日本で初めて労働組合をつくった男






城常太郎関連史料コレクション





城常太郎遺品



























城常太郎の墓があった日蓮宗本妙寺末寺の仙乗院












城常太郎の墓石(明治三十八年七月二十六日没・享年四十三歳)
















明治時代の靴直し『風俗画報』(1892年「沓直し」)


















神戸屋『ふるさとの思い出写真集』(国書刊行会発行・荒尾親成)














小石川砲兵工廠『わたしの文京アルバム』(文京ふるさと歴史館発行)














明治時代の貧民窟『風俗画報』(第277号・1903年)
















伊勢勝熊本支店『熊本県下商工技芸早見便覧』(田中義幸編・1886年)















伊勢勝神戸支店『豪商神兵湊の魁』(神戸市立中央図書館所蔵)












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陸軍製靴工場




◎社会外の社会・・・・・社会外の社会の住民たる兵士等は炊事をなすにもまた人の手を借りず、、、縫工場には縫工あり。皆兵士なり。中隊毎に一年兵二人、二年兵二人、三年兵二人を出し縫工場に入れ、古き衣の損じたるを繕い、新しき衣を裁し、兵士以外の人の手を借りず、兵士によって兵士の被服を供給せしむ。彼等の或る者は冶工となりて、兵器の破損を修理し、或る者は靴工となりて全隊に靴を供給し、其の破れたるを治め、新しき革嚢を作り、古きものを繕うこと総て縫工の被服におけるが如し。かくの如く共産的、族長的の制益々発達し、兵営のことは総て兵営において之をなし、全く社会外の社会を成すに至りしより、大なる花主を失いたるものは、単に衆議院に押し寄せたる靴工同盟に止まらざるべし。、、、」

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  『国民新聞』(明治26年8月3日付け)










製靴会社「弾・北岡組」社長 北岡文兵衛



※北岡文兵衛は明治25年2月、東京第十区から衆議院選に立候補して当選している。

「北豊島区南千住町 平民 天保14年正月生まれ」
『衆議院議員名簿』より






「◎府下新代議士の略傳・・・・・北岡文平氏(第十区)・・・・・氏は元越後高田の岩瀬某の男、天保十四年江戸に生る。明治三年北岡家を継ぎしより三井家に勤め、明治五年中貢米事務を主管して頗ぶる才名あり。同七年小野組鎖店の際、為替会社社長となり拮据経営遂に三百七十万円の負債を償還したり。同十五年日本銀行創立の際監事に挙げられ久しく樞要の地位に立ちしが、二十三年中意見の合わざるとことありて辞任し、その後鐘ヶ淵紡績会社の紛紜あるにあたり専ら整理の任に当たり、日ならずしてほぼ其の緒に就くを得たり。」

『東京朝日新聞』(明治25年2月19日付け)







「◎北岡文兵衛君・・・・・無所属議員として黙々一言をも発せず、時に居眠りのために隣席議員を煩わすなきを保せずとは衆議院内外の君を評する所なり。衆議院は全体民を救うの略あるか、国の弊事を匡正するの策あって而して之を天下に施さんと欲する者初めて候補者を争い此の院に入るべきことを望むべきなり。君の如きは其如是に至って雲煙茫々何にか何やら更に分明ならざる人物なり。而して何がために代議士たるを望むかといえば、代議士は名誉なり、名誉ある代議士となり居る時は第一は自身の名誉、第二は自身が統轄する会社の名誉なりといふを以ってなりと。嗚呼、北岡君、君は黙々として此の名誉を独占したきがため幾十万円の利益を得られたることぞ。吾人之を知らずといえども衆議院を利用して以って自利を計るに於いては其の収利の多かりし知るべきなり。君此の利金を以って何れの地位に利用せんとする。国家のためか、将た自家のためか、自家のためとあれば吾人は鼓を鳴らして君を責めざるを得ず。衆議院は国家のために設けたるものにして、一人の私を便ぜしむるもののために設けたるものにあらざるなり。君此の決着を先ず選挙区民に明らかにして而して黙口たるも抂けて代議士たらしめよと泣訴哀願するべきなり。然るに揚然として第十区に候補者たらんとすと。厚顔も亦甚だしき哉宇内何れの国か黙々一言なき者を代議士となしたることあるか。」

『第六期議会東京府下国会議員候補者短評』
(吉田松太郎著 明治27年2月)

北岡文兵衛、明治27年3月、再度衆議院選に立候補するも落選。





「◎北岡文兵衛君・・・・・君は越後旧高田藩士平岡彦右衛門氏の二男にして、天保十四年一月一日を以って生まる。長じて実業に志し、三井組大番頭三都取締役として盛名ありし。先代北岡文兵衛氏の絶後を再興し、三井家に入り重役となり、当時の巨商、小野組、弾北岡組等の破綻に際し尽力する所多し。後日本銀行の創立せらるるに及び監事の重職に挙げられしも時の大蔵大臣と意合わざるものあり。富田総裁と共に職を去る。爾来鐘ケ淵紡績会社、運輸会社、豊盛社、東京?鉄会社等の破綻に際し良く其の善後方法を策定し実業界に貢献したる所挙げて数ふ可からず。曾て衆議院議員に挙げられたることあるも、今や悉く之を辞して閑地に在り。夫人をきく子と呼び長男鶴松氏は日本倉庫株式会社監査役たり。次男豊三、女せい子家に在り、長女文子は日本皮革会社監査役田畑健蔵氏に、四女よね子は福原有信長男信一氏に、三女美代子は貴族院議員千阪高雅三男洋三郎氏嫁せり。(南千住町地方橋場一三七三)」

『現在人名辞典』











「◎日本銀行に於ける松方伯と北岡氏の激論・・・・・正金銀行の株主諸氏より、同行頭取原氏に向かいて日本銀行より無利息を以って一千万円を借入れられんことを其の筋に請願すべしと勧告したることは、予ねてより本誌に掲載しし所なるが、この頃に至りて、議論愈々其の度を増し、原氏も漸く株主諸氏の意見に従い、木村利右衛門その他の諸氏と日本銀行に至り、協議を開きける。当日は、日本銀行総裁富田鉄之助を始めとして、理事與倉守人、三野村利介、幹事北岡文平、森村市太郎の諸氏出席し、特に大蔵省より臨場せられたるものは、松方伯、国債局長田尻稲次郎、及び秘書官なり。時に松方伯は、諸氏に向かって正金銀行の、今日我国に必要なる所以を説き、併せて正金銀行の請求を容られんことを望むとの意を陳へたりける。是の時に当たりて、満場の人々皆富田総裁の返答如何あらんと、固唾を呑んで控ふれば、総裁は将に之に答えんとて咳ぶきする瞬間に幹事北岡文平氏先ず首を聳かし、膝を進めて伯に謂て曰く。・・・・・正金銀行に於いては何故なれば日本銀行に向かって、斯る莫大の請求を為さるる次第候や況んや無利息にて貸渡せよとありては某、同行の意、何れの処にあるやを知らず此儀如何に候やとぞ申しける伯、国家経済の増進を得るに於いて、誠に己むを得ざる所なり。北岡氏曰く。仰に候へども国家経済の増進を謀るとは如何なる次第に候や。国家経済の増進を謀るもの、独り正金銀行のみには限らず本行営業の目的の如きも亦国家経済の増進を謀るに外ならず、同じく国家の経済を司る為に設けし銀行なるものを日本銀行は、何等の義務ありて、斯る請求に応ぜざるべからざるか。近頃以て心得ぬ次第により此の義に付いては、富田総裁に於いて了諾せらるるとも某に於いては、断じて?求には応じ難し故如何となれば、日本銀行は、株主一般の同意を得ざれば、妄りに無利息の金を貸渡すこと能はざればなり、閣下のお言には候へども文平においては何分之に応じ難し。株主一同の意見を聴かざる間は承諾の御返答は出来不申よりとまくし掛けてぞやしける。斯くて北岡氏は列座の諸氏に向かい諸君某は正金銀行の事に付きて予て聞き及んだる些細数多候今ま此の場所に於いて発言するも差支無かるべきやと・すに、田尻国債局長は将来の参考とも為るべければ、・に之を発言するも妨なしと・さる、是に於いて北岡氏は・・・・・しからば申し述ぶべし。昨年来同行の致し方規則に・戻したるとあるは、世人の知る所なり。而して、相場・・・・・云々言はんとするや否や、直ちに傍らの人に止められ是に於いて各々分かたれたりととなん。それより北岡氏は森村市太郎氏と共に、直ちに伊藤枢密院議長の邸を叩き、・・這般の事情を説き、且つ松方伯の財政の事を論じ、尚ほ之を黒田総理大臣に訴えんとて添書を伯に求めたりしが、伯は之を・論して之を総理大臣に訴ふるは、暫く思い止まるべし。拙者之を松方伯に伝言すべしと・さるるにて僅かに思い止まりてけり。巳にして伊藤伯は、之を松方伯に伝えければ、松方伯は、直ちに森村氏を呼び寄せ、北岡は狂人じみし人なるに貴殿は如何なれば之を共に同伴せられしやと申されしに森村氏は云う。閣下は北岡氏との間に数年の好・ありて而して、同氏が閣下の恩春を被るや、亦他人の比に非ず。然るに此義に付きて、断然として人の是非を顧みず、直言抗議、びも屈せざる所以のものは、蓋し胸中に信ずる所あればなり。蓋し氏は正金銀行の非理なるを信ずるが故なるべし。北岡は決して狂人には・はず。拙者の氏と同行致せしは、其の故拙者と北岡と感を同じくする所あるがために・と・す。是より森村氏は伯を辞して立ち戻り、幾もなく・かに思う些細ありて瓢然米国に赴きたりという・・・・嗚呼此の風説信か偽か素より吾人の知る所に非ず。若し之をして果たして事実ならしめば、吾人は、国家のために憤慨せざる得ず。而して北岡氏は清議抗論なるは、実に銀行社会の為にに一大白を挙げ銀行界中万丈の光・を吐くる足る。北岡氏は所謂る鉄中の錚々なる者耶、非耶。」

『銀行雑誌』(第十九号・明治22年)












「◎北岡氏の赤心・・・・・北岡氏が、一片の好頭脳を有せる男子たること、吾人之を知る。この頃、吾人は、氏の近状を尋ねんが為めに、橋場なる同氏の別荘を訪ひけるに、同氏は意気自若、平生に異ならず、是に於いて吾人は、前号の本誌に掲載せる日本銀行に於ける松方伯との激論の模様を問ひしに、氏は、簡単にして気力ある一言を以って・・・・・余の日本銀行に於ける争論は、誠実に松方伯と富田総裁とに尽くせる、一片の忠義心のみ・・・・・と答えられたり。吾人は、此言の最も眞率に其実を穿ちたるを喜ぶ。而して氏が肺肝より流露したる言たるを疑はず。蓋し今回の紛議は、我国の経済社会に於ける一問題なり。されば、苟も身を銀行に奉ずるものは、豈袖手傍観して黙止すべき時ならんや。其の得失は姑く置くも、同氏が、満腔の熱血を吐きて、直言正論せられたる精神に至りては、吾人の感嘆せざるを得ざる所なり。嗚呼銀行社会には、其人ありと謂うべし。」

『銀行雑誌』(第二十号・明治22年)

















桜組・社長 西村勝三







桜組・支配人 大沢省三







大塚組・社長 大塚岩次郎

『皮革産業沿革史/上巻』








内外用達会社・社長 大倉喜八郎








 



横浜の波止場




『横浜名所図会』(東陽堂発行)







 

 








『時事新報』(明治29年5月31日付け)







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「、、、邦文活字数十万を購入し来二十三日横浜解覧の
ベルジック号に搭載し、彼地に送達するの
準備巳に成る、、、」

『国会』(明治25年6月17日付け)














岩佐作太郎(千葉県出身のアナーキスト)
















榊原健吉(撃剣家/壮士団体「労働組」の役員)















井出百太郎(静岡県出身)
明治24年、サンフランシスコ第六街に井出商店(雑貨店)を開く。
城常太郎の朋友の一人。













広瀬藤太郎(中央/越後長岡藩の士族

島粛三郎、関根忠吉らとともに「日本靴工同盟会」創設に参加

『皮革産業沿革史上巻』

















西南戦争
















炎上前の熊本城















珍田捨己
『太陽』(13号 明治30年6月20日)













法学博士鳩山和夫君
『太陽』(19号 明治30年9月20日)

 






 





『神戸又新日報』(明治28年7月19日付け)











『時事新報』(明治21年7月29日付け・広告欄)











『読売新聞』(明治24年1月26日付け)














『万朝報』(明治31年7月22日付け)













薩摩軍の軍服姿






 






西南戦争で焦土と化した熊本市内

















海上光之助(大塚組)、靴製造販売店「海上商店」を開業。

「間口は三間。左の端三尺は飾り箱にて、土台よりは一尺五寸ばかり通りの方に出ている。飾り箱の右三尺ばかりに、ミシンを飾り、その右方二間は、三尺幅の土間となす。店内右とつき当たりに棚を設け、飾り箱内と共に商品を陳列す。飾り箱を除き、二間余の間、日よけを下ぐ。軒上の看板は、左右に靴の絵、中央に靴製造販売の五文字。又飾り箱の左の隅と側面とに立看板を二枚釘付けしおけり。」

『営業開始案内』





★大塚組(現在の大塚製靴株式会社)の企業理念は
従業員尊重を基調とした「家族主義」














天津日本居留地の白河河岸桟橋『北清大観』(山本写真館)














サンフランシスコ・福音会『先駆九十年美山貫一と其時代』(今泉源吉・みくに社)











「◎熊本の諸団体・・・・・、、、坪井地方は思うに維新革命の敗軍的思想を有するがごとくし、昔は切り捨てごめんの特権を有したる士族がこの特権を失うと共に、あたかも犬馬のごとく思惟し、奴隷のごとく心得たる町人、百姓と平等の地位に復し、ややもすれば文明的智識に圧伏せらるるに至れり。、、、」

『熊本評論』(第二号 明治40年7月5日)









ー桜組製靴工場就業規則ー

○生徒養成の設けあり。其の期限は五ケ年或は七ケ年。
○生徒中の収益・・・一足の靴を造れば、十銭より十五銭を給せらるる規定にて、
普通一日に二足宛は造り上げる事が出来る。
而して其の得たる給料の内より、寄宿舎の賄料十二銭を払い、
尚二分の積立金を引去り、其の残金が収入となるなり。
○職工の給料・・・生徒以外にて、既に其の職を腕に持った者が、
同社の職工となれば、五十銭以上一円位まで給料なり。
○賞与、就業時間、休日・・・月末に及び、其の月の成績良好の者へは賞与金あり。
規定の休日の外、皆勤せし者へは、特別賞与金として五円以上を与えらる。
就業時間は、九時間、定休日は一日と十五日の両日なり。

『労働社会就業案内』(川上五平著 明治33年5月発行)









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