なるほど、靴の歴史【明治時代】


日本で初めて労働組合をつくった男

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 明治時代の靴の歴史にまつわる【トピックス】を一挙公開!



 あの動乱の明治維新の後、政治体制が近代化するとともに、日本には
欧米諸国からさまざまな舶来品が輸入されるようになった。

「西洋に追いつけ追い越せ」という意気込みのもと、当時の明治政府が掲げたスローガンは
「文明開化」と「富国強兵」だが、そのシンボルのひとつとなった
舶来品が、洋靴であった。

それまでの草履や下駄の生活から、見たこともない洋靴に移行するわけだから、
そこには滑稽とも思える珍事や失敗が繰り返されたようだ。
しかし明治時代の先人たちは、みごとにそれらを乗り越えながら
西洋化を実現してきたのである。


このコーナーでは、明治の人々が体験した「靴の文明化」にかかわる
興味深いトピックスを、当時の新聞記事の中から
ピックアップしてみた






明治時代の文明開化



明治時代のハイカラ(文明開化)の伝道師は帰省中の学生






商用会話(靴師)



「いらっしゃい何が御入用ですか

靴が一足入用ですから寸を取て下さい

いつ迄に出来上がりますか

一週間の終りに送ります

一所に長靴をして下さい

余り狭くしてはいけません

夫は御気遣いに及びません

半靴が一足欲しいね

半靴は今一つも持合せません

併し是はよからふと存じます

めして御覧なさい

ウム是はよい

是は私にかた過ぎる

あの長靴を見せなさい

あれはあなたの足に太過ぎます

大したお急ぎで無ければお誂へ通りにこしらへます

そふするが一番よさ相な」

『日本之商人』(第九号 明治21年6月15日)














この頃の天気につき靴とオバーシューズ間の争議

労働者オバーシューズ

「こう毎日休息与えられない労働を強いられては人道問題だ。
俺は尻がすり切れて来た。
靴!お前が綺麗になっておられるのも俺のお蔭だぞ。だから・・・」



資本家靴

「わしが無ければお前の仕事も無い訳だ。

だから・・・」


















ワーグマン作

「文明開化 下駄から靴へ」










明治時代の女学生

『靴の事典』(靴商工新聞社)より









『読売新聞』(明治43年2月27日付け)













「連隊の表と裏」
『万朝報』(明治41年8月30日付け)










ポリス、ヨコハマ
『THE FAR EAST』























製靴の始祖 聖クリスピー兄弟

『新選日本製靴大観』より






◎靴の利害・・・・・西洋室に住居して常に靴を穿てば出入には至極便利なれど一利一害は到底免れ難き者と見え之がために足を痛めまめ症に悩む者多し。今ロンドン府警察本部の報告によるに、まめを治療するための或る売薬商は一軒にて一千六百五十名の売り子を使用し居り。一人の売高は毎週平均六円に及ぶがゆえ一週間の売り上げ高は九千九百円にて、まめに悩む者一人に付き平均六銭の薬品を買うとするも其の員数は十六万五千人の多きに及ぶべし。ましてや、まめを治療するは単に右の薬品に止まらず又右の薬品とても単に売り子の手のみを経て売る者に有らざるのみか、まめを悩む人の中にも其の苦しみ方少なき者は勿論斯かる薬品を買わざるべければ、靴を穿つがために、まめに悩む者の実数は右に挙ぐる所に倍数すべし。」

『郵便報知新聞』(明治20年5月5日付け)







◎青年自殺を謀る・・・・・牛込破損町一番地靴職青山兼五郎方にて
昨年の秋召抱えたる深川区東大工町六十一番地士族
大八木李善(五十二)の二男天野国太郎(十九)は
去る十九日無断にて主家を去り翌日午前九時ごろ
親許へ行き主家にて近日暇を出す様子故逃げて来ました
というを親爺不審に思い主人方へ連れ行き様子を聞けば
少しもそういうことはないと言われ
親爺は後来を戒めて帰りしに如何なる訳にや
国太郎は同日午後一時前裏手の共同便所にて
細工小刀を以て咽喉をつき朱に染まって苦しみいたるを
近所の子供が発見しその筋の検視を受け
傷口を三針ほど縫い目下治療中生命危うし。」

『東京朝日新聞』(明治26年3月22日付け)






『読売新聞』(明治20年8月2日付け)



◎かずかず・・・・・、、、▲近頃水死する人の多いは驚く程なり。
京橋区築地三丁目十三番地、内外用達会社の靴職工
金子富五郎(三十八)は浅草今戸町八十番地に住み、
家には女房と二十歳と十七歳との娘があるに、
一昨日の午後四時頃築地明石町地先の海中にて
泳いでいるうちコムラ反りがして溺死。」

『東京朝日新聞』(明治26年7月25日付け)





◎米国の革と靴・・・・・米国皮革界の近況につき新帰朝者佐渡秀光氏(日本皮革技師長)の談大要左の如し。
▲米国陸軍の靴、出来合いもの、見るに足るべきなし。米国の製靴業は大部分機械力を使用し、価格の差異は手製の一足七十八ドルに対し機械製は三ドル位。ボストン市ドーグラス会社は一日二万五千足にして同国随一の製靴力を有するが、用皮は主にカルフォルニア皮、底皮はテキサス皮なり。製皮会社にしては一日一千枚を産出するニューヨーク市ユナイテッド、レザー会社を第一とすべく、日本への輸入は主としてペンシルベニア市コールマン、サルツ、レッドウード市フランクの両会社これに当たる。」

『万朝報』(明治43年2月22日付け)








『東京パック』より
「親父が田舎で鎌を磨く時、せがれは東京でハイカラ靴を磨く」


















路上靴直し

『皮革産業沿革史上巻』より











陸軍製靴工場

『近衛歩兵第三連隊写真帖』






日本製靴株式会社の製甲工場

『皮革産業沿革史上巻』より








岩倉具視一行、サンフランシスコにて

中央のチョンマゲ姿に羽織袴を着て靴を履いているのが、岩倉具視。
右より大久保利通、伊藤博文。
左より木戸孝允、山口尚芳。









◎明治の初年・・・・・洋服のはやり始めしころには如何に誤りけん。靴は歩くにつれて音の発するを善しと致し、『鳴り革』などと称しわざわざ一種の革を底にはめてまでも音を発さんと勉めたるものなり。現時は固よりかかることもなけれど、誠に転倒したる話にて、彼の地の作法にては靴の音のいたすは甚だ好まぬところなり。フランス人の物語に覚ふ。『かつて日本に遊びしに最初本船よりハシケに移りて陸に近づきたる時、日本なる国を始めて見るとともに第一に奇異不思議に感じたるは岸上を往来致し居る男女が都べて歩くにつれ其の足の下にて一種の音楽を奏しながら徘徊せる一事なりき。』との話あり。なるほど靴にてさえその音がたつは上品の礼とせざる風俗の中より来りて、かの立派なる婦人士君子の遠慮もなく駒下駄、足駄の類をカラカラコロコロとひき鳴らし往来するを見なば、驚きたるも無理からぬ事と存候。」

『郵便報知新聞』(明治19年10月10日付け)












迫り来る条約改正を風刺

「こんなあんばいに踏みつけられては、条約でなくって、
コンニャクだと人が言うたろう」










『読売新聞』(明治34年7月1日付け)









ビゴー作

「模範はドイツ」










『神戸又新日報』(明治32年8月6日付け)






東洋製靴場(民間軍靴製造所)





『滑稽新聞』(絵葉書「いろいろのはきもの」)










フランス靴履きメリケン帽子イギリス上着で開化ぶる『団団珍聞』(明治19年9月25日・563号)
靴も履かざるによくすべるは口『団団珍聞』(明治19年11月13日・570号)
破れ靴は手を入れてから足を入れ『団団珍聞』(明治20年3月5日・586号)



○珍発明靴の売り出し/安房屋楽史

○窮クツ・・・官員様方勤め向きによろし
○卑クツ・・・気概の無いぐつぐつした方によろし
○偏クツ・・・十人並みより一風流違った人によろし
○理クツ・・・代言人などが履きてよろし
○退クツ・・・国会願望者の御用によろし
○巌クツ・・・山坂などを歩行するに適す
『団団珍聞』(明治20年484ページ)



○理靴・・・・・コレコレその方はこの営所へ何用あって来たか。
「ハイ、会計の御掛りより履物の御注文がありました故その御沙汰をつくねんとしてここに待っております」
「ハハア、それは隊靴ぢゃ」
『団団珍聞』(明治20年3ページ)








ロシア政府から受注された軍靴の山

『靴産業百年史』より









ビゴー作

「旦那様、お足の具合は・・・」



















ビゴー作

「お年玉に貰ったブーツを履いて」





















「草履屋から靴直しへ変化」

『団団珍聞』(明治19年7月10日号)

























『実業の栞』





















明治時代の靴直し

『風俗画報』(東陽堂発行 明治25年12月)より


















「三越、靴部開業」

『日出新聞』(明治40年10月12日付け)
















◎新発明『靴車』・・・・・此れは此の頃横浜にて、十二三才位の少年が、靴の下に結い付けて、市中を走り歩ける車なり。平地を行くには人力車よりも速く、自転車よりも危険無しという。ステッキに刀を仕込み、帽子に鏡を付け、今、又靴に車を付ける世の中、未だ帆掛車の出来ぬぞ不思議なる。代価は一個一円八十銭より二円五十銭まで。一つ買って試み給え。」

『日出新聞』(明治25年11月27日付け)






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◎製靴職工/小僧と親方との関係・・・・・靴の製造業は、之を製造する職工と、職工を雇って製造せしむる製造家とになって居ります。而して其の製靴職工となるの道は、製靴職工の徒弟となり、年季奉公を勤むる間に、実習の功を積む一途有るだけであります。製靴職の徒弟は、十四五歳で入り、徴兵適齢までを期限として年季の契約をなすこと他の徒弟の振合と大差がありません。首尾よく此の年季を勤め上げた暁には、其の親方より証明書ようのものを與へます。之を有たぬ者は、同業者間で雇用せぬことに、靴工同盟会で規約を結んで居ります。で、もし、中途で飛び出した徒弟などは、自然、東京では仕事を得がたいことに帰着します。昨日今日雇い入れた普通の職工では、親方でも、さう自由に使われません。然るに、子飼の弟子ならば、仕事を言い付けるに、自由がききます。小言を言いましても、言い甲斐があります。その辺の関係で、小僧を養成する人も有るのであります。病気その他の厄介もあり。親方たるも、なかなか楽では無いそうであります。
◎靴職工の美風・・・・・総て職工と名のつく者は、今日の現況、概して品性修まらず、友人の衣類を借着して、それを七つ屋に曲げ
るなどは、別に珍らしくもありません。ところが、靴の方の職工は、奇なる原因のために、その品性概して良好、他の普通職工とは大いに異なるそうであります。奇なる原因とは、即ち桜組の関係であります。本国製靴事業の祖は、西村勝三氏が、明治初年に陸軍用の靴製造を創めた桜組であります。西村氏は、もと総州佐倉の藩士で、旧士族授産事業としてその藩主に説き、この業を創めたのでありました。レ・マルシャンという外人を教師に雇い、藩士の食えなかった人と、養育院内の不幸の少年を集めて職工となし、その業を伝習させたのが日本の製靴の始まりであります。かく、最初の職工は士族上がりでしたので、その系統を引いた今日の職工も、なお他の満身刺青だらけの普通職工肌の人々とは自ずからその品性を異にし、気質温和、恥を知るの美風がありますマルシャン派の仕事は、今日まで、多少其の痕跡が残って居ります。即ち、革をすくに、メスを用ひて居るのがそれであります。本邦従前の革工ー馬具工などは、革をすくに、角庖丁丸庖丁を用いたものであります。ところへ、メスの使用が伝わり、靴工にも双方行なわれておりましたが、今日まで約四十年の間に、古来の庖丁が追々繁盛しメスは次第にすたれて仕舞いました。しかし、老年の職工の間には、尚このメスを使って居る者が、多少あります。
◎靴職工の給料・・・・・今日の、製靴職工の給金は、東京市内の相場、日給八十銭から一円三十銭止まり位のものであります。諸物価は、之を、十年前に比べますと、何れも騰貴し、中には倍額になって居る者さえあります。然るに、靴工の賃金だけは、他の物価の騰貴した割には騰がらず、居すわりではないにしても、僅かきり騰がりません。これ、追々、世人に、靴の知識も付いて来て、小売店で靴を一足買う客も「これはキットにしては、肌が悪いではないか」など言う程で、小売も昔ほどは儲からぬようになりました、其の結果として、制作費を殺さざれば成り立たず、職工が其の犠牲に供せられて居る様な次第であります。
◎靴の機械製と手工製・・・・・各種の機械を据え付けて、靴を製作します方は、比較的素人職工で間に合います。大抵は機械が働いてくれるのでありますから、熟練という処が、一部分に必要なだけで、其の他は、思いの外素人で済む部分が多いのであります。其の実例は、陸軍の被服廠内で使用して居る製靴部の職工は、数百人に上りましょうが、実際手製の腕をもって居る職工は、僅かに指を屈するに過ぎません。機械製は、概して大資本を要します代わりに、生産費を省きますから、同一の種類のものを、多数に要望する軍隊靴の供給等には適します。が、一足一足種類の異なるものを欲する、本邦今日の靴界の現況では、尚手工が機械に対するだけの利点を有して居ります。先年、某大きな靴商店が、大資本をおろして、機械を据え、華々しく製造を始めましたことが有りましたが、忽ち大破綻」を来たしてしまいました。この原因の、何れにあったかは分りませんが、全計画が突飛過ぎたためではあるまいかと、しまして居た当業者がありました。機械を入るるにしても、漸を追うて入れればよかったが、全部を一時に入れましたから、不熟練の職工の製品が、どしどし出来上がりました。出来がまづくとも、売り出さない訳にはいかず、之を売り出したので、一番に味噌を付けてしまったらしいというのが一つ、又其の機械の選択が当を得ず、旧式のひどい物をはめられたためではあるまいかというのが一つ。それらのものが総合して、失敗となったらしいのであります。人間には、シャレ気の無い者は無いのでありますから、いくら機械製で値が安いにしても其の型が、余り色気の無いものでは、好評を取りがたいのであります。この辺はすべての工芸家の玩味すべき廉でありましょう。
◎職工の独立と不独立・・・・・さて、靴職工として、年季を勤め上げた者の、独立法はどうでありましょう。余の業務に比較しますと、製靴業は、資本金のいらぬこと、それはそれは驚いたものであります。百円以内の資本で、靴製造を始めること容易であります。東京神田に、大きな靴工場主があります。そこの主人は、折に触れては、職工を集め演説をなして、聴かせますが、其の主意は『いつまでも、他人に使われて居る様な、意気地の無いことというものはあるものか、平常少しく心がくれば、独立自営の元手位は、直ぐ出来ようから、何でも、独り立ちになって一身の運命を開かなければならない』というようなことを、訓示するのが常でした。その故かして、其の工場に勤めた職工には自立した者が沢山有ります。又、芝区にも、大きな靴工場があります。工場も古く、人数も常に二百人近く使用しておりましょうが、これは又前と反対に、この工場に勤めていた者で、自立して靴店を開いた者は(老衰して工場を退いた者は格別)せめて一人もあるまいとのことであります。なぜそうだろうと、探ってみますと、こっちの工場は、成るべく、職工を変わらせない、主義にしてありますので、職工の足を縛る手段として言いなり次第に、賃金の前貸しでも何でも、出来るだけ、之に応じます。その結果は、職工の懐をして常に寒からしめ、自立の余裕が出来ないのだそうであります。他の工場に出て、優秀の職工で永く勤続しますならば、それも結構であります。只、常に貯金の無いがために、やむを得ず永勤する様では、老後の方法が思いやられます。
◎靴のサイヅ及び種類・・・・・靴の種類及びサイヅは、製作上にも、販売上にも、重要のことになっておりますからここに、目下極普通の種類を挙げて見ましょう。
形の種類
男子用、普通の靴の形としては、左の五種であります。
▲編上▲深▲一枚深▲変型▲短(半靴)
女子用のものも、
▲編上▲短▲はたん止▲
あり。此の他
▲長靴▲半長
と小児靴とあります。
靴革の色の種類
黒色を普通としますが、外に茶色と、僅かの季節に限る白色と、総て三種あります。
サイヅの種類
サイヅは、足袋の幾文といふに同じく、足の大小をインチで呼ぶ名であります。靴は、たびの九文三分以上、大人の部として、十二文位に止め、其の間を九種に割つてあります。
▲五(インチ)▲五半▲六▲六半▲七▲七半▲八▲八半▲九
足袋の方は一文というは、尺で八分のことで、十文は八寸でありますが、それ以上十二文は八寸八分なる如く、大きい処では、比例よりずっと縮まっております。それと同じく、靴の方はサイヅも、八半、九の辺は、縮まっていまして、九は必ずしも六の一つ半だけの長けではありません。日本人の足の大きさは、九文半から十文半までのものが一番多く、それに続いて、九文七分十文七分の順になります。で、仕入れの方から言いますと、多く売れるサイヅと、少しきり出ないサイヅと有りますが、之を製作する上から言いますと、兎も角、九種の大人ものは、何れも一通りづつ製らなければなりません。
甲の高低等の種類
足の長けた同じ九文半でも、其の中に甲高、甲低普通甲などあります。之をabcに分け、九文半のa号、十文半のb号というふうに区別します。尚、米国出来合靴の条を参照するを要します。
◎製靴開業の準備・・・・・さて、独立で、靴製造を創めるには、何程の資本を要するかと言いますと、家屋は、どんな裡屋でも済みますから、之を予算に入れず、ミシン及び木型等、僅少の製作用具を備えさえすれば、直ぐ製造が出来ます。革は、唯一の原料でありますが、後にも説く如くに、これは、入用の分だけを、一足づつでも買われますから、多数買い置きの資本としては要しません。左に之を分説します。
◎製靴の必要工具・・・・・
靴製造の準備として、必要のものは、ミシンと木型とであります。ミシン一台。代価百円ばかりでありますが一時金十五円。翌月より三円乃至五円位の月賦で買われます。木型。男物九種、各ab二様づつを要するにつき十八種となる。一種九十銭前後につき総計十六円余。木型は、元、普通の足を標準にして作ったものであります。故に、幅広の足、幅狭の足、甲の高低の甚だしい足などには合いませんが、それらは「のせ甲」即ちあて革によって加減することが出来ます。で、十八種さへ有れば間に合います。
子供木型 約一ダース位、一種五十銭と見て金六円
婦人木型 約十種位、一種七十銭と見て金七円
小規模の製造には、右の木型で間に合います。外に、底付道具、及び製甲道具等一切職工一人前金十円で揃います。
木型販売店は 下谷区上野広小路 石田木型店
道具類販売店は 日本橋区馬喰町四丁目 渡辺
製靴の必要品といえば、右だけで間に合います。この他繕いの時の直し台でもあれば修繕も出来ます。で、新に一切を新調するとしても、工具の方だけは、六十円あれば間に合ひます。
◎靴革買い入れ法・・・・・
革を上手に買い入れる法
靴職唯一の原料は、革であります。之を買い入れますには、大いに上手下手もありますが、其の資本の如何によりて、如何なる部分も、一足分づつ買う事ができますのは、大なる便利であります。で、必要の起きた毎に、原料屋にいって、何足分でも買い入るること自由で、革の仕入れ資金とては、少しも無くとも済みます。革屋に往って、買い入れます時には、同じキットでも、其の価に多分の高下があります。これ等は、最初から其の製革法の違う訳でもなく、只、上がりの如何を鑑定して、革屋が等級をつけた位のものであります。で、之を買います時にも、二等品の中に一等品に擬すべき革の混じっていることもありますし、三等品の中に、二等品より良い品が交じっていることもあります。で、其の鑑定の出来る職工ならば、思いの外安い原料を使って好い靴を客に供することが出来、得意を得るの原因を作ることが出来ます。又、一枚の革でも、其の部分によって高下あり、腹の部分などは、大抵安いのが常、其の部分部分によって、之を用いる場所が違います。

一足に要する革類
一足の靴を製するには、甲革と、底革との二部に分かれます。甲革は、名の如く、足の甲に当たる部分を製作する革、底革は、中底、本底積上等、総じて足より下部に当たる革であります。一斑を左に記します。
甲革の大略
▲キット  舶来
一枚の革は、四坪以上八坪半位まであり、一坪代金四十五銭以上一円位まで。
▲ボックス  ドイツ製及び和製
一枚の大きさは十二三坪より十七八坪まであり、一坪代、舶来六十七八銭、和製四十五ー五十五銭位。
この二種あれば、普通靴店は間に合います。
エナメルキット  舶来(礼式用)
カンガール  舶来
パテントレザー  舶来(礼式用)
外に茶色の部に、ウエロ、茶キット。
甲用の附属品
▲うらぎれ(靴の裏に用ゆ) 一ヤールより買い得べし
▲ゴム 一足より買い得べし
▲眞田 一巻より買い得べし
▲ハトメ 一足より買い得べし
▲ホック 一足より買い得べし
底まわり用革としての大略
▲本底(土に当たる処に)
▲中底(足底に当たる処に)
▲月形(かかとの力心革)
▲鼻心(爪先の心)
▲細革(本底を縫い付ける時用ふ)
▲積上(かかとの下の積革)
▲化粧革(かかとの一番下部)
▲中もの(本底と中底の間の心)
右は、革屋より、一足分づつ買われるもので、一足分、一円以上一円七八十銭でまとまります。
靴の原料と工賃の予算
ここに、一足の靴を製造するとして、原料代と工賃との比は、どんな勘定になるものか、仮設の計算を出して見ましょう。この設計は、余程正直な念入りの、仕事であります。これよりも品を下せば、際限の無いことであります。
甲革の部、 一円七十八銭五厘 元掛り 内 甲革、東洋ボックス二坪七分五厘を要し、坪五十銭と見て一円三十七銭五厘也
うら布 五足とりと見て八銭也
眞田 五銭位也 ミシン糸 三銭位也 手間 二十五銭也
底廻りの部、 一円九十三銭也
内 本底 六十銭 中底 十六銭 積上 十五銭 化粧 十銭 月がた 七銭 鼻心 三銭 細革 六銭 中物 三銭 外の雑小物 八銭 手間 六十五銭
甲と合わせて三円七十一銭五厘也
右の計算に従いますと、原料と手間とは、三と一位の割りになっております。この三円七十一銭五厘の元で出来た靴は、どのくらいの売価のものになるかと言いますに五六円位のものであります。三割をかけて四円八十一銭でありますが、なかなかそれでは売りません。東京銀座、神田小川町辺の商店中、其のボロイのになりますと、必ず仕入れ値の二倍に売ります。或る靴屋などは、一足を商って二円の口銭では、暮らしになりませんと言うております。其の儲けること、驚くべきものであります。
◎靴販売店の開業・・・・・さて、靴を製造しても、之を商店へ卸すだけでは、思うようの利益を見られませんから、製造をやりつつ見世番ををなし、小売業を兼ねたいというのが、多くの靴店の開業起原であります。このほうは、店舗の設備を要する代わりに、小売の利益を収め、直し物などでも、家賃の半分位を収入し得べく、半商半工の利益があります。
最小規模の予算
靴の販売店は、少しく目立つように開くには、相当の資本を要します。で、最初はなるべく間口の狭い家屋を選び、商品の貧少なるを補わなければなりません。仮に、二間間口の店とすれば、其の見世つきを直すや資金やに一百円を投じ、平均三円の靴を各種取り混ぜ五十足陳列するとしても、それに百五十円、付属品類に十円合計二百六十円で見世の形は出来ます。
販売術の勝利
某氏の説によれば、靴の販売店は、素人で始めた店に、却って成功が多いという奇なる現象があります。それは、素人の開業ならば、仕事に暗く、何も分りませんから、気を使いません。然るに、仕事がよく分り過ぎておる時は、心使いが多くなって、却って悪いようであります。しかし、実際に得意客を作るは、腕の有る人に限りますと言うてあります。これは、やや粗大な説で、安全な企業法とは思われませんが、製造と販売術とは、素より同一になりませんから、如何かに良い製造者でも、販売上の手腕が無ければ上結果を得がたいこと言うまでもありません。
仕入れ上の研究
店舗を開くとしまして、その仕入れ又は自製の靴の陳列用種類の割合の、如何かに見積もるべきやは、一考を要します。大人ものでは、サイズ何インチのものが多く出るとか、小児ものならどうだと其の準備すべき割合があるべきはずであります。
或は其の開業地によって学生向き、労働者向き、安官吏向き、多少特色があるべきはずでありますから、その辺の心配りは、平日経験上の知識を土台にして決定すべきことであります。某靴店では、開業中の売上げ数を材料とし、一百足の靴ならば、内何を幾足、何を幾足と、其の種類及びサイズについて、巨細に統計表を作り、始終それに準拠して割り出しておりますが、其の割り当て表は、多年手をかけた結果でありますので、営業上の秘密書類としておきます。
小売値は四割
靴店の、年中一番忙しいのは、九月から十二月一杯であります。それに続いては、三月末から六月末までが忙しく、其の他は概して閑な月であります。今日、中流の靴店について言いますと、平均の仕入れ値は五六円の間にありましょう。そして、小売には、四割をかけない店は無い位であります。
職人肌の店主
職工から延ばし上げて靴店を開いたものは、どうしても、客人を柔らかく取り扱うことが下手でありますから、この辺には十分の注意を要します。『なあに、金はそっちの物、品はこっちの物、何もそんなに頭を下げて買ってもらわずとも好い』という気風が抜け兼ねるので、時々客を怒らせることがあります。この辺の呼吸は、商店の小僧さんからやって来た青年の方が、ずっと上手であります。
注文靴
注文靴は、客の足の寸を測って、それに合うように造るのでありますから、必ずよく合うべきはずでありますが、それが、実際は、決してそういくものでなく、幾ら寸を測って造った靴でも、足に合わないことが、度々あるものであります。これは、種々の原因から来る結果でありますが、矢張り、熟練するに従って、しっくり合うように造ることが出来るのであります。新製の靴が、足に合わないとなりますと、客は頭から攻撃してかかりますが、しかし、そうやかましい客は、開業ほやほやの新店には来ないものであります。で、開業当時は、その憂いはありませんが、実は、このやかましい客が来るようにならなければ、安心が出来ないのであります。学校とか、其の他の団体などへ、靴を入れますのも、なかなか骨であります。現に、東京市電気局の電車の車掌や運転手に、靴を入れておる靴屋がありますが、何でも、給料日には、二日位づつ徹夜をすると申しております。月給をもらう処を、わきにいて直ぐ勘定を取るのでありますが、その時に受け取らず、翌日に延びるとなかなか勘定が取れないと言うておりました。
◎粗製靴の内幕・・・・・形にさえなっておれば、それで靴だと思い、材料と手間の如何を少しも考えず、只もう安いの安いのと望む客がありますので、粗製の靴になりますと、其の粗製方法は、至れり尽くせりという点まで進んでおります。

「停車場靴」
大阪に『停車場靴』などと通言してる靴がありますが、これ等は、新しいので一円五十銭位で売れるのであります。其の代わり、買って之を穿き、停車場まで往く中には、もう破れるという喩えになっております。この靴なんかは、一つとして満足な材料は使いませんが、其の本底がボール紙です。ボールを張り、其の上に、生地革の半身を貼り付けたものであります。生地革と言いますと、折カバンの裡などに用いる羊の革ですが、坪十四五銭より二十二三銭止り、凡て革の中で、これほど安い革はありません。そして、この革は、不思議に、二枚にへがれる性質のものでありますので、之を二枚にへがし、其の半身は手帖の表紙などに使い、其の半身を靴底に貼るのであります。それでも、見た処は、革に相違ないのであります。この様な粗物を商います商店は、それは又平気なもので、もし三日か五日の後に、客人が尻をもって来ましても『何しろ値が値ですから、・・・どうもお気の毒さまでした』という位で、相手になりません。
「変造品」
すべて、粗製靴の材料は、変造品と、屑物とで、どうにか形にまとめるのであります。変造という方は、古胴乱などであります。これは何にもならず、肥料同様の値の物であります。それを買い、染め直して又使うのであります。
「屑物製」
屑物の方は、縁まわりといいまして、一枚の革の中から、肩や背の、役に立つ部分を取り去った糟なる腹や手の部分で何にもならぬ革屑があります。陸軍の被服廠や、山の手の屑屋の少し大きな店では、どっさり出ますが、何にもなりませんので、一貫目幾らという値で、屑物に出します。それらのものを、立派に甲革などに使って、そして凛とした靴に造るのですから驚きます。勿論、その様な靴は、中心と言いましてもボール紙か竹の皮を入れ、積み上げというても、小さい屑切れを、見える部分にだけ積み上げ、その積み上げた方が又、たとえば、低い処に革を足して平にするのではなく、叩き出して一寸平に見せるだけであります。すべて、このように、材料は屑ばかり、或は変造品を使い、之を縫うに又、手のぬけるだけ手をぬいて、見た処ばかり靴の形に仕上げるのでありますから、滅法に安く上がります。
「金二円の靴」
この間も、新聞に、靴を用いる人の福音とか何とか書いて、二円で上等靴を売るという広告が見えました。が、実際、別項に挙げました予算で見ましても、二円やそこらで、手間にも当たらないことが知れ、其のまやかし物たることは明らかであります。併し、世間は広いもので、その詐欺的の広告に引っかかる者の多いのは残念であります。
◎付属品の暴利・・・・・靴の小売店で、小さいもので、それでなかなか馬鹿にならないのが付属品の利益であります。靴用のクリーム、靴紐、ブラシ、靴下などは、何れも法外に高く売っているものであります。一ダース一円二十銭のクリームを、一個売り二十銭から十八銭に売るのが普通で法外に安くて驚かれる店でも、十五銭よりは安く売りません。靴紐なども其の通り、一ダース三十五銭の紐を、一足分八銭に売っておりますから、二十六割ばかり掛けておる勘定であります。」

『営業開始案内』



















『座敷即席一口噺し』(伊藤竹次郎)



















今様職人画



『風俗画報』
















草履屋



『風俗画報』






















足袋屋



『風俗画報』






















日本靴産業の創始者 西村勝三

『西村勝三翁伝』より






























西村勝三 明治二年(三十四歳)

『西村勝三翁伝』より































西村勝三 明治十二年(四十四歳)

『西村勝三翁伝』より






















西村勝三 明治十七年(四十九歳)

『西村勝三翁伝』より




























西村勝三 明治十九年(五十一歳)

『西村勝三翁伝』より




























日本靴産業の創始者 弾 直樹

『新選日本製靴大観』より

































































オランダ人造靴教師 レマルシャン

『新選日本製靴大観』より








































天皇陛下がお召しになる靴を製作した靴職人 大塚岩次郎

『皮革産業沿革史上巻』より








『時事新報』(明治28年1月3日付け)






関根忠吉(靴職工/淀藩出身の士族)
『皮革産業沿革史上巻』より







『東京高名靴商』(明治17年)































内外用達会社製靴場社長  大倉喜八郎

『皮革産業沿革史上巻』より












































銀座の靴屋さん(オランダ人レ・マルシャンの店/明治十五年)

『靴の事典』(靴商工新聞社)より



















『東京風俗志』(著者:平出鏗二郎)





















『新選日本製靴大観』より



















『新選日本製靴大観』より



























『新選日本製靴大観』より



















『新選日本製靴大観』より
























『もしほ草』附録



























『中外商業新報』(明治39年12月9日付け)


◎機械靴売り出し・・・・・米国最新の機械を輸入して専ら男子用の機械靴を売り出し居たる京橋区南伝馬町トモエヤ商店にては、今度販売拡張の第二期に入れるに際し、本月一日より女子用機械靴を発売せり。」

『東京日日新聞』(明治39年12月10日付け)













明治35年頃の銀座トモエヤ

『皮革産業沿革史上巻』より






















トモエヤ店内

『皮革産業沿革史上巻』より

















初代トモエヤ店主 相場真吉

『皮革産業沿革史上巻』より
















http://roudouundoumeiji.com/09071810.P1050781.JPG

村上勇雄四兄弟 左より茂太郎、勇雄、京四郎、錠五郎(明治23年頃)

『皮革産業沿革史/上巻』より















http://roudouundoumeiji.com/09071814.P1050800.JPG

神田村上勇雄靴店(明治30年代)

『皮革産業沿革史/上巻』より

















村上勇雄門下の神田派の靴工(明治25年頃)

前列右から三人目が村上勇雄 前列左から二番目が岩井信六
後列一番右が島粛三郎 後列左から三人目が広瀬藤太郎
(全員が越後長岡藩の士族出身者)

『皮革産業沿革史/上巻』より


千葉県佐倉の藩士・西村勝三門下の桜組派の靴工に千葉県出身の
士族の子弟が多かったのに対して、
新潟県越後長岡藩の士族・村上勇雄門下の神田派の靴工は
新潟県出身の士族の子弟が大半であったようだ。

村上勇雄の手引きで靴工となった長岡藩の士族・島粛三郎は、後に桜組派の
城常太郎が起した「労働組合期成会」の常置委員となっている。


















新橋停車場



『新撰東京名所図会』(東陽堂発行)

明治5年、日本で初めてオープンした鉄道駅舎です。























駒込追分



『新撰東京名所図会』(東陽堂発行)

左上は靴屋さんの看板です。


























本郷三丁目



『新撰東京名所図会』(東陽堂発行)





























帝国議会御臨幸



『新撰東京名所図会』(東陽堂発行)





























































































桜組 支配人  大澤省三

『新選日本製靴大観』より












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明治時代の靴製造販売店

『新選日本製靴大観』より









★明治時代以前の靴の歴史




             


嘉永六年(1853年)

   「★筑前藩士平野次郎国臣(幕末の勤王家)、ペリー率いる黒船が浦賀に来航した折、彼らが靴を脱がずに堂内に上がろうとするのを見て激怒、刀に手をかけ今にも飛び掛らんとするところを同僚に止められ、本国(福岡県)に強制送還。」





      平野次郎国臣












文久元年(1861年)

   
「★江戸幕府は、軍艦方に対して、革靴を船中に限って履いても良いとの御触書を出す。」

    「★オランダ人靴職人レ・マルシャン、横浜で日本初の靴工房を開業。」

文久二年(1862年)

    「★七月、第十五代将軍徳川慶喜は軍制改革に取り掛かり、洋式軍備を採用。兵隊訓練に洋靴(西洋草履)を用いるようになる。」
 

文久三年(1863年)

   「★四月二十一日、城常太郎、熊本県熊本市坪井広町に、肥後の戦国大名菊池氏の後裔だった鍛冶職人の父、城太平次の長男として生まれる。」

慶応三年(1867年)

   「★一月、坂本竜馬、長崎の上野彦馬撮影局において、羽織はかまに洋靴ばきという姿で記念写真を撮る。」 





      ★明治時代の靴の歴史★



明治時代前期(明治元年〜明治11年)


  
明治1年
明治2年


   「★フランス人靴商マーセン、京橋区銀座に靴屋を開店。」(『実業の栞』参照)


   「★トモエヤ、東京京橋一丁目に舶来物の靴の小売り店を開業。」

   「★7月、官制改革で兵部大輔に任ぜられた大村益次郎は、ある日、親交のあった千葉県佐倉の藩士西村勝三を呼び寄せ、次のように語った。『これからは、日本の軍隊も洋式を採用し、軍靴も西洋から輸入しなければならなくなる。しかし、それでは、国家の経済上実に大きな損耗だ。それに、外国製の靴は大きすぎるし、日本人の甲高、幅広の足には合わない。輸入モノではなく、すべて国産でまかなえるように、何とか取り組んでもらえまいか。』この勧めに深く共鳴した勝三は、男子一生の仕事として製靴の事業に取り組むことを決意。」 
                        
                                  



「★明治2年、既に藤田傳三郎が大阪で靴の製造に着手していた?との説がある。」



藤田傳三郎





明治3年

   「★
三月十五日、西村勝三、東京築地入舟町に軍靴製造工場『伊勢勝造靴場』を開業。西村は、同年、横浜から中国人製靴教師、藩浩を招く。」

      (注:三月十五日は『靴の記念日』に指定されています。)
      (注:『伊勢勝造靴場』は後に『桜組』に社名変更。)



   [★七月十三日、和歌山藩、ドイツ人製靴教師、ヘンゲルを招いて軍靴製造に着手。]


   「★九月、弾直樹、アメリカ人製靴教師、チャールズ・ヘンニンゲルを招き滝野川靴伝習所を開設。」






明治4年

   「★諸官庁、靴のまま昇降することを許可。」

   [★佐倉藩主堀田正倫、下級武士の子弟授産のため『佐倉相済社』を設立し、靴づくりを教える。]


◎洋服屋の新聞広告・・・・・西洋衣服類品々、奇なり、妙なり。世間の洋服、頭にプロシアの帽子を冠り、足にフランスの沓(くつ)をはき、筒袖にイギリス海軍の装い、股引はアメリカ陸軍の礼服、あたかも日本人の台に西洋諸国はぎ分けのメッキせるがごとし。こは、お客様方の罪にあらず。事物を知らざる唐物の古着屋か、さなくば、袋物師の変化たる洋服仕立屋のしわざならん。このたび、私店においては、西洋の仕立師を召抱え、羅紗フランネル、その外反物精製、最上いまだ日本人の目に触れざるほどの名品を本国より取り寄せ、御注文次第御銘々様御身の丈に合わせ、一分一厘の大小なく仕立て致し、沓の外は一心手袋手拭に至るまで、時々の流行に従い、正真の洋服取揃えて下直に差し上げ奉り候間、多少に拘わらず御用仰せ付けられ下し置かれ候よう、伏して希い奉り候。
横浜五十二番地  ロースマンド
東京表茅場町  柳屋店」


『新聞雑誌』(明治四年十月付け)










 「◎宮中諸口、靴にて昇降を許可・・・・・十二月十七日より、皇城御車より始め、その他諸口、靴にて昇降差許されたるよし。」

『新聞雑誌』(明治四年十二月付け)






明治5年

   [★二月、佐倉相済社で製靴技術を学んだ15歳の大塚岩次郎、東京に出て、芝区露月町に大塚商店を開業。]
       

   [★二月、兵部省が廃止されて陸・海軍両省が設置される。それを機に、陸軍省から伊勢勝靴工場へ軍靴の大量発注がなされるようになった。]


   「★三月、西村勝三、オランダ人製靴教師、レ・マルシャンを伊勢勝造靴場に迎え入れる。」


   「★靴の平らな部分のみミシン縫いができる『製靴用平台ミシン』が輸入される。」


   「★服制改正により、宮中において洋装と靴とが正装と定められる。その結果、一般官士や民間人の間にも靴が普及し始める。」 


   「★明治5、6年以降、新聞紙面から『沓(くつ)』という文字が消え、『靴』という文字にかわっている。ちなみに、当時一般の人々は、西洋靴のことを『窮屈袋』とか『西洋草履』と呼んでいた。」





◎ミシンによる靴縫ひ発明・・・・・ある人の曰く。新平民旧餘部の某なる者、このごろ靴を製造するに工夫を凝らし、ミシンをもって縫うことを発明せるよし。成功の可否は未知といえども、各職業に勉励する賞すべし。また鍛冶職工の者はそのミシンを製作に工夫せば国家の利益大ひならん。」

『京都新聞五〇』(明治五年十一月付け)





明治6年



明治7年

「★神戸に千谷靴工場設立される。」





◎口髭を延ばして威張る官員たち・・・・・全国人民の頭髪今に一定せざるのみならず、該府にては下賤の民はようよう旧に復し、へっつい頭よりまた因循して追々結髪する者日に多し。しかのみならず近来官員の口髯を延ばす事大いに流行せり。勅奏官の紫毛森然、馬車に駕し路塵を蹴り立て、喝々疾駆せるは高位貴官の威儀仰がれていとも殊勝なれど、更に抱腹に堪えざるは、下等官員のみだりにこれに模擬し、鼻下に少しの毛を蓄え、世にいわゆるナポレオンひげと云えるもののごとくし、長袴を着け、行厨を腰にし、靴音高らかに歩行す。あたかも参議卿輔の有様のごとし。その級を問えば十二三等、その居を問えば某街幾番地水菓子渡世某楼上寄留などと、その形を視てその中を察す、識者の嘲りを免れず。そもそも人民の開明ひとり頭髪衣服に在らずといえども、世の虚飾名利に走る、その幣果して何の日にして止まんか。」

『新聞雑誌』(明治7年8月4日付け)






◎とんだ間違い・・・・・横浜の伊勢山に、前の大蔵大輔・井上馨(かおる)殿の館あり。高閣碧欄魏然たる西洋造りにして、高く山頭にそびえ総海に向かいて立てり。その表の入り口に鉄の三角なる棒を並べたるごとき舶来の靴こすりを置けり。これ来客のまさに戸内に入らんとする時、靴の泥をこすりおとすために備えたるにて、西洋人の宅にはいずれもある物なり。しかるに、この井上氏の宅にて毎朝掃除の時に、この靴こすりの下より天保・文久小銭など度々出る事ありたれば、始めはただ来客の落としたるならんと思いおりしが、このごろ一連の郷土人あり。かの井上氏の館前にいたり、おのおの銭を投じ合掌し喃々と拝んで去れり。けだし横浜見物に来りし郷土人の大神宮と間違え、かの靴こすりを賽銭箱とまちがえせし者ならんと。また、江湖の一粲(さん)を博すべし。」

『東京日日新聞』(明治七年十月三十日付け)



明治8年



明治9年

  [★長岡藩士の家に生まれた岩井信六、西村勝三の『伊勢勝造靴場』で靴造りの技術を学んだ後、北海道へ渡って、札幌農学校のお雇い靴工となる。]



◎西洋芝居にくじ引き・・・・・木挽町の蓬来社の後ろへこのほど西洋芝居の興行場ができ近々に俳優も参り、初日には見物人へくじを百本出し、当たれば、こうもり傘、ケット、靴などを景物に出し、入場料は一人まえ十二銭五厘だと近所の人が話しました。」

『読売新聞』(明治九年六月十四日付け)





◎横浜のアイススケート場・・・・・当港根岸村字立野にて青木安兵衛というものが氷スベリの場をこしらえ、十月から始めるつもりでありましたが、時候の加減でいよいよ十六日から開くと申します。この遊びはロシア国にて最も流行るものにて、かの国にては寒気ことさら烈しければ十月にもなれば池沼湖も皆一面に氷つめて鏡のごとくなるに、なおこの上を機械にてよく平らに削り、さて尋常の沓の上にまた氷スベリの靴を穿き添え、ツルツルスルスルと彼方此方へ滑りまわりて楽しむことなり。その外西洋諸国の寒帯にある地方には行わるることなり。しかし不慣れの者は、足の運びを間違えてたちまち倒れ大怪我をなすといえば、一杯機嫌の先生などにははなはだ危ない。」

『横浜毎日新聞』(明治九年一月十九日付け)




◎投書・・・・・ぬれ靴を乾かすには、靴の中へカラス麦(西洋でオーツという)か、ただの麦、または米にてもいっぱいいれて置くと、外面の湿り気を中の麦が吸い取って、おのづと膨れて、乾けば靴形に入れたようにかっこうよくなって、靴の強張という事なく、その乾き後で麦を出して貯えておき、幾度も用いられ、まことにたやすい妙法だとある先生から承りましたから、博識顔に貴社へ投書するものなり。市兵衛町 安井」

『読売新聞』(明治九年二月十五日付け)


◎ローラースケート・・・・・西洋人が寒中に氷の上をすべりて遊ぶ事は、皆様ご承知でござりましょうが、近来また新奇の遊事が始まり、その仕方は玉突き場などのごとく板敷きを滑らかにこしらえ、靴の底に小さな車を付けたるを踏みて、その上を滑ると、傍から音楽師がオルゴールの類を鳴らしてははやし立てるなどして、運動のためには至極面白いものにて、西洋にて盛んに流行するよし。これを上海在留の洋人が伝え聞いて、同所にもこの遊び場をこしらえん事を企つるに、その入費一万円内外と申す事と。」

『浪花新聞』(明治九年四月十二日付け)









◎奇書・・・・・近頃は諸方に外国人が沢山をり、また日本人でも靴を履くことが流行しています。そこで一つの苦情は、西洋人はまだしも日本の実情を知らぬということもあれども、日本人は百も二百も承知でおりながら人の家へ行って立派な畳の上もかまわず泥靴でのこのこ上がりこみますが、一体ひどい仕方ではありませんか。日本も早く西洋風の家になるか、または板の間か何かで、皆椅子にかかっておるようになれば格別、まだそこまでは開けていませんから、先ずそれまではどうか上がり口で靴を脱ぐことにしてもらいたいもの。またそれに引き換えて、諸方によく(靴の外昇降を禁ず)という札の出ておる所もだいぶ見かけますが、これもちと不都合かと思います。なぜというに、まだ靴を履いておる者より履いていない者が多いに、靴でなければ上げないといわれては仕方がないから裸足で上がらねばならず、まことに困りますが、どうか、これも上がり口に上靴でも置いて履かせるようにしてもらいたいと存じます。」

『読売新聞』(明治九年五月二十六日付け)







明治10年

   「★札幌農学校に赴任したアメリカ人教師ウィリアム・ブルックスが、本国からスケート靴を持ってくる。」








◎子供の靴を十足寄付・・・・・西洋手づま遣いの正一という男は、関心なことには浅草吉野町の開明学校へ子供の靴を十足寄付いたし、試験によくできた生徒へこれをやってくださいといいましたが、金持ちの大家でさえ学校資金の苦情をいう中で。」

『読売新聞』(明治十年三月二十日付け)







◎懲役人が製した靴を穿つ巡査・・・・・神奈川県の巡査は靴も靴下も肌着なども、懲役人が製したのを用いられるという。」

『読売新聞』(明治十年五月三十一日付け)









◎鉄砲玉同様の男・・・・・北品川の貸し座敷島崎おとみの家へ来た二人の客は、足に靴だこが出来ているから大方身分も知れるが、さんざん飲んだり食ったりした上で、一人は所持の風呂敷包みから角袖の着物を出して着替え、一人は娼妓おきぬの浴衣を借りて着て、ちょっと観音前へ行くと言って出たぎり帰らず、跡には鼠の霜ふり羅紗雨着と白のマンテル二枚とヅボン二つに下襦袢ヅボン下帽子と靴が二足残してありましたが、こんな鉄砲玉同様の男は大方本当の鉄砲玉が怖いから大砲の煙になったのでありましょう。」

『読売新聞』(明治十年六月二十日付け)












明治11年


  「★岩井信六、札幌で道内初の靴店『岩井製靴所』を開業。」




 ◎日本製の洋靴をアメリカへ輸出・・・・・ヘラルド新聞によれば、日本製の洋靴は追々とアメリカに輸出し、これまでに横浜より積み出したる員数はおよそ八万足にて、一足につき八十セントづつの原価なりという。」

『東京日日新聞』(明治十一年三月七日付け)





◎千葉県の近況・・・・・下総の千葉は、はなはだ不景気にて金融がごく悪く、新聞を見る者は十分の四。奉還士族は車夫か日雇いかせぎ。小学校は盛んで、ことに士族学校より平民学校のほうが勢いよし。堀田公の靴場は日増しに繁盛にて職人は士族が多く、飯野町の士族はもっぱら茶を製して今年は取入れが四、五百個あり。」

『読売新聞』(明治十一年四月十七日付け)


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明治時代中期(明治12年〜明治22年)




明治12年







明治13年








 ◎外国人、氷滑りに興ず・・・・・横浜に居留の外国人は毎年寒くなると氷滑り(スケート)を催しますが、今年は北方の射的場のそばへ場所をこしらえ昨今は毎日午前七時より夜に入ってまで数人の男女が集まって走り競をしてなかなか盛んであるという。」

『読売新聞』(明治十三年一月十七日付け)



 「
◎夜廻り巡査は靴より草鞋・・・・・大阪にては夜廻りの巡査の靴を廃され、草鞋を用いらるる事になりしと。これは怪しき者に靴音を悟られぬためならんと。」

『朝野新聞』(明治十三年二月七日付け)










◎大阪に巨費にて製靴所設立・・・・・府下南町の坂井傳平は、拾万円の資本にて靴製造所を本田町に創立するという。」

『大阪日報』(明治十三年五月二日付け)










「◎横浜の根岸に牛乳売りを渡世にしているイギリス人ガマーが去る六日相沢二丁目の靴屋杉本長次方へ靴の直しを頼みに来たので長次は受け合って注文通りに直してやると、ここが悪いかしこがいけぬとガマーではなくダダーを言うので長次もほとんど持て余し三四度こしらへ直して持って行くと、今度も同じく受け取らねば、よんどころなく、そのままにして置きたるに、一昨日の日暮方ガマーは長次方へやって来て、かねて注文の靴は出来ましたかと聞くゆえ、前の靴を出して見せると、それを手に取るやいなや、代も置かずにスタスタ駈けだしたので、長次は跡を追っかけて、あなた直し代進上と催促するを、ガマーは睨めつけあたりに有り合う棒を取って打ってかかれば、長次も去るもの、中々屈せぬ様子を見て、ガマーは手早く隠しより短銃取り出し、一発に射て殺さんと威すところへ折よく巡査が来合わせて、この有様を見るよりもすぐさまガマーを取り押さえ厚く説諭を加えた上、直し代を長次へ渡す事になって、下げられたという。」

『読売新聞』(明治13年12月17日付け)



明治14年


◎勘定にうとい外国人・・・・・いつもありふれた食い逃げ新聞中の変り者、一昨日の正午ごろ西の久保桜川町の牛肉渡世、小川徳太郎方へ来た外国人は、鍋で酒四合をせしめ酩酊のうえその場へ倒れグウグウと寝てしまった所へ、十七銭の書付を持ってモシ御勘定を願いますといくら起こしても高いびきで三時過ぎまで寝入り、ようやくに目を覚まして小便に飛び出したまま、翌日までも帰って来ぬゆえ、さては食い逃げと気がついたが、半靴と、紙入れと、菓子パン六つ、抵当のつもりか忘れたのか置いて行ったれば、徳太郎はその品々を持参して食い逃げ届けに出かけたが、わづか十七銭のことで靴を捨て行くとは、勘定にうとい髭ではある。」

『読売新聞』(明治十四年三月十二日付け)






◎女生徒が靴袴、意気揚々と生かじりの同権論・・・・・風俗は教育の関かりて改良を謀らざるべからざるものなり。浜尾文部権大書記官が先ごろ東北の諸県を巡回のおりから、山形県下へいたられ各学校を廻らるるに、教授法はまづ女教師、女生徒らの風体に半男半女の姿ありて、靴を穿き、袴をつけ、意気揚々として生かぢりの同権論などなす者あり。それゆえか、心ある者は女子を学校へ出すを嫌い、女生徒の就学するもの随つてすくなきを見られ、慨嘆のあまり各所にて演説せられし大意は、右の幣を矯正すべきことを論じ、さて御巡行の節は必ずともこの風は止めてしかるべし、そは天皇には痛くこのことを嫌い慨かせたまい、ある県にて女生徒が袴をきて奉迎せしをはなはだ喜ばせたまわぬ御気色もありきなど、懇々と述べられしにぞ、酒田鶴岡新庄の辺は何れもさるあるべしと聞き入れしか、女の靴袴はほとんど跡を絶ちたりしが、山形では一人の女教師のこの説に服せざるあり。何か説をなしてその意を貫徹せんとその筋へ申し立てし者ありとぞ。東京すでにその非を覚りてこの風漸く止みたり。地方よろしくひそみにならう事なくして可なり。」

『東京日日新聞』(明治十四年十月三日付け)








 ◎靴以外は昇降を禁止・・・・・靴の外昇降を禁ず、とは官省局課をはじめとして西洋がかりし家屋の出入り口の定文句のごとし。このごろ京都の諸寺院で出せし札は、靴のまま昇降を禁ず・京都府、とあり、畳を布し本堂、客殿これはもっともらしい。]

『東京日日新聞』(明治十四年九月十四日付け)








◎珍しい賭け・・・・・アメリカ、マサチューセッツの首府ボストンに住む両人の豪商が、今度の大統領選挙のことについて珍しい賭けをした。その賭けの次第は、一人はガルヒールド氏が大統領に必ずなるといい、一人はならぬと言い張りしより始まりしも、負けた者は立派ななりをしてボストン府の中で一番にぎやかなウヲセストル街の往来へ靴墨と刷毛を持って半日間立っていて、少しでも泥れた靴を履いて通る人があったら、誰彼にかかわらずその靴を磨いてやるという約定なりしが、選挙の投票を開いた時負けた者は、約定のごとく顔を真っ赤にしながら半日間ウヲセストルの往来で靴磨き(日本の雪踏直しのような者)の真似をしたというが、外国にも随分道外た男があります。」

『読売新聞』(明治十四年一月十八日付け)








◎藤田組、靴を輸出・・・・・大阪鎮台にて下士兵卒に給せらるる軍靴は、これまで都て藤田組にて請負ひて製造したるが、今度、砲兵工廠にて製造せらるるとの事なれば、藤田組は大いに販路を失はんことを患いいたるが、先ごろ朝鮮政府より同組へ試みに靴若干の注文ありしにつき、差し送りたるに、はたしてその用に適し、且つ追々西洋靴の流行すべき模様なるにぞ、猶ほ彼国人に適するように調整して輸出するよし、大阪よりの通信に見えたり。」

『東京日日新聞』(明治十四年七月二十九日付け)




明治15年


 [◎婿養子となったオランダ人靴職人・・・・・赤ひげだの、青目玉だのと、むやみに悪く言えど馴染んでみれば日本人でも外国人でも人情に変わりはないとグッと開けき了見の者が考えればさのみ珍しい事でもないが、尾張町二丁目の靴職磯村安兵衛方に数年来雇われているオランダ人、レマルシャンはなかなかの辛抱人にてよく稼ぐゆえ、大層主人の気にかない、なまじっかの日本人を婿にして気をもむより、いっそこの男を婿にして三女おすて娶わせれば家のためにも娘のためにもよかろうとて、このほど東京府へ願い済みの上、レマルシャンを婿養子とし一昨二十六日、おすてと三々九度の祝言をしたというが、人間さえ確かなれば他国へ出てもこの通り信用されるが、怠けておっては、どんな美しい日本人でも鼻を摘ままれます。]

『読売新聞』(明治十五年五月二十八日付け)






◎ドイツ人製革教師満期解雇・・・・・石川島監獄署にては製革伝習のため、一昨十三年中ドイツ人ルーホスキ氏を教師に雇われし所、もはや職工が製革に熟練せしをもってこのほど満期解雇になり、慰労として大和錦一巻並びに金若干をその筋より給わりたりと。」

『自由新聞』(明治15年8月13日付け)





左右同じ靴を乃木大佐が発明・・・・・乃木歩兵大佐の多年工夫を凝らして、このごろようやく発明されたる一種の靴は、左右の別なく、これをはいて極めて快適を覚え、すでに二、三の士官は自らこれを試みられ、従来の靴に比して遥かに便利なることを証されしかば、来月より同大佐の部下すなわち東京鎮台歩兵第一聨隊へは、一般にこれを用いしめらるることに決定されたりとぞ。」

『朝野新聞』(明治十五年八月十五日付け)





明治16年

   「★政府は『欧化政策』のシンボル的建造物として日比谷に鹿鳴館を開設。開館後の明治17年ごろから明治20年頃にかけて、いわゆる『鹿鳴館時代』が現出し、毎夜のように夜会や舞踏会に通う上流階級の人々の華やかな服装は世間の注目を集め、新しもの好きの一般女性や女学生まで靴をはくようになった。」

  「★製甲ができる『製靴用八方ミシン』がドイツから輸入される。」







◎外国人の氷すべり・・・・・横浜在留の外国人は北方射的場の脇なる水田を一反余り借り受けて五六日前より例の氷すべりをはじめ、男女三四十人づつ打交わり、夜明けより十時ごろまで、午後五時より夜の十一時ごろまで、夜は紅白の球燈を燈し、なかなか賑やかに遊んでいますと。」

『読売新聞』(明治十六年一月二十四日付け)









 ◎女教員、女高生、袴に靴を履いて浮華に走る・・・・・風習の奇異浮華に走るを戒むるは、教育上ゆるがせにすべからざることなるに、地方によりては、女教員及び生徒中、往々袴を着け靴を履き、その他異様の装いをなすものあり。およそ服装等は務めて習慣に従い質素を旨とし、奇異浮華に流されざるよういたしたく、殊に女教員及び女子師範学校、高等女学校の生徒の風習は他に及ぼす影響も大なれば、いっそう注意あらまほしと、その筋より各地方官へ通牒ありしやに聞く。実にかくありたく事にこそ。」

『朝日新聞』(明治十六年五月二十七日付け)








◎辻文部大書記官、各府県令へ宛て通牒・・・・・習風の奇異浮華に走ることを戒めるは、教育上忽せにすべからざる儀にそうろうところ、地方によりては女教員及び女生徒の中には袴を着け靴を穿ちその他異様の装いをなすもの往々之ある様に見受けそうろう。およそ服飾等は務めて習慣に従い質素を旨とし奇異浮華に流れざる様、御取り計らい相成りたく、ことに女教員及び女子師範学校等女学校の生徒の風習は他に及ぼす所の影響また大なる儀につき一層深くご注意これありたくそうろう、念のためこの段御通蝶およびそうろうなり。」

『読売新聞』(明治十六年五月二十五日付け)








◎女だてらに肩をふり・・・・・風俗の浮華に奔るは教育上最も戒め、且つ忽諸すべからざる事なり。地方により女教員女生徒等のいかめし気にも袴をつけ靴を穿き、女だてらにギツギツと肩をふり懐手して歩くものあり。その他異体の身なりをするが、服飾は風俗を導くの先着なれば、弊風に慣習せざるよう質素を旨とし浮華の流風に陥らざるようにありたしと、老実家は大いに心配いたさるるよしに聞く。」


『東京日日新聞』(明治十六年五月二十二日付け)





明治17年





 [◎下駄靴・・・・・日本橋通り三丁目の靴店・佐藤民造方にて売り出す新型の下駄靴というは、並みの靴の底へ木を入れしものにて、履き心地もいたってよく、値は廉にて便利なものであります。]

『読売新聞』(明治十七年四月二十七日付け)




靴は戦争時には不便利・・・・・陸軍兵士が一朝事あるの秋に際し、山坂を進退するに、軍靴にては不便利にて実用に適せざるあり。己に十年薩南の役のごとき重に草鞋を用いられしより、爾来会計部にてはその準備ありしが、今度一将官の発議により平生各兵士へ草鞋の造り方を教えおくことに決定せられしとか聞き及べども、真意は知らず。」

『自由燈』(明治十七年十月十四日付け)






明治18年


草鞋戦場にては靴より優る・・・・・戦場にては、その地利により時候によりては、靴を脱いで草鞋を用いるのはなはだ便なることあり。これも西南の役にては、大いに経験ありしとかや。されば、その辺よりして陸軍においては、草鞋を廃せらるるにあらず。すでに東京鎮台第三聯隊第三大隊にては、草鞋を造ることを心得たるもの三十名を選抜して、布草鞋を造らしめらるると聞く。用意のほど至れりというべし。」

『東京日日新聞』(明治十八年一月十三日付け)


◎真綿入り洋服注文・・・・・陸軍省にては真綿入り洋服二万枚と毛草鞋三万二千足を今度大倉組へ注文されしと。」

『読売新聞』(明治18年1月13日付け)




 「◎朝鮮副使、興奮して土俵に靴を投げる・・・・・横浜梅ケ枝町の相撲はすこぶる上景気にて、去る一日は殊に日曜なれば、午後一時過ぎより早や客止めとなり、勧進元は大喜びにて、打ち出しの後力士一同へ酒肴を饗せし由。また一昨日も梅と達との取り組み故、いっそうの景気なりければ、さらに二日間の日延べをなせり。この日朝鮮副使穆麟徳氏は、内山蘆雪氏及びドイツ領事館の某弁通氏を連れて見物に参り居られしに、智恵ノ矢と綾浪の立会いの時、穆氏はすこぶる興に入りし模様なりしが、とうとう堪え切れざりけん、他の観客が帽子や羽織を投げる中に、氏は何にとか一言言いながら、我が履き居りたる靴を手早く脱ぎ取り、土俵目がけて投げつけたりという。」

『横浜毎日新聞』(明治十八年三月四日付け)












 [
◎やまと靴・・・・・日本在来の履き物は庭歩きか遊び用に適するのみで、遠方往来の用に適さず。さりとて靴では足が痛むと、その中間の便を計りて下谷御徒町一丁目のやまと靴会社より専売特許を得て今度売り出しになりたるが、至極便利徳用なものであります。]

『読売新聞』(明治十八年十二月二十二日付け)










明治19年




◎帝国大学でも靴以外は昇降禁止・・・・・帝国大学総長よりの達しに基づき、学生生徒は昨日より一同靴の外昇降を許されざることになり、その他の者といえども靴を穿かざる者玄関より昇降を許さざる趣を掲示せられたり。」

『朝野新聞』(明治十九年五月二日付け)







◎靴磨き業・・・・・是までは靴磨き職をもって往来を駈け回りたりとて一?の職業と迄はいかざりしならんが、開け行く世の勢いに連れ近来のごとく洋服流行のすれば、磨き職も要せらるるはずなり。職業に上下の区別なし。何と該職をもって往来を駈け回ること夫のブー、、のごとくする人なきや。(時是金楼生)」

『時事新報』(明治19年5月3日付け)







◎靴下釣り着荷広告



『時事新報』(明治19年6月11日付け・広告欄)









脱靴器・・・・・此の頃の様に洋服流行りに成りては、料理店寄席その他多人数の集まる所は勿論、家々必ず脱靴器を備え置かれたきものなり。如何となれば今日諸官省又は学校の外、たいてい従来の畳なれば是非とも靴を脱がざるべからず。殊に雨天の節は手を泥と靴墨とで汚すなど一方ならぬ困難あればなり。」

『時事新報』(明治19年6月17日付け)





[◎皮類の騰貴・・・・・近来洋服の益々流行するより、靴の製造愈々盛んなる上に馬具鞄等総て皮細工の製作一般に盛んなるによりてか、近頃輸入皮類は二三割方騰貴したりといふ。]

『時事新報』(明治19年6月28日付け)








◎突掛草履・・・・・とて職人社会の常に穿つもの?意気?は知らねど、穿ち悪く且つ不体裁不経済なれば、以来は断然これを廃して兵隊靴となすべし。斯く云わば職業上高きに昇降するために不都合なりといふか、決して然らず。只穿ち慣るれば可なりと申すは論より証拠、軍艦の水夫は靴を穿ちて??帆網に疾駈昇降する?陸上の職人よりも一層六ヶ敷(ムツカシキ)仕事を一層活発になすにあらずや。何と職人方、東京子の気性を現し、平常のものは勿論職業の時にも靴を穿つ事に改めては如何。」

『時事新報』(明治19年7月22日付け)







◎靴を穿つべし・・・・・日本橋土足生の御説には甚だ不同意なり。今や内地雑居も近づきたるに、ガラガラ然たる下駄を廃せずば如何にして活発なる西洋人と活激に競うことを得んや。されば官衛に限らず何処にても靴を穿つようにするは今日の急務といふべし。靴穿つべきなり。」

『時事新報』(明治19年7月22日付け)






 ◎女子も男子と同じく靴を穿つべし・・・・・追々西洋風流行の世の中となり、洋服着用者の数増加するもこれ皆男子のみにして、女子は相替わらず不便利極まる長袖の古服を用い、更に便利の新服を採用するものなきは、はなはだ歎息の次第にて、記者もすこぶる御同感の様なるが、しかし是には記者も言るるごとき種々の困難なる事情もあれば、先ず、にわかに実行に至りがたきものとし、せめては幾分なりともその新風に近づき、徐々に歩を進むる様いたしたし。まづその第一着手に小生は可成女子も男子と同じく靴を穿つことにせんと欲するなり。靴を穿てば日本服のベラベラ物では直ぐに裾が切れ不都合にも、又、算盤上大損なれば是非なく追々とその履き物に応せる新服を用ふるに至らんよし。にわかにその服製変化の効を奏することなきまでも、駒下駄の代わりに靴を穿てば、自ら歩行迅速になり、間接に健康を善するの効果もあらん。日本婦人の求めて優柔不活発を尊む風習は一日も早くこれを排除したく、それには此穿靴の一事、最も急務ならんと信ずるなり。レディー諸子もって如何となすと申すものは矢張り諸子が姉妹中の一人なる。(洋狂女子)」

『神戸又新日報』(明治十九年八月八日付け)









◎靴師・・・・・当山形も靴は大流行にて、番頭小僧までも用いる様になりしにも関わらず、靴師は只二三人にて、高価の利を占め大いにこの流行を妨害する跡あり。東京の靴師方?三名当山形へ来たるべし。利益は受合申すなり。(山形七日町 穿靴生)」

『時事新報』(明治19年12月15日付け)


明治20年




◎旧き靴を視て人柄を占う・・・・・ドクトルガール氏が脳髄を視て人柄を知ることを説きたるは今より五十年も昔のことなるが、ドクトルドベール氏は今度新規なる一科の学術を発明してカルボロジ即ち旧き靴を視て人柄を占う術と之を名づけたり。同氏の説く所によれば、旧き靴は手の平の筋よりも間違いなく人柄を示すものにて、旧き靴の摩り減り方によって其の穿主の気力、勤怠、軽薄、?実及び性癖等を知るを得可し。例之は若しも靴の踵及びその他の底が同一様に摩り減り居る時は、其の穿主は気力ある人にして、召仕ひなれば信用すべく、細君なれば烈婦と称すべく、一家の母親なれば抜群の母親というべし。又その外側の縁が摩り減り居る時は其の穿主は我?の事業に熱心するの傾なりて頑固にして且つ大胆なる心を有するなるべく、其の内側の縁が摩り減り居る時は男子に在っては?弱不決断、婦人に在っては畏?孤疑の徴候なり。又靴は二ヶ月間も穿用すれば充分に右の占いをなし得るものにて、奉公人を雇う時に先ずその写真を差し出さしむるは通例のことなれども、其の人柄知るには写真は旧き靴に及ばざること遠しとの事なりと、或る英字新聞に見へたり。」

『時事新報』(明治20年1月24日付け)






◎艶の墨・・・・・広告欄」



『時事新報』(明治20年6月11日付け)











◎神田区 靴製造師 村上勇雄・・・・・(広告欄)」



『時事新報』(明治20年12月25日付け)

★越後長岡藩の士族・島粛三郎(後に労働組合期成会常置委員)、
村上勇雄(越後長岡藩士族)の手引きで靴工となる。









◎製靴の景況・・・・・製靴業は近来かなりの進歩を呈し、したがって流行を競うの趣きあるよしにて、両三年前以来流行したる爪上がりの先細靴は昨今ようやく不向きの有様となり、さらに欧米諸国におこなわるる足の形に適合するものを貴ぶの勢いとなりたるより、府下の各製靴場にては何とも広型に改正するに至りしよし。又従来の靴底は多くは二枚なりしかども、このごろは之を一枚となし、その中に羅紗製にて油につけたる毛?様の織地をはさみ足あたりのやわらかにして水気をさえぎるの風行われ、その外土踏まずにパテを入れて疲労を減じ、或は深靴の左右に護謨を施さしものを全く周囲に用いて保存かたがた之を穿つの便を好むも多しという。これ等の上等品には牝牛の尻革(一頭の牛皮にて四五足を取り)を用う。このごろ桜組本店にて雇い入れたる製革工師クンヘルコー氏が和牛皮にて製したる熟皮抔が廉にして且つ美なりといえり。その値段は上等深護謨靴一足五円五十銭、惣護謨六円位、半靴(流行せず)上等四円内外、また普通にフラン革と称するものは前の値段に比して同きの凡う五七十銭の安価なり。婦人靴はこのごろまで略服に対すると礼服におけるとその区別もさらに判然せざりしが、昨今はようやく区別を設け、礼服には金玉虫革の外釦付き深靴は中々に売れ行きよく上等七八円の相場なり。踊り靴?子琥珀張りの下等品はおおむね三円、上等飾り付き五円内外なれども近頃夜会の減じたるがため注文薄き模様なり。また男子の長靴は半長の方多く流行して、軍人に供給するものを除くの外は、何れも七八寸の深さにして晴雨を兼ぬるの拵らへ、多く爪先その他に飾付をなすの風は、惣して近日退廃したるがごとしという。」

『時事新報』(明治20年12月27日付け)













明治21年






◎革インキ墨おとし・・・・・日本橋区横山町二丁目の新光舎にて製造販売する革インキと墨おとしは、靴を穿く人々には併せ用いて至極便利なりという。」

『時事新報』(明治21年1月11日付け)








◎皮革製造所・・・・・熟皮類の内にも製靴用の皮革は追々需用を増加し、舶来品の輸入も年々に加わるよしなるか、又府下の製造所も四五年前に比すれば稍一倍の増加にて、従って熟皮の製造高も多額に及び、目下府下にて製し得る靴用熟皮の重なる種類は、和象皮上等にて和百斤四十円以下三十二円、黒象皮同四十二円以下三十四円、チャリ皮上等一坪につき十八銭以下十三銭、黒染子牛皮上等同二十五銭以下二十二銭、黒染中牛皮上等同十七銭以下十三銭内外の相場にて、右等の種類は近頃製作方もよほどの進歩を呈したり。然れども輸入の各種類に比すればほとんど十分の一に出でざるべしという。又右熟皮の製造場は向島桜組製造所、浅草橋場北岡製造所等がかなり盛大にして、両所の製造高はおよそ一ヶ月牛皮五六百枚、白金の製造所はおよそ百枚余、浅草橋場居廻りの各製造場は大小十四箇所にして一ヶ月平均およそ千四五百枚、合計府下毎月の製造高は二千二三百枚内外にのぼり居れりという。」

『時事新報』(明治21年2月10日付け)






 「
◎製靴場・・・・・近来、神戸にて靴製造人の数を増し鑑札を所持するもの十三戸、密かに製造するもの二十戸に余れるよし。又、近頃は女子の靴をあつらえ来るもの多くなり、現に栄町今井製靴場にては男子の分より女子の方割合に多きよしなり。」

『神戸又新日報』(明治21年2月24日付け)









◎造靴の近況・・・・・同品の需要は一昨十九年より一層頻繁の状況なりしも、昨年九月ごろ百般の不景気に伴われ、為めに製靴のごときもにわかに販売の数を減じ、わずかに一二の職工により本業を営む者はあるいは廃業の不幸を見るにいたれり。一昨年より昨年七月ごろまでは職工らの賃金も同業競雇の気勢にて、一時不当の前金を貸興せざれば雇い主に応ずる者なきほどなりしが、随時不振の兆候をあらわし、今日においては彼より雇い入れを促すの反状にいたれり。また同業は前年職工が不当の工銀をむさぼりしに懲り、むしろ年期をもって徒弟を養成し授業をなすの勝れるにしかずとて当時なほ徒弟を募りしがゆえに、目今はほとんど職工に余員を見るは、要するに各靴需要の減少せしと年期徒弟の熟達せしと同業組合規約の設けありて、雇者被雇者の間において従来の弊習を脱せしによるものなりという。」

『読売新聞』(明治21年3月30日付け)













◎製靴の不揃い・・・・府下より各地方に輸出する仕入れ靴の製造は随分夥しきものなりしが、近頃頓に販路の閉塞せし有様に立ち至りしは其の原因一ならざれども、重に地方行きといえば粗造勝にして甚だしきは犬の革を染め上げて靴の甲皮に用い、又は清国産の安皮を使用するなどにて、安きは一足五十銭より七八十銭の卸値なるが、地方の需用も追々度合いの進みしかば、斯かる粗製は顧みるもの尠く、今は府下の職工を雇い行きて製造を始むるも多くために田舎の仕入れ靴は先支への有様なりと。皮革商は之に反して各地方より是までになき多量の皮革を買出しに出京する客足最も繁しという。」

『時事新報』(明治21年6月2日付け)








◎営内脱靴・・・・・陸軍省にては追々脚気病の流行する季節に向かい来たりしに、ついては、下士卒に限り貴顕方来観の外は兵営内脱靴を許すむね、昨日それぞれへ達せられたり。」

『読売新聞』(明治21年6月16日付け)



◎区内の靴屋・・・・・天保人種はおいおい退去して、明治人種の世の中となるにつき、従来の下駄、雪駄類は三里以外(否)七里けっかい穿く者はあるまいと、天眼通で見ぬいたつもりで段々靴屋を思いつく者多く、当区内には一時十一件ばかりも靴の製造をなす家ありしが、世間のことは万事見込みどおりになるものにも非ずして、あいかわらず、チャリチャリ主義の番頭どんや、カラコロ賛成の通人少なからず、案外売れ行き多からぬと見え、当夏以来同業者の廃業せしもの三軒におよび、昨今引き続き営業中の者は八軒なるが、元来この商売は夏向きはいたって注文少なくして、秋冬のころに重に製造することなれば、本月差し入れよりは、ぼつぼつ仕事も増加せしよしなり。」

『神戸又新日報』(明治21年9月13日付け)







◎靴展覧会・・・・・昨年中上野広小路へ自由靴の店を開きし稲垣勝次郎氏は、昨十五日午後より池之端なる無極庵において靴展覧会を開き精製の靴を陳列せりと。」

『時事新報』(明治21年9月16日付け)




◎鉄靴製造会社・・・・・日本橋区通三丁目一番地靴営業佐藤民蔵氏は、今度鉄底の靴を発明し目下専売特許の出願中なれば、許可の上は大日本鉄靴製造会社を設立せんと、昨今同靴の製造に着手中のよし。右の靴底は鉄線にして其の中に種々の薬品を調合せしものなりという。」

『時事新報』(明治21年10月11日付け)




◎靴と下駄・・・・・府下三百有余戸の靴商店も客月来一ダース十二三円なる田舎行きの数物より得意筋注文も相応の景気にて何れも多忙の由なるが、中にも桜組を始めとして優等品のみ取り扱う一二の製造所は一月用のあつらえる客の絶え間もあらざるよし。扨同品の格好は昨年来、指先細くつま上がりの不流行にて、当季注文の重なるは深ゴム三円五十銭より上等五円五十銭、又コロツア入りも近頃かなりの需用にて、三円五十銭より六円位、礼服用は五円より六円内外なりと。又昨今の新形とてゴム引きの甲皮に鹿の染革を継ぎ合わせ茶の絹ゴムを施したるは礼服用と遊歩を兼ねし洒落靴にて、梓士の望みを属するものなりとぞ。婦人靴は著しく地に落ちて注文皆無の姿なり。之に反して、上等の婦人駒下駄は本年稀なる盛況なれば、日本橋上?町なる大和屋其の他名を得たる贅沢下駄屋は得意の色を現しつつ昨年に比ぶれば注文口も増したるが、柄行きも又昨年に異なりて頗る上品向きのあつらえ多く、鼻緒は黒ビロードの七分、広さは八分位にして、台は一寸七八分桐の糸柾、又黒漆の光沢消しに藤或は南部の撰表を附したる等の新形も芸妓と官員の婦人に流行し、極上等一足二円四五十銭次二円より一円六七十銭、男向きは矢張り鼠鹿革鼻緒に南部表の普通にて、上等一円六七十銭より次一円迄の品々は殊に注文多しという。」

『時事新報』(明治21年12月5日付け)




明治22年

 [★2月11日、森有礼(我が国初の文部大臣)、国粋主義者・西野文太郎(25歳)に暗殺される。暗殺された理由は、二年前に森が伊勢神宮に参拝した折、靴のまま神殿に入ろうとしたことにあるといわれている。]

 「◎靴に注意せよ・・・・・昇殿を許されたる人々は何れも心得あるべきは申すまでもなきことなれども、これまで参内する人の内には平常道路にて用いる鋲打ちの靴、あるいは泥に汚れたるままの靴を着用せらるるむきもありしやに聞きおよびたるが、新造の宮殿は大抵寄木細工の板敷きにて、朝暮磨きたてたる所なれば、鋲打ちまたは泥靴にて一度通行すればたちまちその後を留め、主殿官の迷惑は申すまでもなく、結局本人欠礼の名を免れず。元来文武官を問はず何れの国にても宮中へ参入する輩はそれ相当の靴を用いるの慣わしなるがため、今までのごとき有様にては外人よりの嘲笑も免かれざる所なり。大方の殿上人、深く注意あらんことこそ望ましけれ。」

『読売新聞』(明治二十二年一月十一日付け)









◎東洋靴商社・・・・資本金一万円をもって東洋靴商社なるものを設立し、靴一式を製造し広く内外に販売する目的として事務所を日本橋区新和泉町一番地に設けたき旨、昨日発起人日本橋区元四日市三番地西川卯三郎外二名より其の筋へ届出たるよし。」

『横浜毎日新聞』(明治22年1月19日付け)











 「◎府下一日の製靴高・・・・・府下にて同品を製造する工場は大小三百余戸にして(海陸及び官省の供給品は省く)一日の製造高は目今の調べによれば、凡そ千内外の由。爾三年前に比しても大差なけれども、各地方においては一昨年末頃より追々同品の製造家を増し、今は仕入れ靴の田舎行きは皆無の有様となりしが、府下の製造高に減少を起こさざるは、同業者が不景気を唱ふるも其の需用を増したるや明らかなり。しかし田舎仕込み物のごとく三割ないし三割五分にも廻るべき過分の利益を占むる事のできざるより、同業者は近来の不景気を呼びしという。」

『時事新報』(明治二22年3月28日付け)




明治時代後期(明治23年〜明治33年)





明治23年






◎はき物無用の札を撤す・・・・・警視庁の門を護る巡査曰く。鞋を穿くものはビシャビシャ然たり。下駄を着くる者はガタガタ乎たり。ガタガタビシャビシャ、彼の靴の音のキュッキュッと何ぞ異はらん。あなた方少しも遠慮はいりませぬと、既にして頭を掻いて感歎して曰く。さても新総監の度量の広さよ!」





『国民新聞』(明治23年3月11日付け)






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◎給仕の洋服下附を廃す・・・・・警視庁にては、これまで給仕一般へは特に洋服を下附し来りし所、庁費省略のため今年度即ち本月一日より之を全廃し、靴料のみ下附することに定めたるよし。」

『時事新報』(明治二十三年四月五日付け)





◎米国婦人の手足・・・・・米国の婦人は常にその手足の小なるに誇り居りしが、近頃ある統計学者が注意して集めたる統計の結果によれば、米国婦人の手足は漸次その大きさを増すもののごとし。即ち通常の米国婦人の手袋及び靴は他国婦人の手袋及び靴と漸くその大きさを同ふするの傾きあれば、遠からずして米国女子今日の靴は彼等の足に適せざるに至るべし。この現象の原因は未だ確知することあたわざれども、米国においてビールを飲むの習慣漸く盛んなることもこの一原因なるべしと思はる。一説にビール多く飲用する国の婦人はワイン酒を多く飲用する国の婦人に比して大なる手足を有すといへり。但し何ゆえにワイン酒は頭部に登りてその大きさを増し、ビールは只手と足のみを肥満せしむるかこの事は動物学上の一疑問なり云々と日本ガゼット新聞に見えたり。」

『横浜毎日新聞』(明治二十三年四月五日付け)









 ◎新総監の諭達・・・・・一昨日府下各警察署の内勤警部一名宛を警視庁へ召喚せられ、田中総監より自今各署の玄関に掛けありし(靴の外昇降を禁ず)と大書せし掲示札を廃すべしと口達ありしに付き、昨日より各署とも該札を取り除きしという。」

『読売新聞』(明治二十三年二月十二日付け)





 ◎靴の外にても昇降を禁ぜず・・・・・逓信省にても警視庁と同じく、一昨日より靴の外昇降を禁ずとある札を取り除くこととなれり。」

『読売新聞』(明治二十三年二月七日付け)





◎亀岡町の不景気・・・・・浅草亀岡町は、鼓、太鼓の製造地にて全町この業に従事せざるものなき程なりしが、近来田舎の不景気なるため太鼓の売れ方非常に悪く、大抵は靴革製造の業を始めしが、この業は他に類多くして中々太鼓のごとき景気にあらず。ことに和楽衰微の影響をもって高尚なる楽器はただ外国向きの雛形を造るにすぎざれば、とても従前の業にてその振興を計らんはおぼつかなし。もっとも、同町は幕府の昔より自ら自治の体裁をなし居るにつき、諸事大いに整い貯金等もたくさんあれば、一同は立派なる合本会社を設けて土地の不景気を挽回せんと目下計画し居るよし。」

『読売新聞』(明治二十三年五月一日付け)



◎博覧会見聞雑記・・・・・靴類は多年この道に委しく堪能なる程ありて京橋区築地一丁目桜組の出品は長靴上靴男物女物共に申し分の有るへきはずなし。然れども近頃漸く声価を博したる神田区連雀町村上勇雄氏出品の同品は世界流行の根城とも中心ともいうべきフランスより賞状得たるが如く、物によりては桜組を凌駕すること一倍なる者あり。老舗なりとて油断はならじというものあれども、、、。」

『中外商業新報』(明治23年6月13日付け)






◎壮士車賃の代わりに靴を脱ぐ・・・・・一人は後鉢巻をしたる車夫、今一人は銃猟帽子を被った壮士、一昨日の午後深川富岡門前の往来にて口角泡を生じての大激論、ヤイ乗り逃げ野郎太へ奴だ警察へ来い、いやしくも天下の志士を目して無礼の一言、志士でも虎でもかまうもんか車賃を払わぬから乗り逃げと言ったがどうした、既に手込みにもなさんず勢い、壮士遂に辟易し靴を脱いで同町の某方へ預けやっと二十五銭才覚して車屋に払い渡せしが、その事の起こりを聞くに、壮士は四谷荒木町の某、車夫は富岡門前町の梅吉とて、去る二十三日壮士は諸処を乗り回し賃金は何処そこで渡すと云いしゆえ、梅吉はその気で居りしに、壮士のいった処にては払方を断ったから、同日梅吉は壮士を捉へ途中で激論を始めたのである。」

『読売新聞』(明治23年10月30日付け)









◎靴製造人の繁忙・・・・・府下の靴製造人は、目下非常に繁忙を極め、職人の手間料上等一日一円より下等二十五銭までに騰貴す。」

『国民新聞』(明治二十三年十一月十四日付け)





 ◎下駄は無用・・・・・貴衆両院とも下足番等の設けなければ、傍聴人は必ず靴を穿つべしのこと。」

『朝野新聞』(明治二十三年十一月二十三日付け)





◎龍動(ロンドン)人の靴のへり高・・・・・龍動においては、日々市街を歩む者三十万人程にして、すり減らす長靴、靴の皮の分量は一日に一トンなり。これを一年の額に積もれば幅六インチ厚さ一インチの四分の一の皮帯にしてもって龍動(ロンドン)より米国の新約克府(ニューヨーク)に達すべしと。」

『国民新聞』(明治二十三年十一月二十六日付け)





◎博覧会での新商売・・・・・深川冨吉町の津田六蔵という人は、今度博覧会の開設につき、会館の清潔と観覧人の便利とを計るため、会館入り口、ならびに表門外において、靴磨きと洋服の塵掃除をなすという。」


『読売新聞』(明治二十三年三月二四日付け)






◎大蔵省、下駄のままの昇降を許可・・・・・大蔵省会計局にては、支払いの金受け取りのため人民の出頭するに、いっさい靴の外昇降禁止なりしが、かくては不便なりとて、山本局長の注意により、このほどより下駄のまま昇降を許せり。」
『江戸新聞』(明治二十三年五月六日付け)

















 「
◎吾妻下駄の始まり・・・・・日和下駄に畳をつけ素足にカラコロ、カラコロと履いて歩くものを吾妻下駄という。このごろ始まりし流行にはあらで、古くより茶屋の上さん、歌妓などの間に行われ、今は一般に用いるようになりたるが、この吾妻下駄の始まりは五六十年前のころと。
深川に小間物屋渡世の吾妻屋藤吉という者ありけり。衣類持ち物よろづ如才なく、俗にいう意気な人なりしが、この男さて何かおもしろい下駄もないものかと工夫の末、歯のある下駄に畳をつけ履きしに、深川の春たけなわなりしころとて、たちまち歌妓の間に流行り、吾妻下駄、吾妻下駄とて何れの下駄屋にもあるようになり、幾久しく今日までも廃れず早や流行を通り越してお株になりたり。」


『時事新報』(明治二十三年八月十一日付け)



◎芝罘港に於ける靴工の景況・・・・・、、、」

『東京新報』(明治23年9月17日付け)




◎チョンマゲ代議士靴を穿つ・・・・・チョンマゲに相応なる羽織袴に柞歯の下駄を穿ち懐ろ豊かに緩歩する芳野世経氏も、この節は和服に半靴を穿ち居るよし。氏は昨年憲法発布式の時は靴を他より借りて穿きしとのことなるが、この度は新調したりと見ゆ。」

『読売新聞』(明治二十三年十一月十九日付け)










◎巡査心得・・・・・今日国会開院式につき、各警察署非番巡査は総出勤にて、御道筋等を警衛するはずなり。当日暴風雨の外は一切長靴を用ゆべからずと昨日、各署へ達したり。」

『朝野新聞』(明治二十三年十一月二十九日付け)



明治24年



  「★米国留学から帰国した新渡戸稲造が、母校札幌農学校への土産に、アメリカ製スケート靴三足を持ち帰る。」


  「★アメリカ人老技術者ホイットコム・ジャドソン、靴を履くたびに靴ヒモを結ぶ不便さを解決しようと『ファスナー』を発明。」






◎靴の献上・・・・・長崎県浦上山里村の岩戸秦吉は、天皇陛下、皇太子殿下へ自製の靴を献せんとす。村役場前例なきをもって、取り扱いの儀を更に郡役場に伺ふ。」

『日本』(明治二十四年三月三十日付け)




◎桜組の宴会・・・・・向島の桜組は来る十九日、植半において観桜の宴会を開き、桜芸妓、小勝、小峰、小松、えん、いろ、玉助、君助、桃太郎、小染、丸子、小清、とん子、枡子、小みよ、亀子等をして揃いの着物で踊らせるといふ。」

『改進新聞』(明治24年4月11日付け)


 


◎清国水兵及び服装・・・・・今回横浜へ入港せし同軍艦六隻の乗組水兵は総計二千有余名なり。其の服装は金巾浅黄地の箇袖の上着に、同色のズボンを着け、足には清国の雨靴様の物を履き、頭に麦藁帽子冠り、右周りに北洋水師何々艦と記し、又上衣の胸部にも前同の文字を記載しあり。全体より評すれば至って粗末の服装なり。」

『東京日日新聞』(明治24年7月7日付け)









◎靴師、製革師の現況・・・・・例年靴師の大繁忙なるは十月より翌年五月ぐらいまでなれば、目下は至極ひまな時なるが、加えて当年は一般の不景気に押され実に居喰い同様の有様なりと。また聞くところによれば、府下において一年間に使用する靴底革は大概八十万円、内インドより輸入するもの三十万斤以上もあるくらいなれば、製革業は靴師の閑暇なると共に品の善悪にかかわらず一向品動きなき模様なありと。」

『読売新聞』(明治24年8月1日付け)




◎軍用靴の改良・・・・・近来府下において製造する護膜引布の品質漸次精良に赴き、殆んど舶来品と甲乙なきまでに進歩したるが、猶昨今試みに彼のズック及び雲斎の両種を原料として之に護膜引きたりしに、案外の上出来にて、夏季の敷物又は座布団杯を製するには最も適当の品なりという。然るに某陸軍会計監督は早くも該品を製靴の材料となさんことに着目し、近頃右護膜引布のズック及び雲斎両種を用いて各々一個の半靴を製し、自ら之を穿ちて運動を試みたりしに、屈伸自在にして且つ定期の保存にも堪ゆべき見込み充分ありを以って、同監督は其の効用を具して、之を陸軍大臣に上申し洽く軍人の使用に供し、遂には現用の革靴を廃せんとの目的を立て、目下二三の当業者を招き、該原料の価格及び製造賃等の打ち合わせの最中なりと聞く。この事愈々実行せらるるにおいては、其の代価の如きは現用革靴の半額にて充分なるべしとの予算にて、保存上のみならず外観も頗る宜しければ、想うに其の使用は軍人社会のみならず、遂には世間一般の嗜好に適し大いに販路を開くに至るべしといふ。」

『東京日日新聞』(明治24年9月12日付け)





◎洋服及び靴の新流行・・・・・追々冬服の季節に向かいたるが、昨今ボツボツ注文あるはモーニング又はセビロにて、フロックコートは少しも注文なし。又靴の新形は三号形と称する爪先の平らなるもの流行するよし。」

『東京日日新聞』(明治24年9月18日付け)








◎麦藁靴の出品・・・・・岐阜県有志者は今回米国大博覧会へ麦藁靴を出品せんと目下準備なりと。
『国民新聞』(明治二十四年十月二十日付け)







 [◎靴磨・・・・・一双の靴、これを磨けば一日十銭を得ると同業の小僧色喜多し。]

『中正日報』(明治二十四年十月二十一日付け)







◎靴みがき・・・・・街頭を呼び歩きつつ到る所にて、ごしごしやるなり。故に途上ぬかるみに踏み込みても、この大旗さしかざしたる御大将に逢えば、たちまち濯々たる新らしき靴となすを得べし。」



明治時代の街頭靴みがき

『国民新聞』(明治二十四年七月十日付け)











◎夜店の靴売り・・・・・ほの暗き燈火の下にうづくまり、ほの怪しげな靴を売るなり。」



『国民新聞』(明治24年10月14日付け)








◎結婚式に坊主の洒落・・・・・これほど可笑しくもまた心配な結婚式はあらざりしと、ある英字新聞に投書せるものあり。先式のごとく新郎新婦相対して立ち、執式の牧師その他新夫婦の朋友それぞれ席について何事も無事に運びしが、指輪取り交わしの一段にいたり新郎はしきりにズボンのポケットを探れども大事に秘め置きたる金の指輪なし。新郎色変わりて一心に探れば何時の名残にやポケットの底に巨大の破れ穴ありて、指輪はたしかこの穴より漏りてその長靴に入りたるなり。満座手に汗を握りて如何になすやらんと見居るほどに、司式の牧師は音楽連中を顧みて歌をはじめさせ、新郎に向かいて、足下長靴を脱いで見られよ。満場の目は新郎の足に注ぎたり。新郎是非なく長靴を脱げば、指輪果して出でたり。これと同時に古靴下の巨大なる破れ穴のあともまた見えたり。この時牧師はイト厳粛なる容貌もていうよう、新郎足下最早足下が婚姻せられてもよき時分なり。これ婚姻式のながびくをせりたてたるばかりにはあらじ(靴下のほげ繕ふてくれる者もなければなるべし。)」

『国民新聞』(明治二十四年三月九日付け)








◎軽便なる泥落し及び靴拭き・・・・・郡村の学校においては廊下及び室内の板敷き等を能く拭いありて裸足にて歩むを得べき様なり居る故さまで不都合を感ずることなかるべきも、靴草履のまま昇降するところにおいては、清潔法に苦しむこと少なからず。さりとて鉄製の泥落し及び棕櫚(シュロ)製の靴拭を用ふれば価貴き割合に長持ちせざるの感あり。しかれども左の法による時は簡便に製し得べくして永久に堪ゆべし。即ち長さ三尺巾二尺許の木框を造り、中に十二本の横木を架し、割りたる竹をたてに並べて格子のごとくなし、靴拭は太き荒縄を平らに巻き細縄をもって堅く綴りて製すべし。生徒をして出入りにその上を踏んで通行せしむる時は、能く汚泥を拭きさることを得べし。」

『国民新聞』(明治二十四年二月五日付け)






◎靴と脚半・・・・・目下我が軍隊の靴不完全なれば、軟製に改良し併せて歩兵の脚半を廃せんとの議ある由。」

『国民新聞』(明治二十四年十月十一日付け)






◎黄昏靴を盗む者多し・・・・・昨今下宿屋その外の家々にて靴の盗難に罹る者非常に増加し警察署によりては一日平均五六件も訴え出る由にて、盗難に罹るは薄暮の頃に多く、また昼間といえども油断ならず。而して靴盗み去る手際を聞くに、曲者は表より覗き込み横柄に取次ぎを乞い、取次ぎの者出てくるまでにその辺にある靴を袂などへ押し込み、何かくだらぬ事を尋ねて立ち去るごとき手にて盗難に罹る者尤も多しという。」

『国民新聞』(明治二十四年一月三十一日付け)








[◎靴盗人多し・・・・・昨今警視庁に届け出づる窃盗件数は日々百二三十件のよしにて、其のうち最も多きは靴盗人にて、四谷、麹町辺は特に多しといふ。]

『時事新報』(明治二十四年二月二十四日付け)






[◎日本の舞踏米国に流行す・・・・・米国の一新誌モーデルンソサイエチーの記す所を見るに近ごろ日本の踊は米国ニューヨーク府の貴女仲間に流行せり。蓋し日本事物の流行熱は未だ消失せず、今や日本の踊は米国へ輸入し来り、交際社会は喜んで之を迎ふるに至れり。ニューヨークの貴女に踊を教ゆる日本女子オアナハル嬢はすでに十六歳にしてその美麗なること日本の菊花の如し。ニューヨーク貴女の踊を習う時は単に長き足袋、半靴及び膝の上四五寸の所へ達する股引を穿き、腰のあたりに布をまといコルセットを用いず腰より上部を広き帯にて巻くのみ。当今四名の貴女はフカクガワと呼べる踊を習い他の三名はステテコを習へり。これ等の踊は米人の未だ見ざるものにして全く日本固有の所作を示し大いに愛すべしと云へり。]

『時事新報』(明治二十四年五月二日付け)





◎元お公家様、靴代請求に風流な言い訳・・・・・東多摩郡中野村近辺にお住まいの華族正四位子爵殿の御宅へ、四谷塩町一丁目の靴屋清蔵が、去る三十日靴代と直し料を請求に出かけ、中の口に至り書付を出せしに、しばらくして取り次ぎの者出で来たり。和子様の分だけお払い申すゆえ、この分は盆まで、待たれよとの仰せ。またこの書付は面白く思しめされ、裏に御返歌の記しあれば持ち帰られよと、靴屋に手渡して奥へ入りたり。清蔵は和子様の靴料を受け取り、台所口へ廻り一礼述べて快く帰宅し、かの請求書を出し見るに、朱筆にて文字を綾どりあるをつくづく見れば『二月より六月までの御靴代、差し引き残る二円八銭』と読み下せり。裏に朱書にて、『靴に似て帆上げて通る矢走船、膳所廻るまで待てと答へよ』とありたり。さすがは以前お公家だけ、面白き言い訳なりと語りたる者あり。」

『朝野新聞』(明治二十四年七月二日付け)





◎中将殿の靴は何処へ行った・・・・・赤松海軍中将の一行は佐世保丸にて六月六日厳原に至り、八日佐世保に帰港せしが、六日の夜のことなりき、伊藤春日艦長はその一行を招き、私宅にて小宴を催し十一時ごろ各興を尽くして別れる時、フト見れば中将其の外七人の靴どこへ影を隠せしや見えず。主賓顔を見合わせて驚けども詮方なし。よって七人の人々は何れも草履を借り受けて帰宅したり。後に隣家の小僧が盗み取りしとわかり取り戻せりと。」

『国民新聞』(明治二十四年六月十六日付け)






◎靴盗人・・・・・近来、靴盗人いたるところに甚だしく、その割り警察署への届出少なきは何ぞというに、通常靴一足ぐらいに種々の手数を労するは面倒と厭い無届に過ぎ去るもの多きなりと。さればこれらの盗人は公然市場へ持ち出し盛んに売買する由にて、つまり盗むに容易にして、売りさばくも亦た容易なるにより、追々に増加するならんといへり。」

『国民新聞』(明治二十四年六月九日付け)





◎女生徒の狼狽・・・・・『アラ糸子さん、ずるい事ヨ、手八を散いて』『そうじゃないワ、村山さんが散いたのヨ』などと一昨日の午後六時ごろ本郷区内下駒込村の某私立の女学生梅村八重(十八)西田糸子(十六)村山みさ(十七)矢田春子(十六)の四人が花カルタの遊びをしている所へ、靴音高く入り来たりしは巡査ならんと打驚き、何れも裏口へ逃げ出したゆえ、糸子はため池に落ちて大困り。ようやく、小遣いの男が駆けつけ救い上げたので怪我もなかったが、その中の矢田春子は何処へ行ったか今に行方も知れぬ由にて、巡査の靴音と思ったのは、教員某が入り来たりしをスエキズの一件から、うろたえ騒ぎしものなりと。」

『都新聞』(明治二十四年二月十七日付け)




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明治25年

  







◎兵隊の靴を御手に執らせらる・・・・・去る九月三十日の事なりけり。宮城の御守護を司れる近衛の守衛隊司令官の許に侍従来たりて、突然兵隊穿つところの靴一足をしばらく借りたしと求めけり。司令官はその何用なるかを知らざれども、いとやすきことなりとて、側えに立てる近衛歩兵第四聯隊第二中隊の千原中尉が所部なる一等卒小山重五郎に、それ進ぜよと命じけり。重五郎は何心なくいいと答えて、短靴の左足を脱して捧げけり。侍従はそのままその半足を提げて立ち去りしが、やや久しくして音沙汰あらず、それより二時間も経しかと思うころおい、侍従は件の靴を返し来たりて、かたじけなしとぞおきける。奇しき振る舞いしたもうことかな、その靴は何の用にか携えたまいしやと問えば、侍従は容を正し、先ほど御前に侍りしに、陛下には急に兵卒の靴をみそなわしたし、今その穿てる一足をここに持ち来たれとおおせらる。御言葉畏みて、この靴こそ借り行きしなるが、汚けれども勅なれば詮すべなくて、畏こみて御前に供えけり。この時陛下にはかたじけなくもその靴を御手に執らせられ、ややしばし仔細にこの靴の資質構造などをみそなわしたまい、深く思し召すところあらせらるるよう伺い奉りしが、やがて返せと仰せらる。かくてぞ時間を経にけると語られけり。居合わす将士より兵卒にいたるまで、これを聞きてことごとく感激し、陛下の軍卒を思わせたまう事一にここに至るや、今にも敵国外患あらんには良し、この身をせい粉にするをもって、この聖主の天恩に報じ奉るべしとの意色その面に表れて、鬼とも取り組まん虎ほん御林の兵士が、しばしの間は皆粛然として感涙の痕を留めぬはなかりけり。よって士卒口々に、この靴ふたたび穿たんはもったいなし、隊の名誉に保存せよとて、重五郎には別の新らしき靴を与えて、これを軍隊の一宝とはなしたりとぞ。」

『大阪朝日新聞』(明治二十五年十月五日付け)







◎奇妙なる流行・・・・・洋服に高足駄、雨を冐して官衛に出入りする中等以下の官吏の扮装長靴の節倹とは善き思付きなり。」

『国民新聞』(明治二十五年四月十五日付け)

 



 「
◎靴の外、昇降を禁ず・・・・・すなわち日本の下駄は許さぬとの意味ならんか。靴は下駄にあらずや。西洋の下駄はさしつかえなし、日本の下駄は許さぬとは不道理なり。靴必ずしも清潔ならず。随分泥だらけのやぶれ靴をはく人も多し。西洋風の家屋にては断然下駄のままの昇降を許すべし。(平等居士)」

『神戸又新日報』(明治二十五年九月十八日付け)

























 「◎靴履上庁・・・・・を許されしは明治四年今月今日、百官の。」



『国民新聞』(明治25年12月17日付け)








◎靴の注文・・・・・一月に近づきたるを以って当地の靴製造屋への注文は可なりたくさんとなりたるために、長野商社に対する象皮、中牛、小牛、フランス皮等の注文も増加して売れ行きよろし。」

『信濃毎日新聞』(明治25年12月23日付け)









明治26年



































「◎青年自殺を謀る・・・・・牛込破損町一番地靴職青山兼五郎方にて
昨年の秋召抱えたる深川区東大工町六十一番地士族
大八木李善(五十二)の二男天野国太郎(十九)は
去る十九日無断にて主家を去り翌日午前九時ごろ
親許へ行き主家にて近日暇を出す様子故逃げて来ました
というを親爺不審に思い主人方へ連れ行き様子を聞けば
少しもそういうことはないと言われ
親爺は後来を戒めて帰りしに如何なる訳にや
国太郎は同日午後一時前裏手の共同便所にて
細工小刀を以て咽喉をつき朱に染まって苦しみいたるを
近所の子供が発見しその筋の検視を受け
傷口を三針ほど縫い目下治療中生命危うし。」

『東京朝日新聞』(明治26年3月22日付け)


























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◎世界大博覧会(渡米画報)・・・・・桑港街上靴みがき。」



『国民新聞』(明治26年6月7日付け)




「◎かずかず・・・・・、、、▲近頃水死する人の多いは驚く程なり。
京橋区築地三丁目十三番地、内外用達会社の靴職工
金子富五郎(三十八)は浅草今戸町八十番地に住み、
家には女房と二十歳と十七歳との娘があるに、
一昨日の午後四時頃築地明石町地先の海中にて
泳いでいるうちコムラ反りがして溺死。」

『東京朝日新聞』(明治26年7月25日付け)





◎角五、倉皇罪を谷将軍に謝す・・・・・井上内相はさる二十九日函館より航して室蘭に着したるが、その翌三十日は輪西屯田を巡視して鉄路夕張に赴かんと客舎対面の桟橋より船を命じてエトスケレップに渡らんとし、すでに客舎を発するや、かねて函館まで出迎えその後寸時間も伯のかたわらを離れずして巾着とまであだ名を取りし角五は、何等の不覚ぞ大臣がすでに桟橋まで進めるに影だに見せず、人々皆不思議と思いおる途端に、あわただしく角五は階子段をころぶがごとくに下り来たり、倉皇狼狽、有りあう靴を穿ちて大臣の跡を追はんとせしに、舎主とがめて、その靴は貴客の靴にあらず、貴客の靴はかしこにありと言うを耳にもとめず、何だれかれの靴を問うひまやあると一目散に駈け出し、わづかに大臣の一行に加わることをえてけり。しばらくして将軍谷子爵は、塵別停車場に赴かんと山内侯および随行員と共に楷を下り来たり、穿んとするに靴なし。いかにと尋ぬれば、恐る恐る、舎主は角五の有態落もなく陳じたるに、将軍は微笑しながら、よくあわてたる者よと、そのまま窮屈をしのび角五の靴を穿ち、塵別に赴きて汽車に投ぜり。すでにして角五は伯と共に乗車し将軍に向かって平身抵頭しきりにその粗忽を謝せしに、将軍は悠然わづかに一笑を漏らすのみ、言また靴におよばず。角五ため息一番汗をはらふて再び冗弁をもてあそび始めたりと。」

『読売新聞』(明治二十六年八月十日付け)






◎角五周章てて谷将軍の靴を穿く・・・・・去三十日、井上内相が室蘭を去りて夕張に赴くや、井の角少し期に遅れ倉皇狼狽、内相の後を追はんと旅店(丸一)の階子段を転ぶがごとくに下り、急はしく靴を穿ちけるを、主人は認めて「其れは貴方の靴でありませぬ」といえど耳にも入れず、遮二無二足につきかけて駆け出で、僅かに内相の一行に加わりたり。ややありて谷将軍は山内侯及び随行員と共に徐ろに階子下り来たり、靴を探せど見へず。丸一の主人に尋ねたるに、始めて井の角が所業なりと知り、「ハハハよくよくあわてたと見える」と打笑いながら窮屈を忍び井の角の靴を穿きて去れりと。」

『国民新聞』(明治26年8月11日付け)








◎洋服屋・靴屋・・・・・繕いものはかなり出でたれど新規の注文は其の半ばにも至らず。総仕事の二分半ないし三分位の割合なり。但し仕入れ物問屋には流行トンビの注文少しくあり、概して手明きの模様。靴屋にては中等以下の職工の如き鼻の下がひ上がるとて、車夫に転ずる程のひっ迫。唯だ直しものが此の程来ポツリポツリ。」

『都新聞』(明治26年12月26日付け)




明治27年

 

日清戦争勃発!

 「★日清戦争により、軍靴生産量が激増」


◎縫工靴工の結果・・・・・陸軍各隊に在っては一昨年来縫工靴工を設置して以来日尚ほ浅く、明年以後にあらざれば其の成績について判断を下し難きも、今日までの処に徴すれば各隊とも良好の成績を得、就中第五師団各隊は縫工靴工設置計画上尤も歴史の古きだけに其の成績尤も好く、今日の進歩は以って将来の盛運をトするに足るべしと或る人は云へり。」

  『東京日日新聞』(明治27年3月29日付け)




諸職工及び人夫の用意・・・・・鍛冶職、靴職、仕立職その他の人夫業は一朝徴発の令に接すれば、六時間内に出発しうるようそれぞれ用意しおるよしなり。」

『読売新聞』(明治二十七年七月四日付け)











藤田組事件・・・・・、、、商業は大阪鎮台にせんと靴の製造を主とし其の他みだりに多端を許さぬ。井上馨の許可を受く可き事藤田伝三郎今般一家の法則本業目的を達するため井上馨の差図を屹度相可守事、、、
斎藤氏は明治十年西南の変の時軍事に関する電信が藤田組に残り居たるは畢竟同組に宿泊したる山縣伯が軍人の資格を忘れて漏らしたるならん更に切言すれば投機の商売に利用せしめたるならんといへるも伯は当時戦地に在りて硝煙弾雨の間に馳駆しつつありて大阪に在るべきはずなく又足を大阪に留めたる時も三橋楼といへるに投じ藤田組に宿泊せざりしことは前号に報じ置きたるが如くにして尚聞く所のよれば伯は未だかって藤田組又は藤田家に一泊だもしたることなしといふ。然るに斎藤氏は、
広島鎮台、大阪鎮台、熊本鎮台の一手販売をば藤田組が受けたということにおいては私は実に不可思議に堪えない。之に就いて私は思い当たることがある。即ち藤田組の内においては明治十年西南戦争の時において藤田組の案内に陸軍省の軍事の時の電報が落散って居たということは確かである
と演べたり、、、藤田組は近年いおいてこそ用達、土木建築、鉱山、諸会社株等を以って業務のおもなるものとするも、明治の初年においては専ら陸軍用靴被服の用達を以って目的としたり。、、、靴被服とても藤田組の独占にあらず。即ち大倉組の如きもあり又大阪には相応の用達二三人もありて物品の優勝と価格の低廉を以って相競争したるなれば藤田組が一手にて利益を壟断したりとの説はびも?るべきの事実なし。、、、藤田組疑獄顛末、、、
。」

『東京日日新聞』(明治27年5月30日付け)











軍用草鞋の製造・・・・・陸軍省が軍用靴、軍用草鞋の改良に就き工夫を凝らし居れることは予て聞く所なりしが、今度麻尼刺麻にて織りたる帆綱(西洋船舶に用ふ)の古びて其の用をなさざるものを買い入れ、之をほごして試みに軍用草鞋若干足を作らしめ郵便脚夫其の他に穿たしめて実験したるに湿気を弾くの力に富み丈夫なること他に比類を見ず、一足にして六十日間の奔走に堪ゆるものなることを発見したるに就き、引き続き之れが製作に従事せしめ居ると云ふ。」

『東京日日新聞』(明治27年7月15日付け)


◎靴脱ぎ器・・・・・四谷塩町一丁目村上斎方にて販売する同器械は専売特許品にしてすこぶる便利なるものなり。」

『読売新聞』(明治二十七年七月二十日付け)






桜組への注文品・・・・・此の程ある筋より桜組へ注文したる長短靴、雑袋、水瓶、脚半等は非常の多数にて、職工は徹夜して調製し居る由。」

『万朝報』(明治27年7月20日付け)









草鞋百万足・・・・・物品の献納中最も多きは草鞋にて、目下馬関の集積場にある分は凡そ百万足に達したるよし。草鞋は朝鮮内地には左程必要もなけれど、清国内地には稲の植え付けなき故、日兵もし清国地へ入る事もあれば其の節は大いに需用を見るに至るべしという。」

『万朝報』(明治27年8月19日付け)








奇特の職工・・・・・大阪府西成郡難波村の志波善次郎(四十七)は内外用達会社の製靴場に雇われ日給二十銭を取るものなるが、同人は今回平素節倹をなし、何か国事に用いんとて積み立て置きたる金二十円を義献したり。」

『万朝報』(明治27年8月23日付け)








◎閑院宮殿下の御靴・・・・・このほど某地に向かって出発あらせらたる閑院宮殿下が御出発前に芝日陰町なる大塚靴店へ注文せられたる六足の靴は底は二重に張り内部は総て毛皮を張り、綿入れ足袋を靴下となす等、防寒の注意欠くるなきものなるよしにて、なおこれと同時に御注文ありし外套は無類の厚羅紗に裏はかわうそ皮をつけ帽覆いは眼ばかり明けたる頭巾のごときものなりしという。」

『読売新聞』(明治二十七年九月十一日付け)








◎護謨靴一万五千足の注文・・・・・在韓兵士が冬季防寒の用意として其の丈け股に達すべき長靴に内部は軟毛を縫い付け表面に護謨を塗りたるもの一万五千足ほどを製造することとなり、その筋より本所亀澤町なる護謨製造会社に護謨の塗揚を注文したりと。」

『東京朝日新聞』(明治27年9月21日付け)


◎雪靴献納の特別取り扱い・・・・・軍用雪藁靴は先に陸軍省より新潟県の同製造者に命じ調整せしめしに、爾後新潟・青森・岩手・山形等平素大雪の経験ある地方より献納の儀を願い出ずる者多き由なるが、右は既に季節も迫り居る物品なるを以て出願を同時に恤兵部において直ちに承認状を発し特別の取り扱いをなすことに決せりという。」

『読売新聞』(明治27年10月17日付け)


◎可愛い少女・・・・・征清大義の師起こりしより少年少女の美談佳話も少なからぬ事なるが、徳島県那賀郡長生村大字本庄村近藤梅吉長女つる(十一歳)というは同村長生尋常小学校第二年生にて学校に出でてはよく課業を修め常に首席を占めざるはなく家庭に在りてはよく両親に孝養を尽くし甲斐甲斐しくも立ち働く様まことに児女の模範よと近隣の人々の称賛に両親も覚えず嬉し涙に暮れしこともありしが、近頃修身口授の時に同県板野郡應神村大字古川村坂東とらといへる者帯買うためとて母親よりもらいし黄金を軍費の内へ献金せしとてその地の新聞に掲げありしことを教員より聞き、つるは一方ならず感に堪え、内に帰るやかねて自分が貯えあるを献金したしと父に話せしに、我が子ながらも殊勝の者と父もその志を感賞したりしも何分些少の金なれば献金の道もなく後日また何かよき折りもあらんとて諭し置きしが、今度同校職員生徒一同より陸軍恤兵部へ草鞋三百足を寄贈するの計画ありとの事に、つるは喜び勇んで父にも相談の上百足だけ献納せりとぞ。」

『読売新聞』(明治27年12月4日付け)






















明治28年




 ◎鉄底靴・・・・・東京日本橋区通り四丁目六番地、佐藤民蔵氏の発明にて、昨年六月専売特許になりし鉄底靴は、表皮と底皮の組み合わせを圧搾機にて堅牢に取り付け、容易に水の浸入することなく、かつ普通の品に比すれば、ほとんど二倍を保存して、皮底のごとくしばしば修繕するの費用と手数を省き、かつ価格は普通品に比しおよそ二割方の廉にして、その体裁は普通の靴と差異なしという。」

『読売新聞』(明治二十八年一月九日付け)










 ◎幸田露伴、筆をなげうって靴屋とならんとす・・・・・詩壇の仙才幸田露伴氏は近頃『国会』の小説欄を思軒居士の翻訳もの「海賊」に譲りてより同紙上にはチヨットの姿も見せず。時々博文館の『太陽』にて「明時代の雑劇」と、読みきり短編小説とに筆をそむるのみなりしが、氏はかねて得意の禅学によりてこの望みある明治の文壇をいかなる穢土とや観じけん。氏は不日『国会』を退くと同時に今後まったく文壇と縁を絶ち、筆を砕き、書冊をなげうって飄然蝸牛の庵を出でなんとすと。その行く先や何処とも、白雲を心あてにいざ露と寝ん、草枕旅路の風流を学ばんとにもあらねば深山幽谷に浮世の塵を避けて法体に身を清め経をひもとき香を捻りて真如の月を眺めんとにもあらず。聞くところによれば、府下有名なる靴商某氏が組織せる靴工場某社に入りて、その社長となり、自ら数百の工夫を督してますます工事を拡張し、もって二十世紀の文壇ならぬ、工業界に雄飛せんの覚悟なりとかや。そも文学者と靴屋と何の因縁かある。世には糊口のために随分豹変するもの少なからずといえども、吾人は露伴が平素の人となりを見て、すこぶるこれを怪しむ。或いは傳者の誤聞ならんか。」

『読売新聞』(明治二十八年六月六日付け)




◎諺つくし・・・・・(に)憎まれっ子世にはびこる。」



『時事新報』(明治28年7月14日付け)


 













明治29年

   
 [◎新たなる婦人の職業・・・・・ユウロルク市の一女子、かつてその家豊かにして栄華の中に愛育せられたるが、不幸にも両親に死に別れてより仕合わせ悪しく、今は零落して糊口にも差しつかえるほどに至りしかば、いかなる職業をして活路を求めんかと種々工夫をめぐらしけるが、たちまち一策を案じ知己朋友の家に行き、ブラシをもって飼い犬の毛をこすり、あるいは洗い、または、これを馴らすなど、犬いっさいの世話をなして一週間に一ドルづつの報酬を受け、かなりの生計をなし得たるより、倣ふてその職業につく年若き婦女ぞくぞくあり。目下同市にて、この業により十人並みの生活をなす者百以上に達しよし。しこうして、そのなすべき業とても格別難しき事もなく、飼い犬の顔および手足等を洗い、朝めしを与えたる後、一時間運動をなさしむるだけなりという。また、近来、婦女の新職業として面白き話は、靴を新調する人あれば、その人の足に適するまで代わって履きならし、一足につき一週間一シルリングを得ることなり。人は何をしても食えるものなり。]

『読売新聞』(明治二十九年二月一日付け)







◎米国におけるヘチマ・・・・・我が国より米国に輸出するヘチマの高は年々増加し、昨今米国至る所の薬店にヘチマのなきはなく、皆入浴の節、垢を落すに用い、或は靴の下などに入れて汗取りに用ゆる由。その需要はなお増加する模様なれば、行くいくは一廉の我が産物として多く輸出するに至るべし。」

『都新聞』(明治二十九年五月七日付け)




 [◎新しき靴と六文銭・・・・・欧州にて英国の北部スコットランド、ノールウエー、スエーデン等一帯の地方の習慣として、埋葬の時は必ず一足の新しき靴を足に履かしむるか、或いは棺中に入れることとす。行き倒れ人等を葬る場合には、必ず有志の慈善家は第一にこの靴を買いて死者に履かしむ。この習慣は昔日死者は広漠の地を経過せざれば楽園に到るを得ずとの観念より、靴は亡者の必要物にてこの靴なければ遊魂必ず死せし所に戻り来たりて靴を求むべしとの俗諺に起因し今にその遺風の存せるなりという。我が国にて六文銭を亡者に持たせると同じ習慣というべし。]


『都新聞』(明治二十九年五月三十日付け)









◎日本に注意せよ・・・・・米国オレゴンのウィリアム麦粉製造会社のビームス・ウィリアム氏は香港における同会社のことにつき一年半ほど日清両国を歴遊して帰国せるが、同氏が一新聞記者に語る所によれば、日本より将来本国に及ぼすべき危険は実に甚だしきものあり。之に対する防御法はマッキンレーの保護貿易の外に日本の侵略を防止する道なかるべし。今や日本の諸工業は皆発達し諸工業の技術は次第に進歩し、現に日本人が設置する紡績機械の如きも米国全土の数に超えるに至り、而して之に従事する工夫の如きは概して清国人よりも安き賃金の下に労働する者にて、その一日の賃金は多くは銀貨二十五銭ぐらいなり。之を我が金貨に換算する時は一日十銭強、しかして人口は四千万の多きあり。この労働者はその賃金斯く低廉なるにも係わらず、活発にて気軽且つ性質怜悧にて怠慢なく労働す。現に我が国より日本に輸出する綿花の如きも昨今大いに増加し、且つ日本の靴製造業の如きも大きく拡張せり。斯くその工業の発達せるのみならず多く海外に派出員を出し、その人情風俗を視察し他の嗜好を探り且つ新規の製造機械を買収す。この勢力にて進まば日本は世界の各港何れの所にも廉価品を持って来襲するに至るべし。余は今断言す。即ち当合衆国は日本の製造品侵入に対してマッキンレーの保護貿易法を最も厳格に実行せざるべからず。何ゆえに日本人が斯く廉価に製品を販売し得るやというに、その日々の生活は実に米人が餓死する程の粗悪なる食物にて生活し得らるるにあり云々。」

『都新聞』(明治29年6月11日付け)






 「
◎米国婦人の足・・・・・米国の靴工は、女子の足は年々大となりつつある事を説けり。これすなわち、自転車の流行および戸外運動の流行にきせるものなりという。」

『大阪毎日新聞』(明治二十九年七月十二日付け)












明治30年

   「★『桜組』北品川工場、我が国初の機械(釘打ち式)による靴造りに着手。一日に約500足の靴を製造し、『桜組改良靴』と名付けて陸軍省に売り出す。







◎磨靴器械(図解)・・・・・この図に示す所の磨靴器械はカナダ人が近頃発明して専売免許を得たるものなるが、その仕掛はロールの下に一條の紐あり。靴墨を吸収せしめたるものを之に附す。又器械の両端に柄あり、手を以って之を動かせば靴磨けて美麗となる。」



 『都新聞』(明治30年3月28日付け)












◎奇問奇答・・・・・客ー雪踏では如何?
受付ー雪踏は差支なし。草履も差支なし。足袋、裸足も差支なし。」




 『時事新報』(明治三十年四月十八日付け)














◎熟皮及び靴用品・・・・・舶来皮は外国為替の騰貴と産地高値の影響を受けて小高き相場なれども、需用は格別多からず。商況至って沈静、和皮のごときは幾分か下落の傾きにて、先行猶面白からず。独り舶来生地皮のみ季節に向ひおれば売れ行き活発にして、相場も従って強く二割方騰貴せり。皮及び靴用品等昨日の取引相場を記せば左のごとし。、、、」

 『時事新報』(明治三十年六月十七日付け)






◎蘇峰氏・・・・・一足の靴にて欧米を巡回して帰り、異日登雲の節、之を床の置物とす。その辺如才なからん。」

 『神戸又新日報』(明治三十年七月十八日付け)



     

明治31年


  

◎兼坂靴店・・・・・京橋竹川町の兼坂商店は、従来宮内省その他貴顕紳士、外国人等より注文を受け、盛んに製靴しつつあるが、その都度、新たに意匠を凝らし製造するをもって、すこぶる世価を博せるよし。」

『読売新聞』(明治三十一年十二月十七日付け)




明治32年

「◎行方不明の数々・・・・・、、、又同町二丁目革商植田利右衛門二男利三郎は去る二日の午後六時頃元町一丁目靴商天川栄方と同町靴商支那人星昌方へ懸けとりに行きたるまま同夜十二時になるも帰らぬより家内の者が心配し両家について聞きただすと、利三郎は都合五十三円を受け取りおれば多分平素行きたいと言いおりし東京或いは横浜へ行きしならんとてこれまた捜索中、、、。」

『神戸又新日報』(明治32年2月6日付け)




◎露国船長の暴行(函館)・・・・・去る一日ごろ、函館碇泊の露国汽船ボーブリック号船長某、同国汽船コーチク号乗組員四名と共に同市鍛冶町なる某酒楼に入り、靴のままにて階上に登らんとせしより、番頭は靴を脱ぐべしと言いしも、言語不通かつ船長は酩酊しおりしため、無礼なりとて番頭を殴打し、少妓の三味線を取り上げ、さらに主人をも打撃して負傷せしめ、障子をこわす等乱暴狼藉を極めしかば、楼主よりは警察署を経て領事館に訴え出でしが、領事代理ボリアノウスキー氏は目下東京に滞在中なりしをもって、両三日前書面を送付し来れるにより、同氏は本日ごろ出発、帰函のはずなりと。」

『読売新聞』(明治三十二年五月七日付け)








明治33年


   「★東京女子高等師範学校付属高等女学校、『校内において運動靴をはくべし』という校則を制定。」



◎靴を釣る・・・・・京橋区八丁堀三丁目町田カツ方寄留山口與次郎(十三)は昨日午前十一時頃芝区西應寺町。洗盤職清田文平方の勝手口にある靴一足を竹の先の釘にて釣り出したる処、おりから通りかかりし芝署の群司巡査に捕われたり。」

『時事新報』(明治33年1月10日付け)



◎非肉食者の靴・・・・・英国にはベジタリアンと称して肉食を排斥し、もっぱら野菜物のみを食する一派の木食宗徒あり。彼らは口に動物質の食品を味はざると同時に又足にも動物質の履物、即ち普通の靴を着けるを厭い別にロンドンのある靴師の発明にて布はくより造れる靴を穿つ者なるが、その靴の耐力すこぶる強くして普通の革靴よりも四分の一長く持ち、常にやわらかにして、しかも、亀裂の生じること無し。」

『神戸又新日報』(明治33年1月20日付け)





[◎自動靴磨き機械・・・・・は最新の発明である。米国の各停車場に据え置きて何人も五銭銀貨を入るれば直に靴の磨ける極奇使のものといふ。]

『労働世界』(第六十三号・明治三十三年七月一日付け)



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明治時代終期(明治34年〜明治45年)






明治34年




◎流行の婦人靴・・・・・先年流行の婦人靴は指頭の尖りて、踵の小さく高きものなりしが、こらは、踵の高きため歩行の際、足に心を惹かるること多く、かつ無理に足を縮むるなど、衛生上はなはだよろしからぬとの説医師の側より唱えられ、それがため近頃は、踵も指頭もほとんど男子靴と同様にて、踵の心持ち小さきくらいのもの大いに流行し、現にある二三の女学校にては命令的に、この種の靴を穿かしめ居れり。」

『読売新聞』(明治三十四年十二月二十九日付け)





明治35年

   [★桜組、大倉組、東京製皮合資会社、福島合名会社の各製靴部が合併して『日本製靴株式会社』を設立。]

   「★日露戦争が間近に迫っていることを感じ取った西村勝三、この年、急遽ドイツのモエナス会社からアリアンズ式製靴機械を500台輸入し、翌年5月から軍靴製造に着手した。」







◎靴墨舶来品を拒絶・・・・・数年前までは米国メーソン二印靴墨の声価最も高く、内地製はおおむねこの二印の商標を模造して販売し来たりしが、明治三十年頃に至りて、始めて内地製の商標を附して市場に出せしに、当時は既に製造の法もようやく熟したる事とて、品質も舶来品に匹敵するほどなりしかば、販路次第に開けて輸入品漸次減少し、明治二十九年には二万八千三百八十四円余の輸入ありしもの、昨三十四年には二千円の輸入に過ぎざるに至れる一方には、カラス印靴墨製造所にては年々四千箱(一箱は二十四ダースいり)、松崎製造所にては三千六百箱を製出し、その他の小製造所にて製出する額も少なからず、全然輸入を拒絶するの有様となりたるが、右はまったく品質の割合に価格の低廉なるがためなりといふ。」

『時事新報』(明治35年3月24日付け)」









◎自転車の流行・・・・・に伴い車輪製造所は大いに繁忙を極め旨い儲けのある所より、昨今は靴屋にても上物の売れ行き思はしからざる際とて如才なくも自転車靴製造所といへる看板を出だせし向き多し。」

『東京朝日新聞』(明治35年12月27日付け)






明治36年

 [★京橋のトモエヤ、我が国で初めて機械製一般紳士靴を『マッキンレー靴』と名付けて売り出す。]


 ◎スケート練習部の開設・・・・・日本体育会において近日中にスケートの練習部を開設し一般公衆の入部を許すはず。」

『読売新聞』(明治三十六年六月十八日付け)






 [◎海外新話・・・・・米国富豪の贅沢は耳新しいことでもないが、マダム・バーターという女は金銀で編んだ靴を履いているそうだ。贅沢のほど恐れ入る。]

『読売新聞』(明治三十六年九月十七日付け)






 [◎桜組の槲エキス・・・・・桜組は資本金八万円を以って北海道に槲エキス製造所を設け、真空煮沸装置の器械を据え付け、本年六月より製造に着手したるも、原料の不良なるためか、技術の不完全なるためか、予期の如き良品を得ること能はず、目下改良法につき苦心し居る由。]

『読売新聞』(明治36年9月28日付け)









明治37年


   「★日露戦争時の軍靴の大量需要で、日本の製靴業は画期的に発展。当時の年間生産量は50万足だったというから、そのスケールは日清戦争時の比ではない。業界は一団となって夜業をしない工場は一軒もないほど、連日連夜の徹夜作業を続けたという。」






◎靴泥棒捕はる・・・・・一昨夜八時ごろ赤坂区台町の往来を一人の男が靴八足を提げて通行する挙動の不審なるより、密行巡査に怪しまれ引致の上取り調べると、こやつは神奈川県生まれ田中兼吉(五十)と称する者にて、同夜陸軍歩兵特務曹長安藤岩吉方にて右の品と外套一枚及び金十円を窃取したる旨自白したるが、尚ほ他に犯罪の見込みありて目下取り調べ中。」

『万朝報』(明治37年14日付け)









明治38年






◎香取屋のシューズ下駄・・・・・浅草茅町の香取屋より日英同盟に因み売り出したるシューズ形下駄は履き心地よく実用に適し電車の昇降にはもっとも危なげないとの事。」

『読売新聞』(明治三十八年十月三十日付け)






◎五十円の落とし主・・・・・神田区淡路町二丁目三番地の靴商溝口網蔵の店へ、去る二十五日靴を買いに来た兵士が立ち去る跡に金五十円あったとの事なるが、右は後備一聯隊の兵士冬木只吉より遺失届け出でたので、同人は召喚中。」

『読売新聞』(明治三十八年十一月二十九日付け)












明治39年

   [★西村勝三、勲五等瑞宝章を授与さる。]







◎靴みがき



『東京朝日新聞』(明治39年4月1日付け)





◎靴屋の多忙・・・・・靴屋の忙はしきは毎年年末にて、その次は春先なるが、昨今の好天気に摘み草、その他野外遊歩など段々多くなれる故、何処の店も修繕の依頼にて、なかなか多忙だという。」

『万朝報』(明治39年4月2日付け)





◎靴底耐久液・・・・・京橋区南新堀粟谷支店より発売せる皮革耐久液は農商務省の特許を得、且つ工学博士平賀氏の実験証明せる者にして、一度之を靴底に塗布せば地質堅固となり弾力を増し、耐久二倍以上を保つという。」

『万朝報』(明治39年4月9日付け)





◎皮革運賃割引・・・・・皮革専門運送業、新橋駅前東洋組は横浜大阪の各支店共運賃の大割引をなし、且つ迅速に取り扱う由。」

『万朝報』(明治39年4月16日付け)







◎西村勝三氏銅像除幕式・・・・・かねて向島旧桜組工場跡に建設中なりし西村勝三氏の銅像除幕式は九日午前九時執行されたり。建設者総代大澤省三氏の式辞、之に対する西村氏の答辞あり。銅像は氏がフロックコートにて直立せる所にて、其の高さ一丈四尺、台石一丈二尺にして頗る見事の製作なり。当日の来会者は紳士紳商百数十名に達し、非常の盛会なりき。」

『中外商業新報』(明治39年12月11日付け)





◎西村勝三氏の銅像(此程向島にて除幕式を行ひし)



『万朝報』(明治39年12月13日付け)




















◎西村勝三氏の病状・・・・・多年実業に尽力せし功により昨日特旨を以って勲五等に叙せられ瑞宝章を授けられたる正六位西村勝三氏は千葉県旧佐倉の城主堀田氏の分家なる野州旧佐野藩主堀田子爵の家臣西村平右衛門の三男にして故西村茂樹氏(注1)の実弟なり。維新の際、身を実業界に投じ横浜に出でて鉄砲商を営み、明治四年更に製革業を興し其の製造場を向島須崎村に創設し桜組と名づけたるは世人の広く知る所なり。その後明治八年耐火煉瓦製造の業に従事し品川に其の製造所を設立したるが、何れも能く其の功を奏し、前者は今の桜組株式会社、後者は今の品川白煉瓦株式会社となりて共に大いに斯業界を益しつつあり。氏は十五年中欧州漫遊を思い立ち各国を漫遊して軍靴武具の製法を視察し帰朝後は製革事業の進歩図ると共に軍靴の製造に意を用い桜組を拡張して軍靴武具の製造に従い大いに邦家に貢献せし事あり。政府其の事業に熱心なるを賞し緑綬褒章を賜り勲六等を授けられし事あり。又氏は府民の嘱望を受け一度府会議員に挙げられたることあれども、予は専心実業を以って終始する考えなりとて程なく其の職を辞し専ら事業の経営につとめ、本年七十一歳の高齢に至るまで倦まず、本年夏消化不良を患い夫人けん子を携え避暑かたがた箱根宮の下の旅亭奈良屋に投宿し山中の勝景を友として静養し居たり。然るに八月十日運動のため駕籠にて浅げん山に登り帰途徒歩にて急坂を下りしに、俄かに心地悪くなり帰館後直ちに箱根病院院長岡島行光氏の診察を求めしに、腹部に鶏卵大の腫瘍あり。多分盲腸炎ならんとのことなれば早速東京に打電し赤十字社の岩井禎三及び尾崎市太郎の二氏を招き、又当時同所に滞在中の医師入澤達吉氏をも招きて療養に手を尽くし、少しく快気に向かいしにより汽車にて大磯に帰り一週間滞在の後更に九月二十六日品川町御殿山の邸に帰りたり。爾来同所の医師??氏を始め尾崎岩井両医の外青山佐藤両博士の診察を受け本月十四日佐藤博士は患部化膿の状態にあるを知りて手術を行い腹部と脊部とを切開して膿を取り出したるに、其の結果比較的良好なりしも何分高齢のこととて少しく衰弱し、手術前後十日間は全く食事を断ちたるが爾後流動物を少しづつ口にするに至り、此の両三日は大いに元気付き牛乳やスープ類を一回二十グラム位づつ食することとなりしも、寒気強き季節万一の事ありてはならずとて、家人一同看護に怠りなき由。」

『東京朝日新聞』(明治39年12月31日付け)

(注1)福沢諭吉と並び称せられる明治の啓蒙思想家。














明治40年

   「★三田土ゴム製造株式会社(明治十九年創立)が、
我が国で初めてゴム靴を製造。」


   
「★1月31日、西村勝三逝去。72歳。」









武士的模範実業家(西村勝三氏の事)・・・・・西村勝三氏は旧佐倉藩の士にして故西村茂樹氏の弟なり。いわゆる佐幕派にして沢庵樽に小判を詰めて江戸に送れることもあれど、総督府の大小砲御用をもおうせつかり居り、大村益次郎等も部下に砲術の指南を伊勢勝に受けて来たれと命ずる程にて、砲術の堂に上れる名高かりき。しかる程に斯く維新前は武士的生活を送り来たりし氏は、維新後急に実業家に変ずるや、明治四五年のころに穢多業として卑しめられし皮革業に先ず指を染め、桜組製靴工場を起こし、明治十四五年ごろまでに一度欧米を漫遊し見聞を広め、帰来絶えず新事業を企てぬ。実にその機関に創業せし実業に至っては屈指にいとまあらず。特記すべきものも少なからざる中に、メリヤス、ガラス、白レンガに至りては世人のあまねく知る処にして、ガラス製造中、ランプのホヤは製造法の書も無く、人のにわかに知らざる秘密を洋行中に発見し、我が国を益せる多かりしが、その実業家として称ふべきは、渋沢男爵が孔子を崇して世に立てる如く、毎に武士道を主むじ、幾多の利益を以って誘惑さるるも私益は断乎として受けず、ことに相場には目前に紙幣を並置さるるも恬として顧みず、兄茂樹が名世に高きも、傍人はむしろ勝三氏を優れりとなし居たり。実にその逸話中一二摘記するも、氏の清廉なる毎に多数の実業家にはばかられ、宴席等にて多数の実業家が談中、まま相場或は利益等にうんぬんするの時、もし氏の来たるを見れば襟を正し談をやめたること、創業のためには絶えず貧と戦い、明治二十六年ごろは既に桜組も白煉瓦会社も非常の利益を見居たるも、新会社の失敗に一家の収入としてはほとんど生活にも堪えぬ程度を以って甘んじ、しかも会社よりは新知識吸入のため多数の海外派出員を派遣し居たるを、事業家を非常に愛撫し、貧者にも侠骨を以って臨み、氏によりて救われたる者すこぶる多く、弁護士小川平吉氏の如きに至りても国民大会の件に座し獄中の人たる間、留守中の生活を引き受け、決して遺憾なからしめたること等、以って後輩の訓となるの行い多かりき。その死後もまた記するに足るものあり。盲腸炎に罹れるは昨年八月ごろよりなるが、霜月までに生命危篤となり衆人も墨堤に樹てられし。氏が銅像の建碑式執行日なる十二月九日まで生あれかしとの他、望みなかりしが、幸いに九日に至りても死の手を受けず、十六日に切開功を奏して漸次快方に向かい折りしも、生命危篤のよし畏れ多くも天聴に達し、旧?勲五等を拝受したるも、この分にては全快せんと思われたりしに、本月中旬に突如として腸より膿を出だし病膏盲に入れるを発見したりしに、去る二十三四日に早くも生命旦夕に急り、佐藤博士も毎日、病床に詰めて余命を送りしが、氏は既に死を覚悟して決して服薬せず。しかも負けぬ気は生を持して昨朝にまで至って、いよいよ瞑せんとするの時、微笑を以って傍人を顧み、死後必ず解剖に附し些少にても医界に貢献する処あれと、厳しく遺言し従容として死に就きけりとぞ。」

『東京日日新聞』(明治40年2月1日付け)







西村勝三翁の死去・・・・・桜組及び品川白煉瓦会社の社長として夙に実業社界に隠れなき西村勝三翁は昨年八月中箱根の避暑地にて盲腸炎に罹り帰京して療養に手を尽くし、十月ごろやや快方に向かいしも、何分老年といい、気候不順のために健康を損うて、又もや重患に陥り、青山、佐藤(三吉)両博士の診察を受けしに、単に盲腸炎ばかりではなく、故近衛老公の悩みしと同様のアクチ、ミコーゼ菌の存するらしければ、或は癌種にあらずやと種々の疑問起こりて未だ病名も決定せざりしほど、兎に角十二月九日は友人、門下の士を始め職工一同が翁のために向島へ建設したる銅像の除幕式ある日なれば、それまでは存命させたきものと、家人は固より親戚知己に至るまで寝食を忘れて看護せし結果、其の九日も無事に過ぎて十五日に至り腸の中に一個の柔らかな塊あることを発見したりしかば、翌十六日佐藤博士刀を執って腹部を切開し首尾よく病根を除き去りたれど、身体殊の外衰弱し居れば何れ死を免かる事は覚束なからんと本人も信じ居たる折から、去月十三日にわかに下痢を起こして排泄物に膿をさえ混じへ翌日よりは一切薬餌を口にせず注射液によりて辛くも苦痛を凌ぐのみ。二十六日には医員一同より既に最後の宣告を受けたれど、人事不省のままにて猶ほ生命を持ち続け、昨暁四時に至りて遂にこの世を辞せしという。享年七十有二、遺骸は本人の望みにより大学病院にて解剖の上、来る五日午後一時品川東海寺に仏葬を営む筈。其の略歴。氏は佐倉藩士西村平右衛門の三男。天保七年十二月九日麹町鍛冶橋内堀田公邸において生まる。故宮中顧問官西村茂樹氏は氏の令兄なり。壮時頻りに砲術を練習したるが安政年間より工業及び商業に従事し、その間氏が奇抜なる商法は幕府の法律にふれて獄に投ぜられしが、慶応三年同囚一同の嘆願により特に出獄を許され神田材木町に伊勢勝を号として商店を開き、銃砲及び洋銀売買を業としたり。爾来今日に至るまで四十年、企画したる事業の重なるは製靴製革製煉などにて、其の他枚挙するに遑あらず。而も悉く一機軸を出し、実業界の一偉才として世間の尊崇を受けたるが、遂に今回の事ありたるなり。其の逸話。武士的気性。氏はさすがに武士の家に生まれたる程ありて、あくまで武士魂を持し、流離転変財産差押えを受くるが如き困厄に遭いしも、かつて借財を踏み倒したることなどなく、又後輩を誘くに心中よりの信義を以ってするが故に、一度其の信任を受けしものは、氏のためには死をだに尚辞せずと称し居る位なり。万人に畏敬さる。資性剛直其の行動に一点非難すべき所なければ人皆之を畏敬し、渋沢男爵の如き常に其の徳を称して尊崇し居れり。されば所謂実業家連にて平常一攫千金的の談をなし居るものも、氏の前に出でては皆萎縮して一人もほらを吹くものなかりしという。工業が命。氏は虚業を忌む事甚だしく、相場の如きは絶対に排斥せるが、之に反して企業に対する熱心は実に驚くべく、現在関係ある耐火煉瓦、製革、製靴は勿論洋服裁縫、製絨、硝子製造、瓦斯等の企業には全て其の先鞭を付けたり。されば其の知人達も西村さんの脳より工業を除けば零なりと言い居る位。先般も大倉氏等と皮革株式会社の創立を企画したるが、病床にて其の株式募集は非常なる好況なりと聞き、之で冥途の土産になると喜びたる由なるが、其の後三時間ばかりにて人事不省となりたりと。貧民を賑はす。明治初年神田材木町に居住のころ、自ら其の町の貧民を訪ひ金米を給したること少なからず、或は邸前に大釜を据え付けて飯をたき塩鮭をおかづとして貧困者に随意入場させ食はしたることもあり。日露戦争の際にも夫人と共に品川町出征軍人中の貧困なる家族を戸毎に慰問し白米一斗づつの引換券を施與したり。着眼奇警。維新前に何人も創めぬ米の売買をなし、少なからぬ利益を得たり。其れが為に法に問われて佃島の牢に投ぜられたるが、其の時役人に勧めて囚人に反射炉を作らしたり、硫黄湯をこしらわして囚人が疥癬に苦しむを救いたる事あるなど、衛生のことにも暗からず、又た明治初年ごろ早くも欧風の進入すべきを察し、巨資を費やして外国より裁縫製靴等の教師を聘し、或は外国に職工を派遣したるなど其の着眼の敏警なる実に驚くばかりにて、其の他製煉製瓶、瓦斯製造等何れもいち早く着手したるが、其のころは社会が幼稚なりしため却って失敗を醸し、借財山をなして首の廻らぬ程となりしも、氏の不屈不撓なる少しも意気沮喪せず、晩年にはやや順境に向かいたりしも、もし長生し居らば或は其の富をも失ってしまったかも知れずとは、氏を能く知れる人の話なり。」

『万朝報』(明治40年2月1日付け)





故西村勝三氏の逸話(二)・・・・・商人となった発端。氏は佐倉藩に奉仕し居る頃、藩用にてしばしば横浜に赴きしが、感ずる所あって同市伊勢平こと岡田平作の番頭となり、是までの大小姿をガラリと前垂姿と変じたり。ある日主用にて外出の途上、洋人の小児が誤って路傍に倒れ居たるを見しより、駈け寄って助け起こし何くれと介抱し居たるが、親なる人が此れを見て氏が倒したるものと誤解し、只は置かずといきまきたるに、漸く其の事情が判り、いたく之を徳とし、是より大いに氏を信用して後日資本供給等多大の便をあたえたり。侃侃諤諤の言。去る三十七年市役所にて麹町区永田町一丁目ドイツ公使館前より霞ヶ関に通づる二つの坂道を改築して一本の傾斜緩やかなる坂道となしたる事あり。氏はその普請中通りがかって之を見、中間に休息する場所あればこそ如何なる急坂にても勇気を起こして登るものなるに、こんなノンベラボーの坂に作り変えるとは実に馬鹿げ切ったやり方なりと、直ちに尾崎市長を訪問し元来東京市の路普請は思い切って間抜けなり。芝公園、たま屋裏の坂道の如き、折角固まった所へ泥の如き土を盛ったり、又霞ヶ関の坂道など登りやすき所をわざわざ苦しむようにするなど、言語道断の仕打ちなりと、気焔万丈当たるべからず。市長も全く持て余しはてば、何時か市役所の土木掛吏員を集めて貴下のご講話を願いましょうと言ってお茶を濁したりと。又去る三十四年総理大臣伊藤侯等と大蔵大臣渡辺子の施政上の意見衝突より政友会内閣の瓦壊を見たる時、氏は病床にあって呻吟しつつありしが、この報を聞くや医師の戒めをも聞かずして病床より這い出で、兼ねて懇意なる小川平吉氏を呼び寄せ、渡辺をして充分手腕を振るわしむべしと半時間以上にわたる大議論をなしたる事もありし。政治家を罵る。氏は工業上の知識のみならず政治の事にも通暁し政治家と称する知人を撰へては常に政治論を上下し、又老政治家をば天保銭に少し飾りを付けた位のもの、茅葺屋根に煉瓦をくっつけたと同様だからろくな事は出来るはずはないと頭ごなしに罵倒したり。但し先年桂内閣が組織されたる時は少壮内閣というを以って大いに之を歓迎し居たり。放胆にして而も細心。桜組創立の際、大澤、藤村等腹案をなし氏の検討を乞いたるに、己はどうせ先のない身だから君等がよければそれでよいと自分の財産を人任せにして一向に顧みず、斯く頗る放胆磊落の風ありしも、亦細事にも疎かならず。かつて桜組より氏に宛てて出せし書面中、六銭切手に貼付しありしを、氏は直ちに其の量目を計り、三銭にて充分なる事が判りたれば、翌日支配人初め一同を集めて深く訓戒をあたえたりと。(未完)」

『万朝報』(明治40年2月3日付け)





故西村勝三氏の逸話(三)・・・・・厳格なる訓育。去る三十一年ごろ清国張之洞より靴製造の技師を雇聘したき旨留学生監銭恂氏を通じて申し来たりしかば、氏は大いに喜んで出来得るだけ良技師を撰び派遣せんとしたるに、銭恂氏は例の清国気性より少し俸給を負けてくれよと申し込みたるにぞ、こちらが好意をも知らでいろいろ物言いを付けるとは失敬至極と断然雇聘を刎ね付けたるが、仲裁者あって円満に収まり、其の後向こうより留学生を寄越して実地教授を頼み来たれり。氏はこれ等に対し、ごうも仮借する所なく服装は勿論寝食業務共普通の職工と同じくし、厳格なる訓育にて良工を作り上げんと苦心したるが、中途北清事件の起こりたるため惜しむべし折角の苦心も水泡に帰し了りたし。死に処して?如たり。昨年盲腸炎に冒さるるや死期の近けるを覚悟し、親戚知人の見舞いに来るあれば、一々莞爾として決別の握手をなし、殊に現麹町区会議員たる松崎正行氏は、氏が竹馬の友にて壮時互いに立身するまでは面会せぬという約束をして別れたるままとなり居りしを、わざわざ使いを遣って床前に招き、数十年ぶりにて相会し如何にも面白げに旧事を談笑したりと。又氏の部下なる万歳生命保険会社重役藤村義苗氏に向かい、俺に保険を付けてくれないか。そうしたら早速死んでしまうよ、など諧謔を弄し、少しも死前の人の如くならざりし。大の通人。旧幕府の鉄砲御用達なる横浜の松屋鉄五郎(富貴楼のお倉の亭主となった人)とは莫逆の間柄にて此の人は頗る付の通人なる所から其の感化にて、氏もなかなかの通人となり、二人揃ふて柳橋、堀、吉原、新宿と花柳の巷に今時の人が思いもつかぬような粋な遊びをなしたるが、果ては金に困って鉄五郎の情婦なるお倉を新宿の豊倉楼に沈め、其の身代で遊興したりしは随分なり。商売に尊卑なし。明治初年ごろ陸軍省にては兵隊靴を総てフランスより買い入れ居りしより、氏は日本にも製靴業を起こさんと企てたるに、友人連はそんな穢多的の商売はよせと諌めたるも、商売には尊卑なし。自己の富のためにあらずして社会の富のためなりという大見識にて、弾左衛門に就いて親しく製靴の事を図り、遂に日本製靴業の端緒を開きたり。順当に行なうば大金持。氏は性柔和なりしも自信力頗る強く、何事を創めるにも他人と相談せず悉く自分の脳裡より割り出して成否は眼中に置かず遂行せるが、これ等のために方々の銀行より莫大の借金が出来、終世殆んど其の利息支払いに追われ居たり。さればもし其の企業が悉く順境を辿りしならば、氏は我が実業界における第一の富豪となったやも知れざれど、而しこの七転び八起きがあってこそ却って氏の真価が現われたるなれ。幇間を番頭にする。氏は花柳界を遊び廻るころ、清元静太夫河東節の東阿、ちく内などという幇間をひいきにして常に宴席に侍らせしが、或る時友人に向かって「幇間という奴は人の気性などを察する事早く、なかなか如才のないものだから之を番頭に使ったらどうだろう」と問いしに「幇間が家に出入りすれば身代が減るという位だから其んな酔興はよせ」と誡めしも、一旦言い出しては後へ引かぬ氏のこととて、遂に四人の幇間を番頭に採用したるに、友人の言に違わず、果たして金銭を滅茶滅茶にせるよし。氏もこれはしまったと早速解雇したという。嗣子へ遺言。嗣子直氏(二十)は目下高等工業学校にありて応用化学を研究し居るが、死前之を枕辺に招き、卒業の上は能く実地の研究を積み、尚外国に行って新空気を吸い邸内には公開の試験所を設けて国家のために益する処あるべし。かくしてたとえ資産を傾けたりとしても決して惜しからず。必ず工業の西村家を辱しむるなと、懇々戒を加えたりという。(完)」

『万朝報』(明治40年2月4日付け)





西村勝三氏竟に逝く・・・・・西村勝三氏は慢性胃カタルに罹り昨年春頃一旦軽快せしが、八月箱根入湯中盲腸炎に罹り、十二月中旬佐藤博士の執刀にて切開治術を受け、爾来諸名医の診療を受けつつありしが、一月十三日頃より更に下痢を加え食欲とみに欠損し、二十七日より昏睡の状態に陥り、遂に昨暁を以って死亡したり。葬儀は来る五日仏式を以って品川東海寺に執行する由。氏は旧ろう局所切開後やや軽快せしも、自ら其の死期を覚りたるものか、かねて西村家に関する一切の事項は渋沢男爵に依頼すべきこと、及び死後必ず解剖に附し医界の参考に資せよと遺言し置きたる由にて、多分今一日佐藤博士の執刀にて局所を解剖すべしという。氏の略歴及び肖像は既に旧ろうの紙上に掲載したり。」

『東京朝日新聞』(明治40年2月1日付け)





故西村氏の解剖 当日の実況、空前の告別・・・・・ただに生前において実業界の先覚者たり成功者たり篤志家たりのみならず、其の終焉に臨みても亦道義的光明赫灼たる裡に流焉不帰の客となりたる西村勝三氏の屍体解剖は、予記の如く昨一日午後より高輪御殿山なる其の本邸において執行せられたり。尾崎医師の談。既に前日の紙上にも略記したれども、ここに当日剖見の光景を叙せんとするにあたりて更に復び特記すべきは、西村氏がこの奇特なる遺言をなしたる当時の状況及び前後の関係なり。これについて同家の出入り医尾崎市太郎氏は記者に語りて曰く。「氏の病気は十数年前既に一度癌腫ではあるまいかと諸大家が言ったこともあった位で、常に胃腸が非常に悪く、今度も盲腸炎を発したる時に周囲の硬結が甚だしかったので、或はアクチノミコーゼかまたは癌腫などではあるまいかという疑問の点において諸大家が一致していたが、佐藤博士が吸出を行なった所、膿があるので、早速切開手術を施した。すると果たして大分化膿していたが、それを排出すると共に硬結も去れば非常に経過が良好であったから、依然単純なる盲腸周囲炎であったかと思っていた所、本年に入って病勢再発後、殊に病発前数日間催吐及び膿の混じりたる下痢を見るので、また再び癌腫ではないかという疑いが生じたのであった。去る二十七日昏睡状態に陥る数日前に看護婦は素より家人をも悉く遠ざけて私を枕頭に招き、自分の病気は何だか少しこみいった病症のようだが、もし少しでも医学上有益の見込みがあるなら、どうか死後解剖に附して研究の料にしてもらいたいと云って問われるから、私は其の有益なる旨を答えると、では岩井主治医に頼んでくれろと言はれた結果、終に本日の剖見を行なうに至ったのです」と氏が終焉に臨みても従容一意公共の外なかりしを推知するに足らん。各国手の参集。さて当日午後に至るや岩井、尾崎両主治医並びに同家の女婿ドクトル佐藤敏夫氏は素より、関係医たる医学博士佐藤三吉氏、医学士北村精造氏及び当日の執刀者たる山極病理の助手医学士佐久間兼信氏等一同参集し、それぞれ打ち合わせを終わり午後三時よりいよいよ其の執行準備に着手せり。剖見室の光景。只看る同家の本座敷清洒たる室の中央には解剖のため特に急造せられたる手術台に白布をおおい、其の傍らの卓上には消毒薬諸器械を載せられたり。之を囲みて立てるは前記の六国手と西村氏の女婿八十島氏及び桜組の大澤支配人、遠藤執事の諸氏のみ。而も各国手はこの特志の空骸に深く敬意を表すべく皆な一様にフロックコートを着し其の上に手術衣を着けたるさまは一入森厳の気を添えたり。空前の謝辞。三時を過ぐること約三十分、笑みを含みて眠れるが如き屍骸は家人の手によりて運ばれ、静に手術台上に移されぬ。諸準備はここに全く成り執刀者は其の解剖刀を執りぬ。時に岩井医師は静に歩を屍体の全面に運び、うやうやしく一いつして「私はここに剖見を行なうに先立ち一言謝辞を申しのべます。故人が数十年間実業界に尽されたる功績は今ここに述べるまでもありませぬが、故人は常に何事に対しても国家的公共的観念を有せられておったのは深く敬服致します。殊に其の臨終に際しても公益の観念を離さず、私の同僚たり学友たる尾崎氏を通じて其の死後を医学上研究の料に提供せられたるは我々籍を刀圭界に列ぬる者の特に深く感謝する所であります。また故人の遺言を重んじて剖見を御許容下さいました御家族一同に対しても感謝措く能はざる所であります」語は簡なれども意は長く、情緒綿々声涙並び下る氏が沈痛なる謝辞は故人の空骸にも通じて、白布の揺るぐも?くかのごとく見受けられ、列座の人々みな密かに暗涙を飲みぬ。」

『東京朝日新聞』(明治40年2月2日付け)





故西村氏の解剖(前承)故人の篤志空しからず果然医学上の大貢献・・・・・愈々刀を下す。岩井国手が深沈なる謝辞を陳べ故人が冥途の幸を祈りて退くや、佐久間医学士は其の側に進みて先ず刀を剣状突起に下して恥骨縫際に至る。腹壁縦切開を行い、それより順次各組織実質の外見上変を点検しつつ盲腸の炎症部に及べり。盲腸に異状を認めず。最初盲腸周囲炎を発したる当時より局部の硬結特に甚だしかりしを以って切開排膿手術を行いし際も、尚其の深部の器質に癌腫の如き特殊の病原潜在するに非ずやとの疑念ありしかば、佐久間学士の刀尖其の局部に及ぶや特に各国手は一斉凝視、何物をか認め出さんと欲せしも遂に劇甚なる盲腸周囲炎に因る硬結の外には肉眼的特異の変化を認むる能はざりき。胃部の小硬結。既に記せしが如く氏は十数年来胃腸の病疾あり。其の当初より橋本、ベルツ両博士も或は胃癌にあらざるやを疑い、又昨年中青山博士の診断を受けたる際にも同一の疑問ありたる程にて、殊に病発前の嘔吐及び食機不進の状況は関係各国手をして益々其の疑念を深からしめ病原確認のため種々苦心せしめたりしを以って、盲腸に次ぎ胃部の剖析を行へり。粘膜にはカタル症状を存すれども一般器質には特殊の変化を認め難く、唯わずかに一部銅貨大の小硬結を発見せしかば、更に後日病理学上検鏡的研究資料に充つべく之を摘出せり。解剖の終了。かくて切開口より窺い得べき各部は一応之を検視したるも何等異状を認めず、既に解剖の目的は茲に達せられたるを以って前記盲腸周囲の硬結部全部及び胃部より適出したる小硬結をば学理上の研究に附すべく併採し術後の整復縫合を行い全く剖見を終了したるは五時を過ぐること三十五分。病原は如何。解剖の経過は以上記す所の如し。さて氏の病原は如何。アクチノミコーゼなるべきか癌腫なるべきか、はたまた単純なる盲腸炎に胃腸病の併発症なるべきか。この問題は盲腸及び胃部より摘出したる材料により精密なる病理学的研究を遂行せざれば固より断定を下すべき限りに非ざれども、肉眼を以ってせし剖見の結果は佐藤博士を始め立会いの各国手共単純なる盲腸炎の劇症というの外には特別の意見なかりき。医学上の貢献。胃部より摘出せる硬結は佐久間学士の手により大学山極病理教室において病理学的研究を加え、又盲腸全部は岩井医師の手により赤十字病院において研究を行いたる上、之を総合して断定に資することとなしたれども、其の結果たりとも恐らくは上記肉眼剖見の結果と同じく悪性腫瘍の断案は之を下すに由なからんか。もし然りとせば故人の篤志も亦水泡に帰すべきかというに決してしからず。この点に関し佐藤ドクトルは語りて曰く。「故人の病歴は知らるる通り頗る錯綜したもので、致死の病因は到底単純なる盲腸炎のみとは受け取れない。ところが剖見の結果も検鏡の結果も共に悪性腫瘍でなく依然単純の盲腸周囲炎であったとすれば、医学上この解剖は無価値に終るべきかというに、決して然らず。のみならず何等悪性腫瘍で無かったとすれば其処が益々有益な点で、即ち其の病状劇甚なるものは、多少一般の盲腸炎と異なる症徴を呈する場合がある、然るにこの場合にも依然盲腸炎で他の悪性腫瘍を兼ねたものでなくとも斯かる経過を取ることがあるという実験をあたえられた訳で、之は後来盲腸炎に対する診療上頗る有益なる教訓である云々。」と果然故人の篤志は空しからず、況やその盲腸は永く赤十字病院に医学上稀有の標本として保存せらるること決せるをや。遺骸の納棺。かくて午後八時納棺を終え家人を始め親戚古旧は素より一般召使に至るまで一同柩前に焼香を行いて故人の冥福を祈れり。邸を辞して帰途に就かんとすれば品海に上れる下弦の月光は凍るが如く新築の高楼を照らせど温容復び見るに由なきを奈何、茲に重ねて哀悼の意を表す(一記者)」

『東京朝日新聞』(明治40年2月3日付け)





故西村翁通夜の吟・・・・・故西村勝三翁即ち盛徳院開成元凱大居士の襟度広深能く人を容れたるは世人の能く知る所なり。されば今回逝去の事あるや遠くより近くより来たりて翁の霊前に跪くもの多く、近親また悉く集まりて連日通夜しつつあり。其の通夜するもの詩に歌に俳句に狂歌に各々哀悼の誠を表し筆を執りたるもの積みて数巻をなすに至れり。」

『東京朝日新聞』(明治40年2月4日付け)





西村勝三氏の葬儀・・・・・桜組頭取西村勝三氏の葬儀は昨日午後一時品川御殿山の自邸、出棺同地東海寺において執行せり。数丁にわたれる行列の東海寺に着するや、大導師菅原建長寺菅長、副導師秋庭東海寺先住、天澤麟祥院住職、其の他僧侶数十名の読経、渡辺男爵の唱歌、軍人援護会代表者其の他の悼辞ありて埋葬を了れり。会葬者は二千余名。」

『都新聞』(明治40年2月6日付け)







「東海寺」
『東京近郊名所図会』(東陽堂発行)







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◎大阪の男女混合舞踏会・・・・・去る十六日の夜、大阪において男女混合舞踏会というのが催されたり。これにつき、大阪毎日新聞の記せる所下のごとし。『一昨夜、大阪体育会と神戸舞踏倶楽部の聯合の珍しい会が大阪ホテルで開かれた。平たく言えば男女合同踊りの会で、舞踏会といえば上品に聞こえる。ホテルの大ホールの双方を金屏風で仕切った中で楽隊に合わせて舞うのである。曲目はランサース、ポルカ、ツーステップ、カレドニアン等で、カーテンの色と電燈の光は、先ず人を酔はしむる。ダンサーは神戸方は男ばかり、大阪方は女ばかり。これが二人づつ合い抱いて楽の音につれて舞うのであるから、何のことはない。歓楽宮で楽の調べが急になると、長き裳、高きカラー、相狂い相乱れて、紅々白々、紫々緑々、只色と色と色と色と入り乱れて美しくも又凄まじい。一曲済むと男女一対のダンサーがおのおの椅子に腰を並べて喃々するのは尚更凄まじい。これが三曲目、四曲目となると、何だかまじめに舞踏するとは思えなくなる。記者は中途にして辞し帰ったが、その後、数番の舞踏があってから食卓を開くそうだから散会はいづれ深更であったろう。ちなみに大阪方は女教員、令嬢等妙齢の人のみにて、中には子のある妻君もあったそうな。特に先日慈善市を開いた時、青年男子の入場を禁じた某女学校の女教師が年頃の男と手を取って踊っていたのは一奇観である。その学校の校長も参観に来ていたが、ご心配であったらしい。尚男女のダンサーが舞踏後名刺を交換していたのと、男子の靴のピカピカ光っていたのに反して、女子のそれが、いかにも汚かったのと、ハイカラに似合わずフロックコートで踊っている人のあったのは特に目を引いた。』云々。」

『読売新聞』(明治四十年二月十九日付け)







◎トモエヤ主人拘引さる・・・・・京橋区南?町一ノ一六?研堀町二山神牛太郎あてに二千四百円外に十数通合計金五万円の手形を発したるを京橋署にて探知し昨日午後一時召喚訊問の上、詐欺取財犯人として取り押さえたり。」

『万朝報』(明治40年11月4日付け)








明治41年



◎落葉集・・・・・米国製靴業者の数は十五万人。一年輸出高は千五百万ドル。十年前に比して七倍に達するとは驚く。」

『職工新聞』(明治41年3月10日付け)







◎靴製造業の不振・・・・・長崎には日露戦役前までは馬込、市内を通じて約五百人の靴製造業者ありしも、戦役後は内外船舶の出入も頻繁ならず需要も漸次減少に傾きたるより、従業者は漸を追うて転業せしより、現今にては従業者の数三百人たらずに減じたり。当地における靴屋の全盛時代は露国軍艦の出入頻繁を極めしころのことにして、今日の状態を持って当時に比すれば雲煙もただならざるの感なからず。ことに今春以来一般不景気のため、新規の注文はもとより修繕の依頼さえはかばかしからざるに至りしかば、原料革類の騰貴に伴う代金の引き上げなどは思いも及ばず、依然春以来の額に据え置き居れりと。」

『皮革世界』(第二年第九号・明治四十一年)














諏訪湖上の氷滑り(明治時代のスケート遊び)


『風俗画報』










明治42年

   「★9月、『東京靴同業組合』(業者団体)、新橋クラブで創立総会を開催。」

◎三里を四十五分・・・・・かねて計画ありし諏訪湖一周大スケート会は、いよいよ十四日午後一時、折からの烈寒に乗じ同湖氷上において行われたるが、来賓、及び各地より雲集せる見物人は約三万五千に上り未曾有の盛況を呈したり。結果左のごとし。第一着・(四十五分三十秒)諏訪中学三年生・小口準卓(十七歳)右優勝者に対してそれぞれ大日本体育会、諏訪スケート大会等より寄贈せる夥多の賞品を授与せり。」

『読売新聞』(明治四十二年二月十五日付け)




 ◎靴界懐旧談・・・・・明治7、8年頃、こういう妙な事がありました。当時は今日から見ると靴の需要もまことに些細でありまして、今の渡船場で渡銭が要るように、橋の渡銭の要るところがたくさんありましたが、靴をはいておる者はソレが要らぬというような事がありまして、コレは一つの靴使用奨励法といったような事であったのでしょう。」

『皮革世界』(第三年第一号・明治四十二年)




明治43年


「◎神戸の靴製造業・・・・・非常に大きい製造所は少ないが従業者及び産額はすこぶる多い。明治四十年において製造戸数七十、製出量四万二千足、売額十六万八千円で、製造所としては元町二丁目神戸屋などが名高い。」

『神戸大観』(明治43年・宝文館)






 ◎新しい活動写真(題名・百円の靴)・・・・・『当たらないうちはそうでもなかったが当たってみると無尽も悪くないなあ、この百円をしめ香に見せればどのくらい喜ぶかしれぬ』と靴屋の清さん大喜びで家に帰ってきたが、芸者しめ香との約束があるので女房には見せず、お湯に入って来る間、ちょっと店に陳列してある長靴の中に仕舞っておいたのを細君は知らない故、清さんがお湯に行った後で三円で百円の靴を売ってしまった。しばらくすると清さん帰って来て『こりゃ驚いた!百円の靴・・・』と大騒動が持ち上がるという日本物としてはうまく仕組んだ写真なり。(浅草三友館)」

『読売新聞』(明治四十三年六月十九日付け)








◎小学生脱靴問題(大連)・・・・・大連第二小学校一千余人の生徒に対して零度以下十五度を下る厳寒の今日、にわかに脱靴を励行せるため、生徒中、凍傷に罹る者多く、一問題となれり。

『読売新聞』(明治四十三年十二月十五日付け)







明治44年

◎美しき御召用靴・皇后陛下の御陰徳・・・・・芝区愛宕町三の一、磯村半次郎氏はこのほど宮内省の御用命によりて、かしこくも皇后陛下御召用の御礼式靴一足、通常用皮製御靴一足、および上靴一足づつを謹製して、さる二日かしこきあたりへ上納した。御礼式靴はフランス型にて、かかとを全部木製となし御召し服と同一の色地なるこび色繻子に粟粒あるいは小豆粒形くらいの金玉と赤白二色の珠玉を、あるいは葉模様に、あるいはさざなみの形に縫い取りたる掩ひをかぶせあり。御革靴は御式用と同様八文半弱の寸法にて、裏には白毛をつけ皮はキッドの深ボタン靴、左より右へと合わせるように四個の黒ボタンをつけあり。御上靴は御新調品にはあらず、表は朱羅紗、裏毛は純白なるが両面共毛いたくすれ切れいたるより修繕を命ぜさせられたるものと承る。陛下が御倹徳のほど申すもかしこし。御用命に接したる磯村氏は混血児にて、父はエフ、レマルシャンというフランス国人にして維新前、来朝し製靴を業とせしが、なにぶんにも時勢が時勢だけに注文も多からず、その後世の進むにつれて当時築地にありし桜組の技師に聘せられて、数多き弟子を養成したり。そのころ氏は牛込神楽坂に湯屋を営みいたる磯村安兵衛に入り婿となり、今の半次郎を儲けたるが、さすがに父の業を見習いいたるだけに半次郎は十四歳の時すでに一人前の立派なる靴師となり、二十四歳の時志を立てて渡米し三年間の研究を了へて帰朝するや、故三宮式部次長の知遇を受けその関係よりして毎々宮内省の御用を仰せ付けられなるよし。」

『読売新聞』(明治四十四年二月二十六日付け)





◎告知板と靴・・・・・告知板を読んでみるとチョークの色も慌しく『間にあわぬ一時十分で。田崎』、『十一時待っていたが、ただ今大和屋から小石川に行く。成島』、その隣のは、『上野に向かう。』あて名は北田君らしいが、背君とも昔君とも読める。W・Cの入り口の右に白い前掛けの汚れた靴磨きの小僧が、鼻の下を黒くして暇そうだから、埃だらけのを拭はせながら『どうだい。』と聞くと、『まあ、毎日、五十人内外はあります。』と言う。『儲かるなあ。』と景気をつけると、『しかし、こう押し詰まっては二十人ばかりしかありません。大雨の翌日にカラリと晴れなくっちゃだめです。』――古い赤革の寒そうなのも、こう手を入れると見なおせるなあと感心しながら三銭わたして改札口へ行くと、今、午後二時二十分横浜行が出るところ。頬のつやのいい外国人が未曾有の大股で高く葉巻の香りを残しながら、プラットホームへ飛んで行く。」

『読売新聞』(明治四十四年十二月二十九日付け)


明治45年

  [★2月、明治43年に呉服屋から近代的百貨店に生まれ変わった松坂屋名古屋本店、時代に先駆けて靴売り場を新設。]













大正時代




◎和歌山の製革事業(一〜四)/幼い児まで独逸語を用うる岡町村・・・・・


(一)


和歌山市広瀬部を南に町はずれに行くと、其処には七八歳の幼い児迄が日本語でもなく英語でもなく無論方言でもなかれば、何とも訳の分らぬ一種の言葉を遣って居る。ハテ怪体な所もあるものかなと通行者の足を止めしめる。所は和歌山市外岡町村で、言葉を仔細に調べて見ると、夫れは純然たる独逸語だ。
何故此の村に独逸語はそんな幼い児に迄に遣われて居るのであろうか。岡町村といへば日本の製革史上の第一頁に必ず書かるべき所である、今は其の生産額に於て東京に続いて全国第二位の重要地位に居る所である。現住戸口は僅に九百七十戸。人口四千八百人。しかも其の村は岡町、塩道の二字に分れて其の岡町村に於てのみ製革事業は行われて居るので、目下の製革業者三十四戸、大正三年の製革高は牛皮十五万一千枚、価格七十二万四千八百円、馬皮三千五百枚、価額一千七百五十円、大正四年度は牛皮二十二万五千枚価額百八十四万六千五百円、馬皮七百五十枚、価額二千二百五十円、一躍百十一万円の激増を示して居るのである。尤も此の生産額の内には一二市内の製革業者の産額も加わって居るのであるが、主として岡町の産額である。
渺たる一と字で年金額百八十五万とは実に大したものである。年金額六七十万円を有する黒江漆器の産地黒江町を以て産業界の偉観とするならば、渺たる一と字を以て百八十万の産出力を有する岡町村の製革事業も又和歌山県下産業界の偉観ある。此の岡町村の製革事業に就ては面白い話がある。株式会社和歌山製革所社長朝岡善弥氏代理人杉原昌一氏其他の話を総合すると、たしか和歌山市で泰西式の製革事業の始めて行われたのは明治二年で、当時陸奥宗光伯は欧米各国を漫遊して、郷里和歌山へ帰られて、藩の人々を集めて演説をせられた、其の演説というのは富国強兵論で、日本の国を強くし、且つ冨まさんには兵制を完全にし、産業を発達せしめねばならぬ兵制を完全にせんとすれば鉄と皮の供給豊富にせねばならぬ。製鉄事業を盛んにするには容易の業ではないが、皮ならば極めて簡易に行われる、之は当然来るべき時代の要求である。他の気付かざるに当って先ず藩として之を起すべしとの大演説を行うたのである。


(二)




陸奥伯の警抜な意見に同意するものは少くなかった、何分当時、和歌山藩は他藩に率先して徴兵制度を施行し独逸兵式を採用する位に進んで居ったものであるから、直に之を行うことになった、陸奥宗光氏は早速、独逸人ケンベル氏等を連れて来て和歌山市本町一丁目に「鞣革靴練習所」を設けて、之を教えしめた。製革事業といえば賤しい仕事のように思わるるが其の当時の有様は全く正反対である之れを習ったのは藩の次男三男所謂部屋住の連中で軈て来るべき「刀より算盤へ」の移り行く時代の準備として之れを習ったのである当時面白いのは製革練習所の入口に藩士の刀掛袴掛がズーッと設けられて居た事で「身共」ナンテ挨拶の厳めしい連中が、殆んど賤業視した製革事業を熱心に学び、そして帰りには、又両刀を帯して帰るような有様であった。目下和歌山市の製革界に名ある九鬼千代治氏の如き実に第二期生であったのである。其際には、彼の西村勝三氏なども和歌山へ来て学ばれたのである、当時の勢いを以てすれば、和歌山の製革事業は甚だ盛んであらねばならぬのであった。然るに夫れ等の人々は大阪、東京へと出て行った。アワレヤ陸奥伯鼓吹の同事業も、郷里和歌山に起らなくして、東京大阪に於いて試まるるようになったのである。しかし其の和歌山たると大阪、東京たるとを問わず、本事業の盛んならんことは陸奥氏の希望であったのであろう。斯くて和歌山で習った人々は名をなさず同事業も市部を離れて、岡町村に移り一時の盛況もどこへやら、秋風落莫、微々として不振の内に幾年月を過ぎたのである、今日岡町村の一部に幼い児に至る迄独逸語を混用して居るのは当時ケンベル氏は通訳もつれず和歌山へ来て、手真似でズンズン原語を以て教えた名残である、そういうような次第で、維新当時の面影尋ぬる由もなく、微々として振わなかった製革事業も偉人警世の語が、早鐘の如くに鋭く凄じく、各自の眼を醒す時は来た乃ち日清戦争である鉄と皮とご入用の時は来た日本製革事業の鼻祖を以て誇る和歌山に此の事業振い起たざらんや。しかも尚お且つ、四五名に過ぎなかったのである。しかし、たしかに鉄と皮と入用の時が在るということ丈けは痛切に当業者の頭に沁み込んだのである。偉人の予言が漸く其の光をさし染めたのである。是れ当業者覚醒の第一期である、当時は大阪は盛んであった、製革事業の中心は大阪であった。先輩の和歌山は微々として振わず後輩の大阪に圧せられて居たのである。


(三)




然るに時は再び来た巨人の語は早鐘の如く再び当業者の耳を襲うた。製革事業界第二の時代は来たのである、即ち夫れは日露戦争であった。此の時岡町の製革業者も十二三戸に増えて居た、此の戦争は日本の製革界に一大変化を与えたものであった。夫れはどういう訳であるかというと、日清役より日露役に至る十年間は製革界に於て和歌山大阪の戦いであった、先輩と後輩の戦いであった。此大阪、和歌山の戦いに審判を下したのは日露役であった。国を挙げての戦いは斯くして製革界に於ても権威ある審判を下したのである。其の審判はどうであったか。あらゆる機械、あらゆる設備を有する大都市の工業も、当時の状態に於ては工賃の廉い和歌山に屈せざるを得なかったのである。和歌山は此の第一条件に於て見事合格して、日本の製革界に花々しい凱歌を挙げたのであった爾来後輩の大阪は奮わず、先輩の和歌山は傲然として「我は元祖也」の意気を以て斯界を睥睨したのである、時代は斯うしている間にも夢のように過ぎる日露役後、小康であった斯界は又も第三の時代の曙を迎えた。夫れは大正三年である、時は欧洲戦乱の始まった頃である。回一回より大きな響きを以て覚醒の鐘は鳴る。露西亜の方から軍需品の注文は来る、当業者は頓かに増えて三十四戸となる。生産力は膨張して三年度には七十万円四年度には実に百八十万円の莫大な産額となったのである、しかしまだ此の戦争の初期は其の事業も幼稚であった、所謂曙の時であった。日は三竿に昇ると共に当業者の覚醒の度は加って来た。夫れまでは牛皮も馬皮も実は鉋で削って居ったのである、そして屑が出来れば夫れを膠の原料として利用したもので、実に不経済を極めたものであった、戦乱によりて需用の増加と共に、生産力を拡大し、且つ経済的に之を用いよう。夫れには精巧なる器械力に拠らねばならぬというので、茲に当業者中八名相議って、一万円出費に下に設立したのは株式会社和歌山製革所である、而して其の一万円は何に投じたかというと、剥皮機二台を買い入れたのであった。即ち会社の全財産は此の二基の剥皮機である。今日和歌山には大分工場もあるが僅々一万円の会社で斯の如く盛んに花々しく活動して居る会社は他に少なかろうという事である。普通人力によると六十人要するものを器械二台でやって行くのである。一日の作業工程は実に一千二百枚しかも精巧有利に行われ、表裏両用の妙をなして居る、此の会社は現岡町村製革事業、換言すれば和歌山製革業同業組合の中心をなして偉大な加工力を発揮して居るのである尚お今日組合に対し工場動員を下して全生製力の極度を発揮せしむれば優に五千万枚、四百万円の生製力を挙ぐるであろうという事である(和歌山)。


(四)




同業組合員の語る所による、今や組合に於て尚且二十五万枚、二百万円の皮を抱き此の上露国の注文来るとも、容易に応じ得らるるの余裕を有って居るそうである露国証券の引受け確定と共に斯界は又活躍の時に入るだろう。組合員の誇る所によると、織物界といい漆器界といい、生産の多きを以て誇っているが、其の販売の多くは内地で、内地の金を集むるのである製革事業に在っては大半外国の金を吸集するのである。国家的事業として吾人の誇らんとする所であると
しかも此の黄金時代は何時迄続くであろうか欧洲戦乱後は如何。之れに対しえ製革会社の支配人奈良崎為太郎氏等は語る今日製革事業界に於ける重大なる問題は是れである戦時に勃興したる事業を戦後に於て如何にして維持して行く歟是れは中々六ケしい問題である。しかし吾人の立場より考えて、或は我田引水の嫌いあるかは知らざるも製革事業の前途決して悲観すべきものでない、欧洲戦乱は我等に露国という大なる華客を与えたことは偽ではない。全く事実である。果して然らば日露協約も成立して彼我親善の度更に濃厚を加えたる今日に、又今後に在って彼の地に需用さるることは疑わない所である。よし今日の如き盛況を見ずとも、近き将来に於て此地に於て販路に一頓挫を将来することは吾人の信じ得ない所である、露国は従来と雖も米国から多額の供給を仰いだのである、然るに米国の製品は品質は良好とはいえ価格は高い方である。日本の製革界も欧洲戦乱によって幾多の研究を積んだのであるから製品に於ても敢て遜色を見ないのみならず、価格の低廉なるに於て彼は到底我に匹敵し得る所でない、従って此の点に於て自信を有し楽観して居るのであると、尚お同会社員等の語る所によると、泰西式に於て鼻祖の名誉を有する和歌山の製革界は其の研究的方法に於て欧米の工法と一致して居る点は少なくない。将来欧洲の兵火?まる時に至れば、現今の組合をして、更に団結力を鞏固ならしめ、今日でも行うて効果を挙げつつある原料薬品の共同購入、茶話会などを盛んにしたいものだといって居る、要するに和歌山市外の岡町村には、七八歳の幼い児に至る迄、或る事物に対して独逸語を用いて居る、夫れはドイツ人ケンベル氏の此の地で製革事業を教えた名残が残って居るのである。そして和歌山の巨人陸奥宗光の警抜な意見によって、一は来るべき時代の為、一は藩の子弟の廃藩後における救済策の為、行われた此の事業は、他所で見るような賤しい事業とは見られなかったのである。しかも其の事業も、折角教わったものも東京大阪へと離散して、泰西式製革の先進地も其名に副わざる事甚しかったのが日清、日露の役を経て、欧洲戦乱に入って黄金時代を迎えたのである、今後に対しては、同会社員は露国との商取引は持続さるるものとして楽観して居るのである。全国第二の製革所としての和歌山の同事業は斯くして興って来たのである(完、和歌山)。」

『大阪朝日新聞』 (大正5年8月21日〜8月25日付け)








◎靴屋の話・・・・・そもそもわが国製靴の始まりは、いわずと知れた紅毛伝授。和歌山藩が独人ケンベルを招いて軍靴を造らせたのに始まる。大阪では高麗橋の東詰に藤田組の工場が建ち明治八年淀屋橋に土井が靴店を開いたのを鼻祖とする。その以前岩倉公一行が欧米十三箇国を歴訪した折には、諸風未だ夷狄の俗に従わず、丁髷麻裃に草履をはき、腰に大小をたばさんで『このたびの一行は総て異国の風を真似ることある可からず、万一シャッポ、靴の如きを身につけ候不届者有之候においては、一行より除名致し、同行を許さず候』という意味の厳めしい内規を設けて、食物には米麦を、菜には梅干、甲斐の万年味噌の用意しかるべくなどと力みながら、黒船の甲板へ四角四面に坐り込んだが、万年を誇る味噌も琉球の沖で腐り、シンガポールで靴を買って一喝を喰わされた不所存者も出た。

彼等の帰朝後は上下たちまち欧風心酔旧物打壊、数年の後には欧化宗が一世を風靡する勢い、当時の皮肉老の馬鹿番付にもある通り、伝来の頭巾を捨ててシャッポを被るあわて者、バッテラに乗って川へ落ち込む馬鹿野郎、襦袢を嫌いシャツを喜ぶカブレ者、足の痛さこらえて靴を履く素町人等々。さても騒々しかりしことよ。

安い脂革を使ったのはズット以前のことで、今ではクロム製の舶来革、カーフ、キッド、バテントレーザにカンガルーという風に種類も多く値も高い。何しろ型でも昔風の先の尖った編み上から総ゴム、半ゴム、メリケンと変り変って当世の型になって来たのだからその変遷の跡も甚しい。「一時流行した鳴り皮入りの靴ですが、あれは客の好みで売ったのですよ素人というものはとかく解りもせぬくせに独り極めをするもので、靴を買う時にも必ず底の固いものを選ぶから、悪い商人は底皮の間にボール紙のシンなどを入れたりする。実際は弾力性を持った底が履心地もよく持ちもいい。職人の手を抜くところは何といっても中底縫いと針数でしょう。昔脂革の靴にフノリを塗って見かけをよくしたこともあるが、今時の客にはゴマ化せない。それでも客によって手心はある。例えば医師、船乗、運転手という向には甲革をきれいにし、道を歩く人々には底を固くするといった具合に……だが儲かるなどとは中々以て・・・」靴屋の親爺はズルそうに笑ったまま口をつぐんだ。

眼鏡越しにうらおもて子を見ながらウス笑をしている親爺の頭をエックス光線で見ると、普通のところで(単位円)


原価十円八十七銭の靴が正札の十六円也・・・は未だ優しい。甲皮の裏に、鹿皮を張るべきをキレにし、小牛の背皮を使うところを腹皮でゴマカせば『中々もって・・・』ボロいことで御座る。

靴を履く者が当世馬鹿番付にのった時代から、もはや五十年、世は蒼栄と変って、今日では猫も杓子も靴を履く、そこで靴には足が生えて売れてゆく。売れるはずだ、殊に日本では……底革のプレスの足らぬ靴(靴の値は底革のプレスの具合と縫いで代表されるといってもよい)で、あの悪い道を歩かせられるのだもの、従って手入れも行届かず持ちも悪い。それに日本人には一足の靴を毎日穿いて穿き潰すのが多い。数足の靴を代る代る穿いて、順に休養させるのと較べて、三割から五割方持ちが違う。持ちが悪ければ、それだけ余計売れる道理。日本の靴屋は恵まれている。」

『大阪朝日新聞』 (大正14年10月11日付け)







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