福沢諭吉




明治のころ、本気でこの国を「働く者の楽園」に変えようとした靴職人がいた!
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福沢諭吉

















福沢諭吉















左から二人目が福沢諭吉(六明社時代)

















慶応義塾大学部文科講師と卒業生
『太陽』(7号 明治30年4月5日)
















































福沢諭吉









































「福沢諭吉は天保五年十二月(紀元一八三四年)大阪に生まる。旧豊前中津藩士福沢百助の季子なり。年甫めて三歳、父を喪い、慈母に従いて中津に帰り、十四五歳の時、郷里にありて漢書を学び、安政元年、長崎の和蘭通訳某に就きて、蘭学を講習し、翌年更に大阪に出でて緒方洪庵の塾に入る。三年長兄の死に会し、一旦郷に帰り、再び大阪に来りて緒方の塾に入り、日夜蘭学を研究し、業大に進む。五年始めて江戸に来り、鉄砲洲中津藩の中屋敷に塾舎を設け、藩の子弟を教授し、傍ら英書を研究せり。時に年二十五。万延元年正月幕府使節を米国に派遣するに当たり、請うて軍艦臨海丸に搭じて彼の地に赴き、五月帰朝し、程なく幕府の外国方翻訳掛となり、文久元年春欧州諸国修好使の一行に加わり、諸国を巡歴して親しく其の文明の状況を観、翌年帰朝し、慶応三年再び米国に行く。この年芝新銭座に塾舎を新築して移転し、当時の年号を取りて慶応義塾と称し、専心育英に従事せり。当時国内戦乱に際し、学生の中国事に奔走せる者多く、ために二十名に足らざる時もありしも、一日も業を廃せず、かくて騒ぎ漸く治まり学生の増加せるを以って、明治四年三田島原藩邸の跡に移り、益規模を拡張せり。これ今の慶応義塾なり。爾来生徒日に増し、成業して社会に立つ者亦甚だ多し。後学制を改め二十三年新に大学部を置き、以って義塾の首脳となし、更に商業学校を新設せり。又幼稚舎ありて、凡そ幼稚、初等の教育より高等教育に至るまで悉く備わり、独立自治、実際的有為の人物を養成するを以って主義とせり。世に之を三田風の教育と称す。三十四年二月、病んで歿す。享年六十八、翁は王政維新の時に際し、文明を致すは実利にありとし、自主独立を主義となし、国民を啓発して新知識を普及せしめんことを謀り、塾舎を設けて人材を養成し、時事新報を創立し、又唐人往来、西洋事情、窮理図解、世界国尽、学問のすすめ等多方面なる五十余種の著訳をなし、以って新文明の鼓吹につとめ、嘗て幕府の翻訳掛となりし外は、官に仕へず、終始民間に在りて国民の指導に力を尽くせり。明治三十二年教育上の功労を以って義塾に金五万円を下賜せられたるは、実に故なきに非ざるなり。」

『日本教育家肖像』より












◎弔詞(書生・小幡篤次郎)・・・・・明治三十四年二月三日福沢先生病を以って逝く。嗚呼哀哉。先生身体健康精神活発、之に加ふるに固く摂生の法を守り眠食時を誤らず運動惰らず六十余歳の老齢を以って起居動作猶ほ壮年の如し。」

『時事新報』(明治34年2月5日付け)











































































◎福沢諭吉氏の葬儀・・・・・福沢諭吉氏の葬儀は本日午後一時三田出棺麻布十番善福寺において式を行える上、白金大崎本願寺(瑞聖寺の隣)に埋葬せらるべし。行列は慶応義塾普通部生徒、幼稚舎生徒、商業学校生徒、大学部生徒、次に樒三対、それより導師、香炉、位牌(大観院独立自尊居士)銘旗、次に柩にて棺側は慶応義塾評議員一同なり。次に喪主、親戚、柩台にして塾員及び同窓者も皆徒歩して之に随い、それより会葬者の順序にて一万人以上に達すべく混雑を防ぐため車夫馬丁の心附はせずという。」

『東京朝日新聞』(明治34年2月8日付け)
















◎伝染病研究所落成・・・・・芝区白金台町に地をトし昨年より起工中なりし伝染病研究所は既に工を終えたれば、愈々来る三十日同愛国?町よりの移転式を兼ねて盛大なる落成式を挙行する由なり。この伝染病研究所は人も知る如く明治二十五年十一月北里博士が故福沢諭吉氏の賛助を得て芝公園五号地に設立したるにはじまり、其の後当時の愛?町に移転し国庫の補助を得る様になり、専ら伝染病其の他の病原及び予防方法等の研究に従事して着々其の効果を現し漸次発達し行くより遂には政府も国家事業として益々之を拡張する要を認め、去る三十二年四月より官業に移り三十八年四月には麻布区富士見町なる痘苗製造所と芝公園なる血清薬院とを合併するに至り、次第に研究所の狭隘を感じたるより内務省属地なる前記芝く白金台町一万八千六百七坪の地に建坪総数二千九百五十二坪、本館を始め写真室、庶務室、病室等十数棟規模実に壮大を極めたるものを建築するに至りしなれ。研究生は開業医のみにして、常に四十名を以って定員とし、患者はジフテリア、破傷風、腸チフス等を病めるもの十五名を収容し居る由。」

『万朝報』(明治39年11月27日付け)






◎福沢諭吉一万円・・・・・学者か、学者ともいい難し。政治家か、固より政治家に非ず。商人か、未だ純粋の商人とも見えず。曖昧の間模糊の中進む如く退く如く、熱中に冷を説き閙裡に閑を求め出づる如く没する如き中にもたしかに極めて確かに金儲けばかりには一点の油断なき福沢諭吉は我社過日の醵金集中に五十万円と冠らせたるに、今は其の五十分の一を実地に献納する事となりたる代わり一行百円の溜飲を熨斗にせり。説く所極めて卑近勉めて素朴一片丹心又た一ごうの私心欲望を見出すこと極めて難きものありて其の中に存するものある如きを見るものの如し。然りといえどもかの政治の裡に商利を争い商業の奥に政権を賄収し、只儲けることのみを知って偽善にも策略にも国家のためらしき事を実行したることなき輩には誠によき警めの手本ともなれば宜いが、悲しきはづうづうしき奴に付ける薬なき一事なり。」

『万朝報』(明治27年8月15日付け)






◎福地氏福沢氏を驚かす・・・・・文壇に立て共に大名を博したる福地源一郎氏と福沢諭吉氏とは元と横浜にありて交際浅からざりしも、その後往来絶えてほとんど甲信の思いあらしめしに、此の程ふと某所に落ち合いたれば、互いにその無事を祝し昔の懇意に任せて、福沢氏先ず口を開き、足下は元と予の友にて学才共に高く一時は?世の勢いありしも、遂に古へ河原乞食と卑しまれし演劇に力を入れ現時の失敗を取られしは時勢に疎きもはなはだしく、足下のために予の太く惜しむ所なりと微笑みしに、福地氏とりあえず否と。予の演劇に力を入れしは之によって我が国の文化を助けんとせしものにて、所謂臨機応変の明智なり。足下は予が演劇に力を入れしとて卑しまるれど、足下は尚予よりも甚だしきものあるを知らざるか。足下は大倉篠野等の諸氏と古へ河原乞食すら且つ比肩するを恥づる見世物パノラマなるものに力を入れつつあるに非ずやとまくし了りて、また語を継ぎ、しかしながら彼と言い此れと言い共に文化を助くるの意に出でしは同一徹なるべしとて、果ては互いに大笑いせしが、福沢氏もさすがに福地氏の頓才に驚かれしよし。」

『読売新聞』(明治24年1月28日付け)






◎福沢雪池翁・・・・・はかねてユニテリアン熱心と聞きしに、此間は三十の托鉢僧を饗し布施最も厚かりしと。亦是れ衆生勧化の方便乎。南無帰命頂礼。」

『東京日日新聞』(明治24年12月6日付け)






◎福沢翁の諧謔・・・・・議会と立派そうにいうが、詮する処一私塾の学生の闘論に過ぎずと、冷評せりと伝ふ、吾嘗其の真否如何を知らず。又代議士中翁の門下生少なからざるを認むといえども、この言に至っては乃ち容すべからず。」

『東京日日新聞』(明治24年11月27日付け)






◎福沢翁の銅像・・・・・これ近頃慶応義塾楼上広間に安置したる福沢諭吉翁の銅像なり。小幡篤次郎氏の所謂「秀眉隆準、炬眼方口、豁胸長身、寿康の相、活発の気、該博の学、高遠の識、教育の材、経済の策、斉家の徳、処世の知、風生の弁、雲蒸の文、皆おさめて此像中に存す」るもの髣髴として見る可し。像丈三尺四寸、翁の居丈に等しく、横顔尤も能く肖たりと称す。之を建設する者は翁の門下、之を彫刻せる者は大隈氏廣氏。」



『国民新聞』(明治26年11月1日付け)






◎福沢諭吉  平沼専蔵・・・・・福沢氏が西洋事情を著して国家に功労あること学識も多少あることは、唯り慶応義塾連が称揚するのみならず、皆人の知る所なり。故にこの度は否でも応でも引きずり出して候補者に充てざるべからず。若し例の我儘を働きこの貴重の任に当たることを辞するようなれば、是れ君国に尽くす量簡なき男といわざるを得ず。鼓を鳴らし銅鑼を鳴らし木魚を敲いて之を?て可なり。
(平沼氏は学識あることを聞かねども、財産は則ち豊にして随分何やかや功労少なからずと改進党はいえり。又是までに功労なくとも将来は功労ありそうな人物ゆえ差し出せり。)」

『東京日日新聞』(明治24年10月16日付け)






◎福沢諭吉氏・・・・・名古屋発(昨午後六時十分)福沢諭吉氏は本日帰京の途に上れり。」

『国民新聞』(明治25年5月17日付け)






◎福沢翁は如何に小福沢を教育するや・・・・・「明治二十五年十一月五日慶応義塾商業倶楽部の演説筆記」と題して此の頃『時事新報』の紙上に二日間連載せられたるものは福沢翁が其の子弟のために卒業後郷里に帰りて後の心得を示されたるものなり。左に其の二三節を摘録す。翁は先ず「殖産の事業は外に広く人に接することなれども外に交はらんとするには内に居家の法を整えざるべからず」とて一家内を調和し団楽円満の楽を得べきことをいい、而して後村民を教道する方を説き曰く。

夜分など休息の暇に近村の老若男女を招き自由自在に安座せしめて、田舎団子に番茶など進め、その間に主人が出席して演説となく談話となく面白く世上の事情を語り、又殖産等の事実を示し小民相応に居家処世の要を知らしむるは無限の利益なるべし。或は毎度のことにて談話腹案に窮することもあらば、決して新案に及ばず内国外国の新聞紙をそのまま語りて其の義を説けば、それにて沢山なり。主人は唯一夕一二時間を労し団子と番茶の費用固より論ずるに足らずして其の地方民の利する所は如何ばかりなるべきや。

下流人民を化するには徳風を厚くするにあること、其の手段は宗教(最も仏を妙とす)に依頼する一法あるのみとして曰く。

元来老生の考えは自ら宗教を信ずるに非ず。唯これを経世のために利用せんとするまでの目的なるが故に立言の間に往々宗教の本意に戻ることもあるべし。甚だ不都合なるに似たれども、信心は人々の自由に任せ諸君が真面目に宗教を信ずるなり。又は自ら信ぜずして他人の信心を勧るなり。何れにしてもこの有力なる元素を利用せざるの理由あるべからず。

其の仁恵の要を説くや曰く。

或は先祖の法事に菓子を配り、村の祭礼に濁酒を飲ませ、年首の福引、初午に赤飯、中元の餅、節句の甘酒、又或は家翁の寿を祝して老人に衣服を与え、子供の誕生日に村童を集めて遊戯せしむる等、種々の古俗習慣もあることなれば之を怠らざるのみか、益々求めて事を頻繁にして情交の気脈を繋ぎ、相互いに遠ざかることなきの用意こそ大切なれ。」

『国民新聞』(明治25年11月20日付け)







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