日本で初めて労働組合をつくった男



高野房太郎の「労働運動家」デビュー日はいつ?

高野房太郎が実際に労働現場に出向いて労働者と共に
労働運動の実践活動に着手しはじめたのは、
城常太郎に「横浜船大工組合」の指導を依頼された翌日、
即ち、明治30年6月11日を以て始めとする。
それまでは、彼の日記を見る限り、友人らと夜の巷を飲み歩いたり、
上野公園に散歩に行ったり、柔術の練習に励んだりと、
およそ労働運動家らしからぬ、のんびりした
日々を過ごしていた。



「6月10日・・・・・この日、城君来る。明日、出(横)浜のことを依頼さる。」

『高野房太郎日記』(法政大学大原社会問題研究所所蔵)





ちなみに、高野房太郎が労働運動家として世に出ることを決意した日にちは、
城常太郎の使者となった沢田半之助が横浜の高野の家に説得に出向いて、
上京を促し「職工義友会」に参加するよう依頼した日、
即ち、明治29年11月11日である。





 一カ月前(沢田が横浜の高野の家に説得に出向いた十一月十一日。筆者注)に私はこの決意を固めたのですが、事情があってその時は申し上げるのをためらったのでした。しかし日がたつにつれて、絶好の機会が近づいており、ただ何もせずに、この好機を逃してしまうのは愚の骨頂であることがはっきりしてきました。もはや躊躇している余裕はないので、一週間前(十二月四日・筆者注)にディリー・アドバタイザーを辞め、友人の一人(靴造りを職業にしています)と相談するために上京しました。

『高野房太郎よりゴンパース宛て書簡』(明治二十九年十二月十一日付け)



 高野房太郎は明治29年12月11日にゴンパースに宛てて上記書簡を書いたのだが、「一か月前に私は決意を固めた」と記していることから、高野が労働運動家になることを決意した日にちは、沢田半之助が横浜の高野の家に説得に出向いた11月11日ということになる。