河上肇



明治のころ、本気でこの国を「働く者の楽園」に
変えようとした靴職人がいた!

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「浴衣姿の河上肇博士(昨夜神田関根家旅館で)」

『東京朝日新聞』(大正8年8月9日付け)























「◎河上肇博士街頭に出るか/労農党から出馬説得の使者昨夜京都へ・・・・・労農党では山口県第二区から奥田乙治郎氏が立候補すべく予期していたところ同氏は昨今病床にあって立候補は覚束なくこれがために京大教授河上肇博士の出馬希望を伝えて来たにつき同党では協議の結果一応博士自身と談合しその起否を確かめてからにするがよいというに決し二十七日夜常任委員難波英夫氏は同博士説得のために出発した。」

『東京朝日新聞』(昭和3年1月28日付け)



















「◎四年の鉄窓を放たれ河上肇博士・深夜帰宅す/初孫の寝顔に感無量・・・・・我が左翼論壇の?宿、元京都帝大教授河上肇博士(五十九)が新生共産党事件に連座、懲役五年の刑に処せられて一審で服罪そのまま小菅刑務所に下獄したしたのが昭和八年九月、翌九年春には恩赦に浴して一年三月を減刑され模範囚として三年九ヶ月間勤めたが、いよいよ十五日午前零時で満期となったので同二十分晴れて出所した。この深夜の出所というので小菅刑務所には三十分も前から警視庁の自動車二台が特高課刑事数名を乗せて待機、他に河上博士宅から送られたらしい自働車一台が冷たい鉄の正門に待ち構える。やがて警視庁の一台が綾瀬川に面した裏門に走った。夜風に送られて博士は裏門からその車中の人となり、刑事の厳重な警戒受けつつ堀切橋へ消え、表門に待ち構えた自動車二台は全くカモフラージュのために置いたという周到な警戒ぶりであった。河上博士は車中出迎えの秀子夫人、令嬢よし子さんの夫鈴木重蔵氏及び郷里から上京した令弟左京氏の三人と久方振りの話を交はしながら、午前一時杉並区天沼の自邸に帰った。令嬢よし子さんと女中の喜びに迎えられて玄関を入る博士は、この日わざわざ秀子夫人が携えた羽織袴のの姿で言葉もなく二階八畳の間に消えた。久しく燈のとぼらなかった博士の居間にくつろぎ日本茶を一杯、秀子夫人、令弟や愛婿鈴木氏等と静かな物語の裡に夜の更けるのも忘れ、獄中の博士が楽しみにしていたよし子さんの初孫洵子ちゃんの階下に眠った顔を眺めて無言、一時半にはその二階居間のガラス戸にも白いカーテンが降ろされ、この夜は誰にも面会せぬと、表玄関も固く閉ざされた。」

『東京朝日新聞』(昭和12年6月15日付け)
















「◎河上肇博士(京都発)・・・・・左翼論壇の雄、元京大教授河上肇博士は京都市左京区、、、博士など友人同志による追悼会が行わる。博士は臨終に際し「まだ生きていたかいわれ死ぬる身も」の辞世をのこし、ひで子夫人と?にあたる立命館大学長川末博士に見守られた静かな最期だった。」

『東京朝日新聞』(昭和21年1月31日付け)