日本で初めて労働組合をつくった男
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労働運動の理想

「労働運動の理想・・・・・我々にとって自分が人間であるということより確かな事実はありません。小学校へ行くか行かない子供でも自分が人間だということを疑うものはないでしょう。しかるに今更角を立てて抑も人間とは何だなどと言えば如何にも野暮で屁理屈屋に聞こえますけれども静かに考えてみると子供にさえわかっているはずのこの問題が何だか曖昧になってきます。「僕は確かに人間だ。しかし人間とは一体何だ。」と言えば甚だ面倒になります。この面倒な所へつけ込んで色々な人が勝手気儘な振舞をして我々を苦しめたのであります。だから我々がほんとうの人間らしい人間になろうとするには先ずここから考え直さなければなりません。「人間とは何だ」人間は馬でも牛でもない。いわんや機械や道具ではない。それでは牛や馬や乃至は機械は何故人間と違うのでしょう。それはこれ等の物は凡て人間が自ら働く代わりに使う道具にし過ぎません。しかし人間は何者の道具でもないのです。我々は人に使われる為に生まれて来たのではありません。人の得手勝手な目的を達する手段に利用されるために生きているのではありません。私たちは人間として自分自身の生活を美はしく正しく活さなければならないんのです。自分自らが純真な心を以て正しいと思うこと、善と信ずる事は凡て許されているのであります。機械は人間の手足の代わりに働く、けれども人間は自分自らの理想のために働かなければならないのです。これが機械と人間との根本的に違う点であります。固より自分の正しい生活というのは自分勝手な真似をしてよいという意味ではなく、道具や機械と違って覚した批判的な生活をしなくてはなららいと言うことなのです。然らば翻って我々はそんな正しい生活を許されているでしょうか。今の道徳や法律はそんな正しい生活を保護しているでしょうか。御覧ください。世界人類のほとんど大部分は廉い賃金に縛りつけられて命がけで働かされているではありませんか。私たちは溺死せんとする友人を救はんがために生命を賭して奔流の中に飛び込むことを辞するものではない。けれども有り余る資本家の金庫を益々充実させるために、妻子に教育や娯楽はおろか食うものも碌碌食わせず機械同様、奴隷同様にこき使われるということは人間として到底忍び得ることではないのです。之を忍ぶなどとは自分を殺すことです。人間でなくなることです。それは不道徳であり、罪悪であります。こうした不道徳や罪悪が従順とか勤勉とかい美わしい仮面を被せられて、我々を思う存分いじめました。しかし私たちは人間です。資本家や地主ばかりが人間ではありません。否彼らこそ労働者の生命をも金に見積もろうとする人々だったのです。一切の組織は彼らの便利に出来ています。それは人を奴隷の儘にして置こうという組織です。現状維持を標語として新しい社会の建設、新しい文化の創造を蛇の如く憎み牛や馬のように従順な人間を作る事を何よりの目的とする社会であります。こうした社会組織の下において最も残酷な境遇に置かれたものは労働者階級であります。我々は人類全体の為に奉仕したい。新文化の創造に参与したい。けれども、私たちの労働は皆資本家階級の利潤に変形してしまうではありませんか。故に私たちは先ず労働階級の解放を絶叫してやまないのです。我々の解放は即ち固定し腐敗した現代文明の解放に外ならないのであります。この不都合と不正義と不自由とを含む現代文明を解放して始めてそこに新しい自由と平和と創造の世界が生まれます。こうした尊い理想を実現することが我々労働階級に授けられた使命であります。我々は自己のためばかりではない、人類のためにも起たなければなりません。」

『労働』(第九巻第一号)





「◎地球の子労働者・・・・・みんなが大臣になれるではなし、なにもあせる必要はない。大臣というものが余程豪い位だと思うから、なりたくもあるが、一種の事務員だと思えば余り有難いものでもない。大臣病や男爵病も要するに、まだ人間として徹底しないからだ。サムエルジョンソン博士は英語辞書を初めて作った人であるが、こんな事をいうて居る。『どんなでも尊敬を払い得ない人はない。その人が成功すれば、その成功に対して、失敗すれば、失敗に対して尊敬を払はねばならぬ』と。それでジョンソン博士はどんな葬式が通っても、それが赤子の葬式であろうと、非人の葬式でであろうと、必ず帽子をとって敬礼したそうである。人間は人間として尊敬を受くべきだ。彼は屍となっても人間である。敬礼を受くべきである。日本では殺人者の屍も、彼が往生を遂げれば礼拝をする。凡て人間は生きている中から礼拝を受くべきである。それは大尽たると穩亡たると問うことを許されない。凡ての人によって、もし彼が失敗していれば、失敗せる理由によって、人間は地球の傑作である。善にも悪にも地球は人間に負う所が多い。本然において人間は地球の第一の子なのだ。礼拝を受くべき性質を持って居る。地殻を削る人がいる。それは資本家である。彼は支那の山を枯らし、南洋の島々の森林を伐り倒し、熱帯風土は為に焼けつく赤土の沙漠となってしまった。エジプトもこのために亡び、バビロンもこのために亡び失せた。資本家は金のために地球を買った。しかし生産者である労働者は、嘗て地球を泣かせたことはない。彼は耕し彼は植え、彼は常に地球を飾る。それで労働者は地球の寵児である。彼は野に出ると、空の鳥は歌い、獣は嬉々として彼を賛美する。労働者は地を嗣ぐ人である。凡てを礼拝する前に労働者を礼拝せねばならぬ。彼は神の如く地面を歩み何処においても人類を祝福し、貧らず、惜しまず、忍従と克己と勉励と勇気もて人のためにパンを造る。マナは天から降らなくとも、今日は労働者が、ちゃんと朝早く私等のために置いていってくれる。彼は神の如く寛容である。労働者は誇る事なく、街上にその功労を説くことがない。新聞も彼の肖像を掲げないけれども彼はこの原動力であって、太陽の如く、地面に熱を投げる。彼なくして人類は一日として生きて行くことはできない。彼は幸福の泉である。」

『労働』(第九巻第一号)







「労働運動と農村運動・・・・・我々は、今日まで自由を求めるために、幾多の労働運動、社会運動に色々の標語を掲げて来た。「多数は力である。万国の労働者団結せよ。」「優れた質は力である。労働者の解放は労働者自身の力に依ってのみ達成さる。」「労農無産者一致団結せよ。」等々である。しかし言葉は思想の意思標示であるが、一言にして万事を尽くすと云うことは地至難である。されば標語も字句に抱泥しては、折角の精神は死滅してしまう。その意味で今日までに我々は標語、宣伝をしばしば過られた事を遺憾に思う。先に揚げた「多数は力である。万国の労働者団結せよ。」は今日までの所謂労働運動、社会運動の全般的に広く用いられたものだ。けだし「多数は力だ。」と叫んだ時、自分を信ぜず、多数依頼心を起さしめ、ひいては指導者依頼にまで、逆転せしめた。そして「万国労働者団結せよ。」と如何にも世界的一大帝国を建設せんとする、強権共産党あたりで、労働者を踏み台にしようとするには、煽動的な理想のお題目であった。名目はよくても、利害不一致の始めより払う意思の無い、空證文であった。もしも是が理想的に万国の労働者が団結し得るとすれば、それはお互いの間に何の抑制もなく、真に利害一致の事実が保証されなくてはならないのだ。なほまた我々」

『黒旗』