田中正造





公害反対運動の産みの親・田中正造



明治のころ、本気でこの国を「働く者の楽園」に変えようとした靴職人がいた!
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田中正造


























明治40年2月に起こった足尾銅山大暴動

『近代百年史』より






















田中正造









































『野州日報』(明治34年12月12日付け)




















◎田中正造氏直訴彙報・・・・・▲現場の模様  大要号外に記しし如くなるが、なお其の詳細を記さんに氏が群衆中より?簿に向かって進むときはさすが恐?に堪えざりけん。気のみ焦りて足の進み意の如くならざるものの如く見えしが、真っ先にこの状を認めたる儀仗兵中の近衛騎兵連隊附陸軍騎兵特務曹長勲八等伊知地李盛氏は?剣を振り翳して氏の御馬車に近寄るを遮らんとしたるも乗馬逸して意の如くならざりしにぞ田中氏はこの隙に乗じて益々御馬車に接近せんとする際御道筋警戒中なりし麹町警察署の尾川彦二郎、高木八五郎の二巡査馳せ付け尾川巡査は氏を後方より抱き高木巡査は襟髪を捉え協力して一旦地上に引き倒し直ちに応援の警部巡査等と共に周囲より厳重に警戒して虎ノ門内派出所へ引致せり。

▲引致後の模様・・・・・派出所にては単に宿所氏名等を訊問せしのみにて間もなく氏を人力車に乗せ警部巡査四名付き添い麹町警察署へ拘引したるも拘留所へは入れず唯応接室の椅子によらしめ数名の巡査をして監視せしめ置き午後一時より石黒警部を立ち会わしめ同署長村島警視自ら訊問に着手せしが午後五時に至るまで引き続き取り調べ中にてその結了を告げるは十一時ごろならんとのことなりき。当日は川淵東京地方裁判所検事正も羽佐間検事を従え午後一時より三時まで同署へ出張して実況を視察せり。


『都新聞』(明治34年12月11日付け)




















直訴状の表紙




















































































































































































































































































明治24年








「議場東北の一隅に轟然議長と呼んで起つものは、人その田中正造氏なるを知る。氏は昨日も例の如くに大喝して起ち、見る間に満面朱をそそいで、髪天を衝かんとす。衆議員顧みて寂然たり。田中氏即ち絶叫して曰く。予は一の緊急問題を呈出せんとするものにして、即ち逓信大臣後藤象二郎氏に説明を乞はんと欲するものあるなり。衆議員相目して事あらんことを思う。田中氏更に声を張り上げ語を続で曰く。後藤象二郎は何が故に其の邸内に曲者を隠くまいしぞと。言終って席に着き溜飲の下がったという面色あり。この時大臣席にありし後藤象二郎氏は猛然として起ち出で言葉を尽くして田中氏をののしりたり。満場?然其の言う処を詳らかにせず、唯狂人狂人の語夥しくあるを聞くのみ。傍聴者相評して曰く。田中は実に衆議院の大久保彦左衛門なりと。」

『読売新聞』(明治24年1月10日付け)






「狂人事件より田中正造は大いに怒り、相手の後藤伯及び同事件に付き氏の行為を批評せし中新聞を訴ふる心組の由にて、氏の代言人は多分角田岡崎山谷の諸氏なりというものあり。」

『読売新聞』(明治24年1月17日付け)










「メール新聞記者より将来のヂスレリーの名を得たる衆議院議員田中正造氏は更に逓信大臣に対し、伯がかって野に在るの日東北七州を遊説し、破竹の勢いを以って大同団結を唱えし時、逓信省の費用は九十万円にて充分なりと断言して当時の内閣を攻撃せし舌根淋漓として未だ乾かざるに、今は内閣に入りて逓信大臣の椅子を占め、而して逓信省の費用を減額せざるのみならざ、却って二十四年度予算案には六百万円以上を議会に要求せるは何事ぞ。伯は果たして前言を食まず漸次逓信費を減じて九十万円に至らしむるの見込みなるや否や、この一点を質問せんと大いに勇み居る由。」

『読売新聞』(明治24年1月28日付け)






◎あつかひ主義・・・・・末松謙澄氏が青木?氏の動議案に対し意見を述べ、何も左様に政府を不親切なり責任を尽くさぬなどと仰々しき議決をなすに及ぶまじ宜しく穏便に取り計らうこそ双方都合よろしからめと言いたるを田中正造氏は非難してさる扱い主義は朋友間に用うべき事にて、決して議場において正々堂々論ずべきに非ずと。」

『やまと新聞』(明治24年2月4日付け)






◎演壇にはお客様があります・・・・・田中正造氏、青木外務大臣に向かって質問を試みんとす。井上角五郎氏は演壇に上ってやりたまえと勧告す。田中氏答えて曰く。演壇にはお客様があります。青木外務大臣微笑して壇を下り、田中氏得意げに壇に上る。」

『読売新聞』(明治24年3月6日付け)






◎選挙せられて演壇に上る・・・・・田中正造氏、角五郎氏に慫慂せられて演壇に上る。喜色満面に溢れ、例の恐ろしき目玉にさえ無量の愛嬌をたたえ、「本員は井上君に選挙せられて演壇に上がりました」の一句を冒頭として演説を始む。」

『読売新聞』(明治24年3月6日付け)






◎田中氏青木外務大臣の言質を捕ふ・・・・・田中正造氏、外務大臣に質問を試む。曰く、外務大臣は昨年の冬、本院において大層ご自慢に演説をせられ、区々るる条約改正なんぞにクヨクヨするは不了見の至りなりと戒められたる程なれば、本員共は安心して対等条約の断行せらるる日を待ちたり。然るに只今御演説にては一時に裁判権税権を回復するは到底望みがたしとの主旨なるが如し。果たして然らば前のご自慢には不似合いなる事にそうらはずや、この儀一応ご弁解ありたしと。青木外務大臣これに答えて曰く。「本官は田中氏の質問については甚だ弁解にくるしみます」云々と知らず大臣はその難問なるにくるしみたるや如何。」

『読売新聞』(明治24年3月6日付け)






◎田中正造氏・・・・・同氏は実父病死のため一時帰省中なりしが、一昨三十日午後九時再び出京せり。」

『東京日日新聞』(明治24年12月2日付け)






「去年の議会に後藤伯と相戦ふを以って一世の快事とせし栃木鎮台田中正造氏は今年はずっと河岸をかえられて後藤伯をば見もかえらず先頃も質問を提出し此度またまた左の質問をなせしよし。
官有鉱山なる小坂銀山は官業中の尤も利益ある事業にして、毎年金十万円内外の収益を得つつありしにも拘わらず、政府は何等の情実ありしにや、之を藤田伝三郎に払い下げたり。其の理由如何此の如き収益ある官有物なるにも拘わらず僅かに金八千円を以って払い下げたる理由如何。右議院法第四十八条により提出候也。
提出者 田中正造 賛成者三十名。」

『東京日日新聞』(明治24年12月24日付け)







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明治25年






◎足尾銅山鉱毒の議に付質問書(質問者・田中正造)・・・・・栃木県上都賀郡足尾銅山は近年工業の盛大を致し、同山より流出する鉱毒は群馬栃木両県の間を通ずる渡良瀬川沿岸七郡二十八カ村に跨り巨万の損害を被らしめ、尚ほ毒気は年を追って愈々其の度を加え、現今に至っては之がために田畑の殆んど不毛に至るものは大凡そ千六百余町歩に及び、その他尚害の及ぶべき土地甚だ多し。加之渡良瀬川堤防の芝草漸次枯死するがために、一旦洪水の氾濫するあらば意外の崩壊を来すべく、且つ渡良瀬川の魚族は頓に其の数を減じ、現今に至っては殆んど其の跡を絶ち、ために漁業を以って生計を営むもの明治十四年には二千七百七十三人なりしに、二十一年には七百八十八人に減じ、現時は殆んど皆無の有様となれり。而して鉱毒の加害は此れに止まらず、引いて飲料水に波及し沿岸人民の衛生を害する等其の惨状実に見るに忍びざるなり。而して這般の惨状を来さしめし所以のものは多年行政処分の緩漫に失したるがためならずんばあらず。就いては政府は更に之が処分をなさざるに付き、明治二十四年十二月十八日第二回議会において右に関する質問書を提出したるに、農商務大臣は同月二十五日書面を以って答弁したり。而して其の答辞書中「被害の原因については未だ確実なる試験の成績に基ける定論のあるに非ず云々」とあり。然れども是唯一時の遁辞たるに過ぎず。何となれば同文中末段に至っては「鉱業人は鉱業上なし得べき予防を実施尚ほ独米両国より三種の粉鉱採聚器を購求し各種合して二十基を新設し一層鉱物の流出を防止するの準備をなせり云々」と陳じ、暗に鉱毒の有害なるを自認したればなり。如此農商務大臣の答辞は前後撞着曖昧糢稜遂にその要領を得るあたわず。然れども渡良瀬川沿岸被害の原因たる足尾銅山より流出する鉱毒にあるは既に掩ふべからざるの事実にして、実地を一見するものは悉く認知する所なれば、学術的試験を要せずして明らかなり。いわんや明治二十四年十二月八日農科大学教授丹波敬三が群馬県新田、山田、邑楽三郡の組織に係わる水利土木会においてなしたる報告及び明治二十五年二月栃木県において出版したる渡良瀬川沿岸被害原因調査に関する農科大学の報告中には左の如く記載しあるにおいてをや。田園被害の原因は土質中に存ずる銅にして其の毒は足尾銅山にありというを憚らざるなり云々。(丹波敬三報告)。(前略)渡良瀬川沿岸耕地土壌の理化的学組織に変状を来たし遂に諸種の植物をして正規の生活を全ふする事態はざらしめたる所以は要するに洪水の氾濫に際し有害なる泥の澱渣混入せしによらずんばあらず云々。足尾銅山採鉱の坑内選鉱所より流出する水は夥しく銅鉄及び酸硫を含有す。而して其の銅及び鉄分は概ね硫黄を包含し粘土質の泥の混含す。又採鉱坑内より流出する水は多少硫酸銅を含有す。全く泥渡良瀬川に流入し其の河川を濁し其の河身を?塞するを防ぐ能はざるは明白なる事実なりとす云々。渡良瀬川の河底に沈殿する泥は植生に有害を含有する所以は此泥洪水氾濫の際田園に澱渣若しくは流入せしに因ること明白にして、足尾銅山工業所排出水の渡良瀬川に入るものは有毒物を含有すること亦事実なり云々(以上農科大学報告)。是れ実に農商務大臣の所謂確実なる試験の成績に基づける定論にあらずや。蓋し足尾銅山鉱毒の有害なるは既に世人の認むる所なり。加うるに今又此学術的試験の成績あり。原因既に顕然たりと云うべし。案ずるに日本坑法第十?第三項には試掘若しくは採掘の事業公益に害あるときは農商務大臣は既に興へたる許可を取り消すことを得とあり。法律の明文既に如此被害の惨状既に如彼其の原因亦既に顕然たるに、政府は尚ほ之を傍観座視し其の処置を緩慢に付し去る理由如何、既往の損害に対する処分如何。」

『国民新聞』(明治25年5月25日付け)






◎昨日の衆議院・・・・・小包郵便方案の議事に移る。後藤逓信大臣登場・・・郵便事業の性質より説いてこの方案の必要なる所以を説明したるが、其の演説は嘗て貴族院においてなせる同大臣の演説と大同小異にして、其の小異なる点は貴族院の修正は政府案よりも更に適当なりとなせしに在り。大臣の演説終るや、一声落雷の如くに起こる。曰く議長。三十一番。之を見れば田中正造氏なり。曰く。従来の慣例によれば凡そ議員より質問書を呈出する時は政府は其の翌日において答弁することとなり居るなり。よって本員は昨日質問を差し出し置きたるにより本日は答弁あることと信じたるに、議長は何の報告する所なし。この事について本員は書記官室に行って取り調べたるに、書記官の言葉によれば、かくの如きことを只今議場に公にせられては困却するから暫らく書記官の手元に預かり置くと、かように申したり。(この所までは氏は緩説徐説処女よりも優しく述べたりしが、弁じてここに至たるや、恰かも波浪の岩礁に砕けたるが如き、百雷の一時に落ちたるが如き声にて)議員の質問議員の重大なる権利なり。決して書記官等をしてこの権利を蹂躙せしむべきものに非ず。議長にしてもし其の事実を知らずとせば厳重にお取調べあらんことを望む。議長。それは取り調べておくべしと微笑婉然。田中正造氏。ナンデ笑うのだ。この会は国家の国会である。嘲弄の場所ではない。と、満面朱を濺(そそ)ぎ目を釣上げて怒りたれば、満場笑い出せしものもありしに、氏はいよいよ怒り、猛獅の荒れたるが如くに睨み回はせり。」

『国民新聞』(明治25年6月5日付け)






◎田中正造氏に興ふ 探玉逸人・・・・・正造君、正造君、天下誤解せらるるもの多しといえども、足下の如きは蓋し鮮なし、世或は足下を以ってそろりの流れとなし、或は腕白者となす。何ぞ知らん、足下は是れ血あり涙ある好漢子。掩ふに滑稽突梯の弁を以ってするもの、しかも自ら自家の長所は、決して長演説、好弁論にあらざるを知り、冷嘲熱罵を以って専務とし、之を以って議院に成功せんとする者、足下それ大英国会のラボセーアなり。大仏国会のロセフホルなり。ラボセーア、ロセフホルの口を開く、二国議会必ず趣を生じ、風を生じ、笑いを生じ、怒りを生ず、二国の議会二人を以って、大波頭上の白波、大潮の来る前兆となす。足下の大和国会にあるそれ実に二人の彼にあるなり。吾足下の名を聞く久し、足下の論を聞くや再昨日を初めとす。足下彼の如き好冷嘲のスタイルを何の処より得来たりし乎。英国保守党の別働隊チャーチルもまた、殆んど足下に優る所なきを見る。嗚呼足下の如き、技量を有しながら、いたづらに新聞記者に笑わる、我足下の不幸を憐れまずして、新聞記者の無識にしてこの好漢を没するを憐れむ。足下それ勉めて怒る勿れ、足下は長くラジカル独立漢として議院に存ずべし。此一人なかるべからず二人あるべからず。」

『国民新聞』(明治25年6月9日付け)










明治26年



明治27年



明治28年



明治29年



明治30年


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◎鉱毒事件演説会(群馬県)・・・・・田中正造、荒川高三郎以下鉱業停止派の諸氏二十六名は去る十五日群馬県新田郡太田町において鉱毒事件演説会を開きたるに、傍聴に出かけしもの一万余人に達しければ、場内は言うも更なり、場の周囲は傍聴人を以って囲まれ、警官二百七十名と憲兵六十名を以って警戒したる位なりしが、弁士が慷慨の語を発する毎に拍手の音は百雷の一時に落つるが如き有様なりしと。」

『都新聞』(明治30年5月18日付け)






◎鉱毒事件演説会・・・・・田中正造氏外三十六名は去る十六日午後一時より足利町に演説会を開きたるに、聴衆二千七百余名あり。この日も亦警官及び憲兵は羅列して警戒せしが、演説中止を命ぜられたる弁士六名あり。一昨日は館林町に昨日は佐野町に開会せしはずなり。」

『都新聞』(明治30年5月19日付け)







明治31年



明治32年


「田中正造は昨日左の届書を衆議院議長の手許に差し出したり。帝国議会議員の資格は歳費の増加によりて保たれ得べきものに非ず。且つ本期議会において国費ごうも減ぜられず増税の議頻りに行なわれたるに非ずや。この時に際し議員たるもの寧ろ自ら節して其の歳費を減ずべく却って之を増加するの理由を見出す能はず。況や本員の如き主として反対の議を唱えたるもの今において之を甘受するの理決して之無きをや。よって茲に歳費の全部を挙げて之を辞す。明治三十二年四月十三日。国民の代表者として議政の任に当たる者、操守ことにかくの如くなるべし。他紛々たる利欲の奴之を読んで何ぞき死せざるや。」

『万朝報』(明治32年4月14日付け)



明治33年



明治34年



◎田中正造の直訴・・・・・?簿堂々今ぞ貴族院を出でたまう。時は明治三十四年十二月の十日午前十一時十分、曇りし昨夕の空の名残なく、晴れ渡りて天津日影うららかに拝観の人々も恵の光に浴しつつあるその折から、貴族院の角をめぐりて霞ヶ関の方へ進ませらる、程もあらせず上院議長官舎脇の拝観中より漠然として現れ出でたる一個の男子こそありけれ。身につけたる外套とドテラとを脱ぎ捨てさま、つと?簿に向かって進みしが年の頃は六十歳ばかり、身には黒木綿の紋付羽織と黒の袴をば着け居たり。彼は「お願いがございます〜」と高らかに呼ばはりつつ美濃板の罫紙四五枚の願書様の物表に「謹訴」と記したるを高く捧げつつ尚も二三間前進したり。こは一大事と傍らにありし一憲兵剣をひらりと抜きて打ち斬らんとする一刹那、先駆の近衛騎兵特務曹長伊地知末盛というが駈け付けしに急劇の際とて落馬したり。折から件の男と同列にて約三十歩ばかりづつを離れて立ち居たる麹町警察署の高木八五郎、尾川彦四郎の両巡査は直ちに之を捕らえ霞ヶ関の通りにありし麹町署長亦来たり合わして、直ちに虎ノ門内派出所へ拘引したり。事一刹那の間に了したれば、鳳?はいささか徐行したるのみ。幸いに何事もなく通御あらせられたり。▲直訴の男は何者ぞ。拝観人の多数も忽ちにそれと知り得し如く、そは前代議士田中正造にてありき。彼の訴状は供奉の誰人の手にだも落つることなくして警官の手に落ちたり。かくして彼は拝観人の散じたる後、人力車に乗せられて麹町警察署に護送されしが、彼はこの際一杯の水を請い得て飲みたりとか。そこには午後一時三十分頃東京地方裁判所より川淵検事正、羽佐間検事、長谷川監督書記、木野書記等の出張するありて、厳かなる訊問ありしが、田中は頗る沈着の態度をもって物狂わしき容子などは更に見えざりし。▲大浦総監の奔走。彼は村島麹町警察署長より顛末を聞き取りたるうえ、署長同車にて総理大臣官邸に至り桂首相に本日の始末を上申し再び貴族院に至り先駆警部を呼び寄せて現場の模様を取り調べしめ、直ちに馬車を警視庁に駆り田中に対する処分を麹町署長に訓示したり。▲内海内相の上奏。内相はかの事ありし後程なく午後零時十分参内の上田中が性行、履歴及び当日の事の顛末をば詳細上奏に及び同五十分退出したりと伝えらる。知らず正造の訴状の幾分は聖聴を汚し奉りしか。▲直訴前の田中 は如何なりしか。彼が六十一歳の高齢を以って尚ほ鉱毒事件のために代議士の職を辞し、世より狂人視さるるまでに熱中しつつありし事は殊更に記す必要もあらざらん。一昨々日彼は終日深く考え静に書類を調べ居り、その夜も十二時過ぎまで書類を被閲し居たり。尚一昨日は終日書物に時を移し午後五時ごろ呉服橋外なる柳屋の鉱毒事件弁護士の相談会に列席して例の慷慨淋漓たる演説を試み、七時ごろ帰宿したるに九時半ごろ鈴木阿源という二十五六の婦人小児を負い来たり、二十分ばかり話を続けて帰りたり。田中はその子に柿をば与えて還せしという。かくて其の夜は十時ごろ床に就き、昨朝六時頃起き出で女中をば走らして朱肉を買い求めしめ、七時半ごろ芝口二丁目五番地の車宿武田惣平方の車に乗りて立ち出でしが、それより直訴の時間まで殆んど四時間は如何に時を費やせしか分明ならず。買い求めたる朱肉は訴状へ捺印するに用いしものか是も分明ならず。▲田中以外誰も知らず。彼は一時に事に熱中するがため、何事も極めて独断なりき。代議士を辞せし時も然り。或他の大事を決する時も然りき。さればこの度の事も何人にも計る事なく鉱毒事件のために上京し居り、眠食を共にしつつある左部、小関等もごうも知らざりし由にて、この事を聞くや驚きて其の筋へかけつけたりとぞ。この外記すべき事尚ほ多少あれば更に記す事とすべし。▲見舞い人。事の鉱毒事務所に聞こゆるや、群馬県下被害十二ケ村に向かって電報を発したれば、邑楽郡西谷田村の村長荒井嘉平衛長男嘉栄が直ちに出京し、この他在京の者及び弁護士等麹町署へ出頭して田中を見舞いたるもの少なからざりしが、其の姓名は一々記さず。▲田中正造帰さる。田中は麹町警察署において一通りの調べを受けし後に、素より逃走の憂いもなく且つ老年にもあれば追って沙汰するまでは引き取りて謹慎し居るべしとの申し渡しに午後七時三十分ごろ左部に伴われて芝口の鉱毒事務所に引き取りたるが、是より先き判検事も別段関係すべき事件ならずとして三時ごろ麹町署を引き上げたれば、田中の身は目下の処被告にもあらず、只謹慎して後日其の筋の審議によって沙汰あるを待ち居るのみといえり。」

『万朝報』(明治34年12月11日付け)






◎臣民の請願権・・・・・田中正造が聖駕に直訴せんとしたる一事は世の好奇者の耳目に激感を與えたるが如く、随って其の非難紛紛々たり。然れども吾人は不敏にして未だ田中の非難すべき理由を発見する能はずして、唯田中の心事の甚だ憐れむべきを悲しむのみ。田中の心事は世多く之を知らん。鉱毒被害民を救はんがため、其の一家を捨て一身を捧げ、尚は足らずして其の老婦も亦日々奔走し尽瘁せり。田中がかつて衆議院議員たりしも唯この一事に尽くさんがためなりき。頃者議員を辞せしも亦之がためなりき。其の寝食ただ此の一事に存し、之がため生き之がために死す。而して政府省せず、議会顧みず、滔々たる世の学者、宗教家、新聞記者等亦多くはいわゆる鉱毒問題を解決する勇気なく、直ちに鉱毒の竟に不治の症たるを断じて被害民を諭し諦めしむるの勇猛心もなく、又素より政府を促して至当の救治策を立てしめんとも力めず、田中たる者ここに至って果たして如何すべきぞ。ただ空しく天に向かって号哭すべきか。田中はよく其の尽くすべき所以を尽くし終れりというべし。鉱毒事件を処分すべき職責ある政府に向かっては、既に請願し督促し尽くせり。議会に向かっても亦請願し演説し絶叫せり。世の先覚者に向かっても亦百方して其の同情を求め、其の政府議会を動かさんことを求めたり。しかも政府は唯明治三十年足尾銅山にある工事を施さしめしの外、何の施設する所あらず。議会も亦淡然として馬牛相関せずとす。田中たるもの寧ろ忍ぶべけんや。即ち悲痛の極、村民が大東京に出でて政府に請願せんとするや、目するに兇徒を以ってせられ、永く囹圄に投ぜられて、民の流離し疾駆するもの益々甚だしく、天寒うして衣るあたわず、年豊にして餓えて食うあたわざるものいよいよ益々多からんとす。この民のために一命を捧げたるもの茲に至って??裂せざらんとするも得べからず、それ既に其の道を尽くし、理を尽くし、義を尽くして而して一も省せられず、田中なるもの寧ろ空しく?天に号哭す可けんや。吾人は信ず。人生茲に至って唯だ天に訴え仏神に訴ふるの外なきことを。幸いにして我が国民は至仁至慈の皇室を奉戴す。?天に号哭して而してついに天皇陛下に直訴せんと欲するに至ること、まことに日本帝国臣民の至情なることを。是れまことに我が日本の日本たる所以にして、仁慈なる皇室と忠誠なる臣民との関係実に斯くの如きことを。田中のなせし所は即ち斯くの如きのみ。その心事憐れむべくして憎むべき所なし。悲しむべくして怒るべき所なし。抑もまた何の非難する所ぞ。且つ臣民に誓願の権あること、陛下の定めたまえる憲法の條章に昭々たり。故に我が臣民は村長郡長にも、県知事にも内閣にも、総て請願する権を有す。法律によれば議会請願を受理するの職権あり。故に臣民亦茲に請願する権利あり。而して、天皇陛下に誓願することを許さざるの法令あることなし。吾人は親任官が陛下に咫尺して直奏するの特典あることを聞く。然れどもこの制限は官吏にして然るのみ。無位無官の臣民が直ちに陛下に請願するを禁ぜらるるの法令あるを聞かざるなり。我が憲法法律の多く範を取れる欧州の君主国においても、其の臣民は君主に直接請願する慣例多し。直接に郵書を帝王に奉贈するあり。聖駕出遊の途次、天顔に咫尺して願意を奏するあり。毎月幾多の不敬罪者を生じるドイツにおいても実に斯くの如きなり。英国においても斯くの如きなり。特に故英国女皇の如きは、みずから好みて多く臣民の直奏を聴取せられしがために、徳望極めて高かりき。我が臣民の皇室を敬すること甚だ深く、幾んど近く可らずとするの風あるも、列聖尚ほしばしば臣民に直接して其の訴願を聴かせたまえり。先考孝明天皇の如き殊に然りしにはあらずや。明治聖代の臣民にして何ぼ独り天皇陛下に直訴し奉ること能はずとす可んや。それ皇徳は天の如く覆はざることなし。地の如く戴せざる所なし。雨露の如く潤うはざる所なし。而して臣民の皇室を敬愛し奉ること赤子の慈母におけるが如し。もしこの間に鴻溝を尽くして臣民直ちに天皇陛下に請願すること能はずとなすものあらば是れ実に臣民を離隔するなり。聖明を??するなり。民意の上達を障げするなり。不臣是より甚しきはあらず。田中の直訴、臣民の義において果たして何の点にか昔戻の跡ある。既に道を尽くし理を尽くし義を尽くして、一も達すること能はず。悲痛の余り、ついに聖駕に縋りて泣いてこの民の願いを聞かせんとす。是れ臣民の至情にはあらずや。吾人は寧ろ田中をして茲に至らしめたる政府及び議会の放漫を責めんとす。嗚呼ついに至仁至慈の陛下を煩わし奉るは誰の責めぞ。」

『万朝報』(明治34年12月12日付け)









明治35年


◎田中正造被告事件・・・・・田中正造官吏侮辱事件は昨日午後三時より控訴院刑事第三号法廷に開廷せしが、事実の審問だけにて三時四十分閉廷し、証拠調べ及び弁論は追って時日を定め開廷することとなれり。」

『万朝報』(明治35年3月20日付け)





明治36年



明治37年



明治38年


◎田中正造釈放せらる・・・・・田中正造、左部善次郎外一名は殴打事件の被告として収監せられたる事は去る二十四日の本紙に記せしが、一応の取調べ附きたるものと見え、翁は一昨日釈放せられたり。尚近々公判開廷せらるべしというが、定めし傍聴者の多き事なるべし。」

『万朝報』(明治38年7月27日付け)






◎田中正造翁内務省へ押しかく・・・・・例の鉱毒被害地の被買収反対派の頭領田中正造は被買収賛成派の運動やや盛んになりそうになりたるより自身出馬の必要を感じけん。昨日午前十時谷中村民十数名を率いて内務省へ出頭し土岐書記官に面会陳情をなし、更に吉原地方局長に面会を求めたれど是は拒絶を受け引き取りたり。」

『万朝報』(明治38年8月4日付け)








明治39年


◎予戎令を受けたる田中正造翁・・・・・鉱毒問題を以って有名なる田中正造翁が去る八日郷里栃木県安蘇郡字小中旗川村百六十にて予戎令を執行されたる由は当時の電報欄内に掲げし如くなるが、我社は其の真相を確かめんために一昨日社員の一人を同地に派して親しく翁を訪はしめぬ。翁は目下下都賀郡谷中村村民の危急を救はんとて日夜四方に奔走し、足を郷里に留むるの暇もなく宿所常に一定せざれば、社員は其の後を追うて同日午後四時頃、ようやく谷中村の落合熊吉方にて面会することを得たるが、先ず其の扮装はと見てあるに例の丁髷頭にぼうぼうたる白髭は変わることなけれど黒木綿の単衣も、同じ木綿の紋付袷羽織も、幾年の雨と風とに曝されて赤く見ゆるまで色褪せて汚れ果て、毛じゅ子の袴は裾も襞も切れ切れとなれるを見るにつけても、これまでに重ね来たりし辛酸もさこそと思われて、漫ろに同情の感に禁へざるものありし。翁は快く社員を迎へ先ず堤防の切れたる状況をご覧に入れんとて朴の一本歯の下駄に青竹の杖を突き先に立って案内されたるが、行く先々へ巡査は側を去らず付き添い来たりて翁と社員との談話を一々洩らさじと手帳に書き留め居たり。翁は先ず語って曰く。『今度受けたる予戎令の大要は、第一が他人の開設する集会に立ち入りて妨害をしてはならぬとの命令、第二は財物を強請するとか、脅迫がましき書面を送るとか、他人の進退意見に干渉するとか、他人の業務行為を妨害するとか、斯かる種類の悪事をなしてはならぬとの命令であるが、自分はこれまで一度も斯かる行為に出でたこともなければ、又この後とてもそんな事をする気は微塵もない。県庁の方でこそ、ヤレ麦を蒔いてはならぬの、土手を築いてはならないのと、百姓の妨害ばかりをして居るが、自分のやって居るのは正々堂々と政府の仕事を攻撃するに止まるのだから、今度のような予戎令を受ける理由はちっともない。要するに予戎令の執行はこの田中正造を驚かさんがためではなくて、其の実人民を驚かし人民を騒がし、田中というやつはもう此処にはおられぬぞ、こんなやつの言う事を頼みにするなといわぬばかりの威嚇に外ならぬのだ。何を言うても朴直な百姓の事だから万一この手に乗っては大変と、自分はそれが心配の余りに斯く処々へ駈け回って其の事を説いて歩くのです。この谷中村の住民も段々と買収されて、今残っているのは二十六戸に過ぎないが、この人達は、どうしても外の村へ移るのは嫌だと言うので、自分もこの村民の在る限りは決してこの地を去らぬ考えである。一人もいなくなれば最早致し方もないが、それまでは断じて去らぬ。役場の人達は六月いっぱいにこの村を全滅してしまうなどと公言して憚らず、人民の事は何とも思っていないようであるが、これは官吏としては実に不都合な話だ。元来この谷中村は三百町歩の田畑があって、政府の方からは圧制的に土地を買収するやら、堤防の築造を禁ずるやら、苗を蒔かせぬやら、あらゆる迫害を加えたにも拘わらず半分ほどの収穫を得るに至ったのは全く天道様の助けと言ってもいい。天道様が助けたから政府の方でも愈々仕方がなくなって今度は予戎令を執行したと見えますハ、ハ、、、、』と百折不撓の元気依然として盛んなりし。」

『万朝報』(明治39年6月13日付け)






「此の程予戒令を執行されし田中正造氏は去る三日栃木県谷中村にて村長職務監掌として出張中なる下都賀郡書記鈴木為三氏を指し、この男は盗賊なり巡査さん逃がしてはいけないと言語と形容を以って侮辱し、鈴木氏に告訴されて去る五日拘引されたり。」

『万朝報』(明治39年7月8日付け)






「田中正造氏の言動往々矯激に過ぐるものあるは吾人も之を知る。然れども其の志や元と憂世済民の上に存す。愛すべきを見るも憎むべきを見ず。あはれむべきを見るも咎むべきを見ず。栃木県の当路者之を是れ思わず、却って氏の熱烈なる反対運動を煩わしとして律するに予戒令を以ってし、次いで更に官吏侮辱罪を以って之を問はんとするに至りては、何人も彼らの偏狭、固陋、冷酷に過ぐるを想はざるはなかるべし。」

『万朝報』(明治39年7月8日付け)









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