小林多喜二


明治のころ、本気でこの国を「働く者の楽園」に変えようとした靴職人がいた!
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◎プロ作家の驍将
○小林多喜二氏怪死
○街頭検挙後心臓麻痺
・・・・・プロ作家の驍将小林多喜二氏は目下保釈出獄中のものであるが、共産党再建運動の疑いあり、二十日午後一時赤坂区溜池電車通で築地署水谷特高主任小澤巡査が逮捕し同署に引致取調べをなしたが、逮捕の際小林氏は相当抵抗し至極元気であったが、取調べを行なった上同日午後四時留置場に収容し、間もなく午後五時半頃小澤巡査が留置場をのぞいてみると、小林の態度が一変して何か苦悶しているので直ちに付近の築地一丁目前田博士の往診をうけたところ、心臓麻痺と決定、直ちに応急手当をなし同七時前田病院へ収容したが、その時はもはや全く意識不明で午後七時半絶命した。(写真小林多喜二氏)
○検事検証す・・・・・小林氏は発病直前には非常に元気であり又?毒の形跡もないが築地所長は取り調べに当たって絶対に暴行を加えなかったと言明しているので死因に就いて疑いあり。二十一日午前十一時検事局より古井検事が出張検証を行なった。
○昨春以来地下潜行
○絶作『地区の人々』・・・・・氏は明治三十六年秋田県北秋田郡下川沿村に生まれたが間もなく一族と共に北海道に移住、小樽高商を卒業し小樽銀行に勤めている時「一九二三年三・一五」を書いて一躍名を現はし以来プロ作家となって活躍し「蟹工船」「不在地主」などの傑作をものし、後に作家同盟の書記長として敏腕をうたはれ、同盟の全盛時代を招来した功労者である。共産党文化連盟党フラクションの有力分子として昨春当局に睨まれて以来地下に潜りつづけて活動し、今年三月号の「改造」に「地区の人々」を発表したのが、彼の世に贈った最後の作品であった。
○大宅壮一氏語る・・・・・「真面目生一本の男で作家同盟にとっては実に惜しむべき?才をもっていました。昨年私の家で作家同盟の大会を開いた時会ったきりでその後地下に潜っていましたが堀英之助(本紙文芸欄所載)などの名で発表しているものは小林ではないかと言われていました。大変な母親思いで東京へ引きとって孝?していましたが・・・・・」」


『時事新報』(昭和8年2月22日付け)



◎小林多喜二氏の死因は心臓麻痺(きのふ検証の結果判明)・・・・・築地署で急死した小林多喜二氏の死因につき東京検事局吉江検事が検識した結果、死因は心臓麻痺で拷問の疑いなしと断定して死体解剖等はしない事になった。同氏は傑作「蟹工船」が????に問われ、起訴収容されたが目下は保釈中であった。然るに最近地下潜行運動に没入している疑いがあり、警視庁で監視中の者でたまたま当局の追跡を受け逃走した?過度の行動が心臓麻痺を誘発したものと伝はれている。尚同人は逮捕後党員たることを自白するに先立って面色変じて急死するに至ったが単なるシンパ関係以上に突込んでいたものと見られている。
○「母に知らせよ」と絶命・・・・・築地署の水谷特高主任は語る。死ぬ時は何も云い残さずただ
「故郷と母に知らしくれ」と云っていた。それから改造三月号に書いた小説『地区の人々』は?に困って書いたと云っていた。尚死骸はそのまま前田病院に遺族の上京まで安置するはずで、同署では伯父に当たる秋田県北秋田郡下川沿村川口小林??に宛て死亡通知をなした。
○ゆうべ自宅で粛かな通夜ー作家集いー・・・・・小林多喜二氏の?骸は二十一日午後九時収容中の前田病院から実母せき(六十一)さん、本家の小林一次氏他プロット作家同盟の諸氏に守られて杉並区??の小林多喜二氏の自宅に運ばれて文化連盟、作家同盟教授弁護士?の諸氏数名がしめやかに通夜を行なったが実母せきさんは涙ながらに語る。
「多喜二は今まで丈夫で子供の時から心臓病なんかしたことはありません。すべては帝大でとにかく死骸を解剖にした上のことです」と。」


『時事新報』(昭和8年2月22日付け)




















◎プロ作家小林多喜二氏検挙されて急死
赤坂で街頭連絡中捕はれ取調べ中心臓麻痺
・・・・・名作『蟹工船』以来左翼文壇の重鎮として活躍して来たプロ作家小林多喜二(三一)氏は、昨秋文化連盟の大弾?後、宮本?治氏と共に巧みに地下に潜り、警視庁特高当局はその後極力捜査を続けていた処、築地署員が二十日正午、小林が赤坂溜池停留所付近で街頭連絡を行なう事を突きとめ溜池付近を警戒中、小林がやって来たのをみとめ、逮捕せんとするや小林は逸早く逃走を企てたが数十町追跡の後逮捕、直に築地署に引致して午後一時から同署水谷高等主任が取調べに当たった処、身体の苦痛を訴えるので同三時一時取調べを打切り留置したが、同四時頃ますます苦痛を訴えるので築地一の二二築地病院の前川博士の来診を乞ふたところ容態は以外にも重態なので午後六時同病院に入院せしめ、手当てを加えたが同七時四十五分遂に絶命した。同博士の診断によると死因は心臓麻痺と云はれている。死の直前小林は死を意識したものか「国許へ知らしてくれ」「改造の地区の人々は?の人達が困っているので書いたのだ云々」の言葉を洩らしていた。小林は昨年四月共産党のシンパとして検挙されたが同六月保釈後は?限住所を離れて地下に潜り非常時共産党の再建運動に当たり、文化連盟?滅の時も昨年十月党検挙の時も巧みに逃れ正式党員として再建運動に当たっていたものであるが当局でその行方追及中突如として今回三月号の改造誌上に「地区の人々」が発表されたので当局では大いに面食い捜査網を引き締めて厳探を開始し前記の始末に及んだものである。昨年十月三十日検挙の際における党中央部たる岩田義?といい今回の小林多喜二の死といい共に左翼運動の全貌を突止めんとせる当局にとっては一大痛事であったとせられている。
○左翼文壇の闘将(小林氏の略歴)・・・・・小林多喜二氏は秋田県北秋田郡川治村の生まれで幼にして父母と共に北海道に移住。小樽高商卒業後北海道の某銀行に勤務したが昭和三年第一回普通選挙の際当時労農党の候補者山本??の応援に参加する事によって左翼運動の表面に現われ、四・一六事件にも連座したが六年一月保釈出獄後は文化連盟所属作家同盟の闘将として左翼文壇に活躍したが、同盟の大検挙後は全然非合法下に潜り共産組織に当たっていたもので「蟹工船」「不在地主」「工場細胞」はじめ名作数篇あり。本紙にも嘗つて中篇「新女性気質」を連載したことがある。?原?人なき現左翼文壇陣にこの死は甚だ惜しまれている。
○栄養不良と格闘の結果か(水谷特高主任の談)・・・・・当時の模様につき築地署水谷高等主任は語る。
「一週間前、当署に逮捕した共青関係の某と定期連絡を行なう事になっている共産青年同盟の指導者がいると云う事実を掴んだので、二十日正午連絡場所である赤坂区溜池一丁目の四つ角に私と小澤巡査が行ってみると二人連れの男がやって来た。後から「君君」と呼びかけるとその内の一人の二?廻し下駄穿きの男は一目散に虎ノ門の方へ逃走したので私は他の一人を捕らえ、小澤巡査が十二三町も追跡して、突き飛ばして倒したが此処で大格闘となってやっと逮捕した。午後一時ごろ署に連行して取調べを開始したが山野次郎と云うのみ。如何なる人物か判明しなかったが署員の中に写真で見覚えのある者が、これは小林多喜二だと云うので初め何も知らなかった私共もこれは意外な大物だと喜んで追求したが渋谷方面の某家の二階にハウスキーパーも伴わずに住んでいた事を云ったのみで、ひどく昂奮している上に息切れが甚だしいので同三時ごろ取調べを打ち切って留置場に寝かしたのだが、同五時半ごろ心臓が苦しいと訴えていると云う話なので築地医院の前田博士の手当てを受けたのだが遂に死亡した訳だ。逮捕の際懐中には五十一銭しか所持してなく非常に困っていたらしく顔色も好くなかったから栄養不良の上に十数町も逃走し而も大格闘をやったので心臓麻痺を起したものと思う。
○拷問ではない・・・・・毛利特高課長は語る。
「余り突然の事なのでもしやと心配したが調べてみると決して拷問した事実はない。余り丈夫でない身体で必死に逃げまわるうち心臓に急変を来たした者で警察の処置に落度はなかった」
また市川築地署長は曰く。
「蹴り殺したというような事実は全くない。当局としては出来るだけの手当てをした。長い間捜査中であった重要な被疑者を死なしたことは実に残念だ」
○死骸に縋って嘆く母親(けふは小林家から)
○死因に関する馨明書発表・・・・・作家多喜二の遺骸引取りに母親せき子(六一)は二十一日午後六時半、お孫さんを背に親戚小林市治同道で築地署にかけ込み
「新聞で知ったが、倅が死んだのに何故知らせて呉れぬ」
と興奮して係官につめよったが、水谷特高主任から同署で小林多喜二の本籍秋田に母親はいるものと打電中だった由を聞いて納得、事件の顛末を聞かされた後九時遺骸のある築地一の二四築地医院に行き?二階の一室であまりにも変わった息子の白布姿にワッとばかりに抱きつき泣き伏した。この頃同志多喜二の遺骸を迎ふべく江口?佐々木孝丸、大宅壮一諸氏を始め無産弁護士団及びプロット関係者余名が同医院前に集まったが当局は中へ入るを許さず、空しく二階を見あげているのみであった。九時三十五分、同志差し廻しの寝台車に遺骸は移され、母親せき子はプロレタリアの母らしく流石に人々の前では一滴の涙も見せず気丈に唇を噛んだまま、その質朴な姿を遺骸と共に車内に消し、江口?、佐々木孝丸両氏が付き添って車は杉並区馬橋三の三七五の自宅に向かい、十時半自宅に着いた。刻々に集まる三十余人のプロット関係者に守られしめやかな通夜が行なわれたが、母せきさんは
「親孝行の多喜二を賞めてこそくれ、殺すとはマア・・・・・何事でせう」と死骸に抱きついて半狂乱の如く泣き悲しみ、数回卒倒した。通夜に来た江口氏は母親に代わって語る。
「告別式は二十三日午後一時から三時まで自宅でやります。何しろ顔面の殴打裂傷、首の縄の跡、腰下の出血等がひどく、単なる心臓麻痺とは思えませんから二十二日当家から死因に関する馨明書を発表します。母のせきさんが悲しむのも無理はない。十一年前彼の父末松氏没後小樽に嫁いでいる姉さんの佐藤チマ(三二)さんと弟の三吾君との三人兄弟然も人一倍親孝行の多喜二君だったから・・・・・」
。」

『都新聞』(昭和8年2月22日付け)





















◎小林多喜二氏築地署で急逝(街頭連絡中捕はる)・・・・・「不在地主」「蟹工船」等の階級闘争的小説を発表して一躍プロ文壇に打って出た作家同盟の闘将小林多喜二(三一)は二十日正午頃党員一名と共に赤坂?吉町の芸妓屋街で街頭連絡中を築地署小林特高課員に追跡され約二十分にわたって街から街へ白昼逃げ回ったが遂に溜池の電車通りで格闘の上取り押さえられそのまま築地署に連行された。最初は小林多喜二という事を頑強に否認していたが同署水谷特高主任が取り調べの結果自白、更に取調べ続行中午後五時頃突如そう白となり苦悶し始めたので同署裏にある築地病院の前田博士を招じ手当てを加えた上午後七時頃同病院に収容したが既に心臓まひで絶命していた。二十一日午後東京地方検事局から吉井検事が築地署に出張検視する一方取り調べを進めているが、捕縛された当時大格闘を演じ殴り合った点が彼の死期を早めたものと見られている。
同氏は秋田県生まれ三歳の時一族と共に北海道に移住、小樽高商を卒業後拓殖銀行小樽支店に勤めたが四年前「不在地主」を某雑誌に発表して一躍文壇人となったがそのため拓殖銀行を解職されその後前衛芸術家同盟を経てナップに加盟、作家同盟から文化同盟に入って党シンパとして活躍していた。例の四・一六事件に連座して検挙され昭和六年一月二十二日保釈出獄し、その後はプロ文化連盟の書記長として活躍していたが、昨年四月のプロ文化大弾圧のあらしの中に宮本顕治と共に地下に潜入していたもので杉並区馬橋には母と弟がいたが彼の地下潜入と共に郷里秋田県下に帰っていた
。」

『朝日新聞』(昭和8年2月22日付け)









◎『同盟の旗が折れた』小林多喜二についての断片(徳永直)・・・・・病気になって半年来、きまってやる夕方の散歩から帰ってくると、家の者が慌てて「夕刊」を持ってきた。僕は暫らくその新聞から眼を離すことが出来なかった。「小林多喜二氏、築地署で急逝」ー三十分ばかりするとー人間小林について語れーという話があった。ブルジョア政治家や文士とちがって、我々には、特に小林多喜二においては、公人と私人の区別はないのだが。そして彼について語るには同盟ポストを休ましてもらっている僕よりは鹿地亘や、山田清三郎や立野信之なぞが最適人であるのだが・・・・・われわれの間では、彼を「作家同盟の旗」といったものだ。先日、壺井繁治が「プロレタリア文学」に寄越した通信にー小林の精かんな顔が見られないのはさびしいーというような事を書いていたが、事実その通りである。彼の実せんは、作品においても、組織活動においても、いつも同盟の旗じるしのように先頭を歩いていた。彼の「蟹工船」と前後して、僕の「太陽のない街」が発表された当時、お互社会主義競争の好敵手ーだったが、いつの間にか、僕は追い越されてしまって、最近は彼の姿さへ見失っていた。ここ一年半も彼の顔をみなかった。僕が「プロレタリア大衆文学論」を提唱した時、彼の「新潮」に書いたその批判があまりに「酷烈」なのに、ありてい僕は立腹して、彼を馬橋の家にたづねたことがあったが、彼は留守でお母さん一人、あの「?形期の人々」の中に出てくる、色白の小柄なお母さんだけがいた。半月ばかりしてから人を通じて「君の?論をききたい」といってよこしたが、半月のうちに解消していた。彼が地下に入ったのはその直後だったようだ。まったく非妥協的な、どんな小さな右翼偏向にも仮借しなかった彼、だから旧い職人気質の多い僕は、しばしば彼を冷たいと恨んだことさえある程だ。従ってまた彼ほど、味方を愛した者も少ない。小樽の銀行をかく首になって上京してきた当時僕の家へやってきて、来合わせていた工場の労働者たちと、まる、ン日も座り込んで話してから帰る時に、僅かにこういったーいや東京へ出て半月ぶりに労働者と話すことが出来て、ほんとに小樽にかえった気がしたぜー僕の机の向こうには、彼の少し首をかじげて笑っている写真がある。特徴のある、彼のきかない気の鼻柱はなつかしいものだがー。語りたい事はいろいろあるが、何からいっていいかわからない。「同盟の旗が折れた」ーあらしの中にハタめいていた旗が、音をたてて折れたようなー。とにかく、彼の「急死」によってうけるプロレタリア文学の損失は測り知れない。−一九三三二ー。」

『朝日新聞』(昭和8年2月23日付け)






◎帝大、慶大、慈大も解剖を拒絶/お通夜参会者は検束/小林多喜二浮かばれず・・・・・急死した小林多喜二の遺骸は友人と遺族間に解剖に付して死因を確かめようとする希望があったが、葬儀委員長江口換氏は「二十二日解剖を依頼したが帝大分院でも、慶大病院でも拒絶され、慈恵医大では承諾したので同日午後一時同病院玄関まで遺骸を運んで又?にここでも断られた。やむなく遺骸を又自宅に運び戻った」と語って同夜杉並区馬橋三ノ三七五の同家で通夜が行なわれた。夕刻杉並署はこの通夜集合を不穏と認め集まっていた作家同盟財政部長淀野隆二、左翼劇場女優原泉子を始め、花束を抱えて弔問に来た中條百合子さんも門口で検束され、検束総数十六七名、その中にはただ故人の作品の読者であったというお嬢さん夫人連など自家用自動車で弔問に乗りつけていた三四名も混じっていた。結局同夜は残る母と弟、葬儀委員長江口換氏のみの三人で通夜を営んだ。尚二十三日午後一時から同家で告別式、終わって堀ノ内火葬場でだびに付す予定である。」


『朝日新聞』(昭和8年2月23日付け)





◎電話の交渉とは話が違う/慈大側語る・・・・・帝大、慶大では解剖の依頼を受けずと江口氏の話を否定し、慈恵医大では
電話で、急性肺炎で死んだものだが病理学的解剖をして欲しいとの申し込みだったので承諾した。しかし送られたのを見ると小林多喜二氏で、付添人の希望も法医学的解剖なので、当院にはその法医学的解剖設備が不完全だから断った
。」

『朝日新聞』(昭和8年2月23日付け)







◎プロ作家同盟員総検挙の手延びん/ナップ東京支部長本庄等の取調べで罪状漸次明るみに・・・・・ナップ東京支部長本庄陸男(二九)内妻大矢清子(二八)某子爵令弟の妻女流作家ペンネーム若杉とり子(三五)杉並区阿佐ヶ谷一ノ六八八目白女子大出亀井あや子(二二)外男十名を検挙取調べ中であった池袋特高係では、その際押収したナップ東京支部員名簿及び救援袋、関係書類等を基礎として検挙の手を拡げ更に逃走したナップ書記長鹿地亘の行方を追及中であるが、この一味は秋田雨雀、藤森成吉、江口換氏等の手を通じモップルとも連絡を保ち機関紙としてパンフレット「逆襲」を発行、水谷八重子、及川道子、井上正夫等劇団人にもその手をのばさんとしていたもので今度の小林多喜二の急死に際して前記本庄宅の杉並区馬橋三ノ三八二に移動本部を設け活発なる策動を開始せんとしていた所を検挙されたもので、取調べの進展につれ全国のプロ作家同盟員(約六百名)に検挙の手が伸びる模様である。この移動本部は同じく池袋署員の手で街頭連絡中捕われたナップ所属有田昇及び小熊秀雄の両名によって判明したもので、杉並区高円寺九五六にあったナップ総本部は既にがら空きであった。尚本庄は数年前深川区内某小学校に奉職中児童に赤の宣伝をして解職された男である。」

『朝日新聞』(昭和8年2月25日付け)






◎大塚商大教授は起訴収容/商大は休職処分となる・・・・・新生共産党事件に連座し去る一月十日検挙され以来麹町署に留置。東京地方検事局金澤以下思想部各検事の取調べを受けていた東京商大教授大塚金之助氏(四二)は二十四日正午治安維持法違反で起訴され身柄は?局同日市ヶ谷刑務所に収容となった。なほ同氏は二十三日付け辞令で左の如く休職を命ぜられた。
東京商科大学教授兼東京商大附属商学専門部教授
大塚金之助
文官分限令第十一條第一項第二号により休職を命ず
右第十一条第一項二号は刑事事件に関して起訴せられた者に対し適用すべき條文である
。」

『朝日新聞』(昭和8年2月25日付け)






◎俳優を缶詰『沼尻村』上演禁止/小林の労農葬に弾圧・・・・・築地署で急死した左翼作家小林多喜二氏の「労農大衆葬」は既報の如く当局の弾圧で解消のやむなきに至ったが左翼団体では更に手をかへ三・一五記念日たる十五日を期し小林氏の原作「沼尻村」を脚色プロット新築地劇団の手によって築地小劇場に上演する計画をたて、同時に一部では密かに「午後三時を期し労農葬決行」の準備を進めていたが、逸早く当局の探知するところとなり、これ又「公安を乱す恐れあり」との理由で一たまりもなく禁止を申し渡されてしまった。所轄築地署では万一を慮って当日は全署員を総動員し水上、新場橋両署の応援まで求めて劇場付近はもちろん銀座方面まで警戒する一方、木挽町一ノ二三甲子屋クラブで舞台稽古中の俳優五十数名を同所に缶詰めにし完全に先手を打ってしまったため、結局この夜は大した騒ぎも起こらなかった。検束者はそれでも築地署七十六名、丸之内署九名、京橋署七名に達したが大部分は同夜直に釈放され、缶詰の俳優連も午後八時半解放された。

『朝日新聞』(昭和8年3月16日付け)








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◎共産党再建活躍のプロ作家小林急死(街頭連絡中捕はれ心臓麻痺)・・・・・日本プロレタリア文化連盟の作家同盟幹部小林多喜二(三一)は突然姿をあらはして廿日正午赤坂の街頭をはいくわい中築地署員に逮捕され水谷高等主任の取調べを受けていたが衰弱が甚だしいので廿日午後五時半築地前田病院に入院したが同日午後六時心臓麻痺で死亡した旨警視庁特高課に?出があった。小林は昨年春警視庁当局が加えたプロレタリア文化連盟に対する弾圧の際中條百合子の夫宮本顕治とともに行方をくらましその後当局の必死の捜査網を巧みにくぐり抜け一〇・三○事件で壊滅した共産党再建のために文化運動を通じて策動していたもので正式党員であった。(写真は急死した小林)
○築地署長談・・・・・廿日本署の特高係が赤坂溜池で街頭連絡中の男を発見不審尋問をしたところ突然逃出したので、追跡格闘の末取りおさえ本署へ連行すると同時に特高主任が取調べるとかねて出獄中に地下に潜入せる小林と解った。少時間の調べでは自供しないと見て外部からの材料を集めてから取調べるつもりで一先づ五時半留置場に入れたが間もなく苦悶をはじめ七時半には殆んど重体になったので前田病院にかつぎこんだ。当署としては何等の手落ちない。」


『東京日日新聞』(昭和8年2月22日付け)




◎プロ作家同盟員「逆襲」の計画暴露/武装突撃隊警視庁等を狙ふ/小林の葬儀を機に・・・・・去る二十二日夜小林多喜二氏の作家葬を目論みて目白、池袋方面のプロ作家同盟員間に秘密パンフレット『逆襲』及び殉死カンパ???を配布していた同盟員有田昇(二七)小熊秀雄(二五)の両名を池袋署特高係で??取調べたところ右同盟では相次ぐ弾圧に?滅に瀕した陣容の整備に狂奔していたが小林の急死をきっかけに単なる文筆行動から実践に移り二十三日午後三時の葬儀には東京支部員二百名が武装突撃隊を編成し警視庁及び内務省、検事局等を襲撃して同盟最後の威力を発揮せんとしていた計画が暴露したので同署特高係主任?巡査部長指揮のもとに十数名が検挙隊数組を編成し二十二日午後八時から???を開始し二十四日までに杉並区馬橋三の三二八のアヂトから東京支部長元深川某小学校??本庄陸男(二九)同人内妻大屋きよ子(二八)今野繁光(二六)山下栄作(二四)上野市太郎(二四)の五名及び同区高円寺一の二九本田??(二三)阿佐ヶ谷一の六八八女子大卒亀井綾子(二二)馬橋二の二五六斉藤正一(二七)高円寺六三二早大生村上達(二六)淀橋区柏木四の九七一学生吉原英雄(二一)豊島区池袋三の一六五久保田方某子爵弟内妻ペンネーム若杉とり子(四二)等十三名を検挙し押収した名簿により本部書記長鹿地亘をはじめ山田清三郎、細田民樹、中野重治の同盟患部を追跡中だが、同盟は前記小林多喜二の葬儀カンパ及び作家の入?資金獲得のためシンパ網拡大につとめ、ロシア帰りの藤森成吉氏をキャップとして都下各大学赤旗購読班を通じソヴィエト友の会、プロ文学等の会員を組織していた。更に秋田雨雀、江口?等の劇団関係の同盟員はインテリ俳優の組織班となり、すでに市川猿之助、井上正夫、水谷八重子、及川道子等への働きかけが予定されていた。警視庁特高部中川警部ほか数名が同署に出張し残余のメンバー逮捕につとめている。」

『東京日日新聞』(昭和8年2月25日付け)



























◎格闘して逮捕され/小林多喜二氏急死・・・・・昨年四月はじめ当局のプロ文化団体に対する一斉検挙の直前杉並区馬橋三五の自宅から行方を晦ましたプロ作家同盟書記長小林多喜二(三一)が最近雑誌『改造』に制作を発表したことから警視庁特高課で各署に手配して鋭意捜査中のところ十九日正午頃赤坂区溜池の花柳街頭で同志某と街頭連絡を行はんとすることを築地署で探知、同署特高係数名が張り込んで約廿分に亘り格闘の末電車通りで遂に逮捕したうへ午後一時頃本署に連行、水谷特高主任が取調べを開始したところ午後四時ごろ突然発病して苦悶をはじめ同五時半ごろ重体に?つたので築地一ノ二四築地医院長前田博士の来診を求めた結果心臓麻痺の危険があるとの診断に取調べを中止して直ちに入院させたが約一時間後遂に死亡した。警視庁特高課では同夜北海道小樽の同人の母親に打電、同女の上京を待って死体を引き渡すべく目下同院階上に安置し吉井検事が出張取調中である。(写真は小林氏)。」

『読売新聞』(昭和8年2月22日付け)







◎プロ作家同盟下のインテリ大検挙/二百余名に追窮の手・・・・・池袋署で二十三日検挙した杉並区馬橋三ノ二六八本庄陸男(二九)同人妻清子(二八)ほか十二名に就いて説?取調べの結果今?更に豊島区池袋二ノ一五六四久保方明大生村田達(二四)杉並区阿佐ヶ谷三ノ六八八目白女大出身亀井綾子(二二)豊島区雑司ヶ谷六ノ一一三一秋田信男(三○)杉並区馬橋一ノ八六四某子爵弟の内妻若杉とり子(四二)外九名を検挙した結果同人らの自白からプロレタリア作家同盟に属して活発に非合法運動をしているインテリ??二百数十名のメンバーが判明したので警視庁及び各署に手配一斉検挙した。前記検挙されたる同盟員は本部を本庄方に置く一方移動本部を杉並区高円寺九五六に置き全市内のインテリ階級に喰い込み更に小説家秋田??氏を通じて水谷八重子、井上正夫、及び松竹映画会社の及川道子らに呼びかけようとしていたほか、二十三日検挙された藤森成吉氏を介して各大学班の結成に狂奔しいたもので、本庄清子は東京本部の婦人部長、亀井綾子は政治部長として婦人のインテリ層を狙っていたものである。なほ前記検挙の端緒は豊島区雑司ヶ谷六ノ一一三一有田?(?一)が小林多喜二の葬儀に?して同志から弔慰金を集めるため救援袋を持って各所に出入りしていることを池袋署員に探知され同人の口から前記のアジトが判明したものである。

『読売新聞』(昭和8年2月25日付け)






◎市電の赤根こそぎ/指導者遂に検挙/共青細胞総キャップ山本・・・・・警視庁労働課では昨年秋の市電争議以来大衆一万三千の市電従業員間に根づよく扶植された交運革反組織内の共青フラクの一斉検挙を行い一月中ごろまでに職場から共青カンパ五十余名の検挙を断行したが、これ等の赤色分子を更に??で指導し電気局と東交大衆との間に持ちあがるあらゆる争議?つて当局を悩ましていた肝腎な最高指導部は巧みに地下に潜って摘発されないので??の中に引き続き活動中、遂に右最高指導者、共青市電企業細胞委員会議キャップ赤城こと山本?(二六)を渋谷署に検挙し、これと前後して革反組織??の指導部である全協交通運輸労働の本部常任中島信夫、田上忠、前田?三及び青パスオルグ木曾よしゑ、水野きみゑらを中野署その他に検挙した。労働課から小田警部、田?部長らが出張して取調べ中だが、共青細胞総キャップ山本は大阪高校卒、帝大法科二年生で交運指導部と連絡をとり共青細胞十数名の指導を通じて市電争議の全?に活動していたもので、当局では同人らの検挙によって多年争議ごとに悩まされた市電従業員内の左翼勢力は根底からくつがえすことが出来たといっている。

『読売新聞』(昭和8年2月25日付け)






◎シンパの大塚教授休職処分/けふ起訴収容さる・・・・・第五次共産党事件の有力なシンパとして去月十日伊豆湯ケ?温泉で検挙された左翼論壇の??東京商大教授大塚金之助氏は廿四日付けで文部省から左記の通り休職を命ぜられた。赤い大学教授の休職はさきに東大の大森?太郎、京大の河上?、九大の向坂逸郎、佐々弘雄、石浜知行の五氏が一度に槍玉にあげられたが、いづれも依然免で休職処分は始めてである。
東京商科大学教授兼東京商科大学附属商科専門部教授
大塚金之助
文官分限令第十一条第十一項第二号に依り休職を命ず。(刑事事件に関し起訴せられた書に対し適用する条文)
尚ほ身柄は麹町署に留置し市?検事が取調べていたが二十四日午後治安維持法違反として起訴され同夕??多摩刑務所に収容された。


『読売新聞』(昭和8年2月25日付け)














輝ける共産主義プロレタリア作家
同志小林多喜二虐殺さる。
二十日、築地署に於て。
後頭部には打撲傷、首には絞縄の痕、大腿部に出血、そして指はねぢられている。
天皇制警察のテロルに抗議せよ!
虐殺の真相同志の活動経歴及び党中央委員会の檄が次号に掲載される
。」



『赤旗』(昭和8年2月25日付け)




















◎最大の共産主義作家同志小林多喜二虐殺さる/二月二十日、赤坂街頭で逮捕され築地署で拷問の結果・・・・・二月二十日正午頃、同志小林は赤坂福吉町の街頭で連絡中、待ち伏せしていた数十名の築地署スパイに襲われた。敵の隙をうかがって付近に約二十分も逃れたが、遂に敵の網にかかり、激しい格闘の末、捕らえられた。彼らは気力を失った同志をがんじがらめに縛り上げ、抵抗力のないのにつけこんで打つ蹴るの凡る暴力を加へこうしてまったく死んだ様になった同志を築地署に運びこんだ。そして又も鬼畜のような激しい拷問が加えられた。この正午からその日の六時までの間にかつての精力的であった同志は、人間のすべての耐久力を出し尽くして死んだ。狼狽した官憲共は築地署の御用病院長、前田に旨を含め、息のある中に一度は診察させた事にして嘘の塊の様な死亡診断書を作らせたのだ。

『赤旗』(昭和8年2月28日付け)













◎死体に残る拷問致死の跡数々・・・・・同志小林は明らかに拷問によって殺された。同志の屍体は隠そうとしても隠せぬ無残なテロルの生々しい証跡がある。額には一眼で明らかな焼火箸の跡、左耳に強い擦過傷、首のまわりは細い絞縄でしめつけられた傷跡、手首には彼を被へつけるための深い手錠の傷、そして手首は反対側に反って硬直している。背中一面は打撲傷で皮膚がくづれている。膝から上の大腿部は両方とも紫色に脹れあがり内部出血多量でこれだけでも致命的である。敵はテロルのあらゆる残虐な方法を用い同志小林をおしつぶし、撲り絞殺したのだ。畜生でもこんな残酷な事が出来るだろうか?彼らはこれを六時間で平然となし遂げたのである。しかも署長市川は、「少時間の調べでは自供しないとみて外部からの材料を集めて取り調べることとし一先ず五時半に留置場に入れた所が、間もなく苦悶し始めた」と空々しい常習的詐言を弄している。犬畜生ども自ら手をかけたのにこんな破廉恥なことをノーノーと云えるだろうか?
◎手をかけたのは署長市川・・・・・同志小林を殺したのは、同志岩田、上田その他六十余の共産主義者を虐殺した同じ天皇制官憲、警視庁スパイだ。特に直接に手を下したのは築地署長市川、特高水谷、小林である。こいつ等の名前を決して忘れるな!。


『赤旗』(昭和8年2月28日付け)












◎死因が判明するのを恐れて解剖を拒絶さす/警視庁各病院に内命を発して・・・・・同志の死体は上京した彼のお母さん、せいさんの手へ、二十一日に引き渡された。その夜は馬込の彼の自宅でお母さん弟の三吾君を中心に作家同盟劇場同盟の諸君三四十人の人々が集まって心からの通夜を行なった。同志達は翌二十二日朝直ちに同志小林の真因を明瞭にするため、直ちに慶応、帝大各病院を訪れて解剖を求めたにも拘わらず、各病院当局は無法にも拒絶した。昨年同志岩田の死体の解剖が天皇制テロルの残虐振りを白日の下にさらし、幾百万の大衆の憤激を高めたのにこりた敵は予め各病院に内命を発して一様に拒否させたのだ。慈恵医大病院の如きは一度承諾しながら、定刻にお母さんや同志達が彼の死体を病院に運んだ時になって、剣もほろろに玄関先で突はねたのだ。敵はこうして解剖が特定の資格を有する病院でなければできぬという天皇法律を手段にして、虐殺の真相が労働者農民の前に明瞭にバクロされるのを恐れ、これを阻止したのだ。

『赤旗』(昭和8年2月28日付け)














◎日本の生める最大の革命的作家プロレタリヤ文化運動の輝ける指導者同志小林多喜二の虐殺に際して檄す!・・・・・全国の労働者農民兵士勤労人民諸君!益々深刻化し拡大され行く勤労人民大衆の飢餓と、中国に於ける戦線の拡大は軍事的警察的天皇政府のプロレタリアートの前衛に対する野獣的テロルを狂気の如くつのらせた。昨年一ヵ年だけにも1千四百名の革命的労働者を検挙し、日本の労働者農民にとって最も力強き指導者、日本共産党の最高指導者、同志上田同志岩田を卑劣極まる手段で虐殺し、同志上田の如き死体すら遺棄した。更に本年に入ってから名古屋で四百名の同志を検挙しまた最近九州地方一帯に数百名(詳細不明)の革命的労働者を検挙し、長野県下で数十名を検挙し長野の伊藤君、川崎の田邊君は虐殺された。そして血に飢えた奴等はここにまた日本に於ける最大のボルシェヴィキ作家プロレタリア文化運動の輝ける指導者共産党同志小林をタイホ後数時間の中に虐殺した。全国の労働者農民兵士勤労人民大衆諸君!同志小林の作家として革命家としてプロレタリアートのために戦った功績は、国内にまた国際的に余りによく知られている。彼の燃ゆるが如き革命的情熱と確固たるボルセヴィキ的信念とは彼の多くの作品に表れて居り、それを通じて数十万のプロレタリアートの胸は躍動している。彼の処女作である「一九二八年三月十五日」は?劣惨虐を極めた軍事的警察的天皇政府のテロルの生々しい正体を徹底的にバクロし革命的労働者の不屈の英雄的抗争を描き、天皇政府に真向から対立する真実の共産主義文学の基礎を日本においてはじめて打ち建てた。これを読んだ無数の労働者農民は天皇政府に対する?りなき憎悪を新に燃え立たせ闘争のためには死を誓った。或る労働者はこう云った。「小林の三・一五を読むとどうしても戦わずには居れなくなる。」と。其の他「蟹工船」「不在地主」「工場細胞」「オルグ」「転換期の人々」「党生活者」等々、彼の作品は多く資本家地主、天皇主義的抑圧のバクロと労働者農民の生々しい闘争を描いたものばかりであり、そして闘争によるプロレタリアートの解放への道を断固として暗示している。彼の作品は作品として勝れているばかりでなく、労働者農民を啓導し、督励し、闘争、組織に参加させるための宣伝煽動組織的役割を果たした。或る地方の一同志は出版物が不充分なため同志小林の不在地主を農村に持ち込んだらそこに農民組合が出来たといった。かく彼の作品の盡くが、直ちに労働者農民の血となり、肉となり、それが同時に軍事的警察的天皇政府の礎破壊突撃隊となって逆襲に向かった。また同志小林の組織者としての役割は、全国の工場農村学校の文化サークルの上に生きて居り、そこには戦争反対!テロル反対!天皇主義打倒の怒濤の如き声となって現われている。「三・一五」をはじめ著名作品の翻訳紹介によって国外のプロレタリア大衆の上にも生かされて国際的革命運動の拍車となっている。同志小林は何故殺された?それは同志小林の存在は以上の如く、労働者農民の先頭に立ったが故に、プロレタリアに革命的活路の方向を教えたが故に、天皇主義と戦ったが故に、憎むべきテロルに仆されたのだ!同志小林は鋼鉄の如きボルシヴィキであった。彼は捕われ数時間の中に、後頭部には打撲傷、首には紐のあと、腿は血にまみれ、指は折られてむごたらしい死かばねとなるまで、組織の秘密は半句ものべなかった。彼は死をもってプロレタリアートのためにその組織を守ったのだ。それ故にこそ天皇主義警察の虐殺するところとなったのだ。全国の兄弟同志諸君!同志小林の死は、心臓麻痺で病気したものでは勿論断じてない。それは帝大、慶大医科の臆病下劣なブルジョア医学博士の解剖の証明より、彼らが天皇制警察の奴僕となって解剖を拒否し虐殺による死因を大衆の前に陰蔽せんとした。この事実こそ、解剖にもまさる最も有力なる科学的証明なのだ!。日本の軍事的警察的天皇政府の専制的抑圧は世界に其の例を見ない。共産党、革命的労働組合、革命的大衆団体の存在を認めず、ストライキ、争議は争議団全員検挙を以ってぶっつぶし家宅捜索、不審訊問、住宅自由、大道を歩く自由まで人民大衆から奪っているばかりでなく、その手段は世界に例のない陰険卑劣なスパイ政策、拷問、虐殺、暗黒裁判であり、今や彼らは「国家非常の際共産主義者は盡く殺してもいいのだ」と公然吐かし、事実国家、皇国(軍事的警察的天皇政府)の名でそれが行なわれている。同志上田は死屍すらなく同志××、○○も其の例を踏んだものと思われる。それを裏書するものは最近警視庁内に数分間にして一頭の馬を煙にすることの出来る機械を据えつけたことだ。然しながら彼等が如何かにデマリ如何かに証拠を陰蔽しようとも大衆の目を断じてふせぐことは出来ない。なぜなら、共産主義者は、肉体を滅されない限り、必ず何処かで(たとえば刑務所の中でも)大衆の先頭に立つて奮然と戦っているからだ。プロレタリヤの目前から共産主義者が理由なくして消えた時、それは奴等の手に殺されたと我々は今や断定しなければならぬ。(スパイであれば必ず尻尾を出して生きている。)そして大衆は同志等の死屍を越えてその下手人を倒すために前進するであろう。全国の労働者農民兵士人民大衆諸君!我等の最大の革命的作家プロレタリアの前衛同志小林は仆された!これはいうまでもなく戦争と革命時における共産主義者大衆的虐殺の序曲となるものだ!だがプロレタリアートの先頭に立つ日本共産党の党旗は、同志渡政同志上田同志岩田をはじめ六十名を突破する革命指導者の血によって染められ、今また同志小林の温かき血沐を浴びて屈せず天皇主義政府に真向から対立して闘争している。日本の労働者農民兵士人民大衆はこの日本共産党々旗を先頭に紅に染んで仆れた同志達の教えの下に彼等の意志を受け継ぎ米と土地と自由労働者農民政府のため人民革命遂行を目標に大衆行動を組織し、虐殺下手人、軍事的警察的天皇政府に逆襲しなければならぬ。吾が日本共産党中央委員会は全日本プロレタリアートの最良の意志を代表し、同志小林の復讐を誓うと共に、同志小林の葬儀を三月十五日(三・一五記念ーそれは同時に彼の著作の記念日でもある。)に全国的に労農葬を行なうことを決定し、彼の意志である失業飢餓反対!白テロ反対!戦争反対!天皇制打倒!特に、共産党員の死刑重刑反対!階級的政治犯人、ストライキ争議の犠牲者、天皇制抑圧のため入獄せる一切の人民の即時無罪釈放の闘争として天皇政府に対する大衆的抗争を起すことを全国の兄弟諸君に訴えるものである。全国の労働者農民兵士勤労人民大衆諸君!三月五日(一九二九年革命的代議士同志山宣が治安維持法改悪反対を絶叫して白テロの兇刄に、仆れたのもこの日だ!)の「失業と飢餓反対白テロ反対デー」を同志小林の復讐戦の第一回戦として戦へ
三月八日の国際婦人デー
三月十三日のマルクス祭を経て三月十五日の「三・一五記念日」の労農葬までの闘争を質下、首切、失業、飢餓に渦巻く大衆抗争の真っ只中に更に加重する白色テロルをケツて同志小林の復讐のために戦へ。工代会議、職代会議、農代会議、失業者大会、農民大会を起せ!ストライキと示威で労農葬を戦へ!憎しみの日二月二十日を忘れるな!この日を毎年のプロレタリヤ文化デーとせよ!葬儀基金、弔電、抗議文決議をおくれ!大衆的労農自衛団をつくって白テロを粉碎せよ!プロレタリア文化連盟の大衆化日本共産党の大衆化をもって同志小林の復讐とせよ!逆襲のために革命的労働者は日本共産党にはいれ!共産党員の検挙、投獄、拷問、虐殺絶対反対!共産党員の即時無罪釈放!其の他階級的政治犯人、ストライキ争議の犠牲者!天皇制抑圧のため入獄せる一切の人民の即時無罪釈放のために戦へ!同志小林をはじめ六十余名の共産党員並びに革命的労働者の虐殺下手人軍事的警察的天皇制を倒せ!
日本最大の国際的ボルセヴィキ作家、プロレタリヤ文化運動の輝ける指導者、日本共産党員同志小林多喜二の復讐のために戦へ!
一九三三・二・二五
日本共産党中央委員会


『赤旗』(昭和8年2月28日付け)












◎同志小林の略歴・・・・・
1903年ー八月、秋田県秋田郡の貧農の子として生まれ、三年後家族と共に北海道へ移住。
1924年ー小樽高商を苦学卒業後、拓殖銀行小樽支店に勤め、『文芸戦線』に小作品を発表。
1928年ー春、同志山本懸蔵の総選挙闘争へ積極的に参加して革命的生活に入る。前衛芸術家同盟を経てナップ(全日本無産者芸術団体協議会)に加入。十一月戦旗紙上に三・一五弾圧を取り扱った最初の傑作『一九二八年三月十五日』を発表。
1929年ー五月、同じく戦旗に『蟹工船』を発表。これにより傑出した革命作家としてこの地位を確立した。この年中央公論に発表した『不在地主』で拓殖銀行の内幕を激しく暴露したために?首さる。
1930年ーナップ再組織の結果として日本プロレタリア作家同盟の創立と共に同盟中央委員となり三月小樽より上京。文化団体に下された五・二○弾圧のため六月遂に逮捕。半年間豊多摩刑務所に拘禁さる。
1931年ー一月保釈出獄。同盟の第四回大会において作家同盟書記長に選出され、一層強力に革命的活動を続く。
1932年ー四月、文化連盟に大暴圧が襲うと共に地下活動に移ったが依然として作家同盟と日本の文学運動の正しい政治的組織的指導のために最も執拗に闘った。大衆的文化運動への転換、コップの確立の際の彼の役割は決して忘れる事は出来ない。
1933年ー二月二十日、遂に天皇制官憲の手に捕らえられ、東京、築地署で虐殺さる。享年三十一歳
彼は日本のプロレタリア文学運動に於ける最も傑出した作家の一人であった。作品としては上述の他に、『沼尻村』『オルグ』『党生活者』『地区の人々』(絶作、改造本年三月号)等があり、その中『三・一五』等の諸作は数ヶ国語に翻訳され、既に世界の労働者農民によって愛読されている。彼は又最もすぐれた革命的実践家、プロレタリア文化=文学運動の、すぐれた指導者であった。最近に於けるこの方面での彼の活動は、文学運動に於ける右翼的偏向との闘争に注がれていた。昨年暮から虐殺に至るまで『プロ文学』誌上に堀英之助の名で執筆した諸論文『二つの戦線に於ける闘争』『右翼的偏向の諸問題』『更に二三の問題に就いて』等は、同盟を正しい軌道に導く上に最大の寄与をなしたものだ。彼はこの仕事の半ばに不幸にも敵の手によって遠く奪い去られたのである。


『赤旗』(昭和8年2月28日付け)











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◎全世界の勤労者に同志小林の虐殺を訴ふ!!・・・・・ソ同盟・中国・ドイツ並に全世界の勤労者諸君!日本最大の共産主義作家として世界プロレタリア文学運動の輝ける旗手であり、幾多の優れたる作品を通じて日本及び世界の勤労者に巨大な影響を與えていた同志小林多喜二は二月二十日天皇制テロルの野蛮なる拷問によって斃れた。『日本に於ける白色テロルは共産主義を投獄する代わりに警察に於いて簡単に虐殺する規模に達している』これは国際共産党が我が党中央委員同志岩田、上田の虐殺に関する追憶の中で述べた言葉である。このテロルの規模は停止することなく発展している。今年に入ってから東京及び急進的な地方において三人に上る虐殺者を出し、そして今この周知の共産主義プロレタリア作家を虐殺した。これはこのテロルが近い将来に軍事的警察的反革命的クーデターと大衆的虐殺へ発展することを鋭く示している。ソ同盟並に世界の勤労大衆諸君!日本帝国主義は連盟脱退による排外主義と熱河攻撃による全国的戦争熱の大煽動の中にも彼等は深く苦悶を感じている。それは低賃金と飢餓と政治的無権利に対する幾千万勤労者兵士の反抗が次ぎの瞬間には革命的大衆行動となって戦争と天皇制を脅かし、遂にはその?覆にまで突き進むであろうということをおぼろげながら感じているからだ。かかる際、彼等は警察と一切の反動機構を比類なく強化し、人民大衆の革命的指導者、共産主義者を逮捕し、これを虐殺する以外に方法を持たない。だがそれは人民を直接、権力に対する大衆行動に決起するのを促進させ、革命を接近させるのに役立つのみである。ソ同盟並に世界の勤労大衆諸君!同志小林が日本の共産主義陣営の最も活動的なメンバーであり、また数ヶ国語に翻訳された彼の作品を通じて最も卓越せる天才的作家たることは諸君がよく知っている処である。彼は北海道小樽で小商人の子として育ち、一九二八年、かの三・一五に取材する小説を発表して以来、蟹工船、不在地主等々の傑作を出し、同志蔵原と共にプロレタリア文学運動の最大指導者となった。彼が地下生活に入って以後数回にわたる検挙投獄に屈せず革命運動に精進した事は模範的ボルシェヴィキとして高く評価されている。彼が世界の作家ゴルキーを継ぐ唯一の日本の誇りであることはプル文学者すら認めざるを得なかったものである。同時に、文学と革命運動の関係をレーニン主義的に身を以って実践した功績のにない手である。彼は温まる席なき闘争場裡に自らの革命的経験を深めつつこれを作品に反映し、その作品によって革命運動に影響を與へた。ソ同盟並に勤労大衆諸君!日本は既に十数万の軍隊を熱河に向け、爆撃機と戦車、大砲の口を開いて世界戦争の火蓋を切った。国内の各工場は軍事監獄化、窮乏と飢餓が全人民を襲っている。「歯には歯を」「武器には武器を」日本勤労大衆の決意は頻発する大衆的ストライキ、デモンストレーション、農民行動の中に、中国プロレタリアートとの確固たる連帯の下に強められている。我が党は二月二十日をこの優れたる国際的共産主義作家の栄誉のために、この日を日本及び世界文化運動の上に長く記念するために「文化デー」とすること。来る三月十五日ー日本に於ける最初の共産主義者に対する大衆的検挙の日、三・一五に挙行される同志小林の全国的労農葬を行なうことに決定した。全世界の共産党、革命的労働組合、革命的文化団体其の他の大衆団体並に労働者農民兵士、植民地被圧迫勤労大衆諸君!我が日本共産党中央委員会は日本の全プロレタリアを代表して同志小林の虐殺に対する抗議を、虐殺の下手人であり、ソ同盟攻撃、プロレタリア革命運動抑圧の国際的憲兵たる天皇制日本帝国主義打倒のための闘争によって復讐することを誓うと共に、我々のこの闘争に対する全世界の勤労者大衆の積極的支持並に同志小林の虐殺に対する国際的抗議を希望するものである。天皇制テロルの下に同志の死屍を越えて逆襲しつつある日本プロレタリアートの最良の意志を代表して。
一九三三・二・二六
日本共産党中央委員会


『赤旗』(昭和8年2月28日付け)









◎二十三日、告別式に弾圧/片ッ端から検束ー五十名/参列し得たのは近親者と友人六名だけ・・・・・二十二日の午後からは同志小林宅近くに警戒本部を設けて杉並その他各署から制私服数十名を動員して、来る者を片っ端から検束し、その数五十名に及んだ。翌日の告別式は母、おせいさんの希望により、無宗教として行なわれたが、赤旗に包まれた同志の遺骸の前にまで参列し得たのは、僅かに母、おせいさん、弟三吾君、姉佐藤夫妻と江口渙、佐々木孝丸の二君ばかりで、花環も城東労働者クラブ、作家同盟婦人委員会、関鑑子、村山?子君等の外はすべて家族にも渡さず押収された。天皇の法律では刑事被告人の葬式だからこうしてよいというのだ。遺骸は午後三時、堀之内火葬場で近親者、参列者の憤激の涙の中に火葬に附された。」

『赤旗』(昭和8年2月28日付け)











◎労働者農民の葬儀を/涙の中からお母さん雄々しく語る・・・・・同志小林のお母さん、おせいさんはもう六十を超えている。おせいさんは革命家の母として同志小林を固く信頼し彼のとった道が正しい道であることを本能的に知っているのだ。「今でも自然に死んだとはどうしても思えぬ。こういうこともあろうとは予てよく承知していたが、とてもあきらめられない。せめて無宗教の葬儀をあなた方の手でやってもらいたい。」と云うのが、通夜の晩のおせいさんの言葉だった。同志小林の母は労働者農民の闘争による仇討を望んでいるのだ。」

『赤旗』(昭和8年2月28日付け)











◎引き続き文化連盟に大暴圧/約三百名の同志を検挙・・・・・同志小林の死が労働者農民特に故同志の密接に指導した文化連盟大衆の憤激を高めているのに恐怖した官憲は、指導者の検挙によってこの大衆的抗議闘争をぶっつぶそうと数日来約三百名に近い同志達を検挙している。」

『赤旗』(昭和8年2月28日付け)









◎警視庁に今度馬一匹が数分間で煙になる死体煙滅炉が造られた・・・・・これは勿論共産主義者の頻々たる虐殺行方不明事件とは関係あるものであり、また更に発展するであろう。共産主義者革命的労働者の大衆的虐殺のためにも準備されたものである。(××通信員)」

『赤旗』(昭和8年2月28日付け)







◎党最高部指導者同志××虐殺?・・・・・党中央委員会の指導者同志××は十月三十日以来行方不明である。中央委員会は全力を尽しての捜索にも係わらず其の行方は依然として不明であり、最近に至って十月三十日前後××大学病院に手足に鎖の跡ある、首なしの死体が運ばれたという事実があり、それが同志××に酷似しているとの通信があった。これによって同志××は同志上田の如く死体まで天皇制テロルによって奪われたものと推測される。

『赤旗』(昭和8年2月28日付け)






◎同志○○も同様手段で虐殺か?・・・・・十月に検挙され、ブル新聞にも発表されている党中央委員会の指導者○○も最近どの警察にも居らず未決にも居ず彼が逮捕された付近の××○○病院に同様手足に鎖の跡ある、首のない死体が運ばれたとの通信がある。

『赤旗』(昭和8年2月28日付け)





◎同志田辺虐殺と判明/神奈川総評革反を指導して官憲により逮捕、虐殺さる・・・・・去る一月、同志田辺潔は横浜伊勢崎署に逮捕され、拷問に屈せず組織の秘密を守り遂に虐殺された。官憲は彼が泥酔して溝に落ち溺死したのだと宣伝したが、事実は彼の死体が水に浸った形跡なきこと、着用の服だと遺族に渡した品は全然新しく犯行をかくすための安物の既製品なること、首のまわりに細縄の痕跡がはっきり残っている等々の点から虐殺であることが確かめられた。同志は所謂『煙突』戦術の小ブルジョア的反動的態度をはっきり自己批判し、神奈川総評内革反の中にあって勇敢に活動し、優れたボルシェヴィキとして自らを鍛えていたのだ。

『赤旗』(昭和8年2月28日付け)







◎九州地方一帯に亘り大弾圧下る!・・・・・八幡製鉄所の大動揺と北九州一帯に亘る農民の革命的闘争の真っ只中に天皇制テロルは再三、二月十一日より全九州に亘って暴れ狂っている。確実な詳報は未着であるが、被検挙者は数百名より数千名に上る予測である。

『赤旗』(昭和8年2月28日付け)





◎同志小林多喜二の遺作『一九二八年三月十五日』・・・・・『一九二八年三月十五日』は同志小林多喜二の最初の傑作であると同時に、日本で真にプロレタリアの小説として現われた最初の作品だった。今それは日本の労働者農民の無二の愛読書となっている許りでなく、ヨーロッパ各国の言葉に翻訳されて、世界の勤労大衆をはげまし、鼓舞している。三・一五事件当時小樽にあって同志山縣の選挙闘争に闘った同志小林は、警察テロルに反対する大衆とその前衛の?いを自分の周囲にまざまざと見た彼は、この小説の中で警察テロルの正体と前衛の英雄的闘争を最も巧みに描いている。そしてその彼も亦最も優れた革命家として敵の手に倒れたのだ。次に掲げるのは此の小説の一部である。

取調べが始まった。渡に対してはこの共産党事件がなくても警察はやっつけなくてはと思っていた。渡は取調べに対して一言も答えなかった。「拷問するぞ!」「仕方がないよ。」「天ノ屋気取りで後で青くなるな」「俺が拷問されたから言う男かどうか位はもう分ってそうなもんだ。」渡は裸にされるといきなり床へ叩きつけられた。それが三十分も続けられた時最後の一撃がウムと身にことへた。彼はブルブルッと手足をふるはして、次に気を失っていた。水をかけると息を吹き返した。「今度のは新式だぞ!」「何でもこい」だが渡は今度のにはこたえた。畳屋の使う太い針を一さし刺される毎に自分の体がギュンとちぢまる。彼は口をキュッと喰いしばり大声で叫んだ。「殺すなら殺せーえっ」渡は拷問されている時にこそ、はじめて「憎いーッ」という資本家に対する火の様な反抗が起こった。「新鮮な」階級的憎悪がムラムラとわくのを意識した。「何だって神経なんかありやがるんだ!」渡は歯をくいしばったままガクリと頭が前に折れた事をどこかで意識したと思ったーおぼえてろ!それが終ひの言葉だった。
××
鈴木の場合も同じ手だった。彼はなぐられもけられもしなかったが、ただ八回も(八回も!)続け様に気絶させられた。始めから終りまで警察医が(!)彼の手首を握って脈を調べていた。彼は八回目には酔っ払った人間の様にフラフラになってしまった。どう答えているかも自分には分らなかった。夜十二時を過ぎた頃、佐多は隣の「不良少年」に起された。「ホラきこえないか?」「聞こえるだろう。」「何だろう」「拷問さ!」「分るよ。殺せーッて言ってるらしい。」佐多は耳を両手で?ふと汗くさい布団の中に顔をふせた。彼の耳はそして彼の脳髄はまだその音をきいていた。廊下を通る時巡査の声で、「お前は少し強情だ」そういうのがきこえた。
××
取調室の天井を渡っている梁には滑車がついていて、それの両方にロープが下がっていた。龍吉はその一端に足を結びつけられると逆さに吊るし上げられた。それから、どっつきのように床に頭をどしんどしんと打ちつけた。その度に血が頭にあふれる程さがった。彼は警察で虐殺された同志を知っていた。惨めな死体が引き渡される時、警察はその男が自殺したとか・・・・・どうしたらいいのか?裁判所?だがそれだってグルではないか?「これが今度の大立物さ!」彼はグラグラする頭でそういうのを聞いていた。・・・・・彼が半分以上も自分のでなくなっているからだをよろめきながら帰って行く時、実際自分が拷問をうけるようになった場合、不思議な抗力が人間のからだにある事を知った。龍吉のひどい熱は翌々日治った。隣の不浪人が「お前さんのね言は中々どうして・・・・・ねえ、中々死ぬもんかー一寸すると中々死ぬもんか、さ。何十回もそればかりいっていたよ。」龍吉はホッとして大声で笑い出した。
××
四月二十日全部が札幌へ護送された。人のいない部屋には壁の落書きだけが目に立った。一九二八年三月十五日を忘れるな!田中反動内閣を倒せ!万国の労働者団結せよ!


『赤旗』(昭和8年2月28日付け)






















◎同志小林の虐殺に抗議せよ!/屍体に残るテロルの跡/目撃者は語る・・・・・同志小林多喜二の屍は去る二月二十一日夜おそく高円寺馬橋の自宅に運ばれた。同志小林の屍体が如何に見る者をして目をおおわしめる様な惨虐なテロルを加えられていたか。目撃者の一人は語る。一、左右のコメカミの所に傷がある。同志小林の母親はその傷の所を双手で撫でながら「オオここは命とりの所ですよ。ここを打たれれば誰だって死にますよ!オオ」と嘆いた。二、頸のまわりに、縄か何かでしばられた擦り傷があり皮膚は破れている。三、胸に外傷は見えないが、両方の大腿部には(ぐるりと)実に人の目を覆はしめる無惨な溢血があった。全く暗紫色に腫れ上がり、血管破裂による内出血がどんなにひどかったかは素人目にさへ歴然と認められた。四、左右の手首には、きつくきつく、手錠で縛られた跡があり、皮がすりむけて親指を中にして、手は握りしめる形であった。背中は一面紫のアザになっている。五、「ぼんのくぼ」に背後からステッキか何かで斬りつける様に強撃された痕跡がある。六、カンフル注射らしいバンソウ膏が僅かに右腕に二箇所あったにすぎぬことは吾等の忘れることの出来ぬ印象である。七、衣服は当時着ていたらしいものを着、ズボン下なども身に着けて送り返されたが、それが死亡の後始末をして着せられたものであることは、ズボン下にどんな損傷もないことだけで明らかである。八、母親は泣きながら云った。「病院へ行っていつ死んだと看護婦さんに聞いたら、つれてこられてたった十五分位で死んでしまったと答えた。そうしたら刑事がその看護婦を手招きして、外へ連れ出してしまった。」と、又、築地病院の医者が「連れて来た時はもう死んでいた。死んだものに注射したって仕方がないじゃないか」と云ったという事実もある。九、築地署の特高主任水谷(海軍中将か何かのノラ息子だそうである)は同志小林の屍体を寝台で運び出す時、何とも云えぬ変な顔をしてコソコソまわりを歩いていた。此奴が直接の下手人なのだ。十、「なんも、すぐ殺さずとええのにナア」同志小林の母の言葉は列座の同志の心を貫いた。「オオどこが息つけんようになった?」そう云って同志小林の胸を撫で「心臓が、どこが悪い?うちの多喜二は心臓なんかどこも悪うない!どこが心臓が悪い!」そして「さあ皆のいるところでもう一遍だけ生きて立たねか」と云って頬づりをした。」

『赤旗』(昭和8年3月5日付け)








◎同志小林の屍体に全監房、革命歌で哀悼・・・・・二十日、築地署の監房に来た時の同志小林は既に全身の自由は利かず、ただウメイているだけの瀕死の状態なのを二人掛りで運び込まれたのだ。これには只の留置人も皆同情し憤慨した。各房の、何れもテロで歩けない同志達は口々に「小林、しっかりしろ」と励ましていたが、ものの小一時間も経たぬ中にそのウメキ声も消え、様子は変わってしまった。看守の奴は慌てて知らせに行き、さも驚いた様子に刑事や警部がやって来て人口呼吸だ、何だと騒いだがもう同志小林は半分死んでいたのだ。そしてもう助からぬと定まった時にノコノコ医者を連れて来て見せたのだ。同志小林の後頭部には穴があいており、手はネヂまがっていた。天皇制警察テロルに対する憤激は全監房に起こった。抗議と哀悼の意をこめた同志達の革命歌の高唱に全員が和し、奴等が制止することも出来ない中に、尚、強く高く歌い続けられた。」

『赤旗』(昭和8年3月5日付け)







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◎三月十五日午後七時・築地小劇場/小林多喜二労農葬の大衆的デモへ参加せよ!・・・・・労働者農民一般勤労者諸君!今日は我が党並びに革命的労働者農民に対してブルジョア地主的天皇制の最初の大衆的テロルの幕が切って落とされた三・一五大検挙の五周年であり、この日本プロレタリアートの復讐の日にふさわしく同志の小林の虐殺に抗して労農葬が全国的に戦われる日だ。この五年間に天皇制の軍事的警察的テロルは日を追って強まり、特に中国略奪戦争の始まって以来倍化された速度をもって狂暴化している。三・一五以来革命的労働者農民の検挙者総数は二万に達し、昨年中のみにても七千人を越え、今や獄内には我が党創立者同志佐野鍋山等をはじめとして、数千の共産主義者革命的労働者農民が鉄鎖につながれている。この暴力支配の下に全人民大衆は最後の一片の自由まであますところなく剥奪され、全国土を挙げて軍事的警察的監獄の状態に閉じ込められている。しかも警察刑務所における拷問虐待は既に六十余名に上る同志の生命を奪ったが、最近に至っては同志岩田、田辺、伊藤、小林と、共産主義者の虐殺が矢つぎばやに行なわれるに至った。実に同志小林の如きは逮捕後数時間にして犬のようになぐり殺されたのだ。同志小林の労農葬はこの暴虐飽くなき天皇制テロル政治に対する全人民大衆の決然たる抗議である。もし我々がこの闘争を成功的に遂行して、白色テロルに有効に逆襲しないならば、それは階級敵の虐殺政策を泣き寝入りに承認し、彼等の革命的労働者農民の大衆的虐殺への道を切り開かせることになる。彼等は、ロシアと戦争がはじまるならば、共産主義者は勿論、戦争に反対する「帝国奴」は片っ端からみな殺しにすると公言している。そればかりか一昨年秋のファシストクーデターの陰謀に際しては、市ヶ谷刑務所を襲撃して同志佐野をはじめとして全同志のみな殺しを企てた程だ。彼等が捕われた全同志の殺戮をためらっているのは大衆の憤激の前にたじろいでいるに過ぎない。労農葬の闘争は、彼等のテロルを撃退するか?彼等のテロル政策を無制限にノサばらせるかの瀬戸際だ。労働者農民一般勤労者諸君!我日本共産党を創立した同志佐野鍋山をはじめ、三・一五以来捕われたる同志並今日の我が党の基礎を築き上げた一0・三0の同志等は、獄内にあっても我が党の旗を守って敢然として闘い、獄内闘争の組織煽動のための監房新聞までも定期的に発行している。これ等在獄の英雄的同志達に対しては全日本の革命的労働者農民が最大の敬意を捧げているのみならず、コミンテルンからも焔の如き同志的挨拶が送られている。」

『赤旗』(昭和8年3月15日付け)





◎決議・・・・・同志岩田、上田の虐殺がまだ我々の記憶に新しいのにあくことなき軍事的警察的天皇制の暴虐は又しても、同志小林多喜二を虐殺した。我々は敵階級に対する憎悪に燃えている。我が××は毒ガスマスク、その他パラシュート防毒着、空気ボート等の軍需品の製造工場であるが、且つて我々が労働強化に反対し、臨時工の解雇に反対して立った際、同志小林多喜二より多大な援助をあたえられたものである。吾々は哀心より同志小林多喜二の死を悼み、併せて日本帝国主義の心臓である軍需品工場内において日常闘争を激発し、帝国主義戦争反対の闘争の先頭に立つことにより、同志の偉大なる階級的犠牲に報いるものである。
三月二日
○○○○工場」

『赤旗』(昭和8年3月15日付け)


















◎小林多喜二労農葬の大衆的示威で闘へ!/ブルジョア地主的天皇制の戦時的テロルに対する全国的逆襲的大衆闘争へ!・・・・・労働者農民兵士一般勤労者諸君!同志小林の労農葬は日本プロレタリアートの復讐の日「三・一五」五周年来る三月十五日に決定した。今日熱河略奪の強盗戦争の拡大と共にブルジョア、地主的天皇制の警察的テロルは暴虐の止まるところを知らない。さきに虐殺された同志岩田の血潮のなほ新たなる今日、同志小林は天皇制権力の血まみれの手によってナグリ殺された。しかも最近階級敵の血に飢えたテロルは同志小林一人に止まらず、全協長野の同志伊藤、横浜の同志田辺、台湾霧社事件の被告十数名へと血の犠牲をむさぼり求めている。今や天皇制政府のテロル政策は指導的共産主義者に対して積極的な殺意を固めている。共産主義者革命的労働者農民の虐殺は拷問のやりすぎの結果ではない。共産主義者の肉体破壊は野蛮残忍な天皇制の一つの制度なのだ。労働者農民兵士一般勤労者諸君!この天皇制テロルに対する嵐の如き大衆的憤激の真っ只中から、英雄的殉難者同志小林の労農葬全国委員会はモップル、コップ、全協、全会、労救、友の会、弁護士団等々の代表者によって結成され労農葬は三月十五日午後三時を期して、築地小劇場において挙行される。労農葬は天皇制の戦時的テロルに対する労働者農民の全国的逆襲的大衆闘争の巨大な一歩だ。それはヒットラーの独裁に対して総罷業を宣言して決定的闘争に決起しつつある独逸プロレタリアートに対する国際的連帯を示す国際反革命に対する逆襲闘争の一環である。それはソヴィエト同盟に対して銃口を向けつつある熱河強奪の反革命的戦争政策に対する力強い抗議闘争である。労働者農民兵士一般勤労者諸君!経営に職場に、農村に部落に、兵営に長屋に同志小林虐殺反対の大衆的抗議闘争を巻き起こせ!改良主義労働組合内の労働者農民は固より、組織半組織の広大な大衆を動員して、天皇制の白色テロルに対する大衆的統一戦線を確立せよ。経営から部落から代表を選出して、労農葬全国委員会に送れ!三月十五日小林多喜二労農葬をめざして職大、工代、農民大会、サボ、スト、デモを組織して白テロ反対の全国的大衆的闘争を起こし全国の経営村落に数百数千の労農葬を組織せよ!白テロ反対の協議決定を赤旗!革命的組織を通じて天皇政府に叩きつけろ!軍事的警察的天皇制の戦時的テロル反対!共産党員其の他一切の階級的政治犯人の即時無罪釈放天皇制抑圧のための一切の入獄、留置者の即時釈放!帝国主義戦争反対、軍事的警察的天皇政府反対のための、米と土地と自由のための、労働者農民政府のための人民革命万歳!」

『赤旗』(昭和8年3月10日付け)





◎失反闘争の成果を踏みしめて/労農葬カンパーニヤを成功的に闘へ・・・・・(一)熱河強奪戦争の真っ只中において荒れ狂う軍事的警察的テロルに抗して闘われた三月五日の失反デーは当日の飢餓行進、失反デモへの大衆動員の不成功にも拘わらず、今後における大衆的闘争の発展に偉大なる貢献をなした。この闘争の成果は、第一に我が党で引き続く白色テロルの攻撃の結果としてこの闘争の準備活動に著しく立ち遅れして居ったに拘わらず、この闘争を放棄するという敗北主義的消極性を一掃して目前に切迫したカンパーニヤのために、経営紹介所、部落内の日常闘争と結合して精力的な準備闘争を押し進めたことである。故に失反デーのための準備活動の成果は全国的な大衆的経済的闘争の展開の条件を著しく促進したことである。第二には、戦時における飢餓と失業に反対する大衆の闘争威力に恐怖した支配階級がこのカンパーニャを暴力的に破壊するために全力を尽くし、例えば東京においては失反デーに先だつ数日間にはスパイを総動員して全市的に非常警戒網を張りめぐらし、我が党並びに全協に対して計画的に大衆的逮捕を組織したに拘わらず、この暴圧と闘争を決行したことである。白色テロルの重圧の下に我々の力は分配され全市的な統一的デモを成功的に実現されなかった。しかも一切の社会民主主義者改良主義者が失反闘争を完全にサボタージュせる時に我が党が極めて苦難なる条件の下に敢然としてこの闘争の先頭に立ったことは、大衆の間における我が党の信頼を著しく高めるに役立つている。そして、大衆は失反カンパの闘争を通じて、彼等の失業、飢餓、窮乏がブルヂョア地主的天皇制の暴力的支配の下に維持されていることを、益々生々と経験し、彼等の政治的無権利に対する闘争に愈々広汎に決起している。かくて、我が党に下された白色テロル、なかんづく最近における同志小林の虐殺は経営に農村に大衆的憤激を巻き起こし、この白色テロルに対する爆発的な大衆的憤激が、今や広汎なる大衆の政治的無権利と天皇制の警察的暴力支配に対する革命的大衆闘争に発展する条件が刻々と成熟しつつある。来る三月十五日の小林多喜二労農葬は、斯くの如き条件の下に、天皇制の戦時的テロに戦時的大衆抑圧と大衆収奪とに対する逆襲的大衆闘争の巨大なる一歩として全国的に強力に闘われなければならぬ。

(二)同志小林の労農葬を成功的に戦うためには、十二月四日の同志岩田の労農葬カンパの経験が充分に学ばれなければならぬ。十二月のカンパにおける最大の成功は、抗議的集合デモが暴圧に抗して公然と大衆的に決行されたことにもあるが、さらにそれにも増した成果は幾十幾百の経営部落において労農葬のための大衆的集会が企てられ、経営内闘争と結びついた労農葬カンパが日程に上されたことであった。この大衆の創意的なカンパーニャの形態が全国的に普及化され、幾百幾千の経営企業部落内に大衆的労農葬が実行されてこそ、労農葬カンパは大衆闘争として成功的に遂行されるのである。そしてこの際我が党が全面に押し出さなければならぬ問題は、このカンパーニャを通じて政治的無権利に対する広汎なる大衆の下からの統一戦線を確立するための積極的活動である。この大衆的統一戦線の実現のためには党はまず労農葬カンパーニャの重心を経営企画部落に移し、大衆の日常的闘争と結び付けて広汎な準備活動を精力的に遂行しなければならぬのであるが、更に大衆諸団体に対する従来の弱められたる指導的活動を可及的速やかに強化し、既に大衆諸団体によって成立した労農葬全国委員会の闘争を積極的に支持して、この委員会に経営部落より大衆的選挙による代表参加の方針を指示して、特に社大党及び改良主義諸組合の影響下にある大衆を積極的に動員するために精力的に闘争し、団体協議会型の労農葬全国委員会を労働者農民大衆の政治的無権利に対する広汎なる大衆的統一戦線確立の方向に発展せしめなければならぬ。それがために中心地東京に倣って各地方はそれぞれの地方的地区的労農葬委員会を成立せしめ、大衆の白色テロルに対する爆発的な憤激を確乎たる統一戦線の基礎に組織化し、この闘争への参加をサボる社会ファシスト、改良主義組合幹部の裏切りを容赦なくバクロして、天皇制テロルの協力者たる彼等の正体をアバキ出し、階級対階級の戦術を成功的に実現しなければならぬ。この点に我々の間において嘗て犯された誤謬、上からの共同戦線の持ちかけ戦術に頼って排同、東交その他の改良主義ダラ幹の左翼的駈引きにひきづられ、同志岩田の労農葬カンパに示された広汎なる大衆の熱烈なる支持を正しき大衆的統一戦線に実現し得なかった若き経験に学ばなければならぬ。我々は暴圧に抗して闘われた失反カンパーニャの成果を踏みしめて、来るべき労農葬カンパーニャを成功的に闘わなければならぬ。

『赤旗』(昭和8年3月10日付け)








◎同志小林多喜二の労農葬に就いて檄す・・・・・全国の労働者農民兵士及び一般勤労大衆諸君!先に日本共産党中央委員、同志上田茂樹、同志岩田義道を虐殺したブルジョア地主的天皇制権力は、又もや党の重要な同志、プロレタリア文化運動の指導者、指導的共産主義作家同志小林多喜二を虐殺した。同志小林は死を以って党の秘密を守ったのである。日常闘争において不屈のボルシェヴィキ的闘争者であった同志小林は、敵の手に捕らえられても真にボルシェヴィキの模範となった。同志小林の虐殺は天皇制権力に対する全国被圧迫大衆の憤激の嵐となっている。中国侵略戦争の拡大、対ソ戦争の狂熱的準備のために、国内勤労大衆の奴隷的搾取と抑圧を決定的に強化しつつある天皇制権力は、今や革命的前衛に対する虐殺を制度としている。そして今同志小林は彼等の血にまみれた手によって虐殺され、しかも野獣の如き支配階級は、かくも明瞭な同志の死因が大衆によって確かめられるのを恐れ、死後二十四時間も家族に知らさず、各病院をして解剖を拒絶せしめた。又通夜の人々、告別式の弔問者をも片っ端から検束したのである。
全国の労働者農民兵士及び一般勤労大衆諸君!吾々は来る三月十五日ー日本プロレタリアートの復讐の日に、同志小林の全国的労農葬を遂行する。同志小林の虐殺は全日本の労働者農民すべての被圧迫大衆に下された迫害である。我々は労働者農民葬を以って同志小林を葬らねばならぬ。かくして大衆的抗議を支配階級に叩きつけ、一切の白テロ粉砕を闘わねばならぬ。吾々はここに各革命的大衆団体代表、工場代表、自由思想家の協議会を開き同志小林の労農葬を決定し全国的に呼びかける!
同志小林の虐殺に抗議せよ!工場農村に下からの労農葬委員会を選び、代表を参加させよ!すべての進歩的インテリゲンチャよ参加せよ!労農葬基金に大衆的に応募せよ!同志小林の遺族に大衆的救援活動を起せ!
労働者学生失業者はデモを組んで同志小林の労農葬(東京、三月十五日午後三時築地小劇場)に参加せよ!三、一五、五周年を同志小林の労農葬で闘え!階級的政治犯人を即時釈放せよ!ブルジョア地主天皇制の白色テロルを粉砕せよ!
同志小林労農葬全国葬儀委員会
一九三三年三月一日
日本プロレタリア文化連盟
日本赤色救援会
ソヴエート友の会
日本消費組合
労農救援会準備会
日本労農弁護士団
全農全国会議」

『赤旗』(昭和8年3月10日付け)





◎決議・・・・・共産党の栄誉を敢然と闘い断乎としてボルシェヴィキの鉄の規律を守りブルジョア地主的天皇制の白テロによって虐殺された同志小林多喜二!日常闘争における君の真に不撓不屈の闘争は最後の瞬間においてもボルシェヴィキの英雄的闘争の模範を示した。死を以って党を守った君の闘争は我が党の歴史において不朽であり、すべての革命的労農大衆の闘争の永久の拍車となった。我等今日まで君と共に手を組んで闘って来た者は、君を誇り誓う。党の旗を死守し人民革命を準備し、君の偉業を断乎として達成し、天皇制テロルに決定的に復讐することを!
党中央××××部」

『赤旗』(昭和8年3月10日付け)







◎同志小林ー最近の思出A生・・・・・彼は何時から時間かっきりに両手を打振り打振り街角に現われた。彼が連絡時間を間違えたり遅れたりする事は殆んどないと云ってよかった。僕達は彼が肩で風を切って歩くのを見て「プロレタリアートの巡洋艦」と云う綽名をつけた。彼は全く闘志そのものだった。彼が文化活動に於ける種々の逸脱、偏向ー特に右翼的危険ーに対しどのような無慈悲な闘争を展開したかは伊東進、堀英之助等の名で発表された論文を見ても明らかであろう。この彼の無慈悲なボルシェヴィキ的態度は批判の的となった。皆にとっては大きな痛手だった。それ故、ややもすれば彼のこの厳格な態度は公式的、観念的やつけ主義だとか、狭量だとか云う言葉で反対された。彼はよく苦笑しながら、右翼的偏向者から政治主義だ、公式主義者と云われるのは真に光栄の至りだ。などと冗談を云ってはバリバリ仕事を進めていた。彼は又常に俊溂な自己批判を忘れはしなかった。「俺達は何もかも基本的組織の拡大強化という事を頭に置いて居なければならないよ。いくら多くのサークルを作ろうがもしそれが基本的組織の経営細胞の組織の踏み台になるか拡大強化に役立つかしなければ、何ともならん。それこそ文化主義だ。」彼は吾々の間の文化主義的偏向は吾々の生活が経営に基礎を置いてない事から起こるのだと云う事をはっきり知っていた。彼が提唱した「サークル死傷」の問題は実にこの欠陥を除去し、文化運動を文字通りに工場農村企業に根をおいた大衆的運動に転化さすための重要な問題として吾々の前に残されている。同志小林多喜二は最近敵の追及が激しくなっているのを感じ、極度に「身体を大切にし、もし街頭でスパイに合ったり、会合を襲われたりしたら「猛然と襲い掛かろうな」と常々云って居た。俺達の同志が誰か一人でもあの時一緒にいたら、きっと君だけは逃がしたろうに・・・・・それほど君は吾々にとってかけがえのない同志だった。彼は同志岩田義道が天皇制テロルのために虐殺された時、歯ぎしりして口惜しがった。後で云った。「これからは活動的な同志はみんなブチ殺しやがるんだ。だが、死ぬか生きるかって事がこんなにはっきりすれば却って働き甲斐があるぢゃあないか?」彼は全く労働者農民の解放の途以外に何等の自分の途を持っていなかった。彼は何の掛値もなく鉄のようだった。鉄のようと云うのが月並みならば、はがねのようだった。昨日、僕達はある会合を始める前に、この同志小林の英雄的犠牲に対して一分間の黙祷をした。一人の同志はそっと人知れず眼に手をやっていた。一人の同志は身動き一つせず端座していた。吾々はこの一分間に同志小林の偉大な英雄的行動の意義を繰り返し繰り返し胸の中に叩き込んでこう云った。「さあ始めよう!」」

『赤旗』(昭和8年3月10日付け)





◎東京ー午後七時、築地小劇場に於て/築地一帯を労働者、農民、兵士、学生、一般勤労大衆の群でうづめろ!/三月十五日小林多喜二労農葬/全国の工場、職場、部落は当日午後三時を期してハンマー、鍬鋤をを捨てて一斉に黙祷せよ!五分間(十分間)サボ、スト、デモンストレーションを決行せよ/大阪 同志小林の追悼劇に五千人の労働者/解散に大衆的抗議昂まる・・・・・(通信員)同志小林の虐殺に対する抗議運動は大阪を中心に全関西に広汎にまき起されているが、二月二十六日、七日の二日、プロレタリア演劇団によって大阪中の島公会堂に同志小林の追悼劇が上演されるや、両日にわたって無慮五千人の労働者ー文字通り労働者で全部を占めたーが動員され、会場ははち切れるばかり、伝統に輝く阪神労働者の同志小林の虐殺に対する憤激はすさましいまでに示された。狼狽した官憲は、卑劣にも暴力団を雇って舞台上に暴れこませ、これを口実に解散をはかった。」

『赤旗』(昭和8年3月10日付け)



























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◎大阪/同志小林の追悼劇に五千人の労働者/解散に大衆的抗議昂まる・・・・・同志小林の虐殺に対する抗議運動は大阪を中心に全関西に広汎に巻き起こされているが、二月二十六、七日の二日、プロレタリア演劇団によって大阪中の島公会堂に同志小林の追悼劇が上演されるや、両日にわたって無慮五千人の労働者ー文字通り労働者で全部を占めたーが動員され、会場ははち切れるばかり、伝統に輝く阪神労働者の同志小林の虐殺に対する憤激はすさましいまでに示された。狼狽した官憲は、卑劣にも暴力団を雇って舞台上に暴れこませ、これを口実に解散をはかった。だが、わき返る大衆的抗議運動はこの企画を粉砕して一層広汎に阪神全労働者を巻き込んで発展している。この成功的大衆動員を基礎に十五日をめがけて画期的大衆行動を組織すべくもりもりと準備を進めている。」

『赤旗』(昭和8年3月10日付け)








◎三月十五日・・・・・労農葬終了後、午後八時から築地小劇場で追悼劇「江尻村」上演、同志小林の優れた遺作の一つ、プロレタリア演劇同盟総出演。」

『赤旗』(昭和8年3月10日付け)










◎私達婦人労働者解放の為に戦う革命的労働者を市会に送ろう!小林多喜二さんの虐殺に抗議しようと私達は懇談会を持った!××工場・○○工場・居住共同懇談会・・・・・三月八日国際婦人デーに私達働いている者ばかり七人集まって懇談会を持ちました。婦人デーの始まりの話や、一九一四年にロシアの婦人労働者が、ペトログラードでデモをやりこれが、革命の火蓋を切った事など話してみんなでふだんつまらないと思う事や不平や不満をいい合って見ようと一人が言い出すと一人の女工さんがすぐ自分の職場では賃金がとても安くて便所の設備が悪く、食堂が無いので昼飯は立って食うんだといったので他の女工さんも「私の方もそうよ」とその不平に賛成しました。で私達は不平をみんなで一まとめにしてみようとずっと紙へ書いて行きました。(一)男の人と一緒に同じ仕事をしながら賃金が半分か三分の一だ。同じ仕事には同じ賃金を貰いたい。(二)食堂休憩所を作ってもらいたい。(三)便所の衛生設備を完全にしてくれ。(四)賃金をくれて一週間一回の休みを欲しい。(五)月経時には五日間休みたい。(六)賃金が安すぎるからもっとあげて貰いたい等々だった。みんなで不平を言っておる間に婦人労働者がどんなに資本家に苦しめられているかという事がだんだん判って来た。そして市会議員選挙の事が話しにのぼって私達の本当の利益を戦いとってくれる人を選びたい、だが多くの男子労働者や婦人労働者には選挙される資格もする資格も無いので十八歳以上の男女に選挙権をよこせと前の不平不満の所へ加えた。そして労働者農民の国ソビエトロシアでは五日働いて一日休み婦人労働者に全く自由と平等があたえられておる話し合いました。それからみんなでロシアのような国にするために一生懸命戦って天皇政府、資本家を一日も早く倒すようにしようと誓いました。そのうちに一人が何時も私達労働者が如何かにしぼられているか、どういう道に進んで行くかについて常に正しい事を書いて教えてくれた小林多喜二さんが天皇政府と資本家の手先の警察の手によって虐殺されたと話してくれました。この前も岩田義道さんや、上田茂樹さんのように私達労働者のために働いてくれる最もよい人を殺して、今又その血にぬれた手のかわかないうちによく労働者の事を正しい見方で書いてくれた小林さんを殺したのです。このような天皇政府と資本家地主は私達労働者のねむりをさまして何をなすべきかを教えてくれる人達を手先の警察を使って殺してしまうのです。で私達はその場で白テロ反対小林多喜二さんの死に対して闘争を以って戦うことを決議しました。そして十五日には小林さんの労農葬と其の作品「江尻村」を築地でやるそうだから職場から一人残らず参加するようにしようと約束しあって労農葬、市会議員選挙の基金二十六銭を集めました。散会する時、この次ぎの懇談会にはもっと沢山集めて来る事、今日定めた事を必ず実行する事にして別れました。」

『赤旗』(昭和8年3月10日付け)













◎労農葬準備各団体協議会開かれ大衆的動員の準備進む・・・・・準備団体協議会は去る二月末。党モップル、文化連盟その他参加によって第一回会議を行なった。
一、葬儀は十五日午後七時築地小劇場と決定
二、近く全国的葬儀委員会決定のためモップル。×××××、文化連盟、×××××××、及び市電、市従失業者委員会、××、×電業の職場代表参加の下に協議会を召集すること。
三、各団体の共同署名による檄を作成、発表すること等を協議した。第二回は三月七日に持たれ、当日の大衆動員の準備は各団体において着々と進行していることが報告され、尚ほ葬儀準備について前回に引き続き詳細に決定された。」


『赤旗』(昭和8年3月10日付け)








◎私達婦人労働者解放の為に戦う革命的労働者を市会に送ろう!小林多喜二さんの虐殺に抗議しようと私達は懇談会を持った!××工場・○○工場・居住共同懇談会・・・・・三月八日国際婦人デーに私達働いている者ばかり七人集まって懇談会を持ちました。婦人デーの始まりの話や、一九一四年にロシアの婦人労働者が、ペトログラードでデモをやりこれが、革命の火蓋を切った事など話してみんなでふだんつまらないと思う事や不平や不満をいい合って見ようと一人が言い出すと一人の女工さんがすぐ自分の職場では賃金がとても安くて便所の設備が悪く、食堂が無いので昼飯は立って食うんだといったので他の女工さんも「私の方もそうよ」とその不平に賛成しました。で私達は不平をみんなで一まとめにしてみようとずっと紙へ書いて行きました。(一)男の人と一緒に同じ仕事をしながら賃金が半分か三分の一だ。同じ仕事には同じ賃金を貰いたい。(二)食堂休憩所を作ってもらいたい。(三)便所の衛生設備を完全にしてくれ。(四)賃金をくれて一週間一回の休みを欲しい。(五)月経時には五日間休みたい。(六)賃金が安すぎるからもっとあげて貰いたい等々だった。」


『赤旗』(昭和8年3月10日付け)







◎十五日の労農葬へ!/××工場婦人懇談会・・・・・この工場は三百人の中三分の二は女の××工場だ。会社は女には五十銭しかくれないが、倉庫の人等は毎日夜業で男と同じに働いている。三ヶ月毎に十銭昇給さるといいながらタッタ三銭だけ一度あげ後は一年経っても昇給しない。皆ブツブツ云ったり他の工場へ行きたいなんて云っている。それで、戦争的姉妹の人が相談して婦人デーを前にして第一日曜にお汁粉会を開いた。そして仕事の辛い事、賃金の安い事から、小林多喜二が労働者農民のために働いて、殺された事、岩手の大震災で農民が全く餓死するばかりになった事等話し救援基金がその場で六十銭集まり労救に頼む事にした。一同は工場で基金運動をする事、今度は、競争で大勢連れて来る事を決めた。ここから、「旅」の読者も作り、婦人委員会も作ろうと姉妹は意気込んでいる。十五日の労農葬には皆でおしかけて行くぞ。」

『赤旗』(昭和8年3月10日付け)








◎××大学で大衆的抗議闘争・・・・・都下××大学の有志達は同志小林多喜二の虐殺に対する抗議運動を起こし「虐殺抗議署名帖」を作って署名運動を起す一方、学生の不満を激発して大衆的抗議闘争を闘っている。」

『赤旗』(昭和8年3月10日付け)






◎抗議・・・・・日本帝国主義は熱河を占領し、中国分割対、干渉戦争を拡大した。この天皇制政府は日本共産党の指導者同志上田、岩田を始め六十数名の同志を虐殺し、またまた優れたプロレタリア作家同志小林多喜二を虐殺した。我々は斯かる野蛮極まる虐殺に断乎抗議すると共に一切の階級的政治犯人の即時無罪釈放を要求するものである。
一九三三年二月二十六日
××××工場
旗の友の会」

『赤旗』(昭和8年3月10日付け)







◎抗議・・・・・畜生!また輝ける私達の前衛プロレタリア作家小林多喜二を虐殺したな!同志上田茂樹、岩田義道の惨殺に続いて今また同志小林多喜二の惨殺!この狂人じみたお前ら天皇の警察の意図は私達にはっきり判るのだ!それはこれらの輝ける前衛が私達全無産婦人の解放のために天皇制政府の戦争に反対し、私達を何時までも奴隷的な鉄鎖で縛りつけて犠牲を強いる天皇制に真向から反対しそれを打倒し、ソビエト日本樹立のために身命を賭して戦ってくれたがためにだ。そして既に亡び倒れかかったお前達天皇制政府が最後のアガキとしての反革命戦争を遂行するために、私達無産階級へのガムシャラな攻撃の集中として前衛達は頻々として惨殺されているのだ!私達はもう我慢がならない。ワナワナとする憤激を以って同志小林多喜二の惨殺に断乎抗議し、同志小林の虐殺の真相の公表を要求する。下手人を出せ!お前達が強権を以って身動きのならないように縛りつけて簡単に殺すことが出来ても、第二第三の小林は続々出る。否その百倍千倍の小林が出ることを今に目に見せてやるぞ!私達勤労婦人の一人一人は日本共産党の旗の下に結束し、同志上田、岩田、小林の遺志と貴き血潮を受け継いでけだものの貴様等を一人残らず倒すために貴様等天皇制の全機関の息の根を止めるために職場、居住でもろもり戦うぞ!
国際婦人デーの日
西南地区婦人労働者懇談会」


『赤旗』(昭和8年3月10日付け)








◎同志小林多喜二の虐殺に際して/××地区××軍需品工場内 マツ子投・・・・・昨年の始め××××が×万個という莫大な毒ガスマスクの注文を陸軍省から受け取ると同時に、三百人足らずの本工では間に合わず、一ヶ月程の間に六百人以上の臨時工を募集した。賃金は男は、十三時間もしくは徹夜と無制限に働かされても、一円五十銭前後で、二円取れるという者は無いし、女はもっとひどく十三時間で残業手当を入れて、一円九銭という安さだ。休憩は飯時三十分休ませるきりで重役、検査官(陸海軍将校)社長親子まで総動員で仕事場をウロウロして、監視しているし、便所に行くのまでかぞえている始末だった。食堂、便所、脱衣所等の工場設備も三百人分しかない所に千人の従業員が働いているので、便所は毎日ビシャビシャあふれているし、弁当は立ったまま食べたり、仕事場の板の間の上に座って食べたりする状態だった。こんな有様であるから、皆の不満はひどかった。臨時工の中でも数名元気のいい連中がいたので、工場の帰り路でしるこなんかを食べながら、「どうしたらいいか」と相談した。前記の不平不満は兎に角、臨時工の中で一番問題になっていたのは、皆入社する時に「三月末迄しか使はぬ」という契約書に判を押して、承認させられていること、つまり二ヶ月もすれば首を切られることを会社と約束していることだった。四月になれば又沢山の仕事が来る事が解っているのに、散々コキ使って首にするなんて余り、人を馬鹿にしている。「ずっと本工にして使え」という要求のために如何にして闘ったらいいかという事になった。
×
元気のいい者が、先頭に立って臨時工にもピンポンをさせることを監督に交渉したり「時間後の職場掃除を時間内にさせろ」という要求に交渉員をあげられたりして、部分的には、皆の不平不満の先頭に起って闘うことに成功したが、困った事には働く期間が短い事、不満がほとんど臨時工のものなので。勇敢に言うと、一方本工からは「生意気だ、でしゃばりだ」と言われ、本工との結び付きが困難だったこと。こんな条件で「首切り反対だ」「臨時工を本工になほせ」という要求の下に闘うことはかなり困難だった。
×
元気のいい人の一人が「プロ小説家の小林さんを知ってるからあの人に頼んで来てもらって、皆を集めたら如何だろう?」と言い出した。それも未組織の人を大衆的に集める一つの良い方法なので早速一人だけ工場を早引して、同志小林に頼みに行った。私達は、何しろ十三時間労働を強いられているので、集会の場所さえ探すことは出来なかったが、同志小林は非常に親切に、何から何まで世話をやいてくれた。首が二十日先に迫った時「小林多喜二の小説の話を聞く会」という名目で公然と二十名余りの男女工を集めることに成功した。まとまった小説の話なんか聞かないうちに、工場長や重役や組長などの悪口が飛び出したり、既に二回撒かれた工場新聞の話が出たり、エロ話に脱線したりした。若い人達は(殆んどそうだった)が同志小林を「小父さん!小父さん!」と呼んで親しんだ。「小父さん小説を書いたらどれくらい儲かるの?」「あたい達の工場のこと小説に書いてよ」とか男女工が話しかけるのに対して、同志小林はニコニコして答えていた。「君達の工場の事を小父さんだって書きたいのだけど、何時も監督に威かされて恐々しています。だの、大人しく首になりました。なんて事はみっともなくて書けないじゃないか。今度の首切りなんか、君達が真っ先に起って、反対するんだね。そうすれば小父さんも、××の従業員はこんなに偉いんだと大威張りで小説にも書くよ」などと答えたりした。集まった二十余名は、同志小林に親しむと同時に感謝した。同志小林が送らなくとも良いと言うのに、ゾロゾロ駅までついて行って、面食はした。この同志小林の援助によって、次には新しい人も加わって、もっと大衆的に集まる事ができた。殆んど全部が未組織であるに関わらず、「どんなにして首に反対するか」「如何にして従業員大会を開くか」ということが問題にされ「俺がビラを持ち込む」という元気な青年さえ出てきた。首反対当日、従業員大会も組織することを得た。がそれを成功的に闘うことは出来なかった。それは、私達がこの二ヶ月間の工場内戦略を間違えていたのだ。だから部分的、戦術的にはかなり成功したが、全体的には敗北したのだ。(この事は次回の通信に詳しく。)前記のように同志小林に援助をあたえられた××会社も約一ヵ年経過した後の現在では、当時とは様子が変わって来ている。最初本工は激しい労働強化で、つかれてはいたが、まだ日が浅かったので、監督にでもなった様な気で、(会社も本工と臨時工とを対立させる様にしむけ、本工には赤い帽子なんか冠らした)ゴマ化されていた。現在は本工、臨時工共に、不平不満のルツボだ。ブル新聞の他工場のストの記事が切り抜いて便所に貼ってあったり、壁や仕事台に慰労金廃止の不平が監督の悪口と一緒に矢?に落書きしてあったり、工場長の反動演説(赤を警戒しろ?)に野次が飛んだり、絶対服従を命令されている検査官(職業的軍人)に仇名を付けたり、オヂギをさぼったり、全く火をつければ燃え上がる状態にある。この中にあって、私達の責任は益々重大なものになって来る。ブルジョア新聞は決して虐殺したとは書かなかったが、××会社の従業員は、誰でも同志小林が「殺されたのだ」ということを知っている。私達の役目は、単に一匹の官犬に殺されたのではなく、ブルジョア地主の天皇制が殺した事、而もこの事実は我々に対する労働強化監獄的監視と同じく、支配階級がやったことを理解させることにある。我々従業員有志は、同志小林の虐殺を知るとすぐ、同志の自宅に追弔文を送り、築地署に抗議文を叩きつけた。我々は同志小林の偉大なる階級的犠牲の前に、一層強力に、日本帝国主義の心臓たる軍需品工場内において闘争する事を誓う!」


『赤旗』(昭和8年3月10日付け)



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◎天皇制警察の武力鎮圧に抗して/同志小林の労農葬闘はる!大衆は前衛の死屍を踏みこえて前進している!・・・・・建国祭反対闘争、失反デーの波の高まりの上に労農葬カンパは一層大きく大衆的規模の上に闘われた。我党の失業飢餓反対!天皇制抑圧一切の政治的無権利反対!戦争を内乱へ!の呼びかけと指導に応じて広汎なる勤労人民大衆が絶対的支持を寄せ、自ら闘争を組織するや、天皇制政府は狂気の如く弾圧を下した。失反デー前日の東京市だけでも三百を越ゆる大衆的検挙、十五日を前にしては東京では数百名を越ゆる検挙、地方では三重の一斉検挙があった。奴等は更に労農葬、記念演劇を禁止し、葬式と芝居の自由まで奪い取り、ブル新を通じて労農葬に集まったら片っ端からブチ込むといはしめ威嚇した。解党派から大衆党までの一切の社会ファシストは労農葬並びにこれ等の大衆的カンパには一口もふれず沈黙して天皇制テロルの暴れ狂うをままに之を徹底的に支持援助した。だが、彼等は果たして党をそして大衆の反抗を喰いとめ得たか!否だ!大衆は直ちに、東京で大阪でそして全国の都市農村で、労農葬全国委員会をつくり、協議会を開き、職場集会、工代会議、農代がもたれ、ビラ、檄は全国的に張りまはされた。大衆的抗議弔辞は決議せられた。十五日東京では築地を中心とする一帯の街頭は千を越ゆる憤激せる大衆によって埋められた。そして党及び革命的労働者は厳然として其の先頭に立った。彼等の警視庁管下武装官憲総動員による弾圧も、結果は益々激増する大衆の反抗をもたらし、広汎なる人民大衆の間に天皇制政府と社会ファシストこそ人民の大衆の利益と自由を剥奪するものだということを極めて鮮やかにバクロしたに過ぎない。労働者並びに一切の勤労大衆は奴等の野蛮極まるテロルに恐れないばかりでなく、鉄の如き強さをもって益々反抗を昂め、闘争組織を急速に拡大していることを実証した。それは尚多くの欠陥や弱点をもつにしろ、大衆は怒涛の如き勢いを以って前進していることに変わりない。我々は直ちにこの大衆闘争の高まりを来るべきメーデーを目指して大衆的ストライキと革命的農民闘争を基礎とする戦争と天皇制権力に対する全勤労人民大衆の一大大衆運動に確信をもって発展させるであろう。」

『赤旗』(昭和8年3月20日付け)







◎築地一帯を埋めた約一千人の会葬者/革命的労働者突撃隊は先頭に立つ!・・・・・
(東京特派通信員)
敵はこの宣言通り十五日には築地一帯に制服私服でもってかため、小劇場を先に占領して待ち受けていた。官憲は橋際路地等に待ち受け一々誰何して少しでも怪しいと思はれるものは有無を言わせず検束した。だが大衆は続々と集まった。其の数は一千人を越えていると思われた。午後三時七時の二回に亘ってデモは試みられた。午後七時六人の婦人を最先頭とする約四十名の一隊が大衆の先頭に立ち警戒線を打ち破って会場まで押し掛けたが、会場に待ち受けたスパイのためにケチラされ、その大半は検束され、数台のトラックに分乗させられておくられた。当日の総検束者は約百名。
(××地区特派通信員)
十五日、同志小林の虐殺に憤激した××地方の革命的労働者百余名は、同志小林の虐殺に抗議しろ!同志小林の英雄的闘争を受け継いで天皇制打倒のための闘争をおし進める誓いとして、労農葬を闘え!と地区集合地新桜橋からデモで会場に入るべく続々と集合地に向かったが、警察は地区集合地を嗅ぎつけ、スパイとガチャ約五十名で固めトラック約三台を用意して、来る者来る者と、不当にも手錠をはめてトラックで検束し約五十名の兄弟は奴等の狂人じみた手にかかって、留置場に叩き込まれ、遂にデモが結成されなかった。だが後から来た兄弟達は、俺達はもはや葬儀の自由をすら奴等天皇制のためにはく奪されているのだ。この上は職場居住でもりもり闘争を押し進め、奴等の息の根を止めるのだと逆襲を誓って目標工場×××前でデモを決行し、×××の兄弟を起たせる!と地区デモ地に引上げた。
(××地区通信員)
同志小林の虐殺さるとの報伝わるや、度重なる天皇制のガムシャラな攻撃に職場、居住の戦闘的兄弟達は極度に憤激した。××地区××組合、×××人組合、東京××××組合、××××組合、××同志会、労働者×××、××親睦会、×××組合刷新会外三団体合計十二団体は、代表者を出して十二日と十四日二回に亘って団体協議会を開き同志小林多喜二の労農葬に大衆動員を決議し、三・一五当日約百五十人の大衆を動員し築地の会場に向かった。
(××地区通信員)
××地区団協では集合場所の××座前を桜橋に変更したが不徹底のため××座前に集まったものも多く、五時半ごろ××座前に二十余名集まったところ、付近に警戒していた官憲隊に襲われ全部検束された。
(北部地区通信員)
××団体で持たれた城北地方団体協議会では十五日の同志小林の労農葬への大衆的参加を決議すると同時に三陸地方震災地への慰問基金募集と十六日の市会議員選挙には、市会のバクロをやり投票には日常の要求を書くこと等が決議された。なお今後も城北地方の各種団体は一丸となって共同闘争を進めることとなり団協の常任書記四名を選挙しもりもり活動を開始した。」


『赤旗』(昭和8年3月20日付け)







◎輝ける反帝戦士/同志小林の虐殺に抗議す・・・・・熱河では既に日本帝国主義の侵略行動が拡大し爆撃機と毒ガスに幾千幾万の日本朝鮮台湾中国の勤労大衆が大衆的に殺戮されている時、去る二月二十日日本プロレタリア文化運動の輝ける指導者ボルシェヴィキ作家同志小林多喜二が鬼畜に等しい天皇制テロルのために虐殺された。同志小林を虐殺した天皇制帝国主義は、戦争遂行のため日本勤労大衆を飢餓と失業と政治的無権利につきおとし朝鮮台湾を惨忍比類ない抑圧下におき土地と文化と自由をふみにじり、最近にも五・三〇間島事件の朝鮮同志十二名を虐殺し、台湾霧社番事件の同志三十六名を虐使と自由剥奪と野蛮な牢獄の台湾の設備によって獄死せしめた。同志小林は死を以って組織を防衛した優れた共産党員、ボルシェヴィキ作家であったと共に、我が日本反帝同盟の加盟団体たる文化連盟の反帝執行委員として彼の全生活と全作品を一貫して朝鮮台湾の完全なる独立、中国分割反対中国ソヴィエト支持、ソヴィエト同盟擁護のため、日鮮台中国の勤労大衆の闘争的団結のために身を以って闘争した立派な反帝戦士であった。特に逮捕されたる直前まで、来るべき上海反戦大会の積極的な支持者として、上海反戦大会支持の大衆的運動のために東奔西走していた。我々は日鮮台中国の反帝大衆の名において(中略)同志小林多喜二の虐殺に断乎として抗議し、同志小林の遺志たる反帝同盟の拡大強化、上海反戦大会支持の大衆的行動を以ってこの虐殺に復讐せん事を誓う。
一九三三、三、四
反帝国主義民族独立支持同盟日本支部
日本反帝同盟書記局」


『赤旗』(昭和8年3月20日付け)




◎抗議文・・・・・日本共産党員であるが故にブルジョアから酷烈な追及を受け虐殺逮捕投獄死刑無期長期刑罰を受けている我々労働者農民勤労大衆の完全なる利益の代表者日本共産党員をあらゆる手段を使って迫害し、現に二月二十日輝ける革命的作家同志小林多喜二を荒縄を以って首を絞めステッキか何かで斬りつける様に強撃して虐殺した直接の下手人水谷に極刑を要求すると共に断乎たる復讐を行なうものである。然しながらこの酷烈極まる迫害を受けている共産主義者果たして一体如何なる悪いことをしたのだ。プロレタリアは決して真実を恐れないのだ。共産主義者は最も真実を愛するのだ。真実を恐れ、回避し、歪める者は大衆を搾取し隷属せしめることによってのみ生活を維持するブルジョアとファシスト共である。我々は完全なる権利を以って云い得るのだ。我々は絶対に正しく必ず勝つと。
一九三三、三、一〇
江東地区第×群街頭細胞」


『赤旗』(昭和8年3月20日付け)








◎弔辞・・・・・同志岩田の虐殺に次いで又我等の輝ける前衛作家同志小林多喜二を我々の陣営より永久に無くした事は我々の許されざる責任であると同時に直接の下手人並びに敵支配階級に対して限りなき憎しみと断乎たる革命的圧力を以って復讐を誓う。
★革命的文化運動拡大強化万歳!
一九三三、三、一〇
江東地区第×群街頭細胞」

『赤旗』(昭和8年3月20日付け)







◎決議・・・・・日本の軍事的警察的天皇制は、支那侵略、ソヴィエト同盟攻撃のために米と土地と自由のために闘争している労働者農民勤労大衆に向かって野蛮極まる狂暴なる弾圧を下している。この天皇制政府は又々コムニスト作家小林多喜二を検挙後僅かに数時間にして虐殺した。然るに卑法下劣にも虐殺の暴露を恐れ、母親が在京せるに拘わらず、殊更に北海道に打電し、死体解剖を各大学病院をして拒絶せしめた。死体引き受けに弁護士、医師の立会いを拒否した。然し同志小林の死体には顔面、首といわず腰部にまで生々しい傷跡が歴然としている。これをも尚奴等は心臓まひと称し、ひたかくしに虐殺をインペイし、欺瞞せんとしている。だが我々は既に数十名の革命的戦士を虐殺されているのである。如何にごまかさんとしても我々は決してごまかされるものではない。我が日本赤色救援会東京地方委員会は、東京地方の全会員を代表して同志小林の虐殺に抗議し、下手人、築地警察の水谷特高主任の処刑を要求する。更に警察、刑務所を問わず、一切の革命的戦士の即時釈放を要求す。
二月二十九日
日本赤色救援会東京地方委員会」


『赤旗』(昭和8年3月20日付け)





◎諸カンパーニャの闘争を決算して/メーデー闘争の準備へ・・・・・
(一)
同志小林の労農葬は我が党を先頭とする全国の労働者農民大衆によって警察的天皇制のテロル政策に対する巨大なる逆襲闘争として英雄的に闘われた。東京においては労農葬に先だつ数日来よりの党組織に対する計画的襲撃、当日における警察隊による会場の占領、築地一帯の戒厳的警戒にも拘わらず、数百にのぼる大衆的検束を物ともせず、同志岩田の労農葬に比してより大衆的な動員を以って果敢なる街頭示威を決行した。建国祭反対闘争、失反デー労農葬カンパーニアと我が党は、革命的活路のための具体的闘争を以って、階級敵の戦争と暴力政治による反革命的活路の政策に一歩一歩と逆襲的闘争を組織して、文字通り血みどろの闘争を続けている。支配階級の非常時における挙国一政策とこの政策のシリ馬に乗っている社会ファシストの戦時における階級平和の政策に抗して、我が党は階級対階級の政策を力強く押し進めているのだ。かくて窮乏と政治的無権利、戦争とテロルと餓死よりの革命的活路の唯一の希望として、我が党に対する大衆の信頼は日に日に高まっている。党は未だ広汎なる大衆との結合を造り出すことに充分に成功を収めていないが、プロレタリア前衛として日本の革命的大衆闘争の指導者組織者たるの大衆的信任を獲得した。唯不撓不屈の闘争のみが一切の反共産主義的デマゴギーを打ち破って、党の政治的権威を高めたのである。
(二)
党は戦争とテロルの激流に抗して諸カンパーニアを遂行した。だがこの英雄的闘争の高き評価にも拘わらず、諸カンパーニアにおける幾多の欠陥が指摘される。第一にカンパーニアの重心が経営部落に下されて、そこに大衆の日常闘争と結びついた創意的活動が現われ初めているが、この経験は全国的大衆的に普及化されていない。それ故に党は広汎なる大衆との結合を成功的に実現することが出来ないでいる。第二の党の正しき政治的方針の指示にも拘わらず、大衆に対する組織的行動的指導が不充分であり、その結果として諸カンパを通じて準備闘争の著しき立ち遅れが現われた。労農葬に例をとれば、デモ決行の時間を三時或は七時を選ぶかの決定が遅れたために、指令の伝達が不徹に終り、動員可能の広大な大衆を徒に足踏みさせてしまった。第三に大衆行動における計画性の欠如である。それは敵の攻撃力に対する誤った評価と味方の防衛闘争における武装解除的な無準備である。聞くところによれば警視庁は五千のデモならば三十分、一万のデモならば二時間で蹴散らすと豪語しているという。斯くの如き官憲の攻撃準備に対して、我々はこの強敵を圧倒するだけの何等真剣な準備闘争をなさなかった。例えば失反デーに当たって東京では二百数十名の戦闘的労働者が経営職場から予備検束され、これによって出鼻を挫かれたため、大衆動員は著しい不成功を結果した。予備検にあらかじめ備えること、更に一部同志の検束、検挙に拘わらず動員計画を予定通り遂行し得るが如き二段三段の構えをなすことが絶対的に必要である。形勢如何によっては不可避的にバリケード戦に発展せざるを得ない今日の街頭デモにおいて、敵の攻撃に対する武装解除的無準備は合法主義の完全な破産を示す以外の何物でもあり得ない。

(三)
我が党の指導したカンパーニアには幾多の欠陥があったそれにも拘わらず、カンパの準備闘争を通じて、企業におけるストライキ、部落における大衆的農民行動激発の条件が著しく促進され、且つ革命的大衆諸団体を党のカンパーニアの戦線に統一的に召集しこれらの組織を通じて大衆を動員することに漸く成功がもたらされた。今や経営部落及び大衆諸組織内における党活動の端初的な成功の成果を踏みしめて、メーデーカンパに向かって準備活動を成功的に遂行すべき時が熟した。米国の金融恐慌によって世界経済恐慌はより深刻な段階に入り、米国を主要取引先とする日本の経済的危機も一段と激成されつつある。更に戦争の拡大による大衆収奪は労働者農民大衆を飢餓と窮乏のドン底につき落とし、生活破綻をもっておびやかしている。来るべきメーデーは戦争と飢餓と而してこの状態より脱出せんとする人民大衆に対する野獣的テロルの真っ只中に決行されるのだ。かくて我が党のメーデーカンパの根本方針は、都市における全国的大衆的ストライキ闘争、農村における立禁反対飯米獲得のための大衆的農民行動の嵐の如き激発にある。ストライキ闘争は街頭示威のための大衆動員の方便ではないメーデー闘争の成功如何はストライキ闘争の発展如何によって決定される。街頭示威はこの成功を示すバロメーターだ。だがファシストはプロレタリアートの戦闘的国際主義の団結のための闘争を示す来るべきメーデーを排外主義の煽動に利用するであろう。亦社会ファシストは戦争とテロルと餓死に反対する労働者農民大衆の革命的示威行動を一日のお祭り騒ぎ、平和なる葬式行列たらしめるために狂奔するであろう。かかるファシスト及び社会ファシストのブルジョアジーへの奉仕のために挙行される官許メーデーを我が党の旗の下に階級的メーデーに発展転化するためにはこのメーデーカンパが労働者農民の日常闘争の激成の上に立つ広汎な統一戦線によって準備されることが絶対に必要である。それはセクト的な赤色メーデーの孤立的決行によってではなく、大衆的スト、大衆的農民闘争の系統的激発によって労働者大衆を我が党のスローガンの下に統一的行動に導くこととかかわっている。我が党は既に成功的に進展しつつある統一戦線をより強力に押し進めて、メーデーに向かって我が党の旗を掲げなければならぬ。」


『赤旗』(昭和8年3月20日付け)















◎労農葬闘争後報/同志小林に対する大衆的抗議/三月十五日は職場大会デモで闘ふ・・・・・関西地方においては労農葬に対する準備が充分だったとはいえない。しかし、大演習以来打続く言語に絶する白テロ(時には市民の正業さへも奪って居る。)に対する憤激の中に迎えられた。
××工場
ダラ幹が大衆の動揺を絞殺するために催した二十数名のピクニックが一革命的労働者の働きによって完全に労農葬準備会となり、ダラ幹の悲鳴及び威嚇を蹴ってデモに全工場参加させるべく決議した。
○○工場
労農葬数日前職場代表者十人集まり、全工場の大衆的デモ計画し実践に移した。かかる準備闘争はその他の大経営にも果敢に行なわれた。その結果従来こっそりとなされていた闘争は労農葬を期して断然大胆なる大衆行動に転換された。
××××
ここは大軍需品工場だ。旗の一読者の準備闘争が完全に成功し影響下五人全部デモに参加した。
○○○○
職場大会が当日開かれ、同志小林の虐殺に対して抗議文を作製し、同志小林の死を徒爾に終わらしめないために工場委員会の改選を行なった。その結果、委員は革命的労働者で独占した。
○○工場
ここでも職場大会が開かれ、決議文を作製し、デモの参加を決議し、尚ほ賃金問題が討議された。
市電
来るべき賃下げ、首切りに対する全線の大衆的闘争を開始する日としてこの日、車庫代表者会議が開かれ、白テロに対する抗議及び首切りに対する対策を協議した。かかる大胆な公然たる大衆的活動による準備闘争は成功し、当日神戸においては百名に近いデモが戦われた。」

『赤旗』(昭和8年3月25日付け)









◎労農葬後報/大会で仕事を止め堂々労農葬を戦う・・・・・
(現場通信)
俺達の現場は奴等の都合で×月に解散するというんだ。この不景気に解散されたら俺達は又飢えて了ふ。×十名の者はガッチリ腕を組んで「手当を今のままにして仕事を継続しろ、毎日の課程を半分にしろ」と要求した。五日の失反デーには現場大会を開いて仕事を今までの半分しかしないことを決議し、スグ実行に移し現在俺達はこれを続けて解散と戦っているぞ。十五日の労農葬には早速現場大会を開き、堂々と「今日は労農葬で俺達の闘争日だから仕事は三時で切り上げ、日給を全部よこせ」と決議を突きつけ、三時には全部引上げ全額獲得した。準備不足で折角ミった兄弟を全員デモに参加させることの出来なかったのは残念だった、が俺達は今一ヵ月後に迫ったメーデーを目指して、今度こそ準備不足だなんていわねえ様モリモリ要求獲得の闘争を進めるぞ。
◎共同懇談会で虐殺抗議を決議・・・・・
(××地区通信)
十五日の労農葬の夜××、××の居住数ヶ所で失業者就業者共同の懇談会が開かれ同志小林の虐殺に対する抗議が決議された。」

『赤旗』(昭和8年3月30日付け)



































「プロ文学の第一人者小林の存在はプロレタリアの旗であり、プロレタリア文学の光であった。彼の力作彼の精神こそは本編に表現されている堂々二百枚に亘る一大傑作、本誌を読まずして、文学の文字を使う可からずだ!」
『東京朝日新聞』(昭和8年3月19日付け)

















暴風雨もよい

『・・・・・ハハア笑うねえ、ぢや矢張り諸君はそう思っているんだ。しかし、それはほんとでない。イヤ全く経験してみなけりゃ分らないかも知れないが、夫婦となると、毎夜・・・ ・・・毎夜の性的享楽ばかりがすべてでない。君達若いものから見れば、そうでないと云うかも知れないが、夫婦ってえものは其の他の大きな力をお互い與へるものなのだ。』
S教授は声を高める。
『何か面白くない事があって、イライラした気分で帰ってゆく。ねえ、いいですか、そこですわ、そのキリキリになっている神経を柔げてくれるものは、その妻の温かさなのです。妻の温かさ・・・ ・・・、妻の・・・ ・・・』
そう云いながら興奮してS教授は眼に少し涙をうかべる。眼の前には、彼をいつも権利と義務の立場からのみ応待する妻の冷静な顔が浮かぶ。彼は、それがはっきり姿をうつしてくればくる程、ゼスチャーをつけて話す。話さなければならない。
『単に、性的な満足ばかりを得るためならば、淫売婦相手で用は足りる。が、そうじゃない。トンガラシに火をつけたようにせちがらい現実にあって、心身ともに傷を負うたとき、その心を慰めてくれるものは夫婦なのだ。ーーー妻なのだ。・・・ ・・・ ・・・女だけが持っている優しいあの心遣で温めてくれるものは妻なのだ。』
学生は又始めたというような顔をする。話しながら幻影はSの眼の前を通り過ぎる。−正規の学校を経ないで苦学して教授になったSは帝大閥や商大閥のために色々な侮蔑や仲間外れを喰う。イライラして憤慨して帰る。オーバーの襟で顔を覆う、顔は青白く?へる。彼はもうどうにもならない程怒っている。妻は出迎えていない。家へ上がる。妻は本を読んでいる。彼はもう少しで怒鳴ろうとする。然しそれがグッと抑えられる。何故なら、妻も本を読んでいて何処に悪いところがあろう?その抑えられた怒りは、帽子をふみにじる事に変えられなければならない。彼はムシツと座る。妻は『お帰り』とだけしか云わない。然しこの女はその外の何を云わなければならないんだろう?
『・・・ ・・・諸君はもう十日で卒業なさる。卒業されたら、すぐ妻を迎える方もあるであろう。が、その時君たちは、どうにもならない気持ちをいだいて帰って行っても出迎えることをせず、一言も温かい言葉かけてくれない妻をめとりたく思うか?そこですわ・・・ ・・・そこですよ・・・・・・。』
すぐ次へ続くーーー彼は、それはこうだと云う。が、妻はそれはそうでないと云うために、論理学の矢をつがえて夫に向かう。夫はあくまで、そうでないと云う。だから、妻は夫と同等の立場をとって、夫が降参するまで夫の横つ顔をなぐらなければならない。そこには何もない。ただお互いがお互いをやっつけようとする敵同志があるだけである。・・・ ・・・。
『ねえ諸君、諸君は何も妻をめとるのに、それを友としては貰はないでしょう。又いい敵同志だからっても貰わないでしょ。夫婦生活の基調をなしているものは、そんなものでない。温かい情だ。それよりない。』
Sは天井を見上げる。
『それよりない・・・ ・・・断じて。』
又妻の顔がーーー彼に向かって『イヤ、そうじゃない』と我ん張ろうと、口をとんがらし、眼を角ばらしている妻の顔が浮かぶ。彼は、そこで、更に声を大きくする。
『・・・ ・・・若し、妻が話し相手にならないから不足だ、と思うものがあったとしたら、それは諸君が妻を妻として要求しているのではなくて、論敵として、友として、−−−思想を交換する友として妻を要求しているからだ。そうですよ・・・ ・・・夫に口をとんがらして つっかかってくる女をーーー妻を・・・ ・・・ああ、それアたまらないことです。とても悲惨なことです。この世の中が太陽ばかりで夜の露をめぐんでくれる月がなくなったら、と考えたことがありますか?女は太陽にならなければつまらない、と考えている。救われないことですねえ。』
S教授の腹は始めてスウとなる。それを彼は感ずる。然し彼の眼には涙が、殊に白眼が光る。彼はたまにこう腹の中のことを云ってしまってホツとする。が、一方そうしなければならない惨めな自分の姿がはっきり見える。彼はそれをはっきりと見て、淋しく思う。こんなことをして一時を塗りつぶしている自分が考えられるからである。鐘がなる。学生はパンパンと拍手をする。机をガタガタさせるものもある。彼は始めて自分に帰る。そして出席を呼ぶ。そして教室を出る。心の中のことをはき出してしまった後のあの軽い気持ちを感じながら。がフトKが又自分の時間を休んでいたことに気付く。と、もう彼はそのいい気持ちから離れてしまう。彼はすぐKを呼んで云ってやらなければ、と考える。だから、そういうイヤな考えのために顔がむづかしくなる。彼は自分の室に帰ってすぐ鈴をならす。そして、給仕が入ってくるまで、さて、Kを前にして、どう云はうかと考える彼はその為に室の中をあっちこっちと歩きまわる。勿論、自分のタイプライターと商業通信のような実際的なー実際上の要求がなくてはちっとも興味の湧きそうもない学科を嫌がっているKの気持ちが分る気がする。然し、この三学期間殆んど数える程しか自分の時間には出ずーまるっきり自分の時間だけを選んで休んでいるKのその態度は、ちっとも自分の感情を考えてくれないことだ、と思って、ムラムラっとしてくる。学生に自分が侮蔑いるんだと意識することは、それを其のままにして置くには堪えられないことである。彼は結局いつものようにカッとしてくる。彼はいつでも同じ学校内の二つの種類の科目の優劣を考えている。それは全く神経的に考える。経済学とか、そういう純理論のものが学生にもてるが、一歩学校を出たらすぐ役に立つ自分の教えている科目が何故学生によって軽蔑されるかを疑う。勿論それは学生としては、実際的な必要にせまられていないから、そんなプラクティカルな技術的なものを嫌うのだ、とは思っている。がそれだけの理由からであるだろうか?フト、それは自分自身によらないか、という方に考えがくる。その人自身の人格に!然し、教えている科目のためにその教師がいいとされ、又は悪いとされている。そんな事実は明ら様によく見る。学生は『カントの無上命令とは・・・』と云いだせば謹聴する。そしてその先生を偉いと思ふがタイプライターを打たせることを生徒に命じても、認識論を講義する先生と同じ程度に、学生はその先生を尊敬し、偉いと思ってくれるだろうか?しかも、最も重大なことは、一般的に云って、学生はあの煩雑なタイプライティングというものを好むものであるか、どうか?・・・「然しだ・・・」と考えるーー少なくとも、タイプライターと、無味乾燥であるとは云え兎も角コレスポンデンスという科目を設けてある以上、そこには何らかの必要さが認められてるからだ。社会において最も直接的な必要さと重要さを持っているんだ。然し、ただ、それが理論的、若しくは哲学的なものでないという理由で、そして又、本来がプラクティカルなものであるのに学生がそういう要求を感ずべき立場に居ないという理由で、学生から軽蔑され嫌がられるのだ、或る時、S教授が自分の時間に教室に入ってゆく、が生徒二、三人より居ないことがある。皆んなが同意して彼の時間をサボッて、エスケープしたからである。そんなときに出会った時。Sは気まり悪さと之までも人望がないのかという事からくる意識で泣き出したくなる。そんな事に彼は度々出会わなければならない。−−今、彼は今まで、小学校時代でも中学校時代でも、数学と作文の先生に一度も好意の持てなかった、其の事を思いうかべる。・・・・・この時Kが入ってくる。彼の考えは其処で切れる。そして、にわかに緊張した面持をして少し胸をはり、Kを威圧しようとする。敵対しようとするような態度を心持する。が、S教授は内心少し不安を感ずる。彼は元来Kを好きであるとは思っていない。イヤに生意気である。









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