日本で初めて労働組合をつくった男


高野房太郎の幻の論稿、遂に発掘!



「◎労働運動最始の着手 高野房太郎・・・・・今や我国に於ても労働運動着手の期に入れり。余輩同志が組織せる労働組合期成会の如きも既に会員四千人に垂んとし、活版職工は活版工同志懇話会を結合して島田三郎君を其の会長とし、日鉄機関方諸子の組織せる矯正会も着々成績を収めて『鉄道世界』を発刊し、若しくは東京府下職人社会に於て最も鞏固なる団結を作りつつある彼の壁職組合の如きも欧米の労働組合に倣ひ方に消費組合を設立せんとするが如き、此の二三年来学士論客の間に労働問題の声喧しきと共に、労働者自身も自己の地位を認識し大に斯の問題に身を入るるに至りたるは、良とに喜ぶべきにあらずや。既に労働問題解釈の期に入れり。吾人同志が二三年前以来叫びたる労働組合は組織せられたり。次いて吾人が認めて最終に着手すべき労働運動の方法手段なりと信ずる所見を開陳せんとす。識者の一考を得ば幸なり。余は先づ最初に所信を表白し置くべし。即ち今日の労働運動に於て最始に着手すべきは、職工教育を盛んならしむるにあり。蓋し之に依らざれば眞正の労働問題を解釈する能はずと信ずるなり。然かも吾人は少しく職工教育の意味に於て世の識者と所見を異にす。普通に唱えらるるが如く幼年職工教育の意にあらずして、青年職工を教育すべしといふの意なり。即ち青年職工教育の意味なり。吾人が親しく職工と交り其の今日渠等に最も欠くる所を挙ぐれば、実に教育の欠乏に属す。欧米に比較して労働者の位置非常に脆弱にして、資本家と対峙する能はざる所以のものは、必竟我が労働者に教育なきが故のみ。看よ我国今日の賃金は果たして労働者の一家を維持するを得べきや。労働時間の如きは十時間乃至十二時間にして甚しきは十四五時に出づ。斯くの如くにして社会の待遇如何と顧れば、政治上、社交上何等の位置あることなく全く奴隷と境遇を同ふす。若し労働問題にして労働者の窮苦が直に之を惹き起す者とせば、寧ろ欧米諸国よりも我国に盛んに行はれ居るべき筈也。然るに欧米諸国にては労働問題は天地を震動せんばかりに盛大なるにも拘わらず、我国にありては未だ輿論の上に「叫びの声」として大なる反響なきは要するに労働者の自身が其の己れの境遇を認識する能はざる無智の致す所にあらずして何ぞ。故に曰く。労働者の権利を拡張し其の位置を高めんと欲せば、先づ職工自身の頭脳を開発するを先とすべしと。性急なる社会改良論者は欧米の事実に拘泥し、直に今日の労働者を以て資本家に当り戦争を開くべしと主唱する者あるが如しと雖も、斯くの如きは徒らに事を好む軽躁者流の所為にして甚だ吾人の興する能はざる所なり。一歩を假して資本家に当るを可なりとするも、今日の如く思慮を欠き分別少なき労働者を以て為さんば資本家に当たるを得んや。況んや未だ団結鞏固ならず物質の準備少ないきに於てをや。故に眞個に我国労働者の前途を憂ひ其の位置を高めんことを欲せば、労働運動最始の着手として先づ職工其れ自身の教育を第一とし、静かに団結を鞏固ならしむると共に智識を注入するを勝れりと為す。若し一個の私情を挟み好奇に駆られ今日の労働者を率ひて資本家を敵視するが如き者あらば、寧ろ労働者の前途を毒する者と言ふべきなり。然らば職工教育は即ち之を如何すべきか。今日の寄席を改良して職工教育の一助とする可なり。労働者に同情ある人に望みて幻燈会を起こし、社会改良家或は工業発明家の履歴を説明するも亦た不可なし。若し方法を選べば種々の方策あるべし。然れども余輩は労働者改良を主眼として此処に職工教育奨励会を設立せんことを主張せんとす。而して其の組織は先づ世の学者識者と資本家とに之に賛同せんことを望まんとす。即ち資本家より寄付を得、労働者に同情ある学者に托して講演の労を取らしめんことを欲す。而して之に賛助せる資本家は、其職工を勧誘して出来得べきだけ其の講演を聴かしめ即ち学者と資本家と労働者と三位一体となり和気藹々の間に職工の品性智識を研磨するの方法に撚るを可なりと信ず。組織の仔細は之を後日に譲ると雖も、今日吾人の抱ける成案を以てせば職工教育奨励会本部を東京に置き地方に支部を設け、講演は之を巡回にせんことを欲す。斯くて会員多数と為れば、通信講義録を発刊して計費は之に依りて得るの方法を取るべきなり。更に教育当局者に望む所あり。職工教育の為に全国各地の教育会場を無料に貸さんことを嘱望す。而して文部当局者には、職工教育奨励会を実業補習学校と認め国庫の補助を仰がんことを欲す。職工は今世紀に於ては実に国家の基礎也。然かも今日の如く職工社会の無知蒙昧なるは豈に国家の耻辱にあらずとせんや。嗚呼職工教育の奨励は一に労働問題の範囲のみに止らざるなり。」

『天地人』(第十九号 明治32年7月2日発行)

発掘日 2012年5月23

 

 

 


新資料発掘


★明治20年10月、一時帰国した高野房太郎、読売新聞本社を訪問して、
渡米のきっかけを作ってくれた同新聞主筆・
高田早苗と再会



米国日本品勸工場・・・・・米国カリフォルニア州には近頃日本品の勸工場二つあり。一は桑港にあり一はヲヲクランドにある由。右ヲヲクランドの勸工場即ちミカドバザアの社員高野房太郎氏は、この頃商品仕入れの為帰朝しクリストマス大祭に間に合せんが為め来る二十八日再び渡航する由。同氏が話によれば桑港近傍にて売りさばける雑貨は陶器、ハンケチ、竹細工等にて商売は内地においてなすより余程しやすしと。」

『読売新聞』(明治二十年十月四日付け)


発掘日 2012年8月23日


上記記事を発掘したきっかけは、『博聞雑誌』(第一号 明治20年11月)に、まったく同じ記事が転載されていたのを見つけたことによる。



上記記事には「二十八日再び渡航する」とあるが、当時の新聞を数紙調べても、二十八日には横浜港からサンフランシスコ行きの船は一隻も出港していない。
当日、天候が悪かったのか、とにかく何らかの事情により出港予定が一日延びたのであろう。

「◎外船発着・・・・・米国郵船テエラン号は昨日午前九時、同ベルジック号は同日午前十時何れも生糸と雑貨を積み桑港へ向けて横浜を出帆せり。」

『読売新聞』(明治20年10月30日付け)

発掘日 2012年8月29日



明治20年10月29日、高野房太郎は商売で一旗上げようという大きな野望を胸に
横浜港からサンフランシスコへ向けて再度旅立ったことになる。












 



高田早苗(高野房太郎の恩師・『読売新聞』主筆)

『扶桑新聞』(明治25年12月15日付け)









コスモポリタンホテル・・・・・弊店はこれまで「ニューコンチネンタルホテル」と称へそうろうところ、何分にも右は不便の場所且つ手狭にて、はなはだ見苦しきにつき、家名と共に全く他人に譲り渡し、さらに今般便利の場所を選び、広大美麗の家屋を購い「コスモポリタンホテル」と改称し、電気燈を点し、パーラーを具え、エレベーターをもって昇降し、何に一つご不自由なく精々相働き、廉価を旨とし、最も丁寧にお取り扱うべくそうろう。また波止場まで日本人を差し遣わしそうろう間、ご渡米の諸君は船中より右家名「コスモポリタンホテル」とお呼びくださりそうらはば直ちにご案内すべくそうろう。或いはご渡米前に一簡当旅館へお遣わしくださりそうらはば、この上もなき双方の便利にそうろう。何とぞ続々ご来臨のほど偏に奉願いあげそうろう。
謹言

明治二十年六月 大日本帝国御渡米諸君

「コスモポリタンホテル」主人 D.Buley

御宿泊料 定価 
一 上等 一ドル五十セント
一 中等 一ドル二十五セント
一 並  一ドル
勿論三度食事付き

COSMOPOLITAN HOTEL.
NO 100&102 FIFTH ST
SANFRANCISCO、CAL、USA」

『報知新聞』(明治20年6月9日付け)






桑港の近信・・・・・客月二十三日米国桑港発の書信に云々、(前略)初めて海外異邦の土を踏みし小生等の眼中には当桑港市街の有様すら非常の感触興へ、事々物々新奇の思いして知らず識らず立ち留まりて打ち眺むることさえありしかば、忽ち東京在住の日、富士登山の連中が鼠色の行衣を着、菅笠を負い鈴を腰にして銀座街頭を左顧右眄する様を嘲笑せし其の折を追懐して一笑仕候。当港の事情は既に度々府下諸新聞紙上に掲載有之殊に米国返りの連中も随分数多く相成り候。今日に当たり初めて渡米せし小生等が喋々致すも無益の談に候へば、大概の事項は相除き唯一二ツ申し上げ候。当港の商業の盛んなるは申すまでも無之候。当市滞在の日本商人現在の有様は萎靡不振と申すも左迄過言には有之間敷きと被存候。しかし当港のみに局促せず、広く米国全体を見渡し候へば、充分望みあるように候へども、目下の所当港において最も信用のあり、最も勢力ある横浜の某支店につき、実際の収支を聞くに、平均一ヶ月間の商品売上金高は千円、内其の原価及び船賃関税等一切の費用六百円を差し引けば、残金は四百円にして、この内にて家賃(百五十円)、米人一名日本人一名雇賃(合わせて百五十円)、支配人給料(五十円)、諸雑費(五十円)を支払えば、手一杯にて損益なしという。信用と勢力ある商店にして既に斯くの如しとすれば、この他冒険をもって商業を始めたる者の失敗を執るも亦決して無理には無き之故に、当港の日本商人は今にして大いに覚悟する所なくては相成り間敷きと存候。(中略)目下当港の日本雑貨売捌店は米人の所有に係わる者一箇所、清国人の所有三箇所、日本人の所有四箇所、都合八箇所の由なれども、このうち日本人の所有に係わる二店(注1)は早晩閉店せざるべからざる財政と相成り候哉に聞き及び候。又現時当港在留の日本人は概数二千四五百人にして、日本料理店を開きて営業し居るもの四箇所有之候云々と見えたり。」

『時事新報』(明治22年2月23日付け)

(注1)閉店間近の雑貨店二店のうちの一店は高野房太郎の店。
















ジャパンデーリーアドヴァタイザー・・・・・日本に於いて発行せらるる外字新聞中の巨壁。高尚優美の文学的趣味と雄想達意の評論的記事とを兼ね収むる八頁の日刊新聞。日本英語教師及び学生の為には無比の好模範。而して治く外国実業界に達するを以て、最良の広告機関たり。定価一枚拾銭一個月壹円五拾銭一個年拾五円。本紙週刊一部十六頁一個年八円。但悉皆前金払込の事。
発行所 横浜市武蔵町通七十四番」

『時事新報』(明治35年1月1日付け)

注:ジャパンデーリーアドヴァタイザー社の社長は
アメリカ出身のビー・ダブリュ・フライシャー










「◎外字新聞職工の同盟罷工・・・・・横浜市山下町三四にて発行するジャパン・アドバタイザーは編集人英人イルネスト、ジョン、ハリブ同発行人アーサー、メー、ナップにて既に五千百九十八号を重ねたる十ページ大の新聞なるが、五日の夜突然職工が同盟罷工を為すに至りし故六日は四半ページ裏白の新聞を発行したり。去る四日同市ドイツ商人の機関紙英字新聞ジャパンヘラルドの職工が新聞及び諸種印刷物に就き既定の勤務時間経過後の特別労銀を渡さぬとて同盟罷工を決行したればアドバタイザーも是と同様の原因なるべしと。」

『万朝報』(明治40年12月7日付け)










米国の水兵・・・・・米国にては海軍の水兵に外国人を使用するの習慣ありて、現に日本人にて同国の軍艦に乗り込みおる者も少なからざるが、近ごろの調査によれば、米国海軍七千五百十六人の中、真に米国に生まれたる者はわづかに三千五百十九人にして、余は皆外国にて生まれたる者なり。又米国に籍を有する者の総数は四千三百十人にして、その他は皆純粋の外国人なるのみならず、其の中、千二百八十二人は嘗て一度も米国内に住居したることさえなき者なりという。」

『時事新報』(明治二十五年一月二十八日付け)













「日清戦役後当時は、都下の鉄工場は、在来の親分的職工は、所在に覇を称えていた。例えば石川島造船所の如きは著しい一例で、比較的に職人肌薄い砲兵工廠の如きも、其の助役(職工側の監督)に老巧の顔役は見受けないでもなかった。高野房太郎(北米労働連合組合の一員)が初めて労働運動を試みたる時、逸早く鉄工組合の成ったのは、この親分的職工を取り入れたからである。然るに今日に至っては、砲兵工廠は固より、一般の鉄工場でも、この親分的職工は、殆んど見えない。

『東京の工場地及び工場生活のパノラマ』(横山源之助)















加州日本人靴工同盟会会員、伊勢の人・森六郎の送別会(サンフランシスコ・日米史料館所蔵)





『日本で初めて労働組合をつくった男』には載せていない記事を公開


 サンフランシスコ時代における城常太郎の最大の協力者・森六郎の故郷は伊勢だが、同じく伊勢出身で、明治十八年から二十年までの二年間、サンフランシスコで活躍した人物が伊藤為吉だ。明治十八年二月にサンフランシスコに到着した伊藤為吉は、建築家、発明家という肩書を持ち、後に和製レオナルド・ダヴィンチと言われたほどの人物だ。彼は当地で「日本人実業界」を設立し、勧工場「ミカドバザール」を経営するほどに成功した。森と伊藤は同郷の出で、共に敬虔なキリスト者であった。明治18年当時、サンフランシスコ在住の日本人の数はわずか数百人であったことから、森と伊藤は知友の関係にあった可能性が極めて高い。

 この伊藤為吉に約二年遅れて、明治19年12月、サンフランシスコに入港した高野房太郎は、「ミカドバザール」の社員として働いていた時期がある。そのことを示す史料を発掘したので以下に記す。

 

 「米国日本品勸工場・・・・・米国カリフォルニア州には近頃日本品の勸工場二つあり。一は桑港にあり一はヲヲクランドにある由。右ヲヲクランドの勸工場即ちミカドバザアの社員高野房太郎氏は、この頃商品仕入れの為帰朝しクリストマス大祭に間に合せんが為め来る二十八日再び渡航する由。同氏が話によれば桑港近傍にて売りさばける雑貨は陶器、ハンケチ、竹細工等にて商売は内地においてなすより余程しやすしと。」

『読売新聞』(明治二十年十月四日付け)



 上記記事は、明治二十年十月に一時帰国した高野が読売新聞本社を訪問して、高野の渡米の切っ掛けを作ってくれ、渡米前に師と仰いでいた高田早苗(読売新聞主筆)と再会した際の談話が新聞記事となったと思われる。

 この記事により、高野の略歴に関する新事実が明らかとなった。 また、後に高野が多くの論稿を新聞、雑誌等に寄稿するきっかけを作った高田早苗との明治二十年十月の再会が事実であったことも証明された。さらに、『読売新聞』に「O・F・T生」の名前を使って多数寄稿した人物が高野本人であったことも、従来の「推測」ではなく「事実」として確定したといえよう。

上記記事を発掘したきっかけは、『博聞雑誌』(第一号 明治20年11月)に、まったく同じ記事が転載されていたのを見つけたことによる。



 高野が最初に渡米した後、オークランドにいたのは明治十九年十二月から明治二十年六月までの六か月間である。一方、伊藤為吉は、父からの至急帰国してくれとの要望で、明治二十年三月〜四月に帰国している

 伊藤為吉が帰国したあと、「ミカドバザール」の社長が変わった明治二十年に、高野は社員となったのだろうか。

 高野は明治二十年六月、オークランドを去り、北方二〇〇キロの町、ポイントアリーナに移り、同年八月まで住んでいる。その後明治二〇年十月に帰国するまでの消息は不明であることから、この間に「ミカドバザール」の社員になったのであろう。

 常太郎は明治二十一年の秋に渡米したのであるが、森か高野を通して伊藤為吉を知っていたのかもしれない。

 後の明治二十五年九月、東京において、時と場所を同じくして、伊藤為吉は「職工軍団」を組織し、職工社会の改良に尽力、一方、常太郎は「職工義友会」東京支部の長子「日本靴工協会」を設立し、日本近代労働運動の萌芽期をリードすることになるのである。