尾崎行雄




明治のころ、本気でこの国を「働く者の楽園」に変えようとした靴職人がいた!

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尾崎行雄
































外務省参事官尾崎行雄君
『太陽』(19号 明治30年9月20日)













































翁の最後をみとる(左から)行輝(一人おいて)品枝、
後方相馬雪香の諸氏










◎尾崎翁やすらかな臨終・・・・・咢堂翁の臨終はまったく「静かな死」というのにふさわしいものだった。六日夕から容体の急変した翁は少しも苦痛の色はなく九時二十二分息を引き取るときに父の名を呼んだ長女清香さんの声に静に微笑をうかべたそうである。咢堂の母堂貞子さんが「死ぬときにはニッコリ笑って死になさい」とその昔翁に告げたことがあるそうだが、その遺訓どおりに咢堂翁は安らかに死んだ。秋雨にぬれる逗子の風雲閣は、翁が生前愛した庭の樹々がいたむようにざわめくだけだった。」

『東京朝日新聞』(昭和29年10月7日付け)









◎静かな微笑浮かべて母堂の遺訓どおりに・・・・・「逗子発」?翁死去の報は七日午前零時すぎ、まだ関係者以外には知らせられなかったので逗子の人たちは翁の死を知らず町は静かだった。尾崎行輝氏から内報を受けた逗子警察署長富田喜太郎警視、同署次席加藤善太郎警部が臨終直後の九時半かけつけたのが最初の弔問客だった。大正十五年三月から翁に付き添う、身辺の世話を続けていた服部ふみさん(五二)の話では臨終の模様は「四日から食欲がなくなり、五日は何も食べず、六日は牛乳五十グラム、紅茶百グラムをおとりになりましたが、六時ごろから眠りはじめ意識不明になり、九時近く呼吸が早くなり、亡くなられる二分くらい前呼吸が止まりかけた時には、ほんとにいい笑いを浮かべた静かなご臨終でした。先生は五月末までは乱闘国会などを新聞で読んで心配され、一時は内乱の夢まで見るほど、新聞を毎日待っていられたほどでした。六月のはじめから新聞をお読みにならなくなり、お考えになることも少なくなった模様でした。」と語った。
◎白い手を胸に・・・・・八畳と六畳をぶち抜いた寝室、尾崎さんは手を胸の上に固く組んで横たわっている。石川啄木が「白い手」と歌ったあの白い手だ。品のいい、しかし厳粛な顔。ホオはいくらかこけているが、白い髭が形よく整って、まるで生きているようだ。服部ふみさんが亡くなってからそったのだという。マクラ元に大輪の菊の花が無造作に飾られている。可愛がっていた飼い猫の「シロ」が部屋のすみでちぢこまっていた。「いい気持ち、いい気持ちっておっしゃっていたのが最後でした」服部さんがいう。大往生である。足元の壁には与謝野晶子の短ザクが二枚、ほかにだれかの桃色の短ザクに書いた「湘南の天の岩戸は開かれて日の本国は晴れわたりけり」とはってある。母校慶応大学の創立記念日にとった元気なころの写真がにこやか。八王子の後援者から?木本幸吉翁と一緒に贈られたという車イスが一台、今は乗せる主もなく、ピカピカと車体が光っている。「ただ一度、七月三十日でしたか、これに乗って玄関前まで行かれたのが最後でした。庭に花もなく、眼を楽しませるものもなかったけれど、ありがとう、とおっしゃいましたっけ」と家族たちは語る。隣室では記者、ラジオ録音斑など報道陣が四、五十人つめかけ、電話連絡が不便なので雨の中を出たり入ったり、明け方近くまで連絡にあわただしい風景を描いていた。
◎きょうお通夜/築地本願寺で・・・・・尾崎行輝氏談 不便なところであり、お騒がせするとご迷惑をかけるのでだまっていたが、実は二、三日前から、もう眠ったきりでした。亡くなったときの手配だけはしたが、七日午後六時築地本願寺でお通夜をします。墓は北鎌倉円覚寺にしております。一言でいえば父は自分で好きなことをやり、皆さんの好意に囲まれながら幸福な一生を送ったと思います。まあまあ百まで生きたいと言っていたので、それだけが残念で・・・・・。
◎腸悪く元気衰う/長尾主治医談・・・・・二十七年一月翁が肺炎で倒れてから私は一週間ごとに通っていた。本年六月ごろ腸が悪く下痢をしてから元気が衰えて来た。十月四日朝に至り食欲がなくなり、心臓が弱って来た。ビタミンAと強心剤を注射していたが、今度ばかりは持ち直す気配がなく六日午後三時ごろ牛乳と果汁を二百グラム飲んで一時間後に意識不明になり、九時二十二分死去された。臨終は安らかで、何の苦痛も訴えなかった。」

『東京朝日新聞』(昭和29年10月7日付け)
















◎尾崎翁の思い出/徳富蘇峰氏の話・・・・・「熱海発」尾崎行雄氏と八十年来の交わりを続けていた徳富蘇峰氏(九一)は七日朝熱海市伊豆山の「晩晴草堂」で、政治家として日本の発展に貢献したことは別として議会人として憲政のために輝かしい足跡を残したことは最大の功績だろう、と次ぎのように尾崎氏を語った。
○尾崎君の父親と私の父は熊本県の役人をしていて知り合いの仲でであった。また母同士が当時家内工業として織物の講習会などを開いて回っていたので、尾崎君との交際を始めたのはすでに八十年前になるだろう。尾崎君はわたしより年が上だったが、彼の弟に行隆という人がいてこれが熊本幼学校当時私と同じクラスだった。明治十九年ごろ東京に出てからまた尾崎君との交際が始まったが、尾崎君の親が私の父に「あなたの息子も近頃いい文章を書くようになったが、うちの行雄の書いたものは文章に実があり、あなたの息子のには花がある」といわれたのを聞いたことがある。尾崎君とは政治の立場が必ずしも同一ではなかったが、互いに親しくしていた。
○尾崎君は大隈派の人で福沢先生の紹介で二十代で新潟新聞の主筆となり、すぐ呼び戻されて統計院権少書記官になったが、大隈について役人をやめ、改進党の有力な闘将になった。大体あまのじゃくな人で、人に雷同したり、迎合したりしない。人が右と言えば左と言い、時代が文明の方法を追及しているのに尚武論を唱えたり、日露同盟論を書いたりして意表を衝くようなことをやった。憲政会が出来て文部大臣となり、共和演説でやめたのもこのためと思うが、共和演説は日本のデモクラシーを唱えたもので、もしそうなったらという仮説が批判の対象にされて辞職するような結果になった。伊藤公が政友会を作る時一番最初に入党したのも尾崎君だったし、真っ先に脱党したのも彼だった。犬養と並んで憲政の神様などといわれたが、二人の行き方はまったく違った。相撲にたとえれば、犬養は部屋に座っている年寄りで、子分や弟子を養い、これに相撲をとらせる。尾崎君は彼自ら相撲をとる方で親分も子分もいない一人一党だった。自分の意見によって動き、利益や欲望では動かなかった。このため議会をはなれれば陸のカオオアだったが、壇上に立って憲政の功績を残し、議会の声価を上げた。
○彼は明治二十年末だったと思うが、保安条例で東京を退去する時後藤象二郎の馬車を借りて東京中を乗り回し、市民に挨拶をして去っていった。また野坂参三ががいせん将軍のように帰国した時、野坂は熱海の知人の別荘にいた尾崎君を訪れて説得にかかったことがある。うまい言葉で説得しようとしたらしいが、尾崎君はその手に乗らず、彼がついに立たなかったことは自ら止ることを知っていたものと思う。死ぬ前に名誉議員となり、肖像を掲げられたり、議会を代表する議長の病気見舞いを受けており、生前に国葬以上の優待を受けていて思い残すことはなかっただろう。」

『東京朝日新聞』(昭和29年10月7日付け)







◎絶筆は七月の色紙/今夜のお通夜に飾る・・・・・尾崎翁の絶筆は去る七月七日、病床に仰向いたまま筆を運んだ「不怨人不恨天」(人をとがめず、天をうらまず)おサキゆキヲと色紙に書いたものである。この日付き添いの服部さんが「きょうごきげんがおよろしいようですからお習字をなすっていただけませんか」とすすめたところ「ウン」と答えて同文のものを二枚書き、前からたのまれていた五明忠一郎氏に一枚おくり、一枚は服部さんの手もとに残された。今夜本願寺で行なわれるお通夜にこの一枚が絶筆として飾られるという。」

『東京朝日新聞』(昭和29年10月7日付け)






◎咢堂翁、無言の上京/きょう午後、築地本願寺へ・・・・・咢堂翁の遺体は近親者らに見守られ夜を徹した。夜来の雨あしが激しくなる中を七日早朝から報道陣の往き来もあわただしい。相模湾を見はるかす病室のベッドに富士山の方向に翁は白頭を向けて横たわっていた。十貫匁にも足るまいと思われるほどやせきった遺体の上に懐剣が一ふり、まくらもとに一束の菊の花と七つのリンゴが飾られている。山盛りの供物も花も花輪もない。簡素だがしかし端正な空気だ。正式な葬儀は一切東京で行なうことになっているので政界名士の弔問は少ない。。」

『東京朝日新聞』(昭和29年10月7日付け)



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