新渡戸稲造


明治のころ、本気でこの国を「働く者の楽園」に変えようとした靴職人がいた!

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新渡戸稲造

















前列向って右から二人目が新渡戸稲造





















逝ける博士と最後の便り



◎新渡戸博士客死/カナダのヴィクトリアにて/わが代表的国際人・・・・・パンフの太平洋会議に出席の帰途病を得て当地のジェビリー病院に入院加療中であった新渡戸稲造博士は横隔膜部の腫物を手術した結果が思わしくなく容体にはかに革まり十五日午後八時三十五分ついに逝去した。享年七十二。手術後輸血が必要と聞き日本人の間から多数の希望者があったが丁度第三類の血液型の人がなく輸血を行なわないうちに長逝されたのであった。臨終の博士は重態ながら何らの苦痛も訴えず英人医師も看護婦もいづれも修養の深さに驚嘆していた。
◎世界的に有名/故博士の多端な生涯・・・・・『国際的政治家・学者』というのが故新渡戸稲造博士の全貌である。博士は盛岡藩の出身で文久二年九月に生まれた。明治十四年札幌農学校を卒業してからしばらく開拓使に出仕、更に東京帝大専科に修学の後アメリカに渡ってジョンス・ホプキンス大学を卒業、引き続きドイツのボン、ハレ、ベルリン各大学に農政農学経済を専攻した。帰朝した少壮学者新渡戸氏はまづ母校札幌農学校教授を振りだしに北海道庁、台湾総督府各技師、京大法科大学教授などに歴任して新知識を植え付け明治三十二年には農学博士を、又同三十九年には法学博士の学位を授けられ同年第一高等学校長のイスに納まった。この頃からの博士は時の波に乗って或は東大農科の教授に或は法科教授にと学者的地歩を保ちつつも次第に政治的手腕を認められて大正九年国際連盟事務局次長の専任に推された。国際的学徒としての博士の該博な知識はここに傾倒された。大正十五年貴族院議員に勅選せられ田中内閣の当時議会において優詔降下問題で独自の立場から大演説をなして貴族院を感動せしめたことも世人の記憶に新である。近年は女子経済専門学校長、鉄道青年会長、大毎東日両新聞社顧問等をしていた。太平洋会議に出席して専ら国際間の感情融和日本の国情紹介に力を尽して日本の最大の国際人であったことは余にも有名で殊にその著英文『武士道』は各国語に翻訳され日本精神を海外に紹介する所多大であった。博士の語学に堪能なこと、学?豊かな事も肩書きの二博士以外にアメリカのプラオン大農法学大博士ジュネーヴ大学の名誉学位社会学博士、帝国学士院会員など無数の証明が雄弁に物語っている。なほ万里子未亡人は米国フィラデルフィア名門ジョゼフ・エルキンストン家の長女である。
◎九月八日夜が最後の大演説会/鶴見祐輔氏談・・・・・博士の愛弟子だった鶴見祐輔氏は語る。
去る九月八日の夜、バンクーバーで開かれた三十人位集まった西欧人の小パーティで新渡戸先生は演説をされた。私もその場に居合わせて聞きましたが実に一時間半の大演説だったのです。どうしてあんな長い演説をされるのか、私は不思議に思ったが、今にして思えば虫の知らせで、生涯のをさめの演説をされたのかもしれない。その話は満州問題を大所高所から観た「偉大なる民族は西に向かって広がっていく」という言葉を引かれ、日本は満州に向かって行くのは民族の運命で水の流れのようなものだと論断された。更に民族と民族とは文明とか文化の立場から本当に理解せねば世界平和は出来ぬものだと東洋文明論をやり、七十二歳にもなりなすべき仕事も終わったのでいつこの世を去ってもいいが太平洋を中心に立派な文明を建設してもらいたいと結び、この未来の文明の予言のような大演説会には聴衆は非常な感銘に打たれた。このことはいかにも先生をよく物語る話だと思う。又先生は世界平和を唱えられる一面には非常な愛国者で、外国で日本の悪口を言われると顔色を変えて怒るくらいだった。先生は実に昔の日本と新しい日本とのいい所を併せ持っておられたのだ。大の排日家だったカリフォルニア労働組合書記長のシャーレンバークの如きも博士に会ってからは心境の変化を来たして親日家になったほどである。
◎寂しい留守宅・・・・・小石川区小日向台町の新渡戸邸には養嗣子ジャパン・タイムス主幹孝夫氏、同夫人琴子さん、令孫成城中学部四年誠君(十六)同女学部二年武子さん(十四)が留守番して一家打ちしめっている。十六日夕刻孝夫氏は語る。
糖尿病の方も次第によくなるという便りに安心していましたので母から死んだという電報を今受け取って驚きました。父から来た最後の便りは九月三日付けの絵葉書で、それには元気だとありましたが・・・・・
尚故博士が日本へ送った最後の絵葉書には次のように書いてある。(原文英語)
ビクトリア・ビーチ・ホテル、三十三年九月三日、パンフ会議も無事に終わったので喜んでをります。ほっとした気です。日本の財政貿易状態も、よりよく諒解されたと信じます。私も丈夫です。11月末には、ニューヨーク市内或は郊外に落ち着く積りです。
I・S」

『東京朝日新聞』(昭和8年10月17日付け)




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