日本で初めて労働組合をつくった男



高野房太郎は、「城常太郎に先越され」の事実をポロっと漏らしていた!



「◎労働運動最始の着手 高野房太郎・・・・・、、、此の二三年来(注1)学士論客の間に労働問題の声喧しきと共に、労働者自身も自己の地位を認識し大に斯の問題に身を入るるに至りたるは、良とに喜ぶべきにあらずや。既に労働問題解釈の期に入れり。吾人同志が二三年前以来叫びたる(注2)労働組合は組織せられたり。」

『天地人』(第十九号 明治32年7月2日発行 【宗教雑誌】)

発掘日 2012年5月23日



高野房太郎が上記論稿を書いたのは、おそらく、明治32年5月頃、よって、「二三年前以来」とは、
明治29年4月~5月頃からであろう。

 筆者は『日本で初めて労働組合をつくった男』内で、城常太郎が「職工義友会」を再建した時期は、
明治29年4月~5月頃と記している。上記論稿内吾人同志が二三年前以来叫びたる労働組合は組織せられたり。」とぴったり符合していることがおわかりいただけたと思う。





(注1)「此の二三年来」とは明治29年から30年のこと。



(注2)吾人同志が二三年前(明治29年から30年)以来叫びたる労働組合は組織せられたり。

高野房太郎の一次史料を調査してみるとわかるが、彼は明治29年、
労働運動の実践活動に一切関わっていない。
一方、城常太郎は明治29年、階級闘争の戦線に立って、労働運動に明け暮れていた。
以上から、「二三年前(明治29年から30年)以来叫びたる」とは、明治29年は城常太郎のことを指し、明治30年は城常太郎と高野房太郎のことを指していることになる。




★日本の労働運動は、明治29年に城常太郎が誰よりも先に労働運動の叫びを発したことに始まる。




 「この1年は、日本の労働運動史上、もっとも注目すべき時期でした。労働問題に関する世論に大きな変化が見られたのも、この1年のことです。また、労働者階級の福祉についてこれほど論じられた年はかつてありません。このように注目すべき世論の前進があったのは、一方では労働需要の著しい増加があり、他方ではストライキが繰り返し起きたからです。」

『ゴンパーズ宛て高野房太郎書簡』(明治29年12月11日)





「労働組合期成会、、、八月の一日を期して第一回の月次会を開き、そして組織を固めて幹事五人、常置委員十人をおき、その五人の幹事の中には片山潜、沢田半之助、高野房太郎が顔をならべている。そして五人の幹事互選の結果、高野が幹事長に就任し、運動委員八名、演説会委員十名、図書委員五名をおいた。、、、しかし最初から同志として先頭を切り演説会には再度とも開会の辞を述べている城常太郎の名が、こうしていざ組織ができ上る段になると、
どこにも見えないのは一見不思議、、、」

『社会思潮』(第六号「伝記小説片山潜/第六回」木村毅)






管理人は、城常太郎が明治29年にすでに労働運動に着手していたことを
うかがわせる当時の新聞記事を数点見つけたので、
その抜粋を以下に記しておく。



★その1

「今や、我が国の職工同盟の兆しようやく現る。
彼ら同盟者は多く、範を米国の労働社会に取るが如し。」

『都新聞』(明治29年12月12日付け)。



※上記記事の「彼ら同盟者」とは、城常太郎、木下源蔵、沢田半之助を指していることは明らかだ。










★その2

「◎職工同盟・・・・・靴職工の同盟まさに起らんとす。、、、ゆえに先年、靴工協会を組織せし当時の二の舞をなさず、、、、、」

『都新聞』(明治29年12月13日付け)


※上記中に「先年、靴工協会を組織せし」とあるが、その中心人物が城常太郎だったことは、
既に史実として受け入れられている。

城は明治25年の春に一時帰国して、同年、銀座三丁目十九番地に「職工義友会」とその長子「日本靴工協会」を設立していたのである。そうした経緯を考えあわせると、
4年後の明治29年の春にふたたび帰国した城が、
同年、自宅である麹町区内幸町一丁目一番地において
「職工義友会」を再建し、「先年、靴工協会を組織せし当時の二の舞」を繰り返さないよう
上記の運動に着手したことは間違いないだろう。









★その3


「戦後の経済市場は資金供給の方法変化せし結果とて事業の勃興となり或は物価の騰貴となるが故に各国とも同盟罷工は多く戦後に起るものなりと聞きしが、
果せる哉昨冬以来東京に桜組の同盟罷工、、、、、」

『東京日日新聞』(明治30年5月16日付け)


※「昨冬以来」とは、立冬に当たる明治29年11月7日以降のこと。

※桜組とは城常太郎が以前勤めていた製靴工場である。

その桜組で明治29年11月から12月にかけてストライキが実施されていたのだ。
明治29年12月14日、城は桜組関係者らに「畳んでしまえ!」と袋叩きにあい、
重傷を負っていることから、このストライキの仕掛人は
城と断定して間違いないだろう。










ー私見ー

城常太郎は、高野房太郎の労働運動家としての資質を見抜いて、
その能力を開花させてほしい、と熱い期待を寄せていたと思う。
それゆえ、実践経験のなかった高野に、何としても、
労働運動の現場でさまざまな実体験を
積み重ねてもらいたい、と切に
願っていたと思う。

明治30年6月、城は横浜船大工のストライキを指導しているが、
その際、自ら高野の家に出向いて、現場の闘争に参加するよう
依頼している事実がある。

おそらく、明治29年の11月から12月にかけて起こった
桜組靴工場のストライキの際も、
城は世話上手な沢田半之助を使者に立てて
横浜の高野のもとに遣わし、
「職工義友会」に復帰し現場の活動に参加するよう
強く要請したものと思われる。





沢田半之助が「コーディネーター」(世話役、仲介役)としての能力をフルに発揮し、
「高野説得」を成功に結びつけたからこそ、

城常太郎と高野房太郎いう実践派と理論派の両雄の「揃い踏み」が実現し、
片山潜が言うように
「日本の労働運動は、君〔沢田〕があったから、交際の方面に発展することができた」のである。







「義友会は適当なる運動員を得るの必要を感ぜしを以て、元と桑港において義友会の一人たりし人にして、当時横浜において洋字新聞(アドバアタイザア)の記者たりし高野房太郎氏に嘱目し、沢田半之助氏を使はして、高野氏を説かしめしに、高野氏は甘諾職を捨てて東京に出で来りぬ。」

『日本の労働運動』(片山潜)




「◎職工義友会・・・・・、、、城、沢田がこの組織を復活し、高野に参加を求めて、
日本最初の労働組合結成を呼びかける檄文(げきぶん)「職工諸君に寄す」
を作成、各工場の労働者に配布した。」

執筆者:松尾 洋(初期労働運動史研究の最高権威者の一人)

Yahoo!百科事典日本大百科全書』(小学館)より