渋沢栄一







明治のころ、本気でこの国を「働く者の楽園」に変えようとした靴職人がいた!
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渋沢栄一









晩香廬
(渋沢栄一の喜寿を祝い、建設会社清水組の社長・清水満之助が寄贈。)









青淵文庫
(渋沢栄一の80歳の誕生を祝って竜門社から贈られた建物)


















『東京パック』より
「桐油紙の如き渋沢男、雨天には雨覆となり
、晴天には日除けとなる経済界の重宝男」























『東京パック』より
「渋沢男の驚くべき食欲」


















































































































































明治1年



明治2年





明治3年



明治4年




明治5年



明治6年





明治7年



明治8年





明治9年


◎渋沢栄一、西村勝三の両氏府庁より申付けらる・・・・・東京会議所の渋沢栄一、西村勝三の両君は、改めてガス製造所、上野養育院の事務所取扱いを府庁より申付けらる。」

『東京日日新聞』(明治9年5月18日)



明治10年





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◎渋沢栄一氏清国に会社設立・・・・・この間上海へ行かれたる渋沢栄一君は、香港に二ヶ所と上海に二ヶ所の日本物産会社を取設けらるる見込みの由。」

『浪花新聞』(明治10年2月10日)





◎渋沢栄一氏清国より帰国・・・・・第一銀行の渋沢栄一君は先だって上海へ趣かれたが、清国と取引の商法も至極好都合に調いたる由にて、昨日長崎県まで帰られたる由。もっとも同行の益田孝くんは今少し上海に残りて十分に用向きを足し、この次の郵船にて帰らるるとの事。」

『東京日日新聞』(明治10年2月19日)




明治11年



明治12年



◎渋沢栄一、養育院事務章程を改正し院長となる・・・・・昨日養育院事務長渋沢栄一氏を始め外一統、府庁へ御用召しにて出頭せしに、兼ねて同院より伺い出でし事務章程を、本日より改正すべき旨申し渡され、渋沢栄一氏を院長に、坂本源平氏を幹事に、飯田直之丞氏を副幹事に、その他書記を拝命せし者四名、授業掛かりを申し付けられし者三名、この授業掛かりは日給雇いにて授業の利益金の配当を賜わる趣きなり。また芝のガス局も同様改正相成り、事務長、幹事は前の人々が兼勤、副幹事は筒井与八、その他庶務書記等は在来のままなりと云う。」

『郵便報知新聞』(明治12年8月19日)





明治13年


◎玄米買い入れ・・・・・渋沢栄一氏は玄米六万俵を買い入れのため、このほど九州地方へ手代何某を差し出されましたと。」

『読売新聞』(明治13年4月28日)



明治14年





明治15年



明治16年





明治17年









明治18年



明治19年





明治20年







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明治21年



明治22年



明治23年





◎渋沢氏の風邪癒ゆ・・・・・渋沢栄一氏は去る二十六日ごろより風邪の気味にて臥?中なりと聞きしが、昨今大いに快気を覚え、最早今日あたりは第一銀行にも出頭するはずなりという。」

『中外商業新報』(明治23年10月31日付け)





明治24年





◎渋沢栄一氏・・・・・京阪地方へ出張せし渋沢栄一氏は去四日午後五時三十分帰京せり。」

『東京日日新聞』(明治24年4月7日)







◎府下豪商の集会・・・・・この度露国皇太子殿下の一行東京へご来遊につき、去る十五日東京府知事蜂須賀?爵は府下商人の重もなる人々二十余名を招きしに、事故のため欠席者ありたるは十余名なりしが、知事はこの人々に問い、この度露国皇太子殿下の一行本国へご来遊については我が帝室におかせられてもご歓迎の準備あり且つご来遊の沿道に当たる重なる場所にては夫々歓迎の準備をなす模様につき、府下においても何とか歓迎の道を立てては如何との相談をなせしに、出会の諸氏は何れも異議なく承諾したれども、何分府下一体の事なれば名々のみにても取り計らい兼ぬる場合あるにつき、一応重立ちたる諸氏に相談を遂ぐる事にせんとて相別れ、夫々より相談すべき人々を選びしに、何れも一昨年憲法発布の節集会せし諸氏の集会をなして知事からの相談を定むべしとの事にて、明二十日午後五時より坂本町銀行集会所へ会合ありたき旨を通知する事となり、右招待状は奈良原繁、渋沢栄一の両氏より発したり。尤も知事は高尚なる演劇にてもなしたらば然かるべしとの考えにてありしとや。演劇題の相談等もありたる由なるが、多分明日の集会にて夫等の事も相談に登るべしと云ふ。」

『東京日日新聞』(明治24年4月19日)







◎渋沢栄一君の小伝・・・・・君は天保十一年二月十三日を以って武蔵国榛澤郡血洗島村に生まる。家累代農を業とす。壮年家に在りて父祖の業を助け閑あれば読書撃剣習字を以って楽とす。天資豪邁幼より人後に立つを喜ばず。嘗て父君に代わり領主の代官所に至り御用金の延期を請う吏大いに君を罵詈す。君心中憤然以為らく人のために養はる者反って養う者を罵詈す。世あにこの理あらんやとこの時に当たり幕政解弛尊攘の議四方に起こり人心きょうきょう乱機将に発せんとす。君一日慨然嘆じて曰く。人生限り有り。世事限りなし。おもうに方今内外漸く多事ならんとす。是あに有為の士徒らに辺郷に埋没するの時ならんやと依って家を妹に譲り父母妻子に決別して業就らざれば再び生還せさるを誓い去って江戸に遊ぶ。時年二十四。君江戸に在り世の大勢を察するに幕府の権力日に衰え成敗の機京師に在るを以っていやしくも志を成さんと欲せば先ず帝都に至り交を一世の名士に結ぶにしかずと。即ち去って京都に至り将に大いになす所あらんとせり。当時一橋公(慶喜公)も亦京都に在り君の知人に公の重臣某あり。君の人となり凡ならざるを知り公に薦め召して見へしむ。君公にはっし天下の急務を匙指ちんして幕政の幣を痛論す。公深く其の説を嘉納す。爾後しばしば公にはっし遂に任用せられ公が封土の民政を挙げ財務を理し税法を改良し農兵を編制する等功績しきりに挙ぐる。是を以って公の君を寵遇すること益々厚し。慶応三年公の幕府の統を継ぎ将軍となるや徳川民部大輔に命じ海外に派して其の国情を観察せしむ。君命を受け随行員に列す。民部大輔は水戸烈公の子にして公の親弟なり。この行欧州諸国を巡廻し久しくフランス国パリ府に留まれり。君始めて泰西文物の殷盛且国力の富強なるを目撃し豁然大悟し嘗て持する所の鎖国説の非にして外交のゆるがせにすべからざるをさとり依って深く彼の土の人情風俗を探り専ら意を経済に注ぎ大いに得る処あり居ること一歳余りにして戊辰革命の変乱起こる。民部大輔に随従せしもの多くは皆帰朝す。君ひそかに以為らく幕府覆亡群雄割拠天下是から多事ならん。しかず民部大輔を擁し機をうかがわんにはと依って独り留まり民部大輔を補佐す。
既にして幾もなく王政維新天下一統す。明治元年冬君民部大輔に従って欧州より帰る時に慶喜公静岡に幽居す。君直ちに静岡に移住し農業に従事して公の隠棲を慰めんとす。たまたま静岡藩君に属托するに商業殖産の事を以ってす。君即ち商法会所を起こし尽力す。明治二年十月朝廷にめされて大蔵省租税司の正に任ず。幾何もなく大蔵少丞、大丞に進み三等出仕に累遷す。この時に当たり維新日猶浅く財政紛乱錯雑入る所少なうして出る所多く困弊極矣君職に在りて日夜励精能く之を処理して稽滞せず人之を称して任用其人を得たりとなす。この時井上伯大蔵大輔たり。君と相提携其の職に従事す。嘗て共に我が国の歳出入を精算し合計上に不足あることを切論し言の納れられざるを以って相共に職を辞せり。是実に明治六年五月なり。君より先君本国商工業の振るわずして社会に賎視せらるるを慨しここに至り断然志を決し国家危急の秋来らざる以上は再び政治に干与せず一身を商工業の振興に委ね誓って商工業者の地位を高ふし国富を盛んにせんと期す。偶第一国立銀行の創立に際して公務熟練の人を欠く銀行株主頻りに君を推さんと請う。君即ち之が総監役となり大いに其の業務を改良す。明治七年小野組の閉店するや同銀行は大関係を有せし故を以って亦危殆に迫る。君大いに斡旋して安全なるを得たり。ついて銀行頭取に選挙せされ益々業務を拡張し他の国立私立銀行は皆な模範を第一銀行に取るに至れり。蓋し君の大蔵省に在るや銀行の百般商工業に至大の関係を有するに拘わらず我が国においては其の業務発達せず当時三井組小野組島田組等の私立の為替座及び半官半民の性質を有する為替会社の設けありしも甚だ不完全を以って国立銀行条例の頒布を主唱せしがここに至り自ら率先銀行の業務に従事し其の隆成をいたすせり由。
是観之我が国銀行制度の今日に発展せるは全く君の力多きに居る。爾後君は又東京??所の会頭に選任せられ大いに其の幣習を矯正し府民共有金維持の方法をして其の宜しきを得せしめたり。又商法会議所を創立し銀行集会所を起こし専ら商工業者の地位を改良発達し商業上の権理便益を伸張することを勉めたり。君が掛冠の後或は直接に或は間接に管理せる商工会社は実に枚挙するに遑あらず。今其の重もななる者を挙ぐれば第一国立銀行、王子製紙会社、大阪紡績会社、東京煉瓦会社、三重紡績会社、京都織物会社、人造肥料会社、東京製綱会社、磐城炭鉱会社、札幌麦酒会社、北海道炭鉱鉄道会社、日本土木会社、東京電燈会社、帝国ホテル会社、日本煉瓦会社、日本熟皮会社、門司築港会社、等の如き皆君が管理し又は賛助する所に係わらざるなし。実に我が国商工業は多くは君が統括内にありというも敢えて溢美の言にあらざるべし。又東京養育院は往時東京会議所にて管理せし時より君殊に其の救養法に力を尽くし傍ら其の資金の増殖を計り遂に今日の規模をなすに至り功労少なからざるを以って其の事九重に達し宮内省より特旨の銀杯を賜り以って其の功労を賞せり。
君性剛毅忠実明敏果断其の言行鑑とすべきもの多し。君の慶喜公に奉仕するや終始一の如し。其の欧州に在るや電信数十通事宜を陳論し怠らず今日に至るまで公の家事を補佐し其の顧問に備われり。君の民部大輔に随行し欧州に在るや幕末の騒乱に際会し旅資到らず将に給せさらんとす。君家産を売却し之を弁せんと欲し父君に謀る。父君諾す。既にして幕府送る所の旅費漸く到り帰朝するを得たり。其の帰朝するにあたってや幕府既に亡び又旅行の顛末を報ずべき所なし。然れども君旅行中の会計明細書を作り残金を併せて之を静岡藩に奉呈し一も私する所なし。人其れ廉直に服すという君の事業を起すや周思熟計既にして一旦之に着手せば百折屈せず厄難に遭遇すれば率先自当たり敢えて避けず終に之を成就す。日常瑣末の事に至るまで半途にして事を廃せず嘗て家に在り幼児と戯れ玩具知恵板を手にす。
君百方工夫其の術を発見するまで之を棄てず君の事業を成す利益を一身に壟断することを好まず必ず衆と之を共にす。故に君が関係する所の数十種の事業中一として会社法又は組合法によらざるものなし。蓋し君の大蔵省に在るや嘗て立会略則という一書を著し政府に奉ずる。政府之を世に公にす。君の会社法によって事業をなすは実に其の宿論なり。君の事業に従事する常に一個人の自治独立心の協合を以ってすることを力め政府の保護干渉を受くる事を好まず。故に其の専ら斡旋する所の第一国立銀行の如き王子製紙会社の如き大阪三軒家紡績会社の如き嘗てししゅの保護を受けずして今日の隆盛を致せり。君の人を用ゆるや明察器に応じ任用誤らず又過失を以って人を棄てず再三戒諭終に悔悟する所あらしむ。故に人皆な其の用をなすを楽む。君好て人の窮厄を救う。然れども妄りに施与する事を好まず。必ず自立の計を授け遵依せしむ。君人に接する懇切。婦女子無識の者と雖も其の言う所を尽くさしむ。君常に人に語って曰く。他人の依頼を聴く宜しく之を諾するの心を以って聴くべし。之を拒むの心を以って聴くべからずと。君衣食器物等の事において嗜む所なし。皆な人のなす所に委任し敢えて一言も可否せず。君の会社其の他公共のために事を執るや丁寧周密厘毫も仮借せず。而して家事に至っては一切放擲人に委して顧みず常に家人に語りて曰く。吾れ人を愛する親疎を以って軽重せず。唯理に通ずる者を最も愛し理に違う者を愛せず。汝が輩謹んで理に違う事なかれと。又語って曰く。吾れ明治六年官を辞し商工の業に従事せんとするや心ひそかにおもえらく吾れ商工の業において少しも経歴する所なし。頼む所の者はただただ論語一篇のみ。吾れ幸いに今日有るは全く論語の力なり。汝が?善く吾が心を体し敢えて或は叛くなかれと。君父母に仕ふる孝、父君亦賢明君の人なりを知り其の遠遊せんと敢えて抑留せず其の志す所をなさしむ。君の家を去らんとするや父君与ふるに百金を以ってす。
后ち君の業をなすや此金を返還す。君の立身するにおいてや父君君を子視せず人に語りて曰く。篤太夫様は吾が子にあらずと。而して君益々孝養怠らず篤太夫は君が壮年の名なり。君身体強健にして又頗る強記なり。君百般の事務に従事し又能く人のために周旋するを以って来客朝夕堂に満ち文書机上に堆をなす。君一々懇談処理ごうも倦まず時に或は事務多忙昼夜眠らず而してごうも疲労の色を見ず断決誤らず医師某かって人に語りて曰く。君の身体は生理外の身体なりと。君一見一聞記憶忘れず幼時流行せし所の童謡にいたるまで能く之を暗誦す。嘗て病間侍人をして小説を誦読せしむ後ち君人に語るに其の小説を以ってす。人名地名年月に至るまで一も漏らす所なし。聴く者大いに驚くという。君又学を嗜しみフランス語に通じ文を善くす。其の掛冠するに当たり政府に上がりたる会計精算表の如きは今にして之を読むも筆力雄健文理精かく老文章家といえども及ぶこと能はず。君が身を一農家に起こし忽ちにしてしん紳の知遇を蒙り忽ちにして天下の大政に参与し一朝印を解て商工業を作興し家陶朱の富を致し名内外に欽仰せらるるもの抑も亦故あるなり。明治二十二年東京に市制を布くや君撰ばれて市参事会員となる。此職法において辞するを許さず君嘆じて曰く。吾れ又政治に干与せざるをえざるかと。明治二十三年衆議院議員の選挙あるや深川区の区民頻りに君に議員たらんことを請う。君固く執って聴かず既にして政府貴族院に大いに人才を任用せんとす。君亦其の選にあづかる。内諭懇切友人亦君に説いて曰く。議院の職務は政治を監督するにあり。直接に政治を執るにあらずと。君終に勅選を辞するを得ず。然れども其の素志にあらずという。今回東京商業会議所の設立に際し会員五十名中大多数を以って其の会頭に挙げらる。」

『中外商業新報』(明治24年8月2日付け)









明治25年


◎二名市区改正委員・・・・・兼て東京府知事より東京商業会議所へ照会になりし元と商工会より出で居りし委員二名の補欠を東京商業会議所より選出すべき照会は、是非同会議所議員中より選出するの意味にはあらずして同所において資格在る相当の人物を見立てられたしとの依頼なる由にて、多分元の如く渋沢栄一、益田孝の両氏なるべしとの説なり。」

『国民新聞』(明治25年3月2日)





◎女学生の篤志・・・・・客年東京府高等女学校の生徒が養育院用の被服を無料にて裁縫せし数六百十一枚の多きに及びたり。よって今度院長渋沢栄一氏より同校長大東重善氏宛て謝状を贈りたり。」

『国民新聞』(明治25年7月28日)



明治26年









◎明治二十五年を回顧・・・・・豫戒令の実地。豫戒令は二回に実行されたり。一回は十二月二十一日において、一回は同二十五日において実行されたり。これ豪商渋沢栄一氏が兇悍のために傷を負いしことなどに原因せしものなりといへり。」

『国民新聞』(明治26年1月5日)









◎経済上の大勢力(我国経済界の三大勢力下其の一)渋沢氏の少時・・・・・旧家なる三井、新家なる三菱、この二大勢力は銀行、鉱山、株券等の事業の上において天下を両分せんとし、如何なる経済上の勢力とて、直接か間接かこの二勢力と相接せざるものあるなし。而してこの間に立ちて銀行に根拠をすえて、他の二勢力が遺忘せる新事業に向かって、速に、手広く、着手するものを渋沢栄一氏なりとす。氏の資産は、固より他の二大勢力に及ばざる事遠からん。然れども其の個人的の信用、個人的の技量、及び、其の事業経営の原野の広くして、他の二勢力と異なるの点においては、優に天下三分の一勢力たるに足る。氏の位置は、東流の水と西流の水との間に生じる旋渦のために築きなされたる新とうよの如く、新奮二勢力、交錯の際に生じたるものなり。然れども今日新事業、新会社にして、殆んど氏の名を見ざるなく、氏の信用をからずんば、成功おぼつかなしと思はしむるに至る。固より明治年間の人物といはざるべからず。氏も又岩崎、五代、中野等の如く、政治上に立身せんと欲して、商業に終るに至れる一人なり。徳川氏の末、政綱弛みて、天下漸く乱れんとするや、攘夷、勤王等の言語は、民間の旗印の如くに唱えられたりといえども、その実、内乱の大動機たるものは、これ等の空言に非ず。漢唐、二十代の天下を騒乱したる普通遍在の原因、即ち人心の動乱に乗じて、功名の心を遂げんとする失意の個人、失意の階級が、幸運を攫まんとして起こりたるこそ、其の大原因なりき。而して渋沢氏の如きも、また其の一人なりき。固より渋沢氏の如きは、上州榛澤郡血洗島の豪農にして、生活においては失意の人に非ず。然れども平民といえる二千年間失意の階級に附属せるなり。而して上州は幕末の如き大動乱に乗じて起つものを養うには、最もよき場所なりき。其の土は富みて、生活に窮せず。豪農豪商の士弟が、孟子の講義を聞くの余裕あり。其の民族は慓悍にして気を好み、長脇差を産出する撃剣の声は寒村僻邑にまで達せざるなし。燕趙は古より慷慨悲歌の士多しと称す。上州は果たして慷慨悲歌に充ちたるや否やを知らず。然れども侠武、敢為、冒険の気象に至っては、殆んど燕趙の如きものありき。渋沢氏は天保十一年二月を以って生まれ、此の小燕趙の侠武心が、最も動揺したる時に遭遇せしかば、十四歳にして父に代わりて藍を買い集め、此子、家を起こさんとて喜ばれたる少年は、薩州の中井弘蔵長州の多賀屋勇等の、上州に流寓して、天下将に乱れんとす志士身を致すの時なりとの講義を聞きて大いに感発し、私かに志士に交わるの志を生ずるに至りぬ。此時に方つてや少年の胸中、唯だ功名の心、士分が駿馬揚々、平民を圧するを見て挑発せられたる栄誉の心と、悪代官、悪奉行の收?に堪えずして、反発せる侠武心とが、最も盛んに燃ゆるのみ。唯だ事をなさんと欲するのみ。其何の方向に向かって事をなさんか、知る所にあらず、唯だ目前最も手近き事をなさんとするのみ。而して其の天下の志士と交わるや、幕府の嫌疑を受けしかば、幕府に抵抗するは差向の事と考えられたり。かくの如くして其の従弟喜作氏等と共に刀剣を集め、金銭を準備し、一挙して宮崎城を乗っ取らんとするの策を案出せられたり。而して刀剣の数は四五十、同志は五六十人に過ぎず、此の如き小児らしき企は同志の忠告によりて中止せられたるは、文久三年君が二十四歳の時なりき。此の富翁、初めより富翁にはあらずして気骨稜々たる関東男児なりしなり。」

『国民新聞』(明治26年7月27日)





◎経済上の大勢力(我国経済界の三大勢力下其の二)・・・・・探偵を以って政治の眼目とする封建政治は、決して、此かる陰謀を看過すべくもあらず。探偵の眼は、日夜、渋沢氏等の身辺に纏われば、この上は郷里に居るも詮なし。出でて天下の志士に交るの外なしと、強いて父に請うて喜作氏と共に、浪士の本拠たる京都に出でしが、是れ浪士に交りて来たらんとする大運動に加わらんとするに外ならざりき。然るに其の京都に入るや、固より大藩を後に控えたる者にあらず。雷名、人を威すに足るものにあらず。平民にして志ありしものに過ぎざれば、浪士とは思うほどの交際も結ばれざりしものの如し。かかる間に日月空しく去り、父に恵まれたる旅費もすでに尽きければ、一橋家(浪士に交わって打ち倒さんと心なせる徳川氏の連枝)に仕えて衣食することとなりぬ。かかる窮乏の時にも、関東武士は決して人に首を下げぬが気象なり。栄一喜作の両氏は一橋家に仕ゆるは、平民にして其の地位を挙ぐるの機会にてもあり。幕府の追跡を免るるの機会にてもあれば、意を決して其の臣下たらんと欲せしも、並々の衣食に窮したるものとは事異なり、古の孟当春申の家に出入する客の如く、其の意見を採用せられて仕ゆる者となりたしとて一通の封事を奉れり。両氏を周旋する平岡なるものは、之を一橋家の主君に伝えぬ。この如くしてこの両平民は、近待を払って人なき間において、威権赫々たる御連枝に拝顔し其の意見を陳ぶるを得たりき。意見とて新たなるものにあらじ。『徳川氏のためにせんとせば半ば天朝を助け半ば徳川氏を助けざるべからず。爾かせんには身を下して国士を招かざるべからず。』というにありき。当時、天下主権者の連枝にして一平民よりこの献策を聴取せるが如き、其の説を求むるの心は好みすべし。其の人物に欠けたること以って知るべきなり。この小説客は献策の結果として奥口番を仰せつけられ、四石二人扶持、月俸四両一分を給わりぬ。是れ明治元年の二月なりき。この如くして倒幕論者は一橋家の臣下となり了りぬ。以って当時猟連者の性質の一班を知るべきなり。渋沢氏が初めて一橋家のために功を建てたるは、薩人に交わりて、其の秘密を聞かんとしたるにありき。当時、幕府に代わって天下を治めんものは、薩長の二藩なるべしと信ぜられたれば、識者の目はこの両藩の挙動に注ぎしかば、彼は一橋家にすすめ、この両藩の挙動を察するこそ、急務中の急務なりとし、自ら進んで機密探偵の任に当たりしが、これぞ薩長両藩士に交わるの端緒なりき。ここにして天下の形勢愈々迫りて各藩兵備を修むるに急なりしに、一橋家は殆んど之に応ずるの兵なしというほどなりしかば、彼は建策して、民兵を募らしめ、自ら募兵士として一橋家の領分なる備中、大阪、播州を巡回して、慰侮、圧服、交々用いて四百五十人の民兵を得たりしかば、一橋家の兵制上より少しく整えぬ。見よ、今日の経済界の覇将軍は、当時、長剣、長槍、威風辺りを払ふて代官庄屋を摺伏せしめたる壮士なりしなり。この如くして、彼の信用は益す因ると共に彼にとりて最も得意なる財政の局に当たるに至りぬ。是れ其の生涯の転換期といわざるべからず。」

『国民新聞』(明治26年7月28日)





◎経済上の大勢力(我国経済界の三大勢力下其の三)渋沢氏初めて民政を料理す・・・・・渋沢氏が民兵を募集せんがために、一橋領を巡回せる時、かねがね民政、調度の事に詳しき頭脳はたちまち其の領分の土地物産の盛んなるに係わらず、一藩の財政の甚だ豊かならざるに感じ、一橋家のためにせんには、財政を整理し民力を発達せしむることこそ肝要なりとの念を起こしけり。例えば播磨、摂津両所の米穀のみにても、一万石以上あり。もし財政に巧みなるものにして之を運転せば、財入の基となるべきに、算盤に迂なる。しかも収賄に巧みなる士のために、この財源も一橋家のためとならざりき。また播磨各地にて製造する木綿の如きも、姫路領にては、保護策を施して頒売の道も開けあれば、物質も善良にして、価格もよく、之と共に其の製造高も増加すれども、一橋領内にては一も之を保護し、もしくは力をかす所なきがため、年々退縮の姿を呈し来れり。其の他備中の硝石の如き、もし能く之を開発せば、一廉の物産となるべきに、不忠実なる民政の下には、この財源も塞がりぬ。ここにおいてか渋沢氏は京都に帰るや、直ちに米穀運転、木綿改良、硝石製造の三件を建言し、自ら其の施設に当たらんことを請いしが、己に幾多の事を遂げて楊子くはひたる士族を驚かしたる前なりしかば、一橋家は凡て氏に聴くに至りぬ。氏は先ず其の領内に米穀を灘の造酒家に売ることを定め、硝石製造を励まして悉く領主の家に買い取るの策を定めぬ。然れども前者は遂げしも、後者は其の効少なかりき。而して第三者は最も渋沢氏の技量の表れたるものにして、また其の後来の事業の助けとなりしものなり。即ち木綿改良のため、領内の木綿は一切藩庁に買い取りて、製造力を強め、而して藩庁自ら之を大阪に送りて、手広く売り捌かんとするものにして、この費用として藩札三万両を発行せる事なりき。藩札発行の事は、当時の流行なりしも最も成功したるは福井藩における由利公正氏の事業と、一橋家における福沢氏の事業と其の他二三藩に過ぎざりき。而してこの財源の原理の甚だ暗かりし時に、方っても、渋沢氏は決して不換紙幣を発行せず、氏自ら大阪に出発し、大阪なる為替組の三人、及び播州攝州の豪富をして、一万円の貨幣を調達せしめ、之を引き換え準備金として、三万両の紙幣に当たらしめ、また藩札引換所、及び荷為替所を開きて、藩内の要所に集まりたる物品に対して紙幣を貸しつけ、之を大阪にも売らしめて其の代金を藩庁に取り、かくの如くして得たる正金の一半は、之を引き換え準備として保存し、一半は之を元資として更らに紙幣を増加するなんど藩内の民力を興起し、財政を円滑ならしむるに怠りなかりしかば、一橋家は財政上において大いに便利と安全とを得たりき。而してこの紙幣発行の事たる、無職なる士が貧乱のために発行するにあらずして、実務の経験ある平民が自家のかって使用せる為替手券に模して発行せるものにして準備金は三分の一を低度としたりしは、最も時宜に合わせるものにして、暗に今日の経済事情にして適うものありというべし。而して当時紙幣を発行したるものは、独り一橋家のみならず、至る所之ありしといいては幕末の頃に及びて民力興起、購買力増加し、到底、従来の貨幣のみにては不十分なりしを見るべき興起せる民力と貧寒なる士族とは最早や両立すべからざるものなるを見るべし。」

『国民新聞』(明治26年7月29日)





◎経済上の大勢力(我国経済界の三大勢力下其の四)政治家としての渋沢氏・・・・・巳にして一橋家の財政上の形勢は長く渋沢氏をして坂地に止まらしめず、慶応二年春、遂に京都に呼び返され勘定組頭の旧任に当たるに至りぬ。至?ば即ち幕府継嗣の論?々たり。この時における氏の論策の如く、其の人物性情を写すが如く明らかに示すものは少なし。当時長州は攘夷党の発頭人にして事毎に幕府の威令を奉ぜざれば、会津桑名の諸大名、率先して長州征伐を唱え、一挙して長州を滅せば、天下の不平は皆な之と共に消えなんとて、ここに天下の兵を挙って長州征伐の師を起こせしが、不幸にして将軍家茂公、大阪の陣営にごう去し給いければ、ここに何人かを継嗣にせんとの議論起こりしが、当時の徳望といい、血統と言い、年齢と言い、朝廷との関係と言い、投票は自然に一橋家の当主、慶喜公の上に落ち来りしかば、藩士の中には浅見の徒、欣々として喜び我時来れりと相賀したりしが、独り渋沢氏のみは、取って以って不可となし、其の重役を歴説してこの議を退けんとしぬ。元来氏は長州征伐其の事すら不可なりとなしき。是れ、今日の幕府の勢いにては、到底勝利を得べくもあらざるを知って憂うるの公情と、一旦、倒幕を思い立ちたるものが、征長軍に加わらざるべからざるに至りしを悲しむの私情とに出でしものなりき。長州征伐は兎も角も、将軍継嗣の事に至りては、是れ一家危急存亡の時にして今日の勢い幕府の衰ふるや、大家の将に倒んとするが如し。善く一木の支ふべきにあらず。天下の怨の幕府に帰する事、江河の流れて海に入るが如く、責任あることも、なきことも、皆な自然に幕府を攻むるの口実となる時勢なるに、慶喜公が出でて将軍たらんとするは、是れ自ら求めて天下怨恨の衝に当たるものなれば、とて、慶喜公に拝謁して、百方、利害を陳し、巳むなくんば田安亀之助様を立てて将軍とせば、天下誰か四歳の将軍に向かって責任を負はしむるものあるべき。必ずや責任は幕吏の上に帰せん。幕府到底、衰滅の運を免れざれば、玉石共にくだくることをなさず、身を全うして他日の重望に対すべしと、弁を尽くして説きしかども、慶喜公は聴かず遂に幕府に入りぬ。前に一橋家に仕ゆるの時、半ば幕府を離れ、半ば、幕府を助くべしといえるが如き、今も、幼主をして立たしめ、身を全くし、力を養ふて、他日の変を待つべしといえるが如き、氏の活眼と、方策の性質とを示して明白なりというべし。政治家の識見ありと称すべし。この識見こそ氏が成効の基なれ。?は無効となりぬ。一橋家の家臣は皆なそれぞれ幕府に任用せられ、渋沢氏の如きは陸軍奉行調べ役てふ、自家の得意にあらぬ役目を仰せつけられぬ。而して一藩に在りては、規模は狭小ながらも其の意見を実行するの場合もあれども、今や幕府の大制度に対しては、其の意見は何にあらずなりぬ。僅かに一局に当たりて、儕輩と伍をなすのみ、且つ慶喜公は天下の将軍にして、氏は御目見以上と以下の間にある小身にして、奏任官の如きものに過ぎずして、今は時々謁見して意見を伸ぶる事も協ずなりぬ。ここにおいてか快々として楽しまず。むしろ浪士豪農たりし時の自由を回顧しうしと見し世ぞ今は恋しきの感ありしが、救は意外の所より来り。遂に攘夷党は洋行して世界列国の大勢を観察するに至りぬ。」

『国民新聞』(明治26年8月2日)





◎経済上の大勢力(我国経済界の三大勢力下其の五)巴理の夢・・・・・渋沢氏が幕府に仕えて快々として楽しまず、行く末、越し方を考えて感慨に堪えざる時、慶応二年十二月、市橋家の重臣、原市之進より渋沢氏を招けり。至れば渋沢氏をして、フランスに渡航せしめんとの相談なりき。千八百六十七年、フランス政府はパリに万国大博覧会を開かんとせしが、当時、フランス公使は幕府の信用を受け、唯一の相談相手なりしかば、更に徳川氏の連枝を延きて、此大博覧会に参同せしめ、一は光華流るるフランスの繁栄を見せしめんとし、一は欧州人の目に東洋におけるフランスの勢力を示さんとせり。ここにおいてか、幕府は其の勧誘に応じて、慶喜公の弟、民部大輔照武君を派遣し、併せて五六年間、欧州に留学せしめんと決定せしが、其の随行者としては適当の者なく、一藩の士人、悉く、攘夷家のみなれば、端なくも随行の命は渋沢氏の上に落ち来りしなれ。
此においてか、渋沢氏は修学随行員として、伝役山高信離氏、七名の攘夷的随行員及び外国奉公向山氏一行と共に慶応三年正月、フランス郵船に投じて横浜を出発したり。当時渋沢氏は別にフランス語に通ずるにあらず。譜代恩顧の情あるにあらず。而して一藩を挙って、一人照武君に随行せしむべきものなくして、新参の人を要するに至る。以って藩閥の最早や恃むべからざりしを見るべきなり。かくて博覧会参同の任も果たされ、一行も巳にフランス語を学ぶこと七八ヶ月にして、さすが攘夷熱心の随行員も漸くパリの光華に眩惑せんとする頃。パリの新聞紙は突然、日本革命、慶喜政権の奉還を伝えぬ。巳にして電信局の前には、伏見鳥羽の戦報は掲げられぬ。随行員の驚愕知るべきのみ。然れども最も驚愕の少なかりしは渋沢氏なりき。三年の前、己に幕府衰亡の兆を見て、其の主君の将軍職を襲がんとせるを止めたる渋沢氏は、固より驚愕すべき理由を有せざるなり。彼は照武君に進めて書を慶喜公に致さしむ。曰く。何故に戦端を開きたる乎。巳に開きたる以上、何故に退陣する乎。宜しく断乎として最後までの戦を続くべしと。この事の本国に達せざるに先ちて、万事己に去りむ。照武君は幕府の連枝にてありながら、殆んど海外流浪の身となりぬ。是において渋沢氏は当時の向山奉行(詩人黄村氏)に代わりたる栗本安芸守に説きて、本国に帰り、猶ほ照武君をして、四五年留学せしむるの学資を周旋せしめ、あっぱれ文明の政治家として帰らんと企てしも、金は来らずして、帰朝の命は来れり。曰く。水戸中納言逝去ありたれば、速に来って家を継ぐべしと。最早や帰国せざるべからざるに至りぬ。かくて帰朝したるは明年元年の十一月、新潟港に開き東京市を開く頃なりき。渋沢氏の去ってより僅かに二年、歳月は短しといえども、変化は大なりき。二百五十年来の幕府は倒れ、薩州長州の荒くれ男は、東京城内に横行闊歩し、政治上社会上の旧地理一切消滅しぬ。天地を指して死生を誓いたる渋沢喜作氏は、北海の軍に投じて死生を審にせず、其の他の莫逆の友、或は戦死し、或は身を潜め、殆んど劉郎玄都に帰るの観ありき。かかる事は初めより予期せし所なりと雖も、今となりてはさすがに忍ばれて、今はただ郷里に帰って、父母妻子に六年別後の情を陳ぶるの外なかりき。」


『国民新聞』(明治26年8月4日)





◎経済上の大勢力(我国経済界の三大勢力下其の六)日本に於ける最初の銀行事業・・・・・
巳にして徳川昭武君は、水戸家を継ぐ事となりしが、横浜より直ちに水戸に赴きて、慶喜公に会見せざりしかば、渋沢氏に一書を託して復命せしめ、かねて渋沢氏を水戸藩に申し請けんことを願いしも、当時実務の才幹あること、氏の如きもの少なければ、慶喜公は之を託せずして、遂に氏を留めて静岡藩の小吏たらしめき。翼は巳になりぬ。渋沢は元の渋沢にあらず。いかでか小吏の任命に満足すべきぞ。あらゆる言語を尽して之を辞し、民業につきて以って、傍より静岡藩を助くべしと主張せり。民業とは即ち銀行の如き、興業合資会社の如き、一社を起こし藩の富を以って資本とし、半官半民の事業を営まんとするものなりき。而してこの企ては極めて当時に必要なるものなりき。当時明治政府は三千万円の紙幣を発行せりと雖、其の実一文の正貨準備あるにあらず。故に三井の篇において述べたるが如く、一方においては三井、鴻の池、小野組の如き豪家に説きて其の紙幣を使用せしめ、一方においては、更に各藩に分かちて此紙幣を使用せしめたり。其の名は一万石につきて一万両の貸し付けなりと雖も、其の実は各藩に請うて通用せしめたるなり。而して百万石の静岡藩は五十万円を貸しつけられたり。慧眼なる渋沢は、固より此間の消息を見逃すべきにあらず。彼先ず静岡藩の有力者に説きて曰く。此五十万円は借用にして、貰受にあらず。早晩之を返納せざるべからず。静岡藩は如何にして之に利子を付して返納せんと欲する乎。此問題にして解釈し得られずんば、政治上における破産者は、再び経済上の破産者とならんと。彼は此返却の見込みなき資本を借りて、破産するを避くるは、唯だ商法会所を建つるにありとなせしかば、久しく渋沢の実務的才幹を信用したる藩主は、遂に其の請いを容れ、ここに五十万円の資本を以って、銀行、興産両種の性質を帯びたる商法会所を設け、渋沢氏をしてその頭取たらしめたり。是れ実に氏に向かっての新運命の端緒なりき。郷里における実務の経験、欧州の巡遊は、己に渋沢氏をしてあっぱれ一個の経済家たらしめたり。之に加ふるに彼が勤倹自ら奉じ、一文の銭すらいたづらに費やさざるの習慣は、社運をして盛栄ならしめ、世の商人が苦しみたる紙幣下落、物価騰貴の如きも、彼は夙にこの打算をなして、速やかに物品を購入して其の時を俟ちしかば、利益は彼の指を動かすままに集まり、静岡近傍商人の便利をなすこと浅からざるにいたり、信用も強固となりしかば、我が終世の事業ここにありとなし、初めて妻子を招きて家庭を作るに至りき。氏に向かって中央政府に仕ゆるの新運命を興えしものも此事業にあり。氏をして、意を決して中央政府を退かしめたるも此事業の経験にあり。是れ明治二年の事にして此事業たる日本において欧米の合資会社制を実行せる最初なりき。」


『国民新聞』(明治26年8月5日)





◎経済上の大勢力(我国経済界の三大勢力下其の七)大隈氏に任用せらる・・・・・
天下を分って二となす。曰く名の領分なり。利の領国なり。今や政治上の事は、凡て薩長藩士、昨日までは己と均しく空谷に餓えんとしたる浪人共に専有せられ、名の領分はすでに開拓すべき余地を残さるるに至りぬ。この上は寧ろ利の領分を開拓して、覇王たらん、是れまた一生の快事なるべしと。当時政治上の失敗者にして経済の才能あるものの心事、往々にしてこの如くなりき。渋沢氏の如き固より其の一人なり。去れば薩長武士の威権赫々たるも、氏の如き寧ろ之を冷笑せんばかりにして、長く静岡を根拠として、利の領分を開拓せんと心がけ、首を垂れて中央政府に仕えんというが如きは、寸分其の心事に存せざりき。然れども中央政府は、長くこの如き経済家を民間に措く能はざりき。明治二年十月、大政官は、卒然渋沢氏に上京を命じたり。至れば大蔵省租税司の正に任ずるの辞令を與へられたり。是れ実に彼の志にあらず。ここにおいてか沈思黙考は幾度か繰り返され、静岡藩に対するの情誼、官吏生活の不自由、前途の光栄等の相反の感情は、数ば戦いぬ。然れども辞職の念は遂に勝てり。ここにおいてか当時大蔵大輔として一省の全権を握りたる大隈重信氏に到り、心事を傾倒して語り、辞職の事を請へり。大隈氏は百方之を説きて辞職の念を翻へさしめんとせり。而して其の陳説の中には、大蔵省今後の施設につきて、渋沢氏に相応なる独立の働きを與へんとするの志を見せたれば、渋沢氏も遂に志を翻し、暫らく大蔵省に止まらんとするに至りぬ。当時氏のために先容をなすものあるにあらず。氏のために周旋をなすものあるにあらず。大蔵卿たりし伊達宗城氏が、慶喜公一橋家と来往の際に其の才名を聞き居たるを、大蔵大丞たりし郷純造氏が、其の事業を耳にしこの二人の未見の友が、推薦したるがため、氏の新運命は開けぬ。
衣食のためにせず、知己に感じて仕官する渋沢は、固より長く碌々として其の一局に安んずべくもあらず、直ちに其の意見を作りて大隈氏に示しぬ。曰く。大蔵省が今後の政治に大関係あり。今後の政治に付きて大規模あるは、嘗て過日の会見において承れり。然れども大蔵省今日の組織にて、これらの大規模大計画に当たらんとするは、即ち思はざるの甚だしきものにして、秩序もなく、統一なく、永遠の規画もなく、唯其の日暮らしの如くにては、到底望みなし。と此批評は最も病根に当たりき。大輔大隈氏は其の思う如くになしつつあり。小輔伊藤博文氏も、また其の志を行いつつあり。諸藩は各々なすが如くなしつつあり。国家歳入の大源未だ定まらず。唯だ臨時の収入を以って其の日を支ゆるが如くなりき。ここにおいてか大隈氏も大いに氏の言を感じ、直ちに改正掛なるものを設け、氏を延きて其の長となし、省中の俊才少年を集め、各種の改革案を草せしめたり。改正掛といえば一の小局課の如くなり。然れども大蔵省の総務局ともいうべきものにして大蔵省永遠の規画、収税、鉄道、郵便、財制等の事業は、一に皆な此局の発起に出るものなりき。渋沢氏の才能は忽ちに識認せられ、大蔵省の制度改正がかりは、一転して中央政府全体の制度改正掛を兼ぬるに至りぬ。然れども大隈氏との交情浅からざりしと雖も、さまでは深く熟せざりしは、其の性情の合はざりしがためなり。あまりに多く同性質同欲望なりしがためなり。其小丞び昇るの時、大隈氏は参議に昇り、大丞井上馨氏入って大隈氏に代わるに至り、渋沢氏は忽ち井上氏と膠添の交わりを締するに至り、是より二十年遂に相離れざるに至りぬ。而して最も奇なるは、大隈の下に其の才を伸べし渋沢氏は、一生、大隈氏の敵手となりし事是なり。」


『国民新聞』(明治26年8月9日)





◎経済上の大勢力(我国経済界の三大勢力下其の八)・・・・・巳にして渋沢氏は大丞となりその後益々用ひらる。是より以往、渋沢氏の歴史は大蔵省の歴史なり。銀行法の制定、公債の発行、貨幣本位の議論等氏の力興って少小にあらずといえども、固より以って氏の独力というべからず。新進少年合同の事業というの外なし。而して渋沢氏は最も深く少輔井上馨氏と相結托したるものの如し。思うに此結托は、二者の意気相投じたるものあるがためならん。其の利益において相一致するものありしがためならん。然れども其の大原因は薩長権力消長の機によらずんばあらず。当時大隈氏は大蔵大輔となり参議となり、また大蔵大輔となり、其の財政上の権力少小にあらずといえども、要するに大久保と終始相結托して、以って其の意を奉行するの傾きあり。而して井上少輔に至っては、初めより大久保に向かって抵抗するの意気あり。悍然として屈せざりしかば、両勢力の衝突を来たせり。渋沢氏は固より此の薩長の争いにおいては、利害なしといえども、己の事業は井上氏の下において伸ぶると共に、大久保等の政策は、経済の要旨に外るるを見て、深く大久保大隈の政策に不同意を表しつつ初めたるものの如し。当時大蔵省というも、其の実今の内務省の事務をも合わしたるものなれば、其の権力の大なると共に、其の争いまた激甚なりしを見るべきなり。井上氏は遂に破れたり。其の意見は用いられざる者多し。此上は兼ねて志せる民間の事業に着手するの外なしとなししが、渋沢氏はこの時において井上氏の最も恃むに足る者なりき。民間事業の経験はあり、実力はあり、而して政策上においては、己と同一の位置に立てり。此の二人は相携へて、一篇の論文を作り、当時財政の不始末を攻撃して野に入る、其の意思らく『開明の言たる、判然岐って二となさざるを得ず、開明の政理上を主とするは、形をもってするものにして、開明の民力上を重ずるものは、実を以ってするものなり。形を以ってするは求め易くして、実を以ってするは致し難し。いたづらに其の形のみを主として、其の実を重んぜずんば、政治遂に人民と背馳し、百度愈よ張って、国力愈々減じ、功未だ成らずして、国巳に貧弱に陥らん。然るに政府猶昔の軽佻に?ひ、いたづらに百事の躁進を勉む、是れ臣等の甘心する能はざる所なり。今や中外の負債をあぐるに、殆んど一億四千万の巨額にして、償却の道未だ立たざるものとす、速やかに其の制を設けて逐次之を支消せざるべからず。而して政府未だ意を此に注がず、却って百事の更張を勉め開明を政理の上に求むること、前日の如くならば、此民を保護するの道安くにかある』と此の如くして干渉の?は述べられ、財政の危険に陥りしをいうや。最も善く政府の病根に触れしかば、新聞紙は囂々として之を伝え、中外の耳目を驚かし、英国の債主の如きは日本政府歳入の剰余を抵当とせるに、財政の危険此の如しとせば、最早や信ずべからずとなさんとせしかば、政府は急に井上氏等妄言の科料として、罰金を課し、歳計予算表を作って、剰余金あるを示して、一時の心を安んじたりき。是れ明治六年の事なりき。渋沢氏と井上氏との間は、此の如くして離れぬ。是より後、井上氏の権力は府下紳商の間に伸び、大隈氏が之を打撃せんとするに至りて、更に紳商の党派を生じるに至り、堂々たる内閣大臣にして紳商に攻囲せられて、其の地位を失っせんとするに至るものすらありき。」

『国民新聞』(明治26年8月11日)





◎経済上の大勢力(我国経済界の三大勢力下其の九)渋沢全盛の時代・・・・・すでにして渋沢氏は首唱して東京の富豪に説き、資本を集めて第一国立銀行を建設せり。氏はこの時、個人としてこの如き事をなし得たるかというに、氏の信用勢力は、未だかくの如くにはあらず。故に先ず三井家を説き、三井家の信用を得、三井をして其の資本の大半を出さしめ、己は三井家の番頭の資格を以って、第一銀行を立てたるものの如し。氏は如何にして三井家と関係を生じたるか、是れ人の秘密にして知るべからずといえども、在朝長州派の勢力によれるというもの信ずべきが如し。斯れば、氏が第一銀行を建てたる後も、氏の声望今日の如くならざるや、三井家全体の信用を博し得たるにあらざるが故に、往々にして面白からざる事ありしという。銀行既に成れり、氏の新たなる運命は定まれり。頭痛心配、抗争の政治界よりも、夢は安らかに結ばれぬ。それ人得意なれば、万事成功す。いわんや今日の位置たる、人に首を屈して策を献ずるの位地にあらず。自ら策し、自ら決行する首長の位置なり。思うに行われざるなく、画して当たらざるなし。しばらくして銀行といえば人、其第一銀行なるを知り、第一銀行といえば人、渋沢氏を連想するに至り。其の成功近世無比と称せらる。この後井上氏はまた政府に帰りしも、渋沢氏は遂に一たびも出でずして、其の志を行なう。其の商業上の成功は、或は氏の右に出る者少なからざるべし。然れども維新以来六年、天下薩長の専権に対する大運動の起こらざるに先立ち、早くすでに政治上の前途、知るべきのみと見限りて勇退し、一回も出でず。才人俊英の徒、或はころび、或は倒れ、政治上の夢路をたどるを嘲笑するの識見に至っては、高しとするに足るものあり。氏の銀行はすでに天下に信用を博せり。此より起こるもの、皆模型を此に取る。地方士族の新に銀行を起こさんとして、大蔵省に到るや、大蔵省は渋沢氏の宿所を教え、彼に詣って教えを請はしむ。此の如くして士族の金銭を集めて銀行を作り、銀行の利益配当によって、士族の謀叛を鎮づむるの策は、安々として実行せらる。此において渋沢氏の名は三井三菱と並びて、天下に伝唱せらる。思うに其の資産においては固より前の二者に及ばざるもの多かるべし。然れども其の日本の実業発達に助力する所多かりしは、前二者企及ぶ所に非ず。三菱は全力を集めて航海に従事したるが故に、彼は人の耳目に聳ゆる事をなしたり。渋沢氏は木綿より、絹より、陶器に至る、凡ての新事業に向かって力を分かちしがため、其の功は著しからず。是れその天分の相分かるる所なるべし。渋沢氏、生平論語を愛し、一生の進退座作、之によるという。去れば、岩崎の如く、殆んど無法に類したる事は其の外面に見る能はず。天下に申訳のなき事は尋ね知るべからず。是れ其の事業の他の如く著しからずして、信用天下に遍き所以なる乎。其の貧寒なる一商人、古川市兵衛に幾十万円の資本を貸して足尾銅山を開かしめ、今は天下稀有の豪富とならしめたるが如きは、人其の活眼に服すといえども、其の従弟喜作氏に幾十万円を貸して、失敗し、煩を第一銀行に波及したるはまた人の氏を議する所なり。要するに氏は天下の形勢を推測するの活眼ありといえども、人物の鑑識において欠くる所ある乎。其の論語を愛読すというに係わらず、其の私行は議すべきもの少なきに係わらず、其の氏に従って遊ぶ所の紳商なるものに至っては、狡獪、酷悪、殆んど士君子の共に歯するを恥づるもの少なからざるが如き、氏の人物鑑識の価を下ぐるものあり。果たして然るか。抑もまた清濁併せ飲まんとするもの乎。ことに世の識者が氏に惜しむ所は、現今の如き地位に立ちながら、猶ほ長派との関係を離れず動もすれば自治党創立の時の如き政治的器械の爪牙を示す事是なり。(終)」

『国民新聞』(明治26年8月12日)






明治27年


◎仕事師渋沢氏の宅を騒がす・・・・・一昨日午後三時頃日本橋区兜町なる渋沢栄一氏の宅へ一人の仕事師体の男仕込杖を携えて入り来たり、何か強談に及ばんとせし所を巡査が認めて拘引し篤と取り調べをなしたるに、この者は京橋区新栄町四丁目三番地に住む豊田栄次郎(二十一)という者なるが、一時の酩酊に乗じて只何の気もなく同家に入り込みたる次第なりと申し立てたるにより、厳しく以後を戒めて昨朝放免したりという。」

『万朝報』(明治27年5月29日)



明治28年


◎渋沢栄一子息の結婚・・・・・渋沢栄一の令息篤二は今回花房宮内次官の媒酌にて橋本実頴伯令妹敦子と結婚す。」

『万朝報』(明治28年2月22日)




明治29年



明治30年







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明治31年







◎渋沢栄一・・・・・は深川福住町四番地の自宅に大阪より連れ来たりし田中久尾(二十八九)という古き妾あり。日本橋濱町一丁目三番地の別宅には、元と吉原仲の町林家小亀こと鈴木かめ(二十四)なる妾を蓄ふ。」

『万朝報』(明治31年7月15日付け)






◎同盟罷工と渋沢栄一氏・・・・・前号に報じたる如く王子製紙場の重役等は総辞職をなし、其の会社総会(九月十八日)にて渋沢氏は辞職の理由を述べられたりと。日鉄の同盟罷工は同会社の一大改革を来たし、今亦王子の罷工が重役総辞職に終る。労働者は真に社会改良の先導者なり。今渋沢氏の辞任演説を掲げて読者に一読を求む。氏はこの変革を単に感情に帰す。氏は労働者の勢力を見るの活眼なし。『今回総辞職をなすの不得止に至りし原因は多言を要せず。簡単に言えば或る重役が感情の衝突より其の余波が?ってここに至りしものなり。吾々は会社創立以来重役の任を受けて尽?したる処ありしに、僅かの感情より今回の不幸を見るに至りしは時勢の然らしむる処か、又吾々不徳の致す処か。誠に汗顔の至りなれば、諸君においても宜しく諒察あらんことを望む。尚同盟罷工の顛末は藤山雷太氏より詳述すべし云々。』」

『労働世界』(第21号 明治31年10月1日)





◎渋沢氏・・・・・の工場法反対論は別に珍らしくもあらず。只日本の工業家の度量狭隘にして共に工業の前途を説くに足らず。又この事に就き同氏の意見を叩かんとする者も馬鹿。」

『労働世界』(第21号 明治31年10月1日)






明治32年



明治33年



明治34年










◎渋沢辞退の真相・・・・・渋沢が蔵相たることを辞退せし理由は第一銀行の重役たるが故なりというにあれど、是は渋沢自身の口より出でたる表面の口実に過ぎずして実際の真相は左の如くなりと伝ふ。渋沢が就任の内命を受くるや坂谷芳郎は渋沢に忠告して曰く。大蔵省の属僚は何れも渡辺の財政計画に賛成し居り。もしこの計画にして実行せられずんば一同袂を連ねて去るの決心なり。されば貴下にしてこの際就任あるも到底貴下の意見を遂行すること能はざるべく、従って貴下の就任はごうも貴下の名誉に加ふる所あらずして、却って其の汚点となるに過ぎざるべしと。この忠告を聞きたる渋沢は急に恐慌の念を起こし、この辞退に及びたるなりと。」

『万朝報』(明治34年5月25日付け)





◎渋沢の心事・・・・・渋沢の直談によれば彼が蔵相就任を辞退したるは、其の創立に係わる第一銀行との関係絶ち難きに出づと。第一銀行重きか、国家財政重きか。彼が第一銀行との関係絶ち難きを名とし現下紊乱窮迫を極めつつある財政の局に当たるを辞したるに見れば、彼は第一銀行を重しとし、国家財政を軽しとするなり。第一銀行を重しとし、国家財政を軽しとするは、言い換ふれば自家の営私に汲々として国家の公事を顧みざるなり。経済界の巨壁たりと称せらるる渋沢にして斯くの如しとせば、其の心事は誠に見下げ果てたるものならずや。」

『万朝報』(明治34年5月25日付け)





◎渋沢栄一・・・・・難局を見て避く、彼のためには吾人ひそかに其の分を知れりとなす。然れども彼が生平、経済界の大王を以って居り先進を以って任ずるより見れば、彼はたしかに其の地位をけがしたるものと倣さざるべからず。切言すれば、彼は財政経済の現局に対して無能なるを自白せるなり。時眼を済ふの力量、手腕、識見、気たんなきを自白せるなり。彼の価値信用は今日よりして以降、著しく減滅せむ。世人亦再び経済界の大王、先進を以って、彼を見るなくして可なり。」

『万朝報』(明治34年5月25日付け)




◎渋沢栄一還暦の宴・・・・・渋沢男は本日滝野川邸園に於いて還暦の祝宴を張るそうだが、お目出度いのは一家子孫の繁栄である。男は五男四女を生んだのだが長男篤二氏は早や三人の子供がある。長女歌子は穂積陳重博士に嫁して四男三女を挙げ次女琴子阪谷芳郎夫人には二男五女あり。男孫九人女孫八人皆達者であるとは珍しい限りだ。男が実業界の泰斗として六十一年の生涯一日の如く斯業に尽くして倦色ないのは世人の偉とする所であるが、其の銀行会社等の役員、その他諸般の公職を帯ぶること五十種、教育、慈善団体等の名誉職員たると二十五種、合わせて七十五種の職務を帯びて満遍なく満足を與へ居るのは、実に驚くべき精力と云ふべきである。」

『人民』(明治34年11月23日付け)



明治35年



明治36年



明治37年


◎机の塵・・・・・渋沢栄一という実業界の泰斗、イナ無責任者が其の兼任して居た三十幾会社の重役を辞したのは、全く婿の坂谷芳郎の忠告に出たのだ。坂谷は舅殿が頭取をしていた第一銀行すら大いに整理を要するのに、其れもよくせずに三十幾会社に重役となっていて、他日もし百三十銀行のような破綻を生ずる会社があったら、松本重太郎となって晩節を汚すだろうと苦かんしたので、さすがに無責任の渋沢も始めて兼務辞退を思い立ったのだそうな。」

『万朝報』(明治37年11月8日付け)



明治38年









◎富豪貴族の脱税・・・・・世の実業界の泰斗と称せられ、三井三菱とひとしく素町人より男爵にまで叙せられながら、三十幾会社の重役として天下無責任者の標本たる渋沢栄一氏、また如何ぞ脱税者の御多分に漏るべきや。かの飛鳥山の別邸は、公園地の一部を開き込めるものとして一時は物議の種となれり。而してこの邸地の表面名義は左の如くにして、実に畑と山林とを詐はり置くなり。」

『万朝報』(明治38年1月11日付け)





◎渋沢愈々辞任す・・・・・渋沢栄一は昨年中東京商業会議所会頭を辞せんとしたるも留任を勧告する者あり今日に至りしが、今回愈々辞表を提出したるに付き、会議所は来る二十四日役員会を開きて彼の辞任を是認し、且つ多年会頭として尽力したる労に酬うるの件を決議する筈。」

『万朝報』(明治38年1月28日付け)


明治39年


◎渋沢男の韓国視察・・・・・渋沢男爵は久しく戦後の韓国視察の希望ありしも病気のため遷延し居たるが、いよいよ第一銀行行務を視る旁た実業視察として来月中旬伊藤統監の帰任と前後して渡韓する由。」

『万朝報』(明治39年4月24日付け)





明治40年











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