陸奥宗光




明治のころ、本気でこの国を「働く者の楽園」に変えようとした靴職人がいた!

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陸奥宗光


































故伯爵陸奥宗光君
『太陽』(16号 明治30年8月5日)













































◎陸奥伯逝く・・・・・維新の元勲後藤伯逝ってわずかに二旬今また一代の奇才を失う。天何ぞ志士に酷なるや。伯爵陸奥宗光氏は蒲柳の質境に不治の疾を得療養多方、手に手を尽くしたりしと雖も回生の道求むるに由なく昨二十四日午後二時四十五分を以って?然不帰の客となれり。伯は紀州和歌山の人伊達自得の子にして陽之助と称す。少にして慧敏長ずるに及んで天賦の鋭才ますます発揮し鋒鋩当たる可らず所謂剃刀の名空しからず其の肺患を獲たるも亦才のなす所ならんか。維新の際は少壮の志士たりき。後兵庫県令となり地租改正の議を建てて用いらる。西南の役に当たり元老院幹事を以って不軌を図り?露はれて獄に仙台に在ること多年、赦されて忽ち米国に使し以って奇才を外交に揮うの端を啓けり其の条約改正の業を成せる。蓋し伯一生の大功なり。享年五十一歳十一ヶ月春秋猶富めり。天仮すに壽を以ってせば必ずや猶大いに為すありしならんに半百にして早く逝く。あに長歎に勝へんや。伯は其の病の癒えざるを知りつつ却りて国事の経営と談論の風発とに其の?身を委ねたり。病篤きに及び日に侍史をして遺言を書せしむること積んで尺を成せり。??何の奇策ぞや領を延べて伊藤侯の帰るを待ち只二言を以って侯に伝ふべきものあるを嘆じて止まざりしという。垂死且つ国を想うて綿々忍びず。而して遂に一念を達すること能はずして恰も侯が米陸を発するの翌日伯は黄泉に向かって去れり。遺恨千秋嗚呼何等の悲惨ぞや。」

『朝日新聞』(明治30年8月25日付け)

















◎陸奥伯最後の詩・・・・・伯志を得たまたま京都に遊びて詩あり。曰く。
三十六宮春色多 ??曲罷酔流霞 紅?
百丈長安道 金?門頭独見花
是れ数年前のこと。而して爾後また作らざりしという。すなわち伯が最後の詩なり。」

『東京朝日新聞』(明治30年8月25日付け)


























◎陸奥伯薨去彙報・・・・・▲伯の臨終前 二十三日の夜より病勢俄かに革まりしかば、夫人及び令息広吉氏を始め近親の人々病?を??し一昨朝に至り何事か遺言なきやを問いたるも、伯は只頭を左右にふりて何事も云わず、午後三時四十五分に至り眠るが如く薨去せりと。
▲病中の著述 外相を辞して病を養うこととなりてよりは、速記者を招きて外交及び内治に関する伯の実践と意見とを筆記せしめ、伯自身筆を加えたるものありて、遺稿頗る多きも、外交の機密に渉るもの多く、世は発表する能はざるを以って外務省において之を編纂し参考書と為す由。
▲ 葬儀と埋骨 明後二十八日午後二時西ヶ原自邸出棺仏式を以って浅草松葉町海禅寺において葬儀を営み終わって日暮里火葬場において北亡一片の煙となし其の遺骨は親戚故郷の人々之を護して大阪に送り同地天王寺の傍らなる先考の墓側夕陽ガ岡の墓地に埋葬することに決定したり。葬儀の道順は西ヶ原の自邸より右本郷駒込追分町通り帝国大学前通り切通しより上野山下通りの出で浅草松葉町に至るはず。
▲葬儀の準備 原敬川口武定井上勝之助氏等数十名にて部門を分ち諸種の準備を為し居れり。導師は岐阜県犬山も無学和尚之を勤むるはずなれば和尚は本日出発上京すべし。
▲贈花の謝絶 葬儀は荘厳と質素とを旨とし生花及び造花の寄贈は一切之を謝絶する由。
▲畏き御沙汰 畏き辺りに於かせられても伯の薨去を御痛惜あらせらるる由なれば、昨今両日中に勅使を伯の邸に遣わされ何等かの御沙汰あるべき模様なりしやに承れり。
▲早く死んだがマシではないか(子爵の冷評) 陸奥伯は伊藤内閣の剃刀大臣として鋭く切って廻りしだけ、其の敵も多き方なり。?疾容易に癒えざるを以って遠く布哇に渡航して帰朝するや、某子爵は伯を見舞いて其の起居を問いしに、伯は心配気に「ドーモ船から上がるとイケません。船の中では大分快よい方でしたが」と答えしに、元来歯に衣着せぬ子爵の殿なれば「ソーですか。君は海軍の軍人ではないのに船を離れるは身体に障るようでは到底天下の役に立たぬ厄介者だよ。生きている甲斐がないではないか」と冷評せしに、伯も苦笑いしながら「陸奥の身体は役に立たぬが精神は百錬の鉄だ。マダマダ天下の大事に当たるの決心は確かだ」と跳ね返したりしとか。今や伯の身体も精神も共に空し。惜しむべきかな。」

『都新聞』(明治30年8月26日付け)












◎陸奥伯の略歴・・・・・伯の本姓は伊達和歌山藩士伊達藤二郎宗広氏の第六子なり。幼名を牛麿と称す。父宗広氏国事によりて幽閉せられたるを以って母に随うて四方に流離し十五歳にして郷を脱し江戸に来たる。詩あり曰く。「朝誦暮吟十五年、飄身飄泊似飄船、他時争得生鵬翼、一挙排雲翔九天」と。其の志の凡庸に非りしを知るべし。是より安井息軒水本成美等の門に入て文を学びしが尊攘の説四方に起こり天下騒然たるに及んで交わりを四方の有志に求め桂小五郎、乾退助、会澤正志等の門に出入し、又坂本龍馬の知る所となりて勝麟太郎の門に入り、ついで土藩の組織せる海援隊に力を致せり。明治三年三月英京倫敦に赴き更に仏独等の諸邦を歴遊し、翌年帰朝して神奈川県知事となる。地租条例改正は伯の議が容れられたるものにして西南の役朝廷の機密に参じながら密かに志を西郷に通ぜるは伯が一生中における著名の事実なり。事現われて獄に繋がるるや好んで書を読み以って其の識を博ふす。二十二年米国公使となりてより名声大いに揚がり条約改正事業をほぼ完成したるは伯が在世中の最大勲績なり。東洋の俊傑李鴻章と相見て伊藤侯と共に馬関条約を定めたるは伯が最後の舞台にして、その後幾くもなく病に臥せり。」

『都新聞』(明治30年8月26日付け)








◎陸奥宗光伯略歴・・・・・陸奥伯爵本姓伊達氏和歌山藩士伊達藤二郎宗広(一名千広)の第六子にして母は渥美氏幼名を牛麿と称せり。父宗広氏は同藩において家禄八百石を領し大番頭及び勘定奉行等の職に累遷し専ら藩の枢機に当たり藩政を治理する所甚だ多く而して権勢一藩を傾くるに至る。後同藩家老水野土佐守(今の男爵水野氏の父)と政治上議論を異にし遂に其の傾くる所となり家名断絶せられ家老安藤飛騨守(今の男爵安藤氏の父)の居城田辺に幽せらる。この時伯は僅かに九歳。母に随ふて四方に流離す。後十五歳にして郷国を脱す。この時詩あり。
朝誦暮吟十五年、飄身飄泊似飄船、他時争得生鵬翼、一挙排雲翔九天
郷関を出でて後江戸に来たり自ら姓名を改め中村小次郎と称せり。貧困自給する能はず各所に寄食し筆耕僅かに其の口を糊するもの三年此間安井息軒、水本成美等の門に修学し其の得る所甚だ多しという。伯十九歳の時父宗広氏赦に逢うて家に還る。よって一時和歌山に帰省し十年振りにて其の父に会う。幾ばくならずまた江戸に来る。時に徳川氏の末世に当たり天下の形勢漸く騒然勤王攘夷の説四方に起こる。是において伯は蛍雪苦学の志を絶ち交を各藩有志に求めむと欲し長藩桂小五郎(故木戸孝充)土藩乾退助(今の板垣伯爵)水藩会澤正志等の門に出入したるは此の頃の事にして伯が薩藩に潜むの際初めて伊藤俊介(今の伊藤侯爵)に邂逅したりという。当時天下の形勢は伯をして徳川将軍の城下に安居せしむる能はずついに一剣飄然京都に到らざるを得ざらしめたり。伯の京都に在るや勤王攘夷の説のため奔走し始めて土藩坂本龍馬に邂逅す。龍馬伯の年少にして而かも才鋒の鋭利を認め尚ほ其の才をして愈々老成練熟の域に達せしめんとし勧めて当時神戸における勝麟太郎(今の勝伯爵)の家塾に入学せしむ。伯同塾にあって始めて海軍の技術を学びやや泰西の形勢に鑑みる所あり。徒に無謀の攘夷の行なうばからざることを悟れり。幾ばくもなく勝氏は幕府の嫌疑により江戸に召還せらるることとなり其の海軍塾も亦廃しせられたり。よって伯は坂本龍馬等の一行と共に長崎に寄寓せり。是れ蓋し慶応二三年の頃なるべし。然るに海内の形勢は益々危急に赴き幕府の命運累卵の勢いを現し土藩は坂本竜馬を召還して所謂海援隊なるものを組織し竜馬を以って其の隊長に任ぜり。伯亦同隊に属し頗る同隊のために斡旋する所ありしという。坂本龍馬かつて人に対して言う、我が隊中数十の壮士あり。然れども能く団体の外に独立して自ら其の志を行なうを得るものは唯余と陸奥あるのみと。当時伯は更に其の姓名を変じて陸奥陽之助と称せり。維新の前後伯は京都に在り伏見鳥羽の戦端起こるに際し伯が従来の朋友は既に四方に散じ或は若干の兵隊を率いて高野山に拠る者あり。或は党を集めて山陰道に入る者ありしが伯は独り天下の形勢に察する所ありひそかに官軍に尾して大阪に赴き刺を当時英国公使館の通訳官なるアーテスト、サトウ氏(今の東京駐在英国特命全権公使)に通じて以って英国公使バークス氏に面会せむ事を求めたり。其の英国公使と会するや王政維新後の外交における処理につき深く談論する所あり。伯は談判の結果をもたらし直ちに入京し状を具えて之を岩倉公に呈し維新の急は到底開国進取の政策を執るの外他策なし而して其の第一着は先ず当時大阪に在る所の各国公使に王政復古の実を告げ維新経綸の主義を明らかにし以って大いに外交を修むることを努むるに在りとの意を以ってせり。岩倉公は全て伯の所論を首肯しついで伯を挙げ外国御用掛を命じたり。外国御用掛となりたる巳後は在官履歴につくせりと雖も在官履歴は単に其の辞令を掲ぐるに過ぎざるにより更にその重要なるものに就き之を列記すれば大略左の如きものあり。
明治元年正月外国事務局御用掛被仰付
是れ明治元年正月十一日の事にして伯が生来始めて身を責任あるの地に置き国家の公務にあづかるの第一初歩なりとす。時に齢僅かに二十有五にして王政維新兵馬こうそうの間において新政府が最も不熟練なる外国交際の事に従いたるなり。是より先伯は生国和歌山藩を亡命し勤王攘夷の説を唱え常に江戸長崎京阪又は薩長土の間に奔走し或は薩摩の藩籍と称し或は土佐の藩籍と称し以って幕府及び本藩の追捕を避け居たるが故にこの日拝受したる辞令書には土州陸奥陽之助肩書きありたり。この日伯と同職に補せられたる人は伊藤俊介(伊藤侯爵)井上聞多(井上伯爵)寺島陶蔵(故枢密顧問官寺島伯爵)五代才助、中井弘蔵(故京都府知事中井弘)の五氏にして均しく外国交際の事務に当たり大阪兵庫若しくは長崎の間に在勤することとなれり。
同年三月徴士外国事務局権判事被仰付横浜在勤可有之事
この辞令書を拝受したる上は横浜に在勤すべきはずなりしに伯生来始めて肺炎に罹り起臥殆んど自由ならず医師危篤を告ぐる程なりしを以って此の命を拝したりと雖も遂に赴任することを得ず依然京阪神戸の間に在勤し居れり。(未完)」

『東京朝日新聞』(明治30年8月26日付け)












◎陸奥伯薨去彙聞・・・・・
○其の臨終・・・・・栄辱幾波瀾天賦の奇才を以って満身の野心を遣りたる陸奥伯も新秋一葉の風に誘われて名も西ヶ原の露と消えぬ。予てしも日に日に危篤に迫りつれども二十三日までは敢えて異なりたる模様もなく主治医も此の分なれば尚数日を持続すべしと云い居りしがその夜よし病勢大いに悪しく一昨朝に至りては愈々臨終に迫れる模様あるにぞ。夫人を始め令息広吉氏その他の近親より原敬、藤井三郎らの人々まで病?を??し看護の傍ら永訣に際し何か遺言もなきやと問い試みたるも朝来殆んど人事不省の有様にて家人の問いに対しても只だ頭を左右に動かすのみ何事も言わず午後に至りては益々悪しく遂に二時四十五分というに別に苦悶もなく眠るが如くにして薨去せり。伯の病気は危篤に迫りたる後も其の経過尋常にして精神は易?に至るまで頗る確かなりしよりこの間において後事に関する事共は業に既に談話ありしにより永訣の際においては早や何事も遺言なかりしなり。左るにても遂に伊藤侯に得会はざりしは永劫までの恨みなりけめ。又其の薨去は別に余病を引き起こしたるにあらずして自然の衰弱によるものなりという。
○病中の著述・・・・・伯の外相を辞してより大磯の別邸又は西ヶ原の自邸に病を養うや病?の傍らには常に速記者を招き外交内治に関す伯が是まで見聞実践したる事跡並びに意見等を思い出すまま談話して之を筆記せしめ殊に二十七八年事件の前後における外交事情等については最も精密なる談話ありたる由にてこれ等は悉く之を筆記し又伯自身に筆を加えたるもあり。その遺稿は非常に多き由なるも中には外交上の機密に係る事最も多くして世に発表する事は出来ざれど外務省の参考となるべきものも少なからざれば同省にては伯の遺稿を編纂するはずなりと云う。
○葬儀・・・・・来る二十八日午後二時王子西ヶ原自邸出棺仏式を以って浅草松葉町海禅寺において執行終わって日暮里火葬場において北?一片の煙となし其の遺骨に嗣子広吉氏を護して大阪に送り同地天王寺なる先考の墓側夕日が丘の墓地に埋葬する事に決定したり。葬儀の道順は西ヶ原の自邸より右本郷駒込追分町通り帝国大学前通り切通よりより上野山下通りに出で浅草松葉町に至るはずにて到着は四時なるべし。正導師は岐阜県犬山の無学和尚に託する都合なり。尚葬儀は荘厳の中にも質素を旨とし生花造花の寄贈は一切之を謝絶する由。」

『都新聞』(明治30年8月26日付け)


















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