日本初の労働運動家



すぐれた労働宣伝家・城常太郎


城常太郎が東京砲兵工廠などの各工場に
『職工諸君に寄す』(小冊子)を配布して廻った日時は、
明治30年6月24日(日本初の労働問題演説会の前日)である。
一方、高野房太郎も同じ6月24日、人力車夫を雇って
一枚チラシを配布させている。

「この日、車夫を雇って演説会の公告を配る。」
『高野日記』(6月24日)


おそらく、城は『職工諸君に寄す』が印刷された明治30年4月以降、
東京砲兵工廠を中心として、東京、横浜などの各工場に
勢力的に同檄文を配布しながら
労働者をオルグし続けていたのであろう。

(城が『職工諸君に寄す』を各工場に配布していた記事あり。『評伝 城常太郎』に掲載)


その間、高野房太郎は、夜の巷を飲み歩いたり、柔術の稽古に通ったりと、
のんびりとした日々を送り、直接、工場に出向いて
労働者をオルグして廻った形跡はない。
高野が、悠長な日々に終りをつげ、勢力的に動き始めたのは、
城から運動の依頼を受けた6月10日の翌日からである。

「この日城君来る。明日出(横)浜のことを依頼さる。」
『高野日記』(6月10日)

「午前八時四十五分、城氏と共に出(横)浜す。」
『高野日記』(6月11日)

城が『職工諸君に寄す』を配布しながら労働者へ働きかけた結果、
東京砲兵工廠の職工や横浜の各工場の職工たちが
一斉に立ち上がり始めた形跡は以下の
新聞記事からも伺い知れる。



東京砲兵工廠においては、


同盟罷工(ストライキ)の基礎・・・・・某工廠の器械職工中重立ちたる七名の者
工業同盟会なるものを設立して府下各工場の職工にその加盟を勧誘し、、、」
『中外商業新報』(明治30年6月3日)


資本家と労働者・・・・・某工廠の職工発起して工業同盟会なる名の下に
ストライキの基礎を作らんとする企画あるが、、、」
『中外商業新報』(明治30年6月5日)


職工同盟・・・・・東京某工廠の器械職工中重立ちたる七名の者発起し工業同盟会なるものを設立し将来器械職工一同の福利安全を計るを趣旨とし目下各工場の職工その加盟を勧誘しつつある由なるが、その組織方法は加盟職工一人に付き毎月金一円づつを醵出してこれを積み立て金としてその金高相当の額に達すべき時を期してこれを資本金に供し一の製造所を設立して以て手を空くせる職工等に相当の仕事を与えんとするにありと。その将来同盟罷工の基礎を作らんとするものなるや否やは知らざれども、とにかくその趣旨を賛成して之に加わりしもの既に三百余名の多きに達しまさにその基礎成らんとすという。世の資本家たるものは注意しべき事なり。」
『日出新聞』(明治30年6月5日)

上記記事中の「一の製造所を設立して以て手を空くせる職工等に相当の仕事を与えんとする」
の内容から思い出されるのが明治19年に設立した「靴職工同盟会」の組合工場
「職工同盟造靴場」の存在である。
「工業同盟会」設立に、二人の靴職工、城常太郎と木下源蔵が
関わっていた可能性は無きにしも非ずである。




一方、横浜の各工場においては、


同盟罷工の流行・・・・・今や横浜の船渠会社もしくは
横須賀造船所等に同盟罷工起こり、、、」
『中外商業新報』(明治30年6月23日)


同盟罷工・・・・・同盟罷工の兆し、横浜其の他に顕る。
労働問題は、今や将に実際問題たらんとす。
社会問題の講究者よ、希ば労働問題の卵子をして、
腐融其弊に堪えざらしむる勿れ。」
『国民之友』(明治30年6月26日/第354号)



事実、城は、この時期、横浜の大小諸船会社の船大工のストライキを
指導して成功に導いている。
城が主導したストライキについて、『国民之友』は
次ぎのように報じている。

同盟罷工亦た起こる・・・・・合併大いに可なり。但し、工場大なるに至れば、
職工の待遇もそれだけ心を尽さざるべからず。
否らざれば、工場の支配人と職工の衝突は免がれざるなり。
本月中旬、横浜船渠会社大工の同盟罷工起こりたり。
警戒すべきなり。」
『国民之友』(明治30年6月26日/第354号)



片山潜は労働運動の夢を売り続けたトップセールスマン、
城常太郎を評して、次のように記している。

「、、、彼はすぐれた労働宣伝家で、、、」
『日本之労働運動』(片山潜)