勝海舟




明治のころ、本気でこの国を「働く者の楽園」に変えようとした靴職人がいた!

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勝海舟






















勝伯爵老夫人
『太陽』(15号 明治30年7月20日)



















勝海舟老伯及び老夫人
『太陽』(15号 明治30年1月5日)

































































◎勝伯薨す・・・・・去る十九日午後五時頃、常の如く入浴したる後突然急激なる脳溢血を発し忽ち人事不省となりたる勝伯はついに一昨二十一日午後五時七十七歳を一期として道山に帰れり。先生は当代の偉人、徳川幕府が政権を朝廷に奉還したるの際、故西郷南洲翁と敵味方に立ち分かれながら其の志を同じくして其の業を成せしは皆天下公衆の知悉する所又呶々を要せず今や天下の士人唯富貴功名に狂奔し道義節操地を掃うの時に際し、二十余年来氷川?畔の浄室に独り孤清を守りてき然魯霊光を以って仰がれたりしに、俄然白雲に乗じ去る嗚呼悲しいかな。
▲先生の嗣子・・・・・先生生前の志望により予て噂ありし如く慶喜公の第十子忠太郎君事徳川厚男を迎ふることとなり即ち畏き辺りの御裁可を得たり。厚氏は明治二十一年生まれにして即ち本年十二歳なりと。
▲先生の葬儀・・・・・明後二十五日午前九時赤坂氷川町四番地の自邸出棺仏式を以って荏原郡馬込村字千束に埋葬のはず。是は同所に先生の別荘あり縁故深き地なるを以って新に墓地を茲にさだめたるなりとぞ。その儀式は先生平生の遺言により総て質素を旨とし生花造花放鳥等の寄贈を謝絶するは勿論新聞紙への広告等も一切なさず、又会葬者の弁当及び車夫等への弁当料をも一切廃して其の費用を赤坂区内の貧民救助の一端となし其の手続きを赤坂区役所に一任したり。」

『東京朝日新聞』(明治32年1月23日付け)























































































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