日本で初めて労働組合をつくった男

高野房太郎の「空白の時期」を埋める重要な新資料発掘!


高野房太郎、日本屈指の労働問題論者になるチャンス到来!


 コスモポリタンホテルで皿洗いを始めて五ヶ月が過ぎた明治二十二年三月、いくばくかの資金を蓄えた城常太郎は故国で朗報を待っている靴工仲間のためにも、一日も早く靴屋を開店しようと奔走した。常太郎は店舗捜しをするために、高木豊次郎に頼んで、英語の達者な伊勢出身の森六郎を紹介してもらった。

この、森六郎の存在で気になる点が一つあるので、ここで述べさせていただく。

 それは、森の故郷が伊勢であること。そして、高木豊次郎の友人であることから、おそらく、クリスチャンであったことが想像される。実はこの森と同じ伊勢出身で、後に家族ごとクリスチャンとなった伊藤為吉という男が、明治18年2月にサンフランシスコに到着している。
 当時この地には日本人が約100人ほどいたと記録されている。森は英語が達者であることから、すでに、そのころ、当地に住んでいたであろう。とすると同じ日本人で同じ伊勢出身で同じキリスト教に興味をもっていた二人が親しい関係になっていたであろうことは、集団をつくって行動する日本人独特の特性や、日本人がわずかに100人しかいなかったことからして、まず間違いないであろう。この伊藤為吉という男は実に社交的で、才能豊かで、建築家、発明家、理想主義的社会改良家という肩書を持ち、後に和製レオナルド・ダヴィンチと言われたほどの有為な人物であった。彼に遅れること約二年、明治19年12月19日、高野房太郎はサンフランシスコに入港した。高野は、当地ですぐに、伊藤が設立し、コスモポリタンホテルで旗揚げした「日本人実業界」に入会した。高野と伊藤が「日本人実業界」を通じて知り合いになったであろうことは容易に想像がつく。伊藤が帰国するため当地を去ったのは明治20年の3月である。つまり高野と伊藤は、わずかに、4か月間、同じサンフランシスコに共にいたことになる。ここで、もう一つ、高野と伊藤に関する興味深い事実が判明したので記しておく。その事実とは、後に高野は伊藤が経営していた勧工場「ミカドバザール」の社員となっていたのである。そのことを示す史料を発掘したので下に記しておく。

 



「◎米国日本品勸工場・・・・・米国カリフォルニア州には近頃日本品の勸工場二つあり。一は桑港にあり一はヲヲクランドにある由。右ヲヲクランドの勸工場即ちミカドバザアの社員高野房太郎氏は、この頃商品仕入れの為帰朝しクリストマス大祭に間に合せんが為め来る二十八日再び渡航する由。同氏が話によれば桑港近傍にて売りさばける雑貨は陶器、ハンケチ、竹細工等にて商売は内地においてなすより余程しやすしと。」

『読売新聞』(明治20年10月4日付け)

発掘日 2012年8月23日



 上記記事の内容から判断して、明治20年10月に一時帰国した高野房太郎が読売新聞本社を訪問し、高野の渡米の切っ掛けを作ってくれ、渡米前に師と仰いでいた高田早苗(読売新聞主筆)と再会した際の談話が新聞記事となったことは、まず間違いない。

 この記事により、高野の略歴に関する新事実が明らかとなった。さらには、 後に高野が多くの論稿を新聞、雑誌等に寄稿し、日本における労働問題論者の第一人者にまで昇りつめるきっかけを作った高田早苗との明治20年10月の再会が本当に事実であったことも確定した。
 さらに、さらに、『読売新聞』に「O・F・T生」の名前を使ってあまた寄稿した人物が高野本人であったことも、これまでのような「推測に基づく断定」ではなく完璧に確定した。

 わずかに10行にも満たない小さな記事ではあるものの、この記事の歴史的価値は高く、管理人としては、高野房太郎研究に多少なりとも貢献できたのではと、満ち足りた幸福感にひたっている。

 なお、上記記事を発掘したきっかけは、『博聞雑誌』(第一号 明治20年11月)に、まったく同じ記事が転載されていたのを見つけたことによる。


 上記記事には「二十八日再び渡航する」とあるが、当時の新聞を全て調べても、二十八日には横浜港からサンフランシスコ行きの船は一隻も出港していない。
当日、天候が悪かったのか、とにかく何らかの事情により出港予定が一日延びたのであろう。

「◎外船発着・・・・・米国郵船テエラン号は昨日午前九時、同ベルジック号は同日午前十時何れも生糸と雑貨を積み桑港へ向けて横浜を出帆せり。」

『読売新聞』(明治20年10月30日付け)

発掘日 2012年8月29日


明治20年10月29日、高野房太郎は商売で一旗上げようという大きな野望を胸に横浜港からサンフランシスコへ向けて再度旅立ったことになる。




  高野が最初に渡米した後、オオクランドにいたのは明治19年12月から翌20年6月までの六か月間である。一方、伊藤為吉は、いつのころからか、サンノゼ市に「ミカドバザール」という雑貨店を開設したが、その後、店はサンノゼ市からオオクランドに移転している。伊藤は、明治19年12月、クリスマスにより商品を売り尽して、仕入れのためサンフランシスコに赴いたが、その際、父からの至急帰国してくれ、との連絡があり、止む無く、翌20年3月に帰国した。高野は明治20年6月、オオクランドを去り、北方200キロの町、ポイントアリーナに移り住んでいる。その後、明治20年10月に帰国するまでの消息は不明であることから、この空白期間に「ミカドバザール」の社員になったのであろう。一方、常太郎は明治21年の秋に渡米したのであるが、森六郎か高野を通じて、この極めてユニークな生き方をし社会改良家・伊藤為吉なる人物を知っていたのかもしれない。というのは、後の明治25年、社会改良家から労働運動家へと変身した伊藤為吉と、すでに労働運動家として活躍していた城常太郎は、同じ東京で、同じ明治25年9月に、伊藤は「職工軍団」を、常太郎は「労働義友会・東京支部」を母体とした「日本靴工協会」を設立して、二人とも、華々しく近代日本労働運動の萌芽期をリードしたという事実があるからである。


伊藤為吉、「職工軍団」を明治25年9月結成の根拠資料は『近代日本総合年表』(第二版、岩波書店)



「伊藤為吉は、、、在米時代の知人を通じて帰国後ではあるが、その〔職工義勇会〕情報を入手していたかもしれない。、、、あるいは、「職工義勇会」と何らかの関係があるのかもしれない。」

『やわらかいものへの視点』(村松貞次郎・岩波書店)



 明治40年12月10日に伊藤為吉が社長となって発行した『職工新聞』には、たびたび、常太郎の育ての親・西村勝三の関連記事が写真入りで大きなスペースを割いて掲載されている。これらも、常太郎と伊藤のつながりの傍証となりうるのではなかろうか。






加州日本人靴工同盟会会員、伊勢の人・森六郎の送別会(サンフランシスコ・日米史料館所蔵)








高田早苗(高野房太郎の恩師・『読売新聞』主筆)

『扶桑新聞』(明治25年12月15日付け)