日本で初めて労働組合をつくった男





「在米愛国同盟会」「壮士」そして「労働運動」


 「愛国壮士」といわれた在米愛国同盟員の壮士たちの関心事は、大アジア主義、汎太平洋問題、移民問題、労働問題などで、それらの問題を真面目に論じていることから、国粋社会党的萌芽がみられる。一方、川崎三郎や大井憲太郎、大井のもとで政治運動をしていた新井章吾、それに粕谷義三(元在米愛国同盟員)等が明治24年7月に設立した「東邦協会」(『東邦協会報告』第三号「会員姓名」)の主義もまたアジア主義や国粋主義を基軸としたアジア太平洋地域研究団体であった。また、川崎は壮士の座右の書とも言い得る『新帝国策』を執筆し、壮士たちの士気をあおっている。その川崎も『経世新報』(川崎三郎主執)内でアジア主義や貿易策や殖民策や壮士の記事を多く取り上げ、一面の論壇では大井憲太郎の論文を大々的に連載している。『経世新報』内には、大井憲太郎の動向に関する記事が多発して記載されているし、壮士に関する記事もたくさん出てくる。また、一年後に大井憲太郎が自由党から独立して「東洋自由党」(労働者救済を教条に取り入れた党)を結成したのであるが、その機関紙『新東洋』内には、初版の第一号(明治25年10月3日付け)の中で、発刊を祝う祝辞として数名が執筆しているのであるが、中でも圧巻なのは、川崎三郎の祝辞である。『新東洋』の記者がわざわざ川崎にインタビューをしに面会してまで、その記事を掲載するという特別待遇で、大井と川崎の関係の深さが垣間見える。

「■祝辞◎『新東洋』に贈る・・・・・、、、柴山侠客 識」

『新東洋』(明治25年10月3日付け・第一号)

※注:川崎三郎はペンネームとして、しばしば、北村柴山の名を使っている。

 また、「大日本協会」(非雑居推進派の団体)の会員として、大井も川崎も内地雑居に対する反対論の演説会において、共に弁士として出演している。

「◎大日本協会政談大演説会・・・・・、、、弁士、大井憲太郎、川崎三郎、中村太八郎、、、。」

『読売新聞』(明治26年9月30日付け)

 実は、城常太郎が「労働義友会」を結成した直後に労働運動の「檄文」を日本に送った明治24年秋、その一年前のころから、日本には、教条に労働問題をも取り入れた団体が急増していた。
 それは、ほとんどが壮士団体であったが、まずは壮士団体以外の団体を先に列挙すると、

「◎労働義侠会」『日本』(明治23年12月7日付け)

「◎職業協会」『東京新報』(明治24年3月26日付け)

「◎平権倶楽部」『刀水新報』(明治24年3月10日付け)と『あづま新聞』(24年2月25日付け・24年3月6日付け)

「平権倶楽部」とは日本社会党の張本人と呼ばれた樽井藤吉や後に常太郎の同志となった和歌山県出身の小笠原誉至夫が設立した社会主義団体。

「◎活版職工同盟会(東京)」『東洋新報』(明治24年7月12日付け)

「◎労働自由党(群馬県)」『あづま新聞』(24年1月15日付け)

「◎東京職工共同商会・・・・・は府下諸職工者の信義共同から成立し勤勉貯蓄の美風を移すを以って目的とし・・・。」

『横浜毎日新聞』(明治23年6月11日付け)


「◎札幌通信ー職工同盟会ー・・・・・当札幌に職工同盟会なるもの現出せり。右は誠に結構なる事なれども他日同盟罷工などの恐れなきか戒めざるべからずと心配する人もありと。」

『国会』(明治二十四年三月三日付け)


「◎芝共働組・・・・・近来の不景気は労働社会に一勢力を作らしめんとする傾向あり。既に題号のごとき団体を見る。」

『日本』(明治二十四年三月二十七日付け)



 次に壮士団体の列挙であるが、それらの壮士の中に城常太郎とは知り合いであろうと思われるサンフランシスコ帰りの元「在米愛国同盟会」の会員も複数いたのである。
 当時の日本の新聞には、アメリカへ亡命した自由民権派の青年を「壮士」と位置づけている記事が多い。「在米愛国同盟会」のトップリーダーであった東京大学卒の菅原伝(後に政治家)ですら「◎壮士ハワイへ赴く」『都新聞』(明治26年3月7日付け)という見出しで彼の記事を載せているし、『当世名士縮尻り帳』(節穴窺之助)には「菅原と日向」という題で「かつて星亨の壮士として横行せるもの」と記されている。

また、こういう記事もある。


壮士の送別会・・・・・一昨二十四日午後六時より江東井生村楼において今回渡米する井上敬次郎、井上平三郎両氏のため送別の宴を開きたるが、当日来会者の重立ちたる者は大井憲太郎、新井章吾、富田精策、畑下熊野、遠藤秀景、荒川高俊、仁杉英、渡邊小太郎の諸氏を初め総て八十七名にして、多くは壮士の人々なるが、穏やかに宴会を終わり一同散会せしは十時頃なりしと。」

『時事新報』(明治22年5月26日付け)
 この記事から、アメリカへ亡命した民権派の壮士たちと、早くから労働運動に関心を示していた政治家、大井憲太郎や新井章吾が、すでに明治20年代の前半から親密な関係を保持していたことがわかる。 


「、、、大和正夫が一等で日本の壮士上がりらしかったが、撃剣の名人でね、、、」
『新世界』(明治42年7月15日付け)

大和正夫(在米愛国同盟会員、城常太郎の盟友)は、後に本帰国し「大日本靴工同盟会」の顧問を引き受けている。

「◎大日本労働者同盟会・・・・・同会は松本正潔、楠目東志馬、中島半三郎〔城常太郎の盟友〕、その他数氏の発起に係り、その主趣なりというを聞くに、我が国の労働者は下等社会にして殆んど奴隷に近き所業あれば、この社会の権義を明らかにし、これまでの弊習を矯正するにありという。労働問題ようやく我が国に起こらんとす。」

『大同新聞』(明治23年6月7日付け)

「◎労働者同盟会・・・・・先に記載せし松本正潔、中島半三郎諸氏の発起に係る同会は加盟申込続々ありて、其の数凡そ六七十名に達したる由なるが、来る廿日頃その発会式を挙行する予定なりと。」

『東京新報』(明治23年6月10日付け)

 「大日本労働者同盟会」の中島半三郎は「在米愛国同盟会」の元会員で、帰国後に上記労働者の団体を結成し、大井憲太郎らの「大同協和会」にも所属している。また、大井が社長を務めた『あづま新聞』、この新聞は、「労働社会の護り本尊として世に生まれ出でし」『あづま新聞』(明治23年12月18日付け)ものであるが、発刊の際には、「日本労働組」の三浦亀吉(大井憲太郎の元車夫であり車会党の創設者)と共に、中島半三郎が所属する「大日本労働者同盟会」からも祝辞が寄せられている。さらには、『日本の労働運動』(片山潜・西川光次郎)の中でも、片山潜は自由民権運動を労働運動の先駆と捉え、中島半三郎を冒頭部分で取り上げ「彼は労働狂客と自称し、知人よりは中半と呼ばれつつある人にして、今も尚健在し、労働運動に対する熱心は昔日に異ならずと聞く。」と掲載している。中島半三郎が自らを「労働狂客と自称していたことは、『新東洋』(第十四号・明治26年1月19日付け)内の、中島半三郎の論文「内地雑居と労働者」の執筆者名が「労働狂客」となっていることでも事実に違いない。
 時代を明治21年にまでさかのぼるが、サンフランシスコにいた中島半三郎は「在米愛国同盟会」の命で、母国の大同団結運動に同意賛成の意を表し、東京に開いた大同大会に委員として出席するよう任命されて帰国したのであるが、『東京朝日新聞』(明治21年4月12日付け)

帰国した明治21年当時、この中島も、日本の新聞では「壮士」と位置づけられている。

「◎壮士の墓参・・・・・、、、中島半三郎の諸氏ら有志の壮士数十名は上野公園山王台に集まり同志の先輩へ墓参の式を行ふ由。」

『東京朝日新聞』(明治21年5月18日付け)

そして、明治21年のころから、中島は日本において、すでに労働運動に関わっていくことになるのであった。

「◎横浜政談演説会・・・・・、、、「条約改正と労働者」弁士、中島半三郎、、、」

『東京朝日新聞』(明治21年11月1日付け)

 中島の思想形成に大きな影響を与えたのがヘンリー・ジョージの思想で、彼の本を日本語に翻訳し紹介したのが、城常太郎と先祖のルーツが同じである社会運動家・城泉太郎である。この城泉太郎と城常太郎は同時代の社会運動家であったため、よく間違えられて本に出てくる。城泉太郎は慶応大学出身のエリート社会問題研究家であり、城常太郎は卑しい生業として差別され続けた靴工出身の労働運動の実践家である。
 社会問題に興味を示していた他の壮士団体を挙げると「◎壮士の団体・・・・・大井憲太郎氏の一派に加担する労働組」『東京朝日新聞』(明治23年9月17日付け)を始め、「日本正義会」、「帝国協和会」、「青年自由党」などの壮士連があるが、それらの団体は一致協議の上近々一大運動をなそうと、その準備に奔走中だった。『時事新報』(明治24年3月17日付け)
 他にも「日本労働組」系の壮士団体で労働運動に協力的だった団体には、「大成会」「自由倶楽部」「巴倶楽部」「奥羽同志会」「独立倶楽部」などがある。これらの団体は総代46名を選出し、自由、改進両党へ書状を送り労働者の救済を訴えている。

『寸鉄』(明治24年12月6日・13日付け)

『自由』(明治24年4月20日付け)によると、明治24年4月26日に「同人社」主催の演説会が開かれ、福田友作(元在米愛国同盟会会員で城常太郎の盟友)と共に前述した城泉太郎が出席したことが記録されている。また、『読売新聞』(明治24年5月23日付け)の新聞広告欄には、「同人社」の演説会広告が掲載され、弁士として、福田友作、城泉太郎、石崎静の名前が掲載されている。
 そのことから、福田友作も前述した中島半三郎と同じく、ヘンリー・ジョージの影響を受け、ヘンリーの日本における紹介者である社会運動家・城泉太郎とかなり深い横のつながりがあることが推測できる。また、もう一人の弁士として、石崎静が載っているのが興味をそそる。
 明治二十二年十一月二日、サンフランシスコの「福音会」での天長節祝会で、天皇陛下を侮辱した演説をした石崎静に対して、傍聴者であった城常太郎が「怒り髪冠を指す」ほど激昂していたからである。この石崎という人物は、『横浜毎日新聞』に明治20年から明治23年頃まで「米国通信」なる寄稿文を数十回にわたって載せている。『横浜毎日新聞』(明治22年5月4日付け)によると、石崎静は「福音会」の脱走連が結成した「唯友会」の会員で、他に丹森太郎、浜崎梅二郎、山根義雄等が会員であった。その目的はキリスト教の真理を遂行し、他日、母国日本にまでその道を拡充することにあったという。
 城常太郎と福田友作を結び付けた人物は靴工・関根忠吉である。この関根という男は、とにかく行動範囲が広く、「在米愛国同盟会」の会員であった以外にも、「大日本人会」、「在サンフランシスコ報国義会」、「遠征社」、「海外実業会」など、いろいろな組織に所属し、在米同朋のために多岐にわたって世話をしている。「遠征社」の機関紙『遠征』内には、サンフランシスコの日本人十二傑の中の「義侠家」選びで、関根忠吉が四位になったことが掲載されている。事実、彼は日本にいる時も、お金に困って友人の家に行き、やっとのことで借りたのに、その帰り道で糊口に窮している顔見知りと会うと、今、借りた有り金を全てその男にさし上げてしまった、というエピソードもあるくらいの「義侠心の塊」の奇特な人物であった。

関根に関しては

「十九世紀社においても関根氏らの携え来たる処の石版を以て摺り出せることありし。」

『日米』(明治38年7月4日付け)

 という記事もあるし、在米日本人向けの薬局をアメリカに最初に開店した男として紹介されている記事もあり、シンガーミシンを日本に最初に持ち込んだ男でもあった。また、日本に本帰国後には沢田半之助らが設立した「米友協会」の会員にもなっている。さらに、下記の記事から政治運動にもかかわっていたことがわかる。
 
「同盟員の帰朝、三氏の書簡・・・・・菅原伝、井上忍及と関根忠吉の三氏は無事に到着、万事好都合の報あり。、、、ハワイの独立と否は太平洋上の大問題なり。本国人、参政権の獲得と否とは、我が国の面目と利益に多大の関係あり。この際、在米愛国同盟員、菅原傳、井上忍及と関根忠吉の三氏帰朝す。三氏の言動は必ず世人の注意を惹起こすべし。」

『桑港新報』(明治26年6月21日付け)