伊藤博文






明治のころ、本気でこの国を「働く者の楽園」に変えようとした靴職人がいた!
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家庭に於ける公爵一家族


































伊東公と大隈公






































各時代の伊藤公

兵庫県令時代の公  慶応年間の撮影  工部卿時代の公

晩年の公爵

      日清戦争当時の公            慶応元年の撮影(向って右端)




























伊藤公爵と一家族































韓国服の伊藤公と公爵夫人


































政友会組織当時の伊藤公(×印は伊藤公)


































京城統監府邸前に於ける伊藤公






























特派大使として韓国に赴ける伊藤公




































『東京パック』より
「、、、藤の大殿は長夜の宴に月日を知らし召されず、韓国よりお迎えの使者櫛の歯をひくが如くなれどもお帰任の気色更になく内閣の面々もせんすべもなく困り果て、、、」
























米国エール大学大博士服を着けたる伊藤公





























フロックコートの伊藤公




























韓国皇太子殿下と伊藤公


























統監服の伊藤公















◎伊藤侯の露国行・・・・・伊藤侯は去る二十日仏国巴里発二十一日伯林に着し同地に五六日滞在の上直ちに露国に向かはる可き旨或筋に電報ありたり。」

『人民』(明治34年11月23日付け)













◎噫、伊藤公爵/世界的英雄の悲壮なる最後、天下何人か之を悲しまざる/▲悲報、公爵夫人の病褥に達す・・・・・公爵夫人梅子は三週間ほど以前よりフォンケンという一種の皮膚病に冒されて大磯の??閣に静養中にて一時重態なりしを以って末松子爵夫人は看護のため赴きおれるが、二十六日は朝来ことの外気分良しとて床の上に起き上がりて末松夫人を始め来訪中なりし西源四郎氏夫妻を相手に四方山の話をされ居たるに、午後三時二十分大磯郵便局の逓送夫は一封の至急報を運び来れり。公は旅行中日々の動静は時々電報を以って婦人の許に報告する習慣にて去る十四日大磯出発後も日々電報を以って着発を報じ来たりつつありしを以って、別に気にもとめず末松夫人生子は何心なく手に取って封を押し開きて眼を電報紙にそそげるが、忽ち顔の色はサッと変じたり。梅子夫人は只事ならじと見て取り件の電報紙を奪うようにして読み下すや、同じく気絶せんばかりに驚愕し手にせる電報紙は自ずから畳に落ちたるが、夫人は三四回繰り返して読みたりとは然もあるべし、とはいえども夫人は流石に気を取り直し十二畳の居間に退いて静に身を床上に横たえられたり。午後四時韓国皇太子の御使いとして金侍従武官来磯深く弔意を表され続いて北白川宮殿下よりも御見舞いの御使い到り李韓国首相よりも弔電来たり一昨日来同地に滞在中の西園寺候は直ちに駆け付け「何とも申し様なきことなり」と痛嘆し東京よりは末松氏、西園寺八郎氏、平井赤十字病院長、児玉秀雄伯、新喜楽の女将お金等続々として見舞いのため来たり。大磯郵便局は自転車に積んで各方面より間断なく到着する弔電を??閣に運び居れり。大磯町は管弦の音を禁じて全町民悉く弔意を表し夜に入っては冷雨すら加わりて物淋し。
▲暗集愁に包まれたる末松子爵邸
昨日の末松邸は夜更くるも車輪の響き止まず真白き玉川砂利の上に昼間は弱き秋の光夜は電燈の光寒く照りて庭の植え込みに風鳴り暗愁自ら四寓隅に湧きたり。主人子爵は外務省よりの電話に接して午後二時過ぎ急遽として登省し夫人徳子は伊藤公爵夫人の病気見舞いのために前日大磯に赴きて不在なれば執事書生ら五六名玄関脇に集い引っ切り無しの電話と見舞い客とに忙殺され居たるが、見舞い客の主なる者は露国大使、渡辺昇子、長谷場純孝、杉田定一、大倉喜七郎、井上通秦、秋元興朝子、伊東巳代治子其の他代議士実業家等五十余名何れも淋しき外套姿を車より下し声を潜めて見舞いの言葉を述べたたり。特に長谷場氏は書生部屋に入り某所に達したる電報なりとて主人宛てに置手紙をしたためむ。午後五時三十五分子爵は馬車にて外務省より帰りたるが顔色蒼ざめて式台を踏む足もよろめく如く消魂の様明々と読まれたり。
▲骨肉の涙なり/痛切なる末松子の一語
子爵は強き感動に手を震わせながら僅かに次ぎの如く語れり。「唯々夢にはあらずやと思うのみ。心乱れて何物も頭に?らず公にして果たして亡きものなれば邦家のためと云わず骨肉の上より我涙は尽くるを知らざるなり。身老いて北端の朔風に堪え得るやと危ぶみし事はあれ今日の災禍は夢にも通はざりし。惨憺たる光景消えては来たり来たりては消ゆ。而も俄かに信ずる能はず且つ公爵夫人大磯に病みそれやこれや痛心のことのみ多し。余は今夜直ちに大磯に向かはん。他は後日を期すべし」と子爵は同夜八時幾分の列車にて大磯別荘に向かいたるはずなり。
▲車嫌いの渡辺子が綱っ引
其処へ丁度綱っ引で駆けつけて来た渡辺昇子は曰く。「驚いたよ。俺はな、他所の帰りを日比谷公園まで来ると号外号外と騒ぐじゃないか。見ればやられたとある。俺は元来俥嫌いの男じゃが其の男が前曳まで附けて急いで来たんじゃから察しておくれ。フウ絆れた?成る程なあ」と眼を瞑って仁王立ちとなり帰路は俥と並んですごすごと出行けり。
▲何にも言えぬ伊東子爵
電燈がついてから自動車にて末松邸へ駆けつけ玄関にて「頼もう頼もう」と呼はり十分間ばかりも子爵と語りて出で来れる伊東己代治子は「初め日日の記者から知らせてくれたが多分嘘だろうと思っておりますと宮内省の電話で事実を知り急いで参ったのですが、何とも申しようもありません。何も駄目らしいですな。心が急いでゆっくりお話も出来ません。今日はお許し下さい。」と語りて自動車の箱に姿をかくしたり。
▲最後の笑顔を思い出して泣く金子夫人
伊藤公遭難の報が金子子爵に達したるは午後十二時にして大磯より電話で簡単に只狙撃せられたとのみで詳細なる事は知るを得なかったが折柄来客と応対中なりし子爵は半信半疑で直ちに外務省に問い合わせると十五分を経て事実なる事を回答してきたので今更の如くに子爵は驚愕し夫人令息令嬢は色を失うてなす処を知らざりしが子爵は即時馬車を外務省に駆りて外務省に達したる電文を見打ち合わせの上午後四時新橋発にて大磯に急行したるが取り残されたる家族は一切面会を謝絶して邸内火の消える如く打ち?って見えたるが令夫人は記者に面接して頗る沈着の態度を見せて「どうやら不凶の様ですがそれがどうしても事実と思われないのです。公爵が発つ折に今度の旅は少し長引くと言われたのが事実となったのでしょう。その時の笑顔は未だにまざまざと目に残っております。」と語りつつ強い様でも弱いは女が両眼には露の玉がこぼれた折柄玄関先へ綱引きて来た井上角五郎氏は子爵不在の由を聞いて直ちに「じゃあ後を追って大磯へ行きます。」と新橋へ車を促した。
▲韓国皇太子の御嘆
伊藤公遭難の報鳥居坂御用邸に達するや同日午後五時金侍従武官は韓国皇太子殿下の御名代として大磯の伊藤公別荘を見舞いたるが洩れ承るに未だ宮内省及び統監府より確たる公報無きため高太夫は此の旨を殿下に御告げ申すを見合わせおる由然れば殿下には当日も平常の如く午前九時御起床学科体操等をいそしみ給いて安らかなる一日を送らせられ何事も御承知無くして午後八時過ぎすやすやと円かなる夢に入り給いしと云う日頃「老爺老爺」と殊の外懐かし給いし程なれば藤公の霊定めて二十六日夜の御夢には何事をか告げまいらするならん殿下が箱根の秋色を探り給いしは去月二日の事にして越えて七日には大磯の別荘に立ち寄らせ給いその夜一夜は御巧みなる日本語にて而も日本のお伽噺を御口づから藤公に語らせ給いて深く興に入らせられしこそ想えば最後の御語らいなりしなり。伊藤公出発の際には「?洲は寒いから用心せよ」と有難き御言葉を金武官にことづてされ給いて大磯まで見送らせ給い去る演劇台覧の夜にも「老爺が居れば」と心より宣いしやに承はれるが藤公既に亡しと聞召せらるる日殿下の御愁傷さこそ涙催さるる次第なり。
▲米国大使の涙
今日は大変な凶報だね。惜しい事した。僕は公は個人としては善く知らない。併し世界大舞台の偉人だからね。日本と清国とが望みを公の今度の行を?していたるは勿論関係列国皆公の健在を祈っていた。多少演説もせられたから此の行が幾らかは既に用を為しておるが安全に旅行の目的を達せられたら其の効果の極東に及ぶの程度測り知るべからざるものがあったろうと思う。残念な事じゃ。公の後継者は誰だろう。ちょっとむつかしいかね。何分種々の長所を持った方は沢山おられるが公の如き完璧はちょっと得難いからね。到底若手を挙げるより外はあるまいね。ファナテクスには困るよ。僕の国もリンカン、ガーフィルド、マキンレーと三人まで最も秀でたる大統領大人物で最も人望あった者を凶手によって失った。マッキンレーの横死もわずか八年前。何時までこんな野蛮な行為が続くのであろう。何分気狂いは困るね。スチブンソンも朝鮮人の手に斃れた。今の世の刑はたしかに悪を?らす力は薄いよ。尤も狂気者の行為は何とも仕方がないが彼等とて全く精神錯乱したのでもあるまい。余程国に尽すつもりなのであろう。大いに国家の害をなすとは悟らないからね。困ったものだ。どうかせめて同行者の怪我でも軽ければ宜しいがね。凶行者の処分はどうなるだろうね。場所がハルピンだからね。世界到るところ此の世界的英雄の横死を惜しまぬ者はなかろう。とて余程公を惜しむの気色が見えた。
▲世界に対して済まぬ/大韓興学会長李氏談
韓国留学生が組織せる大韓興学会長李昌?氏は綺麗な眉の間に深い皺を寄せて曰く「今日午後五時頃明治大学から帰る途中号外号外と触れ回る声が盛んに聞こえましたが私共は学生のことで余り世の中の出来事には注意しないものです故別に買いもしませんでした。帰って見ると号外が買ってあって始めて驚いた様な次第です。政治上如何なる影響を及ぼすかそんな事は私共にはわかりませんが私は只韓国人の一人として東洋第一の大政治家が非業の最後を遂げられた事を深く遺憾に考えます。殊に私の国人の手によって斃れられたと云う事は特に遺憾に堪えない処で斯かる世界的英雄を無学なる凶徒の手に斃したのは世界に対して相済まん様な感じがします。しかし私は斯かる二三無謀の徒が無謀なる挙によって日韓両国人の感情に悪結果を来たさざらん事を希望し、又信ずるものですと云う。其の処五六名の学生がドヤドヤと入って来て盛んに伊藤公の遭難談を始め均しく此の東洋の大英雄の横死を悼んでいた。
▲大隈伯の述懐
伯は微?に病める身を安楽椅子にもたせつつ慨然として語って曰ふ。「今朝吾輩は公が狙撃されたという報告を受けた時は驚いたが、しかし決して死なないことを確信した公は従来幾回となく死生の境を往来しながら非常に幸運な男で身に微傷をも受けなかったが今度だけは遂に免れなかったと見える。今や公は日本人中最もよく全世界に其の名を知られたる国の宝である。之を失うに至ったのは実に我が国の大損害である。殊に公を最も厚く御信任遊ばされたる我天皇陛下の御嘆きは拝察するに余りある先に井上侯が内田山の本邸に全快祝いの宴を催したる時は両人の間柄だから公は真に涙を流して喜んだ。其の死に掛かった井上侯が不思議に命を助かって幸運な公が却って先に行き、今や三人の中で一番弱かった山縣公が一番健康だ。人の運命はわからんものだ。感情の強い井上侯のことだからどんなに残念がておるか知れぬ。吾輩は慶応四年長崎に知遠館という学校に行っていた頃からの友人でどういうものかよく気があっていた。過日首相官邸に国際協会記者の招待があった時招かれて行くと伊藤公も来ていて「吾輩はどうも饒舌過ぎていけないから今日は何にも言わない。」と言ったが公が挨拶の時に久々で大隈に会って嬉しいとて特別に乾杯してくれたので、つい釣り込まれて一場の演説をやった。是が公に聞いてもらった最後の演説であった。今の末松子爵夫人生子さんが生まれた時は非常に弱くてとても育つまいと思われたが、公は非常に生子さんを愛して始終自ら抱いて歩いていた様で吾輩の処へも四五度抱いて来たように記憶している。生子さんの今日あるは全く公の深き慈愛の賜物である。今日は朝から少しく気分の悪い処へこんな報に接したので飯を喰う気にならぬ。」とて硬い身を安楽椅子から起して寝室へ、かの元気な顔が今日だけは真実に沈んで見えた。」

『読売新聞』(明治42年10月27日付け)










内閣総理大臣/伯爵


























兵庫県知事のころの伊藤博文




















和服を着た韓国皇太子と伊藤博文























ベルリンにて










































































































遣露大使としての伊藤博文













































此の写真は明治40年9月伊藤統監韓国帰任の際
軍艦笠置の上甲板に於て記者の撮影したるものなり





















































伊藤公夫人


















































伊藤博文、博邦と










































伊藤博文の父






























伊藤公の母堂





























中央 高杉晋作   左 従僕






























林宇一時代































邦人としてロンドンの初航者伊藤公と井上侯
山尾子、井上子(勝)、遠藤諸氏との撮影

























伊藤公爵及び夫人
『太陽』(19号 明治30年9月20)





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伊藤公爵の母堂
『太陽』(15号 明治30年7月20)
















































伊藤侯爵                   山縣侯爵
『太陽』(19号 明治30年1月20)










































































































































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