徳富蘇峰





明治のころ、本気でこの国を「働く者の楽園」に変えようとした靴職人がいた!
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徳富蘇峰















徳富蘇峰






















内務省参事官徳富猪一郎
『太陽』(19号 明治30年9月20日)



















内務イタリア国ローマにおける徳富猪一郎氏(左)
『太陽』(19号 明治30年9月20日)


























『時事新報』(昭和32年11月3日付け)




◎徳富蘇峰逝く・・・・・【熱海】明治、大正、昭和三代を通じての評論家として知られた徳富蘇峰(九十四)ー本名猪一郎ーは、山川、川西、折笠三医師の治療もむなしく、二日午後九時三十三分熱海市伊豆山足川の晩晴草堂で長女三宅逸子さん(六十九)をはじめ近親者や、岸首相の代理として見舞いにきていた堀内代議士、大塚同士社大学総長ら約百名の見舞客に見守られながらついに死去した。翁は去月十五日ぼうこう炎を再発し、療養していたが、同二十五日最期を予期したものらしく熊本県水俣市図書館長兼蘇峰会会長中野晋氏を電報で呼び寄せ遺産の分配を行なったり、死後の処理を依頼したという。遺体安置室には長男故徳富太多夫氏の未亡人美佐尾さん、孫にあたる徳富敬太郎氏(三十五)次女徳富孝子さん(六十二)三女阿部久子さん(五十九)ら肉親、知人約百名がつめかけていたが、逝去の知らせに同家には弔慰電報が相つぎ、弔問客が続々とつめかけた。なお蘇峰翁の葬儀は三日、関係者が協議のうえ決めるが、同日午後納棺、午後六時から二時間にわたり近親者の告別を行い、四日正午から内輪の葬儀を営み熱海市市営火葬場でダビに付す。一般告別式場は東京都港区麻布霊南坂教会が予定されている。告別式後遺骨は郷里の熊本市牧之内ほか生前翁と関係の深かった東京多摩墓地、京都市若王子、静岡県御殿場市青竜寺の四か所に分骨される。【略歴】文久三年一月熊本県の阿蘇山麓に生まれ新聞記者を志して十四歳で郷里を出る。旧一高の前身である英語学校にはいったが間もなく京都の同志社に入学した。明治十四年郷里に帰り大江義塾を創立、青雲の志に燃えた翁は明治二十年、二十五歳の若さで民友社を起こし雑誌『国民の友』を発行、二十三年には『国民新聞』を発行、昭和四年まで四十年間にわたる新聞記者生活を踏み出した。思想的には国家主義的傾向が強く、日清、日露、太平洋戦争と常に軍部に協力してその筆を駆使して戦争熱をあおり、とくに太平洋戦争開始前に「必勝国民読本」を出版し本土決戦を唱えた。翁の著述は『国民新聞』主筆として論陣を四十年間にわたって張ったほか「近世日本史」を含め計四百冊、活字にして二千七百三十万字に及ぶ膨大な著書をあらわしている。戦後追放になって伊豆山に引きこもり、「近世日本国民史」百冊の完成に余生を捧げていた。翁は数々の逸話を残しているが何といっても実弟ろ花との仲違いが有名で、血を分けた唯一の弟と数十年にわたって絶交状態を続け、ろ花がひん死の病床についた時、はじめて仲直りをしたという伝説的な話。言論界の大先輩として数多くの子弟の養育にあたりながら信奉者はあっても翁を知り、翁を心から慕う人が案外に少なく寂しい孤独の人としてその輝かしい生涯を静に閉じた。【最後まで勉強忘れず】◇阿部賢一氏ー元産経時事主筆、三女久子さんの夫ーの話。
臨終の時まで意識がはっきりしていました。二日朝酸素吸入をしたころから覚悟していたらしく食事や飲物もとらず、友人、門下生におのおの感謝の言葉をおくっていました。筆一本で立った人ですから財産などはたいしてありませんでしたが、金銭、土地、蔵書など同志社大学に寄付したり、日ごろから跡始末のことを心掛けていたようです。さきごろも丸善から洋書を買って読んでおり、死ぬまで勉強を忘れない人で、一生人に感謝してすごしました。【生きた日本言論史】◇下村海南氏ー元朝日新聞副社長ーの話。私も亥(いのしし)年生まれで徳富さんはちょうど十二年先輩になる。明治の終り、私が朝日新聞記者になったころ徳富さんを知った。既に『国民の友』や『国民新聞』を起し名声かくかくたるもので言論界の先輩として常に尊敬し、また目標にしてきた。まことに偉大な人物であった。生きた日本の言論史でありその功績は大きい。
【翁、最後の言葉】ー静岡ー蘇峰翁の死去について塩崎秘書は二日午後十時半、記者会見を行い、翁は死の寸前まで憲法改正を念じておられたと翁の最後の言葉を次のように伝えた。日頃温情を寄せていただいた各位にお礼を申し上げる。この期に望んでただ心残りは終戦憲法の残した悲劇と皇室と国民の関係で、日本の将来のためにも世界に誇るべき日本歴史を忘却してはならないと思う。国民諸氏のご努力に期待する。」

『時事新報』(昭和32年11月3日付け)



◎徳富蘇峰の時計・・・・・蘇峰実名猪一郎、徳富氏昨年十月二十五日飯田町と四谷の汽車中にて秘蔵の米国製鉄側時計を掏られ直ちに被害の旨訴え置きしが、警視総監は被害者を尊敬するの余り特に専任の刑事を定めて犯人捜査の厳命を伝えたりしかば、受命の白井、関根という二刑事必死に探偵に勤め居たる処、昨年十二月郡代の矢場に入り浸る若者あり。其の挙動いかにも不審なりしを以って引致して取調べたるに、こ奴は横浜石川町一の三十四渡辺清太郎(二十五)という窃盗五犯の前科物にて前期の時計を掏れるに相違なく、且つ贓品は掏りの親分鼈甲勝事深川四十六渡辺勝次郎(四十三)にに売りわたしせし事を自白せしかば、二日の夜勝次郎を捕縛し贓品は被害者蘇峰へ下げ渡したり。蘇峰曰く、原価実に五十円と。而して掏りの売価はたった八十銭。」

『万朝報』(明治37年1月8日付け)








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