副島種臣





明治のころ、本気でこの国を「働く者の楽園」に
変えようとした靴職人がいた!

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◎副島伯愈危篤・・・・・副島伯は一月三十日夜十一時脳溢血に罹り危篤に陥りたり。齢今年七十八なり。其の快復望むべからずといふ。親戚知人の一昨夜より同伯邸に趨走するもの絡繹たり。」

『東京朝日新聞』(明治38年2月1日付け)












『東京朝日新聞』(明治38年2月6日付け)













◎故副島伯爵・・・・・故副島伯爵の柩、本日を以て青山に送られる。吾人はこの偉人の喪失に対し、茲に謹みて哀悼を表す。蓋し故伯爵は明治の功臣の先輩たり。明治元年の参與職中、諸藩士中より徴されたる者ことごとく年少気鋭の人ならざるはなく、いはゆる発乱の事業に就いては善く風雲の間に跳躍したりといえども、反正建設の事業に至りては即ち空疎を免れず。其の中において、故伯爵は横井平郎、西郷吉之助と共に当時齢四十以上の年長者たり。加ふるに学識秀抜を以てす。当時の制誥は多くその手に成れり。国体の淵源を考えて時勢の枢機に応じたるもの多し。而して其の理想の崇高峻厳は、外務の当局者となるに至りて大いに顕はる。基く所の何くに在る乎は知るべからずといえども、其の言行に就きて之を察すれば、平生の講学に得たる所の儒教以上、別に天人の際にもっけい特悟するもの有りたるが如く、したがって国際公法に関する其の理解力実行力も亦自ずから非凡の点あり。岩倉公が大使となりて欧米に赴くに際し、特に伯を薦めて其の後任の外務卿たらしめたるもの、決して故なきにあらざるを見る。当時の庁堂の人物中において、外務卿としての適任者は、伯を除きて其の人なかりき。果たして条約改正の事業が先ず米国に一頓し、やがて欧州に再頓し、岩倉大使が大久保、木戸等と徒に列国政府を歴訪しつつあるに当たりて、伯は即ち何の憚る所もなく断々乎としてペリーの買奴船を横浜に押収釈放し、人道主義の光輝を公法上に?かし、更に日本政権の移動を承認せざる朝鮮政府を詰責し、猶進んで台湾生幕殺人事件に関して支那政府に問う所あり左?右提、消極的に国権の回復を謀るよりも、寧ろ積極的に国威の伸張を企てたり。而して自ら大使となりて北京に入り、徹頭徹尾清国皇帝と、相抗礼せざれば休まず。明治政府の外交は、伯を得るに至りて始めて其の体を成すの端緒を啓けり。後世の史家亦此の一段において伯の名を特記せざるを得ざるなり。征韓の儀破るるに及んで、伯は西郷等と?冠したるが、幾ばくならずして民選議院の建議突如として出ず。是れ伯の政治的行動の最後なり。亦振るえりというべし。其の詩に曰く『如今臣巳老。過去勢無回。堪向空山?。君王好在哉』後明治二十五年の松方内閣に一時内務大臣たりし事あれども、蓋し事の間違いなり。或いは侍講、或いは顧問の?職を以て、家屋清曇、詩を詠じて自ら遣る吐?人を驚かし、世の詩人皆脱若たり。伯に在りては眞に緒余に過ぎずといえども、其の詩巻は必ず長く天地の間に留まる。亦不朽の業たり。伯一たび逝きて世上永く伯の如き者なかる可し。」

『東京朝日新聞』(明治38年2月6日付け)