東郷平八郎





明治のころ、本気でこの国を「働く者の楽園」に変えようとした靴職人がいた!
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東郷平八郎









東郷平八郎






































































◎東郷元帥薨去/三十日朝七時・・・・・日本の誇りとして全世界の尊敬の的となって居た元帥東郷平八郎侯は病疾の喉頭癌と膀胱結石、神経痛及び気管支炎の悪化により、二十九日午後三時以来危篤に陥り、三十日午前七時薨去した旨午前七時五分海軍省から公表された。享年八十八
◎従一位に叙せらる・・・・・畏き辺では国家の元勲東郷元帥多年の功労を嘉みせられ三十日左の如く従一位宣下あらせらるると拝承する。
元帥海軍大将正二位大勲位功一級侯爵
東郷平八郎
叙従一位(特旨を以って位一級被進)
◎国葬奏請を決定/けふの臨時閣議で・・・・・故東郷平八郎の葬儀については同元帥の輝かしき武勲と多年国家に尽?せる功労に鑑み国葬令による「偉勲ある者」として特に国葬をもって営まれるはずであるが、右に関しては政府、宮内省、海軍側において熟議を遂げた上政府は臨時閣議を開き国葬に関する勅書?請の件を決定し、斉藤首相より上奏御裁可を仰ぐことになっている。しかして国葬に関する経費は更に閣議の決定を経て第二予備金より支出されることになるが、葬儀委員長は海軍側より任命され大角海相、加藤寛治大将の中何れかに決定を見る模様である。尚葬儀委員長、同委員を始め葬儀の式に関する一切のことは国葬令により、すべて総理大臣勅裁を経て定むることになっている大正十五年国葬令制定後同令による臣下の国葬は今回が最初である。
◎臨終の枕頭に海相・・・・・刻々悪化する元帥の病状を憂慮しつつ私邸に徹宵病状の報告を待っていた大角海相は午前五時半元帥邸に詰め切っていた国府田医務局長よりの電話により急ぎ同六時十五分元帥邸に駆けつけ、臨終の枕頭には大角海相、国府田医務局長、加藤主治医以下各医師、家族全部小笠原長生子、有馬大将をはじめ主だった人々全部病室に入り最後の決別を告げたが相前後して入澤前侍医頭も邸内にかけつけ邸内は急にざわめき始めた。
◎加藤主治医の談・・・・・満二十年東郷元帥の身体を見守って来た人ー元帥主治医の加藤直次郎氏は二十七日以来ほとんど元帥邸に詰めっきって治療に当たり元帥も加藤さんが調剤した薬だといわねば服用しないほどの信任ぶりだった。二十七日夜も二十八日夜も深更自宅に馳せ帰り元帥が服用する水薬を調剤僅か五分で慌てて元帥邸に取って返し、甲斐甲斐しく立ち働くのは見る者をして感激させた。加藤さんは語る。元帥は総体的には余り丈夫でない方で終始一貫した節制が八十八の高齢を得させたともいえる位で、持病の膀胱結石は元帥が廿数年前東伏見宮依仁親王に随行して渡英した際発見、手術をしたが其の後思わしくなく以来元帥を苦しめたものです。今度の喉頭癌も昨年来その疑いがあり一月には帝大増田博士に見てもらいそれと確定された時は非常に心痛しました。万一の場合を慮って三月始め元帥には打ち明けず「一寸お手を」と手から血液を三十グラムばかり取調べるとAB型である事が判明したので自分は天佑とばかりに?躍りしたのは輸血の場合はA型でもB型でも好いからだ。又喉頭癌にはレントゲンが好いというのでこれも自分がかねて『海軍の方とも』打ち合わせていたのだ。元帥は全く「至誠一貫」の文字通りの人で、丈夫な時は我々のような者に対してもわざわざ玄関まで見送って来られ「ご苦労さん」と挨拶された。今度なども痛い注射の時にも黙々と微笑さへ浮かべて居られた。全く会えば会う程神様のように思われてならない偉人でした。
◎薨去までの容体・・・・・『午前六時発表』体温三十八度四、脈拍百五十二軟小呼吸五十二、嗜眠状態に陥り瞳孔反応鈍弱、心音微弱となり四肢?冷し冷汗あり。一般状態憂慮にたへず(小笠原長生子非公式発表)『六時十五分発表』脈拍算し難し、未だ僅かに呼吸あり。『六時四十五分海軍省公表』六時二十五分全く危篤。
◎元帥の死を悼む/武人の典型/哀惜に堪えず/林陸相語る・・・・・皇国の元動、不出世の偉人であられた東郷元帥閣下が?かに薨去せられましたことは皇国のため誠に痛惜の至りに堪えません。元帥閣下の偉大なる御武動に至りましては茲に私より故らに申し上ぐるまでも御座いませんが、清廉、高潔、聖者の如き御生涯が如何かに国民に大なる感化をおあたえになって居たか、私は常々武人の典型として敬意致して居りましたことは勿論又一世の大師表として敬仰?く能はざるものがありました。御病?しと伝わるや全国民驚愕、神明の御加護により御平癒を祈願致しましたことは誠に故ある事と存じます。今や、非常時局を前にしてこの典型的武人を亡ひ又現在の世相において此大聖者を亡ひましたことは悲しみても尚余りある次第でありますが、この後は我々は永く元帥閣下の御遺徳を偲びつつ此時?に処し十全のご奉公致さなければならないと信ずる次第で御座います。
◎国家の精神的打撃は甚大/一木樞府議長談・・・・・国?ともいうべき東郷元帥の逝かれたことは国家のために誠に痛惜に堪えません。私が元帥に親しくお目にかかったのは宮内大臣になる少し前でした。皇典講究所長を勤めていた私は元帥に講究所の副総裁をお願いしようと思って親しくお話を伺ったのでした。すると元帥のいはるるには「現役にある軍人の身として軍事以外の事に関係することは慎みたいと思う。宮様などからもいろいろの会に入るようお言葉を賜っているのですが皆お断り申し上げているのです。」といって断られました。私は其の時其のお心掛けに実に感心いたしました。
◎事毎に感激/奈良大将談・・・・・陛下の御信任の厚い元帥のことであり陛下の思召で御下?を賜ったことがしばしばありますが元帥の陛下に対する忠誠に至っては実に感激に堪えぬものがある。お使いに出る前にはいつも打ち合わせて元帥の都合のいい時間に出向くのであるが、私が元帥邸に参ると元帥はいつも軍服を着け、勲章を?びて玄関まで出迎えられているのでいつも誠に恐縮した。私が陛下の御命令をお伝え申し上げる時には元帥は必ず直立不動の姿勢でお聞きになった。そして御下問に対する奉答は元帥が直接参内して奉答されることもあり、私を通じて奉答されることもあったのだが、その奉答ぶりは実に至誠を披露して真に陛下の股?たる??に任ぜられたもので、其の有様を見ては誠に敬服に堪えなかった。
◎一代至誠を以て貫く/鈴木政友総裁談・・・・・「皇国の興廃此の一戦にあり」との固き決心を以って戦った日本海海戦の大勝利は実に東郷元帥の沈着と大胆との成功であった。元帥は実に神の如き心の持ち主で全く??玉の如き人であり一代至誠を以って貫き君国のために奉仕された国賓的存在であった。元帥の持論は国防というものは目標を戦争をしないということに置くべきものである。即ち国防の充実がなければ外敵の脅威を受けて平和が保たれないから国防の充実をはかる必要があるというのである。また元帥は常に軍人は政治に干與すべからずと語ってをられた。東郷元帥と乃木大将とは我国の二大国賓であり乃木大将の気骨は山の如く高く東郷元帥の度量は海の如く広い。先に乃木大将を失い今また時局重大の時に当たり東郷元帥を失ったことは痛歎に堪えない。自分は二十八日元帥を御見舞いのためお訪ねしたところ側近の人から「元帥と深い御関係ですか」と聞かれたが別に特殊の関係はない、ただ国民の一人としてこの巨人をしたうの念を禁じ得ないものである。
◎国賓的存在今や亡し/若槻民政総裁談・・・・・東郷元帥の国家に対する偉勲は世間周知の事実で、茲に申し上げる必要もないが、日露の役日本海海戦において露国の艦隊を全滅せしめ我国の危機を救いたる事実は「皇国の興廃此の一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」との信号と共に、今尚国民の感激に堪えぬ所である。其の後海軍の大御所として帝国海軍を統一したる功績は実に偉大なるものである。今元帥の薨去に会い国家のため痛恨おく能はざるものがある。元帥は人格高潔、国賓的存在として万人欽仰の的となり、慈父の如く慕われて居ったのが今や亡し。国民は非常に淋しさを感ずるのである。
◎海軍の精髄/安達謙蔵氏談・・・・・国賓東郷元帥突然の訃報に接し誠に哀悼に堪えない。東郷元帥の?々たる偉勲については改めて申すまでもない。今や我が国は一九三五〜六年国際的危局に直面し元帥の熟慮果断にまつ所頗る多きを加ふるに際しにはかに薨去せらる。国家のため返す返すも痛惜に堪えない。元帥は人格高潔、軍人の?外に一歩も出られなかった帝国海軍の信頼をますます高めたものであると信ずるが願わくはこの東郷精神を以って永遠に帝国海軍の精神として残されたい。私は八聖殿の落成に際し昨年春東郷元帥から特に揮?を戴いたがこれは八聖殿に奉納して永久に保存し元帥の徳を慕うことにしている。
◎武人の亀鑑/山本内相談・・・・・東郷元帥は国家の元勲であり武人の亀鑑として実に帝国の国賓とも申すべきお方であるのみならず我々の東郷元帥として全国民の敬慕おかざるところであります。元帥の宿?革れる趣を承りひたすら御状態をお祈り申し上げた次第でありますが遂にその訃に接しましたことは邦国のため真に痛惜に堪えません。茲に謹んで哀悼の意を表します。
◎朝な夕な児童に生きた教訓/地元の上六小学校長談・・・・・元帥の地元麹町上六小学校の竹内校長は語る。私の学校は東郷元帥邸の直ぐ隣にあるため児童教育上日本中で一番幸福な学校です。ここの児童は今春入学の一年生を除いては全校生一人残らず幾度か元帥のお姿を親しく拝しており、子供達は元帥を神様の如くあがめています。児童達は一々教えなくても閣下の御病気の時は静かにして元帥に対する一種の礼儀を心得ているなどいぢらしい程です。頑是ない子供達はよく路上に?石などで落書きをするものですが、不思議にも元帥邸の前やこの東郷坂だけは無心の児童も決していたづら書きをしません。落書きしてはいけないと一々教えるわけではありませんが、元帥の尊さというものが頑是ない童心にも自然に深くしみ込み閣下の人格から発する何物かに打たれているのでしょう。元帥は一、二年前までは学校前の公園にも朝など度々散歩に来られ力の入った歩調でゆったりとした態度お歩きになるお姿を児童は拝見しておりその服装の如きも何時も綿服で絹服など?て着られたことがないことや、またあの質素なトタンペイや古びた戸障子などでも児童達はよく知ってをり元帥の身辺は一つとして教訓ならざるはなしです。私の学校では元帥を生きた教材として元帥の偉大さを借りて児童の人格教育につとめておるのです。
◎庭木が大好き/伊東の別荘番語る・・・・・伊東別荘の番人大石義一郎さんは語る。元帥が此方にいらっしゃる時はよく植木鋏を持ってお庭に出られ丹念に植木の手入れをなすってをられました。と思い出を語って涙ぐんだ。
◎ああ東郷元帥・・・・・挙国一致の熱烈な回生の祈願と現代医学のあらゆる手だてと、近親の遺漏なき看護との中に、八十八歳の天寿を全うして、東郷元帥は、遂に不帰の客となった。予てから健康やや勝れず、高齢のため一層その摂生と治療の万全を期して、われひと共に、一日一刻もひとしくその生の長からんことを念じたに拘らず、病いよいよ篤しとの報、ひとたび伝わって、僅かに両三日、再び起つ能はざるに至ったことは、哀悼痛惜の情、殊に切なるものあり。重態の発表が元帥にとっても、国民にとっても、忘るべからざる海軍記念日に当ったことも、奇縁というにはあまりに悲愁の深さを加えたものといわなければならぬ。?き辺りにおかせられては、元帥多年の勲功を思し召され、特に侯爵陛叙の御沙汰を賜った。病床に拝する聖恩の広大は、ひとり元帥の感激のみにはとどまらない。思うに元帥の一生が、千古の史上、稀にみる輝かしい武勲に飾られていることは、ここに改めて記述するまでもないが、特に、かの日露戦役におけるわが海軍大勝の画期的業績は、語りつぎ言いつぎ伝えて、元帥の英名を不朽とするものである。実に、かの戦役こそは、政治、経済、文化百般にわたり、わが帝国のあらゆる機構の上に、一大飛躍を遂げしむる契機となったもので、明治聖代の世界的展開は、ここにその大きな一点をおくのである。皇国の興廃この一戦に在り、各員一層奮励努力せよととのあまりにも有名な数語は、まさに元帥を通じて、当時わが帝国上下の総意を端的に具現したものに他ならない。連合艦隊司令長官として天佑神助を祈念し、独自の作戦に精密慎重を尽したことは、いうまでもないが、更に眼、前敵艦堂々の陣容を迎えた瞬間における、元帥が臨機の果断こそ遂に日本をして、世界列強の中に、更に躍進の一路をたどらしめたともいい得るのではないか。しかも東郷元帥は、ただ単なる「英雄」というべきでなく、帝王の師として、その大任重責を果たした。大正三年四月、東宮御学問所の新設にあたり、一世の輿望を負うて、その総裁に推されたことは、もとより元帥一代の光栄であったと共に、また国民上下の感謝でなければならなかった。総裁としての元帥は、御学問所創立の当初から最後まで、前後七年にわたって、終始一貫、所員総轄の務めに当り、精励?夜、ただ誠心誠意をもって、この重大なる職責に尽くしたのである。あるいは山陰に、あるいは奥州に、または九州に、山海幾百里、各地御見学の行啓にあたっては、常に側近に奉侍して、寸時といえども?従の任を空しくしたことがない。人格の高潔、徳望の博大、その武において、その文において、元帥のごときは、まさに全身的に国家に奉仕したものというべきであろう。更に、元帥の一生において特筆すべきことは、元帥が武人たる一面の限界を堅持して、敢えてひとたびも政治の上に干与するの態度を示さなかったことである。政治の上に干与しなかったのみならず、軍人としての任務以外、その適不適に論なく、一切の世間的事業にも、あづかることを敢えてしなかった。しかもその偉大なる存在と、謙譲にして寡黙なる資性とが、単にわが海軍の上におけるのみならず、国軍全体の上にわたって、無言にして絶大なる統制力となったことは、殊に国民の景仰おく能はざる一大事実といはなければならぬ。生を維新大?の前に享け、死を昭和進軍の後に全くす。八十八歳の寿は、敢えて短しというべからざるも、元帥のごときは、真に百年再び得易からざる不世出の偉材として、その精神は万代の末を光被するものである。まことに元帥の肉体は、ここの地に還ったが、その霊は永く天に通ずる。国民は絶えずわが東郷元帥の偉大なる功業と、意義深き一生とを想起することによって、いよいよますます皇国進展の一途を歩むであろう。「おろかなる心につくす誠をばみそなはしてよ天つちの神」、吾人は今この元帥の感慨を熟?して、天地を貫く護国の英魂を感得体念すると共に、元帥永遠の眠の安らかならんことを祈る。
◎永遠の記念塔三笠/保存会幹部談・・・・・在りし日の元帥に代わってその姿となりその声となって永遠の世界に「東郷」を生かすものは軍港横須賀にその老体を横たえる記念艦『三笠』だ。『三笠と東郷』のこれからについて三笠保存会の幹部で三笠に毎日出勤している?澤町予備役海軍大佐池田武義氏は語る。
三笠を永久に保存する必要は申すまでもないが、只艦を保存するというのみでなく、精神的に生かす事が最も緊要だと考えこの手段、方法について阪谷会長以下全会員が研究精進している次第である。現に東郷元帥が大海戦の時使用された軍服軍帽が保存してあるのをはじめ幾多の記念すべき物もある。とにかく今後記念となるものは草の根わけて探しても三笠の当時の姿を残したいと思う。
◎戦場に仰ぐ威容/部下を思う事厚く熟慮断行の武人/当時の副官松村中将語る・・・・・東郷元帥が連合艦隊司令長官となった頃の大尉参謀であり、軍令部長時代の副官(少佐)であった現石川島造船所重役松村菊勇中将は語る。私が元帥に始めてお目にかかったのは日高長官に代わって東郷元帥が長官に赴任されたときでした。それは明治三十六年十一月の初め、当時艦隊は佐世保に居ったので肥前の武雄までお迎えに出た。平常無口でおられる元帥も酒をあがると非常に心持ちよくお話になる。私の父も海軍の軍人であったので元帥もそれを御承知で色々お話があった後、その頃参謀長だった島村速雄に代わって加藤友三郎が参謀長となり中佐参謀として有馬良?、少佐参謀として秋山眞之と総て新しく幕僚が任命されたので以前から残った
長田副官と大尉参謀だった私とも当然転勤となるだろうと思っていた矢先「貴方にはこのまま勤めて頂きたい」とお話があったので「武人としてこんな有難いことはない。この方のためなら死も辞しない」と深く感銘したものでした。愈々艦隊が出港するという三十七年二月六日元帥は旗艦三笠から佐世保鎮守府の鮫島長官に挨拶に行かれた。丁度桟橋から道路にかけて石炭の積み込みで一面に真っ黒だ。殊に英炭という奴は非常に粉が飛んでその辺一帯先も見えないように煙っているのでお供した私が「傍道から回りましょう」と申すと「イヤよろしい」と運搬の水兵達と肩を並べ突き当たりそうになるのを避けて正道を真っ直ぐに鎮守府に行かれた。二月九日朝には旅順港外の敵艦隊を攻撃した元来要塞下の敵艦隊を攻撃することは、たとひ敵艦に相当の損傷はあるにしても味方の貴い船を損なうのは必定のことなので戦術上禁物とされていた。しかも情報は敵の士気をきじくために是非これを敢行しなければならぬとある。幕僚の中には血気に燃えて直ぐにやろうというものもあったが、元帥はなかなかきかない。出港以来勿論軍服をとかれたこともない元帥は八日の晩はほとんど寝もやらずひとり考えて居られた。第三戦隊司令官からの情報でいよいよ決行となったのは元帥の悲壮なご決心によるものでサッと出て唯一回の攻撃を加えた。唯一回でけである。しかもその効果は甚大であった。私はこの非常な決心を後年戦術講義の教壇からしばしば学生に話して聞かせたものである。さていよいよ旅順港を閉塞しようということになった。この計画は今以って一般には知られていないいはゆる秘史だが、原案は有馬良?、秋山眞之、斉藤七五郎それから私などが主となって樹てたものだった。秋山中将が戦術の大恩人であることは周知の事実だが、当時名参謀として終始東郷司令長官に仕えた。最初は軍艦一?を旅順港に乗り入れて散々攻撃を加えて暴れ回った末爆沈しようというのもあった。運送船に数百トンの綿火薬を積んで港内で爆沈し入港中の敵艦のリベットをすべてゆるめて?ほうというのもあった。兎に角閉塞船を乗り入れて陸上の総攻撃と相?って敵をやっつけようというのであったがどれも決死的な計画である。ところが閉塞船だけを持っていく案を幾ら出しても元帥は「もっと考えろ」といはれて中々採用にならない。遂に駆逐艦水潜艇を後につけて乗組員の収容隊とする案になって始めて「これでよし」と採用になったものである。閣下のお考えでは『万死を出でずという如き計画は自分としては決して出来ない』というにあるのだ。部下を思われる斯くも厚く熟慮の後断行される真の武人として凡人の能くしないところだと私は常に尊敬している。日常の御生活は簡素の一語に尽き恐らく誰も閣下の御趣味知らない程慎み深い生活を続けられた。軍人勅諭の御趣旨をそのまま人にしたような典型的の武人である。私とても元帥の嗜好どこにあるかを知らず、又知る事も出来なかった。唯忘れられないのはどんな部下がお邸に上がっても必ず玄関まで自身でお見送りになる丈夫な頃の元帥の姿である。
◎百発百中の腕より先づ不動の精神/記念艦三笠 大河原副官談・・・・・黄海海戦日本海海戦に東郷大将の幕僚信号長として常に身辺に従い例の有名なZ信号を三笠の?頭高く掲げた今記念艦三笠の副官をしている大河原蔵之助少佐の思い出談ー東郷元帥は明治三十六年十二月二十八日連合艦隊の長官になられたが今までとは訓練のやり方を全然変え或る時部下全員で佐世保の局帽子嶽登山競争を軍神広瀬中佐が乗っていた、朝日が優勝したのを見て「そうじゃろう、朝日には広瀬がいるからな」と当時から広瀬中佐を見込んでおられ軍人精神を以って一貫する部下を激賞された。百発百中の技術も大事だが事に当ってはまづ不動の精神を養わせることに努めておられた。いつも口を利かず?乎としており私なども「うちの阿爺」と口癖にいっていました。連合艦隊は三十七年二月六日午前九時「各艦隊予定の順序に出航せよ」という信号により」

『東京朝日新聞・号外』(昭和9年5月30日付け)















































































































































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