板垣退助



明治のころ、本気でこの国を「働く者の楽園」に変えようとした靴職人がいた!
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板垣退助





























危篤の板垣老伯



◎板垣伯危篤/昨朝来容体急変して刻々危険状態に瀕す/夜中邸内大混雑を極め今暁親戚に急電を発す・・・・・先月下旬より感冒に罹りその後気管に異常を呈し廣井主治医、木村博士等の診察を受け芝公園なる自邸において静養中なりし伯爵板垣退助氏は其の後病勢日ごとに亢進して心臓の衰甚だしく昨日も正午頃医師の勧めにより約五百瓦の流動物を摂取したるも容体ますます険悪となり低は見舞い客にて混雑を極め居たるが午後六時頃俄然危篤の状態に陥りたるを以って医師は直ちにカンフル注射を行い夫人令息其の他近親詰め切りて看護に努めたるも刻々危篤に瀕し各関係方面に対して急報を発したれば午後九時半頃原首相を先頭に野田逓相、酒井男、末松、清浦、金子の各子爵及び杉田定一氏等続々と自動車、人力車にて駈け付け十時頃には太刀山の東関なども来たりて病室を見舞いたるがかくて今暁一時頃には更に容体急変したるより親戚なる平塚の小川家等に対し「伯爵危篤」の旨の急電を発したり。然るに其の後二時頃に至り注射のため再び持ち直したるも依然危篤なり。
◎カンフル注射が利いて見舞いの原首相にお礼を述べた老伯/病床で支那問題を心配/◇大江天也師の談・・・・・今暁まで伯の病床にありし大江天也師は上大崎中丸の寓居にて語る。
「私の居た時は昏睡状態であった。伯は平生から『注射は嫌いだ』と云って居たが容体が良くないため十三日からカンフル注射を行った。それを伯は十四日にカンフルであることを知ってもう駄目だと自覚し、それから急に悪くなったということだ。午後九時頃伯は目を明けた。が私の居ることはもう分らなかったらしい。其の内看護婦の勧めで薬は飲んだが直ぐ又目を閉じた。それから注射をした。間もなく十時頃に原首相が見舞いに来た。原氏が病室に通ると注射の効能があったと見え伯は原氏に対して『夜分に能く来てくれた』と厚く感謝の辞を述べ、原氏が帰る時にも懇ろに挨拶をしたと原氏は私に話した。六月十日頃だったと思う。私は感ずる事があって伯を病室に訪ふた。その時伯は『考えてる事があってお前に会いたかった』と云うから『それは何だ』と聞いた。すると伯は『有色人種の一致合同だ。有色人種は彼等から度外視されている』と云うからそれなら皆まで聞くには及ばぬ。私の云わんとしている事もそれであると互いに意見を交換した末『支那が今日のような風では東洋の平和は得られない。その間に野心ある人が我がままをして日本を圧迫する。之を防ぐ上に力を致さねばならぬ』と云い最後に伯は病気全快しだい相携えて原首相を訪ねようと約束した。恐らく之が伯の最後の議論であったろうと思う。」」

『東京朝日新聞』(大正8年7月15日付け)







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伯の看護に徹夜の人々(今暁二時の板垣邸)
右より浅野泰次郎、太刀山の東関、龍野周一郎、山口熊谷、
太田仙太郎、河野廣禮の諸氏


◎板垣伯爵今暁終に逝去/今暁二時令息を枕頭に招きて何事か遺言/何等苦痛の模様なく三時四十分眠るが如くに・・・・・板垣伯は十五日午後も依然昏睡状態にて刻々危険迫り稲田、木村及び廣井主治医の二博士は殆んど詰め切りにて警戒しいたるが、午後六時の容体は体温三十九度六分、脈拍百十二、呼吸三十にして体温更に降下せざるため二博士は不審を懐き種々検診を試みたる結果気管支カタルより既に肺炎に変じいたるものなる事判明し、直ちに応急の手当てを加えたり。尚一方伯危篤の急電に接し急遽郷里土佐より東上せる長男鋒太郎氏も昨夜八時半東京駅着列車にて上京自動車を駆って芝公園の伯爵邸に入りたれば夫人始め一同枕頭に集まり熱心看護に努め今暁一時頃より盛んに酸素吸入等を行いたるも終に其の効なく容体は次第に絶望状態に陥り同二時頃伯は突如『早く早く』と言葉を発したるより枕頭にありし龍野周一郎は直ちに伯の意中を尋ねたるに伯は微かに『鋒太郎を呼べ』と云いやがて鋒太郎氏枕辺に至りしに伯は何事か数語を語り頗る安心せる面持ちなりしが同時に容体は急変し何等苦痛の様もなく家族近親者約二十余名の人に打護られつつ今暁三時四十分遂に逝去せり。享年八十三。
◎臨終の模様/龍野氏の談・・・・・二時頃長男鋒太郎氏が病床に進むと伯は突然痙攣を起され意識次第に不明瞭となったので今は臨終も間もないことと夫人が手づから水を侑め近親の人々も其の盃を分けられ別離を惜しまれましたが同三時四十分終に老伯は眠るが如く大往生を遂げられました。
◎軍人としてもまた一代の名将たる器/奥羽討伐の参謀として奮戦した当時の伯大村以後の第一人者/河野広中氏の談・・・・・戊辰の役に我が旧藩三春は実に板垣老伯の力によって救われたことは私が死んでも忘れる事の出来ない者である。思えば早くも五昔、当時老伯は奥羽討伐の二軍たる東山道軍の参謀として又土藩兵士の総大将として進発行行奮戦を続けて大軍は遂に我が三春城に迫ったが予は夙に勤王を唱えて幼主及び其の叔父等を説き一兵を傷つけずして大義に奉じた。その請いを容れて能く処?を誤らなかったのは実に老伯其の人である。老伯は後に一代の政治家として立ったがその兵を進むるの妙は大村益次郎以後第一人といってよい。奥羽討伐の途次白河から本宮まで十里の間には賊軍二万をかぞえたが老伯は阿武隈の河岸に沿うて堂々その側面を進み二本松に至った。城主丹羽長国は敗れて米沢に走り老臣火を放って遂に落城したのは七月二十九日であったが其の後八月二十日まで三週間というもの老伯は唯一兵をも動かさない。それは胸中深く策する所があったかれで本宮を略した時のことである。予は棚導の役を承っていたが本営の背後の明神山から望むと南方の官軍頻りに退却して市中危うしと見えたから早速本営に走って老伯に会い敵はかくして北二本松の方面から精兵を送って四面から我をやぶろうとするのではないかと味方の配兵を説いた所老伯は聞き終わって「実に怪しからん能く見てとった」と非常にほめられ、その点はちゃんと備えがるけてあるから安心せよと詳しく作戦を語られたが、予は今に至るもこの時の得意をよく思い出す。「怪しからん」とは感心じゃという意味なのである。かくて越後方面からもまた浜街道を通って平に上陸した所謂海軍も来たり会して若松市中は兵を以って満たされたが九月九日の深更市中三箇所から忽ち火を発した総軍驚いて兵を瀧澤峠の麓にに引こうとしたが老伯は飛報に接して馬上第一線に立ち「城を抜くは正に今夜此の一挙に在り一寸も動くな」と号令して夜は白々と明けたが攻撃の命令はなかなか伝わらないので、総軍?しんで老伯を促すと、イヤあの時もし兵を引いたならば城中の者は一斉に市中に現われて糧食を集め、籠城はいよいよ堅く、味方は意外な窮地に陥らねばならぬと説いたので衆皆老伯の智謀に心服した。老伯は実に軍人としても一代の名将として武勲を揚げたに違いない。
◎自由は死せずの一語に飾られた一生/憲政の発達に一身を捧げた板垣老伯/貴族院議員杉田定一氏談・・・・・板垣伯は明治六、七年の朝鮮問題の際議遂に容れられず断然参議の職を辞した。明治十年西郷挙兵の際私は『第二維新』の声に刺激されて東北から東海道を巡歴して土佐に渡ると、恰も伯は潮江の新田に居を構えていたが英雄閑日月ありという様な態度であった。私と伯との間にこの時初めて政治的交渉が始まったのである。当時伯の勢力は四国を風靡しこの頃から日本全国を通じて伯の思想に浴し所謂自由民権の声は津々浦々に波の如くに押し寄せた。然し政府の干渉愈々激しく言論を圧迫したので民権派の議論は更に一層沸騰し、各地に多くの結社が出来たが伯の門下に馳せ参じた立志社が最も有力であった。其の内に西郷が城山の露と消えたが伯は捲土重来、武力失敗に帰せば全国民の公儀に訴えて飽くまでも憲政のために戦わんと大阪に愛国社を新設し国会の開設に向かって輿論に基づき猛進した。其の頃から伯の思想宣伝のため栗原亮一、安岡道太郎、植木枝盛と私との四人が全国を遊説した。伯又親ら五?八道に遊説した結果、明治十三年四月、北野の大融寺に二府二十二県幾万の国士参集して国会期成同盟会を組織して大々的の運動を開始した。然し政府はこの大勢力の団結に対して猶且浪人の叫びにして決して良民の要求でないといって圧迫した。然し鉄の如き伯の意志は遂に達せられ、翌年叡慮によって二十三年に至り国会開設すべしとの詔勅が発せられた。次いで同盟会は伯を総理とする立憲自由党を組織したのである。之に後れて政府を退いた大隈侯が改進党を起した。『板垣死すとも自由は死なず』の語は永久に記念して吾人国民の一日も忘するべからざる標語であるかそは当時伯が岐阜の中教院においての演説の帰途、相原の刄に刺されたる時の国民一般に告げたる勇壮なる叫びであった。かくて国会開会さるるや伯は自由党員を率いて憲政壇上に獅子吼し消極的には政費の節減、民力の?養、藩閥打破、政党内閣の樹立を説き、積極的には軍備の充実と外交の刷新に関し舌鋒鋭く各内閣に肉薄した。その結果今日の隆々たる国運を見るに至ったと云っても好い。伯の人となりは公平潔白で其の間全く私心なく一代華族と階級制度打破を主張した理想家であった。」

『東京朝日新聞』(大正8年7月16日付け)


























危篤に陥れる板垣退助伯






◎板伯危篤/見舞客続集す・・・・・危篤に陥りたる伯爵板垣退助氏は十五日午前二時のカンフル注射にてやや持ち直し同六時には体温三十八度六脈拍百二十呼吸二十六同九時には体温三十八度七脈拍百二十呼吸二十八にて依然危険の域を脱し得ず、きぬ子夫人を始め浅野泰次郎氏夫人千代子、小山文学士夫人良子、小川一眞氏夫人媛子、本山工学士夫人千勢子外看護婦二名は徹宵看護に努めたるも尚ほ疲労の色を見せず枕頭に侍しつつありしが、午後七時楠瀬中将、望月圭介両氏の訪問に際し伯は重き苦しみ裡より目礼しつつありき。やがて大隈侯を始め井上元帥、野田逓相、浅野総一郎夫妻、下田歌子、坂本中将、井上角五郎、井上電気局長、相撲協会の友綱貞太郎の諸氏の見舞いあり。邸内静寂にして?の音も静けし。
◎至誠の人なり/小久保喜七氏談・・・・・「私が伯を始めて知ったのは明治十四年の末栃木県に遊説に行って伯の演説を聞いた時である。明治十五年岐阜で自由民権の懇親会があった時伯は刺客の難に遇ったが其の時私の感じたのは伯は刺客に遇いながら泰然として『板垣死すとも自由は死せず』と云われたことがある。其の時の演説で私は根底から立憲政体の必要と盛んなる民権論に酔はされた。其の後十六年の自由党大会を経て伯は十七年に世界を漫遊して大勢にも通じられたが私は獄中に投ぜられ自由党は解党するという有様で伯との面接が薄かったが明治二十三年議会開会前に旧自由派と九州の進歩党を合して立憲自由党を組織し伯が総裁となって指導した。その間議論の相違はあったが伯が私利に傾倒したこと少しもなく国家に一身を捧げた至誠には感謝した。明治二十三年大いに感ずる所があって政党を伊藤公に託し伯は専ら社会政策に留意したので社会政策の声は天下に鳴り渡った。伯の如きは卓越した明治史上の一人物で政党の組織者として人民の忘れる事の出来ない思人である。尚ほ伯は廃兵や盲人に就いても同情ある運動をし『神と人道』『一代華族論』『立国の大本』などは伯の遺した最後の仕事である。」
◎昏睡の状態・・・・・板垣伯の容態は流行性感冒より肺炎となりしものにて昨日正午は午前は大差なく午後三時には体温三十九度七、脈拍百二十、呼吸三十あり。午後六時には体温一分下り午後八時も大差なく次第に昏睡状態に陥りつつあり。昨日は牛乳五勺とスープ五勺の他鳥スープ、アイスクリームを食せしに過ぎず木村稲田の両博士は十六日朝が危険なりと診断せり。夫人絹子を初め昨夜八時半土佐より急行せる林有造氏、令息鋒一郎氏は徹夜して看病したり。見舞い客は右の外島村軍令部長、河野廣中、大岡育造、江原?六、小久保喜七、東関等にて邸内憂愁の色深し。」

『都新聞』(大正8年7月16日付け)























◎板垣伯昨朝薨去す/葬儀は廿日午前十時芝青松寺・・・・・板垣老伯危篤の報に接したる令嗣鋒太郎氏(五十一)は林有造翁と共に急遽郷里土佐より東帰して一昨夜八時半東京駅に着き自動車を駆りて芝公園の伯爵邸に入り夫人等一同老伯の枕頭に集まり稲田、木村両博士及び廣井主治医の指図にて熱心看護につとめ昨暁の一時頃より盛んに酸素吸入を行ひたるも終にその効なく病勢はいよいよ危篤に陥り短夜は刻々と更け行き、同二時頃に至り昏睡しいたる伯は突然早く早くと呼びたるより枕頭にありし龍野周一郎氏は伯の耳に口を寄せて尋ねたるに鋒太郎を呼べとありしより直に病室に呼び入れしに何事か数語を語りて再び昏睡状態陥り今は臨終も間もなきこととて夫人自ら末期の水を侑め近親一門の人々も交るがわるその盃を分ちて永久の別れを惜みしが十六日午前八時三十分最期の呼吸をふき切って茲に八十三歳の生涯を終りたり。病気危篤の旨天聴に達するや特旨をもって位一級を進めて従一位に叙し旭日桐花大綬章を授けられたり。かくて全く薨去せらるるや近親其の他の手により病室なりし南向日本間はそれぞれ取片付けられ遺骸は北を頭に安置され夫人令嬢令息近親等其他霊前に哀泣し悲愁の気弥が上に増されたり。悲報に接し床次内相を始め島村軍令部長、秋山大将、坂本中将、土方伯、阿部東京府知事、安藤京都市長外八十余名の弔問客踵を連らね午前九時波多野宮相の弔問あり葬儀は廿日引き続き原首相、野田逓相などが参邸して協議の末葬儀は来る廿日午前十時芝青松寺にて仏式により行なう事に決し同時に葬儀委員長は原敬、副委員長に野田卯太郎、委員には岡崎、杉田、村野、森久保、中野、奥野、日下の七氏を挙げたり。尚ほ龍野周一郎氏は昨日午後二時伯の霊前に近親初め知己友人一同を集めて遺言三カ条を発表せしが一には生前の主張を貫徹するため襲爵を願出さざる事、第二には長男鋒太郎病弱のため孫守正を以って家督相続人とする事、第三には家督相続人若少のため成年に達するまで宮内省御下賜金その他は近親にて保管する事を記しあり。
◎相続は令孫か/鋒太郎氏は蒲柳の質/同情すべき絹子夫人・・・・・板垣老伯其の起たざるを自覚するや亡き後は守正(二十)を板垣家の相続人となすようにと一門の誰彼に遺言の如く伝えられしと聞けるが老伯の家庭は令息鋒太郎氏(五十三)同夫人節子(三十九)令孫守正君同正貫君(十七)次男正實君(三十一)長女婉子(四十八)次女千代子(二十七)三女良子(二十五)あるも鋒太郎氏夫妻は郷里土佐にあり正實氏は永年の病身、婉子は小川一眞氏の夫人となり千代子は浅野総一郎氏の息泰次郎氏夫人、良子は海軍大学と慶大の講師を勤むる文学士小山鞆絵士の夫人となれるが嗣子たるべき鋒太郎氏は郷里に帰りたるまま矢張り蒲柳の質にて漸く今回の父伯の病気にて入京したるほどなり。右に就き伯爵家の一人は語る。『別に親族会議を開いたというではありませんが一門のお方が病気見舞いにお出でになった席上で老伯からそれぞれ話があったのです。無論守正さんが伯爵家をお継ぎになるでしょう。芝中学を卒業して岡山高等学校の入学試験を受けに行かれた処を今回老伯の病気となったので試験を済んで十五日に帰京されましたが伯は大変にこのお孫さんが気に入りでした。絹子夫人は社交界にかなり名を謡われた活動家ですが昨年は六一さん(實子)を喪われ今又良人伯を亡われ他所の見る目もいたいたしい程で千代子様が高輪の浅野家から歩いて父君をお見舞いに見られたのが原で流産されたなどは返すがえすも痛ましい事です。』」

『都新聞』(大正8年7月17日付け)







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