中江兆民




明治のころ、本気でこの国を「働く者の楽園」に変えようとした靴職人がいた!

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中江兆民
























病中の中江兆民居士

『東京朝日新聞』(明治34年12月15日付け)






















◎死後の兆民居士・・・・・故中江兆民翁の遺骸は遺言により一昨日午後大学病院において解剖を行いたり。立会人として現場に列したるは親戚に淺川医学博士及び葛岡、友人に小島龍太郎、門下生に初見八郎、幸徳伝次郎、原田十衛の三氏にして解剖の場所は第一医院病理学研究室たり。午後二時遺体を解剖台に安置し先ず主治医岡田医学博士は参観の医学生に対し翁は諸君の知らるる如く篤学の人にして遺体も其の遺言により茲に学理研究の材料として解剖に附せられたり。諸君幸に敬意を表せよと述べ続いて治療中の顛末を叙し余が診断の当否は請う。之を解剖の結果に徴せよと述べ了るや山際医学博士は一揖して直ちに刀を執り先ず下顎より腹部まで一刀の下に切開し次いで肋骨の中部幅四寸ばかりを縦に切り去りて先ず右肺を抉出し仔細に之を検案し一々説明して筆記せしめて差左肺に及びそれより更に咽喉を開き舌根より咽喉の機関全部を抉出しして患部即ち癌腫の在る所を検案説明したり。最初岡田博士の診断によれば喉頭癌との事なりしも解剖の結果によれば全く食道癌にして喉頭は食道の癌のため圧迫せられて呼吸を防ぐるに至りしものなり。岡田博士は深くこの結果に得る処ありしを喜びその患部は之を博士の教室に備え永く講義の材料に供し又この病理等について他日博士自ら筆を執りてその意見を世に公にするはずなり。又同博士は翁の親戚なる淺川医学博士に乞い翁の脳髄を抉出して広く世人の参考に供せん事を求めたるに、淺川博士も異議なく諾したれば更に頭蓋骨を切解して脳を出し仔細に検案したるに重量四百十五匁にしてその大きさ亦尋常人に比してやや大きく脳回転数繊維も亦頗る多きを認めたり。而して翁の脳髄は之を模型に取り博物館その他に分配して広く斯学界の参考に供するはずなり。想うに翁亦地下に瞑す可きか。」
『東京朝日新聞』(明治34年12月17日付け)
























「◎兆民居士告別式・・・・・」

『東京朝日新聞』(明治34年12月18日付け)






















「◎中江兆民之碑・・・・・隈板両伯其の他の発起にて去る四日本所亀井戸天神社内に建碑式を挙行せり。自然石の碑石、見るから稜々として故人の神采を髣髴たらしむ。」

『万朝報』(明治41年4月6日付け)

















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