日本で初めて労働組合をつくった男




セピア写真で見る女工哀史



『THE FAR EAST』大阪BRUSH工場

「◎女工謡う・・・・・相生足利機業場の女工、梭を取り、粋を繰りつつ歌うをきけば、
・・・いやだいやだよ機織止めて、甲斐絹織屋のお神さん。
お鉢引き寄せ、割飯眺め、米はないかと眼に涙。
竹になりたや、桐生の竹に、繻子や緞子の綾竹に。
と。アーこれ彼等が境遇の真状を歌うの好叙情詩ならずや。」

『女学雑誌』(422号 明治29年5月)










「工女の自殺・・・・・去る六月一日の夜、向島鐘ヶ淵紡績会社の寄宿工女中村たね(二十一)なる者、同社構内の池に身を投じて自殺したりの記事去る五日の新聞に見えたり。読者諸君は工女逃走という記事が新聞に出る毎に同社の名も亦出ることによりて同社を記憶しておるなるべし。又同社が嘗て肺結核の巣窟なりとて世論の囂々招きしとあるより同社の名を忘れんとしても忘るる能はざるなるべし。而して今、斯かる名誉ある歴史を有する同社の工女の自殺起りしとなれば読者はいうまでもなく十分にこの自殺の原因を了解せるとなるべし。先達大阪毎日新聞に、京都平安紡績会社の工女三名逃走の記事出でしが、中に曰く。彼女等は募集員の甘言ー第一に我が社は蚕糸のみにて絹機を織る仕事なること、第二に我が社の賃金は一日下等五十銭より八十銭までを給する事、第三我が社の飯菜は他に優りご飯には鮮しき魚肉を給し社医監督の下に滋養物の供給を欠かざる事、第四着京後三日間見物をなさしむる事、第五往復の旅費を給するは勿論何時たりとも事故ある時は解傭すべき事という甘言に欺かれて父母には無断にて福井より募集され来たりしに、実際は天と地の違いにて賃金は十五銭、其の中飯代として引かるるは七銭五厘にして、飯は三年米四分の支那米六分の物、服菜は三度ながら古沢庵まるより、辛抱しきれなくなりて逃走を企てもの云々、と思うに鐘ヶ淵の自殺工女も亦同じ甘言に欺かれて上京し、辛抱しきれなくなりて逃走を思い立ちしもソレも出来なくなり遂に自殺するに至りしものなるべし。或いは役員意に従えと迫られてソレがツラさに投身せしものなるべし。又或いは肺病にかかり、其の為め仕事一層苦労なるより、イッソと思い迫りて投身せしものなるべし。其の原因の何れであるにもせよ思うてここに至れば彼女の父母ならぬ者も涙の玄然として下るを禁ずる能はざるべし。投身の夕、彼女は友達二十名ばかりに焼スルメを振舞ふたりとのことなるが、翌日彼女等は共に焼スルメを咬みし彼女の斯かる最後を遂げ居るを見て、嗚呼彼女等の心中!思えば彼女等、否鐘ヶ淵四千の工女の中、自殺に非ず、逃走に非ず、肺病に非ずして、能く資本主の虐待より逃れ得るもの幾人かあるべき。鐘ヶ淵の煙突は日暮里の煙突、鐘ヶ淵の門は地獄への第一門と詩人の歌うも無理ならず。最後に思う。斯かることして金を儲けておる鐘ヶ淵紡績の資本主の定めて時々悪夢に襲わるるとならんと。技師が試験すると、悉く肺結核に罹れる者にて彼らは正しくツカマされて来たりしものなりと云う。ソコデさすがの彼らも自分等の輸入した牛が悉く肺牛でありては、肺結核予防法の施行細則を出すワケに行かず、いな細則どころか、法其者も殺すにあらざれば、自分等の尻がワレるとて、昨今専ら肺結核予防法へパチルスを注射して居ると聞く。コレは一例に過ぎないことなるも、コンナことして金を使うフラチな政府へ租税を払う人民こそ善ひ面の皮なれ。」

『労働世界』








明治8年



明治9年
明治10年


「此ほど紙幣局にて技術生徒を試験済みのうへ採用になり同局へ主上が臨御に成るので大勢の女工までも当日御門外へお迎ひに出ると□□して今から着物も新しくなければならず白の襟に白の帯も入るとういって親たちをせめる娘がだいぶあり去りとて三十銭や五十銭では中々買はれずそれが為に親類と相談して金を借りるものもあり母親が自分の着物を曲げて娘の着物を買うのもあるといふが清潔にさえしたなら品は何でもよさそうに思はれるが新きでなければ成らないものとさ。」

『読売新聞』(明治10年11月15日付け)






「一昨日の新聞に紙幣局へ行幸のとき女工が白の襟と白の帯の一件は紙幣局でお買い上げになってそれぞれへ渡されるのだといふからシテ見ると狡猾の親達が是を種にして金を借りる策かも知れません。」

『読売新聞』(明治10年11月17日付け)

                                                                                   



                                                                                   

 




明治11年
明治12年


                                                                                   


「下谷上野町一丁目の山本徳次郎は近ごろ職業が閑暇にて甘い酒も飲めないので不図悪計を考へ鑑札を二三百枚拵へて見ると誰でも構わず今度上野公園地に居る外国人が金糸の織物を始めるに付いて女工を抱えたいとて私へ周旋を頼みに成ったが行く気があれば鑑札料として十銭納めろとか五十銭出せとか云って近所を軒別に勧め歩いたのが其の筋へ聞こへて忽ち召捕られ昨日三課へ送られたとは馬鹿太い。」

『読売新聞』(明治12年7月18日付け)

                                                                                   



明治13年
明治14年


「神奈川県下大住郡関の宮の製糸場にて去る二十五日の午後一時ごろ突然蒸気罐が破裂しそれがため工女が十六人即死し怪我人が七人有りましたと。」

『読売新聞』(明治14年12月28日付け)

                                                                                   

 






明治15年
明治16年

「関口水道町の肥塚安次郎(三十年)方に同居の士族木崎重光(三十三年)は屈強な身体で居ながら稼ぐ事がきらいで只ブラリとして暮らすグズなれば女房お春(二十七年)の圧制を受けて其の言付け通りシブシブに是まで大蔵省の小使を勤めて居たが不精ゆえにそれも断られ二百円ほどの公債証書を端からボツボツ居食いにしに跡は娘お松(十二年)を十五円前借で此の世の地獄ともいわれる機織りに出し其の金さえも皆な遣い捨てたればお春は横浜へ出て奉公するからお前は一人で如何でも稼いで暮らすがよいと戸主の肥塚安次郎と共に横浜へ行ってしまったので重光はボンヤリ肥塚の家を出て何をするともなく彷徨い歩いたすえ去る十八日の夜小日向江戸川町の往来で飢え死んだというが三十前後の年で飢死ぬまでになるとは鳥獣にも劣った事だ。」

『読売新聞』(明治16年2月21日付け)








「小笠原島は桑木がよく繁茂するゆえ蚕を養い付けんと昨年既に試みられしが今年より一層盛んにせんとて蚕を取り扱う事に熟練した女を十二人高い給料にて上州桐生辺より雇い入れて同島へ送られるという。」

『読売新聞』(明治16年3月3日付け)

                                                                                   

 





                                                                                   

 

 

 



明治17年


「◎麦わらの輸出・・・・・麦わら細工が名物の大森では先年から帽子にする為め麦わらを真田に編立て横浜へ出す処是までは製法が悪く少し染みがある品は戻されるのでそれが為め下職の者が難渋するより同村の落合三五郎という者が自分の邸内へ細工場を新設し女工二百人ほどを雇い入れて麦わらの製法に注意して編ませたので同所で出来る品は至極上等にて少しもペケにされる事は無きよりおいおい繁昌し日々百円づつの手間代を払うという。」

『読売新聞』(明治17年2月9日付け)






「◎奇特・・・・・浅草寿町原和吉の長女お慶(十六年)は先年同区の戸田学校へ通学卒業の後印刷局の女工となり其の工銭の内を少しづつ積み金十円に纏めて戸田学校へ寄付したは奇特の至りなりとて昨日府庁より木盃を一個と賞状を賜わりました。」

『読売新聞』(明治17年9月28日付け)





 

「◎痴情・・・・・山梨県甲州東山梨郡七里村の菊島定右衛門と云うは近在に名の聞こえし豪家にて農業の傍ら酒造を営業にして同郡青梅街道へも支店を設け此処には次男澤次郎を住まわせ荒物商をさせ置いた処此の辺は名に負う甲斐絹の産地だけにあちことに幡場や製糸場が在る内にも澤次郎の居る製糸所は殊に盛んにて紅女が大勢居る処或る日澤次郎は何か用事が有って行くと紅所は何れも赤いて手拭を掛けて糸を取っていた中に同郡春日井村より雇われて来て居る小川およね(二十三年)と云うはなかなかの別品にて浄瑠璃の文句にあらねど多くの中で水際の唯った一人勝れて美しいのが澤次郎の目に付き見るともなしに横目にてチラッと見たのが縁の端およねもまた澤次郎の此処等に稀な男ぶりを見初めたが同人へ用があって来たので無いゆえ口を利く訳に行かず互いに思いを胸に畳み其の日は何事も無く澤次郎は用を済まして帰りしが是より同人は用事に事寄せ毎日の様に其の製糸場へ出かけて行き紅女たちと心易くしおよねとも口を利くようになりたれば機会もあらば打付けに思いの丈を明かさんと日々首尾を窺い居るうち一日およねは残り番にて外の紅女は皆仕事場を立ち去りし跡に残り掃除をして居るこそ屈強なれと密と忍び寄りて兼ねての思いを打ち明かすと先きでも疾から其心否には有らぬ稲船の焦がれ切って居る処なればたやすく得心して澤次郎心に随いし後は日待ち月待ち其の外の夜仕事休みの度ごとに人目を忍ぶ淫づら事も度重なれば露われやせんと心置かれて落ち着いて話し合う間も内々にて近在なる西山梨郡大宮村の字湯村という処へ二人打ち連れ湯治と洒落込みここにてゆるゆる話した末夫婦の約束を結び男より後の証拠と銀側の時計を渡せば女は一張羅の着替を渡し是にて目出度く結納の取り替えも済みしとて二人はやがて居村へ戻りしは一昨年の事なりしが其の後は互いに一層熱くなりしが取り分け澤次郎は夢中になり是非ともおよねの親元へ掛け合い晴れて夫婦になりたいとは思ったが又よくよく思案すれば如何に自分が好いた女なりとて七里村菊島の次男とも云われる者が身元も悪しき紅女などを女房にしたと有りては世間の聞こえも悪しく第一親父がよもやウンとは言うまいがハテ何したものであろうと屈托しているとも知らぬおよねは頻りに催促し一日も早く夫婦になりたいと言い迫るに益々困り最初の楽しみに引き替へ今はなかなかに苦労の種となりしこそ笑止なれ。」

『読売新聞』(明治17年11月1日付け)




明治18年


明治19年
明治20年
明治21年
明治22年
明治23年



明治24年
明治25年
明治26年
明治27年
明治28年
明治29年
明治30年


「◎女工の惨状・・・・・各紡績会社中、先ず鐘淵紡績に関してその一班を聞き得たる所あり。職工、ことに女工の惨状言うに忍びざるものあり、左のごとし。同工場の労働者勤務はこれを分けて昼夜の二種とす。その昼間に属する者は午前六時より午後六時までの十二時間にして、その夜間の勤務は午後六時より翌午前六時即ち十二時間なりとす。しかして昼夜の交代は一週間なり。即ち甲組一週間昼間の労働に服せば夜間の勤務者たる乙組は代わりて昼間の役に就き甲組はさらに夜間の勤務に服するものなり。壮年血気の男工は仮に堪え得べきの労役なりとするも而も往々身体疲弱に陥り漸時不健の身となりて一種廃疾者たらんとするもの少なからず休時無きの器械は絶えず運転するを以って彼に服するの労働者は是と同じく絶えず起立して器械上の糸を監せざるべからず。空気の流通完全ならざる工場内にて而もこの長時間の労を執りもしそれ夏季盛暑焼くがごときの綿糸の紛乱飛散を防ぐため窓戸を密閉して新鮮の空気を決がたきのみならず蒸気の火気にて室内はさながら蒸すがごとく外来者のごときは忽ちにして瞑眩せんとする如くなるも、職工はこれを忍んで就役せざるべからず。而してこれが賃金を問えば多きも二十四五銭ないし二十七八銭の上に出でず、その食事を問えば黒々したる米飯に朝は沢庵二三切れと昼は干瓢椎茸ぐらいの煮付け夕は一汁に過ぎず彼らはかくの如きの天地に三カ年を委しつつあるなり。然れども男工は比較的女子より健康なるを以ってこの苦惨を忍ぶべきも、女工特に幼女の如きは実に記すに忍びざるの状あり。其の年齢を問えば多くは十二三歳にして親子兄弟に離れて他郷に連れ来られ其の労働勤務も同じく十二時間なり。四壁暗黒にして天地寂寞たるの時無情の電灯は彼らが蒼白なる顔面を照らしほうほうたるほ被髪に飛散せる綿紛糸切れを?き悶々ととして監督に叱咤せられつつあるは人をして酸鼻に堪えざらしむるものあり。而して彼等の毎日得る所の日給は多きも決して二十銭の上を出でず。その食事の如きも男工に同じ又成人の女子に至りては男工との間に猥褻の行動少なからず一旦この境遇に身を投ぜば其の純潔は保し難きの観あり。而して比較的妊娠者の少なきは怪しむべき如くなるも労役は始終起立し居ることなるを以って腰部冷却して経水順を失するもの多く遂に不妊者となるものの如し。衛生上の不都合これに止まらず食事の上において腸胃を害するもの亦実に少なからず。試みに其の模様を聞くに昼間の勤務者は午前六時正午十二時午後六時と普通の時間にて食事に就くも其の夜間の労働者に至りては午後六時に晩食を喫しそれより夜半十二時に一回翌午前六時に一回窟喫飯し昼間は睡眠せしむるを以って午食を与えず長くこれを例とせることならば兎も角も一週間にて交代するもの故昼間に交代の後は再び普通の喫飯時に復せざるべからず。その食事時間の変換かくの如くなるを以って遂に腸胃を害し多年不測の患害を来たすべきこと昭然たるなり。資本主は果たしてかかる残酷の使用法を以ってせざれば其の業務を経営し能はざるや。たとい実際経営し能はざるも衛生上これをそのままに附し去るべき者なるや。余輩は大いに等路者の注意を促さざるべからざると同時に資本主即ち取締役等にも亦其の営業の利益を謀ると同時に人命の上に充分の注意を促さざるべからざるなりと当局の某はいへり。彼労働者の悲惨なる状は再見するに忍びず。しかれども彼絹布に身を纏はれ美食に口腹を飽し居る取締役の如きは彼等の実状は夢想だも感ぜざる所ならん。特り役員中しきりに苦痛を感じ居るは労働者に伴うところの事務員のみなりと。それ或いはしからん。尚職工誘拐の弊についても種々調査せし所あれどこれ等は同業一般に渉り居るものなれば更に詳説する時機あるべし。」

『東京朝日新聞』(明治30年10月28日付け)








明治31年
明治32年


「◎女工の境遇・・・・・広島県某紡績会社女工を酷待し十分なる食事を与えず栄養欠乏顔面蒼白、殆ど現世の人あらざるが如し。朝夕悲し気なる音をそろえ歌ふて曰く。『籠の鳥より懲役よりも尚ほも寄宿舎辛ろうござる』」

『東京朝日新聞』(明治32年7月31日付け)




明治33年
明治34年

「◎女工虐待と制裁・・・・・近来東京市内各種工場における女工虐待の事実は言語同断の現況にて現に過日来結核性患者続々発生の傾向ある鐘ヶ淵紡績会社を始め其の他各工場共其の惨状甚だしく同社の如き東京市内における模範工場を以て自任し居れるに其の寄宿舎の粗悪なるを始め一日間の食費の如き一日三回七銭五厘にして朝食夜食は南京米に香物味噌汁昼食は生魚を稍し即ち肥料に供する鰮鰊等にして其の病舎の如き如何なる患者と雖も伝染性患者と同一室に収容し居り。其の実況あたかも監獄における囚徒待遇よりも一層惨状を極め居れるが故警視庁においては差し当たり工場条例の制定せらるる暁まで相当の工場取締規定を設け雇主と被雇者間に相当の制裁を附けることに決し昨今しきりに取り調べ中なりと云ふ。尚東京市内における各工場は勿論全国到る所の工場主は無慈悲にも少年女工を虐待し以て彼等無限の利益を壟断し居れるが為め之に対し充分の制裁を附し工場警察の衛生の目的を達するの方針なりと聞く。」

『東京朝日新聞』(明治34年8月1日付け)






「◎夏の女工生活(一)・・・・・日給は多く、労働時間は少なく、三回の食事には珍漆を与へ、休日は月に幾回以上、昇給の方法は云々、寄宿舎は壮麗、取締は寛なり。東京観物の能きるだけが得なりと、甘いことづくめに説きたつる勧誘員の口車に載せられて府下の某紡績会社に雇われし地方の女子あり。故郷にありし日より多少文字を解するものなるが三年の長の月日を現世からなる活地獄に等しき其の工場内に在りて生血を吸われしが、今回行李を収めて帰国に上がるに際し夏の女工生活の一斑を語る寒暑計九十度を昇降して熱汗額上より□□する昨日今日、やや涼しからぬ読物なれど吾が五千万の同胞中には松風浜風に夏を忘るる男女の他にかくの如き世界にかくの如き生活を送る者あることを示さんとて其の大体を記すこととしたり。さて何からお話しいたしませう。夏の間の女工の辛らい模様でございますか。それは少々こまりましたね。何故かと申しますと紡績女工の生活は夏も冬も春も辛らいことは同じことで夏だから冬だからといって大変な違いはございませんからねえ。然し折角のお尋ねですから主に夏のことをお話しいたしませうが、先ずお話しと関係は薄いけれど女工と保証人の事から申しませう。こういたさないと順序が悪うございますからねえ。私の入って居りました会社には三千人から職工がいまして当節は不景気で多少減じては居りますが其の三分の二は女工でございますから女工は却々勢力があるのでございます。最初会社に雇われますには他の工場と同じで身元保証人がいりますが此の保証人は極もう手軽なもので会社の近くに女術のやうな男が居りまして其の者に頼みますれば活版刷りの書類もあり保証人にも立ってくれるのでございます。其の代わり紙代として二銭、手数料として二十銭出します。而して会社に雇われている間は毎月二銭づつ其の保証人にやるのですが此の二銭は会社で毎月職工の工賃から引き去って保証人へやっていますが、仮に保証している職工を二千五百人としましても五十円です。随分好い商売じゃありませんか。それでいよいよ会社へ雇われることに決しますと。契約書を出すことになります。こうして会社から支度金に三円借りるのでございます。此の三円の借用証書には『支度金として借用云々返済の義は何年何月まで毎月工賃の中より御引き去り下されたく』云々とありまして通常此の月賦は三カ年に定めてあります。世間でいう年期で買われると申すのは此の支度金借用証書に三カ年に月賦で返済することになって居りますから其れを年期と誤っていますが前借さえ償へばいつでも自由廃業ができるのでございます。其れで女工には男工と同じく通勤と寄宿の二通りありまして他に社宅の設けもありますが職工の九分までは地方の者で府下の者は皆無と申すほどでございますから通勤している女工は三百人位で大概寄宿です。それから女工の年齢でございますね。是は十六七から二十一二が一番多うございます。」

『東京朝日新聞』(明治34年8月1日付け)





 

「◎夏の女工生活(二)・・・・・七八歳から十歳前後又は三十歳前後の者は極少なうございます。其れで女工の寄宿舎と申すのは会社の構内に建って居りまして間口二十間奥行六七間の二階建で四棟ありまして甲乙丙丁に分かれて居りました。新たに入って来ると一カ月間の見習いとして追い使われるのでございます。見習い中の一カ月間は男工は二十五銭を受けとりますが私ども女工は唯十三銭しかもらえません。工賃は一等から十三等まであって日給とは申すものの女工は全て請負組織になっておりますから手腕のある者は自然沢山儲けますが単に日給として受け取っている者もあります。七八歳乃至十歳十一二歳の少女は傭入れることのできない規定にはなっておりますが会社では七八歳の者に五六銭も十二歳の者に九銭十銭位与えて居ります。尤も右の七八歳のは大概女工の私生児でございまして日々母親と一緒に参ります。普通女工の受けとります工賃は十八銭から二十五銭、三十銭どまりでございます。其から又男女工とも甲乙即ち昼勤と夜勤とに区別してあります。是れは工場の方が昼夜とも間断なく職をいたすのでございますから昼勤と夜勤を一週間毎に交代させるからであります。此の交代いたしまする日を毎月の休業日と定めてありますが会社の都合つまり仕事の都合で十日間も半月間も交代しないで即ち休日なしに勤めることも珍しくありません。それですから此の次の休日は幾日だと思って楽しんでいても会社の都合で幾日も幾日も休むことのできないことが有ります。尤も休業日は日給が出ませんから世帯持などの人は休日の無いのを却って喜んでいます。それで一年中に女工一同休めますのは正月の三が日と七月の十五十六両日と天長節でございますが是れとても日給は一文ももらえませんから病気で休むと同じでございます。勤務の時間は昼の部の者は午前六時に持場持場の工場へ入りまして午後六時に夜勤の者と交代します。又夜の部の者は午後六時から翌日の午前六時までで此の十二時間勤務中休息の時間と申すと時候によって変わりますが夏は一時間冬は三十分で食事の時間は十一時から十二時の三十分の時間をもらうだけでございます。」

『東京朝日新聞』(明治34年8月2日付け)

 

 





「◎紡績女工の境遇・・・・・鐘淵紡績会社に於ける女工に肺結核性患者の初めて発生せしは昨今のことにあらず。去る五月下旬頃一人の患者を発見し其の後引き続き続々発生せしより勢い隠蔽すること能はず其の筋に届け出でたるものにして既に全工場に伝播し居れりと。然るに会社に於いてはこれ等患者に対し如何なる待遇を為すかと云うに過酷にも不備不完全なる病室に収容し一二週間治療をなさしめ少しく快方に向かえばまたまた酷使し萬一二週間を経過するも再び就業すること能はざる女工に対しては直ちに身元引受人を召喚し休業中の食費医薬龍料代等を請求し以て本人を引き渡し、甚だしきに至りては足止め策として前金に貸し与えたる金銭をも請求し其の請求に応ぜざる者には種々苦情を附することあり。又其の病室は勿論寄宿舎の設備不完全なるは言語同断にして夜勤の女工は昼間は臥床し居れるが其の現状は畳二枚に五名位の割合にて臥床せしめ居れるの状態にして一回其の病室寄宿舎作業の実況及び三度の食物の実物を視察せる者は如何なる人と雖も女工に対し同情を寄するなるべしと。然るに同会社側に於いては無教育なる少女も雇入当日より賃金を得られ忍耐勉強するものは十年以上も勤続するものありと。無知の同胞をして哀れ此活地獄に投じ少しも顧みる所なしとは実に惨忍の極と云うべし。」

『東京朝日新聞』(明治34年8月2日付け)












「◎夏の女工生活(三)・・・・・さあ是からいよいよ夏の寄宿舎内の女工に就いてお話しいたしましょう。二千の女工は昨日今日の暑さを如何して暮らして居りまするか。先ず風俗から申しますれば女工は皆欺かれて会社へ参った者でございますから貧乏人の娘ばかりではありません。多くの中には相応の資産ある農家の一人娘もありますから柳行李の二個に四季の着換えを持っている者もありますが筒袖一枚に細帯を巻いている者もあります。尤も衣服は筒袖でなければならぬという規則も御座いませんから筒袖の者もあり又角袖に襷掛けで前掛を結めて居る者もあり随意で御座います。髪の毛も各自の随意ですが十中八九は銀杏返しです。其れで寄宿舎では下帯一つでころがっているもあり汗襦袢一つで朋輩同士髪を結いあって居るもあり寄宿舎前の池で洗濯して居るもあり又二三人つれだって外出する者もありますが是は夜勤の女工の非番となった時でございます。昼勤の女工の非番となったときは夕飯を済ませば唯寝るだけのことですが夏のことですから昼の暑さを洗はうと墨田堤を散歩いたしたり又下宿屋にいる友人を訪ねる者もあります。其れから寄宿舎には一室ごとに部屋長と申して三十歳前後の女工が一人づついます。其れですから外出いたす時でも他の用事の有りました時でも一々この部屋長に告げますので部屋長が承諾しなければ外出もできませぬ。それで昼夜交代の休日には故障のない限りは外出を許されますが次の昼勤となる者は正午までには帰らなければなりません。而して此の交代の時には夜勤の者の中から半数ほどの女工を出して工場の掃除をさせます。其れですから此の連中は午後から外出のできることになっていますが遅くとも十時までには帰らなければなりませぬ。若し其の時間を過って遅く帰りますと門衛に咎められて罰金として工賃から幾らか差し引かれます。又外泊して帰ると日給二日分差し引かれます。若し二週間も外泊して帰れば此の事を掲示されて当分外出止めとなります。それで女工等が一番怖がっているのは此の門番と工場を見巡る巡視と伍長と部屋長でございます。寄宿舎の部屋は大概八畳敷で大広間と称する二十五畳敷位の間もあります。それで八畳の間には十七八人の女工が居りますが昼夜交代となりますからいつも八九人いるのみで御座います。然し八畳の部屋へ垢染みた臭い綿蚊帳を吊って八九人も一緒に寝るので御座いますから窮屈なのと暑いので急に寝つかれるわけのものでございません。まるでおいもを転がしたようでございます。其れで宵の中は一舎で電燈が三個ついておりますが十時からは一個に減じてしまいますので部屋部屋は真っ暗になって手紙を書くこともできません。寄宿舎にいる間の仕事を申すと朝夕の掃除ですが是は畳のある処の塵縁側へ掃出すだけで跡は掃除夫が引き受けて掃除いたすので或る人のお話によると、まるで吉原なぞの貸座敷の花魁の部屋のようだそうです。」

『東京朝日新聞』(明治34年8月3日付け)

 

 

 

 

 



 

 



「◎夏の女工生活(四)・・・・・食事は三度とも食堂へ出て食べることになっておりますが廊下傳ひですから傘も下駄も要りません。土手から構内を覗いてみますと寄宿舎の外のあちこち又は梁軒先などに破れた衣服が乾してあって裸体の女工の転がっているのが見えます。まるで懲役場か乞食小舎ののようでございます。国許から尋ねて参った父兄が此の光景を見たら何と申しましょう。尤も国から参った者が女工に会おうといたしても会社では容易に許しません。何故かと申しますと一は女工を虐待していることが世間へ知れようかと気遣うのでありますが近頃は女工が払底でございますから甲の工場の女工を連れ出して乙の工場へ売りつける者が有りますからです。会社は一方に女工を虐待する代わりに頻りに表面を飾ることを力めて居りますから寄宿舎内の少女の為に数名の女教員が雇ってございまして習字と読本と其れから裁縫とを教えています。其の時間は午前七時から九時までの二時間でございますが十七八以上の女工は阿婆ずれているのと仕事が烈しいのとでなかなかおとなしく教わっていません。ただもう喧嘩をしたり風俗を乱すような雑談をしたり致しているばかりで或時は部屋長の眼を偸みまして花合戦などいたす者もございますが大概は金銭を賭けるようなことはなく十文パン位を賭けるのです。其れから又会社は新聞などで申す世間の事を記した事は寄宿舎で読む事を許しません。其れですから女工は極もう世間に疎うございます。寄宿舎へ出入りする者は菓子屋、煙草屋などの商人で朝の七時から九時までと午後六時から八時までの間でなければ此の寄宿舎で品物を売ることができませんから女工等は此の時間中に菓子なり煙草なり其の他の品を買っておくのです。其れで寄宿舎の女工の楽しみは何であるかと申しますと休日の洗濯をするのと髪を結うのと其れから浅草公園へ出かけて芝居を見たり見世物を見たり写真を撮したり寿司屋汁粉屋へ入るのでございます。芝居は六区の常磐座写真は江崎に極まっています。女工の身で以て江崎などで撮すのは贅沢のようですが大勢で撮すから却って廉うございます。然し休日と申しても前に申す通り一年に何度位に過ぎませず会社では朝から晩まで牛馬同様にコキ使ひますので女工の中に血色の好い者は殆んど一人もぼざいません。苦しくって堪えられなくなって逃亡を企てる者は毎日必ず二三人づつございますが会社の手配り厳しうございますので滅多に本意を遂げることができません。」

『東京朝日新聞』(明治34年8月7日付け)








 

「◎夏の女工生活(五)・・・・・女工の寄宿舎のお話に続きまして食堂のことを申しましょう。食堂は工場と寄宿舎の間にございまして間口二十余間奥行八九間のトタン葺の四方にガラスをはめた窓のある広大のものが一つと其れより少々小さいのが一つと都合二棟ございまして大きいのは女工の食堂小さいのは男工の食堂になって居ります。食堂の内部には細長い飯台と腰掛とが幾つも並べてありましていざ食事というと二千の女工は皆この大きい食堂へ参って餓鬼のように食べるのでございます。食堂には賄方が居りまして毎食弁当を給します。以前はこの賄方が大層わるいことを致しまして女工の食物を盗みましたから女工は普通の食料を払いながら会社が賄方に払うほどの食物が有りませんでしたから昨今では会社が賄方を致すようになりました。女工の弁当ですが、それはやはり四角な普通の漆塗の弁当箱ですが其の中に入っている御飯が普通のと大層異なっています。何故かと申しますとお米を磨いだのを石油を容れるような大きな鍬薬罐の中へ入れて焚くのではなく蒸気の力で蒸すのでございます。其れですから御飯はフカフカしてまるで強飯のようでございます。其れにお米が下等で臭くっておはなしにならないほど不味うございます。其れから弁当のお副食は何かと申すと此の頃では茄子の煮たのかじゃが芋それでなければ芋殻か豆位が上等の方で朝と晩とは沢庵の薄いのが四切れだけで懲役に参ったことはございませんけれど懲役人より酷いのだそうです。尤も一月の食料が二円三四十銭でございますから無理がないと諦めては居りますものの斯様な粗食で烈しい労働を致すのですからたまりません。弱い者はおいおい病気になり丈夫な者はお腹が空きますから他人のを盗んで食べることは珍しくございません。盗まれたら賄方は二度と弁当をくれませんからお腹の空いたままで働かなければなりません。味噌汁は月に二度で其れも味噌汁とは名ばかりの薄い汁を唯った一椀くれるばかりでございます。茶は会社から与えてくれませんので大釜のお湯を柄杓で汲んでは飲むのですが大概は五六人共同で土瓶と茶を買って飲むのでございます。其れから風呂です。風呂場は工場の傍にありまして女工と男工と分けてございます。湯槽の大きさは一間に四尺位で通勤の者は午後六時から七時寄宿舎の者は八時頃までに済ますのでございますが二千の女工が僅かの時間内に入るので全くお芋を洗うようでございます。若し此の時間を遅れて参ろうものなら其れこそ直ぐに罰金で鈍間な者は流し場を裸体でまごまごして風呂へも入らずに帰る者もございます。」

『東京朝日新聞』(明治34年8月10日付け)












「◎夏の女工生活(六)・・・・・おいしくは有りませんが食料は此の通りに廉うございますし湯銭は要りませんし月八九円も工賃をもらったなら定めて小遣銭に不自由はなかろうと思召しましょうが其の月の晦日になってみますと満期廃業までの積立金だと申して一カ月の稼ぎ高の一割は会社へ引かれますし其の保証人になってくれる者に二銭、支度金の内へも十銭内外引き去られ賄方へも二円何十銭取られてしまいますが、おまけに休日は全然給金が取れませず草履も一カ月に二足位買いますし大勢の朋輩の中には病気になったり死んだりする者もありますから見舞金を送らねばならず、たまには女髪結に髪も結はせますし又せんだって和田さんの洋行の時などは縁もゆかりも無いのに十銭づつの餞別を無理に出させられたこともあり菓子代も払わねばならず伍長へ御馳走もせねばならず月々何だかんだといっては罰金を出さなければなりませんし最初の中は国から持って参った銭で不足を補って居りますが三四カ月もたつとぼつぼつ衣類を売らなければ凌げなくなります。女工の病気になりました節は病室というのがあってお医者もありますし看護婦もありますから先ず薬には用を欠きません。それで薬代は総て会社の方で立て替えて置いてくれますが其れが女工の重い重い負債になって又何年かの間悩まされます。尤も会社では全快の見込みがあると思えば極々粗末ながら其の手当もしてくれますが脚気や肺病や腸カタルのような長引く病気に罹りますとお前はとても職は執れないからと申して薄情にも門外へ放り出すのでございます。先頃も或る女工が脚気で両脚が腫れ上がって当分会社の用に立ち兼ねた時のも可哀そうじゃあありませんか古い筒袖一枚に細帯を結めさせたまま一銭の路金さへ渡さないで遂出しました。其の女工は故郷まで二百里もあるのでございますから会社の無慈悲を怨んで立ち去りましたが何しろ両脚が腫れてて歩くことも出来ますまい。漸く竹杖に縋ってそろそろと這うように千住の大橋まで参り会社の煙突から立ち昇る黒煙をを眺めハラハラと涙を流して思案にくれて居りましたところを橋際にある名代の稲荷鮨の亭主が見て不審に思いましてどうしたのかを尋ねましたので云々の理由で逐出されましたが路金は無しこのままでは国許へ帰ることもできませんと地面に喰ついて泣き伏しましたそうです。そこで稲荷鮨の亭主も憐れに存じまして自分の家に引き取り大切に養生させた上或る商家の女中に住み込ませましたところが今では主人の気に入って壮健で働いていると申すお話しもございます。何にいたせ病人の待遇は乱暴千万で一度病気になった女工は会社の薄情に驚いて病室から出ると毎も泣いて話します。」

『東京朝日新聞』(明治34年8月11日付け)









「◎夏の女工生活(七)・・・・・病気になるのは当然でございます。なにしろ滋養になるものといったら爪の垢ほども頂きません上にご飯は前に申すとおり強うございますし眠いのを忍んで働きますし其の間には又消化の悪い品も食べますからねえ。其れから寄宿へ寝ると申しても暑いものですから裸で寝ますし夜具は汚うございますもの。どうして病気にならずにいましょう。其れでもし半途で職工をやめようと存じますと会社は積立金を渡さず談判しても容易に埒が明きません。そして寄宿舎へ残した衣類や手道具を押えて置いてなかなかわたさないばかりならまだしも前借の残頭だの国許から出京した節女工募集人が立替えておいた汽車代だの宿代だの手数料だの薬代だのって皆積立金から差し引いて其の上に前借金がたくさん出来て居りますから如何いたしても廃業することができません。会社の構内の居ります女工の有様は大概こんなものでございます。是から下宿屋住居の女工の生活についてお話いたしましょう。私の勤めておりました会社へ通ってくる女工の下宿屋は大概もう遠方から参るのではなく会社の近くで以前は三十五六軒もございましたが唯今は二十八軒に減ってしまいました。下宿と申せば下宿でございますが唯泊まるだけのことで食事は何れも会社の食堂へ出てお弁当を食べますので席貸も同様で八畳に八九人も寝泊りいたしております。尤も昼勤夜勤の者が混じて下宿しておりますから結局四人か五人づつで十二時間づつ一間を借りているのです。下宿料は一カ月六十銭で冬なら薄い五布布団を三人ぐらいでかぶるのでございますが。昨今は一つの綿蚊帳の中へ四五人も入って寝ますのです。一体下宿屋では男工と女工とを別々の座敷に置くのが規則なんだそうですが実際はそうでございません。昼間などは一つ蚊帳の中へ男や女が四五人も入り混じって寝ていますから遂には私生児などを生むことになります。殊更往来を通る人に其れの見えますのは如何にも不体裁千万でございます。其ればかりではありません。下宿屋にいます女工は大概恐ろしい不品行で男工と酒を飲む。酔うと唄ったり弾いたりして騒ぎます。其れに会社のお弁当なんかは不味くって食べられないと申して下宿屋へ食事を言付けることもめずらしくありません。一回の飯代は下宿屋によりまして多少違うようですが先ず一飯七銭と申すのが相場でございます。其れから又下宿屋では駄菓子か煙草などを売っておりまして大晦日勘定で売りつけて居りますから随って年中給金が足らぬがちで前借がふえて何時までも女工の足が洗えないのでございます。全く娼妓さんの境界と変わったところはありません。其れから又下宿屋から会社へでる時間ですねえ。是は定まった時間から十五分だけ猶予がございますが其れを一分でも遅れて参ると直に減賃でございます。又工場内で喧嘩いたしまする三日分の工賃を没収されてしまいますから就業中は皆慎んでいて案外静かでございます。多勢の中には又所帯持ちの女工も沢山ございます。之は大抵男工と夫婦になって同じ工場へ出ております者で一家に二夫婦又は三夫婦位も暮らして居りますが前に申した下宿屋のように昼夜交代してるいるお蔭で狭い家でも割合に狭いとは思いません。工場で働く衣服は男工ならシャツ一枚とズボン一つですが女工も筒袖の単衣一枚あれば宜しいので此の服は下宿屋へ頼めば何時でも備え付けてありますから月賦で買ふことができます。其の代わりには随安くお安くありません。十銭で買える品なら其の倍にはなっておりますが月賦という便利があるから誰も買います。まだいろいろお話しいたしたいことも御座いますが長くなりますから是で。(をはり)

『東京朝日新聞』(明治34年8月12日付け)












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