるよし。」

『時事新報』(明治二十三年十一月十五日付け)






◎集配人のストライキ日本に起こらんとす・・・・・山口郵便電信局にて過般来集配人ストライキを起こさんとする傾きあり。その訳は、一同申し合わせ人員の増加を願い出しが、当時局長谷川氏が管内巡回不在中にて、據なくその帰局を待ちおりしに、このほど帰局せしにつき、去る八日夜同局長の官宅に詰めかけしに、局長が事故ありて面会を拒絶せしに起因せり。その言う所は今の人員にては中々配達しきれず、春夏の頃のごとく日の長き時にても集配の区域広きため朝は未明に出で、夕は十一時ならでは帰宅休息するを得ず、而して給料はわずか一ヶ月、上等六七円、下等四円位のみ。秋冬のごとく日の短き頃は十二時を過ぎざれば家に帰ることあたわず、この分にては到底その労働に堪えねば、人を増して下され、しからずば給金を増されよ、二者共に聞き届なくば一同手を携えてストライキを起こすの外なしと迫りたりと。」

『国民新聞』(明治二十三年十一月十七日付け)









◎日本労働組合・・・・・同組合にてはこの程より榊原健吉氏を説き、大いに同氏の賛成を得て、同氏を始め高足の門弟諸氏は同組合に加盟し、一昨十八日を以って同組合の文武館において一同に面会して交を訂し、それより種々協議し、その講武の処は晴日には文武館、雨天には榊原氏道場においてする由なり。」

『中外商業新報』(明治23年11月20日付け)








◎壮士日本新聞社を訪ふ・・・・・日本労働組の宮田甚太郎氏は、昨日発行の日本新聞に掲載したる論説に、無礼なる発言という題にて、立憲自由党員河島醇氏に対し、何者の無礼漢ぞ、、、又何者の無識漢ぞと記載したる件に付き日本新聞社に至り、孤憤子といえる人に面会を請いしに、不在なりとて編輯員の仙田謹一郎氏出で来たり、面会して取り消しを求めたるも、同社はこれを謝絶したる由り、追って参社する由を告げて一先づ引き取りたり。」

『国民新聞』(明治二十三年十二月二日付け)






◎水車業同盟罷工・・・・・兵庫県姫路地方において水車業の同盟罷工をなしたる由なるに付き其の原因を聞くに、この水車業の者は同県播磨国飾東、飾西、揖東、揖西の四郡に在り、兼ねて組合を立て毎年十月より翌年五月頃までに水車八十余輌を運転し、およそ七万石余の素麺粉を製出する事なるが、今度素麺製造者(四郡中にておよそ八百名ありと)の協議により是まで素麺粉一石につき水車の挽賃二十銭なりしをあらためて十二銭となすべき旨を議決したるより、水車営業者においては不平を鳴らし、素麺粉一石の高にて八銭宛賃金を減じられては仮に製造高七万石と見積もるも五千六百円の減少なれば所詮それにては水車業の維持成り難く休業するの外なしとて、過日来それこれ協議し追々やかましき紛議となり、随って渡辺飾東郡長、佐藤揖東郡長の如きは双方の間に入りて頻りに仲裁を試み居たる次第なるが、終に其の事ならずして斯かる騒ぎを引き起せしものなりと。尚後況は更に報道すべし。」

『中外商業新報』(明治23年12月13日付け)







◎西陣職工の団結・・・・・京都の特有物産西陣織業に従事する西陣地方の職工は同地有志者植田利七氏外数十名の発起にて西陣職工会なるものを組織し、同地職工の一団体となし、機業の賃金及び労働時間の規定等を立て従来の如くみだりに機主が織物仲買人のために圧倒せられざる様になすことに議決なしたるに付き、明年一月同会の組織会を開く由。」

『中外商業新報』(明治23年12月14日付け)










◎木挽職人のごたごた・・・・・府下に木挽職を業とするもの総て二千有余人あり。これが組合を南組、北組、中組の三つに分かち諸工事の請負等ある時は必ずその組の職人を使用するの規定なるに、同業者にて本所入江町三丁目四番地に住む豊田安兵衛というは近年身代を拵らへしより諸所の請負工事に入札し折々安値をもって落札することあるも、其の実府下の同職を使うより地方の職人を使えば賃金も安く上がり、従って一方の利益に関係するよりいつもこの傳を行いしに、同職どもは大いに怒り彼安兵衛のごときものありては以来仲間は追々困窮に陥るのみ、世間貪欲者への見せしめに彼を鯰にして熱腸を冷んと、にわかに同業者千七百余人霊岸島に屯集し、既に安兵衛が居宅へ襲いかからんとせしを、漸々数名の巡査にて制し止め、漸やく騒動を鎮めたることは昨年十一月中の新聞に記せしごとく、その後本年四月中双方の間を仲裁するものあり。終に熟談の上更に同業の規約を結びし以来七八ヶ月の今日まで何事もあらざりしに、本月十三日安兵衛が海軍省にて官舎新築の工事を請け負いたる事につき同業規約に悖りたる所為ありとかにて、昨今再び同業者は最寄々々へ集会し、一同決議の上安兵衛攻撃を試みんといづれも勢い込んでいるとのこと。」

『東京朝日新聞』(明治二十三年十二月十八日付け)















◎同盟罷業の発頭人・・・・・吉原角町の貸し座敷藤盛楼の娼妓十一名は、近来の不景気にお茶を挽くこと多く、随って楼主はろくろく飯も喰わさぬというので、楼中の娼妓同盟罷業を企て代言人小川某を頼み、その筋へ廃業のことを願い出でたから、楼主は大いに驚き、堀川某を仲裁に入れ、昨今小川へ談判中なるが、この同盟罷業の発頭人は薫、尾車の両人にて、薫は以前放火犯の嫌疑を受け長い間闇がりに入れられ今もって両足に枷の跡のあるつわ者、又尾車はこの春中娼妓一同をそそのかし裏木戸から逃亡せんとして若い衆に押さえられた何れも名うての莫連なるよし。」

『東京朝日新聞』(明治二十三年十二月二十五日付け)











明治24年

◎同盟罷工(札幌一月八日午後特発)・・・・・北海道製麻会社の職工男女四百余名は同盟罷工を企てたり。」

『時事新報』(電報欄 明治二十四年一月九日付け)

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「北海道札幌区製麻会社在勤の組合員諸氏において、
第三十五支部設立申請の件を承諾せり。」
『労働世界』(第38号・明治三十二年六月十五日付け)






◎製麻会社同盟罷工・・・・・昨八日午後一時四十分、札幌発にて或る方に達したる電報に、札幌製麻会社職工男女四百余人同盟罷工せりとありたるよし。」

『横浜毎日新聞』(明治二十四年一月九日付け)









◎職工復業・・・・・札幌なる製麻会社の男女職工二百四十余名は労働時間縮小の儀につき同盟罷工をなせしが、示談行き届き、昨日より従前の通り復業せりとの電報同会社理事の方へ昨夜到達せりといふ。」

『横浜毎日新聞』(明治二十四年一月十日付け)








◎壮士の挙動一変せんとす・・・・・、、、昨今、労働組、青年自由党、弾侠会、神州会等互いに往来し、大いに運動の方針を協議中。、、、」

『中外商業新報』(明治24四年1月16日付け)





在米愛国同盟・・・・・米国桑港において一千余名の壮年輩が組織せる同会にては、かねてその機関として発行し居る自由と名づくる新聞は今度東京より印刷機を取り寄せ鮮明に刷り立てんとて、先頃右の委員となり帰朝せし井上敬次郎氏、頻りに奔走中なりといふ。」

『日本』(明治24年1月21日付け)







「◎真性ストライキの嚆矢・・・・・我国にて是までストライキというものありたれど英米の所謂ストライキと同様の者とは大いに間ありホンの類似ストライキのみ。真性ストライキの行わるる今度より始まる府下一般の石工千三百余名は去る二十三日より昨日まで同盟罷工をなし一人として仕事に出ずる者なく広き府下にても絶えて石切りの音を聞かざりしが右につき石工親方三百余人hじゃ昨日午前十時より槇町の池の尾に会合して協議をなしたれば多分明日より仕事を始むるに至るべしという。そもそも此の同盟罷工を起こしたる原因はというに元来府下に石工千三百余人あり。其のうち親方株三百人ありて去る明治二十三年中組合法を設けたるとき職長が職人を使用する場合には一日の賃金五十五銭以上と確定したれど昨年以来不景気の上に各官省初め重なる諸会社にては何れも入札法にて請け負はしむる事となりたれば親方は競ふて廉価の引きうけをなすより自然職工の賃金三十銭内外に下落せしより職工の内には予ねて之に不平を抱きし者も少なからず遂に去る六日頃より諸所に密会を開き今度のストライキを始めたる者なりと。是が大工や左官一般の職人に伝染せねばよいが。」

『東京新報』(明治24年1月29日付け)







◎石工の同盟罷工・・・・・府下の石工は先に組合を設け頭取副頭取を置き十七の組み分けに別れ、一組に二名の世話係あり。工夫は千余名ばかりなる由なるが、、、工夫等は同盟して工場に出でざるに世話人等は驚きて同旋したるため本日より各出場する。」

『朝野新聞』(明治二十四年一月二十九日付け)







◎石工の同盟罷工・・・・・府下には石工千三百余名ありて、この内職長とでも言うべき親方株は三百人ある由なるが、一昨二十二年中、石工仲間にて組合規約を設けたる時、職長が職人を使用する場合には一日の賃銭五十五銭以上を渡すことに定めたるも、昨年の不景気なるに加えて各官省は言うまでもなく重なる諸会社向にては一般に入札法によりて工事を請け負はしむる事となりたるより、職長等も勢い見積もりを安くして引き受けざる得ざるに付随て、職人に渡す賃金も三十銭内外にまで引き下ぐるに至りしかば、職人等は兼ねてよりこの引き下げに付き、しきりに不平を鳴らしおりしが、終に此の程より最寄最寄に集会して種々評議をつくしたる末、互いに同盟罷工の約束を定め、去る二十三日より以来は一人も仕事に出づる者なく、たちまち各所の工事に差し支えを生ずるに至りしかば、職長等は昨二十八日午前十時より日本橋区槇町池ノ尾に集会して、右の罷工を解くことに付き相談会を開きたるよし。左れば其の相談の結果如何によりては、多分本日より平常の通りに仕事を始むるに至るべしという。」

『時事新報』(明治二十四年一月二十九日付け)







◎府下石工のストライキ・・・・・府下の石工千三百余名は去る二十三日より昨二十八日至るまで同盟罷工をなし、職工長ともいふべき者三百余人は昨二十八日午前十時より槇町の池の尾に会しこの罷工を解かんため協議をなしたれば、多分本日より仕事を初むる事に至るべしといへり。抑もこの同盟罷工を起こしたる原因なりというを聞くに、元来府下に石工千三百余人あり。この内職長ともいうべき親方株三百人ありて去る二十二年中組合法を設くるに際し、職長たるものが職人を使用する場合には一日の賃金五十五銭以上と確定しあるにも拘わらず、昨年以来の不景気且つ各官省初め重なる諸会社にては、何れも入札法にて受負はしむる事なれば、競ふて廉価に引き受けをなすより、自然職工の賃金は三十銭内外に下落したれば、職工の内には兼ねてより不平を鳴らす者少なからざりしが、遂に去る十六日ごろより所々に密会を開き同盟罷工をなすに至りたるものなりといへり。」

『横浜毎日新聞』(明治二十四年一月二十九日付け)






◎石工の同盟罷工・・・・・」

『日本』(明治二十四年一月二十九日付け)





◎府下の石工千三百人のストライキ・・・・・十九世紀の経済社界に一大現象たるストライキは近来欧州にて頗る流行し、ロンドンにては巡査郵便脚夫のストライキありし程なるが、我が日本の東京にても亦このストライキ起こらんとは。府下一般の石工千三百余名は去る二十三日より昨二十八日に至るまで同盟罷工をなし、一人として仕事に出る者なく、この広き東京にても石切の音を聞かざるに及び、職工長ともいうべき者三百余人は昨日午前十時より槇町の池の尾に会し右罷工を解かんため協議会を開きたれば、多分遠からず仕事を初むる事に至るべしといえり。

『読売新聞』(明治二十四年一月二十九日付け)





◎府下石工の同盟罷工・・・・・府下一般の石工千三百余名は去る二十三日より昨二十八日に至るまで同盟罷工を起こし、一人として仕事に出る者なく、この広き府下にても石切りの音を聞かざりしが、右に付き職工長ともいうべき者三百余人は昨二十八日午前十時より槇町の池の尾に会しこの罷工を解かんため協議会を開きたれば、多分本日よりは仕事を始むる事に至るべしといへり。この同盟罷工を起こしたる原因なりというを聞くに、元来府下に石工千三百余人あり。この内職工長ともいうべき親方株三百人ありて、去る二十二年中組合法を設くるに際し、職長たる者が職人を使用する場合には一日の賃銭五十五銭以上と確定しあるにも拘わらず、昨年以来の不景気且つ各官庁初め重なる諸会社にては何れも入札法にて受けつけしむる事なれば競ふて廉価に引き受けをなすため、当然職工の賃銭は三十銭内外にも下落したるより、職工の内には兼ねてより不平を鳴らす者少なからざりしが、遂に去る十六日の頃より所々に密会を開き同盟罷工をば企つるに至りしものなりといふ。」

『中外商業新報』(明治二十四年一月二十九日付け)










◎石工の乱暴・・・・・府下石工職一千三百余名が同盟罷工の事は前報せしが、青山に建築中なる近衛第二連隊営は、日本土木会社の請負いにて、石工は麻布区の永富長次郎請負いなり。しかるに、去る二十八日の午後、その弟子の若者小屋に出でて仕事する最中、突然四十余名の石工ども押し寄せ来たり。右の若者をさんざんに殴打してその場を去れり。これは同盟罷工を破りたる職工と心得て、その仲間の押し来たり、かかる乱暴を行いたるものとは知れたれども、永富方にては承知せず、昨今掛け合い中なりと聞く。」

『東京日日新聞』(明治二十四年二月一日付け)








◎石工罷業の後報・・・・・府下の石工職千三百余名が同盟罷工をせし事は前号に報ぜしが、かねて青山に建築中なる近衛第二連隊営は日本土木会社の請負いにて、石工は麻布区の永富長次郎が請負い一昨昨日もその弟子なる若者五名を派して石工に従事せしめおきたるところ、同日午後三時ごろ突然四十余名の石工押し寄せ、右の若者をサンザンに打?して立ち去りたり。これがため右若者らの中には三名の負傷を生じ目下治療中なりといふ。同盟罷工を破りたる職工と心得、押し寄せたるものならん。」

『東京朝日新聞』(明治二十四年二月一日付け)









◎石工同盟罷工の後報・・・・・過日の石工同盟罷工は未だ全く鎮静という訳には至らざるよしなるが、もし同組合のものにして普通賃銭より安く使役するもの又は使役さるるものあるときは親方職人の差別なく集合して排斥するといいおるよし。」

『東京朝日新聞』(明治二十四年二月三日付け)







「◎平権倶楽部・・・・・」

『あづま新聞』(24年2月25日付け・24年3月6日付け)
『刀水新報』(明治24年3月10日付け)

「平権倶楽部」とは日本社会党の張本人と呼ばれた樽井藤吉や後に常太郎の同志となった小笠原誉至夫らが
中心となって設立した社会主義団体。




 「◎壮士の運動・・・・・府下に散在せる労働組、正義会、弾?文部館、青年自由党、帝国協和会など称ふる壮士連は、退去解散後未だ目覚しき運動をなさざるより、一同協議の上近々一大運動をなさんと其の準備に奔走中のよし。」

『時事新報』(明治24年3月17日付け)






◎同盟罷工(二月十六日大津発)・・・・・近郷麻糸紡績会社の職工六十余名は積立金の事につき同盟罷工を企て、一昨夜(十四日)来、寺院に会合して器械を破壊せんとまで騒立てしが警察署長の説諭により鎮静したり。(電報欄)」

『東京朝日新聞』(明治二十四年二月十七日付け)








◎職工の不平・・・・・近江麻糸紡績会社の職工は毎年一月に一級宛て昇級せしめて給料を増すの内規なるに、本年は一向にその沙汰なきのみか別に慰労の験しさえも興へざりしより、過日来頻りに不平を鳴らして役員に迫り居りしが、到底尋常の議決にては目的を達しがたしとや思いけん、去十五日、六十名の職工残らず休業して大津在馬場村の光林寺に集会し、評議の末総員中より総代十名を選び、同社に向て内規通り進級せしむるか、但しはこの際積立金を返戻するか、二箇条の内其の一を容れられざるに於いては、一同断然就業せざるべしと申し込みたるに、同社においても其の談判の甚だ穏便ならぬを憤り、其の請求を容れずして即日解雇したれば、職工等は愈々激昂しこの上は同社に押し寄せんと一同門前に詰めかけ今や一大事に及ばんとしたるところ、同社員中に仲裁を試みるものあり。その場は無事に退散し、その後大津警察署長の説諭に服して、一同復社することとなりたりという。」

『時事新報』(明治二十四年二月十九日付け)








◎近江麻糸紡織会社職工同盟罷工・・・・・去十四日近江麻糸紡織会社にては午前五時三十分常のごとく召集の汽笛を吹いて始業を報ずるに、百十余名の職工男女共に同盟罷工をなし一人も来る者なきより、該社の役員は大いに狼狽なし且つ其の挙動を憤慨したるも不得止一時休業せり。而して会社にては新に職工を雇い入るるの勢いを示したるより、遂に職工の解雇となり、職工の方より従前のごとく雇い入れ乞うの書面を出し、翌十五日全く事済みとなりたることにより本日(十六日)より従前のごとく紡織に従事せり。一時気息の絶えなんとせし烟筒も再び蘇生して常のごとく黒烟を吐くの好果を得たるは国家の幸なり。今其の原因を聞くに、該社は一昨年以来不景気の影響を受け製織品不揃いにて営業振るはざるより昨年十一月夜業を廃すると同時に役員より職工に至るまで挙げて給額の一割を減殺したりしが、此の程に至り職工男女連署をもって従前の給料に復しくれとの嘆願書を差し出したれども、会社これを容れず、よりて更に各自よりかつて該社へ預け置きたる貯蓄金高千二百円余りを一時に下げ戻れんことを乞いたるも尚聞き入れざるより、一時の憤気に乗じ前陳の次第に至りたるなり云々。十六日付け同地よりの特報。」

『中外商業新報』(明治二十四年二月十九日付け)





「◎日本労働組総会と懇親会・・・・・同会は明二十五日神田連雀町今金において、同組員一同総会を開き同組将来の方針に関し協議し終わりて、幹事淵岡駒吉、中村敬太郎、三浦亀吉、侠客榊原健吉、新場の小安、御前松之助、鈴木千里、市会議員平島喜平の諸氏が発起となり同組員一同及び市内労働者のために大懇親会を開くことに決したりと。」

『国民新聞』(明治24年2月24日付け)




◎日本労働組総会と懇親会・・・・・同会は明二十五日神田連雀町今金において、同組員一同総会を開き同組将来の方針に関し協議し終わりて、幹事淵岡駒吉、中村敬太郎、三浦亀吉(注1)、侠客榊原健吉(注2)、新場の小安、御前松之助、鈴木千里、市会議員平島喜平の諸氏が発起となり同組員一同及び市内労働者のために大懇親会を開くことに決したりと。」

『国民新聞』(明治24年2月24日付け)


(注1)明治15年10月、奥宮健之や車夫の親方三浦亀吉等が車会党を結成。翌11月、党員久野初太郎の演説が集会条例違反となり解散を命じられる。

(注2)岩木春太郎(日本靴工協会幹部)は撃剣家・榊原健吉の熱心な門下生。





札幌通信ー職工同盟会ー・・・・・当札幌に職工同盟会なるもの現出せり。右は誠に結構なる事なれども他日同盟罷工などの恐れなきか戒めざるべからずと心配する人もありと。」

『国会』(明治二十四年三月三日付け)










◎石屋職人の不平・・・・・目下府内に花崗石の細工を業とするもの三百余名あり。去れども兎に角賃金の高きより建築家中或は大阪兵庫徳島等の地方より職工を雇い入れ来たるものもあり。府下の職工等大いに之を不平とし、他国より来りて我々の業を奪うとは不埒なり、府下組合に入り我々同様の賃金を取る事にせざればそのままには置かぬと力み居るといふ。去れども少しは雇い入れる人の便否も思はざるべからず。」

『郵便報知新聞』(明治二十四年三月二十五日付け)









◎石工の苦情・・・・・目下建築家中には府下石工の賃金高きより、大阪、兵庫、徳島等より職工を雇い込む者あるよしなるが、府下三百名の職工は苦情を起こし、組合外の者が侵入して我々の職業を奪うは心得ずとて、非常に激昂しおる由。」

『中外商業新報』(明治二十四年三月二十五日付け)




◎職業協会起こらんとす・・・・・目下職人社会の有様は秩序錯乱して一定の規律なく為に技術は日々に衰弱して賃金は低落し殆んど収拾すべからざるの状況に至れり。今その一例を挙げれば大工は通常一日の賃金四十五銭位なるに競争の甚だしきと近来の不景気に連れ十銭及至十五銭位にて終日労働するの有様にてその他左官屋根屋を始め諸職工とも皆斯くの如き困難に陥れり。これ畢竟職人社会に秩序なく規律なきの致す所なれば若しこの分にて過ぎ行きなば労働者は到底其の苦に堪えざるを以て雇主と雇人との間に軋轢を開くに至るのみならず終いには欧州諸国に行はるる社会党の如き者をも現出するに至らん。事ここに至りては之を救正する事容易ならざるを以て今の内に職人社会の秩序を正し雇人被雇人の軋轢の起こるを予防し従て社会党の我が国に発生するが如きことなからしめんとて牛込区なる佐久間貞一氏外十数名の有志家は職業協会なるものを設立せんと計画し居る由。」
『東京新報』(明治二十四年三月二十六日付け)





◎同盟の兆候・・・・・近来不景気に不景気を重ぬるより労働者の数日々に増加し、漸次その賃金を下落し、雇い主のわがままにのみ傾き、その底止すろ所を知らざる景状あるより、車力、荷揚人夫、及び日雇い人足等の労働者をして、使役者専制の下にのみ屈従せざるの方法を設けんとて、各区内を遊説し廻るものあるよしなるが、既に芝区内には、芝共働組なる一団体結合の萌芽を発したりと。」

『朝野新聞』(明治二十四年三月二十七日付け)






◎芝共働組・・・・・近来の不景気は労働社会に一勢力を作らしめんとする傾向あり。既に題号のごとき団体を見る。」

『日本』(明治二十四年三月二十七日付け)







◎労働者の運動・・・・・労働者日に多くして、賃金日に下り、使用者のわがままに使役せられて底止する所を知らざるは如何なりとて、車力、日雇い、その他の労働者大いに自由主義を唱え、各区に遊説を試むるものあり。既に芝区内、、、。」

『中外商業新報』(明治二十四年三月二十七日付け・欄外記事)









◎労働者の同盟・・・・・近頃不景気の極、我が国又労働社会にも一の勢力作らんとする傾向発生したり。夫は労働者おびただしく増加し、日々の賃金大いに下落し、使用者のわがままにのみ傾き、その底止する所を知らざる景状あるより、車力、日雇い、煉瓦運荷揚等を業とする労力者は使役者専制の下にのみ屈せざる様の方法を設けんと各区内を遊説しあるくものあるが、芝区内には既に芝共働組なる一団体の萌芽を発したりといふ。」

『郵便報知新聞』(明治二十四年三月二十七日付け)








◎京都紡績職工の同盟罷工・・・・・京都に於ける第一絹糸紡績会社にては、此両三日来一の紛議が持ち上がり、殆ど休業同様の姿なるが、今その原因を探聞するに従来同会社の技師兼工場取締長たる工学士廣田理太郎氏は其の次席に在る清家趙九郎氏と何か意見の合わざることありて先頃在職のまま東上し今に帰社せざるより廣田氏股肱の職工共七八名は当時相携えてその職を辞する等の騒ぎありたれども、其の頃は先難なく取締りつきたるも、昨今に至り清家氏が部下の職工を待遇する上に処置を誤れる所ありとて、去る二十三日同社の機関師西川定蔵その他職工六十八名連署して解雇の事を申出で、その理由として清家氏に対する三箇条の要求をなし、一統出社せざれば同会社にては捨て置き難しとて直に重役の相談会を開き右に対する返答はともかく二十五日の正午まで待つべしとて之をなだめ置きたるところ、右同盟者中少々機関のことを心得居る青山鶴雄、長谷川幸三郎の両人は俄に思案を変えて清家氏の味方に加わり、窃に大阪より機関師を招き、一昨早朝より機関に火を入れ運転を始めんとせしかば、他の同盟者は大いに立腹して思い思いに同社の門前に詰めかけ、青山長谷川両人を捕らえて違約の兼を詰問したる末、お株の腕力を持ち出して両人に重傷を負わせたれば新たに大阪より来たりし技師も這々の体にて遁帰り再び休業の姿に至りしゆえ、同社にても今は断然の処置をなすの外なしとて右等の職工には願いのごとく解雇すべしとの事を申し聞けたるより同職工どもは巳に解雇となりたる上は職工規則により翌半月分の給料と本月の給料を申し受くべしとて、またもや同社の門前に詰めかけ、中には二斗樽を持ち来り、立ちながら之を飲まんとするなど容易ならざる模様ありしを出張の巡査は種々に取りなだめて之を制し且同社にても二十八日まで待ち呉れとのことを申し聞け漸くにして取り鎮めたれども此上いかなる椿事を惹き起さんも知れずと大阪朝日新聞に見えたり。」

『国会』(明治二十四年三月二十八日付け)






◎第一絹紡績会社職工の同盟罷工・・・・・予ねて職工の不平喧しと聞きし京都第一絹糸紡績会社の部長心得清家趙九郎氏をは既に同会社が解雇したりと聞き伝へ、職工等は何れも安堵の思いをなしいたる処、此の程に至り、同氏は全く解雇されしにあらずと聞き、またまた男工等不平を生じ、去る二十三日より同盟罷工を起こして一同辞職届けを出し、去る二十五日のごときは六十余名の職工等打?ふて同社へ詰め掛け、重役に向かって談判せんとひしめき合い、一時騒擾を?せしと云ふ。」

『中外商業新報』(明治二十四年三月二十八日付け)







◎第一絹糸紡績会社同盟罷工の終局・・・・・前々号及び前号の紙上に記載せし京都第一絹糸紡績会社職工等の同盟罷工は同社重役諸氏の調停によりて旧技師廣田工学士派の職工即ち同盟罷工者六十余名には罷工中の給料を興えて悉く解雇し、部長心得清家趙九郎氏を部長に上ほし、同氏派の職工若干名を留め置く事となしたるにつき、ここに其の紛争も漸く落着せりと云ふ。」

『中外商業新報』(明治二十四年三月二十九日付け)











◎京都の同盟罷工・・・・・このごろ流行を始めたる由にて、京都織物会社の支配人以下十七人これをなし、次ぎて、京都商業学校に行なわれたるが、今又第一絹糸紡績会社において職工六十九名一人も出社せず、去る二十三日より休業せり。原因は技師に抗するにありと。」

『日本』(明治二十四年三月二十九日付け)






◎諸職人諸雇人の賃金・・・・・此の頃其の筋において農工及び諸雇人の現時平均賃金を取り調べしものを聞くに左の如し。
    一日上等     中等     下等

大工     60銭    50銭     45銭
左官     60銭    50銭     45銭
石工    70銭    60銭     50銭
木挽    50銭    40銭     35銭
家根職   50銭    45銭     35銭
瓦茸   40銭    35銭     30銭
畳刺    70銭    50銭     35銭
活版植字  50銭    25銭     15銭
建具職    45銭    40銭     35銭
経師職   50銭    40銭     35銭
指物職    25銭    20銭     12銭
和服仕立   50銭    40銭     35銭
洋服仕立   70銭    55銭     35銭
鍛冶職   40銭    35銭     30銭
漆器職   60銭    50銭     40銭
染物職   30銭    25銭     20銭
綿打職   15銭    13銭     10銭煙
煙草刻職   30銭    25銭     20銭
版摺職   40銭    30銭     25銭
船大工職   35銭    30銭     25銭
日雇人足   35銭    30銭     25銭



            一月上等     中等     下等

      菓子製造業   10円      6円    1円50銭   
         下男   2円      1円50銭    1円
         下女   1円50銭      1円    75銭」     


『郵便報知新聞』(明治二十四年三月三十日付け)









◎同盟罷工・・・・・愛媛県なる市の川鉱山にては、アンチモニーの買い上げ代価十二銭を六銭に引き下げたることより、工夫は一同休業し総代を選んで鉱山所に到らしめ種々談判を始めたるに、鉱山所の方にてはまたかえって之を好機会とし、この際この方より休山を宣布し工夫らの勢い挫がんとてこれまた魂胆中なりとかにて、工夫らは彼処に四百人、此処に三百人思い思いに寄り集まりてしきりに立騒ぎ居るといふ。」

『東京朝日新聞』(明治二十四年四月九日付け)









◎婦女労働者増加の奇現象・・・・・都下近頃の一奇現象として目する者は婦女労働者が日に月に増加すること是なり。斯くは畢竟男子たる亭主のみの労働にては到底一家数口を糊するを得ざるに至り、従ってこの惨酷なる無形強制が遂に婦人を駆りて労働に従事せしむるに至りしならん。又た近頃体力不相当の年少者が奉公人口入所に救済を求むる者其の数を加え来り旧?以来は驚くべき程の申し込みある由なるが、是は全く我が国の人口が土地に比較して過剰したるの結果に外ならず、言を換えて之を言えば、社会上の生存競争も困難の域に進みたるを知るべし。故に差当たり殖民政庁を拡張するか、人口制限法立つるか、兎に角其の急を救うに非ざれば将来恐るべき弊害を醸生し、社会党共産党の如きもの踵を接するに至るも計られずと、或る経済家は眉をひそめて語りたり。」

『東京日日新聞』(明治二十四年四月三十日付け)





◎女工年限・・・・・印刷局にては女工の年限に制限なきより、貧人の家内共は老年まで勤務することを欲し作業に不利益なれば、年齢五十歳までを標準とし、この年に達する時は解雇することに内定したりという。」

『東京日日新聞』(明治24年5月29日付け)





◎娼妓のストライキ・・・・・洲崎弁天町の貸座敷本鶴楼には上方種のおいらん二十五六名ありて、玉代は五十銭茶屋受けにて随分繁盛の店なるが、此の頃、金龍とて玉川の水にさらしあげた東京肌の美人を抱え、之のみは特に七十五銭の揚げ代を付けて部屋向き万端、他の娼婦より立ちまさりたる取り扱いに、一同は大不平打ち揃って部屋に閉籠り見世張りは勿論馴染みの客をも謝絶して一向に取り合わぬゆえ、楼主は困り切って居るよし。」

『東京朝日新聞』(明治二十四年五月三十一日付け)












◎東京府下各工業組合有志者協議・・・・・去る十五日を以って東京府知事は府下の各工業組合へ左の諭告をなせり。

今や職工社会の実況を見るに未だ一定の規約等を設けざるがために、その事業の進歩するに伴い漸く弊害を生ぜんとす。もし現今の勢いに任じ之を匡救せざるときは実業の進歩に如何なる障碍をなすの恐れなしとせず。故に今に及んで職工社会において現時の状況を察し従来の事情に照らし且つ海外の実例等を参酌し予め其の方法を設け、益々実業の振起を図ること必要なるべし。よって其の組合役員を始め有志者協議を遂げ其の方法等を考究し其の意見を具申すべし此旨諭告す。
明治二十四年六月十五日
東京府知事 蜂須賀茂韶

因て各組合の頭取その他職工有志者は一昨十九日午後三時より京橋区西紺屋町地学協会において会合を開きたり。当日会する者二百名前後にして其の職名は左の二十六種なり。
大工職、左官職、石工、家根職、建具職、ペンキ職、瓦職、鋳物職、鍛冶職、活版印刷職、経師職、畳職、染物職、足袋職、製本職、菓子職、塗師職、諸車製造職、煙草職、造靴職、革職、板木職、彫画職、形附職、煉瓦職、木具指物職
この会は東京活版印刷業組合頭取佐久間貞一氏の首唱にて開きしものなれば、同氏先ず発言して書記に右の府知事諭告文を朗読せしめ、引き続き同氏は其の趣意を簡単に説明して尚ほ全会の同意を求めたる後、左の演説をなせり。其の大要は、

諸君、現時職工の地位たる誠に低きものなれば、之を高め併せてお互いの利益を図り、工業の進歩を謀ることは我々職業者が今日社会に対する義務と存じます。今日の我が国職工社会一般の有様を見まするに、教育というものなければ又道徳もなく実に憐れなる次第にて、之を今日に改良せざれば職工其の人々の生活は退却して終には口を糊することさえ出来ざるようになるべし。もし左様相なる時は欧米で申す所の社会党や共産党の如きもの此日本へも現出するに至るは火を見るより明らかなることであります。是れ畢竟社会の有様が貧富の懸け隔て漸く甚だしきに随ひ、資本家と労力者との間の利害の反対を生ずるに因ることにて、其の弊たる雇主と被雇主の利益を減却するに至り、終に同盟罷工という如き事が起こりましょう。幸いにして我が国には一の良慣習ありて親分子分と唱え、其の間柄誠に親しく親子一家の関係の如くにして、苟くも親方は子分を圧制し子分は親方を怨む抔申す反目の様なく、西洋大製造場の如く其の徒弟と其の主人懸け離れて、徒弟は主人の顔すら知らぬという如き有様はござりませぬ。是れ貧富の懸け隔てまだ全く甚だしからざるゆえとはいいながら、亦我が国特有の事状であります。乍去お互いに雇主の地位を占め居る我々、相共に協力して従此良習慣を保護し職工其の人々を匡救するに非ざれば、如何にして彼等をして前述する如き悲境に陥らしめざる事の出来ましょう。諸君もご承知の如く民法も二十六年一月より施行に相成らば雇主被雇者の権限は其の法律に定められ、お互いに其の権利を主張するの極終には前途の良慣習も自然消滅するに至るべし。何故と申すに民法取得編には雇主は徒弟へ一日一時間づつ筆算を授けざるべからざる定めがあり、茲に五ヵ年の年期契約をなせし徒弟小僧ありたるに、この徒弟三年目に一人前の腕に出来たればとて自?に他に雇われる事ありとせられよ。雇主は三年の間この徒弟のために元入れしたること水の泡となり、直ちに契約に背きしを訴え出でて其の履行を求むるならん。この時雇主もし筆算教授の義務を果たし居りたれば格別なれど、もし否らざる時は裁判官其の契約履行を徒弟に命ずるも、徒弟はイエ彼雇主は被雇中毎日筆算教授の義務を果たさずと申し立て、終にこの契約書は成り立たず無効に帰すに至るべし。この如く民法に規定せられし上は我々は就学させる手立てを考えなくてはなりますまい。ご承知の如く我々職業者の中には、大工左官石屋の如きは今日は赤坂、明日は下谷という様に仕事次第で諸々方に一里二里も先に徒弟を出す職業にて、如何にすれば教授が出来得べきやこれらの手立ても我々の考ふべきことにて、夜学校を興すなり、その他便宜を定めて仕事の妨げにならぬ様に致し、其の学校よりは就業証書を取置く様にせざれば後日の安全も保たれぬ様で御座ります。又茲に能く諸君の考えを煩わしたるは、西洋にては雇主が富裕にて被雇者は貧なれば、貧富の格差甚だしき代わりには同盟罷工など起こりても其の間雇主は之を堪らゆる力あれど、日本にては若し斯かる同盟罷工など申事出来せば雇主其の人々は彼等被雇者の究するを待たずして、自身先ず其の究境に陥り、又被雇者は一致の力無き所より徒らにその間の時を消費し、互いの利益を損傷するに至るべし。よって相互に提携協力して斯かる弊害を招かざることに注意すべき次第と存じます。政府もここに処る所ありて職工条例を起草し、商業会議所に?問せらるるの計画ありと聞き及びましたが、もし左様なる時は是亦我が職業者は之を等閑に付することの出来ざる次第であります。政府にて発布する条例は必ず我々の利益を保護し又時間の制限、雇被雇者の規程等も我が国の習慣に適する者でありましょうが、若し万一左様でなく却って煩果を生じ、終には寧ろ法律なきが増しなりとの嘆を生ずることあらば、如何です。諸君もご承知の如く商法の施行は商業者が国会の賛成により漸く延期しましたが、職工条例も若し如此手数を招くことありとせんか、其の時お互いに政府へ向ひて施行延期を求むる結合力が今日御座りますか御座りません又は如何に改正を求めんかと協議する手段もなき今日なれば、是よりお互いに職業者有志の人々が相集まりて協議し其の方法等を講究するも亦必要なる儀で御座ります。若し否らずして万一民間の習慣に反する法律の出た日には、其の時に至りて職業者の当惑は実に非常で御座りましょう。是れ今日諸君の御勘考を要する訳で御座ります。東京府知事が諭告書を発せられたるを幸い、頭取有志の諸君と共に、お互いに胸襟を開きて職業者の盛栄を期願せんことを望み不?を?からず申し述べた次第で御座ります。

右の演説終るや石工山田藤次郎氏の発議にて佐久間貞一氏に仮会頭、太田資信氏に仮副会頭たらんことを求め、満場の同意にて可決し夫々承諾あり。然るに佐久間氏は是までの手続きその他発言の都合もあればとて太田氏会頭席に就きたり。是において佐久間氏同氏演述の趣意によりて各組合の聯合会を設立せんと欲すと述べ、次でその可否を満場の決議に問はれたしと請求したるに、全会一致にて之れに可決し、次で同氏はこの上は各職業者より一名乃至数名の幹事を選び前途計画の任に当たらしめんと発議せしに、是亦た全員の同意にて決定したり。この時鋳物職堤元成氏は幹事選挙のため一時休憩すべしとの発議ありて休憩せり。休憩後左の諸氏各職業の幹事に選定せられたる旨報告ありたり。

○足袋職作本佐吉、大久保庄五郎○製本職閊上尚蔵、阪本磯次郎○菓子職大住喜右衛門、米津松造、山本林三、宮田清吉、木藤太兵衛○染工河原伊平、白石権左衛門、三浦源蔵、植田房吉○石工清水佐兵衛、山田藤次郎○家根職熱田直次郎○畳職佐藤七蔵、前原伝吉、青木字右衛門○塗師職市島徳次郎○ペンキ職市川吉兵衛○諸車製造千葉大助、西賀藤三郎○瓦職小林仙右衛門、小林七兵衛○左官職杉山清吉、田中亀次郎○煉化職荒井万平、井上伝吉○煙草職太田資信○大工職西川慎二郎、小林五郎兵衛○活版印刷職佐久間貞一○造靴職大澤省三○彫画職小林国次郎○形付職嶋村茂右衛門○建具石川千代松○鋳物職堤元成○経師職川喜田忠兵衛○木具指物職石井亀太郎○鍛冶職平野富三○板木職江川八左衛門、宮田六左衛門

次に全会より東京府農商課員が当日臨席ありしに対して謝辞を述べ、同課員よりは本官等は知事の命によりて出張せしなれば本会の益々歩を進め工業社会の利益を増進せられんことを望むと述ぶ。次で
造靴職大澤省三氏の発議にて本会を「東京工業協会」と称することに決し、又左官職杉山氏の発議にて幹事会を開き、幹事中より仮会頭の指名をもって事務委員七名を選挙することとなし、仮会頭は左の七氏を指名したり。

大住喜右衛門、三浦源蔵、山田東次郎、杉山清七、大澤省三、西川慎次郎、太田資信

終わりて太田氏の発議により会費の事を協議せしに、堤氏の当議にて幹事に選定せられたる諸氏より一ヶ月一名に付き金一円づつ支出せば四十余円を得るにより、それにて相支払うべしとの事に決したり。又同会の仮事務所は京橋区元数奇屋町二丁目十三番地に設置し、来る二十三日には幹事会を呉服橋外柳屋に開くことをも決して、午後六時三十分散会したり。」

『東京日日新聞』(明治24年6月21日付け)















◎東京活版職工組合の組織・・・・・府下数千の活版職工が今回相団結して一の組合を組織せりという。次第を聞くに、本年四月上旬のことなりき。秀英社社長佐久間貞一氏は該職工の団体を組織して営業上の便利を得んと、跡部正道外十二名に旨を授け規約様のものを作りて各社の職工に配布したり。然るに該規約案なるものは逐條営業者にのみ利益ある条項にして職工にとりては不利益のことすくなからざるにぞ、いづれも大いに不同意を唱え、しばしば相談会を催し、遂に該案排除の目的をもって活版職工同志会なるものを設け、談判委員十名を選挙し、五月八日をもって築地二丁目、元都新聞社跡に跡部外数名を招き該案の不都合なる箇条を論駁したる末結局該草案はみだりに営業者の利益をのみ規定して職工を奴隷視したるものなれば、挙げて取り消すというに決定し、即ち翌九日同志会談判委員と跡部らと双方より右取り消しの報告を配布し、ここに該案全く消滅して佐久間氏の計画も水泡に属したり。ここにおいて数千の職工は更に一の団体を作り、之を活版職工会と称し、改めて規約を定めんとて同月十一日烏森の和合亭に会して起草委員十名を選挙し、六月下旬に至りて全く脱稿したれば、本月十二日再び同亭に集会を催して之を討議したり。然るに佐久間氏は之を見聞して大いに驚き、活版職工もし組合を組織して独立するにおいては将来営業者のためにいかなる不利益を来たすや知るべからず宜しく営業者の手裡の属せしめざるべからずとて運動費若干を支出し、配下の職工六七名をして種々その計策に奔走せしめ居るといふ。ちなみに記す。昨日の都新聞に和合亭における去る十二日の集会に国民自由党の中西元治郎氏が議長となれるよう記載しあれど当日の議長は活版職工久保田高吉氏にして元来同職工会には異分子の人一名も関係せず、中西元治郎氏は従来の職業たる活版職工の資格をもって出席したるにて政党員の資格にて出席したるに非ずと。」

『東京朝日新聞』(明治二十四年七月十六日付け)





「◎昆布生産人同盟休業・・・・・北海道日高三石郡の昆布生産人は昆布会社創立の際其の連合組合に加入し其の後昆布生産人連合会議を函館に開き会社の間に於いて前貸金連帯責任の事に付き意見を異にし又た昆布価格の事に関し議合わず漸く纏まるに至りて予定石数の事につき三石郡は壹千百石とし前金貸付を申し込みしが会社もこれに不承知を唱え三百石以上は貸與せずと云い押し問答の末会社は七百七十石までつり上げしも生産人は固く執て動かず大いに会社の処置に対し不平を鳴らし仮令この上は一時休業なすとも会社と共になすを欲せずとてこの程一郡の昆布生産人挙げて休業するにいたりしと。」

『読売新聞』(明治二十四年七月七日付け)





◎東京工業協会・・・・・同会会則は左の如し。
○第一条 本協会は東京府十五区六郡の各種工業組合及び有志者を以って組織し東京工業協会と称す。
○第二条 本協会の事務所は東京市京橋区数奇屋町二丁目十三番地に仮設す。
○第三条 東京府内の工業者は何工業たりとも本会員たることを得。
○第四条 本協会会員は会員名簿に記名調印し本協会の会員証を受領すべきものとす。
○第五条 本協会会員たらんと欲する者は同盟組合又は会員の紹介を以って入会することを得。
○第六条 本協会は工業の進歩を謀り雇者被雇者の関係を親密にし職工の地位を高め徒弟教育を奨励し雇者被雇者の福利を増進するを以って目的とす。
○第七条 本協会は各種工業者の機関となり工業上に関し東京府庁等に其の利害を上申し?問あるときは意見を述ぶべきものとす。
○第八条 本協会会員又は各種工業組合員及び有志者にて前条の目的を達するの一助となるべき事項に付き意見あるものは書面又は口頭を以って本会に建議することを得本会は其の事の緩急に従い定式或は臨時会の議に附すべし。
○第九条 本協会は毎年四期に定式会を開き臨時会は委員之を要用と思?し又は会員の請求あるとき開くものとす但し第一期定式会においては前年度の事績及び費用明細表を報告すべきものとす。
○第十条 本協会は工業者の要務を協議すべきため毎月一回幹事会又は委員会を開くものとす。
○第十一条 本協会は学識名望ある人を賛成会員に推薦すべし。
○第十二条 本協会の会頭は名誉声望ある人より之を推薦すべきものとす。
○第十三条 本協会の幹事は各種工業組合の代表者組合なき工業者は其の有志者より推薦す。
○第十四条 幹事中より委員十名を選出し本会の常務を?任す委員の互選を以って委員長一名を定め本会を代表せしむ。
○第十五条 委員中より二名を選び特に会計事務を監督せしむ。
○第十六条 委員は毎年第一期の定式会において改選すべきものとす。
○第十七条 本協会は委員会の協議により書記若干名を置くことを得。
○第十八条 本協会の経費は会員より徴収す其の方法は本会議決を以って之を定む。
○第十九条 本会の会議は委員長を以って会長とす。
○第二十条 議事細則は別に之を定む。
○第二十一条 本会の事務所移転及び会長委員長の進退は其の時々東京府庁へ届け出づべし。
○第二十二条 毎年三月前年度の事績及び費用明細表并に会員の増減を東京府庁へ上申するものとす。
○第二十三条 此会則を加除更正せんとするときは総会の議決をもって東京府庁の認可を請うものとす。」


『東京日日新聞』(明治24年7月26日付け)






◎洋服裁縫職工の同盟罷工・・・・・府下海陸軍軍服裁縫用達商人に属する職工数百名は、昨今同盟罷工を企てんと日々奔走中なりとのことなるが、其の原因は用達商人が近来職工の仕事なきに乗じ手間賃を低減したるにありとぞ。」

『東京朝日新聞』(明治二十四年七月三十一日付け)










◎石工の集会・・・・・府下の石工百余名は手間賃のことについて、一昨日、外神田花田町の待合小川亭に集会して大会議を開きたるが、同日、石屋連中五百人は日本橋北槇町の待合池の尾へ集会し職工に対する協議をなしたるよし。」

『朝野新聞』(明治24年8月15日付け)





◎棟梁及び職工の集会・・・・・久しく結て解けざる府下石工職人と棟梁との間に起こりし手間賃渡方の紛紜に付き、該職人六百余名は昨日一同休業して外神田待合茶屋小川亭に集会協議をなし、又一方棟梁五百名の方は京橋区槇町の待合池ノ尾へ集まり協議をなしたるよし。」

『東京日日新聞』(明治24年8月15日付け)





◎船員のストライキ・・・・・此の程横浜に入港したる英国汽船某号船長は、航海中、乗組員の日本水夫等を虐使したりとて、同号の横浜に着するやいなや、一同、船長の許可を得て上陸せしまま、未だ帰船せずとのこと。」

『朝野新聞』(明治24年8月16日付け)





◎船長の虐使、船員の罷工・・・・・外国の商船若しくは帆船に乗り組む日本人は近頃減じたる模様なるが、数ヶ月以前は相応に望み人多く、僅かに些少の給料にて火夫コック等に使役せらるることなるが、往々航海中非常の苦役に駆られ遂に病気となり、船中に死し、甚だしきは虐使に耐えかね困死する者さえありし由なるが、此の頃横浜に入港したる英国帆船某号はニューヨークより石油を積み来たりたるが、其の航海中日本の乗組水夫十余名は過酷なる虐使に逢い殆んど死に瀕するばかりなりしも、幸いに無事横浜に着港せしにぞ、日本人乗組一同は去る九日船長の許可を得て上陸し、未だ今日に至るも帰船せずという。」

『東京日日新聞』(明治24年8月16日付け)





◎職工の憤激・・・・・一昨十六日の午後五時ごろ、神田一ツ橋外より神保町辺へかけ、職工体の者ここに十人かしこに五人寄り集まり、何やら密々相談する模様に、尋常ならずと小川町警察所より警部巡査数名出張し件の職人らについて取り調べしに、職人らは総人数八十余名にて、先頃一ツ橋外高等商業学校の新築工事を日本土木会社にて請負い尚またその下請負を飯田長左衛門というが引き受け、右の職人を使用して工事にかかり、昨今大半出来せしも、飯田よりは未だ賃金を一銭も渡さざるより、職人総代何某は飯田長左衛門の出張所なる表神保町十番地に至りて掛け合しに、一昨十六日午後三時までに支払うべき約定なりしにぞ、即ち同日同時ごろ左官大工煉瓦工など八十余名一ツ橋近辺に来たり五人十人と諸所に打ち寄り総代の者を飯田方へ遣わし、賃金の支払いを請求せしに、飯田の弟何某なる者が面会し、実は兄長左衛門は二週間余旅行したれば、留守中賃金のことなど更にわからずとの返答に、職人等はもっての外に憤激し、良しさもあらば是より一同押し出し、新築の学校を打ち壊してこの返報に及ばんと密々相談中なりとのことに、警官は人々へこんこん説諭し、漸やう一同を引き取らしたるよし、その後はいかがなりしか。」

『東京朝日新聞』(明治24年8月18日付け)





◎石工組合分離・・・・・府下石工組合は店持二百七十余名、職人三千許りもありて、従来店持か職人を使うにはなるべく其の居住区内最寄の便宜によりて偏頗なく雇い入るる様の申し合わせなりしが、職人にも各々高下ありて一様の賃金にて(大概六十五銭位)使うには自然不公平を生じて、腕の好き者は不平だらだら仕事を怠りて親方の迷惑少なからず終始の悶着かれこれありたるが、今般店持は協議の上職人組合を断り、爾来は各々勝手に職人を選びて使う事とし、右の趣きを職人組合へ通じたるに、職人組もやっきとなりて神田の小野川に集会し、将来の方向を相談せしが、又かれこれと故障をいう者出で来たりて組合を脱する者も多く、現に或る一派は独立し俗にいう土手組則ち無所属となりて何れの雇人にも応ずる事になりしもありという。」

『東京日日新聞』(明治24年8月19日付け)






◎石工の罷工一先づ落着・・・・・石工夫六百余名が同盟罷工の事を聞くに、近来石工夫一同の賃銭は三十銭より三十五銭までに下がりたるを以って、去る十三四の両日万世橋内の待合小の川亭に集会して協議の上石工頭取に対し一の願書を製し、一日一人の賃銭五十五銭に相当する処の賃銭を以って諸請負を見積もりくれよとて組合事務所に差し出したる上、一同は罷工して動かず、よって頭取幹事取締理事二十五名の棟梁株は日本橋区上槇町なる池の尾に会して差し出したる書面に対し協議せしも、欠席者多くして決議に至らず、一方工夫の方にては休日嵩むに付き、早々願意通り五十五銭に取り決めよと迫り来るを以って、頭取清水佐兵衛は英断を以って申し出通りに取り決めたるより、去十七日を以って紛紜一先づ鎮定したりという。」

『東京日日新聞』(明治24年8月20日付け)



◎車会党領の述懐・・・・・高知県の老壮士雨森真澄翁、今や冷落して人力車夫となる。知人これを見て止めんことをすすむ。真澄肯せず即ち吟じて曰く。
引かるるも引くもよしある世の中に道より外に行く方ぞなき」


『中央新聞』(明治24年8月29日付け)




横浜漆器職工組合臨時会・・・・・横浜漆器職工は従来組合を結び独立に事務所を置きしが、この度都合により売込商組合内に事務所を合併し、同時に規約を改正するはずにて、来たる二十八日貿易商組合会館に臨時総会を開くという。」

『中外商業新報』(明治24年9月26日付け)



◎同盟罷工・・・・・越中新聞の職工は去る一日同盟罷工せり。」

『東京日日新聞』(明治24年11月6日付け)




◎石工の同盟罷工・・・・・府下の石工夫中には近来同盟罷工の弊しきりに行なわれ、同業者の迷惑すくなからざるより、組合員は種々協議を遂げ之を防ぐの方法を設け、明年一月に開く同組合の総会に付し議決の上実行するはずなるが、近来石工の作事は民間の得意大いに減じ、おもに官庁の工事を目的となすも、役所向きは大抵実業者外の請負人ありて、それらのために多分の利益を殺がれ、実業者の手に落ちる利益ははなはだ僅少なるより、随って工夫の賃金も減却するに至り、自然工夫の不平を招き、同盟罷工の幣を生じるに至れるものなりとは当業者の物語なるが、今府下組合にて取調べたる事蹟表により工夫人員及び賃銭の割合を見るに、昨二十三年中の石工現代数は美術工夫二千五百二十人日給一円三十銭より九十銭まで、平物工夫九千七百六十二人日給九十五銭より六十五銭まで、並工夫六万五千百十六人日給七十銭より五十五銭まで、磨工夫七千六百人日給三十五銭より二十五銭まで、手伝工夫六千五百人日給三十銭より二十六銭迄にて総計十三万二千四百二十五人この賃銭七万九千五百八円零五銭なりと。又前に記せるごとく、民間においては市区改正のために一時建築を見合す向きも多きより、工事も減少の傾きにて、工夫の数も前年に比し二千人余を減じたるが、只装飾向きは次第に流行し、石像その他の彫刻物の需用も多く、したがって美術工夫は漸次増加の模様ありという。」

『東京朝日新聞』(明治24年11月12日付け)














◎壮士の団体及び所属・・・・・府下にある壮士の団体は凡て六七あり。其の内硬派に属するは無声館(寺崎某率ふ)在野進歩党(岡田某率ふ)帝国中央団体(中西某率ふ)外一二団あり。軟派に属するは青年義団(後藤某率ふ)振義会(笹川某率ふ)旧労働組の一派(岩尾某率ふ)及び氏家某の一派なりという。」

『東京日日新聞』(明治24年12月4日付け)




◎労働者、書を自由改進両党に送る・・・・・その大要に曰く。聞く諸氏は我が政府に向かい、何事にに限らず新設事業着手を箝制して、剰余金を空しく国庫に陳積せしめんとすと。然れども剰余金を不用に付し置くは国家経済上において巳に不可なり。矧や我々細民は為めに執るべき業なくして手を束て餓死を待つに至るべしと。其の同盟者百五十余名。」

『国民新聞』(明治二十四年十二月六日付け)




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◎労働者書を民党に贈る・・・・・昨五日府下労働者総代安藤良助外四十九名より一書を自由改進両党に贈りたる由なるが、今その大要を摘記せんに、現今我が国議会開設の期に当たり両党諸君は我が国民のために身命を犠牲に供し国家の幸福を増進せらるることと確信し居たりしに、近日道路の伝ふる所にては諸君は何事に限らず新設事業を抑制し剰余金をして空しく国庫に堆積せしめんとの目的なる由。蓋し政府の提出せる新設事業中或は不急の者もあらんがその利害得失を詳らかにせず一概に廃棄するに至ってはいささか疑惑なきあたはず万一右の実行を見るに至らば府内同業者はたちまち餓?の惨状を見るに至るべし。況や剰余金をして空しく庫中に堆積するは国家の経済上素よりその当を得たるものにあらざるをや。たとひ現政府を信用せざるも我々細民をしてみすみす困難の境に陥らしむるは諸君の忍びざる所と確信するをもって、茲に百五十余名同盟中総代を択亭定し嘆訴致しそうろう間我が国全体の利害得失を計較し適当の新設事業を拡張相成りそうろう様御尽力あいなりたく万一ご採用無之においては我々不肖ながら大いに同志の徒を招集し更に上下議員に誓願し微衷を天下の志士に訴え斃れて後止むの覚悟にこれあり云々なり。是も何処ぞに尻押しなどあるにや否や。」

『東京朝日新聞』(明治二十四年十二月六日付け)






◎労働者書を自由改進両党に贈る・・・・・労働者百五十有余名の総代として安藤良介、堀江伊三郎等の諸氏は書を自由改進両党に贈り、政府の新設事業に向かって妄に妨害を加えず?別研究して己等が労働の途を絶たざらんことを請い、且つ曰く、新設事業を何の思慮もなく貴党の勝を得んとの精神よりして之を廃棄せらるるに至っては、我等はこの不景気際、手を束ねて餓孚の惨境に至るべし。而るを諸公において無謀の決議を遂ぐること有らんには、不肖ながら茲に百五十余名の同盟あり。大いに同志の徒を?集し改めて上下両院に請願するのみならず、あくまで微哀を満天下の志士に泣訴し、斃而止矣の精神尊覧に供すべしと云々。」

『東京日日新聞』(明治24年12月6日付け)







◎議会に対する労働者の運動・・・・・過日来、民党と称せらるる代議士の間において、政府より提出したる二十五年度の予算中、鉄道買い上げ、製鉄所新設等の新事業を始めとし、凡そ新規の計画に属するものは悉く之を廃除すべしとの議を主張する者あるを聞き、府下の労働者は斯くては目下の不景気に一層を加え労働者は皆手を束ねて餓死するの外なしとて、既に百五十余名同盟して大いに運動をなさん事を誓い、先ず総代を選定して左の書を自由党及び改進党の事務所へ贈りたるよし。

 謹啓、貴党各位為国家御協力の段、私どもに至るまでも蔭ながら感謝の極に御座候。私ども細民の輩には国家の天下のと申候事慙愧の次第には候得共私ども平素ながら不肖多少部下の者をも指導いたしおり候職分として部下よりの訴願については死生を措き率先尽力すべき侠骨を有しおり候得ば近ごろ失礼の至りには候へ共萬不得止次第より議員諸君に対し左にその梗概を泣訴仕候。私共儀十数年来我が国民のため身命を犠牲に可被供の覚五悟なる自由改進各政党諸君に対し我が国議会開設御後は大いに国民の幸福を増進せらるべき義と確信致し候にも不拘頃日巷閭に伝ふるところを承はるに諸君に於いては我が政府に向かい何事に限らず全ての新設事業の着手を箝制し剰余金をして空しく国庫に陳積せしめんとの御評決をもって之を本年議会に実行せらるべき趣に有之候右は政府より提出の新設事業にして或は不急のものも可有之候得共其利害得喪をも?別せず挙て之を廃棄に付し候に至っては聊か疑惑なき能はず。私共のごとき労働社会においては万一にも右の御決行を見るの暁に至り候はば此不景気柄一同手を束て餓?の惨境に可陥は勿論近ごろ嗚呼ケ間?義には候え共第一剰余金をして不要に?候は国家経済上にとりて不都合至極に可有之第二凡そ国民の幸福を可計機関の運用をも渋停するに可立至如何に現政府に御不信任なれば??て罪科も無之私共細民をしてみすみす困弊せしむべき道理は有之間敷然るに前項の事情に有之候ては直ちに私共身命財産上密接の影響を生じ我が同胞のため黙視ありがたきに付きここに百五十余名同盟中総代を選定し嘆訴奉り候間何卒我が国全体の利害得喪を計較せられ更に政府をして適当の新設事業をば拡張致させ候様御尽力被成下度候若又強て貴党のご意見を貫徹被成候はば其の結果徒に自家の地位を買はんがため故らに政府を攻撃し国民を売り候ものと永く御恨み可申し上げの外無之に付きこの嘆訴にして御採用無之においては私共不肖ながら大いに同憂の徒を?集し改めて上下両院に請願候のみならず飽くまで微哀を満天下の志士に泣訴致し?而後止候の精神を尊覧に供し可申候ご多忙中恐縮の至りに候得共深く細民遍々の至情御?祭の上興望に相副候様党議御革?被成下度此段連署を以って奉願上候泣血頓首。

  明治二十四年十二月五日 
東京市日本橋区大傳馬町一丁目二十七番地 
総代 安藤良介」


『時事新報』(明治二十四年十二月九日付け)











◎労働者懇親会・・・・・一昨十七日午後七時過ぎより牛込区市ヶ谷八幡町のテンプラヤにおいて氏家直国氏を始め外五十名は労働を慰せんため懇親会を開きしが至極無事にて退散しそれより内三十名は何か質問の廉ある由にて中島衆議院議長の宅へ赴きたり。」

『中正日報』(明治24年12月19日付け)









◎労働者再び書を民党に贈る・・・・・府下労働者が民党議員に書を贈りて新事業廃案の不可を論じたる事、及び内閣が細民困難の事情に訴えて新事業に係わる対議会政略の臍の緒を固めたるやの説は前号に記せしが、今度またまた何人の催しにや前と同趣旨の書面を自由改進両党に送りし由。」

『東京朝日新聞』(明治二十四年十二月十二日付け)



明治24年

「◎社会党の領袖九州に赴かんとす・・・・・兼ねて社会党の領袖として其の噂高き牛込若松町の黄金館主小林興平氏が嘗て神代復古同盟なるものを組織し、一時百有余の同盟を得、青山に其の事務所を設立するなど、勢い中々盛んなりしは世人の知る処なるが、政府これを治安を害するものと認め其の同盟を禁止したり。然るに其の後又もや勢力の挽回を奏し、一方には機関雑誌(黄金)を発行し、一方には遊説員を四方に派遣し、大いに勢力を張らんとせしも、黄金館の金庫と聞こえたる和歌山、山口、京都の有志輩は漸々其の財産消費し最早氏の要求に応じて出金する事態はざるに至り、一方には内幕の紛議を生じ一時其の運動を中止するに至りたるを以って、この度熊本の有志西岡敢次、春井太平、福岡の丸田興一等諸氏の招請に応じ、九州地方を風靡するの意気込みにて近々同地へ向け出発するよし。」

『東京日日新聞』(明治24年9月30日付け)




明治25年



◎職工二百余名の解雇・・・・・新橋鉄道廰にては、一昨々日日給二十五銭乃至十五六銭の職工二百余名を解雇したる趣なるが、同廰の職工は元と八百余名なりしに漸次増加して千名以上に達せしも、目下不用となりしにつき斯く解雇したるなりという。」

『国民新聞』(明治25年2月23日付け)








◎東京煉瓦職工組合・・・・・日本橋区本銀町四丁目煉瓦職荒井某総代となり此の程府下の煉瓦商と協議の上東京煉瓦職工組合なるものを設け規約書等を添え右認可の儀を一昨二十二日その筋へ出願せしよし。」

『時事新報』(明治25年2月24日付け)



「◎桑港の愛国同盟者義損金を自由党に贈る・・・・・在桑港の本邦人は去る二十年に愛国同盟なる一団体を結成し、海外万里に在るも猶故国のために策を献じ新聞等を発刊して常に政治の得失を評論する事なるが、右同盟員は昨冬衆議院の解散せられ全国総選挙を行なうの報を得るや、予て主義を同じうするもの自由党の運動を助けんがため各々涙汗の潔財を醵出して、金五十円を正金銀行為替を以って自由党総理宛て義贈し越せりという。」

『国民新聞』(明治25年3月2日付け)




◎亜細亜労働協会・・・・・一昨一日午後より神田開花楼において開会したる同会は、出席者百余名にして中にも侠客労働者多く、信営事早川富太郎、須土橋事増田藤三郎、北海道労働組幹事桶川貞次郎、深川埋立地の親方北川平吉、新世界泰平、三浦亀吉、植田勇知、安藤良介等の人々何れも来会し、先ず議案の議事を開きしが異議無く原案に可決し終わって役員の選挙を行いしに、幹事には早川富太郎、増田藤三郎、外交員には新世界泰平、中村敬太郎、水尾雄吉、洞けん吉、三浦亀吉、三戸政親、岡真人、笹川大介、南波登発、増水吉三郎、会計員には石原衛治、津田官次郎、事務員には南波登発、河村増吉、鈴木立三郎、安藤良介等の諸氏当選し、会頭は某華族に依頼することとし、終わって宴会を開き、同八時ごろ散会したりと。」

『東京朝日新聞』(明治25年3月3日付け)





◎教員のストライキ・・・・・神田錦町国民英学会の分離より成り立ちたる日本英学院は客年中資本主ありて錦町の旧学習院跡の空き地に校舎を新築し、博言学士イーストレーキ氏を始めその他の教員非常に奮発して国民英学会と相競争せしが、生徒も追々増加し相応の収入あり。今は維持の方法も確立する程にまで立ち至りしに、該持ち主たる何某かは諸教師に対して約のごとく報酬を払わざるより、数日前教員一同挙って同院を退き、更に神田猿楽町二番地東京数学院内へ同名の学舎を開き、一昨四日より授業なし居るよし。」

『東京朝日新聞』(明治25年3月6日付け)





「◎府下壮士の現在数・・・・・其の筋において府下に現在する壮士の調査によれば、目下府下に在留する者は合計二千七百余名なるも、実際は六百三十名にて余は何れも仮面壮士なりと云う。」

『国民新聞』(明治25年3月31日付け)







◎鉄道運転手同盟罷工を企つ・・・・・鉄道廳に属せる各工場の職工をはじめ新橋以西浜松に至る各駅停車場の工夫等は此の頃の大改革にて過半の人員を解雇されしが、残る者も半額余の減給となりしため、俄かに職を失して糊口に苦しむ者あり。又減給のため暮らしに困難を感ずる者ありて、寄るとさわると苦情ばかりなりしが、解雇者のうち二三の顔役ありてしきりに内外の者を煽動せしかば、不平の声はいよいよ高まり、昨今は機関師火夫等の面々をも説き付け、遂に一大同盟を作りて罷業せんとの相談略熟し、来る十六日岐阜地破損線路成功全通の日を以って同盟罷業の旗挙げと定め、寄り寄り費金の準備加盟者の団結を強固にすることに奔走中なりということ早くも当局者の耳に入り、驚くこと大方ならず、捨て置きがたき大事なりとて早速重だちたる機関師火夫工夫等を招き、昨今それぞれ説諭中なるが、もし新橋局に属する彼等一同の同盟罷業を実行することならんには或は新橋静岡間に一回の運転をだも見るあたわざるの不幸を見るに至らんも知るべからざるなりといへり。」

『東京朝日新聞』(明治25年4月10日付け)







◎新橋鉄道局内職工の紛議・・・・・新橋鉄道局内の職工百七十名中百五十名は三回に解雇されしが其の解雇職工は各給料に応じ積み金をなし来りしを以って其の金の取り戻しを工長荒橋元七に迫りしに元七は一人前僅かに十八銭の外返金せざるより右請求者青池常三郎外十七名は大いに怒り厳談の末百三十円を受け取ることとなりしに元七は期限に至り返金せざるより遂に元七の財産を差し押さえたる由なるが、尚解雇人夫中には元七の処置を不満とし之を告訴せんと昨今相談中の由なれば汽車役員は非常に心配し居るといふ。」

『中外商業新報』(明治25年4月10日付け)








◎新橋鉄道の職工解雇で同盟罷工の計画・・・・・頃日、新橋鉄道の構内の職工、各停車場の附属工夫等の上に大改革を行い、ほとんど数百名の雇いを解き、かつ残れる者どもの給料を半額にしたる由にて、これら職を失いたる職工どもは、たちまちその日の糊口に困じて、寄ると触るとその苦情のみにて、殊に新橋鉄道構内の職工どもは、かねて工長荒橋元七氏のすすめによりて、積み置きし金員のあるを取り戻さんとて工長に迫りしも、工長は其の約束期日に至るも払いもどさざるより、ついに工長荒橋氏の財産を差し押さえたる上、今回の解雇に就きても工長の処置に不平をおき、かれこれの鬱憤合して、ついに相談の上機関師、火夫その他の職工どもに檄を飛ばして、来る十六日、岐阜、大垣間開通の時を期し、同盟罷工を企てんとす。これに加盟せるものも少なからず。この事早くもその筋の耳にする所となり、これは捨て置き難き一大事なりとて、早速機関師、火夫等の重立ちたる者どもを招きて、厚く説諭を加えたりという。しかしながら、彼等の意気込みは非常なりと言えば、今後いかに治まるべきかと、当局者も心配し居るよし。」

『東京日日新聞』(明治25年4月14日付け)







◎院内銀山の工夫の同盟罷工・・・・・、、、。」

『東京日日新聞』(明治25年5月5日付け)










「◎壮士の運動・・・・・過激派壮士団体侠骨倶楽部、労働組、無声館其の他二三団体の壮士等は院外示威運動をなさんとて昨今しきりに奔走中なりという。」

『東京日日新聞』(明治25年5月7日付け)








微弱なる労働社会に行ないたるの(政府による)改良は往々反対の結果を生ず、注意する所なくして可ならんや。、、、しからば、吾人が日本労働社会の状態を改良せんとするやその策実にこの(労働者の)飢寒と無智とを救済するを以って先とせざるべからず。

「金井博士及び添田学士に呈す」(執筆者:高野房太郎)
『国民新聞』(明治25年5月20日)




◎亜細亜労働会・・・・・、、、」

『東京朝日新聞』(明治25年5月21日付け)



「◎拘引・・・・・亜細亜労働会員、氏家直国、中村敬太郎及び三浦亀吉の三人は一昨十九日午後七時頃、突然警視庁へ拘引せられ、昨二十日東京地方裁判所予審庭において取り調べの末、遂に拘束となりしが、右はかの華族土井邸へ乱入したる壮士服部李太郎外十一名に係る被告事件の連累嫌疑なりと云う。」

『東京朝日新聞』(明治25年5月21日付け)
















◎守衛のストライキ・・・・・衆議院の守衛十六名は、昨朝懲戒免職となりたり。この六名は何か守衛番長の処置に対して不平を抱き居りしが、その内一二のものは他のものに教唆して曰く。もし我ら相率いてストライキをなすにおいては必ず我らの目的を達するを得べしと。すでに去る三十一日の夜をもってその事を実行せんとせしが、故障ありて果たさず、一昨日に至りて十六名の同意漸くまとまり、一片の書を裁して水野書記官長に興へ、もってストライキを実行なせしが、彼らの希望はまったく水泡に属し、昨朝いづれも懲戒免職となりたり。」

『国民新聞』(明治25年6月3日付け)





◎労働者の政治上に於ける勢力・・・・・、、、。」

『国民新聞』(明治25年6月15日付け)





◎工夫虐待・・・・・去る八日北海道札幌地方裁判所予審判事、検事書記並びに巡査数名を随え俄然空知郡岩見澤村へ出張したり。其の何等の事たるやは知るべからざれど、人は云へり。或る工事受負組合において夕張鉄道工事に使役の人夫を御するため土方法律なるものを設け、土工人夫を虐待し、其の惨状甚だしき由。札幌警察署の探知する所となり、巡査を派出して探偵をなさんとしたれども、殆んど別社会の体を形造りて中々其の実を得ず、因って巡査は人夫となりて去る三月中より同組に入り、数多の人夫と共に其の虐待を受け居りつつ其の法律及び処分方等に至るまで悉く探偵の上其の証拠を得て帰札し、其の旨復命に及びたるより突然出張の上同地分署長盛田警部同行、現場に臨み犯罪人三名を逮捕し去る十三日拘引の上目下取調べ中なりと。北海亦高島炭坑あるか。」

『国民新聞』(明治25年6月24日付け)








◎労働制限問題の好運・・・・・該問題は凡そ職工たるものの労働時間に適当なる制限を設け、其の過度の労役より起こる所の困幣を救うの目的にして年来既に欧米諸国に?たるものにて、此目的を達せしめんため諸団体を?り種々の方法を以って其の必要を議会に訴ひ欧米杯は其の勢力益々盛んなるが機漸く熟したるにや。此程合衆国マサチューセッツ州委員会においては工業農業に雇わるる男女職工の労働時間を一週五十八時間に限定するの上院議案の討議をなし大多数を以って可決したる由。労働時間の長短は大規模の事業においては雇主の利害に影響を及ぼすこと少なからざるべし。然るに、我が国の学者社会にもこの事を唱ふ者あるは、いつしか或は両院の議事に上がるが如きこと
なるべきなり。」

『中外商業新報』(明治25年7月2日付け)





◎社会問題の研究・・・・・、、、」

『寸鉄』(明治25年7月5日付け)





「◎品川の大撃剣会・・・・・昨今興行中なる北品川法禅寺境内の花相撲打ち揚げ次第其の場所にて来る七八九の三日間榊原健吉氏外二十名の剣客にて大撃剣会を毎日午前十時より日没迄興行するよし。即ち木戸は大人三銭小人一銭五厘にて飛び入り随意勝った者へは大景物進呈。」

『東京朝日新聞』(明治25年7月5日付け)




























[◎造船廠職工のストライキ・・・・・前の廠長たる黒川勇熊氏は、身は武人なれどもその執る処の手段に至っては、ほとんど商人たるがごとき観あり。職工等に対してもいわゆる手加減なるものありて、ために往々物議を起こしたることあるも、職長及び職工取締り等はいずれもその頤使に甘んじて事に従いたりき。しかるに現今の廠長海軍大佐高山保綱氏は、事を執るすこぶる厳格にして、かりそめにも不正なる事実を発見すれば、一歩も仮借するなく、ピシピシと制裁するを常とせり。しかして平生同僚等に告ぐるに、造艦の事たる一の工業に外ならずといえども、使役する所の職工ないし人夫等は、国家殊に威信ある海軍の事業たるに注意せず、普通民間にある一事業と同一視し、これに従事するがごとき観あるは、はなはだ遺憾の事なりとす。見よ商事社会に醜聞の多き、あに戒めざるべけんやと。氏は実にこの心この方針をもって事に臨み、去る四月就任以来、積弊は漸次これを刷新し、以って海軍の事業たるに愧じざるの実を挙げんとするに注意したり。しかれば従業使役せられたる職工頭等は、事毎とは行かざるも、事実上衝突するの度重なりたる結果、ひたすら黒川氏当時のことを追想し、誰彼に向かって愚痴を溢すに至り、ついに部下を使嗾して、今回の同盟罷工とはなりたるなり。されば彼等は一様に声を振るっていう。前廠長黒川氏の時代には、諸事全て寛大にして、絶えて規則に拘泥せしことなり。故のに職工等はその職に安んじて鋭意事に当たりしなり。しかるに現廠長来任後は規則を半ば改正し、しかしてその改正の都度ますます峻酷となり、到底活動することあたわず。幾度かその苦痛を訴えたるも、一も採用せられずして、かえってますます厳重となり、幾分間の遅刻も厳罰に処せらるる場合となれり。これもはや堪うべきにあらず、故に今回の挙に及びたるなりと。しかして同盟罷工に加わりたる人員、実に左のごとし。
造船廠各工場 組・二百三十九余     職工伍長以下・五千百五十余名
なお同盟罷工に加わりたるは、右のごとく五千百五十余名の職工なれど、十五日の夜暴行をなしたるは、二千六百四十八名なりしなり。]


『東京朝日新聞』(明治25年7月20日付け)











◎大阪各紡績会社職工取締規約を結ぶ・・・・・大阪の各紡績会社が近来事業を拡張するについては互いに職工雇入の競争を生じ、之がため往々弊害を醸すことあるを以って各紡績会社の技師は此の程中ノ島銀水楼に集合して之を矯正せんがため職工取締規約を結びたり。其の要領は職工もし無届にて退社する時は其の積立金を没収すること。会社が職工を雇い入れんとするときは予め其の職工の原籍を取り調べ其の前使用し居たる会社へ差支えの有無を照会する事。もしこの照会をなさずして雇い入るるときは職工一人に付き十円までの罰金を課する事等にして、この外会社と職工間に規約を設け、去る二十三日より実行したりといふ。」

『中外商業新報』(明治25年7月26日付け)








「◎剣客娘連の危難を救う・・・・・標題だけを見て置くと小説の発端にでもありそうなり。横浜賑町の小屋にて目下興行中なる名古屋娘連の源氏節へ一昨三日の午後二時ごろ、近所を押し廻す若者十名ばかり何かこの娘連中に関係筋ありて、談判に来たりしより、娘連は驚き恐れ狼狽する内、一人が表へ飛び出して真向かいの小屋にて興行中なる榊原健吉氏の撃剣場へ駆け込み、只今これこれでございますからお助けを願いますと顔色変えての頼みに、居合わせる剣客数名はソレと言ってめいめい竹刀を携え源氏節小屋へ出掛けたので、若者どもは肝を潰し、お面、お突き、お小手、お胴などとヤットウ流にやられて堪るものか逃げろ逃げろと、蜘蛛の子を散らすが如し。」

『東京朝日新聞』(明治25年8月5日付け)


 

 



◎左官職同盟罷工の紛議・・・・・左官職には棟梁及び手間取の二種ありて、其の関係は棟梁仕事を引き請くれば手間取を集めて之を使ひ、其の給金も一定の極まりなく棟梁は先方より受け取りたる高の内幾分を其の所得とし食事は一切之を給し、例えば五十銭の日給なれば十銭を食料、五銭を棟梁の所得とし残り四十銭を手間取に支払うの例なるが、去る二十三年に至り左官職組合にては棟梁と手間取との関係数十ケ条を定めしも其の規約厳密に過ぐるため実行し難く遂に自然廃止の姿となりしに、手間取の賃金も区々に流れ、近来に至りては余程引き下げしより手間取は苦情を鳴らし、遂に去三日深川八幡境内の紀ノ国屋に会し、組合事務所に向かっては二十三年に定めたる規約を実行し併せて賃金を引き上げんことを乞うの嘆願書を呈し一同組合事務所より何分の沙汰あるまでは同盟罷工をなすことに協議を調え、吾妻橋、永代橋等には人を派して仕事に出かけんとする者を留めて休業せしむるなど穏やかならざる色見えしが、終に其の勢増進して数百名となり伍をなして組合事務所に迫るに至りしかば、事務所にては由々しき大事なりとて様々に之をなだめ役員会を開きて兎に角臨時総会を開くことに決し、去七日を以って日本橋通三丁目寿亭に同会を開会せしに手間取等は多数の勢力を以って目的を果たさんとし同亭の前後をば多数雲集して之を取り囲み、尚ほ和泉町の某寄席並びに近辺の某待合を借り切りてここにも数百名詰め居り、イザと云わば腕力にも訴えん模様ありしが、役員は会議の席に押し入らんとする多勢を説諭して傍聴を許し会議を開きしに、会議は穏やかに了りて二十三年に定めたる規約の通過したるのみならず、賃金も左の如く改正して来月一日より実施することとなりたれば、手間取も漸くに納得し無事解散するすることとなりし由。兎に角一珍事と云うべし。今改正賃金を左に掲ぐ。

           上等     中等     下等
棟梁の受け取り高  七十二銭  六十三銭  五十六銭
棟梁所得      七銭    六銭      五銭
食料         十銭    十銭      十銭
         手間取純所得   五十五銭  四十七銭   四十一銭        」

『中外商業新報』(明治25年8月10日付け)







◎社会問題・・・・・、、、」

『亜細亜』(明治25年8月15日付け・第五十二号)










 





◎煉瓦職ストライキ・・・・・府下煉瓦職は工事受負人に於いて賃銭を縮められて困難なれば、此の程より最寄り最寄り協議して終に昨日頃より一同に休業し、万一申し合わせを破り職に従事するものある節は数名押し寄せ談判する約束にてあれば、請負人等は困却し居るが、何れも賃銭値上げのことに決すべし。」

『国民新聞』(明治25年8月17日付け)





◎煉瓦積職工の同盟罷工・・・・・煉瓦積職工の賃銭は是まで通例一日二十五銭乃至三十五銭位にて、他の職工に比し最も低廉なり。且つ目今諸物価の高値なる折柄にもあれば、旁他職工と釣り合いを保つ程に増賃せられんことを請求すれども、雇い主の方にては、煉瓦積の職業たる最も簡易にして僅少の日数にて能く習熟し得られ、他の大工もしくは石工等のごとく八年十年の長日月を費やして習熟したるものとは自ずから経庭なかるべからずとて、その請求に応ぜざるにぞ。府下の該職工は両三日来同盟して罷工なし居れりといふ。」

『時事新報』(明治25年8月17日付け)









◎ストライキ病・・・・・、、、」

『寸鉄』(明治25年8月18日付け)








◎請負師の決心・・・・・煉瓦積職工同盟罷工をなして請負師を苦しめんと企てたれども、請負師の方にては極暑の場合には工事に不為にもあり、休業することさえある位なれば、別にそれがため差当たりの困難は感ぜざる由。又煉瓦積師の方は一ヶ月間位は可なり同盟を支え得るといふ。」

『時事新報』(明治25年8月18日付け)









◎社会の新結合(其の三・労役者協会)・・・・・労役者の団結に至っては、更に其の効用大なるものあり。労役者とは何ぞや。凡べて資本家のために使役せらるるもの、是也。石工の如き、彫刻者の如き、活版職工の如き、紡績職工の如き、その他一切の事物に傭役せらるる者をいう。何が故に彼らの団結は最も必要なるか。曰く、彼らが社会階級中の最弱者たるがためなり。労役協会の要、其目、三あり。曰く、(第一)友愛的性質。(第二)保険的性質。(第三)自衛的性質。彼らは其の位置において卑く、其の力において微に、其の財において貧し。社会何人も、ことさらに彼らに向かって平身低頭する者なく、追従崇拝する者なく、彼らが苦しめる時に之がために慰めを与ふる者なく、彼らが哀める時に之がために涙を拭う者なく、彼らが病める時に薬を投ずる者なく、彼らが悦ぶ時に赤飯を贈る者なし。然らば彼らは如何にすべきか。彼ら相互に友愛の情をもって相団結し、艱難相救い、慶吊相傾く。斯くの如くならずんば、何を以ってか彼らが生活を楽しましめ、心を安からしめん。保険的の性質とは何ぞや。互いに相ひ積金をなし、以って其の万一に備ふること、是れなり。彼ら日々穫る所、多きにあらず。月に獲る所を積むも、未だ貴人一夜の宴席に供するに足らず。而して時として疾病来たり、時として火事来たり、時として不慮の災難来たる。彼らは何を以って之に耐え、之を凌がん。況や日月は期せざるも、老をもて来たり、老は期せざるも衰をもて来たり、衰は期せざるも、貧と病をもて来る。彼ら何を以って之に処せむ。是れ労役者協会を設け、其の積金をなし、保険的性質を具有せしめ、以って之に備ふることを要する所以なり。若しそれ自衛的の性質に至っては、言うまでもなし。彼らは個人として微弱なり。故に団結し、其の団結の力によりて、彼らは相当の勢力を有し、以って事々に傭役者のために圧制せられ、資本家のために強迫せられざるを期せざるべからず。其の活用の如きは、歴々として欧米諸国の労役者の実況に徴して之を知るを得べし。概して論ずれば、労役者協会を設立するの効用は、(第一)彼等の堕落を防ぐを得べし。何となれば凡て大なる堕落は、大なる困窮より来る。人、初より好んで罪を犯すもの少なし、其の罪を犯すは、固に止むべからざるもの有ればなり。而して彼の団結は、実に互いに相助け、以ってやむべからざるの域に陥らざらしむるを期するものなれば、亦以って彼等をして其の一?、社会尺度の外に堕落せしむるが如きこと無かるべし。(第二)其の風儀を矯正するを得べし。(第三)彼等をして遠慮ある者とならしむるを得べし。(第四)節倹を勧め勉強を励ますを得べし。凡て人の怠惰となり、放逸となり、乱費となる、皆是れ自暴自棄より来たらざるは莫し。彼等おもえらく、働いて貧なり。働かざるも貧なり。寧ろ働かざるの勝れるに若かず。彼等おもへらく、貯蓄するも苦痛なり。貯蓄せざるも苦痛なり。寧ろ貯蓄せざるに若かず。凡て社会の罪悪は、この絶望より来たらざるもの少なし。而して労役者の協会は、積金をなして以って万一に備え、同職者を糾合して以って其の友愛を助け、其の団結力によりて以って自家の位置を維持せんとす。自ら安全を知り、自ら強きを知り、自ら備えあるを知る。ここにおいてか(第五)其の自尊の気象、期せずして生じ、以って自ら其の品格を高尚ならしむるに到るなり。彼の同盟罷工の如きは、要するに労役者協会の一作用として観るべきのみ。彼の労役者同業組合のために、其の労役者の員数を制限し、徒弟の年限を設け、以って其の労役者の賃銭を増加せしむる如きも、亦其の一作用として観るべし。吾人は必ずしも同盟罷工を奨励するものに非ず。然れども是れ最弱者が強者に対する自衛の道なるを思はば、みだりに之を排斥すべき者に非ざるを信ず。若しそれ同盟罷工を行なうの利害得失に至っては、其の場合に存するものにして、未だ初めより之を禍害的のものと独断すべきものに非ざるなり。」

『国民新聞』(明治25年8月20日付け)









◎煉瓦の不捌・・・・・昨今土用中よりは却って厳しき暑気なれば、工事向きもなほ捗々しく始まらず、加えるに過般来煉瓦積師同盟罷工をなし居るため、当用小口も売行出来さざれば甚だ沈滞の成り行きなり。ことに上等物のごときは品支へのために幾分か直押しもある模様なり。しかし中物以下は割合手堅く持ち合へりといふ。」

『時事新報』(明治25年8月23日付け)






◎社会党の萌芽・・・・・、、、」

『中央新聞』(25年8月26日付け)






◎煉瓦職工と受負人の和解・・・・・本月十三日より同十六日まで府下一般の煉瓦職工は同盟罷工をなし、各所に集会して賃金改正の事を協議したるが、その次第は先に会計法発布以来諸官庁の工事といえば何れも同法に基づきて入札をなす所より、各会社又は商会等の間に非常の競争を生じ、その結果として仕手方職工の賃金にも甚だしき影響を及ぼし、到底生活の道立ちがたきまでの有様となりしより、この際協議の上何とか之が救済法を立つべしというにありて、結局煉瓦職工を六等に分かち、一等の賃金を六十五銭とし漸次一等ごとに金五銭づつを減ずることに定めたしとのことを府下煉瓦職受負人へ請求するに決したり。元来煉瓦職工は年中無休の最も多きものにして、寒中は言うに及ばず雨天の日にさえ就業しがたきものなれば、右の請求は決して不当のこと、いうべからず。ついては府下受負人等は過日来集会の上、いよいよ職工の請求を承諾することに議決し、一同契約書に調印したりと。聞くところによれば、従来は大抵煉瓦石千本積み何程、又は一棟の積み手間何程との取り決めをなすことなりしため、職工等は何れもその工事の速やかに出来上がらんことのみを希望し、工事の良否等には一向頓着せざるもののごとくなりしも、自今はこれ等の悪弊を一洗し、一日の就業十時間其の賃金幾何ということに改めたるより、其の積み立て上にも注意を加ふるに至るべく、随って従来の如く火災其の他の予防として建築したる煉瓦家屋が出火に際して一番に焼失する等の不手際は之なかるべしといふ。」

『東京朝日新聞』(25年8月27日付け)







◎煉瓦積職工その目的を達す・・・・・過般の本紙に煉瓦積師のストライキを企てたる趣を記載さしが、その後諸処に集会したる上、遂に煉瓦職工の等級を六級に区別し一級六十五銭とし、以下五銭落として受負師に請求したるが、受負人もその請求のあながち無理にあらざるを見て、府下受負師一同協議の上、遂にその議を容るることとし、それと同時にこれまでのごとく幾本積み幾銭というごとき制を廃して専ら日給に改めたりと。かかる以上は受負師の監督は多少骨折を増すならんが、その積み立て上には幾分か粗漏に流るるの弊を去るならんという。」

『時事新報』(25年8月28日付け)




◎労働時間制限の利害(佐々木多門)緒言・・・・・現十九世紀の下半期は如何に多事多端の時期なるや。一問を解き去れば一題之についで起こり、絶えて安息の日なきに似たり。而して解き去り、解き来り容易に解くべからざる難問は、是れ今日の労働問題なりとす。英国の有名なる政事家サー、ウイリアム、ハーコット曰く。「今日吾等は皆社会党なり」と。是れ戯言に似たりといえども戯言も亦時に事実となるが如く、この言蓋し今日欧米社会における輿論の潮流を指摘したるものという可し。顧みて吾社会今日の有様を観よ。何人も吾人は皆政事家なりと言はん。それ然り。然りと雖も吾人は到底政事家を以って止むべからず。条約改正談判の件は近頃人の頻りに口にする所なり。其の成り行きの如何は事、国家の機密に属するを以って吾輩の能く知り得べき限りに非ずと雖も、今仮に外人の内地雑居を許す暁となれりとせん。吾人が予想するが如く、余裕の外資帝国に流入し、諸般の事業、許多の工作場相ついで起こるや必せり。而してこれ等の工作場において労働するものは本邦人に非ざれば支那人なるべし。然るにモト白晢人は嘗て奴隷を虐使したる残酷の習慣遺伝となりて今日も未だ其の傾きを脱せず、故に欧米の傭主は被傭者を使役すること最も厳酷にして少しも仮借する所なし。是ゆえに本邦においても欧米諸国に擬し、工場取締条例を設け、傭主及び被傭者の関係を規定し、以って労働者を保護せざるべからざるに至るは必然なり。吾人は内地雑居の結果として、外資の夥しく帝国に流れ込むことを知ると共に、知らざるべからざる一事あり。何ぞや。曰く、支那労働者の乱入是なり。世人は多く内外資本の競争、甚だ憂う可きを説くも、未だ日支労働の競売尚一層畏るべきを予期せざるが如し。元来支那人は労働の難易及び其の種類を問わず、執業時間の長きを厭わず、労力の価格即ち賃金の廉不廉を論ぜざるなり。是れ彼等の六?三?にして、能く欧米の労働市場において全勝を制する所以なり。しかしこの兵法を以って吾帝国に闖入せば、吾労働者社会の侠勇果たして之に当たることを得べきや。宜しく猛省すべきなり。以上は是れ今日において社会的問題の一、労働問題研究の必要なる理由を與ふるものなり。其の他現今我が邦において毎歳小作人の数大いに増加し、又一般職業を失うものの多く出づるは世人の能く知る所なり。是れ又今日社会問題を研究するの必要なる理由を指示するものに非ずして何ぞや。如此、吾人は最早皆政事家たるべからず、政論家唯り国家を憂うるものならんや。真に国家を憂うるものは先ず今日において社会の下層、国家の基礎に着眼し、徐に労働問題を講究するものにこそあらめ。。」

『国民新聞』(25年8月28日付け)









◎大工職のストライキ又起こる・・・・・石工のストライキ起こり引き続きて左官及び煉瓦積み職工のストライキ起こり、いづれも首尾よくその目的を達したるが、昨今またまた大工職のストライキ起こり、目下府下の工場につき職工を引き揚げ最中なりと。」

『時事新報』(明治25年8月30日付け)










「◎労力問題・・・・・労力問題まさに我国に起こらんとす。志ある者、今に当たりて、社会の変移に留意警省せざるべからず。」

『国会』(明治25年9月1日付け)



 

 

 



 

 




 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 















 





◎煉化積職工の同盟罷工・・・・・今や職工の同盟罷工は東京府下の流行となり、左官職工等の同盟罷工ようやく調停を告ぐるや煉化積職工等も亦同盟罷工を企て、、、。」

『東京経済雑誌』(明治25年9月3日付け・第639号)











◎政府と社会問題・・・・・社会に生ずる日々の出来事は、紛々として限りなく、而して政府の力は固より限りあり。限りあるの力を以って、限りなき出来事に応ぜんとす。ここにおいてか汗血流れ尽くして事挙がらず、漫に天下の不平を買う。いわんや安然、なすなくして、いたづらに政府の力を以って社会一切の出来事に応ぜんとす。其の民怨の府となる。固より怪しむに足るなき也。故に賢宰相良政治家は、かかる愚かしき事をなさず、其のなすべき事は目下、当然、政府の力を以ってなし得る限りに止め、其の力の達せざる所、もしくは力を用ゆるに足らざる所は、其の一?、一笑の力を以って、社会の自然力をかりて之をなさんとす。今仮に一国の事を分てば、政治的の出来事と、社会的の出来事となすべき、政治的の出来事は政府固より全力を注ぎて之を経営せざるべからずと雖も、社会的の出来事に至りては、其のなすべき所にあらざる事あり。全力を注ぐも区々政治家の独力を以って済すべからざる事あり。例えば貧民の処置の如き、孤児寡婦の救育の如き、知識分配の協会の如き、禁酒の如き、廃娼の如き、道徳進歩の如き、一国の大経綸より、云わば固よりなさざるべからざるの事たりと雖も是れ社会的の範囲に属す。区々政治家の独力を以ってなし得べきにあらず。故に政府のために計る。斯かる事柄に関しては、其の一?一笑の力を用いて、天下の慈善家、道徳家を鼓舞し、天下をして其の風を聞いて起こたしむべし。たとひ国庫より一銭を費やさざるも、一人の吏員を派出せざるも、事実とに易々として挙がるべきなり。我が政府は以上の事柄に対して、従来如何なる処置をなせしか、吾人は之を思うごとに、憐れにも気の毒千万に堪えざるなり。例せば慈善事業の如きは、如何なる政府も双手を挙げて之を賛成すべきに、我が政府の下にある小官吏は政府官吏の夫人が催す所の婦人慈善会とかいう、極めて一小部分の事にのみ熱中して、天下各所にある慈善事業には、冷々として注意せざるのみか、其の手続きをむつかしくして、却って之を妨げんとするものすらあるなり。或は貧窮なる小児にして、就学する能はざる者を集めて無月謝の教育をなすものあれば、小学校例によりて、是非とも適法の教員を聘すべし。然らずんば閉校すべしなんどと命ずるなど、奇怪千万の事少なからず。其の他廃娼の如き、禁酒の如き、道徳進歩の協会の如き、皆な官吏の陰ながらの妨害のために少なからぬ不利を蒙むるなり。是れ固より小官吏の事を解せずして、以上の社会的改進の事業に反対する者に教唆せらるるによるなるべしと雖、深く其の本源に遡って之を論ずれば、当局の大政治家が、其のなすべきの職分は、唯だ薄書法令の間に存ずとなし、或はまた一派の守旧家は、是非とも政府の力を以って之をなすべきものとして、其の民間人士の手によりて経営せらるるをいさぎよしとせず、法律ヅクメに民間の社会的事業を妨げ、自家の力の達する範囲内に追い込まんとするによらずんばあらず。何れにしても政府の力は限りあり、社会の事限なきは明々白々の道理なれば、政府は以上の社会的事業をなすものに対しては、感謝の意を表すること至当なるに、汲々として之を妨げんとするが如き傾あるは、吾人がとつとつ怪事と思う所なり。天下、政府を直とせざるの心あらば、この辺の事に従うものまた其の一人たるを察せざるべからず。」

『国民新聞』(明治25年9月10日)







◎府下大工職のストライキ・・・・・、、、」

『東京朝日新聞』(明治25年9月11日付け)








◎石炭坑夫の同盟罷業・・・・・三菱橋間炭坑の坑夫三百人休業して不穏の模様あり。警察官吏ために出張するに至れり。事の起こりは採炭の紛失にあり云々との電報、去る十四日長崎発にて或る方へ達したり。」

『東京朝日新聞』(明治25年9月17日付け)







◎炭礦坑夫の同盟罷工・・・・・長崎県西彼杵郡端嶋炭礦社の坑夫三百余名、去る十二日同会社員と何か説を異にし、会社に向かって請求する所あるため同盟罷工をなしたりとの報道浦上警察署に達せしより、同警察署長は該夜同地へ出張せしに、些少の行き違いより起こりたる事にて、其の原因等判然せしにより無事に終局したりといふ。」

『時事新報』(明治25年9月21日付け)





大井氏・・・・・大井氏は常に壮士に金を与ふるを喜ぶ。大井氏の宅は、あたかも壮士の合宿所のごとし。」

『神戸又新日報』(明治25年9月21日付け)

 





◎職工賃銀の前途如何・・・・・昔は大工左官等の工銀を米価より割り出し概ね其の食用米価の二倍を給するを一日の工銀とす。例えば米一石の価一円ならば一升扶持の職工は一日三百丈、六合扶持は百八十丈を給する類なれば、今の米価が一升十銭として一日三十銭の工銀は昔時に釣り合うものの如きも、昔と今とは力役下流の社会にても時勢の変遷に伴はれ生計の程度自然に変化し居れば、右等の比較は昔し談りの種にして今日に用なく、随って其の工銀も次第に騰貴し、明治五六年の頃には大工左官等凡そ一日常雇の工銀四十銭、他の人夫は三十銭に迄引き絞りしが、其の頃より目今迄殆んど二十年の間において西洋の文物も日を追って輸入し、諸工事の如きも層一層の進歩を興へ同時に諸般の費用も嵩み、職工等が生計におけるも其の度を高めしは勿論なれども、工銀の点に至りては此間わずか五銭方を進めしのみにて差したる変化を示すを見ず、斯かる有様なれば、其の技に長ずる長所によって工銀を増収すべき道もなければ、遂に常雇仕事は職工社会の嫌うところとなり、俗にいう数ゴナシ即ち分担受負いの仕事を好み二人手間三人手間と見積もりたるものを一日又は一日半に叩き付け漸く一家生計の補欠に充つるにぞ。技芸の上達巧妙の手際を研くに余裕なく、何れも駄物師の流行して今や将にこの風習は職工の性と成行く有様なれば、歳月を経るに随い数コナシの巧みなるを期するのみにて、上等優技の職工を見ることは思いもよらざることなるべし。然れども学士あり技士ありて宜しく之を使役するとせんか。将校独り軍法に巧みなるも部卒に精兵のなかりせば何ぞ三軍の勝利を戦地に望むべき。されば建築上における職工の良否も又然らん。加之ならず現時職工が食料の程度を見るに、凡そ欧州諸国の程度とは遥かに優れるものの如し。何となれば仮に東京府下の工場弁当なるものは三食即ち一日十銭にして仏京抔の工場弁当は一日二十五銭なり。されば彼れは三円五十銭方の程度を進め居れる様子なれども、其の工銀は普通一日一ドル半一ヶ月は四十五ドルなるが故に右の七円五十銭を引き去る三十七円五十銭の余裕を呈し、我は残て十円五十銭なり。故に食料の程度は其の得る処に割合ひ我方の進めるものの如くにして却って得る処少なく、然らば之を過当の食物なりとせんか。否仏京二十五銭とは敢えて優劣なかるべし。以上の如くなれば食料の程度においても既に不利益の地に立てり。猶其の他欧州にありては職人の階級最も正しきが故に進歩の道も広けれども、大工といえば四十五銭、石工といえば六十銭、人夫といえば三十五銭と定まりたる暁には二十年間も動きなく好し取り付けに妙あるも鉋遣いに優れる大工も其の技を売るに道なきより、結局上文に記するが如き駄物師即ち数コナシの性を作りたるは又止むを得ざることなりし。以上述ぶるが如き情態なるが上にも、昨今は工事の稀れなるより職工の閑散を訴るも少なからず。之と同時に安仕事の益々行なはるる有様なれば、近時同業社会にも工銀上の等差については一変動も引き起こすこともあらんとなり。」

『時事新報』(明治25年9月28日付け)




 






「◎大井憲太郎氏・・・・・の茨城行き、関東壮士三十余名を率ゆ。」

『神戸又新日報』(明治25年9月29日付け)







◎東洋社会党起こらんとす・・・・・、、、

『読売新聞』(明治25年105日付け)



 

東洋社会党・・・・・賭博律廃止の目的を以って創立せる東洋義勇会は宮地茂平、津田官次郎等百余名の壮士的人物の組織せるものにして、過日来会員を埼玉、茨城等に派出し同志者を募りたる処、賛成者続々あり。大阪、宮城等よりも入会を申し込むものあるを以って、今回全国各地へ遊説員を派出し、甲、常、野の三州を立脚の地と定め、本月下旬を期して東京に大会を開き、東洋社会党と改称して帝国議会に対し賭博律廃止の運動を試み、且つ労働者、鉱業者及び小作人等を保護して、雇主、山主、地主等の圧制を除かん覚悟なりと云う。」

『日出新聞』(明治25年10月7日付け)











 

「◎社会党運動の萌芽・・・・・、、、」

(東京経済雑誌644号 明治25年10月8日)








「◎東洋自由党の結党式・・・・・、、、」

『東京朝日新聞』(明治25年10月8日付け)






「◎下等労働者の租税軽減運動・・・・・芝南佐久間町に設立しある郷風舘員主唱者となり。広く同志を募り第四期議会に下等労働者の負担に係る租税の軽減を請願せんと已に調査に着手し不日其の部署を定め先ず在京の代議士に向かって遊説を試み其の結果より猶社会に不平等なる租税を負担する者に対しては甲乙を論ぜず同一の目的を以て租税の軽減を請願するの決心なりといふ。」

『読売新聞』(明治25年10月11日付け)








「◎社会問題の新潮・・・・・事実は常に智識に先だつ、、、見よ、東京府下の石工は、すでに同盟罷工を試みて、其の要求の幾分を成就せしにあらずや、煉化職工も、近日においてこの手段を踏襲し、また其の請求の幾分を達したるにあらずや。、、、」
『国民之友』(明治25年10月13日付け・第百六十九号)










「◎日米用達会社の組織・・・・・日米用達会社なるものを米国桑港に組織せんとする企てあることは彼国及び本邦諸新聞の記載せし処なるが、先月下旬に至り愈相談?まり組織を全うすることとなり、既に執務を始めたるが、設立発起者は在留本邦人菅原傳、松岡辰三郎、日向武、敷津林傑等の諸氏にして、桑港パウエル街第九番に事務所本部を設置せりと。而して日米用達会社の事業は在留本邦人及び本国人の漫遊旅行、荷物の発着、書信の往復及び労働者の周旋等総ての用達をなすものなりといふ。」

『時事新報』(明治25年10月19日付け)








◎製本職工の同盟罷工・・・・・府下和洋製本職工は賃金低下して大いに困難するに付き、過日来時々会合して賃金増加運動をなし、昨日も百余名神田錦町三丁目職工某方に会し、結局製本屋にして其の請求を容れざるにおいては同盟罷工をなすことに決心したり。又右につき府下製本屋六十余名は呉服橋外柳屋に会し、職工の請求即ち賃金を増加すること、技芸の進歩を図ること、技芸の進歩を図るには製本屋において相当の保護方法を設くること等につき協議したるが、大体は之を容るることに議決し、細目に渡りての協議は後に譲ることとして散会せり。」

『東京朝日新聞』(明治25年10月16日付け)






◎府下製本職工の運動・・・・・府下和洋製本職工は年々技芸の進歩熟練をなしつつあるに拘わらず花主なる各製本屋は依然従来のままに打過ごすのみならず、却って近来は其の賃金も低下し為に職工は非常の困難を来たし時節の衣食さえ不自由を感じ、過日来此処彼処会合し賃金増加の事につき運動中なるが、毎に警官の注意もある位にて、昨日も右職工百余名は神田錦町三丁目職工某宅に会合し協議を凝らしたる末結局各製本屋にして職工の請求をいれられざるにおいては同盟罷工をなし人力車夫又は土方等に職換えをなし製本屋に非常の迷惑を感ぜしむる決心なりと。右に付き府下製本屋六十余名は午後より呉服橋外柳屋に会合し職工の請求の
一、賃金を増加すること。
一、技芸の進歩を図ること。
一、技芸の進歩を図るには製本屋において相等の保護法方を設くること。
右の廉々に付き種々協議を尽したるが、大体においては右要求を容るることに議決し細目にわたりての協議は律に譲る事に決し散会したりと。」


『国民新聞』(明治25年10月16日付け)









◎東京府下の石工・・・・・は十五日より値上げして、一人一日七十銭の手合賃となしたり。」

『神戸又新日報』(明治25年10月19日付け)






「◎府下大工職・・・・・三百余名、寿亭に大会をを開く」

『神戸又新日報』(明治25年10月19日付け)





◎社会党となるなかれ・・・・・、、、]

『都新聞』(明治25年10月20日付け)








◎同盟罷工至る処に起る・・・・・石工、煉化積職人は、すでに同盟罷工によりて、希望の幾分を達したり。ここにおいてか東京府下の大工も、また同盟罷工を起こしたり。製本職工もまた然り。、、、」

『国民之友』(明治25年10月23日付け・第百七十号)















◎社会問題の半面・・・・・吾人が所謂る社会問題とは、貧富の間に生ぜんとする争いを、未萌に防ぐるの問題なり。好し未萌という能はざるも、其の流弊甚だしからざるに方りて、之を防ぐの問題なり。今日の実状己にかくの如し。故に社会問題は貧富の間、雇主労働者間の是非曲直を制定するの謂のみにあらずして、如何にして其の争いなからしめんかにあり。故に吾人はまた深く、資本家、雇主がこの問題の将来、甚だ恐るべきものあるを思い、永遠の利害より、人情の念より、社会進歩のためを思うて、敢えて労働者に向かって、強いて突撃を試みず、労働者の状態を進め、其の幸福を増加するの方法を与えんことを求むると共に、労働者に向かっても、自ら其の地位を進むるの覚悟、大切なるを勧告せんと欲するなり。労働者の不幸は、固より今日の社会の組織宜しきを得ざるによりて、来たるもの少なからずと雖も、然れども其の自ら招くの不幸も、また決して少なからざるなり。雇主よりは多くの賃金を取り、而して之を職工に分かつには極めて割り前を少なくするが如き雇主は、固より不法なりと雖も、然れども之れを職工自らが損失する所のものに比すれば、甚だ軽少なる損失たることあり。故に当今の社会問題は即ち『如何かにして貧富の間を善くせんか』のみにあらずして『如何にして職工の位置を高めんか』にあり。職工の位地を高むるは、彼等自らをして高めしむるこそ、最良の方法なれ。見よ彼等の銭は、如何かにして費やさるるか。彼等は平民的に働きて、而して得る金銭は貴族的に使用せらるるなり。諺に曰く。武士は食はねど高楊子と、あに唯だ武士のみならんや。武士国の職工までも此貴族的気風を帯び、彼等の理想とする生活は豪奢専権、意気一世をおほふの男子にあり。貧乏しても美服し、貧乏しても豪奢す。彼等の食膳には滋養品と称すべきもの上ること少なし。然れども美酒、初がつを等意気を競ふの食物あるなり。彼等の身体には、寒風を防ぐを主とする重ねざれども、一夜に一週の賃金を擲つを辞せず。彼等の最も誇りとする所は飲食店に上がりて、旧来の客とし親しき挨拶を受け、代価を払ふて其のつり金を受けざるにあり。是れあに彼等が貴族的の気風を具えたるの証にあらずや。而して職工が長く職工に止まりて独立せず、其の状態依然として進まざるもの職として此に存す。吾人は之より下りて世の所謂貧民なるものに至っても、中等社会よりも、遥かに贅沢なる生活をなすものあるを見ることあり。即ち買い食いするものあり。其の妻と子とは買い食いを一日の業とし、日々少々の白米を買い、膳上には美味を供する能はざるものにても、買い食いせずんばやまざるなり。かかる状態を一変せずんば、職工貧民の地位は高まらざるなり。之を進めんには、彼等をして自ら重んじ、自ら愛し、節を折きて後来の事を慮るの念を生ぜしむること最も肝要なり。吾人は彼等に達し能ふ平民文学の盛んにして彼等を教育するに至らんことを望むや切なり。世の絵入新聞なるもの、軍談、講釈師等も最も彼等に縁故あるものなり。何ぞ、彼等に向かって此平民の福音を伝えざるや。然れども此平民の福音を伝ふると共に、立法者の手を以って彼等を拘束するを除き去ると、雇主が彼等を親愛して、其の状態を改良するの手段を施すこと最も必要なり。思うに、雇主自ら彼等の状態を進むるにあらずんば、彼等自ら腕力を以って進むるの時あらん。」

『国民新聞』(明治25年11月2日付け)









◎日本に於ける労働問題/ボアソナード・・・・・日本に於いて労働問題の起こるは爾今久しきを経たる後なるべしと信ずるは誤りなり。将来を予見する識者は巳に熱心にこの問題を研究するに至れり。アメリカン、ボード、ミッション年報は近来諸種の職に課せられたる過度の労働の景況を報道せり。この報道によれば一日の職業時間は十二時間十五時間もしくは十七時間にして食事のために些少の時間内休息するを得るに過ぎずとのことなり。この如く過度の労働に虐使せらるるものは独り成年の者のみならず幼者婦女も亦今やこの厄運に際せり。もし今にしてこの不幸を医することなくんば将来の労働者即ち今日の幼者の成長したるものは心身共に衰弱して実際事を為すに堪えざるに至るべし。且つこれ等虐使せらるる幼者婦女の職業の賃金を顧みれば極めて廉に一日僅かに八銭又は十二銭に過ぎず成長したる男子といえども一日二十銭に超ゆること少なし。これ深く憫むべく且つ真に憂ふべきことなり。○労働問題のの端緒は己に之を人力車夫及び農夫に就いても之を窺ふことを得べし。しかれども人力車夫は時として多額の利得あることあり。且つ随意に休息することを得べく、又農夫は一年の間必ず一定の期間休息するのみならず、自己の所有地を耕すものも少なからざるを以て此の両者の苦痛は他労働者に比すれば幾分か少なかるべし。○日本において今日存在する工業組織の行はるるに至れば僅かに十数年来のことなり。日本において外国の商工者と競争して同種の商品を製作せんとするの精神?んなるに至て始めて多数の職工を使役するの組織起これるなり。もし日本人にして西洋人の如く容易に泣き又は怒るの性情を具へたらんには日本には己に今日において労働問題の起こるありて資本家と労働者との間に紛争の生じるを免れざるなるべし。抑もこの両者の紛争則ちその同盟罷工の如きものは固より経済社会の害毒を医する最良方便には非すと雖も資本家をして或は労働時間を減じるに至らしむることあり。且つ政府をして労働問題に注目せしむるの効力あるものなり。実に労働問題は一日其の解答を遅くすれば一日の損あるのみならず??為すなく歳月を経過せば遂に奈何ともする能はざるに至らんとす思はざるべからざるなり。○去る九月十五日のジャパン・メールを読むに東京においても既に瓦職人の同盟罷工ありたり。元来この瓦職人等は相集まりて一組合を設けたりしを以って其の罷工せんと欲するに当たりても首領を選びて其の意見を聞き一致して運動せしかば容易にその目的を達するを得て資本家をして其の賃金を倍にせしめたり。而して其の職業の組織は従来の日料取なるを廃し請負となしたり。これ職業の成功をして確実ならしむるために得策なるものなりき。この同盟罷工はその結果大いに善良なりしと雖も他職業団体に於いて同盟罷工をなすことを挑発するの導火線たりしや疑いなし。○日本新聞紙も巳に欧州におけるが如く労働問題を研究し始めたり。彼等も亦恐らくは労働時間を八時間に短縮せんことを請求するに至るべし。又帝国議会に於いても労働者階級の利害を代表する議員あるに至るべし。吾人は新聞紙も国会議員も自己の利益のためにこの問題を研究せしずて偏へに国家全体の上より観察せんことを希ふ。今に及んで吾人がこの問題を研究するは独り経済上の必要あるのみならずこれ等の事に付いて国家を全能者なりと信ずる誤りを匡さんを欲する念よりも出でたり。吾人は今ここに十分なる研究を為すこと能はずただ労働問題を予防するの方策の有無を考え全く之を予防するの方策なしとするも労働問題の起こるべき原因を幾分なりとも減少し得るや否やを見んと欲するのみ。○第一研究すべきは労働問題に関する国家の職掌は如何一個人の自由及び資本の独立と相容るべき国家の権義は如何の問題即ち是れなり。吾人は第一に国家は幼者の自宅外における労働に付いては保護干渉するを要するを信ず。是れ其の父又は母が同一工場に労働するときにおいても異なることなし。何となればこの場合に於いては親権十分に行われず又かりに行わるるとするも工場の規則は他幼者と同一に取り扱うべければなり。欧州に於いては己に幼者工場労働規則の発布あり。この規則は未だ十分に当初の希望を満足せしめずと雖もこの後幾多の改正を経て実際の需要に応じるを得るに至るべし。日本に於いても幼者の労働に就いては将来立法するの必要あること勿論なり。○幼者労働保護の立法を為さんには労働の種類により年齢を定むることを要す。而して幼者長者と共に同一工場に労働するときは幼者をして同一日に休息せしむることを要せず。交代交代休息せしむることをも為し得べきなり。これ等の規則は府県視察官をして厳重に監督せしめて其の実行を期すべし。且つ各地方にはこの名誉ある職務を無報酬にして負・するものも少しとせず。小学校長の如きも喜びてこの職務を執るならん。又日本民法財産取得篇第二百七十条第三項に未成年の習業者未だ筆算を知らざるときは師匠又は親方は何らの反対の合意あるも習業者に筆算修習のため休憩時間外において毎日少なくとも一時間を與ふることを要すことあるを以て見る時は工業家は其の使役する所の児童に対して教育の義務を有すべし。何となれば児童は純粋なる職工といはんよりは寧ろ習業者と称するの適当なるものなればなり。府県会が条例を発して工場の衛生に関する規則を設け空気光線を工場に十分ならしむることは少しも非難すべからざる所なり。それ家屋建築の安固のために条例を発することは従来行い来りたる所にして何人も之に対して其の公権濫用を唱ふものなし。而して空気光線の人生に大切なること家屋に譲らざること明らかなる以上は工場空気光線条例の発布の誰か之を圧制なりといはんや。又た一個人に関する運輸方法については公権之に干渉すべからずと雖も共同運輸方法については府県条例を設くること固より非難すべき点なきなり。○巳婚婦及び未婚の成年婦について法律を以て労働時間を制限することは之を為し得べからざるに似たり。巳婚婦ならば其の夫十分に保護すべく成年婦ならば自ら其の時間を制限するを得べけん。唯妊婦については仏国に於いて論者の主張する如く法定の休息期限を設けたらんこと必要なるべきか。然れども元来法定期限は或妊婦にとりては短きに過ぎ他の妊婦に関しては長きに過ぐるを免れざるものなれば頗る思慮を要すべきものなり。○成年男子の労働時間に対して法令が或は制限を設くることは何れの場合に於いても吾人の賛成する能はざる所なり。児童養育の資料を得るがために老親孝養のため尋常人よりも多く労働せんと欲する者は其の精力と勇気との有らん限り労働することを要し、且つ己に成年に達したるものなれば其の自由に任ずるも弊害なかるべきなり。立法者もし人情忍びざる処ありとの理由を以て成年男子の労働時間を制限し其の目的を達せんと欲せば同時に其の賃金の最下額をも定めて決して之より少なくせざることを資本家に命令せざるべからざるに至らん。然らずんば労働時間の減少したると同一の割合に賃金も低下して労働者従前の貧困を脱すること能はず。立法者の目的全く達し難かるべきなり。然るに世上論者の中に成人男子の労働時間にも八時間に減少せんと主張する者あるは実に吾人の怪訝に堪えざる所なり。且つ論者は凡ての工業に就いての其の労働時間を八時間に制限せんと欲するかここに一人の工業家あり。三人の職工を使役すると仮定せよ。この場合に於いて二人の意思全く合致するも尚ほ一日八時間以上労働するを禁ぜんと欲するか。労働時間の最高限を定め賃銭の最下額を限る以上は運命少しく拙き工業家は其の業務を廃するの外なかるべし。而してもし工業家にして一旦其の業務を廃せず労働者は全く其の職を失い以前の地位に劣ること万々なるに至るべし。但し法律を以て運命拙き工業家と雖も自己の任意を以て廃業することを得ず必ず其の従来の労働者を養うために営業するを要す。もし之に反すれば財産を差し押さえて労働者に配分すといふが如くすれば此の弊或は少しく之を弛むを得ずべきも此の如き専制の法律は決して之を制定実行するを得ざるものたるを奈何せむ。又或は労働者は資本の以てその日の生計を営むに足るものなきを以て資本家と競争すること能はず故に法律を以て其の労働時間を制限することを要すというと誰しももし果たして然りとせば従来儲蓄の結果たる資本を労働者に分配するの外別に良手段なかるべし。是の如くせば以て社会の不平等を医するを得て競争絶滅せん。然れば競争滅するの日は商工農業は勿論国家全体の生命の絶滅するの日なるべし。実際に就いて之を視るに同盟罷工は前述の如く微力なるものに非ず。欧米に於いて従来効力を顕わしたること己に陳べたるが如し。○仏国第二帝国の世に於いて同盟罷工の教唆者を罰するの條規を廃したるは理義に基きたるものなり。日本刑法も亦該種の教唆者を罰せざるなり。是れ刑法第二百六十九条乃至第二百七十条に規定せる所を見て明らかなる所なり。今日欧米に於いて真正の損害に基きたる同盟罷工あるときは大抵其の効を奏せざるものなし。而してもし其れ目的正当ならず則ち真正に損害なき時は他に多数の競争者出来りて同盟罷工をして其の効果を得せしめず是社会の競争の原則にして自由なるものは自ら其の弊害を矯むるの力ある実例なりとす。同盟罷工者が暴力を以て資本家を苦しむることは事実に於いてしばしば見る所なり。この時に於いて公力を以て之を鎮圧するの巳むべからざるに至れり。内国騒して外国商工業の発達と相伴う能はざるに及ぶを以て労働者の団体は万国相連合して資本家を苦しめんとするもの生じ来れり。然れども太た恐るべきの事なり。蓋しこの如くすれば資本家も亦た万国相連合して之に当たるべく其の弊害底止する所なかるべきなり。この有害にして憂うべき競争を医するの方法他なし。ただ生産の二原力を調和するに在るのみ。則労働と資本とを調和し労働者をして資本家の利益に與からしむる一方法あるのみ。○その資本主相連合して一の同盟を組織し一種の契約をなし其の中の一人より放逐せられ又は同盟罷工に加わりたる労働者は凡そ他の契約者之を使用することを得ず。もし之に反せば契約上の罰金を課するが如きは実に忌嫌すべき至りなりと雖も仏国その他の邦国において之を行はんとする傾向あるは社会全体に取りて何らの不幸ぞや。日本に於いてこれ等の方法己に実行せられ刊行物に於いても之を論難するものあるに至りたるは余の遺憾とする所なり。殊に日本に於いて未だ同盟罷工の起こりたるの復讐として之を為したるに非ずして資本家自ら進みてこの方法を実行したるは尤も認容すべからずとす。是れ畢竟後来起こるべき同盟罷工を挑発して其の期を早むるに過ぎざるなり。日本の資本家はこの方法が法律違反たるの廉を以て法律上当然不成立たることをも知らず又労働の自由を妨害するの廉を以て刑法の罰する罪に大いに近きをも悟らざるが如し。(刑法二百七十一条参照)○己に述べたるが如く余は労働者をして資本家の利益に参加せしむることは将来起こるべき恐ろしき害毒を予防する方法なるべしと思考す。○一日の日雇いに付ては此の調和方法を用ふることなし。永く一業に従事する労働者に対して全く賃銭主義を廃すること能はず。何となれば半年又は一年を経て資本家の利益の計算済みたる後其の分配を受くるも労働者の生計を立つること能はざることあるべけんばなり。この方法は外国に於いても日本に於いても大銀行大商社会に関し己に前例は存する所なり。世人は何故に此の方法を労働者にも拡張することを勉めざるや。勿論労働者にて此の方法を適用する事容易に非るべし。何となれば労働者の地位は銀行商社等の手代番頭等に比して頗る不確定にして一定の組織をなすこと難ければなり。然れども仏国及び独国に於いても或種類の製造場に於いては此の方法を用い労働者工場の所有権の一部分を有するを以て製造場との運命を共にするの精神盛んなるに至れり。実際頗る良好なることなれば一概に此の方法の実行を疑うは非なり。殊に日本に於いては労働者の地位欧米に於けるよりも確実なるのみならず主人との関係も亦頗る密なり。日本に於いて今にして此の方法を実行せんと欲せば成功するを得べく近来識者の頭脳を悩ますに至る労働問題も容易に解釈せらるるを得べし。」

『国民之友』(明治25年11月3日付け・第百七十一号)















◎労働者と戸数割(社説)・・・・・労働問題は未だ我が国において事実の切迫せるあるに非ずといえども、其の傾向やようやく生じたるものあるを見るべし。曰く同盟罷工、曰く増賃要求、職工社会において間々之あるを見る。蓋しこれ等の事一種の論者においては労働者の横暴となし、その行為を罵しりて其の幣を責むといえども、労働者唯一の武器はこの他に存せず。自家の利益を保護し自家の安全を守るの方策は之を措いて亦他に之あることなし。偏に資本家の肩を持ちて憐れむべき労働者をば一概に無智頑迷視する是決して仁者の所為にあらざるなり。否経世の士の取るべき所にあらざるなり。然るに方今の制度風習多くは皆強者保護にして、其の弱者を保護する所以のものに至りては殆んど之あることなし。強者いよいよ強く、弱者ますます弱し。弱の肉は是れ強の食、之をもって常態なりとせば、禽獣界とそれ何の撰ぶ所ぞ。近者政論界のうち漸くこの状態に注目するものあり。東洋自由党が之をもって一綱領となし、関西自由党が之をもって一希望の中に加えたるごときまことに喜ぶべき事なりというべし。但し彼らは之をもって先鞭を着けたるものなるかのごとくに誇り、新領地を開拓するものなりと称す。然れども吾人は其の今に及んで漸く之に注目するの轉た緩慢なりしを怪しまずんばあらずとはいえ、この種の問題に注目するもの真に寥々彼等をして今かくのごとく独り自ら誇らしむるの已を得ざるものあるぞ憾みなる。労働問題として講究措画すべきもの素より多々或は資本家と労働者との関係を調和して其の権衡を保たしむるがごとき或は無謝儀教育の方法を設けて貧者の智識を発達せしむるがごとき或は貯蓄の習慣を養成し或は保険の制度を創設する等あに?に数件のみならんや。然れども徒に之を理論的に研究し学者的に講述するのみなるにおいては其の蒙る所の恩沢や仮令多しとするも猶甚だ遠き後にあらざれば之を受くるあたわざるのうらあるべし。要は之を直ちに実行し得べく且つ彼の所謂社会党共産党の邪道に傾かしめざるべきの方法画策に出るに在り。労働問題といえば第一賃金云々の点に惟れ傾くは蓋し其の当に然るべき所なりといえども、其の之を実地に行なう所以のものに至りては唯論議するにあるのみ。唯奨説するにあるのみ。当の関係者たる資本家において之を容れざれば実行に由なし。仮令所謂労働問題と呼称するものには似ずとも、その結果にして以って貧者を済うに足り、多少と将た直間接とに拘わらず以って貧者の利益となるものあらば、之を講究実行するこそ専要なれ。労働者が直接に負担する所の租税は何ぞ曰く戸数割是なり。戸数割を廃止するは労働者を救済する所以の一方法たること決して疑いあるべからず。そもそも戸数割なるものは富者も貧者も皆共に負担する所にして、其の賦課方法に各地各種の別はありといえども、富者に軽くして貧者に重きの賦課法となること到底免がるべからず。公売処分を受くるもの何の租税に最も多きかとたづぬれば、戸数割に外ならざること掩うべからざるの事実なり。全国の上において之を総計するときは戸数割の全額二三百万円に止まるべしといえども、貧者が最も苦痛を感ずるの負担は実にこの戸数割に外ならず、戸数割を全廃するは其の呼び声や二三百万円の休養に過ぎざるべしといえども、之によって受くるの恩沢に至りてや諸種の租税中亦之に優すものあらざるべし。地租の軽減も以って間接に貧者に恩沢を及ぼすべく、間接税の減免も又以って間接に労働者の負担を軽くすべしといえども、然れども労働者が直接に負担し直接に恩沢を蒙ぶる所のものに至りては戸数割を措いて亦他に之あらんや。民力休養論は政界の一問題なり。労働者保護の事人の稍注目する所となりたるに拘わらず、論者の目をここに注ぐなきは何ぞ所謂労働問題なるものとは多少其の称呼において趣を異にすといえども、其の帰する所にして労働者を救済する所以のものたらば、之を行なうあに可ならずや。戸数割を廃止するは其の一方法たるを疑はざるなり。」

『東京朝日新聞』(明治25年11月5日付け)






「◎東洋自由党の大演説会・・・・・同演説会は昨日午後一時より神田錦輝館において開会せり。聴衆無慮三百余名にして、やがて午後二時頃に至り久野初太郎氏開会の趣旨を述べ、次に中島半三郎(内地雑居と労働者)、丸山亥助(仰いで天に訴ふ)、山口重修(第四議会に望む)、福田友作(対外策)、長谷川逸刀(我が党の本領)、鈴木修吾(普通選挙)、濱野昇(皇室の尊栄民権の拡張)、柳内義之進(我が党の進路)、大井憲太郎(東洋自由党)の諸氏交る交る登壇し、或は自由党の代議士組織を非とし、或は改進党が真正の民党にあらずと論じ普通選挙の必要なる所以を述べ、何れも活発にて頗る面白かりし。、、、」

『国会』(明治25年11月8日付け)

 












 



◎労働者の矯風(社説)・・・・・労働問題の漸く識者の注目する所となれるは喜ぶべき事たり。然れども之によりて労働者の横着心を喚起し職工の放逸を教唆するの結果となりては由々しき事なり。此間髪を容れず予かじめ注意する所なかるべからず。労働者の多くは無学無識なるを常とす。蓋し彼等の多くは是れ貧民なり。生計に忙はしきもの亦何ぞ無学無識ならざることを得んや。然り無学無識なる故に放逸となり易く、人の煽動に乗り易し。怠惰にして而して多くの賃金を得んことを望み得れば則ち之を浪費し、失えば則ち雇主に迫る。為にするものありて少しく之を煽動すれば忽ち之に乗じて暴行激動敢えて憚らず、此くの如きもの実に労働者に多きなり。之に向かって漫に甘き辞を加ふれば彼はいよいよ図に乗るべく。少しく心を動かすに足るものあれば彼はすなわち妄動すべし。是れ其の大いに注意を要する所以なり。然れども彼又天地に生を享くる同一の人類にして其の自由其の権利決して等差甲乙あるべからず。雇主も人なれば被雇主も人なり。富者も人なれば貧者も人なり。雇主たるの故をもって被雇者を制圧し、富者なるの故をもって貧者を虐待するの故あらんや。雇主は曰く。労働者には放恣怠惰なる者多し。之を取り締まるには厳密なる規則をもってせざるべからずと。然れども雇主にも貪婪厭くなく妄りに賃金を低下し、妄りに労働時間を延長せしめて之を虐ぐるものあらば如何。蓋し此雇主の申し分と労働者の申し分とを調停緩和して各々其の利益を享受せしめ、互いに侵さず互いに破らず、各自幸福を得せしむるは是れ経世家の任とすべき所なり。然るに間々憐れむべき労働者の味方となりて之れがために気焔を吐く者なきにあらずといえども、滔々たる強者保護の流習は常に雇主の肩を持つに偏して、ひたすら其の方の弁護者とのみなり、労働者の利害禍福に至りては毫も之を顧みず、有るか無きかのごとくに罵倒冷笑して一概に無智の懶惰者視する。是れ世の常態なるをもって、識者は則ち為めに大いに気焔を吐きて以ってこの偏頗の幣を矯め社会の幸福を増進せざるべからざるなり。一種の論者は労働問題をもって蛇蝎視すること恰も彼雇主が同盟罷工をもって蛇蝎視するが如し。然れども同盟罷工の絶対的不善事ならず。労働者が自己の利益を保護する唯一の武器なるを知らば、労働問題亦何ぞ妄りに之を蛇蝎視すべけんや。一種の論者は労働問題をもって平地に波を起こすものとなし、社会党運動の萌芽なりとして之をしりぞくるに似たりと雖も、今よりして労働問題を講究するこそ社会党の発生を予防する所以なれ。貧富懸隔の傾向漸く生じ、強者保護の弊風ますます助長するの時にあたり、之を其の往くがままに放任せば其の結果の赴く所果たしていかなるべき。況や人口増加の形勢はとどめんとしてとどむ可らず。人口の増加するは則ち労働問題の益々講究を要する所以なるをや。吾人は今よりして労働問題を講究するのときに大早計ならざるのみならず、其の必要の日一日と迫るを想はずんばあらざるなり。唯それ何事も無数の関係相関連するや其の常なり。煉瓦積み職工が賃金の低廉に苦しみて同盟罷工をなしたるも、其の賃金の低下せるは則ち請負人の競争激しきがためなり。請負人の競争激しきは則ち会計法の実行せられたるがためなり。会計法の実行せられたるは則ち当局有司に私曲を働くものあるを防がんがためなり。私曲を働くものあるは則ち徳教の足らざるがためなり。徳教の足らざるは則ち教育の宜しからざるためなりと詮索追求すれば、殆んど果たしあるべからず。労働問題も其のごとくにして関係する所や無数なれば、随って其の講究措画すべきものも二三にして止まらずといえども、吾人は先ず第一に労働者自身の風習を矯正するの必要あるを覚ゆ。則ち彼の初松魚に数日の賃金を抛ち、宵越しの銭を使はざるをもって栄誉となす底の弊風を矯め、勤倹貯蓄の習慣を養成するがごとき是れなり。労働者自身の風習にして善からざれば雇主の専横圧抑、之を矯むるに後顧の弱点なきを得ざるべし。而して労働者の矯風方法や無月謝教育のごときも其の一たること勿論なりといえども、尚前途遼遠的に属す例えば職工会の組織のごとき庶幾々は其の近きものならんか。」

『東京朝日新聞』(明治25年11月9日付け)




◎東洋自由党幹事・・・・・同党の幹事は久貝源一、柳内義之進、大島染之助の三氏に当選せり。」

『東京日日新聞』(明治25年11月9日付け)





※東洋自由党員となった衆議院議員は5人!
(新井章吾、森隆介、飯村丈三郎、外2名)


●新井章吾
平民 農 栃木県下都賀郡吹上村 安政3年2月生まれ

●森隆介
平民 農 茨城県豊田郡宗道村 安政3年10月生まれ

●飯村丈三郎
平民 農 茨城県眞壁郡上妻村 嘉永6年5月生まれ

『衆議院議員名簿』(明治25年)より








◎取り越し苦労・・・・・、、、」(注―内容・社会党・ストライキ)

『都新聞』(明治25年11月11日付け)




◎造家学会の演説・・・・・造家学会にては去る九日午後六時より京橋区西紺屋町地学協会会堂において通常会を開きしが、当日演説者の一人なりし瀧工学士は旅行のために欠席して、他の一人なる準員伊藤為吉氏(地震建築に関する工夫片々)のみありたり。同氏はまず自己の経歴を述べたる後、本題に入りて其の工風に係わる特許三害(水害風害震害)安全家屋の構造、耐震瓦の構造を図画によりて説明し、次に地震のために家屋の動揺せざる器械を工風し過日巳に菊地理学博士に一覧を請ひしが、同博士は未だ其の可否を明言するに至らず、且つ尚ほ多少の工風を要する廉もありて、今日は未だ之を公にするの時期に達せずと述べ、それより職工の宿弊を匡正せんがため職工軍団を組織し厳重なる規則をもって之を統率せんとするの意見を述べて其の演説を終わり、引き続き出席会員の質問又は右に対する意見の陳述もありて散会したり。」

『時事新報』(明治25年11月12日付け)




「◎当今の問題 社会問題・・・・・、、、」

『国民之友』(明治25年11月13日付け・第百七十二号)




「◎社会問題の反響・・・・・、、、」

『国民之友』(明治25年11月13日付け・第百七十二号)








◎職工軍団結成・・・・・労働問題洶湧して遂に職工軍団起こる。職工固より扶掖せざるべからずといえども、軍の字を冠して来るはおとなしからざるなり。」

『東京日日新聞』(明治25年11月18日付け)







 

 




◎社会問題研究会結成・・・・・今度新たに創設せし同会は、仮事務所を神田区表神保町三番地に設け、労働問題、貧民救助方案等について研究するという。」

『東京日日新聞』(明治25年11月19日付け)










◎労働保護問題の勢力・・・・・、、、」

『北海道毎日新聞』(明治25年11月20日付け)

社会問題研究会・・・・・同会は事務所を神田区表神保町三番地に設け、労働問題、大地主と小作人の関係、貧民救助の方法等を研究するため、朝野の学士、実業家を聘して時々講談会を開くという。」

『読売新聞』(明治25年11月21日付け)

 









◎社会問題研究会・・・・・近来労働者の保護問題、大地主と小作人との関係及び貧民救助の方案等に関する社会問題を研究し、併せて之を実行せんがため府下に社会問題研究会なるものを創設せしものあり。同会にては右の目的を達せんがため、時々朝野の学士及び実業家等を聘して講談会を開く計画なり。」

『時事新報』(明治25年11月24日付け)



◎神戸に於けるの沖人足の同盟罷業・・・・・神戸にて最下等の労働者たる沖人足は常に外国汽船に交わりて貨物の積みおろしに従事するを以って本業とし、其の数四五百名。之を雇使し居るは独逸ニッケル商会と英国ジャキャン商会なるが、右商会等が汽船より受ける賃金は一人に付き四十銭近きにも係わらず、労働者には僅か十八銭(高下ありといえども平均したる所)より支払はざるより労働者の苦情絶え間なかりしに、今度藤野清八外数名の根押しありて遂に同盟罷業をなすに至れり。」

『国民新聞』(明治25年11月22日付け)




◎神戸の沖人足問題・・・・・過般来、神戸港の一問題となり居れる労働者沖人足の同盟罷工に付きその後の模様を聞くに、今回日本人が設立せしステベドーリング商会なるものは在来のドイツ・ニッケル商会及びイギリス・ジャキャン商会等が外国船よりは多額の賃金を受けながら、其の間にて多くの利益を着服して労働者には僅少の賃金を支払うより、藤野清八氏外四五名の有志者は之を遺憾に思い、新たに一の受負い会社を組織し、もって多くの労働者を買占め一時同盟罷工をなさしむるに到りしなるが、如何せん下等労働者の義気に乏しく、英米の商会にて少しく賃金を高く雇い入れれば、一時同盟せし者も追々これに応じるをもって、折角ステベドーリング商会が企てたる同盟罷工も遂に其の効を奏せざるに到りしという。」

『東京日日新聞』(明治25年11月27日付け)







仲仕



『風俗画報』












◎煉瓦職工組合・・・・・煉瓦の建築は年を追い盛んになり行くにしたがい、煉瓦積立職工は手をぬいて粗雑の濫積をなすものあるにより、煉瓦の性質よろしきと否とを問わず、間々危険のおそれありとて、職工中組合の必要を感じ、去る八月中より組織に着手せしが、追々同意するものありて十五区六郡を通じ五百二十余名に至りしにぞ、その規約を定めその筋へ認可出願中なるが、職工はすべて常用雇いのものとし、自分建築請負をなさず、またその賃金は一等職工六十五銭、二等六十銭、三等五十五銭、四等五十銭、五等四十五銭、六等四十銭の定めなりと。」

『読売新聞』(明治25年11月28日付け)









◎労働問題・・・・・、、、」

『国民新聞』(明治25年12月8日付け)








◎煉瓦職工組合・・・・・煉瓦の建築は年を追い盛んになり行くに随い煉瓦積立職工は手を偸みて粗雑の濫積みをなす者あるにより煉瓦の性質宜しきと否とを問わず間々危険の処ありとて、職工中組合の必要を感じ、去る八月中より組織に着手せしが追々同意するものありて、十五区六郡を通じ五百二十余名に至りしにぞ。其の規約を定め其の筋へ認可出願中なるが、職工は総て常用雇のものとし、自分建築受け負いをなさず又その賃金は一等職工六十五銭、二等六十銭、三等五十五銭、四等五十銭、五等四十五銭、六等四十銭の定めなりと。」

『大日本窯業協会雑誌』(明治25年12月10日 第四号)

 



 


「◎労働者保護律期成同盟会・・・・・、、、京橋区南紺屋町に設く。」

『万朝報』(明治25年12月12日付け)





「◎労働者保護律期成同盟会・・・・・、、、」

『万朝報』(明治25年12月16日付け)


















































 

 

 

明治26年









◎明治二十五年を回顧・・・・・職工組合、同盟罷工、労役時間等の問題はこの年において漸く其の声の高まり来たりしを覚ふ。日本は漸く社会主義の芳香を味はんとせり。而してこの問題を論ずる者独り国民新聞の如きに止まらずして、佐久間貞一氏の如き実際局に当たる者にして、なお且つ新聞紙に投書して自己の懐抱を吐露するに至らしめ、自由党をして社会問題研究の止むべからざるを覚らしめたるは如何ばかりこの問題日本人の生命に触説せるかを見るに足るべし。」

『国民新聞』(明治26年1月5日付け)






◎板垣君と労働問題・・・・・聞く板垣君は労働問題を自由党々議に加ゆるを拒むの意見ありと。而して、某新聞は君の説を伝えて曰く。労働問題は、行政上の処分に放任す可し。何ぞ立法部において斯くの如き問題を要せんやと。この言たる、天下の大勢に通ぜざる、社会問題の何物たるを知らざる。労役者と雇主との関係遂に警察の取り締まりに一任するが如き小事にあらざるを知らざる者の板垣君の名をかりて、言うのみ。吾人は社会の先達たる、率先たる板垣君が斯くの如き言をなさざる可きを信ぜんと欲す。」

『国民新聞』(明治26年1月6日付け)




◎神戸輸出屏風製造組合の職工のストライキ・・・・・ー屏風製造業組合臨時総会ー予記の通り神戸海外輸出屏風製造業組合にては、一昨夜、同事務所において臨時総会を開き、兼ねて製造職工組合より請求に係わる従来の職工賃金を一定し、これと同時に値上げの件を審議したるに、賃金一定の件は応ずべきも、値上げの事に応ぜざる事に決したり。次に屏風製造業を営み居る居留地四十二番館より申し込める組合加盟許否の件に就き審議したるに、外国人を内地組合に加盟せしむるは不都合なりとて、これを拒絶することとし、次にかねて組合員は神戸雑貨売込商組合に加盟し、設立の際県庁の認可を受けたるも、製造業者の一団体組織の上は、もはや雑貨組合の制裁を受くるの必要なければ、断然分立し、近日県庁へ分離方を出願することに決せり。また、屏風裏地すなわち寒冷紗買い入れの件は、一致団結して京都の商人と契約を結び、他より買い取らざる事に決し、一同退散したるは同夜十一時頃なりし由。
ー屏風職工同盟休業をなすー別項に記載せるごとく、当神戸海外輸出屏風製造業組合にては、一昨夜の総会において、職工組合よりの請求に係わる賃金引上げの件を否決したるにつき、職工組合員は大いに激昂し、この上は断然同盟休業をなさんとて、製造業者へ談判に及び、昨日は同盟休業なしおるも、製造業者は、その同盟休業は永続するものにあらざればとて、無頓着に付し居る模様なるに付き職工人はますます激昂し、午後より臨時総会を開き、同盟休業の件に付き種々協議するところありしが、たぶん組合解散のの事に決すべき模様なりし。」

『神戸又新日報』(明治26年1月24日付け)







◎屏風製造職工組合は解散か・・・・・屏風製造業組合と職工組合紛議後聞ー神戸海外輸出屏風製造業組合にては、なおまた一昨日午後六時より、同事務所において臨時総会を開き、かねて職工組合よりの請求に係わる賃金一定に関する件につき協議する処ありしが、結局先方よりなにほど談判し来たるもこれに応ぜず、断然拒絶するに決し、なお職工組合が解散するもせざるも勝手たるべしとの事を決し、それよりこの議決を確かめ置かんとて、申し合わせ規約第八条及び第九条の明文を記載し、各員これに捺印する事とし、一同退散したるは同夜十二時頃なりしと。その第八条及び第九条の明文を聞くに、左のごとし。
第八条  すべて組合員において、新たな画工及び職工並びに縫工を雇い入るる時は、その者の住所、氏名を明記し、必ず事務所へ届け出すべし。その解雇するもまた同じ。
第九条  他人の害あるに拘わらず、自分を利せんため、組合員の雇い入れ中なる職工へひそかに金銭を貸与して引き出し、使役したる時は、違約金として金三十円を出さしむ。ただし、画工または職工といえども、組合員に入れし者もまた同じ。右に付き職工組合員は昨日午後より臨時総会を開き、組合解散の件に付き種々協議する所ありしはずなるが、目下各製造業者は、居留地外商館より日限を定め請負いたる仕事あるにより、職工が同盟休業をなし、十日もしくは十五日間休業する時は、外商館との契約違反となり、製造者は大いに困難する事ならんも、各職工はそれだけの気力なく、昨日までにてわずか三日間の休業なれども、もはや従前通り製造者に使われんと語り居るもの六、七分通りもある由なれば、たぶん組合解散位にて、今回の衝突は落着するものならんと云うものあり。」

『神戸又新日報』(明治26年1月26日付け)






◎横浜屏風職工組合の同盟罷工・・・・・一昨夜、屏風製造業組合の総会において兼ねて同職工組合より賃金値上げ請求の件を否決せしにつき、組合職工員らは非常に激昂し今一度製造業組合に向かって談判したる上、聞き入れずば断然同盟休業をなさんと昨日職工員らの臨時総会を開き種々協議したる由。」

『東京日日新聞』(明治26年1月27日付け)













◎屏風職工組合解散・・・・・屏風職工、ついに挫けたり。このほどの本紙上に記せしごとく、かの海外輸出屏風職工五十余名は、このほど組合解散後資本金を募り、あくまで製造業者の反対に立ち、外商館よりの直受負いをなさんとて、種々協議を凝らし居たるが、何分資本金を募らんにも資力なきもののみなれば、ついにこの議も成り立たず、従前通り製造業者へ雇わるる事となりたりと。」

『神戸又新日報』(明治26年2月2日付け)





◎瀬戸窯元職工の同盟罷工・・・・・尾州地方は震災後労働者の賃銭一般に騰貴し且つ物価も貴きを致せしより、其の影響延べいて各種の工業に及ぼし、現に瀬戸陶磁窯元における職工等は二割の賃銭値上げを請求して遂に客月同盟罷工を起すに至り、一時は傭主被傭者間の悶着を醸せし所ろ、爾来仲裁者ありて種々斡旋の末、双方各其の歩を譲り幾分の賃銭値上げをなす事となりて此の程漸く落着を告げたる由。同地製産品は近来生地の騰貴を始めとし彼れ此れ生産費を増加したる上重ねて右の始末に及びたりとすれば、其の製品価格において多少の騰貴を免れざるべし。」

『大日本窯業協会雑誌』(明治26年2月10日 第六号)











◎名古屋市・・・・・の材木商一同は世間の景況と共に木挽職工の賃金を凡そ一割方引き下げしに、職工は一同団結して使傭に応ぜざるより、材木商においても大いに困却し、七分引き下げまで運び合いしも談判調はざるより、材木商一同は大いに立腹し最早賃金の高下に係わらず市内の木挽は一人も使用せずとの決心にて、差当たり木挽五百名を別に雇い入れんため三河地方へ出向きたりと。」

『時事新報』(明治26年2月23日付け)










◎西陣機業家の同盟罷工・・・・・京都西陣の機業家三百余名は目下生糸暴騰し織物と生糸の間に四割以上の差を生じ到底引き合わざるより断然休業し織物値の騰貴を待つはずなり。右に付き千余人の職工には米代だけを仕送り居ると。」

『都新聞』(明治26年3月3日付け)






◎明石帆木綿職工同盟罷工の後報・・・・・去十三日県庁郡役所を引きとりて同社頭取鷲尾長三氏方に至りしまでは前号に詳記せしが、かくて同氏不在なりければ副頭取藤田嘉兵衛氏宅に詰めかけ種々談判を試みたれども要領を得ず彼是する中、早や日暮れに及びければ一同同家を引き上げ人丸山月照寺に集合し四斗樽の鏡を抜けて鯨飲馬食喧々の間に時を移して散会したり。当日明石警察署にては警衛の手配最も厳重にして平服巡査を始終彼等の動静に付け置き遂に治安を妨害する廉を以って説諭の上退散を命じたるも中々以って命令に応ぜず非常の雑?を極めたるよし。斯くて翌十四日は日曜日にて諸官衛の休日なれば明けて十五日早天より役場郡役所を経て県知事まで請願を捧呈せんとの手筈をなし居れる由。」

『東京日日新聞』(明治26年5月18日付け)





「千八百九十年に於て英国十余万の職工等が「ジョンボルンス」氏の命令の下に一大同盟罷工を企てたるが如き、其の最著名なるものとす。其の勢力の侮るべからざる以って推知するに足るべし。米国における「ナイトオフレバー」(労働義士)の如き其の当初の微々たるに反し、其の勢力年を追うて強大を致し、今や其の会員すでに幾百万の多きに上れり。亦盛なりと云ふべし。嗚呼我国労働社会の救世主たる「ジョンボルンス」たるもの果たして何くにある磋呼何くにある。」

『社会的経綸策』(著者兼発行者・薬師寺政次郎・明治26年7月6日発行)






◎運転手火夫大いに怒る・・・・・炭鉱鉄道会社の運転手及び火夫七十余名は同会社の不始末を怒り十か条の嘆願書を出し、もし採用せられずんば同盟罷工をなさんづ勢いあり。」

『国民新聞』(明治26年7月28日付け)








◎同盟罷工・・・・・炭鉱鉄道会社の鉱夫中には今回の改革を心配して兎角穏やかならず。現に火夫運転手駅員等は十か条の申し込みをなして同盟罷工をなし居れり。其の近因は平井技師の免職一條にありといえど、会社にては飽くまで強硬主義を取り工夫に譲らざる考えなりという。近きに何とか折り合い纏まることならん。」

『都新聞』(明治26年7月30日付け)








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◎西陣の職工も同盟罷工・・・・・海外の職工社会に常習となれる同盟罷工は、ついに西陣に入り来たり。木綿部ネルの毛出職工三百余名は同盟して、去る十一日限り休業し、もし同盟を破る者あらば、ただちに殴殺すべしとの権幕にて、勢いすこぶる猛烈なり。今その原因を聞くに、西陣ネルは昨今仕入れ時にて、織屋はいずれも繁忙を極めつつあるが、この機失うべからずとでも思いしにや、毛出職工は一同申し合わせの上、一反の毛出賃五銭を七銭に値上げせんことを請求せり。ここにおいてネル機業者の重なるもの数名集会して、これが諾否を協議せしに、目下西陣にて織り出すネルは一日平均八千反なれば、一反に付き二銭ずつ値上げするときは、総計百六十円増賃を払わざるべからず、これ到底応ずべからざることなりとて、種々その理由を述べて職工どもを諭したれども、職工等は之を聞かず、ついに同盟罷工をなすこととなりたる由なるが、果たしていかなる結局を見るべきか。」

『朝野新聞』(明治26年9月15日付け)



明治27年









◎千住製絨所の紛紜・・・・・前号の紙上に職工の困難と題し千住製絨所の職工が給料渡し方につきて不平を起こせし事を記せしが、更に其の詳細を聞くに、同所の技師大竹某というが平生職工を扱うことの惨酷なりとか、偏頗なりとかいうことの職工間に言い伝えられ、何とかしてこの人の支配を免れたいと思う者多き矢先へ、是までは職工の月給を毎月十日、二十五日に締め切って十五日と三十日に渡し、即ち五日分づつを先繰りに預かり来たりしを、突然五日と二十日に締め切り、即ち十日分づつを預かる事に改めたるため、職工等は大いに困難を唱え出し、かくてはこの際(即ち昨十五日)受け取るべき日給は僅々二三日分なり。二十七日と二十八日限り休業し本月は七日より起業したれば、即ち先月二十六日より七八日までの日給だけにて本月分は五日締め切りの起業なれば十五日には一文も渡らず、物入り多き一月に僅かに二三日分の日給を渡されては何することも出来ざるべしとて、職工一同は寄り寄り相談しけるが、ついに去る十一日に甲の部の起毛課、染絨課、縮絨課の職工八十余名と是に乙部の職工も多少加入して大集会を開き、日給渡し方復旧の件を協議し、其の中より総代として大竹元松、渡辺忠三郎、富岡亀吉の三人を選定し、通常なれば取締へ請求し、それより製造掛かりへ請求すべきなれど、斯ては急の場に合わず且つ是等の取り計らいは重に大竹技師の配剤に出づるもののよう思われ、先にも同技師が職工は三級以下にて沢山なり、二級以上の高給を支払うは無益なりと唱えたる事もあれば、この件は大竹技師に迫って復旧を求むるにしくなしとて、その夜右総代の三人は大竹技師の家を訪ひ、先ず日給渡し方を改めたる理由を訪ひしに、会計の事はよくも知らぬが目下新工場を設置中にて外国より器械等を買い入れ金貨の差などにて支出の多き折からなれば大方それらのためなるべし、ともかく諸君のため悪しきようには致すまじ、尚ほ委細は明日午後一時に返答すべしとの事に、三人の総代は帰り行き、翌日の返事を待ち居たるに、今度は大竹技師の言、前夜と変わり、右はまったく所轄陸軍本省よりの達しなれば致し方なしとの答えに、これは怪しからぬ返答なりとて、其の夜またまた前記の職工数十人集合しこの上は大竹技師を問うも無益なり。先ず各官設の諸工場を訪ひこのふり合いを調査し、又果たして陸軍省の達しなるや否やを確かめ、然して後に計らう事あるべしとて、ここに二人の調査委員を選定したり。この委員に当選したる小川新太郎、丸山新太郎の二人は翌日に至り第一に小石川砲兵工廠を訪ひ種々手づるを求めて内幕を聞きしに、其の取締りは通常通り二十五日に締め切りたれど特別に三十日分まで支払いたる位の恩遇こそあれ、千住の如き達はかつて聞かずとの話に、更に印刷局を訪ふも、矢張りそれらの模様なきより、今度は直接に陸軍省に至り、当局の者に面会を乞いたり。始めは其の手続きをふみ来らざればと謝絶されしも、尚ほ懇々事実を訴えしため漸くにして石川軍吏に面会する事を得たり。(未完)」

『万朝報』(明治27年1月16日付け)












◎千住製絨所の紛紜(承前)・・・・・小川、丸山の両人はようやく石川軍吏の面会を得て種々の事情を述べ、大竹技師のいう通り果たして御本省よりのお達しにて日給十日づつを預かる事となりたるやと問いしに、石川軍吏はかかる事はあるまじ、毎月の経費は多分前渡に製絨所に送りあるはずなりと答えしが、その時小使いらしきもの入り来たりしに、石川軍吏は応接の室を去りて何れにか至り、再び来りし時は改まって、この件は直接に君等に話すべき限りにあらず、これは製絨所の磯山会計掛かりに訪ねるが宜しからんとの事に、二人は詮方なく、或は千住より電話でもかかりしならんと想像しつつ陸軍省を去り千住に至りて当日調査の結果を報告せしより、血気にはやる職工等はますます激昂して、中には妻子と決杯をなすものなどあり、今にも穏やかならぬ挙動に及ばんとせしも、其の中より五人のもの総代として磯山会計掛かりの家を訪ひ(この外十五六人は門前に待ち居りしと)其の事情を問いしに、磯山はこれは中央司計部に出づる手数などにて実際やむを得ざる次第なりと答えしかば、否その司計部は既に廃されたる事は今日陸軍省にて聞きたりというに、磯山はなるほど司計部云々は拙者の考え違いなりと謝し、なお五人をなだめてこれ等の事は大竹技師が知らぬはずなしなどとて果てしなければ、其の夜はそれにて磯山方を去り、直ちに職工の集会をなし、この上の相談をなせしに、折から夜の十一時過ぎなれど、是より大勢にて大竹技師方へ押しかけ、叩き起こして二つ一つの談判をなさんとてせり立ちしも、前の五人にて漸く押し鎮め、今急に穏やかならぬ事ありては却って我々の落ち途となれば、手の尽くされるだけは穏やかにせんとて、その場は一時治まりたるが、今尚ほ実際やむお得ざる次第なるか、或は不正の事あるか、又は日給復旧の事とするかの結局の談判をなさんと相談中なりというが、是につきては職工中既に血判したる連判帳や秘密の契約などあり、事情によりては一と騒動の起こるやも知りがたければ、聞き込み次第記載すべし。」

『万朝報』(明治27年1月17日付け)






◎千住製絨所紛紜の後報・・・・・前号に記せし同所の紛紜はますます結び、昨日はかの調査委員の一人小川新太郎が大竹技師に面会し、故なく各職工の賞誉金を一割づつ減少せし事と昇級の月数を延期せし事とを詰問し、激烈なる談判をなしたるすえ、事務所より引き出され且つ同夜停業を命ぜられたるため、職工等はますます激昂して総代五人の決心次第何様にも決心すべしと迫り、五人は又結局の処置につき、ひそかに密議をこらし居るという。」

『万朝報』(明治27年1月18日付け)





◎製絨所紛紜の続報・・・・・しばしば記載せし千住製絨所の紛紜は表面上やや平穏に帰したれど、元来その事の起こりという日給云々はほんの口実にて、役員に偏頗ありとか、弊害ありとかいうが、その原因にて之を改良せんとの目的なれば、五人の総代はあくまでも其の改革を請求し、もし聞かれざれば所轄陸軍省は勿論、大臣邸にまで出頭して其の事情を縷陳せんとて既に同所内幕の弊害等を調査據証したる書類を或る人の手にて調製中なりという。これも官紀振粛の余波なるべし。」

『万朝報』(明治27年1月19日付け)





◎千住製絨所事件の後報・・・・・聞くに従って記載せし同製絨所の紛紜は、その後職工中重だちたる者は、不穏の事ありては却って理が非に落ちるも知れずとて、只総代調査委員の手にて運動することに決し、多数の職工は業に服し居れど、総代調査委員は疾に進退を決し其の人々が解傭さるれば続いて総代を立て内外相応じて、宿弊を一洗するまでは臨機の運動をなすよしにて、今回の総代等は一編の陳情書を製し之を大臣の手許まで達するはずにて、既に某紳士につきて其の手順中なりと言う。又右の陳情書は同製絨所中、党派の事、私謁の事、官品濫用の事、賞罰不同の事等凡そ二十余項に分かち一々其の証例を挙げあり。本社は既に其の原稿を得たれど、猶ほ実地探問中なれば一両日のうちに記載すべし。因みに云う。先日停業となりし調査委員の一人小川真太郎は先日羅紗を取り扱うため手を洗いたるより、事業中手を洗うは犯則なりとて停業を命じ翌日ついに解傭したるを以って、多くの職工は其の多数人のため犠牲となりしを憐れみ、一銭二銭づつ心だけの義損金をなし、中には無名にて三十銭へ「気も狭く心もさびしみそさざい」という句を添えて真太郎の家へ投じ行きたるものもありと。平生義侠を以って任ずる万朝報は彼等が天真爛漫を愛して、ために一掬の涙をそそがざるを得ず。」

『万朝報』(明治27年1月21日付け)





◎千住製絨所内訌顛末(一)・・・・・官紀振粛の呼び声は議会解散と共に下火となりしといえども、官紀振粛せざるべからざるは決して昨日も今日も変わることなし。まして目の前にせまりたる臨時議会というものさえあるをや。初め千住製絨所の職工紛紜事件の我社の耳に入るや、是れ唯に日給位の事にあらず。必ず仔細あるべしと思い、特に千住地方の事情に通暁せる探訪員をやりて内外の事情を探り、其の報道は得るに従って記載せしが、今日に至って我が探訪員は一切の復命をもたらし来たり。其の之を読むに大いに当路者注意を促すべきものあり。且つ聞く。都下幾多の製造所はいつぞや我社の記事を見て各戒励する所ありといへば、更に幾日の紙上において例の精細にして直往なる硬筆を揮はんとす。之又多少社会の公益たるを得ん。
千住製絨所は人も知るごとく陸軍省の所轄にして、其の所長は小池正文氏にして、其の下に技師属官等ありて成れり。職工は男女にて四百名ばかりなれば製造所としては規模小なるものなれど、さすが官設の製造所なれば、よく整頓して利益も十分なりと聞けり。されど積水は蟲を生じるの諺もあれば、積年の久しきに至りては多少情弊の生ぜざるにあらざるべし。是れ千住製絨所のためにしていうにあらず。大抵の製造所は皆な然るべし。然れば千住製絨所にても自ら其の萌しなきにあらず。最も所長小池氏は人望ありという程にあらざるも、亦疵もなき人なれば、誰も所長に対して可否するものなけれども、役員中には三つの党派をなして互いに相ひ声援し、其の一つは大竹派とて技師大竹多気氏の派なり。其の一つは大渡派とて一級属大渡一氏の派なり。今一つは岩崎派にて技手岩崎大七衛氏の派なり。この三派の中には互いの秘密もあり、特に大竹氏は職工等の攻撃多き人なるが、これを見かねてか昨年の九月頃なりし、雇い工業係り大熊尚二というものより数百言の意見書を所長の許に呈出したり(後に摘要す)。その意見書は専ら所規を改良するにあれど細かにその文意の裏を探れば情弊のある処明らかに知らるべく所長小池氏は平穏の人なれば幾分か察する処ありしものなるべく此の意見書を採用して改革をなさんとの模様ありしが、三派の中特に大渡派は大熊が直接に意見書を所長に差し出せしを怒り是より大熊と相敵視するに至れり。」

『万朝報』(明治27年1月24日付け)







◎千住製絨所内訌顛末(二)・・・・・大渡一派のものは大熊の意見書を暗に我々の急所を突きたるものと悟り、大いに大熊を憎みし折りから、役員のある一人が不都合にも職工より負債をなし其の返済方に困りし上、同僚のこととて大渡に相談せしかば大渡は引き受けて金策の周旋すべしと云いしも、終にその手にて金策ならざりしため、負債せし役員は身分上大いに心配する事となりしを、大熊は見るに見かねて傍らより周旋して其の金策をなし一時の急を救いたるため、大渡は大いに男を落とし其の一派の者は更に大熊を怨むこととなれり。ここに又蒸気科の工男に南澤某というもの電燈に使用する皮ゴムを継ぎ合わしたるものを所持し之を役所に買い入れられん事願い、是も大熊の周旋にて上納することとなれり。その後再三同様の周旋をたのまれしかば、大熊は之を断り当役所にては二度目の買い上げの時最早沢山なりとの事を役員より聞きたれば周旋するもその功なかるべしとて受け合わざりしより南澤は大いに失望して、是何か故ありて大熊が中途において邪魔を始めたるに相違なしと推測し、私に大竹技師の邸を訪いて種々大熊を悪言したりというが、其の上何か内約でもありしものか、其の翌日再び皮ゴムを役所に買い上げ剰つさえ其の又翌日に大熊尚二を解雇するに至りたり。是れ素より所長の命令といえども大熊は必ず大竹、大渡両人の相談になりしものなるべし。且つ一職工なる南澤が如何なる事を申せしかは知らざれど、其の偏言にて解雇されしは甚だ心得がたきことなりと大いに不平に思いたれど、さりとて致しかたもなければ終に解雇のお受けを致せしは即ち旧冬の上旬なりし。斯かる有様なれば心ある職工等は私に大熊の不幸を憐れみ、又役員中に党派ありては誠に情幣に流れやすしなど噂せしが、明けて今年今月の十日前に至り前日記載せしごとく今後日給を十日分づつ預かることになしたりとの達しをなしたるより、一時に職工等の恐慌を来たし、かくては追々にいかなる達しを受けこの月の日給を翌月受け取るようになるやも知れず、且つこの十五日には僅々二三日分の日給より外は受け取れざる割合にて、到底しのぎがたき次第なり。是は何とか請願せざるべからずとて、終に有志八十余名が集合して同盟の上拇印をなしたる誓約書を作り、総代等を選挙するに至りたる事より其の総代等が運動の結果等を既にしばしば本紙に記載したる通りなり。然るに思慮少なき職工多き事とて、その後追々役員の誘いにより表面上次第に軟化するものを生じ、今日にては大いに同盟者を減ずるに至りたれど、其の中熱心に同所の情幣を改革し又多数職工の便益を計らんとの連中は私かに奔走して然るべき学士を説きて意見を聞き、又百方尽力して同製造所の内情を探知し、ここに同所の内事二十余条を列挙し一々証拠を挙げたる一篇の陳情書を作りたり。是れ然るべき手続きを訪ねて当路に呈すべきものなりという。乞う明日の紙上より其の陳情書と大熊尚二の意見書によって同製造所の内部を解剖し去らん。」

『万朝報』(明治27年1月25日付け)





◎千住製絨所内訌顛末(三)物品購入の件・・・・・物品の購入につきて種々の弊害情報あるは何れの諸役所諸会社にてもしばしば其の破錠を見る処なり。特に燃料に至りては其の容積の大にして貫目の重きを以って最も弊害を生じやすし。既に先日その不正を見あらわされたる土橋の炭商某の如きあり。幸い正直の官吏立ち会いたるを以って其の奸計を免れたりといえども、世上尚ほ多くこの類の者ありて、常に検査役人賄して不正を黙過しもらうものあるとは世に隠れなき噂なり。千住製造所の役人中には無論かかる不正者あるまじきは信ずる処なれども、同所にては石炭の買い入れに肝腎の石炭を知る者を立ち合わせず、一二役人にて買い入れ、ために良品に乏しということを聞けり。左の大熊が意見書の一節を見ても其の内意を探り得べし。
(前略)諸機械器具の如きは物質より保存上等総て購買主任と請求主任と立会い検査すると雖も独り燃料の石炭において未だ此例なきは深く遺憾とす。石炭の質に数種あり。同質のものに数等あり。之が善悪を看定するは材料部員より寧ろ火夫掛りの者巧者なるべし。(中略)目下石炭は日光雨露にぼうさいされ此被害も又少なからざるべし云々。
右は単に看査の不行き届きを言い入れたるまでにて当時在職中の大熊なれば其の他の秘密は之を発かざりしに似たり。然れども其の表裏を味わえば又異様の感起こらざるにあらず。之につき我が探訪は奇怪の一報をもたらせり。旧?右の石炭商より歳暮として諸役人に卵切手を送り其の額は五十円、二十五円、十円なりしという。歳暮を送るは好きも右は余り多額なれば金円に誤りもあらんかも知らざれば其の行き先の人名はしばらく省くべし。又之を現在見たりとて探訪に語りし火夫掛りの人の名も知れ居れど例の金時計の如く証跡の残り居らざるものなれば本社も是だけは確然といわず。万一法廷にても証明を要するの場合とならばその時に証人の名と受理者の名を明言すべし。又聞く。同所にては先頃一の毛染機械を数千円にし購入せしが此釜は高価なる割りに小さく従来の釜は十二時間六百キロ染め得られしも此釜は其の半分以内にて之に人夫三人取締り一人汽かん手一人の給を受け馬力の費用と汽械油等を合算すれば却って一日に十数円の損害を招く程なりと聞くが果たしてこの通りなれば購入の際何とて注意なかりしにや暫らく疑いを存す。」

『万朝報』(明治27年1月26日付け)

















◎天満紡績の職工の同盟罷工(大阪一月二十六日午後特発)・・・・・天満紡績会社にては、職工の賃金引上げの請求に応ぜざるため、男女職工千四百十二名の中、大半は今朝同盟罷工をなしたるを以って、やむを得ず機会の半数は運転を中止したり。
ー後報ー
先刻電報をもって報道したる天満紡績会社同盟罷工、その後の状況を聞くに、本日午前
六時職工更替のとき、前夜休業したる男工数名申し合わせ、他の職工を恐迫し、その工場に入るを禁じ、殴打、誘拐せるため、器械の全部中止するにいたり、数名の主動者は警察署において取調べ中なり。同盟罷工の原因は賃金引上げの請求にあらずして、近来職工学校卒業生二名、工場監督となりしに不平を抱きたるにあり。なお今夜より機械の運転を始むるはずなり。」

『時事新報』(明治27年1月27日付け)





紡績職工の同盟罷工・・・・・大阪なる天満紡績会社にては去る二十六日午前六時夜業の職工去りて昼間職を執るべき者の代わりに業に就きしに間もなく第一工場内においてドッと大声を揚げたる響きに詰相の社員直ちに駆け付けたる処の工場に在る職工一千余名の内二百余名は何れも業を捨てて立ち騒ぎ居たれば社員は大いに驚きつつ取静めんとするも容易に聞き入れず直ちに重役支配人を呼び寄せて彼等に仔細を取りただしたるに重立てるもの十数名口を揃えて主任技師河井清三郎氏その他工務係りの中二三の人に対し不平を鳴らしかの人々を放逐せざれば一同就職せずと云えるにぞ重役等は兎も角静粛にして事情を述ぶべしと諭し漸く退場せしめたるが同場内にありてこの事に関係せざるもの及び第二工場にて就業し居るもの等も一同地震よ火事よと大騒ぎをなして我一に飛び出し我が家に逃げ帰るなど一時はその騒動名状にすべからざりしよし。この報の曾根崎警察署に達するや渡辺署長は警部巡査数名を引き連れ車を駆りて現場に出張したりしがこの時はすでに罷業せし職工退散したる後にて只混雑中三名の負傷者もあり又彼等はその後天満十丁目筋近傍に三々五々相集まりて何事をか相談し不穏の模様あるによりそれぞれ説諭して立ち去らしめたり。然るに彼等は尚ほ最寄りの飲食店に入りて鯨飲馬食をなし其の中重立ちたるもの数名会社にいたりて不平の廉々を述ぶるあり。午後六時夜業職工の来たる途を防ぐるものありたれば女子の職工等は恐れて出場する者なくほとんど休業の有様なりしと斯くてその後八時ごろ職工の天野豊次郎、川中新太郎、友松武太郎、脇田正平等外十二名は曾根崎署へ拘引せられしがそは全く会社の夜業に来たれる職工三百余名を途中より引き返さしめたる嫌疑みありて刑法第二百六十九条違反に該当する由。」

『時事新報』(明治27年1月29日付け)




「◎号外売・・・・・、、、車夫、人足、タチンボウの徒はわざわざ転職して
号外の売子となるもの多しという。、、、八百八町を駈け回り
「号外、号外、局面一変の号外、危機一髪の号外、時事新報第二の大号外」と
呼び叫ぶものは即ち是れなりとす。」

『時事新報』(明治27年7月25日付け)





「労働者は、投票権をもつほかの階級の人びとの支援なしには、彼らに有利な法律を獲得する見込みはないのです。、、、彼ら(政府)は雇い主から意見を聞き、雇い主の援助をえて工場法を制定することで満足しているのです。、、、現在の政府の姿勢がこのようなものですから、何らかの反対がなければ、労働者に不公正な法律が成立するだろうことは目に見えています。、、、労働者階級の向上をはかるための最初の努力は、この国の有識者に彼らの行動の必要性を自覚させることに向けられねばならないと思います。このように、有識者に働きかけることが、日本の労働運動で踏みださるべき第一歩です。そうした働きかけの結果として、有識者の団体を組織し、そこで労働者を教育する事業においてなすべき実際的計画を討議し、労働者の利益を守るために政治的活動及びその他の活動をおこない、最後に、もっとも重要なことですが、労働者を組織することがなされねばなりません。」
「日本における労働運動」(執筆者:高野房太郎)
『アメリカン・フェデレイショニスト』(第一巻第八号、1894年「明治27年」10月)
『明治日本労働通信』(二村一夫・大島清 岩波書店 1997年)



明治28年



◎府下煉瓦職工の同盟罷工・・・・・事は去る五日に起こり、一昨日の如きは府下及び水戸鉄道線路の関係する職工一同罷工したるため其の影響甚だし。今その原因を聞くに、日本橋区茅場町の一工場に工事を取り急ぐため労働時間を一時間増加したるも賃金を増加せざるに付き、怒って遊説員を各工場に遣わしたるより忽ち団結成り、各水道工場の如きも全く其の工事を中止したり。尚職工は従前より賃金の増加を請求中にて、その総数は千人に殆しと云ふ。」

『万朝報』(明治28年5月8日付け)





◎府下煉瓦職工の同盟罷工・・・・・事は去る五日に起こり、翌六日の如きは府下及び水戸鉄道線路に関係する煉瓦職工一同の罷工したるため各新築工場は中止せざるべからざるの止むべからざるに至れり。其の原因は日本橋区茅場町辺の或る工場に於いて工事を取り急ぐがために労働規定時間十一時間なるを増して十二時間となしたるため職工は賃金増加を請求したるも更に肯ぜざるより大いに其の処置を不当とし集会の末遊説員を各工場に派し五日の午後に至り各水道工場の如きは全く其の工事を中止せり。而して同職工一同は集会の上この際従来よりは賃金の増加を雇い主に請求せんと相談中の由にて其の員数は水戸線と合わせて千人に近しといふ。」

『読売新聞』(明治28年5月8日付け)






◎煉瓦職同盟罷工・・・・・協議整い七日より始工。」

『万朝報』(明治28年5月12日付け)









◎工業家の警戒・・・・・今日といえども府下の職工は非常に減少せるに相違なしといえども、将来台湾の平定後は一層減少を来たすべきこと明らかにして、其の結果は遂に同盟罷工となるの虞あるを以って、府下の工業家諸団体は夙に之が予防に着手し居れりという。工業家の予防は大いに好し、しかも吾人は我が職工のために謀りて、工業家の予防に対するの予防に怠りなからんことを望むなり。」

『万朝報』(明治28年10月19日付け)









◎煙草職工の同盟罷工・・・・・本市四区及び接続町村に、煙草製造業者が四十三名にて使用する職工は三百余名ある処、近来諸物価の騰貴に従い、職工の賃金も上げてもらいたしと職工一同申し合わせて、組合事務所に申し出でたれども、採り上げてくれぬ処から、去る二十一日、更に委員を選びて事務所に迫りたるに、今直ぐに返答する訳にゆかねば二十六日まで待てとのことに、さらばその返答を聞くまで一同休業すべしと、手を引いて休みしにぞ、製造業者においても棄て置かれず、二十六日、寺町源聖寺阪の好静館に集会して協議を開きたるに、職工等は一刻も早くその結果を聞かんと、近所の了安寺というに百人ばかり詰め切りて、その模様何となく穏やかならねば、天王寺警察署より警部、巡査数名出張して解散を命じたれば、職工等は談判委員を東横堀を堺に東西より十名ずつ選び、協議の結果によりて更に談判開くことになり、職工は一杯につき五銭ずつの賃銭直増しを請求せしに、この日の協議にて二銭五厘だけ直増しをするに決したれど、なお折り合わずもめて居るよし。」

『大阪朝日新聞』(明治28年10月29日付け)





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明治29年




治安警察法・・・・・の委員会は昨日貴族院の議事散会後開会し大体の質問のみにて散会せり。」

『時事新報』(明治29年1月24日付け)








同盟罷工・・・・・三原郡阿万村淡陶社職工五十余名、賃金のことより同盟罷工せしも、仲裁者ありて再び業に就けり。」

『大阪朝日新聞』(明治29年4月18日付け)





東京貸資協会・・・・・工業協会の佐久間貞一外数氏の発起に係わる同協会は工業者に積立金を為さしめ、その等級によって資金を貸与する方法なるが、此の事は英国などにて最も盛んに行われ、ことに独逸は国家事業として行い居る由。なほ詳細は今明日中に発起会を開きて協定するはずなり。」

『東京朝日新聞』(明治29年5月15日付け)







『万朝報』(明治二十九年七月二日)

「桜組」本店、全員解雇の穴埋めのため、
新聞各紙に靴工募集広告を連載









おいらんのストライキ・・・・・吉原に百四十六軒の貸し座敷があって三千の娼妓がこの中に閉じ込められておって、娑婆に知られざる様々の習慣あるが、中に最もよく嘘をつき最もよく人をもてあそび、浮気にして薄情にして世間では悪しきこととなって居る事を多くするもの程尊ばれてお職ともてはやさるる事なるが、そのお職の地位の授け方、家々によりて同じからず、馴染み客の多き者に授けるもあれば、玉高の多き者に授けるもあり、又客に費はせたる金高によりて授けるもある事はこの里に浮かれ込む人のとくより承知のことなるべきが、ここに大店の随一たる角海老楼にては、馴染み客の多きをもってお職に座らせる規則のところ、楼主が奸臣の言を容れてこの規則を破り、前月馴染み客多かりし小町、白縫、九重などを上に据えずして、高尾を据付けのお職にするから一同左様心得てよかろうとの事に、娼妓一同不平を鳴らし?者の?言を信じてこんな不都合なことをするような楼主のために骨身を砕いて働く馬鹿者があるものかと、白粉だらけの顔をふくらせて一同店を引くという騒ぎに、楼主は今更後悔して居ると云へり。」

『都新聞』(明治29年8月13日付け)







石炭仲仕の同盟罷工(門司十月七日午後特発)・・・・・当地の石炭仲仕三千人は、賃金引上げを求めて同盟罷工をなしたり。」

『時事新報』(明治29年10月8日付け)







尾張紡績会社職工の同盟罷工(名古屋十月七日午後特発)・・・・・尾張紡績会社の職工同盟罷工を起こし、また工女九百名は一致して大阪へ逃げ行かんとせしも事洩れ、目下社内大混雑中なり。」

『時事新報』(明治29年10月8日付け)




「◎労働者の組合成る・・・・・製造工業の発達に伴ふて労働者の機関も備はらざるべからず。しかるに従来何何組合と唱ふるもの組織しあれど、いづれも有名無実のものなりしに、今回木工連の組織せし組合は極めて鞏固の組織にて、一進一退組合の決議をもってし、賃金はもちろん労働時間等一切組合全体をもって資本家の談判に当たり、大いに我が労働社会の面目を一洗するの方針に出でたりという。ゆえに木工を使役する資本家は従来のごとき能はず、大いに困難し居れりといふ。」

『都新聞』(明治二十九年十一月二十七日付け)

 

 



 



明治30年

翌30年、年明け早々、桜組は新聞各紙の広告欄に靴工・徒弟募集の
広告を頻繁に出している。おそらく、ストライキに参加した
靴工を解雇した穴埋めのために急遽
募集をかけたのであろう。





 

社会問題と其の研究会・・・・・昨年中前代議士樽井藤吉氏及び城泉太郎、吉田義静の諸氏、社会問題研究会なるものを起こし、毎月一回づつ会合して種々研究する所あり。爾来会員も続々増加せしが、この頃会員中吉田氏の一派はこの際政党組織として社会党と名付け専ら労働問題に就き運動を試みるはずにて、目下々相談中なりと。このほか布川静淵氏の主唱にて島田、田口、巌本等諸氏の賛同を得て組織せる社会学会も同じく社会問題を研究する目的にして機関雑誌を発行せんとの計画あり。大学においても金井博士牛耳を執り教授生徒中の有志者を糾合し国家的社会主義を研究する一の団体を組織する目論見ありという。今より三、四年前までは我が国における雇者被雇者の関係は依然として封建時代における君臣の観念が含有しその?然たる美徳は常に欧米人の垂涎する所なりしが、日清の戦役後工業に属する諸会社著しく勃興し版図の拡張と壮丁の欠乏とは大いに労働者の需要を喚起したるより、随って労働者も自身の立脚地を自覚するに至り、いわゆる同盟罷工を以って諸種の要求を資本家に強請するの事実は吾人のしばしば見聞する所なり。これ実に社会問題の萌芽にして当局者も種々苦慮する所あり。昨年各商業会議所に職工場条例に関する諮問をなすに至り、民間においても佐久間貞一氏のごときは率先して其の計画を実行するに至れり。労働問題の研究は実に目下の急務なるべし。ただし貧富の縣隔を憂うるの余り翻訳的社会主義を唱道するに至りては宜しく戒むる所なかるべからず。」

『報知新聞』(明治30年2月10日付け)












「◎大阪府下の工場と職工・・・・・近時、大阪の府下における工業は著しく発達し、由来、商業地の中心たりし彼の地は、今や又新工業の集点たるに至れり。これと同時に機器機関及び職工取締り等の如きは独り実業の盛衰にに影響するのみならず、社会問題と直接の関係を有するを以て、この一事については警察部にても近時最も注意し居れり。今保安課の調査によれば、昨年来、工場現代数は千九百六十二か所にして其の煙突数一千三百七十基にて、内、昨年中の新設に係る者、実に五百四十一基、亦以て同地の工業が年々如何に発達しつつあるかの一斑を知るに足るべし。而して其の最も重なるは紡績、織布等にして、之に次ぐは鋳物、鍛冶、燐寸、製糸等なり。紡績、硝子、燐寸等の如き新工業に至りては、職工と雇主との関係ややもすれば円滑を失し、その間に種々の弊害さへあり。近くは中央同盟会対三井事件の如き、その起因する処畢竟、この問題に外ならねば当局者の苦慮する所、実に是に外ならず。」

『日本』(明治30年3月2日付け)





「◎神戸市の工業と職工・・・・・三十名以上の職工を使役せる工場製造所は七十七か所、同以下の分、百六十二か所にして、最も大きは燐寸製造所四十八、鉄工場四、樟脳製造所四なり。又、職工の数は一万三千三百六十三人、内、二十歳以上の男三千六百七十九人、女三百七十二人、十才未満の男、四百二人、女、六百四人なりと。」

『日刊世界之日本』(明治30年3月14日付け)







「◎職工軍団の組織・・・・・かねて伊藤為吉氏が職工軍団の組織に尽力せらるる由は聞く処なるが、去る十三日夜同氏は十七名の職工同道の上、キングスレー館に至り片山潜氏の社会的事業に関する談話を聴の便を與へ、且つ伊藤氏自らも一場の談話され、これより、毎週集会を催さるべしとなり。かくて、この種の人々をパン種となして、いよいよ職工軍団の組織に従事さるべしと云へり。」

『基督教新聞』(明治30年3月19日付け・第七百九号)




「◎社会的団体の消息・・・・・樽井藤吉氏の主唱に係わる社会問題研究会はその後、鳩山、島田、田口、佐久間氏等代議士、学者、新聞記者等百数十名の賛成を得ていよいよ来月三日発会式を挙ぐる由。又片山潜氏等のキング、リーア会は先ごろ発会式を挙げたるが、同会は直に実際的運動をなすはずにて、差当り貧書生の教育、貧民の救助、寄宿舎の設立等に力を尽くす計画なりと。又布川静淵氏の社会学会は前記社会問題研究会と合併すべしとの説ありしも、遂に別立することとなり来月早々機関雑誌を発行する由。」

『報知新聞』(明治30年3月24日付け)





「◎社会問題研究会の発会・・・・・社会問題研究会はすでに会員百五十余名に達せるを以て、来る四月三日、上野精養軒において発会式を挙げ、法学博士田島錦治、片山潜、松村介石、米国人ガルスト諸氏の演説ある由。」

『報知新聞』(明治30年3月31日付け)



「◎社会問題研究会の発会・・・・・社会問題研究会はすでに会員百五十余名に達せるを以て、来る四月三日、上野精養軒において発会式を挙げ、法学博士田島錦治、片山潜、松村介石、米国人ガルスト諸氏の演説ある由。」

『報知新聞』(明治30年3月31日付け)









「◎今日社会問題に熱心の士を挙ぐれば、刀圭家に後藤新平氏あり。長谷川泰氏あり。実業家に佐久間貞一氏あり。工業家に伊藤為吉氏あり。政論家に酒井雄三郎氏あり。経済学者に金井延氏あり。交通学者に下村房次郎氏あり。社会学者に片山潜氏あり。法学士に桑田熊三氏あり。尚ほ宗教家、経済学者に多かるべし。」

『国民新聞』(明治30年4月2日付け)

 

 



「◎社会問題研究会の発会・・・・・社会問題研究会は予期のごとく去る三日午後三時より上野精養軒において発会式を挙げたるが、来会者は四十余名にして、鈴木遠氏を座長となし、規約を議定し、役員を選挙したる後、一同晩餐を喫し、松村介石氏の「社会問題活動の順序」、米人ガルスト氏の「公平選挙論」外二三氏の演説ありて、散会せるは十一時ごろなりき。同会は毎月例会を開き、会員五百名に満つる時を期し機関雑誌を発行するはずなりという。」

『報知新聞』(明治30年4月6日付け)












◎同盟罷工・・・・・日本橋区南茅場町の東京電燈会社の工夫一同は去る八日より同盟罷工を企てたるが、其の原因は給金の増額を請求なさんがためにて、会社の方にても幾分か増額せんと目下相談中。」

『都新聞』(明治30年4月13日付け)







「片山氏の社会談・・・・・、、、資本家の組合はあれど労働者の組合はなし。労働者の勢力をして資本家と併馳せしむべきはもっとも必要なるものなり。、、、」

『東京日日新聞』(明治30年5月2日付け)








『東京日日新聞』(明治30年5月16日付け)




「本郷区丸山新町八番地に住む人力車夫中田順之助の女房おさと(三十八)の兄
中田義政(四十)は靴職工が業なれど、性来の怠惰癖が兎角良心をおおい
始終順之助の厄介となり居りしが、先頃より砲兵工廠の職工となり、
小石川区富坂町十番地の下宿屋長谷川かね方に止宿し、、、」

『東京新聞』(明治30年5月28日付け)










「◎同盟罷工(ストライキ)の基礎・・・・・某工廠の器械職工中重立ちたる七名の者工業同盟会なるものを設立して府下各工場の職工にその加盟を勧誘し、、、」

『中外商業新報』(明治30年6月3日付け)




「◎職工同盟・・・・・東京某工廠の器械職工中重立ちたる七名の者発起し工業同盟会なるものを設立し将来器械職工一同の福利安全を計るを趣旨とし目下各工場の職工その加盟を勧誘しつつある由なるが、その組織方法は加盟職工一人に付き毎月金一円づつを醵出してこれを積み立て金としてその金高相当の額に達すべき時を期してこれを資本金に供し一の製造所を設立して以て手を空くせる職工等に相当の仕事を与えんとするにありと。その将来同盟罷工の基礎を作らんとするものなるや否やは知らざれども、とにかくその趣旨を賛成して之に加わりしもの既に三百余名の多きに達しまさにその基礎成らんとすという。世の資本家たるものは注意しべき事なり。」
『日出新聞』(明治30年6月5日)




 


「◎資本家と労働者・・・・・某工廠の職工発起して工業同盟会なる名の下にストライキの基礎を作らんとする企画あるが、、、」

『中外商業新報』(明治30年6月5日)




















「◎同盟罷工の流行・・・・・今や横浜の船渠会社もしくは
横須賀造船所等に同盟罷工起こり、、、」

『中外商業新報』(明治30年6月23日)





「◎同盟罷工・・・・・同盟罷工の兆し、横浜其の他に顕る。
労働問題は、今や将に実際問題たらんとす。
社会問題の講究者よ、希ば労働問題の卵子をして、
腐融其弊に堪えざらしむる勿れ。」

『国民之友』(明治30年6月26日/第354号)


「◎同盟罷工亦た起こる・・・・・合併大いに可なり。但し、工場大なるに至れば、
職工の待遇もそれだけ心を尽さざるべからず。否らざれば、工場の支配人と職工の衝突は免がれざるなり。本月中旬、横浜船渠会社大工の同盟罷工起こりたり。警戒すべきなり。」
『国民之友』(明治30年6月26日/第354号)













「◎労働社会の趨勢・・・・・横浜、東京の船大工は今回の同盟罷工を機として、いよいよ強固なる団体を組織し、進んで気脈を全国の同業団体と通ぜんとするの擧あり。」

『万朝報』(明治30年6月26日付け)










「固より我国にはいまだ共産主義の如き極端論を唱ふる者あらず。又いまだ社会党の如き過激手段を弄する者あらず。しかれども、かの大阪に於ける職工問題の如きは、豈に戒むべきの萌芽に非ずや。且つ我国には決して貧民なきに非ずして、其の今日まで無事なる所以のものは、其の代表者を得ざるがためのみ。今日にもあれ、世を憤るの傑士、弱を助くるの侠者あり、かの簡明直截なる社会主義を唱道して、以て社会の生存競争に絶望せる無数の窮民を打って一丸となし、之を団結し之を号令せんや、社会党の発生は旦、夕を期すべし。」

『進歩党党報』(第五号 明治30年7月1日)










◎磐城炭坑会社・・・・・の所有に係わる小野田炭坑にては坑夫ら賃金増加を請求して、次いで同盟罷工を企つ。」

『神戸又新日報』(明治30年7月13日付け)







◎同盟罷工・・・・・東京本所なる平岡鉄工場その他二三の工場の労働者は賃金値上げを聞き入れられざるため同盟罷工。」

『神戸又新日報』(明治30年7月18日付け)







◎社会問題・・・・・労働問題、貧民問題、この類近日次第に頭をもたぐ。邦家の瑞兆なるや否や未だ知るべからず。」

『神戸又新日報』(明治30年7月20日付け)






「◎日本のマンチェスター・・・・・と題し英国新聞「ツレッペリーウオールド」は記して曰く。純粋なる日本の貿易市は唯だ一つあり。すなわち、大阪にして、日本人は実に日光よりも東京、京都よりも、実に大阪の紡績所、鉄工所を誇れり。大阪は実に進歩したる形式において、新日本を代表せり。されば、富と貨殖においては、実にその首位を占むと。」

『国民新聞』(明治30年8月15日付け)







◎鉄道局職工の同盟罷工・・・・・鉄道局新橋工場には目下塗、木、鍛、製缶、鋳物、挽立等六種の職工千二三百人ありて、之を十か所の工場に分配して作業しつつあるが、一昨昨日日塗工中総代とも見えゆる十人ばかりの者等は突然運輸部長兼汽車部長平井晴一郎氏に向かって俸給増額の請願を提出したり。然るに同工の如きは目下百二三十人ありて給料は普通十八銭以上九十銭位までを支給し比較的他工よりも高度の給料を與へあるを以て平井部長は一も二もなく跳ねつけたにその日は一同無事職務を扱いしも翌日に至り一同より辞職願を出したるまま出勤せず。同部は同盟罷工の模様早くも分かりしかば直ちに長野、神戸の両工場に打電して職工の補欠方を依頼し辞職を願い出でし者は直ちに之を聞き届けたり。然るに罷工者の多くはその日暮らしの者のみにて今日辞職すれば明日より早々衣食に窮するは必然の理なるに汽車部にてはすでに三十四五人の新職工を雇いいるる見込みあり。同盟罷工の効ごうもなく同盟者は何れも其の目的外れ一同大いに狼狽の色あるより芝警察署にてはこの際失望者無法の挙動をなさんも計られずとて大いに同部に交渉して警戒する処あり。同部も夜間職工取締りの巡回度数を増し大いに自ら戒めつつあるよし。」

『読売新聞』(明治30年9月24日付け)








◎鉄道局職工同盟罷工治まる・・・・・鉄道局新橋汽車課の塗師職工七十余名同盟罷工を企てたる顛末は過日来報道する処あるが右に引き続き同工場内の木工百五十名賃金増額の請願を提出し委員十六名を選んで掛長新波市川の両技師に迫りしが同課に於いては斯かる請願を採用すべきものにあらずとて懇々其の不心得を諭し直ちに願書を却下せんとせしに総代等はかくて我々折角委員に選ばれたる甲斐なきを以て何とか部下の者を諭すべきに付暫く願書を預かり置かれたしとの事なるより委員の請いを容れそのままとなし置きたるに右の木工職は一昨日午後より新肴町開花亭に於いて総集会を開き出席者八十余名にて総代より到底願意の採納せらるべき模様なきと報告し一先ず願書を取り戻し何分の協議を尽すべしと報告するや血気の職工等は願意採用せられざる以上は当初の決心の如く同盟罷工を企つべし。先ずそれまでは強いて願意の採納を迫るべしと主張し甲論乙駁の末採決せしに過半状ににてあくまで請願の意思を徹底するに勉むべしとの事に決定したるが総代等は到底この願意は採用せらるべき見込みなきにより我々は其の責を全くする野能はざるを以て総代を辞任せんと申し出で種々勧誘するも之に応ぜず然らばとて更に其の補欠選を行いしに何れも総代の任を受けんと云うものなく結局うやふやのうちに会を終りたり。然るに何れも同盟罷工を企つるも無益にして到底其の目的を達する能はざるを悟りしものにや言わず語らずの間に各人心は願書取戻しを願うに決し以前の不心得を詫びて其の趣を掛長に申し出でしより以来を注意し一同の願書を却下し平常の通り就業するに至り又た乙木工たる車輛修繕工場の職工九十余名も甲木工と同じく賃金増額の請求をなすはずなりしが此の組合は願意採用に至らざれば同盟罷工をなす事に反対せしため別の請願をなすはずに決し居りしが是れ亦た請願の無益なるを知り願書を提出せざる事に決したりと。又先に同盟罷工を企て解雇せられたる塗工七千余名は新規に四十余名雇い入れたるに気を挫がれその後復帰を請願する者続々ありて同盟罷工の雷同者に対しては将来再び前日の如き不都合を為さざる受書を?し昨日までに四十三名の復帰を許し何れも全工賃により就業し是れにて過日来の同盟罷工問題は総て治定するにいたりしが同所に於いては物価騰貴により職工の困難を感ずる事情を充分に察知し居るも予算の都合によりみだりに増額を許さざる次第にして来る十二月の昇給期に於いては各自の勤勉により相当の増給手当を為す筈なりと云ふ。

『読売新聞』(明治30年9月29日付け)












「◎深川川並の同盟罷工・・・・・深川区材木問屋中が常に使用する川並と称する業体は従来一百十六名にして一人一日の賃金四十五銭なりし処目下物価騰貴に付賃金六十銭に値上げを請はんと種々相談の上同区木場町町十二番地田中勇吉、大友政則、小林由蔵外百十三名より同区扇橋町材木商株式会社に談判の結果一昨日遂に同盟罷工せしを仲裁者あり同夜深更に及びて問屋より一名五十五銭との説出で結局調停纏まるべきし。」

『読売新聞』(明治30年10月2日付け)






明治31年

◎『労働世界』・・・・・は労働者の味方となりて種々の計画をなさんとするその志や善し。
ただ記事の多くは議論に傾きて目下の事情に通ぜざるがごときは惜しむべし。
今少し実地問題に切り込んではいかむ。(定価二銭北豊島郡滝ノ川村同新聞社)」

『時事新報』(明治31年2月10日付け)



 


「◎『労働世界』・・・・・は労働者の味方となりて種々の計画をなさんとするその志や善し。ただ記事の多くは議論に傾きて目下の事情に通ぜざるがごときは惜しむべし。今少し実地問題に切り込んではいかむ。(定価二銭北豊島郡滝ノ川村同新聞社)」


『時事新報』(明治31年2月10日付け)




◎富岡製糸場ストライキ・・・・・上州なる富岡製糸場は明治二十六年中種々の条件を付して政府より三井氏の手に譲られたるものなるが、労働賃金は其の月分を翌月十日に払い渡す例なるに今回之を十五日に改めたれば素より日々の賃金を得てわずかに生活する者の斯く払い渡しを延滞せられては不自由なりとこの程数人の女工事務所に押し掛け其の情を陳べたれども事務所は容易に採用すべくも見えず却って女工中の謀主と目せらるる一人を解雇せしより女工等の瞋恚一方ならず牛馬の如く使役せらるる上情を訴ふるも採用せざる残酷の主に使われんよりはと去る十日一同通勤を中止したれば係員驚愕は一方ならず取敢えず電報を以て支配人に急報するなど一時は中々の大混雑を極めたりと云う。」

『東京朝日新聞』(明治31年2月14日付け)







◎時事漫評・・・・・内地雑居は早や十七カ月の後に迫れり。党人空論に日をつぶして社会的大変動眼前に在るを見ず。」

『神戸又新日報』(明治31年2月22日付け)






職工、鉄工場を設けんとす・・・・・小石川砲兵工廠なる銃砲製造所にて去二十七八年戦役に際し職工一同非常の勉強をなし、随って収入も予想外なりしかば職工の重なる村松民太郎、原田栄吉等数名発起し右の収入中を割きて王子村に四百坪の地所を購入一の鉄工場を設立して将来職工の為安全の地位を造らんと計画中なるが、又同廠弾丸工場にても同様の計画ある由。職工が他の力を借らずして工場を起こさんとするは蓋し之を以て嚆矢(はじめ)とすべし。」

『東京朝日新聞』(明治31年2月26日付け)




◎活版職工のストライキ・・・・・深川区東大工町なる東京印刷株式会社の職工は男女合計三百五十余名にて其の中壮年者の重立たる活版職工百八名が一昨九日突然ストライキに及び同会社へ押し寄せて破壊せんと企てたるを早くも会社にて聞き知り深川署へ急報して保護を乞い数名の警官出張して非常線を張りたれば同盟連は意を果たさず挙って退社届をなして目下尚紛議中なるが、其の原因を聞くに職工は昨年十二月中物価騰貴を口実として増給の儀を迫り工場監督斎藤某へ願書を差し出せし処追って取り調べの上成績により多少増給すべしと云い渡しその後給料日なるや僅かの職工へ増給せしのみにて一同の不平俄かに起り何んとのう穏やかならざりしが本年三月に至りて職工中の頭株なる本所区入江町十九番地吉岡秀之、同区徳右衛門町二十四番地中村八十吉、同区北新掘町六十九番地中村広次、同区林町三丁目五十六番地木村音次郎、深川区西六間堀町三十五番地安田徳次郎、同区伊勢崎町二十九番地寺島栄之助、浅草区福井町一丁目二十四番地大崎彦造等七名は主唱者となり活版工同志懇話会というを設立し忽ち同会社にて百八名、他工場のものも賛成者多く終に加盟者百三十余名に及びたれば其の第一回を東両国の待合武蔵屋に開き米国文学博士片山潜、労働組合期成会幹事高野房太郎の両氏も其の趣意を賛成して一場の演説をなし本月三日又も第二回を同家に催し席上八名の幹事を選挙せしに宮城富次郎、吉田平吉外六名当選し更に同五日は評議員八名を選ぶはずなりし所同五日の夜会社にては本会発起人たる吉岡、中村二名、安田、木村及び幹事宮城、吉田等4の七名を既に解雇したる旨通知し来たり。同夜前記西六間堀町の安田方に集会し居たる七名は大いに驚き先ず会員には知らせずして自余の幹事と七名の解雇者とは其の夜直ちに印刷会社長星野氏及び工場監督斎藤等に面会し解雇の理由を質さんとせしも斎藤は不在なりしに是非なく副社長多富久氏に談判せしも此の事に付いては工場監督の権限にあれば我等は更にあずからず併し明日」出社のうえ何とか穏便に取り計らいをなさんと慰諭されて一旦退ぞき又星野氏を訪ひしに来客ありて面会せずそのまま安田方へ引き返して種々の評議を尽くしたけり(つづく)」

『東京朝日新聞』(明治31年4月11日付け)

 

◎活版職工のストライキ・・・・・安田方に引き揚げたたる解雇者も右の外懇話会発起者及び幹事等は翌六日の午後六時より更に集会し先に発会の席上高野氏の演説にもストライキは平穏に非らず。而も不利多くして益少なしと云われたる如くなれば我々は飽くまで平和の方針を取り一切会員には秘密として解雇者の復職を会社嘆願し聞かれざれば其の理由を詰らんとの意見にて同七日解雇者七名は印刷会社に出頭したれど一向要領をを得ずこの上は事情を会員に通じて其の尽力を乞うの外なしと同夜七時頃より東両国の武蔵屋に打ち寄りて臨時総会を開き会員一同に従来の事情を報告し此の結果総代として翌八日会員栗田正生外二名を会社に派し同日午前十時頃星野社長に面談を求めしも尚出社せず去らば他の重役に逢いたしと押し問答の中社長出社して三名を奥の一間に通し復職談判に取りかかりしも埒明かず遂に午後三時頃三名共袂をはらって退き談判不調の旨を社内の幹事に通知しそれより一般会員に伝えて同夜六時より再び武蔵屋に会せんとせり。然るに突然工場監督より本日は三時間の夜業を課する旨を申し渡されしが一同激昂の折柄とて耳にも掛けず工場巡視又は世話係等が百方説諭するをも聞かずして続々退場し同盟者百八名は武蔵屋に馳せ参じここに大評定の末前記栗田等三名の外高橋幸次郎外一名の委員を挙げて明日は会社に於いて曖昧の処置をなさばいよいよ破壊的運動に出づべしと決議し且つ同盟者は今後如何なる事情あるも再び同会社の雇使に応ぜずとの誓いをなしたり。さて九日早朝には百余名の会員悉く会社の近傍なる水野某方に集まらんとせしに警官早くも出張して警戒し居りやむなく一人二人別れ別れに水野方に到りしも警官四方を取り巻き居るに都合悪しと又又一人づつ引き返して同区元加賀町の今井方に集まり此の旨委員に通知せり。こちらは談判委員の栗田等五名打連れて会社に到れば警官出張して門内へ入れしめず種々弁解してようやく高橋外一名が工場世話掛りなるを以て右二名だけ入社を許され二名は社長に面会して談判せしも同じく要を得ずよって断然決心して我々はじめ百八名は本日限り退社すと告げて引き揚げ直に懇話会の名を以て「同業者諸君に望む」と題せる一片の檄を飛ばしていよいよストライキの事実と歯なりしなり。去れば会社株主中には種々の議論ありて社長初め重役は大いに周章し最初七名の重立ちたる職工を解雇せしは自然かの同志懇話会を解散させストライキを防がんと図りし策略なりしも却って之が導火線となりストライキの機を早めたるは監督者の過失なりとて工場監督斎藤某の罪を鳴らすなど去る九日再三会議を開きて善後策講じ居れり。(をわり)」

『東京朝日新聞』(明治31年4月12日付け)

 



「◎燐寸業者休業・・・・・兵庫県燐寸業組合総会において、来る九月一日より当分製造を休止する事に決せり。燐寸業のために生活せる者は神戸市のみにても三万人以上に出でん。然るに今日の製造休業により、これ等の大半自ら業を失い、糊口の途を他に求めざるを得ざるの不幸に陥るものにして、職工社会に一大恐慌を来さんこと勿論なるべしと。」

『日本』(明治31年8月29日付け))






「◎神戸市の如きは沖仲仕、燐寸稼業人を以て細民の大半を占むるより、近来の如く、燐寸製造を減じ、仲仕業の閑散を致すに及んでは、一市細民の生計に影響する事実に鮮少ならざるものあり。」

『神戸又新日報』(明治31年9月19日付け)







労働同盟大会と日本人・・・・・英国新聞の報ずる所によると、先ごろブリストルにて催ほされたる労働同盟大会において、二名の日本人は日本労働者二万三千人の代理者として出征せりとあり。」

『東京朝日新聞』(明治31年10月14日付け)








明治32年

 













 

「◎労働組合期成会月次会・・・・・一昨日午後四時より神田青年会館に会合した高野、片山氏等外各支部の委員十数名談笑の間、期成会の機運既に熟したるを以て更に完全なる事務所を新築するの要ありとなし、三カ年を期して画策し五万円の建築費を募集するの議を次回総会に提出すること、尚ほ将来会の規模を拡張すること、大宮及び横須賀に大演説会を開くこと等を決し、午後六時より大陸及び英国を遊歴して労働問題を研究し近頃帰朝したる桑田農学士の演説及び他数番の演説ありて散会せり。」

『都新聞』(明治32年2月1日付け)

「◎労働組合期成会の拡張・・・・・労働組合の先鋒として産まれ出でたる鉄工組合は組織後僅々一年間に三千人余の会員を得たれば、この際更に会務を拡張し全国の諸種労働者を糾合して労働組合の基礎たるべき一の中央団体を組織し、やがて来るべき資本家との衝突に際して、大陸にしばしば演ぜられたる最も忌むべきニヒリスト主義の暴挙を救済し、我が国固有の家族主義労働者の美風を維保して其の共通の利益を計らんとすと云う。」

『都新聞』(明治32年2月2日付け)





「◎石工の同盟罷工・・・・・去る六日以来、当市において石工の同盟罷工起こり、ために諸所の建築等に差支えを生ぜること少なからずといふ。今その顛末を聞くに、当地の石工間には、かねて組合ありて、之に属せるもの約五百名あり。然るに一昨年までは同組合の石工標準賃金一日五十五銭の定めなりしに、同年中諸物価騰貴のため十五銭方引き上げ七十銭となし、爾来今日まで継続し来たりたるが、近来不景気の結果、仕事は減少し米価は下落したるをもって、石工の賃金も引き下げざるべからずとて、当地石商工業同盟においては、去る四日協議の末各十銭方を引き下げ、即ち石工の手取りを六十銭とする件を決議し、之を石工組合に交渉したり。然るに同組合においては、この引き下げを不当としてその交渉に応ぜず、遂に去る六日より同盟罷工をなすに及べり。よって石商の方にては再度協議の末、更に石工組合へ交渉する所あり。石工の方にては一先づ親分(組合中の頭分)の下にて之を預かり、それぞれ石工に説諭したる上昨八日中に何分の回答を居すこととなりたるが、この稿起草のころは未だ回答の運びに至らざりき。なをこの同盟罷工のため一般に及ぼせる影響を聞くに、右は石商同盟と石工組合の中に起こりたることなれば、石商の手を経ず直接に石工を使用する向きは何の影響をも感ぜざること勿論なれども、今日の所にては大抵の土木請負業者は皆石商の手をもって石工を使用せるを以って、土木請負業者はほとんど一般にその影響を受け、したがってそれら請負業者の手にて工事中なる建築工場は、いづれも石工休工して少なからざる困難を感じ居る由。併し、一両日中には折衷説位の所にて折り合ふべき見込みなれば、差したることはなかるべしと。」

『大阪毎日新聞』(明治三十二年二月九日付け)




「◎仲士組合連合会・・・・・当市の各仲士組合は近日連合会を開きて諸件を協議する由。」

『神戸又新日報』(明治32年2月13日付け)



◎青年演説隊・・・・・組合の熱心家にして兼て弁士の聞こえ高き高橋定吉、馬養長之助、間見江金太郎君らの主唱に係る労働組合期成会青年演説隊は眠れるか如き目下の労働界を警醒誘掖し本会に加盟せしめ強固ににして優勢なる団結と為し大に翼を伸べんと欲したるとこは固より期成会の目的にして毎月数回演説会を催すの企てあるも其鋒芒の向ふ所は大部分の勧誘に止まり偏僻の細民部落に迄行き届かざるの感あり。故に青年演説隊は此等の方面を鼓吹せんと欲し冒頭の如き小結合を為さんと同志者間に謀りたるに孰れも大賛成にて会員中百名余の賛成を得たるを以て遠からずを兼ね演説会を催す由。因に云ふ。組合員にして賛成加盟せんと欲せらるるの士は期成会事務所へ宛て申込を為せば入隊手続を為すなり。

『労働世界』(第三十号・明治三十二年二月十五日)

 





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◎鉄工組合委員会・・・・・一昨夜開会のはずなりしが、出席者少数のため協議に止めて散会せり。」

『都新聞』(明治32年3月28日付け)





「◎労働問題演説会・・・・・本日午後六時より深川東森下町八番地真言説教所において開会する由。」

『千代田新聞』(明治32年4月8日付け)


◎労働組合の衛生演説・・・・・神保医院長鈴木篤三郎氏は嘗て砲兵工廠職工の年々肺病にて倒るる者増加するを憂い精細なる統計を作りし事あるが、今回労働組合の片山潜等と謀り今二十九日午後七時より神田青年会館において肺病に関する演説を為し、尚須田卓爾氏も眼の衛生に就いて談話する由。」

『都新聞』(明治32年4月29日付け)

 

◎砲兵工廠職工の呼吸器病・・・・・東京において最も多数なる職工を使役する器械工場は小石川の砲兵工廠なるが、この工場内には常に呼吸器病患者を出だす事おびただしく、ことに恐るべき結核性肺炎のために死する職工数非常に多きが、その原因として見るべきは十二時間の労働に加ふるに請け負い組織の割増時間ありて身体の疲労甚だしきに、同工場の制規として弁当を持参することを許さず、ために頗る粗悪なる昼飯(代価三銭五厘)を食するのみならず、家屋の換気法不完全にして腐敗せる空気滞留し、蒸気を使用するの結果、余熱は工場内の気温を高め、ために塵芥飛揚するのみならず、職工の気管粘膜を損傷し、而して外部よりは衆人稠密して労働するため、結核菌の伝染を招きやすく、遂に現今の如き肺病の大流行を来せるものなりと。かくの如き有様なるを以て、工場内各部職工長は委員会を開き」て職工保護法を講究するはずなりと云う。」

『都新聞』(明治32年6月2日付け)

 

 





「◎市内の石商と石工・・・・・当大阪市内における石商人すなわち石屋と称する者は、百四五十戸ありて石商同盟会なるものを設け、一定の規約の下に職工を使役し、職工においても一の組合を組織し、市内五百余名の職工は賃金及び就業の時間を一定にし、石商に対する気受け頗る良かりしものありしに、本年二月石商同盟会は諸物価の下落せしを理由として、賃金の引き下げをなしたりしかば、職工組合は大いに之に激し、一時同盟罷工をなすに至れり。爾来相互の感情兎に角面白からず、中にも近ごろ他方より入り込みたる職工の中には、どうもすれば石商に対し強請りがましき行為ありて、石商の迷惑すくなからざれば、石商同盟会は今回有力なる人物を雇い入れて同会の取締りを一任し、一方には市内各警察署へ特別の保護を願い出づるはずなりという。」

『大阪毎日新聞』(明治三十二年八月八日付け)




「◎労働者保護演説・・・・・今明両夜、兵庫弁天社内亀甲亭において、かの清人非雑居に関する演説あり。弁士は東京雄弁会員土肥新氏其の他数名なりと。」

『神戸又新日報』(明治32年8月11日付け)




「◎神戸労働者の運動・・・・・神戸の労働者三万余人清国労働者非雑居運動をなさんとする由は報ぜしが、今度いよいよ清国労働者非雑居期成同盟会なるものを組織し、本部は神戸市栄町五丁目四十三番邸に置き、五府三港其の他樞要の地には追々支部を設くる由。」

『横浜毎日新聞』(明治32年8月23日付け 欄外記事)










「◎時事漫評・・・・・横浜にはペンキ組合、神戸には清国労働者非雑居同盟。これらは先づ労働問題の先駆でもあるか。」

『神戸又新日報』(明治32年10月5日付け)





「◎労働組合期成会・・・・・同会は産業発達のために資本と労働との調和を望み、
更に労働者の自主の気象を養はしめんとの目的を以て
去る三十年に創設されたるものなるが、
同会には鉄道工夫、靴工、土方、その他職工らの入会者多く目下会員五百人あり。
毎月一名二十銭宛の積金をなし、労働問題の演説会
その他の運動費に充つると云う。」

『時事新報』(明治32年11月13日付け)

 

 



明治33年

◎職工連の衝突・・・・・品川ペイント会社の職工渡辺金次郎(二十二、三)外五名は昨日汐干狩の帰路、、、品川、、、院前に差し掛かりたる際、同町桜組の靴工中川藤作(二十五)外三四名の者が微酔を帯びて通りかかりしに出逢い、双方互いに論争を始めたるが気早の藤作は忽ち携えたる貧乏徳利を以て金次郎の後頭部を殴打し長さ一寸二分外二か所の負傷をなさ、、、張して先ず被害者金次郎を品川医院に連れ込み、それより加害者を品川署へ引致したり。金次郎の傷は凡そ二週間位にて全治すべしとのこと。」

『時事新報』(明治33年4月4日付け)


◎洋服裁縫職工の運動・・・・・柳原、日蔭町、緑河岸等の仕入れ洋服屋の下職をなしおる裁縫職は、従来機会の至るを待ちて格別値上げ運動なさざりしも、物価日に騰貴して如何にしても今日のままにては持続なしがたきより、一同協議の上洋服商に向かって三割の値上げを請求せんとせしも、斯くのごときは其の各自店に向かって請求する方便利なるべしとの説起こり、別々に請求なしたる所、他店にてさえ承知せば此方には異存なしと答えしもあれど、大抵はいづれ其の中と逃げを張り、殊に日蔭町一派の商店は断然之を拒絶せしにぞ、職工等は大いに激昂し、そろそろ同盟罷工の仕度にかかりたるに、洋服商の方にても大いに驚き、目下その調停について奔走中なり。」

『万朝報』(明治33年4月16日付け)




◎忠愛社の紛紜・・・・・京橋区八官町印刷業忠愛社の文選長末木義太郎は事務取締り上の事より社長太田実の処置に不満を抱き、本月一日限り退社せしかば、末木の部下なる職工等も相率いて退社の事に相談を定め、其の内の若干名は二日の朝六時半ごろ工場へ忍び入り原板十数個を破毀したるを、忠愛社にては其の後に至りて発見し、直ちに職工等を集めて問いただしたれど、唯一人白状する者なく目下尚ほ紛紜中。」

『万朝報』(明治33年11月9日付け)

 








明治34年

二六社の労働者大懇親会制限せらる・・・・・明三日向島に開く二六新報社の発起に係る労働者大懇親会は警視庁に於いて所詮取締の目的を達し難きの虞あるを以て公衆保護上会衆に制限を付し且つ左の二三項を諭示したりとの事なり。
一、労働者大懇親会集会の人員を五千人に限る事

一、来集者には一切酒類を與へざる事
一、豚追の如き行為を為すべからざる事
一、来集者に棍棒類を携帯せしめざる事。」

『読売新聞』(明治34年4月2日付け)











労働者大懇親会(明治34年4月3日 東京・向島)



『風俗画報』












 






 

 

 
















労働者大懇親会(明治34年4月3日 東京・向島)



『風俗画報』




























労働者大懇親会(明治34年4月3日 東京・向島)



『風俗画報』




◎労働者大懇親会(花涙生)・・・・・二六新報社幹事となり、十二万人までは会員の申し込みを謝絶せじとの触れ込みにて、四月三日の神武天皇祭を期とし、桜花爛漫たる向島白髭祠畔に、労働者大懇親会を催さむとて、五万余人の会員を得たるが、其の筋においては、治安警察法八条の明文に?り、安寧秩序を保持せむがため、酒類を禁じ、豚追を差し止め、棍棒の類を携帯するを許さず、集会人員を五千人に制限せられたり。されば幹事は先着者五千人を以って、当日の会員と見?すべしとの議に決し、各組合の労働者団体は、前夜来会場の近傍に野宿し、開場の報あると同時に入場すべしとの報に接したれば、夜景をも視察せむとて、我が風俗画報においても、午後十一時を期して、記者画工、一同編?部に会合し、軽装夜半を?して出発せり。時に陰暦十四日の月光は、?々と照り渡りて、市井寂たり。浅草広小路に?ぶ頃、人車は左右に飛び交いて漸く寂寞を破る。柳陰に客待ちする車夫は、余等一同を認めて、白髭まで往かむとすすめ、今宵の客は悉く皆草鞋穿きなりなど呟きて、余等が洋服姿にて、写真機を携えたるを見て、二六記者か将た楽隊ならむなど語らえるもおかし。?ち物影に跫音は聞こえて、数十人団隊を組みて、勇ましく進行するは、参会に洩れじと足並み疾き労働者の一群よ、吾妻橋に差しかかりたるに、隅田川の流れ、滔々として、遠く水神白髭の杜を望むに、数千の炬火天を焦がし、多数の会員は既に入場したるか、時針機を閲するに、零時二十五分、嗚呼?むぞ壮なる、人は熟睡する枕橋を渡りて、長堤を辿るに、桜花正に花を発くもの三四分、月色光被、夜桜はまた趣きのあるものよ。三々五々、遅れ走せとや思いなしけむ、幾隊となく、我等が前面を奔せ過ぎぬ、目途は同じ、それもこれも労働者なり。白髭祠畔に詣るに、堤内川原に面して、十二万坪と註する広場、三方に竹矢来を続らし、場内所々に?火を焚きて、記号に部長、伍長などしたる大旗小旗を樹て、各自に縄張を施し、?の人影は、兵士が戦場に臨みて、野営を張れるにも似たらむか。殊に奇観なりしは衛生隊なり、要所にテントを張り、白衣姿の看護婦は、凛として、花の精か、月は朧に霞みつ、夢の如き光景を呈したり。我等は二六社が、予め設け置かれたるテントの内に憩ひぬ、夜風は寒し、篝火を焚きて暖を取る。場内未だ準備全く整はずして、聞き及びたる二六鉄道十二列車も、ペンキ職人の夜を徹して、工事を急ぐにぞある。月は西に落ちて、篝火倍々?なり。?旗空を?ひ炎?天に?るの状、修斎子之を写生せり。時に午前三時。長堤を縫うて来場するもの、其の数を知らず、警吏の所置漸く厳ならむとす、夜は未だ明けざるなり。一人の警官あり、余が露営に来り暖を取る、曰く手套を河中に落としたりとて、絞りて之を温むるなり、余等一同は厚く其の労を謝し、当日の会合の?なからむことを語らいにき。夢は遂に結ばれず。東天紅を呈する比ひ、会員は場内所せきまで充満せり。暁の風肌に薄ら寒く、夜の黒幕は次第に明け放れぬ、朝桜匂い香ばしく、心地清々しければ、四辺を?はすに、場内を遠巻きにして、十数間を隔たる毎に、警吏の配置あり、隅田の中流には、水上警察の汽船碇泊し、ボートを?して、間断なく警戒せり。
場内の配置
白髭祠前巡査派出所の側には来賓入口あり、会員の入口は派出所を過ぎて青竹を結びたる所に在り、十二の入口を設けて一人宛之を?め、雑沓するなからしめき。場内の中央部に位せる小高き丘上には四本の柱を樹て、紫?緬の幕を張り、『祝大運動会』の五字を題したる額面を掲げ、幹事来賓、会員総代の演説場となし、小丘の隣りて音楽隊ありて、劉?たる楽譜を奏しぬ。来賓入口の傍に便利店と朱に書きたる家屋あり、内外用達専廣社の出張店あり、又来賓席ありたり。二六衛生隊本部は、場内の南隅に設けられ、第一救護所と称し、西、北、東隅に、第二、第三、第四救護所を置き、二百余名の救護医員、薬剤師、看護婦を之に配置したり。隊伍整々として其の部署に著し各所に篝火を焚きつつ屯せしは、宛も野戦衛生隊の如く勇ましかりき。衛生隊本部に隣りて、余興係、接待係、兵?係、各詰所あり、第三救護所に接して警官詰所を置き、其の傍のテントは我等が席なりき。極北小松園に隣れる所、竹矢来に沿うて、飛泉睦と軒簾に染めたる茶店あり、余興及び飾物は次に述ぶることとしつ。会員は広場に大旗小旗を横へ、縄張りなどして陣立をつくり、二六社員は、入金亭を以って本部と定め、総て是等監督の任に当たりぬ。夜未だ明けざるに、既に満員を告げぬ。会員は夜陰を?して来れる者のみなれば、昼食の弁当を朝飯に供することとはなりにき。この弁当は、魚十、松屋等の受負にて、水上、陸上より速やかに運搬したり。社員は之に酒券及び福引券を付して、会員に分ちたるなり。又当日は、先着者五千人を限りとしたれば、会衆に洩れたる人々には、入場券引換えにて会費を返戻し、福引の箋は新聞紙を以って之を披露し、酒券は鍛冶橋外銀釜柴田方において、正宗に引換える都合なりとかや。
式場の模様
午前七時、煙火三発、開会の合図をなすや、式場本部即ち中央の丘上には、黒丸の旗揚がり、会衆一同に静まるべく命ずると同時に奏楽は湧きぬ。福田和五郎氏、幹事を代表し、音声を四隅に徹通せしむるがため、拡声器を用い、左の如く演説せり。
労働者諸君ならびに来賓者諸君、後進微力の二六新報社敢えて自ら?らす本会幹事の任を?にし此の未曾有の盛会を見る、社会気運の然らしむる所とはいえ亦一に諸君同情の深厚なるに由らずんばあらず、幹事等何の辞を以ってか謝せんや、諸君、本日の会合は読んで字の如く労働者の懇親会にして単に懇親というの外別に何等の意味あるにあらず、即ち一年三百六十日営々額に汗の絶え間なき諸君が此春風??天地の陽気方さに旺するの時に乗じて相共に一日の清遊を偕にせんとするに外ならず、しかしながら諸君、一指の交々弾かんよりは五指共に打つの強きに如かず、諸君は此会合において偶々従来の如き隣保且相知らざるが如き個々別々的生活の極めて頼り少なきを覚るに至らば?望外の幸のみ、諸君、、、

、、、煙花  開会の前後に間断なく打ち揚げられたり。
劇場  式場の前面に舞台は設けられぬ。宮戸座俳優連の催しにて、日高川人形振、道成寺鐘供養など、喝采を博したり。
剣舞  神刀流日比野氏の剣舞術ありたり。
二六角力  神田の素人角力にて、思い思いの飛び入りあり、是亦大喝采なりき。
棒すべり  場の南隅に、高き二本の棒を樹て、その一端に、半?、手拭、風呂敷等を吊し、首尾よく登り得たるものは、之を所得にする趣向にて、半ばにして滑り落つる者もありて破顔一笑の価ありき。
大黒屋の風船  大黒屋が寄付せし数十の軽気球、大空に舞い上がりたるも、景気を添えたり。
積樽と傘の門  木村唯一氏寄付の積樽と、鳥松寄付の傘は共に二六形に綴りて、一大飾門として、衆目を惹きぬ。
米国鉄王の油絵  最も目立ちたるは、会場の真ん中へ立てられたる、米国鉄王カーネギー氏の油絵肖像にて、氏は賤しき労働者より鉄王と呼ばれし人傑なり。 
落花狼籍
労働者大懇親会は、平穏無事に式を終りて、余興に移りぬ。余は山下氏及び黒崎氏と共に、式場跡の丘上に登りて、劇場の幕開きを遅しと待ち構えたるに、忽ち豚追始まれりとの声に促されて、黒崎氏と直ちに現場に赴きぬ。群衆と警官の間に格闘を惹き起したる?、人波は著しく動揺したり。聞く、豚を川に放つなりと。余は川原に出でぬ。数人、肩を流れに没して、互いに争う状を見たり。水上警察官は、船を出して之を救護す。彼等壮丁は、船縁に取り?るよと見えしが、各々身を躍らして船中に投じぬ。船は忽ち覆へらむとしつ、一頭の豚は猛然?起こしたるなり。警吏は満身雫たり、壮丁また負傷せり。川原にいたる群衆は、?を拾ふて、船を狙撃すること雨の如し。この時後背に方りて、またもや豚追いありと叫ぶ、否豚追いにはあらず、本所駒止橋際の獣肉商が、寄付せる十頭の豚、場内の一隅なる籠の中に繋ぎありしを、数に洩れたる会員等、弁当すらも受け取る能はずとなし、憤を発し、豚を放して快となし、或は之を捕獲し携へ帰らむとの故意なりなど、異口同音に言いぬ。之を捨て再び最前の小丘に到るに山下氏あり。劇場の舞台にては、今しも日高川の幕なりき。此の丘や、敢えて隆しとにはあらざるも、平野の中央部に位するを以って、場内の光景は一?の中に収むるを得るなり。群衆の動揺は倍々著しく、便利店をさえ破壊せむと企つる者ありて、警官が之を制止するも行なわれざるなり。遂に傘の飾門を破り、之を蹂躙せり。暴漢は餓虎の勇を鼓して我が小丘を襲い、転じて停車場を破壊し、酒樽を積みたる飾門も半ば?撤して、鉄王の肖像すらも之を粉砕せり。数百人、否数千人?を作りて、一致の行動を取れるなり。是においてか、余輩一同が位置とても、決して安全を保し難ければ、徐ろに場内を退却せり。時針機は午前十一時を報じぬ。路を小梅に求めたるに数十名の警官応援のため出張するに遭遇せり。吾妻橋東中之郷において、豚の四足を手拭にて縛し、凱歌を挙げて之を昇きて往くを見たり。当日の会合に洩れたればとて、嗚呼何たる暴動に訴えしぞ、同新聞には、入場券引換えにて、会費を返戻すべしとさえ報じたるにあらずや、固より労働者のみ、理を以って諭すべからざる也。されど一説には、同社が人権問題と称し、娼妓が自由廃業に尽力したることありとて、各遊郭の楼主妓夫等に、怨を結べるが大なる原因ならむといえど、詳かならず、労働者懇親会にして其の所信を任げす、其の実を全ふしたらむには、望を将来に繋ぐこと多し。余は二六社が、たとえ散会後とはいえ、暴漢の毒爪を免れざりしを遺憾とし、深く同社並びに一般労働者のために之を惜しむ。」

『風俗画報』





「◎如今労働運動奈何・・・・・従来労働問題に関して警告せし所一にして足らず。吾人は常に労働者に同情を寄せ、其可憐の境遇を脱せしめんことを希望して止まず。蓋し日本立国の方針に顧み、斯問題の喧びすしきに至ることを予期すればなり。今斯に一言せんとするは、目下の事情たるや、彼実況に暗き机上の論者、空想的学者又は長袖連の予想せる所に比して稍違ふ所ある一事なり。今日一部有志の労働運動なるものは職工組合を組織し、其知能を開発し若しくは死生の大事に際して相互に助力する等、大いに見るべきものありと雖も、他の半面を眺むれば多少感服し得ざる潮流の横たはるを見る。潮流とは何ぞや。曰く。目に一丁字なく社会の事情に暗き者にして、其の頼る所は唯一社会主義、普通選挙にあるを信ずる如き其一なり。社会主義や普通選挙の精神たる吾人之を賛すると雖も、職工等の我等は社会主義で以て貧富の懸隔を打破せねばならぬ、普通選挙で以て政権を握らねばならぬ、此の二つの外は何もない、之に反するものは皆敵だ、という如き大気焔聞かされしこと近頃は珍しからざるに至りては少しく其の弊に顧みざるを得ず。之れ有志が労働者に同情を寄せ□之を演説し之を鼓吹したる結果なるべし。此に就て吾人の注意すべきもの三つあり。一は右の如き潮流の行末は過激粗暴にに走りて、わけもなく社会党や平等説を説きドイツフランス等における如き轍を蹈むの患あることなり。二は斯くの如き潮流を速からしむる以外、未だ労働運動に着手する人士の少なきことなり。資本家と労働者の調和を論ずる者はあり。社会政策の必要、計画を説くはあり。国家社会主義を標榜する者はあり。而も多くは机上の論客にして、着々実行を企画する者少なし。故に過激の潮流は将に夫等に勝ちつつあるものと云うべく、且つは労働者の常たる所謂机上の学者論を聞かずして、唯社会党や平等論に耳を傾け易きものなることを注意せざるべからず。三は政府の処置なり。工場条例未だ成らず、而して労働者懇親会は従来数回解散せられ、先ごろ二六社の企画せる所をも制限し去りたる如き、当局者には相応の思慮する所あるを信じれども、夫等の処置は案外に労働者のして反抗の勢いを高めしめ、我等を蔑視するというが如きの悪感を生せしむることあれば、将来の監督上にも面白からざることあるべし。要之、一部人士が徒らに多数の労働者を会して社会党的の鼓吹に力め唯之を以て能となす如き、今日の労働運動の順序としては一弊あり。社会主義や普通選挙の如きも今日の場合成るべく有識の輩を選びて其の精神を唱道すべき者ならずや。又法制先生等が机上の空論を巧みにし、規則条例を以てすれば万事足るが如く思惟し去り、実際の労働者に近接することもなく、冷然として議論のみに長ずるは今日の場合殆んど用途を失する者と云うべし。更に当局者の処置往々彼等の反抗を高むるの原因たらんとするは、国家の為め不祥の至り。各共に意を用いる所ありて可なり。惟ふに右三者相一致共同して、融化する所なくんば、労働問題の解釈されんこと難しと云うべし。吾人は学者と実際家と政府との三者が相反背なからんことを希望に堪へざるなり。」

『社会』(第三巻四号 明治34年4月20日)

 






「◎日本の労働運動(片山潜、西川光二郎合著)・・・・・我が国の労働者は従来久しく封建制度の下に抑圧せられ自ら卑屈に甘んじて鞭撻せらるるも唯悲鳴あるのみ今日立憲治下の民となりても猶旧民に安んぜしが近年漸く意を此に致す者ありて彼等のために其痛苦を訴え権利を伸張せんとするは喜ぶべし本書は従来労働社会に於ける各種の運動、組合等あらゆる方面に就いて詳細記載したれば志士仁人たる者宜しく一読すべし巻頭には労働界のため心力を尽くせる諸名士の有志者の肖像を掲げたり。(本日の新書紹介欄参照)」

『読売新聞』(明治34年5月29日付け)













 

 

 





「◎横浜沖人足の同盟罷工・・・・・日本郵船会社横浜支店常用の沖人足三百余名は
常に沖合に碇泊し居る同社船舶の積荷揚げ卸しを為すものなるが賃金の事より
一昨日来同盟罷工を為し同社の迷惑大方ならざる由なるが、
其の原因は元来神戸各地の沖人足は新旧論ぜず平等の賃金を支払い、
且つ沖の船舶より受くる認め(酒代の事)も当日直ちに割与ふる例なるに、
横浜にては此れに反し旧に一割二分新に八分の割合にて日給を支払い
且つ認めも六カ月ごとに割り当てる事となり居るを、
神戸の如く新旧の日給を平等にし認めも当日支払いくれと
請求したるも容れられざるためなりと云うが、
昨朝来会社と双方を仲裁する者あれば、
多分昨日中には結果を見るに至りしならんと。」

『都新聞』(明治34年8月15日付け)




















「◎関西労働組合期成会(十五日大阪特発)・・・・・今日当地の労働者一部の発起にて労働者の品位を高め其の権利を振張し相互の保護をなさん目的にて関西労働組合期成会なるものを創設し昨今それぞれ趣意書を配布し入会勧誘に運動中なり。」

『東京朝日新聞』(明治34年8月17日付け)




「◎労働者懇話会・・・・・一昨日午後六時より神田青年会館に催したる都下労働者各組合有志の懇話会は活版工、鉄工、靴工を初め其の他各組合よりの出席者凡そ一百余名にて最初に秀英舎監事たる富山幸二郎開会の辞を述べ次に普通選挙同盟会幹事北川筌固は普通選挙と労働者の関係を演説し次に片山潜は只今大阪より帰りたりとて旅装のまま演壇に現われ現時の社会問題より説き起こし工場建築法に付大阪に於いて実査したる事を述しそれより大井憲太郎登壇し今回上京の趣旨より労働協会本部設置の事を述べ進んで都下に一大労働会館を建設し各労働組合の大会合は勿論平常に於いて各労働者の部門を分かちて調査局を置くべしとの議を提唱し満場大喝采の裡に降壇したり。是に於いて活版工組合の鵜澤幸三郎の発議にて左の三項を決議したり。

一 普通選挙の実行を期す事

一 工業条例の発布を促す事

一 労働会館設置の事

尚ほ該懇話会を毎年四季に開会する事等を協議し終りて会を閉じ更に別室に於いて茶菓を喫し夜十時頃散会したり。因に云う。自今該会を日本労働組合連合会と称し事務所を開設する事となり各組合より委員を出し尚ほ其の常務委員は片山潜、川島烈之助、鵜澤幸三郎の三名任せりといふ。」

『万朝報』(明治34年8月26日付け)

 

 

 

 

 

「◎労働青年会の創立・・・・・関西労働組合期成会を創立したる当地鉄工有志者は大日本職工教育会幹事和田助一氏等の間にその主調目的を同うする団体組織の計画あるより之と合同をなし更に大規模の団体を組織することとなり労働青年会と云ふ名称の下に昨今有志を募りつつあり。而して今回工業之花臨時発刊を以て右創立の主旨方法等を発表したるが事務所は西区阿波堀三丁目なりと。」

『大阪朝日新聞』(明治34年9月24日付け)

 

 



「◎労働青年会の演説会・・・・・予て労働者の教育救済経済娯楽の事業を第一として資本主との間に美風を養成せんと期して設立したる労働青年会にては委員の発起にて十月一日夜より北区天神橋筋五丁目池田町妙見堂にて労働の演説会(傍聴無料)を催すよし。当夜の出席者は(演題未定)大井憲太郎(現代社会の犠牲者)吉村平造(富豪の生活)小川定明(我々はドウしたらよいか)和田助一の諸氏なり。」

『大阪朝日新聞』(明治34年9月30日付け)



 

「◎労働団体連合本部設置・・・・・大井馬城氏其の他労働問題に熱心なる諸氏の企図に係る大日本労働団体連合本部は今回神田区錦町三丁目三番地へ事務所を設置したり。」

『読売新聞』(明治34年10月9日付け)






「◎大阪に於ける労働演説会・・・・・去る一日大阪に於いて労働青年会の発起にて演説会を天神橋筋北池田町妙見堂にて開会せられたり。弁士は開会の趣旨北部委員労働運動の方針大井憲太郎氏、現代社会の犠牲者朝日新聞記者吉村□南氏、富豪の生活小川定明氏、我々はどうしたらよいか創立委員和田助一氏等外数名にて、中々盛会の趣き同地会員より通信ありたり。今其の通信を記さんに当日午後五時には満堂聴衆を以て充め中々盛んでありました。唯だ吾徒は資本と労働者の調和主義なりてふ語か大きな紙に記されてあったのは皆んなドヲ考えたか生には少々不満だと思われたです。吉村さんは併し気焔を吐きました。労働と云う父母から生まれた子孫たる資本と云う者がなんぼ殖えたからとてこの父母をいじめると云うことがあるだろうか・・・・・筆記がないから後は書けませんが中々労働者のために気焔を吐かれた。大井さんの述べた中にこう云うことがあった。「あの社会民主党の如く財産均一を唱えるなら知らん・・・・・社会というものは有無相通じて誠にうまく出来ている・・・・・先生は調和主義だかしらんがチットモ社会の病的現状を云わず「ただ資本主労働者がウマク有無有通ずる考えでやれ」と云うようであった。大井憲太郎現時の日本に立っては大井の社会主義がある、と?然としてやっけたその終わりには自立事業として労働貯金をせよ。中等社会に取られぬように銀行なり質屋をこさえたらいいとすすめて、次に小川氏は富豪の生活と云う題で矢張り労働者を鼓舞し、和田氏は工業の花臨時発刊に書かれた様な意味の事を話しました。聴衆は終わりまで或は拍手し或は喜んで最も熱心に聞いた。大阪だってケイベツ」した訳のものでないて・・・・・。」

『労働世界』(第九十三号 明治34年10月11日)

 

 

 












「◎大日本労働青年会・・・・・当地の職工労働者が発起に成れる大日本労働青年会にては去十一日北部会員総会を開き北区天神橋四丁目六十番邸に第一支部を設置する事、支部には新聞雑誌及び図書閲覧室を置く事、例月二回常会を開き演説討論講話等を催す事、例月一回大演説会を開く事等を決議せりと。」

『大阪毎日新聞』(明治34年10月14日付け)

 

 

 

 

「◎労働団体連合本部趣意発表式・・・・・昨日錦輝館に於いて労働団体連合本部趣意発表式を挙行したるが、集会者は無慮五千有余名。豊原又雄、大井憲太郎、津久見息忠、岡起雲諸氏の演説あり。それより一同懇親会を開きたるが会する者は日鉄機関工、鉄工、製銅工其の他の職工なりしと。」

『読売新聞』(明治34年11月4日付け)














「◎職工組合総会・・・・・は昨日午後一時より琴緒町なる同事務所において開き、是まで公認団体となり居らざるより今回更に職工組合として公認団体を設立することにつき協議したり。」

『神戸新聞』(明治34年11月7日付け)








「◎活版工組合、誠友会・・・・・一昨日神田錦輝館に秋季労働懇話会を開く。来会者二百余名、岡千代彦氏開会の辞を述べ、大井憲太郎、佐治?然、田中弘之、豊原又男、安部磯雄、片山潜、西川光次郎、柳内義之進、幸徳伝二郎、川島烈之丞の諸氏の演説あり。」

『都新聞』(明治34年11月26日付け)




明治35年

「◎労働軍団編制・・・・・大日本労働協会にては労働軍団なるものを編制するため左の団員募集条例を設けたり。
団員募集条例
第一条・・・・・左の項に該当するものは団員となることを得
一 丁年以上の男子
一 白痴にあらざる者
第二条・・・・・団員は左の諸項を遵守すべし
一 社交を親密にし社会公共の福利を増進すべき事
二 勤倹貯蓄の美風を養成し社会経済の発展を謀るべき事
三 弊風汚俗を矯め労働界の改善進歩を謀るべき事
四社会道徳を進め節義廉耻を重んずべき事
五 公共事業に托して営私利己の弊風を矯め社会制裁を発揮すべき事
第三条・・・・・団員募集者には左の区別に従い賞号を授けて其労を?ふ。
軍曹 団員五十名募りたる者
少尉 団員百名を募りたる者
中尉 団員二百五十名を募りたる者
大尉 団員五百名を募りたる者
少佐 団員千名を募りたる者
中佐 団員千五百名を募りたる者
大佐 団員二千名を募りたる者
第四条 軍曹にして更に団員五十名を募りたる者は少尉に少尉にして更に団員百名を募りたる者は中尉に昇進するを例とす中尉以上大佐に至るも亦此例に依りて昇進す
第五条 団員中奇特の行蹟ある者には団員募集の労なきも会議に於いて相当の賞号を授与す
第六条 賞号授与は辞令書を発し労働軍団本営の名を以て之を行ふ」

『読売新聞』(明治35年1月24日付け)





「◎労働者大懇親会・・・・・府下の労働者有志の相談により、片山潜、沢田半之助の二氏発起人となり四月三日に労働者大懇親会を催すについてはその内容左のごとしとて、去る二十四日、警視庁に対して
左の届け出でをなせり。」

『ニ六新報』(明治35年3月26日付け)


「◎横浜の職工労銀・・・・・横浜市は全国中生活の最も困難なる地の一に
数えらるれども
年々各地より移住する者極めて多く今は其の人口ほとんど
三十万に達したるを以て物価の高き割合には労銀卑し。
是れ昨今各地より同地に集まる者は概して職工その他の労働者なるを以て
自然需用供給の権衡を失いて斯くの始末となりしものなり。
左に最近の調査による重なる職工の労銀表を示すべし。

袋物職、染物職、西洋洗濯職、和服仕立職、洋服仕立職、船大工職、
大工職、左官職、ペンキ塗職、煉瓦職、煙草刻職、菓子製造職、
靴職、鍛冶職、活版植字職、下男、下女。
、、、
靴職 月給 最高、三十五円 普通、二十五円 最低、十五円
、、、
以上の表によりて見れば、月給にて最も高きは靴職にして最も低きは下女下男なり。」

『東京朝日新聞』(明治35年6月2日付け)

 




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明治36年



「◎関西労働組合同盟会・・・・・此の程京都四条油子路西入、関西労働組合仮事務所に於いて名古屋、岐阜、近江、京都、大阪、堺、神戸、兵庫、河内、大和、丹波、讃岐、土佐、備後等各地の労働者代表七十九名会合し創立発起会を開き規約を議決せしが其の要項左の如し。
一、本会は相互の智識を交換し親睦を旨とし実力の養成技術の進歩を謀り資本主の隆盛を期する事。
一、死亡したる者には葬費として金十五円を贈与し遺族なきものは本会にて葬式を為す事。
一、会員と雇主と紛議を生じたる場合は調査掛け之を詳細に取り調べ会頭は仲裁の労を採り円滑に和解を遂ぐべき事。
右議定後会頭は内山図南氏を選挙し次いで幹事其の他の役員を互選せしが発会式は明二十二日京都新京極受楽亭に於いて挙行する由。」

『神戸又新日報』(明治36年3月21日付け)






「◎東京商業会議所と工場法案(承前)・・・・(七)休憩時間のこと(八)休日のこと
休憩時間及び休日のことは工業の性質、工場の慣習、職工就業の情況等によりて各其の必要の程度を異にするものとす。然るに今法律を以て単に就業時間の長短職工の年齢如何等により各種の工業を通じて休憩時間及び休日を画一に規定するが如きは策の得たるものにあらず。殊に休憩時間中器械の運転を停止せしむるが如きは工業経済上至大関係を有するに付き事業の何種たるを問わず断じて不可なりと信ず。之を要するに休憩時間休日のことの如きは各工場をして実際の情況に応じて適宜に之を定めしめ以て行政庁の認可を受けて之を実行せしむるを以て足れりとす。
(九)特に危険なるか又は衛生に害ある業務に関する制限