日本で初めて労働組合をつくった男



日本のロバートオーエン・佐久間貞一






佐久間貞一

『印刷雑誌』(第八巻十号 明治31年11月28日)







佐久間貞一・追悼碑

『印刷雑誌』(第十巻十号 明治33年11月28日)





佐久間貞一の碑文・島田三郎撰文

『印刷雑誌』(第十巻十号 明治33年11月28日)





佐久間貞一



「◎故佐久間貞一君葬儀及略歴・・・・・我が名誉会員佐久間貞一君去る六日逆路に昇り黄泉の客たられり。(其の翌七日月曜日諸新聞休刊のため)本会之を知らず八日午後初めて知聞し大いに驚愕せり。直ちに使いを馳せて実否を訂す。果たして其事の如し。九日午後一時出棺下谷区金杉町西蔵寺へ仏華との由にて時之に切迫し居れりて同日は北村総務総代として会葬せしめたりと雖も贈葬等の運び尽くせざりしは遺憾の至りなりし。其の当日会葬者の雑踏群衆究めしは今世其の比を見ず。東京市街の広き大道も六七町は車両と人を以て充たし絡繹として織るが如し。之に依りて推すも同君生前の徳望と実歴の秀優なるは決して非凡ならざるを証せり。己に本誌印行上にも秀英舎長としては寛大に処せられ又工手学校先年火災の際にも金五十円義損せられたるの一例を挙ぐるも我々同窓としても深く感銘し此の厚恩に酬ひざりしは大いに汗顔謝する所を知らざるなり。将来霊前に向かいて敬み詫びん事を告く左に同民の略伝を掲ぐ。
氏は旧幕臣にして嘉永元年五月江戸に生まれ戊辰の変氏は彰義隊に入り官兵に抗せしが敗軍の後勝安房の教えに従い天下の形勢を観察せんがため九州に趣き肥薩の間を漫遊せり。明治五年肥前天草島民を導き北海道浦川に移住し椎茸の製造に従事し頗る収利あり。開拓使之を聞き更に大資本を?ち同業を創始するに至りて氏は断然この業を廃し更に函館において物産業を開始し後其の業を友人に譲りて東京に帰りしが偶々仏船二ール号仏国大博覧会の出品を搭載して帰港の途次伊豆国女良港の洋中において沈没の事あり。氏は天草潜水業者を用いて船中の物品引き揚げの計画をなし遂に内務省の助を得て引き揚げに着手し名古屋の金の?信州出品の径一尺の水晶球等を始め珍器賽什の多くを引き揚げ特に船長某の頭蓋骨指輪時計等を発見し頭蓋骨にはピストルの跡ありて船長が責任を重んじて自殺せしことも分明となり三品に書画を添えて仏国に送り大いに同政府の感謝を得たり。爾来佐久間貞一の名初めて世に顕はる。明治六年宗教新聞発行の必要を感じ大教院において発行し氏其の主任となりしが印刷上非常の不便を感じ大内?町田久成世氏と謀り僅かに千円の資金を以て秀英舎を創設せり。当時日本印刷業は印制局の外いまだ民間に廻からざりしが氏は自ら職工の列に入り選字より組上げに至るまで親しく職工の願難を当めて斯業の発達を謀り年々繁盛を極め遂に今日の大会社となれり。氏は又た板紙製造を発明し埼玉県下に製造所を設け漸次其の業を拡張す。今日千住の板紙会社是なり。其の他氏は吉佐移民会社、東京工業協会、東京貸資協会、国民貯蓄銀行、大日本図書会社、生巧館等を創始せり。氏は肺患に罹りてより二十余年幾多の事業を起こし傍ら又公職に就き東京市会議員、東京市区改正委員、牛込区会議員ん、東京商業会議所会員、農工商銀行監査役、農商工高等会議員たりき。これ等の労を喜し去月二十六日賞勲局より緑??章を下附せらる。」

『工談雑誌』(113号 明治31年12月)







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「工業協会開会式・・・・・同会は昨日午後一時より錦輝館において、佐久間委員長開会の主旨を述べ来会者は無慮一万余人、、、。」

『東京新報』(明治24年10月25日付け)







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ロバート・オーエン『オーエン伝』(ポドモア)







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ロバート・オーエン(ピーチ嬢製作の像)






ロバート・オーエンが設立したニューラナアクの紡績工場