日本で初めて労働組合をつくった男







歴史湮滅の嘆






歴史湮滅の嘆(三十一)

靴工同盟の由来 邦人職工同盟の始祖―尺魔

◎日本は下駄の文明国で、靴の文明は長く棄たれてあった。神武天皇御東征の図を見ると、天皇は下駄を履いていられない。靴を履いていられる。尤も其靴は今の女の靴に似ている優美なものである。

◎日本がイツ頃から靴を廃めて下駄を履くやうになったのか審かでない。日本が傳へた印度、支那の文明は下駄国でなかった朝鮮人も昔から靴を履いていた。然るに日本は悠長の国柄だけあって下駄の文明が成立したのであった。

◎日本は曾て代議政治の国であったが、奈良朝時代から藤原氏が政権を専にするやうになってから此政治も廃った。日本は袖なし股引の服装であったのが、之れも藤原時代から長袖のだらしない着物になった。然るに明治維新は王政復古のみでない。履物復古、着物復古が出来上った。

◎此履物復古の文明を代表したのが西村勝三翁である。(勝三は故宮中顧問官西村茂樹先生の実弟)西村翁は明治十年頃東京に製靴所を設け、沢山の徒弟を教育せられたが、此弟子の中から新潟県人城常太郎と云ふのが居た。

◎明治十九年『国民の友』誌上に米国人支那人靴工の有望なる報道が説いてあった。そこで日本靴工者は東京で集会を催した砌り米国靴工視察の議が持上り、西村翁の賛助を得て城常太郎が先発者に撰ばれ明治二十一年十月に渡米した。これが在米日本人靴工の元祖である。

◎此頃渡米するといふても五十円の渡航費は容易でない。城は約半年工賃を貯蓄して漸く旅費を調達し、当時帰国中の高木豊次郎(豊次郎は明治十五年の渡米にして其後長く玉場を経営してゐられた。城常太郎とは同郷の人である)と共に、渡米したのであった。

◎常太郎は素よりノーサーベーであった。靴工業は有望である事だけは確めたが、店を開く資金に窮した。止を得ず第五街のコスモポリタン・ホテルに掃除人として働いた。併し彼れは第一回の報告を西村翁に宛てて出した。此報告に基いて渡米したのが関根忠吉で、時に明治二十二年六月であった。

◎関根が渡米するや城は相共に開業することとなり、森六郎といふ人の通弁でミッション街に小店を借り茲に営業を開始した。之れが靴工営業の嚆矢である。

◎此最初に開店せる小店は家賃一ケ月八弗で両人は其裏の方にケチン、ベッドル-ムを布切れで仕切り寝食して居た。誠に見すぼらしい生活で今時の人の想像することの出来ない程小ギタナイものであった。

◎同年森六郎の紹介によって其頃桑港で製靴所を有つてゐたチースといふ人の製靴仕事をすることになった。これはスリーパを作る仕事である。此工賃一足につき金三十五仙であったと記憶する。

◎関根は製靴請負の吉報を携えて本国に到り桜組職工長伊藤金之助、相済社員、高梨幸助と共に技術卓逸の職工十五名を率ゐ二十三年十月に渡米した。相原錬之助其一人であった。(相原錬之助は現にカリフォルニヤ街に靴工場を有してゐる。)

◎チースから引受けた製靴仕事はエッカー街で工場を借りて始められた。處が白人靴工同盟は此事を嗅ぎつけ製靴業者連合してチースに抗議を申込んだ。此事件は紛擾に紛擾を重ねチースは一時市外に隠遁し、弁護士に其解決を依頼した程であったから工賃の支払を停止せられ職工一同飢渇の困難を感じた。

◎此迫害事件から日本人同業者は独立靴工の方針を取るべく覚悟を定め、桑港、王府に小工場を設け修繕を主として斯業の発達を計った。然るに白人靴工業は尚ほも念執く排斥の行動を續け日本人靴工に対し営業妨害を試みたること数度であった。

◎此営業妨害に対して靴工業者は能く隠忍し不屈不撓の精神を以て事業を継続した。それは日本人の伎倆が白人に勝れていたからで白人顧客は人目を忍んで日本人靴工に修繕を依頼した者が多かった。(此稿つづく)

 







歴史湮滅の嘆(三十二)

白人靴工の迫害 職工同盟の成立―尺魔

◎製靴請負の仕事は白人同盟の反抗のために失敗した。こうして我が国工業者は恨を呑んで、各独立すべく努力した。第一着手としてミッション街と第七街に第二、第十四街に、第三、アラメダ市バーグ街に、第四、桑港グローブ街に開業し、専ら技術の上に優勝を示さんと努力したのであった。

◎然るに白人同業者は一層迫害の毒矢を放った。或時は店頭に見張りを附けて顧客の入店を妨害したこともあったが、日本人靴工は水とパンとで生活を継けて能く平和的に戦ふた。

◎日本から靴工職工は毎船踵を接して渡米し明治二十五年には店舗の数二十に達し、職工数五六十名に上った。そこで同年十二月靴工同盟を組織して、白人同業者の迫害に当るべく協議が一決し、翌二十六年一月発会式を挙行した。当時其主意として発表されたものは、実に堂々たる名文である。左の如し。

「浦賀一声の汽笛、三千余年の迷夢を覚破してより、世界大勢の潮流は端なく東えいの国を率い、遂に優存劣滅の渦中に投ぜしむ。爰に於いてか気運一転亦昔日の退守に甘んずるあたわず、興論滔然商工の興起を唱え、移住殖民の急務を道う、洵に故あるなり。吾人不肖、固より敢えて国民の率先たるに当たらず、ただその業務の促すところ、遠く故山を辞して、万里異城に航するにいたれり。然れども吾人の職業はすでにすでに白人の久しく執れる処、需給また久しく平均したろ所なり。吾人今この間に起きて亦これを営まんとす、勢い必ず両者の競争を避くべからず。吾人は幸いに大和民族の特質を享け、製靴の技術において敢えて対手に譲る所なしと雖も、黄白人種を異にし、東西言文を同うせず、四辺の事物吾人に不利なるもの挙げて謂うべからず。吾人はこれらの障碍に克って、而して自己の発達を計らんとす。あに容易のことならんや。説聞くならく、毛髪の弱き之を束条すれば以って千均をもたぐべしと。吾人また応救し、ますます団結の鞏固を致し、聚力を利用せざるべからず。合資の力をもって大資本に当たり、又時に此の抑圧に反抗するの覚悟なかるべからず。吾人は更に同業者をして各その身を修め、家をととのえ、居住の地番を固めしめざるべからず。蓋し、大勢に順行して、優存の地に立たんと欲する者の必ず取るべき道なりとす。而して吾人はこれを実行するの機関を要するは素より言を俟たざるなり。これ今回靴工同盟会を組織したる所以なり。」

一千八百九十三年一月創立
(エー・ビー・シー順)
渡辺伊喜松 相原錬之助 明石精一郎 福島安兵衛 花井直次郎 平野永太郎 岩佐喜三郎 今村積五郎 城常太郎 城辰造 片岡富造 清田元三郎 岡本貞助 関根忠吉 鈴木謹十郎 鳥山徳造 友枝英三郎 依田六造 谷田部孝造 山本富造
◎右の趣意書は愛国同盟員亘篤治先生の起草で菅原伝、大和正夫等の訂正を経たものであった。
◎白人同業者は長き間迫害を続けたが日本人はこれに屈する模様もなく追々と業務が隆盛に赴くので嫉妬に堪へず最後の手段として皮革商コールマン・サーズ会社に向って日本人に皮革の取引を拒絶せんことを申込んだ。處がコールマン・サーズ会社は此申込を以て人道に反する者として拒絶した。

◎コールマン会社の態度は日本人同業者に勇気を與へ同盟員は緩急相救ふて商業道徳を守り一方顧客に対して誠実を尽したのでサスガ執念き白人同業者も我を折るに至りこれより日本人の靴工業者は桑港、王府等に大発展をなし一時会員三百名に上ったことがあった。

◎以上列記した同盟創立当時の人で現在桑港にある者は相原錬之助と矢田部孝造の二人だけである。

◎近々欧米視察のために見えらるる星野行則は明治三十一二年頃ラーキン街に店を有っていた上原徳三郎の徒弟であった。星野は現在大阪鹿島銀行の専務取締で東京の三井銀行取締梅山米吉と相対して桑港出身の成功者である。














歴史湮滅の嘆(三十三)

靴工の迫害十数年間同胞の結束と相互扶助―尺魔

◎日本人靴工は最も早く其迫害を蒙ったのであった。併し彼等は同胞扶助の決心を堅くして能く忍んだ。彼等が開業の第一声揚げてより約十五年間其迫害は継いたのであった。明治三十五年発行の雑誌「新国民」の記事はよく其消息を伝へている。曰く。

◎『日本人靴工に対する白人の迫害運動は正しく人種的迫害なり。其因て起る所以の動機は、正しく経済上に於ける利害の衝突にあるや云ふ迄もなし。試に白人靴工同盟が配布せる印刷物を見るべし。今その要項を挙げんに左の如し。

一、日本人は支那人と同じく衛生に注意せず、不潔極りなきこと(誇張)

二、廉価にて働く結果として白人の営業を奪ひ、妻子を有する白人の靴工者は死地に陥し入ること(嫉妬)

三、日本人靴工は本国にあるトラストの支配に属し、西村なるものこの支配人として当地日本人靴工に原料を供給すること(虚構)

四、以上の理由により苟も白人に属するものは宜しく白人の顧客たらん事を希望すること』

◎以上はこの大略なり。彼等は一方に於て此のサーキュラーを配布すると同時に、他方に於て陰険なる手段を用ひて屋主に迫まり日本人を追立てんとの策を廻らしたり。是れ日本人靴工同盟の基礎以外に堅く、到底尋常手段を以て志を達する能はざるを見たればなり。果然日本人靴工同盟の一人たる宮之内峰吉なるものフォルソム街四〇六番、ヘンリー・コーンなる酒場の隣りにて表通りの一ルームを八弗にて借り受け、靴修復の営業をなしたるに忽ちにして追立てられたり。其他家賃を値上げせられ若しくは悪童の爲めに石を投げられたる靴工二三に止らず是れ豈利害の衝突より起れる人種的迫害にあらずとせんや。

◎『日本人靴工同盟の態度―然れども右に記するが如き陰険手段に載せられて犠牲となりたるものは、意外に少数にして靴工同盟の本陣は整々堂々たり。今日に於ては未だ格別の打撃を蒙らざるに似たり。されど天の未だ陰雨せざるに当って牖戸を稠繆す誰か之れを侮るものぞ・・・・・』日本人靴工同盟は白人靴工同盟に左の書を與へたり。

◎『日本人靴工同盟頭取某頓首再拝して書を貴組合に呈し余が代表する組合に対し貴組合が世に分布したる廻章の誤謬を正し併せて双方の間に便益となる可き事項の一二を挙げ以て貴組合の参考に供せんと欲す。第一貴組合に於ては我が組合がトラスト或は或る人物に因て引率せらるるとなすと雖そは事実を誤りたる者なり。吾人の靴工をなすや個人的たり。未だ嘗て本国又は其他に於ける所謂引率者なる者に向って報告をなし若くは醵金して我が靴工職業上の監督をなさしむるが如きことは之れあらざるなり。吾等は我が労力に因って自から衣食を儲くる者是れ人間社会の運命にあらずや。誰れが此世界に於て此運命を脱する者ぞ。次ぎに貴組合の注意乞はざる可からざるは吾等が貴組合に対して驚嘆の情を禁ずる能はざる也。出来得可くんば手を携へて事を共にし営業価格の如きも双方協議の上之を均一にし其仕事の品質の如きも相対照商量して大ひに改善する所あらんこと吾人の切望して措かざる所なり。日本人は労働の神聖にして尊む可きを知る故に営業者の地位を高め之をして名誉ある者たらしむるの希望に至っては敢て諸君の背後に落ちざるを信ずる者也。故に生活の情態をして卑下せしめつつありとの非難に至っては吾等の忍んで黙過する能はざる所とす。若し諸君が所謂公衆に訴ふて廻章にして果して価格を均一にするの主意に出でしめば吾等は思ふ。諸君の主意を達するは容易の業のみと。然れども若し諸君にして徒らに人種的偏見に駆られてかかる行動に出でたりとせば請ふ遠慮なく之を明言せよ。吾等之に対して採るべき道なしとせざればなり。謹んで貴下等が與ふる回答の晩からざらんことを希ひ大敬意を表して此書を呈すること然り。』

月 日 日本人靴工同盟頭取某拝

『日米』新聞1922年4月より連載「歴史湮滅の嘆」の一部(第31、32、33回)

 











「◎本社々員・・・・・石久保儀三郎 西島勇 高島多米治 山田亮 関根忠吉 林保一郎 渡辺歓次郎 竹川藤太郎 松田宗太郎。」

『遠征』(第一号 桑港実業社発行 明治二十四年七月四日)

 

 

「◎在米日本人事情・・・・・、、、海外実業会々員にして尤も実業に熱心なる関根忠吉氏は去月〔六月〕二十三日着桑ゲーリック号にて靴職工若干名を率ひて到着、、、。」

『遠征』(第一号 桑港実業社発行 明治二十四年七月四日)

 

 

「◎田舎行の流行・・・・・年年歳歳変わりない夏景色。田舎の野辺を見渡せば百果今を盛りと成熟して戸々繁忙の最中、助手あれかしと望み居る折柄、儲金主義、観察主義、保養主義等の名を以て之に赴くの日本人連続たりとは之れ例年のことながら、今年は殊に一層の多きを加ゆるに至りしこそ喜ぶべき現象とも云ふもの。其真に実業の目的なく只一時流行の熱に浮かれて面白半分に出掛たる野次馬は労れんのみ。請ふ見よ。他日帰桑して旧職に復するの時衣を求め靴を買い差引果して幾何の余裕ぞや。只其烈日に晒らされて黒く染め上げし顔色の紀念を存するのみ。斯く云ふ記者亦経験あり。」

『遠征』(第四号 桑港実業社発行 明治二十四年八月十五日)

 

 

「◎在桑港二十傑・・・・・、、、■義侠家・・・、、、関根忠吉(七票)〔第四位〕。」

『遠征』(第三十一号 桑港実業社発行 明治二十六年八月)

 

 

「◎森六郎、長谷川原司の両氏大挙して鍋倉直氏を攻む・・・・・関根氏に右翼たる桑港新聞之が左翼たる益し其の交戦の趣意たるや初の金剛艦の碇泊せるに当り関根氏等其の食料の賄ひ方を請負たりしに突然他人に横奪さるるに至りしは全く鍋倉氏の綢繆策に出づるものありとの嫌疑に起因し来る。」

『遠征』(第三十二号 桑港実業社発行 明治二十六年十二月十五日)

 

「◎同舟会、桑港新聞社、工業会、靴工同盟、愛国同盟有志の代表者、遠征社に会同して基督教青年会?罪の件を議し世に之を六聯合会と云ふ。」

『遠征』(第三十二号 桑港実業社発行 明治二十六年十二月十五日)

 

 

「◎靴工の元祖 城常太郎

熊本県人城常太郎は母国同業者の声援により明治二十一年十一月(一八八八)渡米し、コスモポリタンホテルに皿洗として働き翌二十二年六月関根忠吉の渡米するや共同し靴直しを開業した。場所は桑港ミッション街と第七街の角であった。これが日本人靴工業の始まりである。

◎同盟の始まり 靴工同盟

靴工同盟は職業同盟としての始祖で頗る意義のあるものである。日本人靴工が明治二十二年桑港に開業するや非情の勢で其数が増加した。城常太郎、関根忠吉がミッション街に靴直しを始めてから僅々三年間に、桑港に同業者店舗の数二十職工六十名に上った。そこで白人同業者は迫害を始めた。日本人同業者は明治二十五年十二月同盟結果の議を決し、翌二十六年一月に発会式を挙げた。これが日本人営業同盟の始まりである。靴工同盟は日本に於ても職業同盟の元祖である。明治十九年、桜組の職工、工賃値上げのためストライキを行った(恐らく日本人がストライキをなせる始めであらう)翌明治二十年一月、靴職工等東京呉服町柳屋に於て懇談会を開く、集まる者百余名、席上靴工同盟を決議した。此職業同盟の事情は今日八かましく騒いでいる労働同盟の始祖をなしているものである。本稿で述べると長くなるから別の機会に詳説することにする。」

『在米日本人史観』(鷲津尺魔 羅府新報社発行 一九三〇年四月刊)